深き海（あい)に抱かれて眠れ
漆黒の海に飛び込んで、やっと。
私は自由を取り戻した。
いや、生まれてから、これまで。
私には自由など無かったのかもしれない。
貴族の家に生まれ、優しくも厳格な両親の元で過ごした穏やかな日々も。
突然の結婚で、人質同然にあの男の元へ嫁いだ後も。
私は"私"という役割を演じていただけで。
本当の意味で生きていなかったのかもしれない。
身体と共に、心も水底へと沈んでいく。
その奇妙にゆっくりと流れる時間の中で私はそんな想いを抱く。
次々と息が泡となって、私の口から海へと散っていく。
苦しい。
当たり前だ。
私は只の人間。水の中で息ができる筈もない。
しかし私は、自分でも驚く程に穏やかな気持ちだった。
きっと今。
ちっぽけな満足感が私の心を満たしているからだろう。
初めて自分で決め、成し遂げた事。
それはささやかな復讐。
あの男の元から逃げ出すという。小さな抵抗。
おそらく、私を失ってもあの男は少しも悲しまないだろう。
毎夜、繰り返された悪夢のような出来事。
寝室を照らすランタンの灯かりに浮かび上がった男の顔はまるで氷。
それを思い出し、私はかすかに身を震わせた。
遠ざかっていく水面を月が照らしている。
月の光が波に揺れている様は、本の挿絵で見たオーロラのようだった。
夜の冷たい海の水が私を包んでいる。
けれど、それはどこか優しく暖かかった。
両の足の間から煙のように精が流れ出ていく。
私の意志とは関係なく注ぎ込まれた男の欲望。
この身体があの男によって蹂躙された証。
身体に。そして、心に刻まれた傷痕に今までの私は苛まれていた。
だが、それすらも今は、どうでも良い事に思えた。
何もかもが海に溶けていく。
あの男への憎しみも。
己の境遇に対する絶望も。
意識が消えていく恐怖も。
優しい海に包まれて。
私の生命(いのち)は解き放たれる。
海で亡くなった者は海神ポセイドンの許へと召される。
薄れゆく意識の中で私の脳裏をかすめたのはそんな言い伝えだった。
＃＃＃＃＃＃＃＃＃＃
瞼ごしに暖かい光を感じ、私は寝返りを打つ。
心地よい眠りを邪魔され、私の中に不快という波紋が生じた。
窓から差し込む朝日の仕業だろうか？
それより、いつの間に私は寝室に戻ったのだろうか？
消えてしまった筈の私の意識に泡のように疑問が浮かんでくる。
なにより、何度、寝返りを打てども、光は一向に消えない。
私は少しだけ不機嫌になりながら、ゆっくりと目を開いた。
そこに広がっていたのは見たことのない光景だった。
深い海の中。
私を取り巻く世界の全て。
どこまでも、どこまでも。大地とそれを覆う海が広がっている。
それは島育ちの私が始めて目にする雄大な景色だった。
暗い海の底にも関わらず、その果てしない光景がはっきりと私の目に飛び込んでくる。
どうやら、海の水自体が淡い光を発しているらしい。
その光景に私の心は打ち震えた。
感動の余り、思わず溜息が漏れる。
けれども最早、私の口からは空気の泡など漏れない。
ああ、そうか。
欠けていたパズルのピースがカチリと合うように私の意識が冴えていく。
ゆっくりと自分の身体に視線を落とせば。
碧い海の色に染まった見知らぬ、それでいてよく知っている自分の身体があった。
不思議と私はそれが恐ろしい事だとも。悲しい事だとも。
少しも思わなかった。
なぜならば、私の心も身体も優しい海に。深い愛に満たされていると分かっていたから。
先程まで感じていた不機嫌さなどは一瞬で吹き飛び。
私は生まれ変わった四肢へと力を漲らせた。
ひと掻きするごとに、まるで海の中を飛ぶように私の身体が滑っていく。
人であった頃には味わえなかった海と一体となった感覚。
窓辺から海を眺めていた頃からでは想像もできない解放感。
しばらくの間、私は新しい自分の身体で思う存分、羽を伸ばした。
＃＃＃＃＃＃＃＃＃＃
泳ぎ疲れた私はだらりと四肢の力を抜き、海流に流されるまま、海を漂う。
