デテイケ
自分を特定出来るような情報は伏せる。Sさんへの取材条件はそれだった。
さらに万全を期すため、この話の内容にはいくつかフェイクも含まれている。
ただ、「本筋」に当たる部分に関しては全てありのままを記述させて頂いた。
その点を念頭に入れた上で、ご覧いただきたい。
「わりぃな妙な条件付けて。俺も、まあ、色々あるからよぉ」
そう言って呵々と笑うSさんは、平たく言えばカタギではない。
北は北海道、南は沖縄まで。全国各地、津々浦々を気の向くままに歩き回り、「仕事」を行う。
連続空き巣窃盗犯。それがSさんの生業「だった」。
「職業聞かれた時は自営業、って答えてたな。間違っちゃいねぇだろ?」
もちろん、これはあくまで過去の話だ。
紆余曲折の末に結局お縄頂戴となったSさんは、「お勤め」を終えてからは真っ当に働き始めた…らしい。
「金は盗んだがタタキやコロシはやんなかったお陰か、まぁなんとかジジィになる前にゃシャバに戻ってこれた訳よ。」
Sさんの過去の仕事に纏わるエピソードは、一個人としてはどれも興味深いものであったが、今回の目的とは外れるため割愛させていただく。
放っておけば日が暮れるまで、いや日が暮れてもなお語り続けそうなSさんに、おずおずと本題を切り出す。
その瞬間、陽気によく笑い、よく食べるSさんの表情に、初めて影が差したのが印象的だった。
「おう、分かってる、忘れてねえって。『人形』の話だろ?」
今から話すから、これだけ飲ませてくれや。
そう言って、Sさんは目の前のグラスを一気に飲み干した。
暑い夏の日、だったと言う。
その日、Sさんはあるアパートに向かっていた。もちろん、「仕事」のためである。
目的地は築ン十年になろうというオンボロ。
その一室…おそらく、成人男性の一人暮らし部屋…が、ターゲットだった。
「そんなボロ屋を狙う空き巣が居るかって?いやいや、そこが逆に狙い目なんだよ。セキュリティが甘ぇからな。俺ぁ別に一攫千金とかにゃ興味ねえんだ。狙うのはいつだって現ナマよ。諭吉の5,6枚だって時給換算すりゃあ中々のモンだろ?」
質より量、というのがSさんのビジネススタイルだったようだ。
ともかく、Sさんは苦もなくアパートの裏手に忍び込むと、排水溝の配管や室外機やらを使ってするすると二階へと登る。
標的部屋のベランダに到着すると、下調べ(法に触れるためか、流石に詳細を教えてはくれなかった)の際に既に鍵を開いておいた窓に手を掛けた。
一番最初に違和感を覚えたのは、その窓を開けた瞬間だったと言う。
「ふわーってな、部屋ん中から涼しい風が吹いてきたんだよ。まあ、そこまでなら時々ある話だし、不思議でも無ぇが」
当時の酷暑はそれはそれは酷いもので、例えば留守中もクーラーを掛けっぱなしにしておく家もあった程だ。
高い家賃を払っているとも思えないこの場所でやるにはいささか豪勢ではあるが、単純にクーラーの消し忘れという線もままある。
「それよりもやべぇ、と思ったのは、中にまだ誰か居るのかも知れねえ…って事だな。不在は一応、確認済みだったけどよ」
こんな仕事だ、慎重に慎重を重ねるに越したことは無い。
窓の向こうから、ゆっくりと室内を観察し始めたSさんは…綺麗な銀の巻き髪をした影を見つけ、思わず身を固くした。
……………銀髪? 巻き髪?
