敗軍之将
後退する、と言うのは簡単だが、実際それを行うのは至難の業だ。
下がる途中でもたつけば、あっと言う間に崩される。
それは、バフォメット自身がよく知っている事でもある。
「押さえを残す余裕は無いのう」
俗に言う殿と言われる後衛の部隊の事だ。
部隊を前進させる時とは違い、部隊を後退させる時に重要なのは士気である。
逃げる、となれば負傷者や戦死者などを後送する事が難しくなる。
一部を置き去りにして逃げる、と言う事は士気に多大な影響を及ぼす。
その為に、一般的に後退作戦は難しいと言われている。
各々自由に後退すれば良いのではないか、と思われるだろうが、
それは崩壊と言われ、秩序を保ち集団で行動する、それが軍隊なのだ。
なので後衛の部隊を任せる指揮官を選ぶ事はとても重要だ。
これには最も優秀な者を充てるのが常識となっている。
殿を任せられる、というのは将にとって最高の評価であると言っても良い。
しかし、バフォメットは悩んでいた。
ただでさえ兵力が少ない、それに加え今までの戦闘での損害を考慮すると。
まともな数を後ろに割ける余裕が無いのだ。
「交互に後退…」
考えていたのは交互後退。
これは、元々遅滞と言う単なる時間稼ぎの為の行動であり、
交互後退も、その遅滞行動の中の一つだ。
部隊を二つに分け、一つずつ定められた陣地に後退しながら敵を防ぐ、と言った戦法である。
しかし、これをやれば撤退と言う当初の目的から完全に逸脱してしまう。
基本的に敵を拘束しつつ下がるので、敵から逃げると言う行動とは根本的に異なる。
更に撤退先が要塞都市なので、二つに分けた部隊の一つを犠牲にしなければ要塞の中に逃げられない。
つまりは却下である。
考えれば考える程、面倒なのだ、撤退戦は。
「お家に帰るまでが戦争なんじゃよ〜」
「妙な事言ってないで働いて下さい」
その様子を目敏く見つけた副官殿が声をかけてきた。
テレーズも、撤退準備に追われている。
バフォメットの周りには、聖騎士団と戦闘を終えた魔王軍騎士団が集まっている。
先程の戦闘での損害は百騎程度に留まった。戦闘可能な者を除けば五十騎程度だ。
流石に精鋭の騎士団は強かった、しかし、そこには肝心の騎士団長が居なかった。
彼女は敵の騎士団長との戦闘で負傷し、後方へ運ばれて行った。
仮に殿の部隊に充てる指揮官は、彼女しか居ないとバフォメットは思っていた。
しかし、それも今では叶わぬ事となった。
「前線の副団長は?」
「あいつは駄目じゃ、あの攻撃的な指揮は撤退に向かん」
騎士団の半数を率いて前線で奮闘中の副団長ではあったが、バフォメットは適任では無いと考える。
「団長が無事だったらのう、その意味では、大損害じゃよ」
個人の武勇に加え、攻守に優れた指揮能力。
その両方を兼ね備えた人物は得がたいものだ。
最も、その団長も一線から退く事を決意したのだが…
話を元に戻そう。
「騎士団は前線に行き副長に合流しろ」
「それじゃあ主を守る者が居なくなりますよ」
「どの道大勢こっちに向かってくる、一時的に丸裸になっても良いんじゃ」
撤退する部隊の指揮も必要なのだ。
なおもテレーズは不満そうではあったが、ここは上司の権限で押し切る。
流石に上司の命であれば、逆らう術は無い。
「副長に無理はするな、と伝えるんじゃぞ」
「やはり心配ですか…?」
「最悪な事態は避けたいもんじゃ」
身を捨てて味方の退路を切り開く、そういう展開こそ一番恐れる事である。
攻撃的な副長に必要なものは自制である。
「無鉄砲な奴じゃからな、本当に…」
「まだ独り身ですしね、彼女」
「ほう、初耳じゃ」
「ご存知ありませんでした?騎士団の売れ残r…」
「テレーズ様、それは!」
騎士団の面々が、テレーズの言葉を遮った。
どうやら騎士団内では禁句であったようだ。
「…マスコットです」
「マスコット?」
「ええ、騎士団のマスコットと呼ばれてますから、彼女」
「売れ残りのマスコットかえ?」
「司令官殿、それは!」
「なんじゃいお前らはさっきから」
よくわからないが、売れ残りと言う言葉は禁句であるようだ。
「その言葉、副長殿の前では決して言ってはなりません!」
「騎士団内の団結が!」
「副団長の嫉妬が!」
「新婚生活の危機が!」
「ううん?」
最後のほうがよくわからなかったが、その真剣さだけは伝わった。
「わかった、わかったから!さっさと行け!」
話を聞いているときりが無い、話を切り上げ騎士団を前線へと向かわせる。
とにかく、副長を自制させなくては。
ちらほらと、前線から戻ってくる者たちの姿が見えた。
負傷兵や、それを運ぶ者達である。
助けられる者は出来るだけ助ける、そう判断したのだろう。
だがそれは撤退戦においては間違った判断だ。
それでも、可能な限りは助けたい。
戦場にうち捨てられた魔物は、まず助からない。
更に親魔物側の人間も、無事では無いだろう。
生き残ったとしても、こちら側へ戻って来る事は二度と無い。
そして前線では、撤退の意向を伝えられた部隊が、徐々に後方へ下がって行く。
敵を正面から受け止めているのは、騎士団を主力とした部隊であった。
「納得出来ん!」
その部隊を指揮し、自らも馬上にて剣を振るう副長ではあるが、撤退命令には不服であった。
撤退命令は出したが、バフォメットは味方の裏切りについては教えなかった。
ただでさえ切り離された戦場で、余計な情報を教えるのは要らぬ動揺を招く事になる。
「目の前を見てみろ!相手を押しているではないか!我々は勝っている!そうだろう?」
副長としては、目の前の戦況が総てなのだ。
しかし、命令には従わなくてはならない。
半ばヤケクソ気味に剣を振り回しながら暴れまわっている。
相手をする敵も気の毒である。
それでも、命令通りに撤退する部隊を護るように、敵に追撃のチャンスを与えては居ない。
大局を見る目はある。あるのだが、その気性故かそれを活かせる事があまり出来ないのだ。
「そう言われても…命令だし」
対照的に、道案内を務めたカラステングは冷静だった。
戦場を見渡せる能力、それを使い副長の補佐を行っている。
的確に、相手の動きを副長に伝える。
それを聞いた副長が、部隊を動かす。
この一連の流れで、数倍の敵と互角に渡り合っていたのだ。
「わかっている!だから…こうやって敵を防いでるんだろう!」
カラステングとて文句を言いたい気持ちもわかる。わかるのだが…
「左から迂回しようとする部隊が居るよ」
「左だ、先回りして敵を防げ!」
副長の命を受けて、部隊の一部が迂回しようとする敵の正面に回りこむ。
正面からの攻勢を諦めたのか、敵は執拗に回り込もうとしている。
その度に、こちらからも部隊を先回りさせ防いでいる。
「これではキリが無い…」
「一時は突破できると思ってたんだけどね…」
段階的に、少しづつ部隊を後方に下げている、ので徐々に敵の圧力が強まってくる。
結局、最後まで前線に留まる事を副長は選択した。
カラステングも、それに習った。
「だいぶ減ったね…」
「ああ…」
今まで休みなく戦い続けている、疲れも相当溜まっているのだろう。
徐々に、騎士団の姿が少なくなって行く。
現在では、既にその数を百騎以下にまで減らしている。
「軟弱な奴らだ」
などと毒づいてはいるが、負傷した部下を見つけると無理をせず後方に下がらせる。
危険な時は自ら傍に寄り助け出すなど、部下想いな行動をカラステングは見ている。
「ツンデレってやつなのかな」
「お前は絶対助けてやらんからな」
全体の八割程度は、既に前線を離れている。
敵も一旦隊列を整える為に、少し後ろに下がっている。
そろそろ、自分達も下がる頃合だろうか。
後方から、残りの騎士団がやってきたのは丁度そんな事を考えていた時だった。
「合流せよと命令されたので、今から副長の指揮下に入ります」
「団長はどうしたんだ」
「負傷されましたので、先に下がられました」
「負傷した…?」
まさか、それは無いだろうと疑ってみたものの、そもそも嘘をつく必要が無い。
