第4回「お嬢様の華麗なる日常」 - ゾフィーア編 -
午後のうららかな日差しが中庭に降り注いでいた。
草木が薫る緑の庭園には一揃いのテーブルと椅子が置かれている。
今、そのテーブルで1人の幼い少女が読書に耽っていた。
豊かな金色の髪。宝石を思わせる翡翠色の瞳。
フリルをふんだんにあしらった白いドレスを着た少女である。
彼女が机の上に広げているのは一抱えもある黒い革装丁の古めかしい本。
少女の白い指先が羊皮紙にびっしりと書かれた文字をなぞる。
「ゾフィーア、お疲れ様。ひと息入れたら?」
少女が読書に没頭していると不意に声がかけられた。
見上げるとピシリと糊をきかせたシャツとズボンに身を包んだ青年が立っていた。
彼はティーポットとカップの乗った銀盆をテーブルへ置く。
「ありがとう、お兄様」
彼女、ゾフィーアは本に栞を挟むと脇へとどかした。
お兄様と呼ばれた青年は手際よくお茶をカップに注ぎ、少女の前に配膳する。
「あ、そうそう…そういえば、君に荷物が届いているよ」
ゾフィーアがカップを口につけ、香りを楽しんでいると青年は思い出したようにそう告げた。
「荷物? 誰からですか?」
「奥様からだよ」
彼の答えを聞いた彼女はあからさまに顔をしかめる。
「お母様からの荷物……。正直、嫌な予感しかしませんけど…」
「荷物の注意書きに生ものだから早く開けろって書いてあったよ」
青年がそう付け加える。
「……仕方ありませんわね。気は進みませんが、開けてみましょう」
############################
ゾフィーアと青年は一緒に玄関へ赴いた。
見ると壁際に人間が入れる位の大きな宝箱(チェスト)が置かれている。
その正面に紙が貼ってあり、そこに件(くだん)の注意書きが記されていた。
少女はこめかみを押さえ、大きな溜息をついた。
「お兄様、運送業者の手違いで荷物が届かなかった事にしませんか?」
「それだと業者の人に迷惑がかかっちゃうよ」
青年は真面目な顔で彼女の提案を即座に反対する。
「では受け取った後、うっかり落としてしまったという事で。
燃えないゴミにでも出しておいてください」
ゾフィーアは何としても受け取りを拒否しようとする。
「…仕方ないな。君がそこまで言うのなら」
彼は肩をすくめると宝箱へ手を伸ばした。
青年が触れる寸前に突然、宝箱が独りでにガタガタと揺れる。
まるで捨てないでと自己主張するように。
「うーん、捨てられたくないみたいだよ」
青年は手を止めると少女へと振り返った。
「はあ…、分かりましたわ」
流石にゾフィーアも観念して、宝箱を開ける事を決意した。
青年の代わりに箱の前に立ち、蓋をゆっくりと持ち上げる。
すると10cmほど口が開いた所で内側から蓋が勢い良く押し上げられた。
「じゃーん! ミミックじゃなくて、お母さんでしたぁ~!」
そして、宝箱の中からゾフィーアにそっくりな少女が立ち上がった。
ドカッ、バタン。ゾフィーアは無言で蓋を押さえつけて閉じる。
「Isa Fehu Jera. 我は鍵をかける」
彼女の指先が光の軌跡をなぞり、宙に秘紋(ルーン)を刻む。
魔力が戒めとなり、宝箱の蓋を開かなくする。
「く、暗いよぉ~っ! ゾフィーアちゃん、開けてぇ~!」
宝箱の中から、ドンドンと蓋を叩く音と、悲痛な声が聞こえてくる。
「お兄様、やっぱり燃えないゴミに出しておいてくださいませ」
箱から聴こえてくる声を無視して、ゾフィーアは満面の笑みでそう言った。
「…………」
彼女のその台詞に宝箱が沈黙する。
「…お母様、反省したのなら、開けてあげますわよ?」
「…………」
へんじはない。ただのたからばこのようだ。
「お母様…?」
返事がない事にゾフィーアは怪訝な表情を浮かべる。
「サプラーイズ!」
突然、後ろからそんな叫びが聞こえ、彼女は何者かに背後から抱きつかれた。
「!? お母様、いつの間に!?」
驚きと共に振り返るとそこには宝箱に入っていた少女、ゾフィーアの母親マルティナがいた。
「お母さん、転移魔法(テレポート)は得意なんだよ?