人がするにしてはあまりにも珍妙なその出で立ちを訝しんだSさんは、改めて室内を確認した後。鼻で笑った。
「なんのこたねぇ、ただ人形が置いてあっただけだ」
置いてあった、というよりは、飾られていた、というべきか。
粗末なベッドの脇に置かれた椅子の上に、それはちょこん、と鎮座ましましていた。
豊かな銀髪を湛えた、少女の人形。
大昔、少女漫画原作のアニメとかで見かけたような、お嬢様めいた優雅なドレスを身に纏ったその姿は……
ぞっとするほどに、美しかったと言う。
(さてはここの兄ちゃん、人形オタクって奴か? いい趣味してんなぁ。しかしよく出来てるぜこりゃ)
邪魔者の不在を確認し平然と部屋へと侵入したSさんは、興味本位でしげしげと人形を眺める。
わずかに俯いた人形、ほのかに微笑んでいるようにも見えるその顔の造形の精巧さと言ったらどうだ。
それにこのきめ細やかな肌。
手の指がガタガタしてる(注:おそらく球体関節の事か)のがやや気にはなるが、相当高価な代物に見えた。
そんな高そうな人形なら、それを盗んでいこうとは思わなかったんですか?
ふと浮かんだ純粋な疑問を口にした所、Sさんはニヤリと笑った。
「まぁ持ってく所に持ってったらそりゃあいいカネにゃあなるだろうがな、兄さん、そりゃ軽率ってもんだぜ。例えばよ、そんな類の代物は「仕事場」のあっちゃこっちゃに転がってんだよ。高級時計とかな。けどそいつぁダメだ。家主の「思い入れ」が強すぎる。」
思い入れ?
「おう。例えばよ、大事なもんはカネで買えねぇ、みてえなのに近ぇかな。そんなシロモノが無くなったら、家主は血相変えて取り戻そうとするだろ。そりゃよくねぇよ。そっからアシが付いちまう」
だから俺はいっつも現ナマを狙ってんのよ。
はした金の現ナマを目の色変えて取り戻そうとする奴ぁそうそういねぇ。
「まあ持ってくにゃあいくらなんでも嵩張る大きさだったし、そもそも人形売り捌くルートなんか知らねえし、それに」
あの時あの人形に指一本でも触れてたら、俺は多分ここでこうできてねぇと思うんだよ。
空になったグラスを手に持ったまま、Sさんは無表情でそう言った。
人形を観察していたのは、おそらく10秒かそこら程度。
すぐに仕事モードに頭を切り替えたSさんは、物色を開始した。
こうして思い返してみると、その部屋は本当に物が無い部屋だったという。
「ミニマリスト、ってんだったか?当時流行ってたんだよそういうのが。もしかしたら、ただあの人形買うのに全額叩いちまっただけかもしれねぇけど」
だが、どんな生活をしてようと現金だけは絶対に必要になる。
獲物は間違いなくどこかにあるはずだ。
とりあえず手近な引き出しの収納を漁っては見たが、めぼしいものは見つからない。
じゃあ次はあっちの箪笥にでも、と振り返ったその瞬間。
人形と目が合った。
「っと、お」
ビクリと体を震わせながら、思わず小さく声が出てしまった。
即座に、相手がただの人形である事を思い出して苦笑する。
なんだ、人形と目が合ったぐらいでビビるたぁ俺もヤキが回ったか。やれやれ。
あれ。
でもこいつ、さっきは下向いてなかったか。
もう一度、人形を見た。人形は真正面を向いている。
その顔に浮かぶのは先程見たときと寸分と違わない、能面のような無表情だ。
当たり前だ。人形の表情が変わってたまるか。何いってんだ俺ぁ。
じわじわと染み込んでくるような恐怖心を頭を降って振り払い、後ろを向く。
人形の視線から避けるようにして壁際へ進むと、即座に箪笥を開いて中を探った。
おかしい。なんでまだ見られてる感じがするんだ。
次から次へと汗が吹き出る。冷や汗だ。
この部屋は寒すぎる。なんなんだよ畜生。
必死になって箪笥の中身をひっくり返す。放り投げる。引き出しごと、引っ剥がす。