どうやら本当のようだ。
ともかく、集まった騎士団を合計しても、その数は三百に満たない。
聞けば後方でも戦闘があり、団長もその際に負傷したのだとか。
「そんな事があったのか」
「危なかったんだね」
相手も教団の騎士団だったようだ。
集まった面々も何かしら手傷を負っている。
「まあ、今それは良い…それより」
「ああ、それと司令官殿からの伝令で、無理はするなと…」
「一緒に来い、突っ込むぞ」
「話聞いてましたか?」
「うむ、聞いた」
「なら…」
「だから突っ込む!」
「聞いて下さい」
「聞いてるとも、だからこそだ」
どちらにせよ、完全に離脱するまで敵を抑えておく必要がある。
つまりは殿、先程バフォメット自身が完全に否定した方法を、副長は行おうとしていた。
「それをやるなって言われてるんですけど…」
「心配ない、現場の判断こそ尊重されるものだ」
「これって…」
「明らかな違反だよねぇ…」
とは言うものの、それを咎める者は居なかった。
皆、ある程度こうなる覚悟はしていたのだ。
どうせ自制させるなど不可能な話である。
ならば共に行動し、可能な限り副長を守ろうと、皆で決めた。
「カラステング」
「何?」
「お前は下がれ」
「…?」
「今までご苦労だった、部外者のお前はもういい」
「もういいって…そんな」
「今必要なのは直接的な戦闘力だ、お前にそれは無い」
「索敵能力はもう必要ないって事?」
「そうだ。必要ない、何度も言わせる気か?」
「足手纏いって言いたいのか?」
「そうだ」
あまりにハッキリとした態度に、それ以上何も言えなくなった。
「そこのお前、こいつを連れて下がれ」
負傷して戦闘行動に耐え切れないであろう者を見つけ、カラステングの事を託した。
「悪いが今回の主役は騎士団だ」
そう言い残し、騎士団を率い敵陣に向けて突撃する。
その後姿を、カラステングはただ見つめるしかなかった。
「私たちも下がろう」
共に下がれ、と言われたデュラハンが話し掛けて来た。
全身に返り血を浴び、鎧には弾痕や切り傷が無数に付いている。
その右腕は、血で真っ赤に染まっていた。
「せめて利き腕が無事なら良かったんだがな…」
もう剣は握れんだろう、と言う呟きが聞こえた。
それを聞いて、カラステングは付いて行く事を諦めた。
自分が残っても、邪魔になるだけだ。
それよりも、この傷ついた者を正確に導く必要がある、そう思った。
「わかった、下がろう。ただし…」
「ただし…何だ?」
「可能な限り、怪我した仲間を助けよう。下がりながら」
足は止めず、下がりながら残された仲間を極力拾って行く。
戦闘で役に立てなくても、それぐらいなら己にも出来る。
何か役に立ちたい。それがカラステングの気持ちだった。
「多くは無理だぞ、それに動きは止められない。それでもいいのか」
「わかってる、それでも…やりたい」
「了解した、可能な限り…だな」
戦場を見渡す。敵の動きを見る為ではなく、残された者を助けるために。
動き出したその時、後ろから喚声が上がった。
「生きて、帰ってきて」
一方、敵の隊列に突っ込んだ騎士団はと言えば。
やはり敵も突撃を掛けるのは想定内だったのだろう。
こちらの攻撃に対しては、ひたすら銃撃で応戦している。
一つ二つと、敵の隊列を突破しているが、
騎士団の攻勢も限界に近い、射撃を浴びる毎に、バタバタと仲間が馬から落ちる。
それでも、騎士団は動きを止めなかった。
敵の隊列を更に一つ突破する、ここで副長は気付いた、余りに突破が容易であった事に。
「囲まれたか!」
今まで突破した敵が、自分達を取り囲むように展開していた。
わざと崩れたように見せかけて、相手を懐深くまで誘引する。
それを囲み、退路を断った上で殲滅する。
逃げ遅れた仲間諸共、容赦なく銃撃を浴びせ掛ける。
その攻撃を受けて、ついに騎士団の動きも止まった。
「仲間を撃つとは…!」
騎士団の中でそれを理解出来る者は居なかった。
しかし、騎士団の一人一人が戦闘単位として成り立つ程である。
仮に仲間を犠牲にしても、可能な限り数を撃ち減らすのは当然の判断だ。
どうしようもない、後にも先にも進むことも出来ず、一点に固まって耐えるしかなかった。
折を見て下がろうとは思っていたのだが、その可能性は完全に潰えた。
自然と、副長を中心にして彼女を護るような陣形になったが、外から容赦なく銃撃が浴びせられる。
「固まるな!動きを止めると的になるぞ!」
副長が叫ぶが、その命令に反して、更に周りを固める。
声が聞こえなかったのか、何度も叫ぶが反応が無い。
この時点で、流石に違和感に気付いた。
「お前ら…まさか!」
自分を守る為に、部下が犠牲になろうとしている。
部下にこのような行動を取らせるなど、騎士団員の名折れである。
「やめろ!私の事はいい!そんなことは!」
ここに至って、副長は戦意を喪失してしまった。
必死で叫ぶのだが、それでも敵は攻撃の手を緩めなかった。
いや、更に激しさを増したのだろうか。
容赦が無かった。
「頼む!やめてくれ!私の首ならくれてやる!だから!」
ついには剣を投げ捨て、兜を脱ぎ、敵の前面に進み出た。
己の命を引き換えに降伏する、そうするしか、仲間の命を助ける術が無かった。
相手は反魔物陣営なのだが、この際関係ない。
錯乱し、生き残る事に必死になっていた。
「撃つな!撃たないでくれ!」
「副長!なにしてるんですか!」
副長のおかしな行動を見て、その前に躍り出た部下が撃たれて崩れ落ちる。
「あっ…」
必死に手を伸ばすが、届かなかった。その手が虚しく空を掴む。
直後、足の付け根辺りに衝撃を受けた。
自分も撃たれたのだ。
「副長!」
体が、ゆっくりと横に傾く。うっかり手綱を掴み忘れていたのに気付いた時には、もう遅かった。
地面にぶつかる衝撃、背中から落ちたので、一瞬呼吸が止まる。
必死にもがき、何とか上体を起こす。
更に自分を守ろうと部下が前に出るが、銃撃を受け倒れていく。
自分の上にも、落ちてきた。
とっさに体を受け止めるが、既に反応は無かった。
また一人、部下が、仲間が死んだ。
「おい…誰か、誰かいないのか!?」
返事は無かった。周囲には馬と人が、折り重なるように倒れている。
ついさっき、カラステングに向けて放った言葉が頭の中をよぎる。
偉そうな事を言っておきながら、この有様だ。
大切な部下を、仲間を無駄に殺してしまった。
彼女たちにも、帰りを待つ人が居た。
自分にはそれが居なかった、だから、こんな無茶な事を…
「ああ…まさか…こんな…」
涙が頬を伝う。自分が泣いているとわかったのには時間が掛かった。
長らく涙など見せた事が無かったのだが、よりにもよって今流れるとは。
泣いては駄目だ、と自分に言い聞かせる。
だが何度拭っても、涙は止まることが無い、それどころかとうとう視界がぼやけて来た。
「すまないッ…私は…私は…」
何度も謝罪の言葉を口にする。聞いている者が居るのかわからないが、必死で謝り続けた。
その願いが通じたのか、急に静かになった。銃声も、喚声も、何も聞こえない。
やっと、攻撃をやめてくれたのか、良かった、これで仲間を救える。
安心したのか、体から力が抜ける、そんな感じがした。
大失態だ、いつも気を抜くなと言われていたのに。
団長に怒られるだろうな、この期に及んで、なぜかそれが一番怖かった。
隊長らしきデュラハンの動きが止まった。
射撃を止めろ、と命令が出た時には、もう誰も立っては居ない。
屍の山、と言う表現が一番適切だろう、足の踏み場も無い程、双方の兵士が倒れている。
時折小さく呻き声が聞こえるが、誰も手を差し伸べようとはしない。
助けられない、と言うよりは、助ける気が無いだけだ。
魔物は勿論、味方だって同じことだ。
この戦場では、負傷したとすればそれは自己責任である。
貴族や指揮官などであれば話は別で、お抱えの従医が治療を施すだろう。
だが一般の兵士達にしてみれば、そんな事をして貰えるだけの余裕は無い。
身分の違いによる扱いの差は、もう慣れた。