ぼんやりとそうして過ごしていると、ふと眼下の海底に煌びやかな場所が見えてきた。
それは明るい海の底でも一際輝いている場所だった。
黒く横たわる大地の上。大小様々な丸い建物に淡い光が灯り。
それがまるで真珠の首飾りのように。熟れた葡萄の房のように連なっている。
そして、その幻想的な光を放つ建物の間を何人もの小さな影が泳ぎ回っていた。
おそらく、あれは海に愛された者たちが暮らす場所だろう。
私は直感的にそう理解した。
そして、今日から私が暮らす場所でもあるのだ。
そう思うと胸が弾んだ。
もしかしたら、あの場所こそが天国なのかもしれない。
疲れていた筈の私の身体に元気が蘇ってくる。
私はその輝く場所へ向かって泳ぎだそうとしたが、何故か身体がピクリとも動かなかった。
その事実に私は戸惑い。
ややして自らの内に巣食う違和感を感じた。
私の心も身体も深く果てし無い海からの愛で満たされている。
だが、その深淵に私は飢餓感にも似た衝動が眠っている事に気づいた。
両の手を胸の上で重ね、私は肢体(からだ)の内側より湧き出る熱を確かめる。
今の私にはまだ。
この身に宿った愛を。この心に秘めた想いをぶつける伴侶が。
そして同時に私の身も心も愛してくれる伴侶が欠けているのだ。
だから、今はまだ。
私はあの場所へは行けない。
あそこに宿る光１つ１つこそ。
２つの想いが結ばれた結晶なのだと。
私にはそう思えた。
私は輝きを一瞥した後、ゆっくりと浮上し始める。
海面を目指して。私も光のひとつになる事を夢見て。
何より、愛しい人を求めて。
＃＃＃＃＃＃＃＃＃＃
光に満ちた海の底を後にし、ほの暗い海を静かに上っていく。
手で水を掻く度。足で水を蹴る度。
心の奥底からドロリと溢れた熱が肢体(からだ)を犯し、情欲を昂ぶらせた。
私はその熱が向かう先を見定めようとただ真っ直ぐに前だけを見つめて海を泳ぐ。
そんな私の脳裏に浮かんだのは１人の男の姿だった。
私の純潔を奪い、この肢体(からだ)を穢したあの男。
あれほど憎み。嫌悪していた筈なのに。
いや、恐れているからこそ、忘れる事ができないのかもしれない。
あの男に刻まれた傷痕は生まれ変わっても尚、消えていないのかもしれない。
彼は私と同じように無数の島が浮かぶこの海で生まれたという。
ある貴族の五男であった彼には特別な運命など用意されてはいなかった。
それ故だろうか。彼が自らの手で運命を切り開く事を決意したのは。
だが、男が選んだのは血に塗られた運命だった。
まず最初は領主の座を得る為に。彼は自分の親と兄弟を皆殺しにした。
いかなる神の幸運がついていたのか、男は少数の手勢を率い、瞬く間に故郷を制圧した。
それから後は彼の思う侭。幾多の島々を血に染め上げる事となる。
男の軍勢に歯向かった者は皆殺しにされ、全てを奪われる。
例え、降伏したとしても命が助かるだけで、あらゆるものを根こそぎ略奪される。
貪欲な鮫の群のように彼らは海を荒らしまわった。
そして、ついに私の住む島にも男の侵略の手が伸びてきた。
それに対して、島の領主だった私の両親は戦わない事を選んだ。
私も島の人間たちの命を守れるならばと、その意見に賛成した。
降伏した両親に男は私を妻として求めてきた。
ここに到って、ようやく彼も体面を気にしたのか。
私を妻とする事で島を支配する大義名分を得ようという魂胆のようだった。
政略結婚だった。しかも相手は悪魔のような男。
それでも私はこの結婚を承諾した。
生まれ育った故郷を守る為にこの身を差し出しても構わなかった。
こうして私はあの男へと嫁ぎ、その傍で暮らす事となった。
彼との船の上の暮らしは思い出したくもない暗澹たるものだった。
彼は私を日々の無聊を紛らわせる慰み者として扱った。
毎夜のように愛してもいない男に犯される苦痛の日々。
それでも私が耐えられたのは、故郷の人々を守りたいという一心があったからだ。
しかし、私のささやかな心の支えはあっさりと砕け散った。
ある日、彼の部下の話から耳にした事実。