もはや、感じるのは「視線」どころではない。
それはもう、あからさまな「敵意」へと変わっていた。
それでもなお物色を続けたのは、むしろこんな目にあってるのにタダで帰れるか、という意地のような物だった。
やがてSさんは、箪笥の中から飾り気の無い茶封筒を見つけた。
慌ててひったくったそれの中身を確認する。一万円札が数枚。
Sさんにしてみれば、アガリとしては十分だった。
取るもんは取った。ちょっと散らかしすぎたが知った事か。
さっさとこんな場所からおさらばしよう。
茶封筒を握りしめたままSさんは勢いよく振り返り、そして、
人形と目が合った。
今度は、Sさんは叫ばなかった。
Sさんは目を伏せ、テーブルを見ながらぽつりと言った。
「人間よ、本気でやばくなるとよ、声出ねぇもんなんだな。」
人形は、完全にその様相を、変えていた。
明確に、こちらを見ている。
真正面を向いていたはずのその頭部は、120°ほど回転していた。
無機質なガラスの瞳が、完全にSさんを捉えている。
それでいて、首から下の胴体は微動だにしていない。
人間の可動域を遥かに超える首の動き。まるでホラー映画のような光景だったという。
そして、変化がもう一つ。人形の右手が、持ち上がっている。
ぴん、と真正面へと伸ばされた右手。
その人差し指もまた、同じように伸ばされている。
何かを、指し示している。
想定を超える眼の前の光景に、Sさんは完全に硬直していた。
指一本動かせず、呼吸すら忘れてしまったSさんの耳に、何かが聞こえた。
声、だったと言う。
「……まあ、人形の口は、動いてなかった気がするけどよ。」
それでも確かに声は聞こえた。
一音一音の区切るようなそれは、「外国人が頑張って覚えたての日本語を喋っているよう」だったと言う。
デ
テ
イ
ケ
デテイケ。
……………『出ていけ』?
Sさんの鈍った頭が、言葉の意味をかろうじて読み取った、その瞬間だった。
バンッ!!
アパート全体を揺らすような激しい音が聞こえてきたその時、ようやくSさんの体は自由になった。
大声で悲鳴を上げながら、茶封筒を放り投げ、開きっぱなしだった窓に体を滑り込ませる。
勢いそのまま2Fのベランダから下に飛び降りて(火事場の馬鹿力か、怪我一つなかったという)、アパートから飛び出し。
逃げながら、一度だけ、後ろを振り返った。
先程まで忍び込んでいたあの部屋。その玄関のドアが、大きく開かれているのが見えた。
「後々考えてみるとな、あの人形が指さしてた先って丁度玄関になるんだわ。」
あの轟音は、勢いよく玄関のドアが開く音か。不思議と、それだけ理解できた。
でも玄関から出ていかせるんだったら、もうちょい優しくしてくれねぇとなあ。いや、俺が悪ぃんだけどよ。
自分の頭を撫でながら、Sさんは困ったように笑っていた。
「一応よ、説明つけようとすりゃあ付けられる気はすんだよ。暑さのせいで俺が幻覚見てたとか。クーラーの消し忘れに気づいた家主が泡くって戻ってきたとかな。」
だけど。
「ドアが開いてっから、土間も見えるだろ?でも、そこに靴は置いてなかったんだよ。」
そしてそのまま、扉はゆっくりと閉まっていったという。
人の手を、借りずに。
「そりゃあ、風のせいって事にしたんだ。怖ぇから。」
成果は全く上げられなかったが、Sさんはそのまま一直線で駅へ向かうと新幹線に飛び込んだ。
とにかく、一刻も早くここから離れたかった。
300kmほど離れた先で、その日はネットカフェに泊まった。
「なんか、一人で寝てたらもう起きれねぇ気がしてよぉ」
幸いにして、その日の夜、そしてそれからの夜もSさんは平穏無事に過ごす事が出来た。
呪われては、いなかったようだ。