などと余計な事を考えながら持っている銃に弾を込める。先込め式なので、時間が掛かる。
最近では、後装式の銃が開発されている、と実しやかな噂が流れている。
そんなものが登場すれば、戦場の有様も劇的に変化するだろう。
しかし噂は噂である。我々が使うこの銃こそが、現在の傭兵軍の主力なのだ。
「しかし…恐ろしい奴らだった」
隣で同じように弾を込める兵士が呟いた。
見知らぬ顔だ、そもそも俺は司令官の顔さえよく知らない。
今回初めて参加した新参なので、それも当たり前の事だろうが。
待遇面で、所属先を選ぶのは傭兵として当然である。
何度か他の傭兵軍に従軍してはみたが、ここの待遇の良さは一番だ。
まず定期的に給与が支払われる、これが大きい。
前に居た傭兵軍は、待遇が最悪だった。
なので、最終的には反乱が起こり、指揮官の首が飛んだ程だった。
不満を抱かせるのが、一番やってはいけない事だと教えられた事件だ。
ここでは反乱なんぞ起こらんだろう、実に快適な所だ。
「生きてるだけ儲けものじゃないか」
「確かに、一時は死んだと思ったな」
敵を包囲する、と言っても、敵と正面からぶつかり合う部隊にとっては災難と言っていい。
なにしろ相手はあの魔王軍の騎士団だ。
迂回攻撃を事前に察知していても、砲兵陣地を守る部隊は崩された。
後方から見ていても、その凄まじさはよくわかる。
なにせ足元まで首が転がって来た程だ。
敵を包囲する時も、最前列で銃を撃ちまくった。
触れるものを皆薙ぎ払うような敵の動きは、今でも脳裏に焼き付いている。
魔物を相手にした事はあるが、流石は敵の精鋭と言った所か。
「あの隊長さん、最後は泣いてたな…」
「魔物のくせに情けない奴だ」
「そう言うな、見た目はかわいいお嬢さんじゃねえか」
「アンタ、ああ言うのが好みなのか?」
「まさか、いくら日照り続きでも魔物はお断りさ」
「ちげぇねえや」
見た目が変わった所で、その本質は変わらない。
教団の教えが全てだとは思えないが、基本的に人とは相容れない存在なのだと俺は思う。
分かり合えない存在は敵だ。だから、魔物も、魔物に媚びる人間も敵だ。
などと偉そうな事を考えてはいるが、所詮俺は一介の歩兵に過ぎない。
ただ銃を構え、敵に向けて引き金を引くだけの存在。
「それにしても、大分減ったな」
「あいつら一人殺るのに、味方が何人減った事か…」
至近距離から銃弾を撃ち込んでも、怯まず立ち向かってくる。
そんな相手が数百人も居ては、こちらの損害も馬鹿にならない。
「小隊長殿はどうした?」
「我らの小隊長殿ならほれ、そこに転がってるのがそうだ」
目の前に、頭をかち割られた死体が横たわっている。
元小隊長だったものだ。
この場では指揮官だろうが貴族だろうが関係ない。
運が良い奴が生き残っているだけだ。
傭兵軍の損害は、現時点で全体の二割程度であった。
砲兵隊と、それを守る部隊に損害が集中している。
部隊を纏め、隊列を整え、次の命令を待つ。
その後行軍命令が出たが、敵を追撃するのでは無いと言われた。
敵の騎士団の骸と、弱弱しく助けを求める味方を捨て置き、進軍が開始された。
ちらっとだが、妙な集団を見た。
頻りに、倒れている者の様子を確認している。
死体漁りでもしているのだろうか、そう不審に思っていると、またも隣の兵士が話し掛けてきた。
「市民軍の奴らだ」
「市民軍?」
「お仲間だよ、あいつらはその所属だろう」
「ふうん…」
味方とわかれば、別にどうでもいい。
あまり興味は無かった、ので今度はこちらから別の話題を振る。
「そういえば、これからどこに行くんだ?」
「ちょうど隊長さん達が話してるのを聞いたんだが、どうも…」
敵の盟主たる国王の弟が率いる亡命軍と合流し、王国へ帰還する。
それが傭兵軍に次に与えられた任務であると言う。
「へぇ、今度は弟さんのお守りか」
「敵の王さんも災難だぜ、即位して早々に国を奪われるんだ」
「ガキに出し抜かれるようじゃ、いずれ滅ぶ運命だったろうよ」
「いやいや、中々の切れ者らしいぜ、弟さんも」
「そうかい」
とにかく、撤退する敵は追わない。
残った敵もセバスティアンの軍と寝返った傭兵軍だけで、十分対処出来る。
味方の兵力は増えるが、相対的に敵の兵力は減り続けている。
ナミュールに逃げ帰った所で、敵中に孤立していずれは飢え死にするだけだ。
「どの道、敵は勝ち目がなかったわけだ…」
仮に敵側の傭兵軍に所属していたら、今頃どうなっていたであろうか。
想像もしたくない。
騎士団が壊滅した、と言う報せを受けたバフォメットは意外にも冷静だった。
ある程度は、この事を予想していたのかもしれない。
「やはり、駄目じゃったか」
「随分冷たい物言いですね」
「どうすればいい?周りに怒り散らそうか、それとも大声で泣き喚こうか?」
「よしてください、貴女らしくもない」
「わしはわしじゃよ、下手にうろたえる方が危険なんじゃ」
集団の秩序ある行動、その為には、司令官たる己が動揺を見せるわけにはいけない。
騒げば混乱の元になる。
粛々と、魔王軍は撤退している。
皆傷つき、疲れ、その表情は一様に暗かった。
それでも、集団として纏まって動いているのは、それを指揮するバフォメットの統率力に他ならない。
「今は省みる必要は無い、一人を助ける為に十人を犠牲にしてはならんのじゃ」
「その台詞、どこかの将軍と同じですね」
「ならその将軍が正しいんじゃよ、そして正しい行動を取らねばらなん」
結局、追撃は来なかった。
騎士団のお陰なのか、それとも始めから敵は追撃するつもりが無かったのか。
真相はわからない、しかし、魔王軍は秩序を保ちながら、ナミュールの城門を潜る事が出来た。
「負傷者の手当てを急げ、動ける者は城門の守備じゃ、逃げてくる味方を向かい入れるぞ!」
辿り着いたとて、安心は出来なかった。
一息つく暇も無く、バフォメットは馬上で指示を飛ばす。
負傷者の手当てと、戻ってくるであろう味方の為に城門を開いたまま、外に出て待機する。
都市の守備隊も合流し、幾分かはマシになった。
それでも、受けた傷は深い。
「今のうちに損害を纏めてくれ、部隊の再編成が急務じゃ」
「わかりました、でも司令官の貴女も休んでください」
朝から馬上で指揮を取り続けたバフォメット。
疲れているだろうと休憩を勧めたテレーズであるが、バフォメットは首を横に振る。
「わしはいい、それよりお前も休めテレーズ。わしは首から上が残っておればいいのじゃ」
「貴女が一番働いてるじゃないですか」
「普通は、上の者が一番働くもんじゃよ」
と言うものの、確か体に残った力は少ない。
そろそろ精を補充すべきなのか、しかし悠長に男と一戦交える暇など無い。
そもそも、そんな相手が居るハズも無いのだが。
「終わったら休む…終わったらな」
そう自分に言い聞かせ、部隊に指示を出す。
最早テレーズの言葉は耳に届いていなかった。
最初は一人二人と、戻ってきたのだが、今で纏まった集団がこちらに向かって来る。
偵察隊からの連絡…この偵察隊のハーピー達も、朝から今まで飛びっぱなしである。
影の功労者とも言っていい。
その偵察隊からもたらされた情報で、バフォメットは味方の壊走を知る事になる。
「国王陛下が、討ち死になさいました…」
「盟主の首を取られたか」
上空から見た光景を説明された。
最後まで馬上で自らも剣を振るい奮戦していた王も、圧倒的な兵力差の前についに倒れた。
味方は四散し、こちらに向かって来る者も段々と増えてきた。
その殆どが傭兵軍と、王国軍の兵士達であり、諸侯の軍勢の姿は無かった。
負けを悟ると、早々に軍を纏め自領に引き返した、諸侯とはそういうものだ。
「ヨハン殿、ご無事じゃったか」
「バフォメット殿…」
纏まった集団の中に総司令官たるヨハンの姿を認め、バフォメットが馬を近づけた。
「申し訳ない…本当に申し訳ない」
「貴殿が謝る必要は無いと思うが」
「いや、これは私の責任だ…本当に申し訳ない」
部下が裏切ると言う事態を招いてしまった事。