それは私の故郷が、とうの昔に滅ぼされたという事実だった。
略奪に赴いた部下たちに島の住民がささやかな反抗をし、それがもととなり、島の住民たちは皆殺しにされたという。
それを聞いて、私は目の前が真っ暗になった。
今まで自分が何の為にこの身を捧げ、耐えてきたのかと。
私は怒りに我を忘れ、あの男を殺そうと挑みかかった。
けれど、女の細腕で殺せるような男ではない事は明白だった。
憎悪に狂い、喚き散らす私の腕を男はがっちりと掴んだまま、無表情に見下ろしていた。
私が喚き疲れ、泣き疲れて倒れるまで、ずっと。
その日を境に私は男の元から逃げ出す事を決意した。
＃＃＃＃＃＃＃＃＃
何故こうまで、あの男の事が気にかかるのか。
私はそれがこの身体と心に彼から受けた傷痕が残っている所為だと思っていた。
だが、この胸の高鳴りを男への憎悪や恐怖と片付けるのは、いささか腑に落ちなかった。
いままで感じた事の無い不思議な気持ち。
その感情に戸惑いながら私は海面へと辿り着いた。
波間から顔を出せば、懐かしい夜空に月が浮かんでいるのが見えた。
あれからどれくらい経ったのだろう？
そんな事を考えていると私の鼻先を甘い匂いがついた。
嗅ぎ慣れた精の匂い。あの男の匂い。
以前は嫌悪の情しか湧かなかったそれも今では私の本能を疼かせる。
私は花の蜜に誘われた蝶のように。
その匂いを目指して、波間を泳いでいった。
しばらく、進むと見覚えのある大きな帆船が海の上に浮かんでいた。
あの男に囲われていた忌まわしい場所。
けれど、私の身体は躊躇わず彼の元を目指していく。
帆船に近づいた私は一旦海の中に潜り、そして、十分に加速しながら、海上へと跳び上がった。
べちゃりと湿った水音を響かせて、私は甲板へと着地した。
舷側(船の縁)へと視線を巡らせれば、そこに予想通り、あの男が立っていた。
あらかじめ、匂いで分かっていた事だ。
後は彼の部下が駆けつけるより早く……。
それで私の思考が停止する。
彼をどうしようというのだ？
復讐の為に殺すというのか？
男の姿を目にして益々、私の中のあの感情が大きくなっていく。
私が自分の想いに混乱していると、物音に気づいた彼が振り返った。
「お前は……海に飛び込んだ筈……！」
男は驚き、かすれた声でそう呟いた。
だが、私といえば、それ所ではなかった。
振り向いた彼と視線が合った瞬間、自分の中の感情の正体に気づいたからだ。
それは男を赦すという気持ち。
そして、彼という人間を見つめ、思いやる気持ち。
人である頃には決して抱けなかった彼への慈しみ。
深き海の愛によって人の枷より解き放たれた今の私だから湧き上った想い。
私は水を滴らせながら、彼へと近づいていく。
「お前は魔物になって、俺に復讐しに来たのか！？」
追い詰められた男は恐怖をかられ、そう叫んだ。
「違うよ。私は貴方を迎えに来た」
私の返事に男が呆気に取られた一瞬の隙を突き、彼を押し倒す。
そうして、２人揃って、海へと落ちていく。
波間に水しぶきを残して、彼と共に海の底へと沈んでいく。
腕の中で溺れもがく愛しい人を安心させようと私は彼に唇を重ねた。
今ならば分かる。
彼はずっと孤独で。いつも追い詰められていた。
親兄弟を殺した時も少数で攻めたのではなく、少数しか手勢が無かったのだろう。
その後、近海を荒らしまわり、残虐な略奪を繰り返したのも、膨れ上がっていく自らの勢力を彼自身も制御できなくなっていたのだろう。
寝台で私を犯した後、隣で眠る彼の表情はいつも苦しそうだった。
そして、私の細い身体に縋りついてくる彼の寝顔はどこか安らいでいるようにも見えた。
私は心のどこかで、乾いた世界から彼を解放したいと願っていたのかもしれない。
『もう苦しまなくてもいいよ…』
私は声にならない声を出し、男の身体を強く抱き締める。
彼は目を見開き、戸惑ったように私を見つめてきた。
私は微笑むともう一度、彼に唇を重ねる。
これからはいつでも一緒だ。
もう何も心配しなくてもいい。
だから今は只。深き海に抱かれて眠れ。