まあ、それから数ヶ月程経った所で、些細なミスからあえなく警察に御用となってしまった訳だが。
「罰があたるにゃぁちょっと遅すぎらぁな」
姉ちゃん、ビールもう一本追加!Sさんがよく通る声で店員に声をかけた。
「おっと兄さんそんな顔しねぇでくれよ?まだ話は終わってねぇんだって、マジマジ」
思わず渋面を隠しきれなかった私に、Sさんはそう嘯いてから更に数杯グラスを重ね、それからようやく続きを語りだした。
ここからの話は、Sさんが逮捕された後の体験談となる。
空き巣犯として囚われたSさんは、そこからしばらく実況見分のために過去の「仕事場」を訪問する事となった。
もちろん、その中にはあの因縁の『人形の家』も含まれている。
「ぶっちゃけよ、あそこじゃぁ完全にオケラだったし本当ならすっとぼけられる筈だったんだが…」
あの「逃避行」は、やはり少なからず騒動を巻き起こしていたらしい。
この現場については自白するまでもなく、警察の方が既にSさんを犯人として特定していた。
「まぁ…嫌な思いはしたがそれから何があった訳でなし、しかもこっちは屈強なポリ公が大量に付いてる。そう自分に言い聞かせて、腹ぁくくった訳よ。」
覚悟を決めて現場入りしたSさんだったが、件の部屋の入居者はとうにそこには居なかった。
ここまでなら、空き巣犯の被害宅ではよくある話である。
「そりゃぁ空き巣に入られた家なんざ、とっとと引っ越しちまいたくなるのが人情だろ?ただ、そこはちょいと、厄介な事になってた。」
前の家主は、『失踪』していた。
詳しいことはSさんにもわからない。
ただ、少なからず事件性はあったのだろう。
警官たちはどこかピリピリした雰囲気だったと言う。
だが、落ち着いていられないのはSさんの方だった。
「怖かったのかって?はは、そりゃ怖ぇこた怖ぇけど、そりゃあ兄さんの期待してる怖さとは違ぇよ。間の悪い事に、この場所が俺が唯一、1円も持ってけなかった場所でよぉ…んで、その家主は失踪中。さらに仕事に入った日、慌てて飛び出す俺が目撃されてる。この状況、兄さんだったらどう思うよ?」
それは……と、曖昧な笑顔を浮かべる私を、Sさんは豪快に笑い飛ばした。
「まあ、その日の夜にゃあ普通に帰宅するあんちゃんが目撃されてたし、少なくともそこから1、2週間は生活してたって裏は取れてたらしくてな!ひでぇのは、俺にはちっともそんな事教えてくれねぇんだよ!まかり間違って血痕反応でも出てきたらどうする、ってこっちゃぁ生きた心地がしなかったのに!!」
ま、俺の方もその後でポリ公で一発食らわせられたけどよ。狙ったわけじゃあねえが。
三本目のビールをグラスに注ぐSさんは、ニヤリと笑っていた。
経緯が経緯だけに、その家で合った事の詳細は伏せていたSさんだったが、事ここに至ってはそんな事も言っていられない。
頭のおかしい奴扱いを受けるのは非常に癪だが背に腹は代えられないし、何より痛くもない腹を探られるのも嫌だ。
遂に腹をくくったSさんが、「実は、人形が…」と切り出した瞬間。
警官たちの顔色が、変わった。
「普通はよ、こんな話聞かされようもんならブチ切れるポリ公の一人や二人は居そうなもんだが、その時は全員神妙な顔で聞いてやがったな。」
ありゃあ、間違いなく「人形」絡みでなにかあったんだろうよ。
なにがあったかは、知らねぇが。
なお、Sさん達が実況見分に訪れた時。
家具の配置やベッドの状態などは、Sさんが侵入した時と寸分違わない様子だったにも関わらず。
あの人形だけは、影も形も無かったとの事だ。
「まあ一応、ベッドの脇の椅子は、残ってやがったけどな。」
「人形」に関するSさんの話は、これで終わりだ。
あんな珍妙不可思議な供述しかしていないにも関わらず、それ以降その「失踪事件」に関する取り調べは無かった。
