読切小説
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Fighting spirit
 俺は今、渓谷に掛かるつり橋のど真ん中に立っていた。空は青く、周囲に雄大な景色が広がり、澄んだ空気が頬をなでる。

 だが、俺の心は靄がかかったようであった。いや、どす黒い感情に支配され、見事な景色とは対照的にぐちゃぐちゃに乱れていた。

 そう、俺はただ観光に来たのではない。見事な景色に囲まれたこの場所で、誰に見られることなく土に還ろうとしていたのだ。




 俺が勤めていた会社は、今流行のブラック企業という訳では無かったと思う。ただ、残業時間は60や70は当たり前。最高で80時間を余裕で突破した月もある。しかも、残業代が出るのは、ごく一部。半分以上、というか殆どはサービス残業だ。だが、それはまあ良い。今時残業80時間なんて普通だろう。世間には残業が100時間を越える人も多く居るのだ。それに、残業代が全く出ないという話もよく聞くし、ほんの少しでも出るだけあり難い。

 だが、職場環境が酷かった。教育制度が整っておらず、先輩社員が交代で教えるものの、言う事はバラバラ。人によってアレを言わなかったり、逆にコレを言わなかったり、酷い時は言う事も真逆だったりするので、迷いに迷いまくった。その状態で未経験のまま実務に放り出されるのだから、当然ミスが出る。しかし、ミスに理由は要らない。出来が悪いと見なされれば厄介者扱いされ、後は陰湿な虐めが待っているだけである。研修期間が明けないうちに、俺は見切りを付けられ、陰湿な虐めが始まった。

 こんな事があった。その会社は一応は福利厚生もあり、年2回の賞与もあった。だが、冬の賞与では、俺は計○万ぐらいだった。賞与が低い理由として、遅刻があった事が主な理由だった。一度とはいえ、時間を守れないようでは社会人失格。そう言われては、返す言葉も無い。ミスも多いのだから、貰えるだけあり難い、と思っていた。

 ただ、プライベートで同期と賞与の話題になった時、その同期は倍以上貰っていて、俺の額に驚いていた。その同期曰く、『俺なんか二回遅刻してるぞ』と。それからだろうか、俺がはっきりと職場で干されているのに気付いたのは。一応は上司の言う事を聞いているのに、何故こんな事になるのか。反抗的な態度をとった覚えも無い。やはりミスが多いのが原因か。その評価を覆そうと、俺は馬鹿なりに必死で仕事に取り組んだ。

 しかし、入社からわずか九ヶ月で状況が変わった。突然の部署異動で、俺は別の部署に飛ばされた。半年以上かかって仕事に慣れてきて、やっと目立ったミスが減って怒られる事もなくなったタイミングだった。

 新しい部署では、日常的に体罰があった。その標的は、当然俺。事あるごとに俺は新しい上司から殴る蹴るの暴行を受けた。灰皿が顔に飛んできたこともあった。親に相談しても『それが会社の方針なら、従うしか無いだろう。それに、殴られるのはお前にも原因があるのだろう。そんな事でいちいち連絡するな』と言われただけだった。誰かに相談しようにも、組合も無ければ相談窓口も無い。

 後で知ったが、そこはいわゆる追い出し部屋的な場所であり、今までそこに飛ばされた若手は全員が辞めていたという事実を。それでも俺は必死でしがみ付いた。当然、仕事で手を抜いたことは一度も無い。仕事中に一息つくことも無かったと思う。寮に入っていたので、勤務時間どころかプライベートも束縛されていた。夜寝てる間も、仕事の夢を見る程だった。俺に自由な時間は無い。しかし、この就職難のご時勢に職を離れれば、今後の生活もままならない。俺は生きるために必死だった。

 それに、嫌なことばかりでもなかった。僅かながら気にかけてくれる人も居た。その人はパートの女性で年は少し離れていたが、暴力に満ちた生活の中でその人の温かさに触れ、俺はだんだんその人に惹かれていくのを感じた。だが、結果的にこれが俺を追い詰めたのだった。その人を信用して悩みや愚痴を零したところ、それが全て上司に筒抜けであった。その為、上司の嫌がらせはエスカレートしていった。これも後で知ったが、その人は上司と不倫関係にあった愛人だったのだ。