さらにそれが原因で戦いに負け、盟主の首が取られた。
「憎むべきはマンスフェルトじゃよ、ヨハン殿」
「……」
そんな言葉で慰められるとは思っていない。
ふと気付く、ヨハンの顔は以前のように覇気に満ち溢れたものでは無かった。
年老いた男の顔、心が折れてしまったような表情だ。
「お互い、してやられましたな」
「今回ばかりは、完敗だ」
空を見上げる、雲ひとつ無い空、太陽が丁度真上にあった。
意外に早く決着がついたのか、とバフォメットは驚く。
「日が明るい…」
「まだ昼過ぎですな」
「日が沈むまで、出来るだけ多くの仲間を助けたい」
「部隊をお貸ししよう、使って下され」
「ありがたい」
流石にヨハンが戻ってくると、傭兵軍もある程度の数を回復出来た。
それでも、半数が裏切り、戦闘で失った分を考慮すると、とても敵と正面から戦える数ではない。
その後、夕暮れ時になって戻ってきたカラステングと、負傷者の一団を収容し終えて城門は閉じられた。
騎士団が壊滅したと知らされると、カラステングは地面に崩れ落ち、子供のように泣き叫んだ。
その様子を、皆遠巻きに見つめるしかなかった。
だが、それでもかなりの数の味方を率いて帰って来た事で、バフォメットからの信頼を得た事は確かだ。
不思議なことに、最後まで敵は姿を現さなかった。
攻城戦が始まると身構えていたのだが、肩透かしだった。
夜になり、最小限の兵を守備に残し、皆体を休める。
バフォメットも、城塞の一室を臨時に執務室とし、そこで事後処理に追われていた。
「損害報告、纏まりました」
テレーズが報告に来た。
思えば彼女も朝から働きっ放しである。
夫の安否もわからない状況で、よくバフォメットを補佐していた。
「うむ」
魔王軍の損害、参加した時には総勢五千を誇ったのだが、今では見る影も無い。
戦死、行方不明を併せて千八百を数えた。
負傷者も二千を超える勢いだと言う。
「軽傷な者を含め戦列復帰可能な数は、二千が精々です」
「六割も損害が…」
戦死者と行方不明者の具体的な数はわからない。
まだ生きている者も居るだろうが、今の数が劇的に増えると言う事は、最早ありえない。
「騎士団は壊滅か」
「負傷者を入れても百騎程です」
「虎の子の部隊をこうも磨り減らすとは…つくづく愚か者じゃ、わしは」
「こればかりは誰のせいとも言えません」
「団長には知らせたのか?」
「いいえ、でも勘付いていると思いますよ、ベッドの上で泣いてましたから、彼女」
「そうか…」
副長の命令違反が原因と言えるだろう。
しかし、騎士団投入のタイミングが適切であったか。
そもそも、あの場面で、あの数で、運用する事が間違っていたのではないか。
果たして自分には将としての才能があるのだろうか、と言う事まで悩み始めた。
悩んで答えが出る事は無いだろう、出るとすれば、それを出すのは後世の歴史家達だ。
騎士団は壊滅したが、消滅したわけではない。
再建には、時間が掛かるだろう。
だが、何としても再建しなくてはならない、その為にも、団長の力はまだ必要だ。
「他はどうだ?」
「傭兵軍は五千程、逃げ帰った王国軍の残りが三千、逃げ遅れた諸侯の部隊などを合計しても一万に満たないと思います」
「つまり、現状では一万程しか戻って来なかったと言う事じゃな」
「負傷者もかなりの数です、とても戦える状態では…」
「わかっておる、それは良くわかっておる…」
出発前は総勢六万を数えた親魔物連合軍も、現在では一万数千程に減っていた。
さらに裏切りが起き、盟主の首を取られる有様。
完敗、と言って良い。
「ところで、敵はどこに消えたんじゃ?われ等を包囲せずに帰ったのか?」
野戦で勝利し帰還する、とは考えられない。
何しろまだ領内に敵が残っているのだ、それを放置していくはずが無い。
「その事でも、報告があります」
「ほう」
「先程、王国に大規模な軍勢が侵入した、と報告がありました」
「確かか?」
「国境付近に配置した仲間からの証言です、間違いありません」
「その報告が今あがってくるとすれば、恐らく…」
「今頃、首都も攻略されているはずです」
今回の戦いに、国王はほぼ全軍を率いて参加していた。
国の守りについている兵力は皆無と言って良い。
「新しい王の誕生か、随分血生臭い戴冠式じゃったな」
「最初からこれが狙いだったんでしょうか…」
「どうやら戦略的にも完全に負けておったようじゃ、フフフ…」
自嘲するしかない。
ナミュールはあくまで敵国境付近の都市である。
その後方の、王国が落ちたのだ。
親魔物側の軍勢は今この場所で完全に孤立してしまっている。
「さて、これからどうしようか…」
「この場に留まるのは自殺行為です」
「しかし、だからと言って逃げられるのか。いや、我々だけなら逃げられるだろう…」
「残された人たちがどうなるか…ですね」
「まさか全員そっくりそのまま魔界に連れて行くわけにもいかんよ」
到底不可能な話である。自分達だけならば、容易に帰還出来るだろう。
しかし、それでは余りに薄情ではないか。結局の所感情論ではあるが。
「だからと言って放って置くと、住民が反乱を起こす可能性も捨てきれん」
忘れてならない、傭兵軍はこの地で略奪を行っているのだ。
敵に占領され、従うしかなかった住民などの不満が、一気に爆発する危険もある。
既に敗戦の報は住民達にも伝わっているだろう。
「わしらがどうにか出来る問題では無い、これは」
「…ですね」
実際に略奪を働いたのは傭兵軍である、だから魔王軍は関係ない。などと言う言い訳が通用するハズも無い。
住民から見れば、皆敵なのだ。
更には兵糧や武器弾薬など補給の問題もある。
都市の中に様々な問題を抱えたまま、親魔物連合軍は眠れぬ夜を過ごす事になる。
そして翌日、一向に部屋から出てこないヨハンを心配した者が様子を見に行くと。
机に突っ伏した格好で冷たくなっている彼の姿を発見した。
毒をあおり、自害したようだ。
報せを受けて駆けつけたバフォメット達が目にした物。
傍らに残された走り書きのメモには、残った傭兵軍をすべて、バフォメットに託すと記されている。
更に、教会襲撃についての懺悔が長々と書かれていた、必死に神に許しを乞い、自らの手で地獄に落ちると。
戦場に騎士団が現れた時から、彼はこの事件の事を知っていたのだ。
勝てば、汚名返上の機会もあっただろう、しかし戦いに負けた今、彼に待っていたのは異端審問の席だけだ。
それが、どうしても耐えられなかったのだろう。
「敬虔な信者が自ら命を絶つか」
「こんな事になるなんて…」
「最後の最後で、神に背いてしまったのう…ヨハン殿」
自ら命を絶つと言う事は、教義に背く行為だ。そこまで、追い詰められていた。
バフォメットには信じる神など居ないが、ヨハンの境遇には同情を禁じえない。
「じゃが…貴殿の願い、確かにこのわしが聞き入れた」
遺体を丁重に葬るよう指示を出し、傭兵軍の掌握に乗り出す。
指揮系統が一元化出来たので、動かそうと思えば容易に動かせる。
更に貴重な男手を得た事になる。戦闘面以外でも活躍してくれるだろう。
失ったものを悔やむより、新たに作り出す方がいい。
少しばかり余裕が出てきた、バフォメットの表情も徐々に明るさを取り戻している。
だが、その表情を一気に曇らせる事件が起きた。
部屋で事務処理を行っていた時である。
敵のある将校が、馬車で負傷者を運んできたと連絡が入った。
本来ならば喜ばしい事なのだが…
その負傷者の中に居たある人物の名を聞いた途端、バフォメットが声を荒げた。
「生きていただと!?」
「ハイ…ってどうしたんですか急に」
「今すぐここに連れて来い!早く!」
机に拳を叩き付けながら、バフォメットが叫ぶ。
「わかりました…」
勢いに押されて、テレーズが部屋を飛び出す。
「あの馬鹿者が…!!」
負傷者の多くは、村の攻防戦で行方不明になった者達だ。
それはいい、しかし、どうしても呼び出さねばならない名前がそこにはあった。
魔王軍騎士団副長の名である。
下がる途中でもたつけば、あっと言う間に崩される。