あの人形は、結局なんだったのか。
その部屋の家主は、どこに消えてしまったのか。
全ては謎のままだが、Sさんに取ってはとっくの昔に終わった話だ。
心象的にも、これ以上は関わりたくなかった。
ただ。
ただ、Sさんは一つだけ、なんとなく確信している事があるという。
「多分、あの人形。今も家主のあんちゃんと、一緒に居るんじゃねえかなあ。」
それが土の中なのか、海の底なのか、空の上なのかは知らねえが。
そう言ってSさんは、曖昧に笑った。
さらに万全を期すため、この話の内容にはいくつかフェイクも含まれている。
ただ、「本筋」に当たる部分に関しては全てありのままを記述させて頂いた。
その点を念頭に入れた上で、ご覧いただきたい。
「わりぃな妙な条件付けて。俺も、まあ、色々あるからよぉ」
そう言って呵々と笑うSさんは、平たく言えばカタギではない。
北は北海道、南は沖縄まで。全国各地、津々浦々を気の向くままに歩き回り、「仕事」を行う。
連続空き巣窃盗犯。それがSさんの生業「だった」。
「職業聞かれた時は自営業、って答えてたな。間違っちゃいねぇだろ?」
もちろん、これはあくまで過去の話だ。
紆余曲折の末に結局お縄頂戴となったSさんは、「お勤め」を終えてからは真っ当に働き始めた…らしい。
「金は盗んだがタタキやコロシはやんなかったお陰か、まぁなんとかジジィになる前にゃシャバに戻ってこれた訳よ。」
Sさんの過去の仕事に纏わるエピソードは、一個人としてはどれも興味深いものであったが、今回の目的とは外れるため割愛させていただく。
放っておけば日が暮れるまで、いや日が暮れてもなお語り続けそうなSさんに、おずおずと本題を切り出す。
その瞬間、陽気によく笑い、よく食べるSさんの表情に、初めて影が差したのが印象的だった。
「おう、分かってる、忘れてねえって。『人形』の話だろ?」
今から話すから、これだけ飲ませてくれや。
そう言って、Sさんは目の前のグラスを一気に飲み干した。
暑い夏の日、だったと言う。
その日、Sさんはあるアパートに向かっていた。もちろん、「仕事」のためである。
目的地は築ン十年になろうというオンボロ。
その一室…おそらく、成人男性の一人暮らし部屋…が、ターゲットだった。
「そんなボロ屋を狙う空き巣が居るかって?いやいや、そこが逆に狙い目なんだよ。セキュリティが甘ぇからな。俺ぁ別に一攫千金とかにゃ興味ねえんだ。狙うのはいつだって現ナマよ。諭吉の5,6枚だって時給換算すりゃあ中々のモンだろ?」
質より量、というのがSさんのビジネススタイルだったようだ。
ともかく、Sさんは苦もなくアパートの裏手に忍び込むと、排水溝の配管や室外機やらを使ってするすると二階へと登る。
標的部屋のベランダに到着すると、下調べ(法に触れるためか、流石に詳細を教えてはくれなかった)の際に既に鍵を開いておいた窓に手を掛けた。
一番最初に違和感を覚えたのは、その窓を開けた瞬間だったと言う。
「ふわーってな、部屋ん中から涼しい風が吹いてきたんだよ。まあ、そこまでなら時々ある話だし、不思議でも無ぇが」
当時の酷暑はそれはそれは酷いもので、例えば留守中もクーラーを掛けっぱなしにしておく家もあった程だ。
高い家賃を払っているとも思えないこの場所でやるにはいささか豪勢ではあるが、単純にクーラーの消し忘れという線もままある。
「それよりもやべぇ、と思ったのは、中にまだ誰か居るのかも知れねえ…って事だな。不在は一応、確認済みだったけどよ」
こんな仕事だ、慎重に慎重を重ねるに越したことは無い。
窓の向こうから、ゆっくりと室内を観察し始めたSさんは…綺麗な銀の巻き髪をした影を見つけ、思わず身を固くした。
……………銀髪? 巻き髪?