 俺はもう、抵抗する気力も失っていた。もう誰も信じられない。俺には、職場の人間全員が悪魔に見えた。ずっと自殺する事だけを考えていた。その事に気づいた時、限界を感じたのだ。このままでは死んでしまうと思ったのだ。結局、一年ちょっとで俺は退職する事を決意した。

 俺が退職すると決まったときの、先輩社員のニヤニヤした顔は、今でも忘れられない。俺なりに必死でやってきたのだが、所詮その程度の扱いだったんだなと思った。こんな奴らに屈した自分自身が腹立たしい一方で、これでようやくひと息つけるとも思った。

 だが、俺には帰る場所は無かった。実家に退職を知らせれば、勘当されたのだ。実際に、実家に残していた荷物も全て送られてきた。俺が実家に寄生して金をたかるとでも思ったのだろうか。俺がまだ何も言わないうちから、『家にはお前を養う金は無い。一人で何とかしろ』とまで言われた。

 神に誓って言うが、俺は実家に戻ろうとは、ましてや寄生なんて全く考えていなかった。ただ、あくまで報告のつもりだったのだ。言われなくても自分一人でやっていくつもりだったのだが……。頭にきた俺も、絶縁宣言。そのまま天涯孤独になった。

 しかし、生きていこうにも、再就職は難しかった。就職難の時代に、一年ちょっとで退職した人間を、誰が雇うというのか。生きる気力を失った俺は、死を決意していた。もう、どこにも自分の居場所は無い。ならば、この世から消えるのみ。

 そこで思い出したのが、かつて遠足で来た事のある綺麗な渓谷だった。死ぬなら、そこで死にたい。俺は遠くはるばるその渓谷までたどり着き、そして今、そのつり橋のど真ん中に立っている。あとは、思い切って真っ逆さまに飛び込むだけである。

 だが、いざとなると手足が固まって動けない。そんな自分に、叱咤激励する。死ぬのが怖い。死ぬのは嫌だ。だが、生きていて何になるのか。生にしがみついたところで、もう居場所はどこにも無いのだ。

 最後の気力を振り絞って、俺は虚空に躍り出た。周囲の景色が鮮明に映り、それがゆっくりと流れていく。だが、確実に猛スピードで死に近づいていた。俺は目から涙を零しながら、大声で叫んだ。痛いのは一瞬だけ。それさえ乗り越えれば、後は虚無のみ。

「あ゛あ゛あ゛アアアアァァァァーーーッ!!!」

 だんだん地面の岩場が近づいていく。あそこまで行けば、確実に頭は柘榴のように割れてひしゃげるだろう。俺は近づいてくる死への渇望と恐怖にない交ぜになりながら、目を閉じてその瞬間を待った。

 しかし、待っていた衝撃は、いつまでも来なかった。それどころか、途中で誰かに腕を掴まれ、空中でぶら下げられてるような感覚があった。

 何が起きたのかと思い、俺は目をゆっくりと開ける。涙で視界が歪んでいたが、どうやら俺は地面に激突する寸前で何かに止められていたようである。

「ま、間に合って良かったぁ……ったく、命を粗末にするんじゃないわよっ!」

 俺の自殺を止めた奴は、どう見ても人間ではなかった。腕が漆黒の翼になっており、俺の腕を掴んでいるソイツの足は、膝から下が鳥の足そのものであった。




 近年、異世界との扉が開いて多くの魔物がやって来たというニュースは聞いていた。おそらく、今俺の腕を掴んでいる彼女もその一つなのだろう。

 魔物の特徴として、性別が雌しか居ないという事があげられる。だから彼女らは、人間の男を伴侶に選ぶ事が多い。というか人間の男としか結婚しない。そして、その間に生まれてくる子は必ず魔物娘になるという。

 そのような魔物娘の性質からか、元居た世界では人間の男が減り、その為に魔物娘の存続も危うくなったという。異世界との扉が開いたのも、そのあたりに原因がありそうだ。

 だが、俺にはそんな事情は関係ないと思っていたから、気にもしていなかった。魔物娘が増えたといっても、普段の生活では馴染みが無かったし、どうせモテないのだからと悲観していた。そして何より、自分には幸せになる権利すら無いと思っていたのだから。