昔、お父さんの寝室(へや)に夜這いする為に一杯練習したもん!」
彼女は自慢げにそんな事を言ってくる。
「…子供の前で堂々と夜這いとか言わないでください」
「ゾフィーアちゃんだって、彼に夜這いくらいしてるでしょ?」
「し、してませんわ!」
「そうですね。僕の方が夜這いしてます」
「お兄様、余計な事を言わないでください!」
「うふふ、孫の顔を見れる日ももうすぐね♪」
マルティナは娘に抱きついたまま、心底嬉しげにそうのたまった。
「と、ところで突然、どうしたんですの。帰ってくるなら連絡を入れてくれても…」
ゾフィーアは話を誤魔化そうと慌てて話題を変えた。
「うーん、ごめんねぇ。今日、長居はできないんだぁ。
ちょっと近くまで寄ったから顔を見せに帰ってきただけだよ」
マルティナは申し訳なさそうにそう言う。
「お仕事が忙しいなら無理をしてくださらなくても…」
「帰ってきてくれて嬉しいと言っています」
「お兄様!」
少女は青年が発した代弁の言葉を掻き消すように叫ぶ。彼女の顔は赤かった。
「うん、分かってる♪」
「今度、レースに出るんでしょう?
当日は応援に行けそうにないから、先に激励しておこうと思って。陣痛見舞いって奴?」
「…陣中見舞いです。わたくしに何を産ませる気ですか」
「孫とか孫とか孫とか」
マルティナの手がゾフィーアの下腹部を撫でる。
「きゃっ…! ど、どこを触っているんですか…!」
「お母さんが(性的な意味の)成長を確かめてあげる」
母は舌なめずりしながら手を娘の太股の間へと伸ばしていく。
「やめ…んんっ…!」
「あれあれぇ? この間、帰ってきた時より感度が上がっているよぉ?
…ひょっとして、彼に開発されちゃった?」
マルティナは愉しそうに娘の秘所をまさぐる。
「っ!! いい加減にしなさいっ!」
ゾフィーアは母の腕を振りほどくと、向き直り、両の拳を固めた。
「こ・の・バ・カ・親・が!」
少女は両の拳を母親のこめかみに当て、容赦なく拳を回す。
「ゾフィーアちゃん! 痛い痛い痛い!! ギブギブ!!」
2人がじゃれ合ってるとどう見ても姉妹にしか見えない。
しかも母親の方が年下に見える。
ゾフィーアはひとしきりグリグリした後、マルティナを解放した。
「うう、ひどいよぉ…親に向かってバカって言ったぁ」
彼女は半泣きになって、床へと蹲った。
その姿はとても一人前の女性には見えない。
「はあ…ちょっとやり過ぎましたわ。ほら、お母様、泣き止んでください」
少女は母の手を引っぱって立ち上がらせると優しく抱き締めた。
「うう…ゾフィーアちゃんは優しい、いい子だよ~。
こんないい子に育ってくれて、お母さん嬉しい」
マルティナは娘の胸に頬を擦りつけて、そう言う。
「こんなに素敵ないい子だもん。今度のレースはゾフィーアちゃんの優勝で決まりだね!」
「ま、まあ…わたくしの実力からすれば、優勝するのは当たり前ですわ。
今度の大会で世にわたくしの実力を知らしめ、メルダース家再興の足がかりにしてみせますわ」
「えー、別に家の再興とかはどうでもいいよー」
「メルダースを没落させたのはお母様になんですから、少しは気にしてください」
メルダース家は大陸で名の知れた魔法使いの名家だった。
だが、マルティナの代で、あっさりと没落する事になる。
若くして当主を継いだマルティナが政略結婚を蹴り、恋人と駆け落ちしたからだ。
聞いた話によれば、恋人への想いに苦しんでいた所へ旅のバフォメットが通りかかり、
魔女へと堕とされたらしいが。
「全く、ご先祖様に申し訳が立たないと思いませんの?」
「お母さんは家の再興よりも、お父さんやゾフィーアちゃん達の幸せの方が大事だと思うけどね」
母は身体を離すと珍しく真面目な顔でそう言った。
母の言っている事も分かる。けれども彼女にも諦められない理由がある。
「もう、ゾフィーアちゃんは真面目なんだから~。一体誰に似たのかしら」
「お母様、反面教師って言葉、知ってます?」
「いやぁ~」
「……褒めてませんから」
定番のボケをかまされて、ゾフィーアは、げんなりとした表情で突っ込んだ。
「まあ、再興はともかく、力一杯ぶつかってきなさいね」
マルティナはゾフィーアの手をそっと握った。
「もちろんですわ、お母様」
母の小さな手から優しい温もりが伝わってくる。
「…それじゃあ、お父さんを待たせているから。そろそろ行くね」