人がするにしてはあまりにも珍妙なその出で立ちを訝しんだSさんは、改めて室内を確認した後。鼻で笑った。
「なんのこたねぇ、ただ人形が置いてあっただけだ」
置いてあった、というよりは、飾られていた、というべきか。
粗末なベッドの脇に置かれた椅子の上に、それはちょこん、と鎮座ましましていた。
豊かな銀髪を湛えた、少女の人形。
大昔、少女漫画原作のアニメとかで見かけたような、お嬢様めいた優雅なドレスを身に纏ったその姿は……
ぞっとするほどに、美しかったと言う。
(さてはここの兄ちゃん、人形オタクって奴か? いい趣味してんなぁ。しかしよく出来てるぜこりゃ)
邪魔者の不在を確認し平然と部屋へと侵入したSさんは、興味本位でしげしげと人形を眺める。
わずかに俯いた人形、ほのかに微笑んでいるようにも見えるその顔の造形の精巧さと言ったらどうだ。
それにこのきめ細やかな肌。
手の指がガタガタしてる(注:おそらく球体関節の事か)のがやや気にはなるが、相当高価な代物に見えた。
そんな高そうな人形なら、それを盗んでいこうとは思わなかったんですか?
ふと浮かんだ純粋な疑問を口にした所、Sさんはニヤリと笑った。
「まぁ持ってく所に持ってったらそりゃあいいカネにゃあなるだろうがな、兄さん、そりゃ軽率ってもんだぜ。例えばよ、そんな類の代物は「仕事場」のあっちゃこっちゃに転がってんだよ。高級時計とかな。けどそいつぁダメだ。家主の「思い入れ」が強すぎる。」
思い入れ?
「おう。例えばよ、大事なもんはカネで買えねぇ、みてえなのに近ぇかな。そんなシロモノが無くなったら、家主は血相変えて取り戻そうとするだろ。そりゃよくねぇよ。そっからアシが付いちまう」
だから俺はいっつも現ナマを狙ってんのよ。
はした金の現ナマを目の色変えて取り戻そうとする奴ぁそうそういねぇ。
「まあ持ってくにゃあいくらなんでも嵩張る大きさだったし、そもそも人形売り捌くルートなんか知らねえし、それに」
あの時あの人形に指一本でも触れてたら、俺は多分ここでこうできてねぇと思うんだよ。
空になったグラスを手に持ったまま、Sさんは無表情でそう言った。
人形を観察していたのは、おそらく10秒かそこら程度。
すぐに仕事モードに頭を切り替えたSさんは、物色を開始した。
こうして思い返してみると、その部屋は本当に物が無い部屋だったという。
「ミニマリスト、ってんだったか?当時流行ってたんだよそういうのが。もしかしたら、ただあの人形買うのに全額叩いちまっただけかもしれねぇけど」
だが、どんな生活をしてようと現金だけは絶対に必要になる。
獲物は間違いなくどこかにあるはずだ。
とりあえず手近な引き出しの収納を漁っては見たが、めぼしいものは見つからない。
じゃあ次はあっちの箪笥にでも、と振り返ったその瞬間。
人形と目が合った。
「っと、お」
ビクリと体を震わせながら、思わず小さく声が出てしまった。
即座に、相手がただの人形である事を思い出して苦笑する。
なんだ、人形と目が合ったぐらいでビビるたぁ俺もヤキが回ったか。やれやれ。
あれ。
でもこいつ、さっきは下向いてなかったか。
もう一度、人形を見た。人形は真正面を向いている。
その顔に浮かぶのは先程見たときと寸分と違わない、能面のような無表情だ。
当たり前だ。人形の表情が変わってたまるか。何いってんだ俺ぁ。
じわじわと染み込んでくるような恐怖心を頭を降って振り払い、後ろを向く。
人形の視線から避けるようにして壁際へ進むと、即座に箪笥を開いて中を探った。
おかしい。なんでまだ見られてる感じがするんだ。
次から次へと汗が吹き出る。冷や汗だ。
この部屋は寒すぎる。なんなんだよ畜生。
必死になって箪笥の中身をひっくり返す。放り投げる。引き出しごと、引っ剥がす。
もはや、感じるのは「視線」どころではない。
それはもう、あからさまな「敵意」へと変わっていた。