 あまりに酷い環境だったとはいえ、それに屈した自分自身が嫌いだった。世間を見渡せば、もっと酷い環境に居る人はたくさんいる。そんな中、虐め程度に屈してしまった自分が腹立たしかった。あの程度に負けるなんて、メンタルがあまりにも弱すぎる。お前は見放されて当然だ、と自分自身を責めた。

 自分自身を好きになれないのだから、他者との恋愛なんて不可能である。そもそも、それ以前に生活もままならないのに恋愛なんかしている余裕も無い。このような事情から、俺は完全に恋愛を諦めていたのだ。当然、結婚も諦めていた。

 こんな自分なのだ。死んで当然だという意識があった。だから、すんでのところで魔物娘に助けられたという状況が、俺には理解出来なかった。




 あれから俺は彼女の巣に連れて行かれ、そこで世話になっていた。そこは渓谷に近い森であり、彼女ら魔物娘の集落ともいうべき場所である。

『……死んでもいい奴なんか、居ないんだよ』

 あの時、ボウッとしていた俺に、そう怒鳴っていた彼女。そしてそのまま、彼女は俺を漆黒の翼で包み込んだ。口調は乱暴だが、彼女の身体は温かかった。魔物って、こんなに温かいんだ、と俺は意外な気持ちになった。人はあれほど他人に対して残酷になれるのだから、魔物はどれほど極悪非道なのかと勝手に認識していたのを、改める気になった。

 とはいえ、甲斐甲斐しく俺の世話をする彼女に対して、俺は未だに心を開けないでいる。ずっと、酷い環境に居たせいか、他人が容易に信じられないのだ。そんな俺でも彼女は怒らず、何も聞かずに接してくれた。彼女が怒ったのを見たのは、つり橋から飛び降りたあの時だけ。それ以降は、ずっと優しく包み込むように接してくれている。

 彼女だけではない。彼女と同じ魔物である他の連中も皆、俺に良くしてくれた。彼女らはブラックハーピーとかいう魔物だが、これらは皆、仲間を非常に大切にする種族である。もちろん同族だけでなく、家族となった男も同じように扱う。だから俺も、俺を救った彼女だけでなく、他のブラックハーピーにも温かく迎えられたのである。

 当初は彼女らを信じられず、ずっと心を閉ざしていた俺も、ようやく打ち解け始めた。彼女らとも、少しは会話するようになったのである。すると、『自分なんか』と思う一方で、だんだんこの生活を良いと思い始めた俺。俺は率先して集落の為に動き、自分なりに出来る事はやった。

 要するに、俺は恐れていたのだ。自分をゴミと言いながらも、周囲から虐められて居場所を失くすのが怖かったのだ。社会では気が利かないと言われ続け、いざ動いても裏目に出る事も多く、周囲から疎まれ続けた。だから、今までお礼なんて言われた事も無かった。虐められたくなくて、俺は必死で動いた。台風で崩れかけた巣の修復を手伝い、その巣の住人にお礼を言われた時は、物陰に隠れて密かに泣いたものだ。お礼を言われるのがこれほど嬉しいものだとは、思いもしなかったのだ。彼女らの温かさに触れ、少しずつ俺は回復していった。




 だが、結婚となると話は別だった。いくら魔物娘が人間の男が大好きとはいえ、俺自身に魅力が無いのは自分が一番よく知っている。だから俺は、どんなに誘われても、自分を律し続けていた。自分など、結婚する価値も無い。自分など、社会のゴミ。こんな奴の遺伝子を残すぐらいなら、自分で絶やす方が良い。そう言い聞かせ、彼女の誘惑をはね続けていた。

 色々と言い訳をしたが、要は自分自身が家族を持つ事に怯えていたのだ。他人に傷つけられ裏切られた事が、そして何より家族と絶縁した経験が俺を蝕んでいた。家族とは言え所詮は他人。いざとなれば簡単に壊れる。その事実を目の当たりにして、結婚に負のイメージしか無かった。