私は自由を取り戻した。
いや、生まれてから、これまで。
私には自由など無かったのかもしれない。
貴族の家に生まれ、優しくも厳格な両親の元で過ごした穏やかな日々も。
突然の結婚で、人質同然にあの男の元へ嫁いだ後も。
私は"私"という役割を演じていただけで。
本当の意味で生きていなかったのかもしれない。
身体と共に、心も水底へと沈んでいく。
その奇妙にゆっくりと流れる時間の中で私はそんな想いを抱く。
次々と息が泡となって、私の口から海へと散っていく。
苦しい。
当たり前だ。
私は只の人間。水の中で息ができる筈もない。
しかし私は、自分でも驚く程に穏やかな気持ちだった。
きっと今。
ちっぽけな満足感が私の心を満たしているからだろう。
初めて自分で決め、成し遂げた事。
それはささやかな復讐。
あの男の元から逃げ出すという。小さな抵抗。
おそらく、私を失ってもあの男は少しも悲しまないだろう。
毎夜、繰り返された悪夢のような出来事。
寝室を照らすランタンの灯かりに浮かび上がった男の顔はまるで氷。
それを思い出し、私はかすかに身を震わせた。
遠ざかっていく水面を月が照らしている。
月の光が波に揺れている様は、本の挿絵で見たオーロラのようだった。
夜の冷たい海の水が私を包んでいる。
けれど、それはどこか優しく暖かかった。
両の足の間から煙のように精が流れ出ていく。
私の意志とは関係なく注ぎ込まれた男の欲望。
この身体があの男によって蹂躙された証。
身体に。そして、心に刻まれた傷痕に今までの私は苛まれていた。
だが、それすらも今は、どうでも良い事に思えた。
何もかもが海に溶けていく。
あの男への憎しみも。
己の境遇に対する絶望も。
意識が消えていく恐怖も。
優しい海に包まれて。
私の生命(いのち)は解き放たれる。
海で亡くなった者は海神ポセイドンの許へと召される。
薄れゆく意識の中で私の脳裏をかすめたのはそんな言い伝えだった。
＃＃＃＃＃＃＃＃＃＃
瞼ごしに暖かい光を感じ、私は寝返りを打つ。
心地よい眠りを邪魔され、私の中に不快という波紋が生じた。
窓から差し込む朝日の仕業だろうか？
それより、いつの間に私は寝室に戻ったのだろうか？
消えてしまった筈の私の意識に泡のように疑問が浮かんでくる。
なにより、何度、寝返りを打てども、光は一向に消えない。
私は少しだけ不機嫌になりながら、ゆっくりと目を開いた。
そこに広がっていたのは見たことのない光景だった。
深い海の中。
私を取り巻く世界の全て。
どこまでも、どこまでも。大地とそれを覆う海が広がっている。
それは島育ちの私が始めて目にする雄大な景色だった。
暗い海の底にも関わらず、その果てしない光景がはっきりと私の目に飛び込んでくる。
どうやら、海の水自体が淡い光を発しているらしい。
その光景に私の心は打ち震えた。
感動の余り、思わず溜息が漏れる。
けれども最早、私の口からは空気の泡など漏れない。
ああ、そうか。
欠けていたパズルのピースがカチリと合うように私の意識が冴えていく。
ゆっくりと自分の身体に視線を落とせば。
碧い海の色に染まった見知らぬ、それでいてよく知っている自分の身体があった。
不思議と私はそれが恐ろしい事だとも。悲しい事だとも。
少しも思わなかった。
なぜならば、私の心も身体も優しい海に。深い愛に満たされていると分かっていたから。
先程まで感じていた不機嫌さなどは一瞬で吹き飛び。
私は生まれ変わった四肢へと力を漲らせた。
ひと掻きするごとに、まるで海の中を飛ぶように私の身体が滑っていく。
人であった頃には味わえなかった海と一体となった感覚。
窓辺から海を眺めていた頃からでは想像もできない解放感。
しばらくの間、私は新しい自分の身体で思う存分、羽を伸ばした。
＃＃＃＃＃＃＃＃＃＃
泳ぎ疲れた私はだらりと四肢の力を抜き、海流に流されるまま、海を漂う。
ぼんやりとそうして過ごしていると、ふと眼下の海底に煌びやかな場所が見えてきた。