それでもなお物色を続けたのは、むしろこんな目にあってるのにタダで帰れるか、という意地のような物だった。
やがてSさんは、箪笥の中から飾り気の無い茶封筒を見つけた。
慌ててひったくったそれの中身を確認する。一万円札が数枚。
Sさんにしてみれば、アガリとしては十分だった。
取るもんは取った。ちょっと散らかしすぎたが知った事か。
さっさとこんな場所からおさらばしよう。
茶封筒を握りしめたままSさんは勢いよく振り返り、そして、
人形と目が合った。
今度は、Sさんは叫ばなかった。
Sさんは目を伏せ、テーブルを見ながらぽつりと言った。
「人間よ、本気でやばくなるとよ、声出ねぇもんなんだな。」
人形は、完全にその様相を、変えていた。
明確に、こちらを見ている。
真正面を向いていたはずのその頭部は、120°ほど回転していた。
無機質なガラスの瞳が、完全にSさんを捉えている。
それでいて、首から下の胴体は微動だにしていない。
人間の可動域を遥かに超える首の動き。まるでホラー映画のような光景だったという。
そして、変化がもう一つ。人形の右手が、持ち上がっている。
ぴん、と真正面へと伸ばされた右手。
その人差し指もまた、同じように伸ばされている。
何かを、指し示している。
想定を超える眼の前の光景に、Sさんは完全に硬直していた。
指一本動かせず、呼吸すら忘れてしまったSさんの耳に、何かが聞こえた。
声、だったと言う。
「……まあ、人形の口は、動いてなかった気がするけどよ。」
それでも確かに声は聞こえた。
一音一音の区切るようなそれは、「外国人が頑張って覚えたての日本語を喋っているよう」だったと言う。
デ
テ
イ
ケ
デテイケ。
……………『出ていけ』?
Sさんの鈍った頭が、言葉の意味をかろうじて読み取った、その瞬間だった。
バンッ!!
アパート全体を揺らすような激しい音が聞こえてきたその時、ようやくSさんの体は自由になった。
大声で悲鳴を上げながら、茶封筒を放り投げ、開きっぱなしだった窓に体を滑り込ませる。
勢いそのまま2Fのベランダから下に飛び降りて(火事場の馬鹿力か、怪我一つなかったという)、アパートから飛び出し。
逃げながら、一度だけ、後ろを振り返った。
先程まで忍び込んでいたあの部屋。その玄関のドアが、大きく開かれているのが見えた。
「後々考えてみるとな、あの人形が指さしてた先って丁度玄関になるんだわ。」
あの轟音は、勢いよく玄関のドアが開く音か。不思議と、それだけ理解できた。
でも玄関から出ていかせるんだったら、もうちょい優しくしてくれねぇとなあ。いや、俺が悪ぃんだけどよ。
自分の頭を撫でながら、Sさんは困ったように笑っていた。
「一応よ、説明つけようとすりゃあ付けられる気はすんだよ。暑さのせいで俺が幻覚見てたとか。クーラーの消し忘れに気づいた家主が泡くって戻ってきたとかな。」
だけど。
「ドアが開いてっから、土間も見えるだろ?でも、そこに靴は置いてなかったんだよ。」
そしてそのまま、扉はゆっくりと閉まっていったという。
人の手を、借りずに。
「そりゃあ、風のせいって事にしたんだ。怖ぇから。」
成果は全く上げられなかったが、Sさんはそのまま一直線で駅へ向かうと新幹線に飛び込んだ。
とにかく、一刻も早くここから離れたかった。
300kmほど離れた先で、その日はネットカフェに泊まった。
「なんか、一人で寝てたらもう起きれねぇ気がしてよぉ」
幸いにして、その日の夜、そしてそれからの夜もSさんは平穏無事に過ごす事が出来た。
呪われては、いなかったようだ。
まあ、それから数ヶ月程経った所で、些細なミスからあえなく警察に御用となってしまった訳だが。
「罰があたるにゃぁちょっと遅すぎらぁな」
姉ちゃん、ビールもう一本追加!Sさんがよく通る声で店員に声をかけた。
「おっと兄さんそんな顔しねぇでくれよ?まだ話は終わってねぇんだって、マジマジ」
思わず渋面を隠しきれなかった私に、Sさんはそう嘯いてから更に数杯グラスを重ね、それからようやく続きを語りだした。