 それでも、時々心を締め付けられるような感覚を覚える。ブラックハーピーの集落には、俺以外にも連れてこられた男が居るのだが、皆が彼女らと夫婦になり、子供まで儲けている者も居た。その様子を見ていると、自身の心に寂寥感が増していく。時々、それを押さえつけるのに苦労する事もあった。

 こんな状況なのに、俺は未だに何があったのかを決して言わなかった。俺自身が、プレッシャーに負けた自分を責めているのだ。どうせ他人が俺の状況を聞けば俺を非難し、悪く言うだろう。だから、何があったのかは言えない。ましてや、感情を口に出せば、また追い出される。

 起きているうちは、自分自身を押さえつけるのは可能であった。自身は社会のゴミ、結婚する価値の無い奴だと言い聞かせ、この状況が当たり前、むしろ当然なんだと思い込むようした。だが、夜になればそうもいかなかった。辛かった時の情景が、夢にまで出てきてしまうのだ。

 そして運命の日、この日も俺は悪夢にうなされていた。




 目の前に浮かぶ情景。俺は内心で『あの時の……』とすぐに思い至った。会社生活で以前経験したのと全く同じ状況が、目の前に再現されている。

 そっちじゃない! それをやっちゃ駄目だ! すぐに俺はそう思う。だが、意識はともかく、自分の身体は意図とは全く違う事を行っている。分かっているのに、ミスを防げない。

 それが自分自身のミスならともかく、他人のミスも引っかぶるハメになる事も多かった。責任の所在が曖昧になれば、『どうせお前だろう』と俺が責められる。管理職でもないのに、何故俺が他人の事も管理しなければならないのか。まだ部署異動して一月も経ってねえだろうがっ! 俺の居ない所でのミスなんか知るか! だが、それが出来なければ『気が利かない』と揶揄される。

 あっちもこっちも出来るかっ! 何度そう叫びたかったか。だが、自分勝手な行動は出来ない。俺自身の性格が、それを許さない。もっと自分がしっかりしなければ。そうやって自分を追い込んで、どんどんドツボに嵌っていく。

 周囲に気を配るあまり、自分の業務がおろそかになる。当然、ミスも出る。そうなれば、また殴られ蹴られの生活である。他の奴なら許されるようなミスでも、俺の場合は絶対に許されない。『……またアイツか』と、何度呆れられ笑われたか。『アイツなんか要らないだろ』と聞こえるように言われた事もあった。

 一つ一つメモをとっても、量が膨大すぎて纏めきれない。だから以前と同じようなミスをしてしまい、『前にもやっただろうが!』と殴られる。いや、同じミスならまだ良い。新しい業務でやったこと無いミスでも、『何回も同じ事を……』と殴る蹴るされる。

 目の前に映るのは、全て前に経験した事ばかりであった。『止めろ! そっちじゃないっ!』と自分に叫んでも、身体はどんどん破滅に向かっていく。誰か助けてくれ! この状況を、何とかしてくれっ! 何度心の中でそう叫んだか、もう数え切れない。

 そして遂に、あの言葉。

『お前なんかより、バイト二人雇ったほうがマシじゃ!』

 この一言で、俺の心は完全に折れた。実際に、バイト二人と若手一人のどっちが得かを本気で計算した。金額だけ見れば、若手一人の方が安上がりである。それでもバイト二人の方がマシと言ったのは、俺の存在が邪魔なのだろう。

 もう、この会社に居られない。俺はここには居るべきではない。居てはいけないのだと思った。実際は、殴る蹴るの恨みよりも、自分の存在が否定された事の方が悲しかった。

 何度も何度も、走馬灯のように繰り返される情景。全て投げ捨て、ぶち壊したかった。泣き叫んで、ありとあらゆる物を、全部壊した。


 自分自身の声で目が覚める。涙でぼやけてよく見えないが、視界が開けてくると、目の前には心配そうに俺を覗き込む、魔物娘。以前、飛び降り自殺をしようとした俺を助けた、あの女だ。始めは頭がぼやけていたが、だんだん意識が覚醒してくると、俺は真っ青になった。