それは、バフォメット自身がよく知っている事でもある。
「押さえを残す余裕は無いのう」
俗に言う殿と言われる後衛の部隊の事だ。
部隊を前進させる時とは違い、部隊を後退させる時に重要なのは士気である。
逃げる、となれば負傷者や戦死者などを後送する事が難しくなる。
一部を置き去りにして逃げる、と言う事は士気に多大な影響を及ぼす。
その為に、一般的に後退作戦は難しいと言われている。
各々自由に後退すれば良いのではないか、と思われるだろうが、
それは崩壊と言われ、秩序を保ち集団で行動する、それが軍隊なのだ。
なので後衛の部隊を任せる指揮官を選ぶ事はとても重要だ。
これには最も優秀な者を充てるのが常識となっている。
殿を任せられる、というのは将にとって最高の評価であると言っても良い。
しかし、バフォメットは悩んでいた。
ただでさえ兵力が少ない、それに加え今までの戦闘での損害を考慮すると。
まともな数を後ろに割ける余裕が無いのだ。
「交互に後退…」
考えていたのは交互後退。
これは、元々遅滞と言う単なる時間稼ぎの為の行動であり、
交互後退も、その遅滞行動の中の一つだ。
部隊を二つに分け、一つずつ定められた陣地に後退しながら敵を防ぐ、と言った戦法である。
しかし、これをやれば撤退と言う当初の目的から完全に逸脱してしまう。
基本的に敵を拘束しつつ下がるので、敵から逃げると言う行動とは根本的に異なる。
更に撤退先が要塞都市なので、二つに分けた部隊の一つを犠牲にしなければ要塞の中に逃げられない。
つまりは却下である。
考えれば考える程、面倒なのだ、撤退戦は。
「お家に帰るまでが戦争なんじゃよ〜」
「妙な事言ってないで働いて下さい」
その様子を目敏く見つけた副官殿が声をかけてきた。
テレーズも、撤退準備に追われている。
バフォメットの周りには、聖騎士団と戦闘を終えた魔王軍騎士団が集まっている。
先程の戦闘での損害は百騎程度に留まった。戦闘可能な者を除けば五十騎程度だ。
流石に精鋭の騎士団は強かった、しかし、そこには肝心の騎士団長が居なかった。
彼女は敵の騎士団長との戦闘で負傷し、後方へ運ばれて行った。
仮に殿の部隊に充てる指揮官は、彼女しか居ないとバフォメットは思っていた。
しかし、それも今では叶わぬ事となった。
「前線の副団長は?」
「あいつは駄目じゃ、あの攻撃的な指揮は撤退に向かん」
騎士団の半数を率いて前線で奮闘中の副団長ではあったが、バフォメットは適任では無いと考える。
「団長が無事だったらのう、その意味では、大損害じゃよ」
個人の武勇に加え、攻守に優れた指揮能力。
その両方を兼ね備えた人物は得がたいものだ。
最も、その団長も一線から退く事を決意したのだが…
話を元に戻そう。
「騎士団は前線に行き副長に合流しろ」
「それじゃあ主を守る者が居なくなりますよ」
「どの道大勢こっちに向かってくる、一時的に丸裸になっても良いんじゃ」
撤退する部隊の指揮も必要なのだ。
なおもテレーズは不満そうではあったが、ここは上司の権限で押し切る。
流石に上司の命であれば、逆らう術は無い。
「副長に無理はするな、と伝えるんじゃぞ」
「やはり心配ですか…?」
「最悪な事態は避けたいもんじゃ」
身を捨てて味方の退路を切り開く、そういう展開こそ一番恐れる事である。
攻撃的な副長に必要なものは自制である。
「無鉄砲な奴じゃからな、本当に…」
「まだ独り身ですしね、彼女」
「ほう、初耳じゃ」
「ご存知ありませんでした?騎士団の売れ残r…」
「テレーズ様、それは!」
騎士団の面々が、テレーズの言葉を遮った。
どうやら騎士団内では禁句であったようだ。
「…マスコットです」
「マスコット?」
「ええ、騎士団のマスコットと呼ばれてますから、彼女」
「売れ残りのマスコットかえ?」
「司令官殿、それは!」
「なんじゃいお前らはさっきから」
よくわからないが、売れ残りと言う言葉は禁句であるようだ。
「その言葉、副長殿の前では決して言ってはなりません!」
「騎士団内の団結が!」
「副団長の嫉妬が!」
「新婚生活の危機が!」
「ううん?」
最後のほうがよくわからなかったが、その真剣さだけは伝わった。
「わかった、わかったから!さっさと行け!」
話を聞いているときりが無い、話を切り上げ騎士団を前線へと向かわせる。
とにかく、副長を自制させなくては。
ちらほらと、前線から戻ってくる者たちの姿が見えた。
負傷兵や、それを運ぶ者達である。
助けられる者は出来るだけ助ける、そう判断したのだろう。
だがそれは撤退戦においては間違った判断だ。
それでも、可能な限りは助けたい。
戦場にうち捨てられた魔物は、まず助からない。
更に親魔物側の人間も、無事では無いだろう。
生き残ったとしても、こちら側へ戻って来る事は二度と無い。
そして前線では、撤退の意向を伝えられた部隊が、徐々に後方へ下がって行く。
敵を正面から受け止めているのは、騎士団を主力とした部隊であった。
「納得出来ん!」
その部隊を指揮し、自らも馬上にて剣を振るう副長ではあるが、撤退命令には不服であった。
撤退命令は出したが、バフォメットは味方の裏切りについては教えなかった。
ただでさえ切り離された戦場で、余計な情報を教えるのは要らぬ動揺を招く事になる。
「目の前を見てみろ!相手を押しているではないか!我々は勝っている!そうだろう?」
副長としては、目の前の戦況が総てなのだ。
しかし、命令には従わなくてはならない。
半ばヤケクソ気味に剣を振り回しながら暴れまわっている。
相手をする敵も気の毒である。
それでも、命令通りに撤退する部隊を護るように、敵に追撃のチャンスを与えては居ない。
大局を見る目はある。あるのだが、その気性故かそれを活かせる事があまり出来ないのだ。
「そう言われても…命令だし」
対照的に、道案内を務めたカラステングは冷静だった。
戦場を見渡せる能力、それを使い副長の補佐を行っている。
的確に、相手の動きを副長に伝える。
それを聞いた副長が、部隊を動かす。
この一連の流れで、数倍の敵と互角に渡り合っていたのだ。
「わかっている!だから…こうやって敵を防いでるんだろう!」
カラステングとて文句を言いたい気持ちもわかる。わかるのだが…
「左から迂回しようとする部隊が居るよ」
「左だ、先回りして敵を防げ!」
副長の命を受けて、部隊の一部が迂回しようとする敵の正面に回りこむ。
正面からの攻勢を諦めたのか、敵は執拗に回り込もうとしている。
その度に、こちらからも部隊を先回りさせ防いでいる。
「これではキリが無い…」
「一時は突破できると思ってたんだけどね…」
段階的に、少しづつ部隊を後方に下げている、ので徐々に敵の圧力が強まってくる。
結局、最後まで前線に留まる事を副長は選択した。
カラステングも、それに習った。
「だいぶ減ったね…」
「ああ…」
今まで休みなく戦い続けている、疲れも相当溜まっているのだろう。
徐々に、騎士団の姿が少なくなって行く。
現在では、既にその数を百騎以下にまで減らしている。
「軟弱な奴らだ」
などと毒づいてはいるが、負傷した部下を見つけると無理をせず後方に下がらせる。
危険な時は自ら傍に寄り助け出すなど、部下想いな行動をカラステングは見ている。
「ツンデレってやつなのかな」
「お前は絶対助けてやらんからな」
全体の八割程度は、既に前線を離れている。
敵も一旦隊列を整える為に、少し後ろに下がっている。
そろそろ、自分達も下がる頃合だろうか。
後方から、残りの騎士団がやってきたのは丁度そんな事を考えていた時だった。
「合流せよと命令されたので、今から副長の指揮下に入ります」
「団長はどうしたんだ」
「負傷されましたので、先に下がられました」
「負傷した…?」
まさか、それは無いだろうと疑ってみたものの、そもそも嘘をつく必要が無い。
どうやら本当のようだ。
ともかく、集まった騎士団を合計しても、その数は三百に満たない。