それは明るい海の底でも一際輝いている場所だった。
黒く横たわる大地の上。大小様々な丸い建物に淡い光が灯り。
それがまるで真珠の首飾りのように。熟れた葡萄の房のように連なっている。
そして、その幻想的な光を放つ建物の間を何人もの小さな影が泳ぎ回っていた。
おそらく、あれは海に愛された者たちが暮らす場所だろう。
私は直感的にそう理解した。
そして、今日から私が暮らす場所でもあるのだ。
そう思うと胸が弾んだ。
もしかしたら、あの場所こそが天国なのかもしれない。
疲れていた筈の私の身体に元気が蘇ってくる。
私はその輝く場所へ向かって泳ぎだそうとしたが、何故か身体がピクリとも動かなかった。
その事実に私は戸惑い。
ややして自らの内に巣食う違和感を感じた。
私の心も身体も深く果てし無い海からの愛で満たされている。
だが、その深淵に私は飢餓感にも似た衝動が眠っている事に気づいた。
両の手を胸の上で重ね、私は肢体(からだ)の内側より湧き出る熱を確かめる。
今の私にはまだ。
この身に宿った愛を。この心に秘めた想いをぶつける伴侶が。
そして同時に私の身も心も愛してくれる伴侶が欠けているのだ。
だから、今はまだ。
私はあの場所へは行けない。
あそこに宿る光１つ１つこそ。
２つの想いが結ばれた結晶なのだと。
私にはそう思えた。
私は輝きを一瞥した後、ゆっくりと浮上し始める。
海面を目指して。私も光のひとつになる事を夢見て。
何より、愛しい人を求めて。
＃＃＃＃＃＃＃＃＃＃
光に満ちた海の底を後にし、ほの暗い海を静かに上っていく。
手で水を掻く度。足で水を蹴る度。
心の奥底からドロリと溢れた熱が肢体(からだ)を犯し、情欲を昂ぶらせた。
私はその熱が向かう先を見定めようとただ真っ直ぐに前だけを見つめて海を泳ぐ。
そんな私の脳裏に浮かんだのは１人の男の姿だった。
私の純潔を奪い、この肢体(からだ)を穢したあの男。
あれほど憎み。嫌悪していた筈なのに。
いや、恐れているからこそ、忘れる事ができないのかもしれない。
あの男に刻まれた傷痕は生まれ変わっても尚、消えていないのかもしれない。
彼は私と同じように無数の島が浮かぶこの海で生まれたという。
ある貴族の五男であった彼には特別な運命など用意されてはいなかった。
それ故だろうか。彼が自らの手で運命を切り開く事を決意したのは。
だが、男が選んだのは血に塗られた運命だった。
まず最初は領主の座を得る為に。彼は自分の親と兄弟を皆殺しにした。
いかなる神の幸運がついていたのか、男は少数の手勢を率い、瞬く間に故郷を制圧した。
それから後は彼の思う侭。幾多の島々を血に染め上げる事となる。
男の軍勢に歯向かった者は皆殺しにされ、全てを奪われる。
例え、降伏したとしても命が助かるだけで、あらゆるものを根こそぎ略奪される。
貪欲な鮫の群のように彼らは海を荒らしまわった。
そして、ついに私の住む島にも男の侵略の手が伸びてきた。
それに対して、島の領主だった私の両親は戦わない事を選んだ。
私も島の人間たちの命を守れるならばと、その意見に賛成した。
降伏した両親に男は私を妻として求めてきた。
ここに到って、ようやく彼も体面を気にしたのか。
私を妻とする事で島を支配する大義名分を得ようという魂胆のようだった。
政略結婚だった。しかも相手は悪魔のような男。
それでも私はこの結婚を承諾した。
生まれ育った故郷を守る為にこの身を差し出しても構わなかった。
こうして私はあの男へと嫁ぎ、その傍で暮らす事となった。
彼との船の上の暮らしは思い出したくもない暗澹たるものだった。
彼は私を日々の無聊を紛らわせる慰み者として扱った。
毎夜のように愛してもいない男に犯される苦痛の日々。
それでも私が耐えられたのは、故郷の人々を守りたいという一心があったからだ。
しかし、私のささやかな心の支えはあっさりと砕け散った。
ある日、彼の部下の話から耳にした事実。
それは私の故郷が、とうの昔に滅ぼされたという事実だった。