 ヤバイ、聞かれた! 俺はそう思った。今まで押し込めていた感情を、はっきりと口に出してしまったようである。弱みを見せれば潰される。そのことしか、頭に無かった。

 もう、ここにも居られない。だが、目の前の魔物娘は俺を解放してくれない。彼女は、漆黒の翼で俺を優しく包み込む。

「大丈夫。大丈夫だから……」

 ギュッと包んでくれる、優しい温もり。早く姿を消さねば、と思うものの、身体が動かない。この温かさに包まれたくて、身体が動かないのだ。

 もう、堪え切れなかった。俺はぼろぼろと涙を流しながら、彼女のなすがままに抱かれていた。




 俺の話を聞いた彼女は、烈火のごとく怒った。

「――そんなの、許せませんっ!」

 彼女の様子を見て、俺は呆然とした。彼女が一言も俺を責めず、俺の居た職場に対して怒りを表したのだ。そんな会社、辞めて正解だ、と。

 今まで、そんな事を言う人は居なかった。ハロワでも、辞めた俺が弱いのだと責められたのだ。そんな状況、他にいくらでもある。我慢できない己が、淘汰されて当然だ、と。俺も内心ではそう思っていたからこそ、彼女の怒った姿に唖然とした。悲しい事に、職場でのあの女性(ひと)のように、上げるだけ上げて突き落とすのではないか、とまで疑ってしまう。

 だが、彼女の怒りはどうやら本物であった。ひとしきり憤慨して罵った彼女は、俺を押し倒す。

「誰も要らないなら、私が貴方を貰っちゃいますっ!」
「ちょっと待て。貰うって……」
「もう決めましたから。貴方は、誰にも渡しませんっ!」

 問答無用で服を剥ぎ取られ、のしかかってくる彼女。その細身の身体からは考えられないような力で押さえつけられ、そのままなす術も無く犯される俺。

 悲しい事に、彼女と触れ合っている内に、俺の逸物はどんどん大きくなっていく。彼女は騎乗位で俺に跨り、逸物を秘所に宛がうと腰を沈めていく。

「んっ、はぁっ……貴方のが、入ってくるっ……」

 はぁはぁっと息を荒げながら腰を沈めていく彼女。途中、何かにつっかえるような感覚を感じる。だが、彼女はお構いにしにぐいぐい腰を沈め、強引に最奥まで逸物を迎え入れてしまった。

「んあぁぁぁっ! ぜ、全部入ったぁ……」

 少し苦しそうに荒い息をつく彼女。結合部からは若干血が滲んでいるのが、俺にも見えた。

「お、お前っ、まさか初めて……」

 なぜそこまでして俺と繋がろうとするのか。こんな社会のゴミ同然のクズに、そこまでする理由など無い筈。

「あ、貴方は決して、ゴミじゃないです。だって……だって、あんなに頑張ったじゃないですか……」

 慈愛に満ちた表情で、俺に微笑みかける彼女。ふんっと鼻で笑おうとした俺だったが、出てきたのは嗚咽の声。ずっと、言われたかった言葉。誰かに認めてもらいたかった。必死に隠してきた感情が、もう抑えられなくなっていた。

 自分を偽り続けるのは、もう不可能である。恥も外聞も無く、俺は大声をあげて泣いた。そんな俺に呆れる様子も見せず、彼女は俺に覆いかぶさって優しく包んでくれた。

 ひとしきり泣いた後、新たな感情が俺の中に芽生える。彼女の柔肌に触れ続け、だんだん彼女に絆されていったのだ。

「う、動いても良い?」
「うん、いいよ。いっぱい動いて、愛し合お?」

 こんな俺なのだ。当然、童貞に決まっている。彼女の抱き方も知らないような男だ。それでも、俺は彼女とひとつになりたかった。彼女に対して何か報いたかった。だから俺は、慣れない動きで懸命に腰を突き上げ、彼女を責め始めた。