聞けば後方でも戦闘があり、団長もその際に負傷したのだとか。
「そんな事があったのか」
「危なかったんだね」
相手も教団の騎士団だったようだ。
集まった面々も何かしら手傷を負っている。
「まあ、今それは良い…それより」
「ああ、それと司令官殿からの伝令で、無理はするなと…」
「一緒に来い、突っ込むぞ」
「話聞いてましたか?」
「うむ、聞いた」
「なら…」
「だから突っ込む!」
「聞いて下さい」
「聞いてるとも、だからこそだ」
どちらにせよ、完全に離脱するまで敵を抑えておく必要がある。
つまりは殿、先程バフォメット自身が完全に否定した方法を、副長は行おうとしていた。
「それをやるなって言われてるんですけど…」
「心配ない、現場の判断こそ尊重されるものだ」
「これって…」
「明らかな違反だよねぇ…」
とは言うものの、それを咎める者は居なかった。
皆、ある程度こうなる覚悟はしていたのだ。
どうせ自制させるなど不可能な話である。
ならば共に行動し、可能な限り副長を守ろうと、皆で決めた。
「カラステング」
「何?」
「お前は下がれ」
「…?」
「今までご苦労だった、部外者のお前はもういい」
「もういいって…そんな」
「今必要なのは直接的な戦闘力だ、お前にそれは無い」
「索敵能力はもう必要ないって事?」
「そうだ。必要ない、何度も言わせる気か?」
「足手纏いって言いたいのか?」
「そうだ」
あまりにハッキリとした態度に、それ以上何も言えなくなった。
「そこのお前、こいつを連れて下がれ」
負傷して戦闘行動に耐え切れないであろう者を見つけ、カラステングの事を託した。
「悪いが今回の主役は騎士団だ」
そう言い残し、騎士団を率い敵陣に向けて突撃する。
その後姿を、カラステングはただ見つめるしかなかった。
「私たちも下がろう」
共に下がれ、と言われたデュラハンが話し掛けて来た。
全身に返り血を浴び、鎧には弾痕や切り傷が無数に付いている。
その右腕は、血で真っ赤に染まっていた。
「せめて利き腕が無事なら良かったんだがな…」
もう剣は握れんだろう、と言う呟きが聞こえた。
それを聞いて、カラステングは付いて行く事を諦めた。
自分が残っても、邪魔になるだけだ。
それよりも、この傷ついた者を正確に導く必要がある、そう思った。
「わかった、下がろう。ただし…」
「ただし…何だ?」
「可能な限り、怪我した仲間を助けよう。下がりながら」
足は止めず、下がりながら残された仲間を極力拾って行く。
戦闘で役に立てなくても、それぐらいなら己にも出来る。
何か役に立ちたい。それがカラステングの気持ちだった。
「多くは無理だぞ、それに動きは止められない。それでもいいのか」
「わかってる、それでも…やりたい」
「了解した、可能な限り…だな」
戦場を見渡す。敵の動きを見る為ではなく、残された者を助けるために。
動き出したその時、後ろから喚声が上がった。
「生きて、帰ってきて」
一方、敵の隊列に突っ込んだ騎士団はと言えば。
やはり敵も突撃を掛けるのは想定内だったのだろう。
こちらの攻撃に対しては、ひたすら銃撃で応戦している。
一つ二つと、敵の隊列を突破しているが、
騎士団の攻勢も限界に近い、射撃を浴びる毎に、バタバタと仲間が馬から落ちる。
それでも、騎士団は動きを止めなかった。
敵の隊列を更に一つ突破する、ここで副長は気付いた、余りに突破が容易であった事に。
「囲まれたか!」
今まで突破した敵が、自分達を取り囲むように展開していた。
わざと崩れたように見せかけて、相手を懐深くまで誘引する。
それを囲み、退路を断った上で殲滅する。
逃げ遅れた仲間諸共、容赦なく銃撃を浴びせ掛ける。
その攻撃を受けて、ついに騎士団の動きも止まった。
「仲間を撃つとは…!」
騎士団の中でそれを理解出来る者は居なかった。
しかし、騎士団の一人一人が戦闘単位として成り立つ程である。
仮に仲間を犠牲にしても、可能な限り数を撃ち減らすのは当然の判断だ。
どうしようもない、後にも先にも進むことも出来ず、一点に固まって耐えるしかなかった。
折を見て下がろうとは思っていたのだが、その可能性は完全に潰えた。
自然と、副長を中心にして彼女を護るような陣形になったが、外から容赦なく銃撃が浴びせられる。
「固まるな!動きを止めると的になるぞ!」
副長が叫ぶが、その命令に反して、更に周りを固める。
声が聞こえなかったのか、何度も叫ぶが反応が無い。
この時点で、流石に違和感に気付いた。
「お前ら…まさか!」
自分を守る為に、部下が犠牲になろうとしている。
部下にこのような行動を取らせるなど、騎士団員の名折れである。
「やめろ!私の事はいい!そんなことは!」
ここに至って、副長は戦意を喪失してしまった。
必死で叫ぶのだが、それでも敵は攻撃の手を緩めなかった。
いや、更に激しさを増したのだろうか。
容赦が無かった。
「頼む!やめてくれ!私の首ならくれてやる!だから!」
ついには剣を投げ捨て、兜を脱ぎ、敵の前面に進み出た。
己の命を引き換えに降伏する、そうするしか、仲間の命を助ける術が無かった。
相手は反魔物陣営なのだが、この際関係ない。
錯乱し、生き残る事に必死になっていた。
「撃つな!撃たないでくれ!」
「副長!なにしてるんですか!」
副長のおかしな行動を見て、その前に躍り出た部下が撃たれて崩れ落ちる。
「あっ…」
必死に手を伸ばすが、届かなかった。その手が虚しく空を掴む。
直後、足の付け根辺りに衝撃を受けた。
自分も撃たれたのだ。
「副長!」
体が、ゆっくりと横に傾く。うっかり手綱を掴み忘れていたのに気付いた時には、もう遅かった。
地面にぶつかる衝撃、背中から落ちたので、一瞬呼吸が止まる。
必死にもがき、何とか上体を起こす。
更に自分を守ろうと部下が前に出るが、銃撃を受け倒れていく。
自分の上にも、落ちてきた。
とっさに体を受け止めるが、既に反応は無かった。
また一人、部下が、仲間が死んだ。
「おい…誰か、誰かいないのか!?」
返事は無かった。周囲には馬と人が、折り重なるように倒れている。
ついさっき、カラステングに向けて放った言葉が頭の中をよぎる。
偉そうな事を言っておきながら、この有様だ。
大切な部下を、仲間を無駄に殺してしまった。
彼女たちにも、帰りを待つ人が居た。
自分にはそれが居なかった、だから、こんな無茶な事を…
「ああ…まさか…こんな…」
涙が頬を伝う。自分が泣いているとわかったのには時間が掛かった。
長らく涙など見せた事が無かったのだが、よりにもよって今流れるとは。
泣いては駄目だ、と自分に言い聞かせる。
だが何度拭っても、涙は止まることが無い、それどころかとうとう視界がぼやけて来た。
「すまないッ…私は…私は…」
何度も謝罪の言葉を口にする。聞いている者が居るのかわからないが、必死で謝り続けた。
その願いが通じたのか、急に静かになった。銃声も、喚声も、何も聞こえない。
やっと、攻撃をやめてくれたのか、良かった、これで仲間を救える。
安心したのか、体から力が抜ける、そんな感じがした。
大失態だ、いつも気を抜くなと言われていたのに。
団長に怒られるだろうな、この期に及んで、なぜかそれが一番怖かった。
隊長らしきデュラハンの動きが止まった。
射撃を止めろ、と命令が出た時には、もう誰も立っては居ない。
屍の山、と言う表現が一番適切だろう、足の踏み場も無い程、双方の兵士が倒れている。
時折小さく呻き声が聞こえるが、誰も手を差し伸べようとはしない。
助けられない、と言うよりは、助ける気が無いだけだ。
魔物は勿論、味方だって同じことだ。
この戦場では、負傷したとすればそれは自己責任である。
貴族や指揮官などであれば話は別で、お抱えの従医が治療を施すだろう。
だが一般の兵士達にしてみれば、そんな事をして貰えるだけの余裕は無い。
身分の違いによる扱いの差は、もう慣れた。
などと余計な事を考えながら持っている銃に弾を込める。先込め式なので、時間が掛かる。
最近では、後装式の銃が開発されている、と実しやかな噂が流れている。