ここからの話は、Sさんが逮捕された後の体験談となる。
空き巣犯として囚われたSさんは、そこからしばらく実況見分のために過去の「仕事場」を訪問する事となった。
もちろん、その中にはあの因縁の『人形の家』も含まれている。
「ぶっちゃけよ、あそこじゃぁ完全にオケラだったし本当ならすっとぼけられる筈だったんだが…」
あの「逃避行」は、やはり少なからず騒動を巻き起こしていたらしい。
この現場については自白するまでもなく、警察の方が既にSさんを犯人として特定していた。
「まぁ…嫌な思いはしたがそれから何があった訳でなし、しかもこっちは屈強なポリ公が大量に付いてる。そう自分に言い聞かせて、腹ぁくくった訳よ。」
覚悟を決めて現場入りしたSさんだったが、件の部屋の入居者はとうにそこには居なかった。
ここまでなら、空き巣犯の被害宅ではよくある話である。
「そりゃぁ空き巣に入られた家なんざ、とっとと引っ越しちまいたくなるのが人情だろ?ただ、そこはちょいと、厄介な事になってた。」
前の家主は、『失踪』していた。
詳しいことはSさんにもわからない。
ただ、少なからず事件性はあったのだろう。
警官たちはどこかピリピリした雰囲気だったと言う。
だが、落ち着いていられないのはSさんの方だった。
「怖かったのかって?はは、そりゃ怖ぇこた怖ぇけど、そりゃあ兄さんの期待してる怖さとは違ぇよ。間の悪い事に、この場所が俺が唯一、1円も持ってけなかった場所でよぉ…んで、その家主は失踪中。さらに仕事に入った日、慌てて飛び出す俺が目撃されてる。この状況、兄さんだったらどう思うよ?」
それは……と、曖昧な笑顔を浮かべる私を、Sさんは豪快に笑い飛ばした。
「まあ、その日の夜にゃあ普通に帰宅するあんちゃんが目撃されてたし、少なくともそこから1、2週間は生活してたって裏は取れてたらしくてな!ひでぇのは、俺にはちっともそんな事教えてくれねぇんだよ!まかり間違って血痕反応でも出てきたらどうする、ってこっちゃぁ生きた心地がしなかったのに!!」
ま、俺の方もその後でポリ公で一発食らわせられたけどよ。狙ったわけじゃあねえが。
三本目のビールをグラスに注ぐSさんは、ニヤリと笑っていた。
経緯が経緯だけに、その家で合った事の詳細は伏せていたSさんだったが、事ここに至ってはそんな事も言っていられない。
頭のおかしい奴扱いを受けるのは非常に癪だが背に腹は代えられないし、何より痛くもない腹を探られるのも嫌だ。
遂に腹をくくったSさんが、「実は、人形が…」と切り出した瞬間。
警官たちの顔色が、変わった。
「普通はよ、こんな話聞かされようもんならブチ切れるポリ公の一人や二人は居そうなもんだが、その時は全員神妙な顔で聞いてやがったな。」
ありゃあ、間違いなく「人形」絡みでなにかあったんだろうよ。
なにがあったかは、知らねぇが。
なお、Sさん達が実況見分に訪れた時。
家具の配置やベッドの状態などは、Sさんが侵入した時と寸分違わない様子だったにも関わらず。
あの人形だけは、影も形も無かったとの事だ。
「まあ一応、ベッドの脇の椅子は、残ってやがったけどな。」
「人形」に関するSさんの話は、これで終わりだ。
あんな珍妙不可思議な供述しかしていないにも関わらず、それ以降その「失踪事件」に関する取り調べは無かった。
あの人形は、結局なんだったのか。
その部屋の家主は、どこに消えてしまったのか。
全ては謎のままだが、Sさんに取ってはとっくの昔に終わった話だ。
心象的にも、これ以上は関わりたくなかった。
ただ。
ただ、Sさんは一つだけ、なんとなく確信している事があるという。
「多分、あの人形。今も家主のあんちゃんと、一緒に居るんじゃねえかなあ。」
それが土の中なのか、海の底なのか、空の上なのかは知らねえが。
そう言ってSさんは、曖昧に笑った。
23/05/20 21:50更新 / 突発執筆マン