 彼女も、懸命に腰を揺り動かし、俺の動きに合わそうとしてくれている。最初はたどたどしかった動きも、徐々に息が合った動きになっていく。

「あんっ! はぁっ……あっ、あんっ! やんっ! すごいっ……気持ち、イイよっ!」

 そう言って、彼女は翼でギュッと俺を抱きしめる。彼女の柔肌が俺の身体に押し付けられ、その柔らかく吸い付くような肌の感触が、俺を溶かしていく。

「俺も、すごく気持ち良いっ」

 俺は彼女をしっかりと抱きしめ返し、腰を弾ませて彼女を突きまくる。逸物が最奥を抉るたび、卑猥な水音が辺りに響く。

「ああっ! ああんっ! あんっ、あんっ、あんっ……あはぁっ! ああーっ! ああアァァァァーーーッ!」

 彼女が大きく喘ぎ、ビクンッと身体を震わせる。そしてはぁはぁっと息を荒げながらも俺の顔をひたと見つめ、顔を近づけてくる。唇が重なり、彼女の舌が差し込まれてくる。当然、俺も応じる。舌を絡め、唾液を交換し、お互いの唇を貪る。

「んっ、んふっ……んぅっ、んっ! んはっ……あっ、あふぅっ! ん、んちゅっ! んちゅっ……」

 唇を貪りながら、腰も動かしてお互いに快感を高めていく。さっきまで童貞だった俺に、耐えられる訳が無い。

 情けないと思いながらも、もう限界だった。俺は彼女を強く抱きしめて最奥に逸物を押し付け、盛大に射精した。

「んんっ! んふぅぅっ……んんーーーっ!」

 そして彼女も喉奥で咽びながら全てを受け止め、身体をガクガクと震わせた。




 それから時は流れ、俺にも新しい家族が出来た。あれから俺は、自分を受け入れてくれた女性と結ばれ、家庭を持った。

 生まれてきた子どもは、妻に似ていた。つぶらな瞳や艶やかな唇が妻に似ており、俺は内心で(俺に似なくて良かった)と思った。

 それでも、自分の子であることには変わりは無い。その子は俺にも懐き、片言ながら「パパ……」と言ってくれる。

 充分、幸せだった。夢ならば、このまま覚めないで欲しかった。愛する者を手に入れ、可愛い娘まで授かった。以前なら、考えられないような幸せなひと時である。

 だが、この甘い時間に浸っている内に、俺は今の状況に疑問を持ち始めたのも事実であった。いや、決して妻や子が飽きた訳でも、ましてや嫌いになった訳でも無い。こんな自分を受け入れてくれたのだ。家族に不満などある筈が無い。むしろ、逆である。

 愛する者が出来たからこそ、俺はこのままで良いのかと自問自答してしまったのだ。一度は逃げてしまった人生。だが、このまま負け犬で終わるのは嫌だった。愛する者と一緒に過ごすうち、俺の心に再び闘志が宿ったのだ。

 もう一度だけ社会に戻る事を妻に話したのは、出遭ってから二年が経った頃であった。

 当然、妻は最初は反対した。出逢った時、あれほど衰弱して命を削っていたような状況を見ていたのだから、反対するのは当然である。何故自ら苦しい地獄に飛び込むようなまねをするのか、妻には理解不能だっただろう。

 だが俺は、あの時とは違うと断言できた。あの時は、誰も味方が居らずに四面楚歌の状況であった。裏切られ、見捨てられ、ずっと一人だった。今は、妻や子が居る。何があっても、やっていけると思った。

 妻子の存在が、自分を奮い立たせる。彼女らが居るからこそ、俺は再び社会に出る気になったのだ。彼女らを見ていたら、甘えたままの自分では嫌だった。彼女らにとって、誇れる夫であり、父親でありたいと強く願ったのだ。父親が逃げてばかりでは、子どもに申し訳ないだろう。

 俺の目に宿る魂の篭った目つきを見て、妻は最終的には折れた。彼女にとって、俺が強い意志を示したのは初めてだろう。だから彼女は俺の言い分を認める気になったのだ。だが、今度は自分もついていくと言って聞かなかった。

「貴方が疲れたら、私が止まり木になるから」
「ああ。ありがと」

 彼女らが居る限り、俺は再び立ち上がれる。そろそろ、心も大人になっていかなければ、と俺は強く思った。
16/01/30 13:29更新 / 香炉 夢幻

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