そんなものが登場すれば、戦場の有様も劇的に変化するだろう。
しかし噂は噂である。我々が使うこの銃こそが、現在の傭兵軍の主力なのだ。
「しかし…恐ろしい奴らだった」
隣で同じように弾を込める兵士が呟いた。
見知らぬ顔だ、そもそも俺は司令官の顔さえよく知らない。
今回初めて参加した新参なので、それも当たり前の事だろうが。
待遇面で、所属先を選ぶのは傭兵として当然である。
何度か他の傭兵軍に従軍してはみたが、ここの待遇の良さは一番だ。
まず定期的に給与が支払われる、これが大きい。
前に居た傭兵軍は、待遇が最悪だった。
なので、最終的には反乱が起こり、指揮官の首が飛んだ程だった。
不満を抱かせるのが、一番やってはいけない事だと教えられた事件だ。
ここでは反乱なんぞ起こらんだろう、実に快適な所だ。
「生きてるだけ儲けものじゃないか」
「確かに、一時は死んだと思ったな」
敵を包囲する、と言っても、敵と正面からぶつかり合う部隊にとっては災難と言っていい。
なにしろ相手はあの魔王軍の騎士団だ。
迂回攻撃を事前に察知していても、砲兵陣地を守る部隊は崩された。
後方から見ていても、その凄まじさはよくわかる。
なにせ足元まで首が転がって来た程だ。
敵を包囲する時も、最前列で銃を撃ちまくった。
触れるものを皆薙ぎ払うような敵の動きは、今でも脳裏に焼き付いている。
魔物を相手にした事はあるが、流石は敵の精鋭と言った所か。
「あの隊長さん、最後は泣いてたな…」
「魔物のくせに情けない奴だ」
「そう言うな、見た目はかわいいお嬢さんじゃねえか」
「アンタ、ああ言うのが好みなのか?」
「まさか、いくら日照り続きでも魔物はお断りさ」
「ちげぇねえや」
見た目が変わった所で、その本質は変わらない。
教団の教えが全てだとは思えないが、基本的に人とは相容れない存在なのだと俺は思う。
分かり合えない存在は敵だ。だから、魔物も、魔物に媚びる人間も敵だ。
などと偉そうな事を考えてはいるが、所詮俺は一介の歩兵に過ぎない。
ただ銃を構え、敵に向けて引き金を引くだけの存在。
「それにしても、大分減ったな」
「あいつら一人殺るのに、味方が何人減った事か…」
至近距離から銃弾を撃ち込んでも、怯まず立ち向かってくる。
そんな相手が数百人も居ては、こちらの損害も馬鹿にならない。
「小隊長殿はどうした?」
「我らの小隊長殿ならほれ、そこに転がってるのがそうだ」
目の前に、頭をかち割られた死体が横たわっている。
元小隊長だったものだ。
この場では指揮官だろうが貴族だろうが関係ない。
運が良い奴が生き残っているだけだ。
傭兵軍の損害は、現時点で全体の二割程度であった。
砲兵隊と、それを守る部隊に損害が集中している。
部隊を纏め、隊列を整え、次の命令を待つ。
その後行軍命令が出たが、敵を追撃するのでは無いと言われた。
敵の騎士団の骸と、弱弱しく助けを求める味方を捨て置き、進軍が開始された。
ちらっとだが、妙な集団を見た。
頻りに、倒れている者の様子を確認している。
死体漁りでもしているのだろうか、そう不審に思っていると、またも隣の兵士が話し掛けてきた。
「市民軍の奴らだ」
「市民軍?」
「お仲間だよ、あいつらはその所属だろう」
「ふうん…」
味方とわかれば、別にどうでもいい。
あまり興味は無かった、ので今度はこちらから別の話題を振る。
「そういえば、これからどこに行くんだ?」
「ちょうど隊長さん達が話してるのを聞いたんだが、どうも…」
敵の盟主たる国王の弟が率いる亡命軍と合流し、王国へ帰還する。
それが傭兵軍に次に与えられた任務であると言う。
「へぇ、今度は弟さんのお守りか」
「敵の王さんも災難だぜ、即位して早々に国を奪われるんだ」
「ガキに出し抜かれるようじゃ、いずれ滅ぶ運命だったろうよ」
「いやいや、中々の切れ者らしいぜ、弟さんも」
「そうかい」
とにかく、撤退する敵は追わない。
残った敵もセバスティアンの軍と寝返った傭兵軍だけで、十分対処出来る。
味方の兵力は増えるが、相対的に敵の兵力は減り続けている。
ナミュールに逃げ帰った所で、敵中に孤立していずれは飢え死にするだけだ。
「どの道、敵は勝ち目がなかったわけだ…」
仮に敵側の傭兵軍に所属していたら、今頃どうなっていたであろうか。
想像もしたくない。
騎士団が壊滅した、と言う報せを受けたバフォメットは意外にも冷静だった。
ある程度は、この事を予想していたのかもしれない。
「やはり、駄目じゃったか」
「随分冷たい物言いですね」
「どうすればいい?周りに怒り散らそうか、それとも大声で泣き喚こうか?」
「よしてください、貴女らしくもない」
「わしはわしじゃよ、下手にうろたえる方が危険なんじゃ」
集団の秩序ある行動、その為には、司令官たる己が動揺を見せるわけにはいけない。
騒げば混乱の元になる。
粛々と、魔王軍は撤退している。
皆傷つき、疲れ、その表情は一様に暗かった。
それでも、集団として纏まって動いているのは、それを指揮するバフォメットの統率力に他ならない。
「今は省みる必要は無い、一人を助ける為に十人を犠牲にしてはならんのじゃ」
「その台詞、どこかの将軍と同じですね」
「ならその将軍が正しいんじゃよ、そして正しい行動を取らねばらなん」
結局、追撃は来なかった。
騎士団のお陰なのか、それとも始めから敵は追撃するつもりが無かったのか。
真相はわからない、しかし、魔王軍は秩序を保ちながら、ナミュールの城門を潜る事が出来た。
「負傷者の手当てを急げ、動ける者は城門の守備じゃ、逃げてくる味方を向かい入れるぞ!」
辿り着いたとて、安心は出来なかった。
一息つく暇も無く、バフォメットは馬上で指示を飛ばす。
負傷者の手当てと、戻ってくるであろう味方の為に城門を開いたまま、外に出て待機する。
都市の守備隊も合流し、幾分かはマシになった。
それでも、受けた傷は深い。
「今のうちに損害を纏めてくれ、部隊の再編成が急務じゃ」
「わかりました、でも司令官の貴女も休んでください」
朝から馬上で指揮を取り続けたバフォメット。
疲れているだろうと休憩を勧めたテレーズであるが、バフォメットは首を横に振る。
「わしはいい、それよりお前も休めテレーズ。わしは首から上が残っておればいいのじゃ」
「貴女が一番働いてるじゃないですか」
「普通は、上の者が一番働くもんじゃよ」
と言うものの、確か体に残った力は少ない。
そろそろ精を補充すべきなのか、しかし悠長に男と一戦交える暇など無い。
そもそも、そんな相手が居るハズも無いのだが。
「終わったら休む…終わったらな」
そう自分に言い聞かせ、部隊に指示を出す。
最早テレーズの言葉は耳に届いていなかった。
最初は一人二人と、戻ってきたのだが、今で纏まった集団がこちらに向かって来る。
偵察隊からの連絡…この偵察隊のハーピー達も、朝から今まで飛びっぱなしである。
影の功労者とも言っていい。
その偵察隊からもたらされた情報で、バフォメットは味方の壊走を知る事になる。
「国王陛下が、討ち死になさいました…」
「盟主の首を取られたか」
上空から見た光景を説明された。
最後まで馬上で自らも剣を振るい奮戦していた王も、圧倒的な兵力差の前についに倒れた。
味方は四散し、こちらに向かって来る者も段々と増えてきた。
その殆どが傭兵軍と、王国軍の兵士達であり、諸侯の軍勢の姿は無かった。
負けを悟ると、早々に軍を纏め自領に引き返した、諸侯とはそういうものだ。
「ヨハン殿、ご無事じゃったか」
「バフォメット殿…」
纏まった集団の中に総司令官たるヨハンの姿を認め、バフォメットが馬を近づけた。
「申し訳ない…本当に申し訳ない」
「貴殿が謝る必要は無いと思うが」
「いや、これは私の責任だ…本当に申し訳ない」
部下が裏切ると言う事態を招いてしまった事。
さらにそれが原因で戦いに負け、盟主の首が取られた。
「憎むべきはマンスフェルトじゃよ、ヨハン殿」
「……」
そんな言葉で慰められるとは思っていない。