略奪に赴いた部下たちに島の住民がささやかな反抗をし、それがもととなり、島の住民たちは皆殺しにされたという。
それを聞いて、私は目の前が真っ暗になった。
今まで自分が何の為にこの身を捧げ、耐えてきたのかと。
私は怒りに我を忘れ、あの男を殺そうと挑みかかった。
けれど、女の細腕で殺せるような男ではない事は明白だった。
憎悪に狂い、喚き散らす私の腕を男はがっちりと掴んだまま、無表情に見下ろしていた。
私が喚き疲れ、泣き疲れて倒れるまで、ずっと。
その日を境に私は男の元から逃げ出す事を決意した。
＃＃＃＃＃＃＃＃＃
何故こうまで、あの男の事が気にかかるのか。
私はそれがこの身体と心に彼から受けた傷痕が残っている所為だと思っていた。
だが、この胸の高鳴りを男への憎悪や恐怖と片付けるのは、いささか腑に落ちなかった。
いままで感じた事の無い不思議な気持ち。
その感情に戸惑いながら私は海面へと辿り着いた。
波間から顔を出せば、懐かしい夜空に月が浮かんでいるのが見えた。
あれからどれくらい経ったのだろう？
そんな事を考えていると私の鼻先を甘い匂いがついた。
嗅ぎ慣れた精の匂い。あの男の匂い。
以前は嫌悪の情しか湧かなかったそれも今では私の本能を疼かせる。
私は花の蜜に誘われた蝶のように。
その匂いを目指して、波間を泳いでいった。
しばらく、進むと見覚えのある大きな帆船が海の上に浮かんでいた。
あの男に囲われていた忌まわしい場所。
けれど、私の身体は躊躇わず彼の元を目指していく。
帆船に近づいた私は一旦海の中に潜り、そして、十分に加速しながら、海上へと跳び上がった。
べちゃりと湿った水音を響かせて、私は甲板へと着地した。
舷側(船の縁)へと視線を巡らせれば、そこに予想通り、あの男が立っていた。
あらかじめ、匂いで分かっていた事だ。
後は彼の部下が駆けつけるより早く……。
それで私の思考が停止する。
彼をどうしようというのだ？
復讐の為に殺すというのか？
男の姿を目にして益々、私の中のあの感情が大きくなっていく。
私が自分の想いに混乱していると、物音に気づいた彼が振り返った。
「お前は……海に飛び込んだ筈……！」
男は驚き、かすれた声でそう呟いた。
だが、私といえば、それ所ではなかった。
振り向いた彼と視線が合った瞬間、自分の中の感情の正体に気づいたからだ。
それは男を赦すという気持ち。
そして、彼という人間を見つめ、思いやる気持ち。
人である頃には決して抱けなかった彼への慈しみ。
深き海の愛によって人の枷より解き放たれた今の私だから湧き上った想い。
私は水を滴らせながら、彼へと近づいていく。
「お前は魔物になって、俺に復讐しに来たのか！？」
追い詰められた男は恐怖をかられ、そう叫んだ。
「違うよ。私は貴方を迎えに来た」
私の返事に男が呆気に取られた一瞬の隙を突き、彼を押し倒す。
そうして、２人揃って、海へと落ちていく。
波間に水しぶきを残して、彼と共に海の底へと沈んでいく。
腕の中で溺れもがく愛しい人を安心させようと私は彼に唇を重ねた。
今ならば分かる。
彼はずっと孤独で。いつも追い詰められていた。
親兄弟を殺した時も少数で攻めたのではなく、少数しか手勢が無かったのだろう。
その後、近海を荒らしまわり、残虐な略奪を繰り返したのも、膨れ上がっていく自らの勢力を彼自身も制御できなくなっていたのだろう。
寝台で私を犯した後、隣で眠る彼の表情はいつも苦しそうだった。
そして、私の細い身体に縋りついてくる彼の寝顔はどこか安らいでいるようにも見えた。
私は心のどこかで、乾いた世界から彼を解放したいと願っていたのかもしれない。
『もう苦しまなくてもいいよ…』
私は声にならない声を出し、男の身体を強く抱き締める。
彼は目を見開き、戸惑ったように私を見つめてきた。
私は微笑むともう一度、彼に唇を重ねる。
これからはいつでも一緒だ。
もう何も心配しなくてもいい。
だから今は只。深き海に抱かれて眠れ。
11/07/18 23:23更新 / 蔭ル。