ふと気付く、ヨハンの顔は以前のように覇気に満ち溢れたものでは無かった。
年老いた男の顔、心が折れてしまったような表情だ。
「お互い、してやられましたな」
「今回ばかりは、完敗だ」
空を見上げる、雲ひとつ無い空、太陽が丁度真上にあった。
意外に早く決着がついたのか、とバフォメットは驚く。
「日が明るい…」
「まだ昼過ぎですな」
「日が沈むまで、出来るだけ多くの仲間を助けたい」
「部隊をお貸ししよう、使って下され」
「ありがたい」
流石にヨハンが戻ってくると、傭兵軍もある程度の数を回復出来た。
それでも、半数が裏切り、戦闘で失った分を考慮すると、とても敵と正面から戦える数ではない。
その後、夕暮れ時になって戻ってきたカラステングと、負傷者の一団を収容し終えて城門は閉じられた。
騎士団が壊滅したと知らされると、カラステングは地面に崩れ落ち、子供のように泣き叫んだ。
その様子を、皆遠巻きに見つめるしかなかった。
だが、それでもかなりの数の味方を率いて帰って来た事で、バフォメットからの信頼を得た事は確かだ。
不思議なことに、最後まで敵は姿を現さなかった。
攻城戦が始まると身構えていたのだが、肩透かしだった。
夜になり、最小限の兵を守備に残し、皆体を休める。
バフォメットも、城塞の一室を臨時に執務室とし、そこで事後処理に追われていた。
「損害報告、纏まりました」
テレーズが報告に来た。
思えば彼女も朝から働きっ放しである。
夫の安否もわからない状況で、よくバフォメットを補佐していた。
「うむ」
魔王軍の損害、参加した時には総勢五千を誇ったのだが、今では見る影も無い。
戦死、行方不明を併せて千八百を数えた。
負傷者も二千を超える勢いだと言う。
「軽傷な者を含め戦列復帰可能な数は、二千が精々です」
「六割も損害が…」
戦死者と行方不明者の具体的な数はわからない。
まだ生きている者も居るだろうが、今の数が劇的に増えると言う事は、最早ありえない。
「騎士団は壊滅か」
「負傷者を入れても百騎程です」
「虎の子の部隊をこうも磨り減らすとは…つくづく愚か者じゃ、わしは」
「こればかりは誰のせいとも言えません」
「団長には知らせたのか?」
「いいえ、でも勘付いていると思いますよ、ベッドの上で泣いてましたから、彼女」
「そうか…」
副長の命令違反が原因と言えるだろう。
しかし、騎士団投入のタイミングが適切であったか。
そもそも、あの場面で、あの数で、運用する事が間違っていたのではないか。
果たして自分には将としての才能があるのだろうか、と言う事まで悩み始めた。
悩んで答えが出る事は無いだろう、出るとすれば、それを出すのは後世の歴史家達だ。
騎士団は壊滅したが、消滅したわけではない。
再建には、時間が掛かるだろう。
だが、何としても再建しなくてはならない、その為にも、団長の力はまだ必要だ。
「他はどうだ?」
「傭兵軍は五千程、逃げ帰った王国軍の残りが三千、逃げ遅れた諸侯の部隊などを合計しても一万に満たないと思います」
「つまり、現状では一万程しか戻って来なかったと言う事じゃな」
「負傷者もかなりの数です、とても戦える状態では…」
「わかっておる、それは良くわかっておる…」
出発前は総勢六万を数えた親魔物連合軍も、現在では一万数千程に減っていた。
さらに裏切りが起き、盟主の首を取られる有様。
完敗、と言って良い。
「ところで、敵はどこに消えたんじゃ?われ等を包囲せずに帰ったのか?」
野戦で勝利し帰還する、とは考えられない。
何しろまだ領内に敵が残っているのだ、それを放置していくはずが無い。
「その事でも、報告があります」
「ほう」
「先程、王国に大規模な軍勢が侵入した、と報告がありました」
「確かか?」
「国境付近に配置した仲間からの証言です、間違いありません」
「その報告が今あがってくるとすれば、恐らく…」
「今頃、首都も攻略されているはずです」
今回の戦いに、国王はほぼ全軍を率いて参加していた。
国の守りについている兵力は皆無と言って良い。
「新しい王の誕生か、随分血生臭い戴冠式じゃったな」
「最初からこれが狙いだったんでしょうか…」
「どうやら戦略的にも完全に負けておったようじゃ、フフフ…」
自嘲するしかない。
ナミュールはあくまで敵国境付近の都市である。
その後方の、王国が落ちたのだ。
親魔物側の軍勢は今この場所で完全に孤立してしまっている。
「さて、これからどうしようか…」
「この場に留まるのは自殺行為です」
「しかし、だからと言って逃げられるのか。いや、我々だけなら逃げられるだろう…」
「残された人たちがどうなるか…ですね」
「まさか全員そっくりそのまま魔界に連れて行くわけにもいかんよ」
到底不可能な話である。自分達だけならば、容易に帰還出来るだろう。
しかし、それでは余りに薄情ではないか。結局の所感情論ではあるが。
「だからと言って放って置くと、住民が反乱を起こす可能性も捨てきれん」
忘れてならない、傭兵軍はこの地で略奪を行っているのだ。
敵に占領され、従うしかなかった住民などの不満が、一気に爆発する危険もある。
既に敗戦の報は住民達にも伝わっているだろう。
「わしらがどうにか出来る問題では無い、これは」
「…ですね」
実際に略奪を働いたのは傭兵軍である、だから魔王軍は関係ない。などと言う言い訳が通用するハズも無い。
住民から見れば、皆敵なのだ。
更には兵糧や武器弾薬など補給の問題もある。
都市の中に様々な問題を抱えたまま、親魔物連合軍は眠れぬ夜を過ごす事になる。
そして翌日、一向に部屋から出てこないヨハンを心配した者が様子を見に行くと。
机に突っ伏した格好で冷たくなっている彼の姿を発見した。
毒をあおり、自害したようだ。
報せを受けて駆けつけたバフォメット達が目にした物。
傍らに残された走り書きのメモには、残った傭兵軍をすべて、バフォメットに託すと記されている。
更に、教会襲撃についての懺悔が長々と書かれていた、必死に神に許しを乞い、自らの手で地獄に落ちると。
戦場に騎士団が現れた時から、彼はこの事件の事を知っていたのだ。
勝てば、汚名返上の機会もあっただろう、しかし戦いに負けた今、彼に待っていたのは異端審問の席だけだ。
それが、どうしても耐えられなかったのだろう。
「敬虔な信者が自ら命を絶つか」
「こんな事になるなんて…」
「最後の最後で、神に背いてしまったのう…ヨハン殿」
自ら命を絶つと言う事は、教義に背く行為だ。そこまで、追い詰められていた。
バフォメットには信じる神など居ないが、ヨハンの境遇には同情を禁じえない。
「じゃが…貴殿の願い、確かにこのわしが聞き入れた」
遺体を丁重に葬るよう指示を出し、傭兵軍の掌握に乗り出す。
指揮系統が一元化出来たので、動かそうと思えば容易に動かせる。
更に貴重な男手を得た事になる。戦闘面以外でも活躍してくれるだろう。
失ったものを悔やむより、新たに作り出す方がいい。
少しばかり余裕が出てきた、バフォメットの表情も徐々に明るさを取り戻している。
だが、その表情を一気に曇らせる事件が起きた。
部屋で事務処理を行っていた時である。
敵のある将校が、馬車で負傷者を運んできたと連絡が入った。
本来ならば喜ばしい事なのだが…
その負傷者の中に居たある人物の名を聞いた途端、バフォメットが声を荒げた。
「生きていただと!?」
「ハイ…ってどうしたんですか急に」
「今すぐここに連れて来い!早く!」
机に拳を叩き付けながら、バフォメットが叫ぶ。
「わかりました…」
勢いに押されて、テレーズが部屋を飛び出す。
「あの馬鹿者が…!!」
負傷者の多くは、村の攻防戦で行方不明になった者達だ。
それはいい、しかし、どうしても呼び出さねばならない名前がそこにはあった。
魔王軍騎士団副長の名である。
10/11/11 18:34更新 / 白出汁
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