マルティナはさり気無く手を離し、娘にそう告げる。
「え…、もう出発するのですか?」
ゾフィーアは母の言葉に表情を曇らせた。
「うん、ゾフィーアちゃんの顔を見に帰ってきただけだから」
彼女は娘の背に両手を回すと愛しさを込めて抱擁する。
「それじゃあ、行って来るね」
「…お母様、どうぞお気をつけて」
少女も母の温もりを求めて抱き締め返す。
母娘はしばらく、抱擁を交わしたのち、ゆっくりと身体を離した。
「ゾフィーアちゃんの事をよろしくね?」
マルティナは娘の傍らに寄り添うように立っている青年を見上げる。
「はい、奥様」
彼は力強く頷いた。
彼女は青年の返事に満足気な笑みを浮かべると扉を開けて出かけていった。
「お母様ももう少しゆっくりできる時に帰ってきてくださればいいのに…」
ゾフィーアは母親の背が見えなくなった後、ポツリとそう呟く。
傍らの青年は微笑を浮かべて、少女の肩をそっと抱いた。
「べ、別に寂しいわけではありませんのよ?」
「君が寂しい時には僕が傍にいるから」
彼は優しく彼女を抱き寄せた。
いつもと同じ、けれど、かけがえの無い幸福感に彼女は包まれた。
############################
青年がゾフィーアの使い魔(お兄様)になったのは半ば必然だった。
少女と青年は幼い頃からの、いや生まれた時からの付き合いだ。
彼の家は代々メルダース家に仕える家系であった。
メルダース家が没落し、多くの使用人が去った時も青年の一族だけは残った。
青年の一族といっても彼1人だけだったが。
彼は幼い頃に両親を亡くし、メルダース家で家族同然に育てられた。
嬉しい事も悲しい事も。楽しい思い出も喧嘩した思い出も。
様々な事をともに分かち合ってきた2人がお互いと男女として意識したのも当然の事だろう。
そして、ある夜に彼女たちは結ばれ、魔女的な意味で本当の兄妹となった。
############################
その夜。ゾフィーアは1人自室に篭っていた。
しばらく読書に集中したいから1人にして欲しいと青年には断っておく。
読書と言うのは方便だったが。
少女は部屋の真ん中で箒を片手にイメージトレーニングを行なっていた。
箒に微弱な魔力を注ぎこむとそこを中心として浮力が生じる。
浮力の風にあおられて、彼女の髪とスカートがふわりと揺れた。
大きな物音を立てれば、青年に気づかれてしまう。
彼はゾフィーアの体調や魔力の管理にうるさい。
バレたら叱られてしまうだろう。
普段なら彼が作ったスケジュールに反しようとは思わない。
青年はいつでも彼女を第一に考えて、トレーニングを組んでくれる。
彼のおかげで自分は実力を発揮できている。
素直にそう思えるほどに彼の事を信頼している。
けれど、大会が数日後に迫った今。
いくら調整が大事とはいえ、じっとしている事はできなかった。
だから、こうして隠れて練習をしている。
触れた手を通して、魔力を箒へと伝達する。
箒を中心として球体を想像し、魔力をその球体の表面から放出するイメージを保つ。
飛行魔法における浮力と姿勢制御の基本訓練。
実際のレースではこの制御を一瞬の判断の元、複雑に変化させて飛ぶ。
ゾフィーアは自分の身体に覚えこませるように様々なパターンをイメージしていく。
彼女はそれを何度も何度も繰り返した。
「ゾフィーア、入るよ」
突然、ドア越しに青年の聴こえたかと思うと少女が返事をする間もなく扉が開かれた。
いつもならノックして、待ってくれるのに。
「あっ…!」
ゾフィーアは慌てて箒を隠そうとするが、焦った為に集中を失い、箒は急激に上昇する。
制御を失った箒は天井にぶつかり、その後、床へと落下して、けたたましい音を立てた。
これでは誤魔化せそうにない…。
少女はバツが悪そうな顔で入ってきた青年の顔を見上げた。
「はい、タオル。濡らしておいたから」
彼は箒には目もくれず、彼女へ濡れタオルを差し出す。
「それとホットレモネード。疲れが取れるから飲んでね」
ゾフィーアがこっそり練習している事も青年はお見通しだったらしい。
「あの…。お兄様…ごめんなさい…」
水気を含んだタオルで顔や手を拭えば、ひんやりと気持ち良い。
その感触に冷静さを取り戻し、少女は素直に謝った。
「ゾフィーアの良い所は頑張り屋な事だけど。悪い所は頑張り過ぎて無理をする事だよ?」
青年は彼女の頭に手を伸ばすと真摯な瞳でそう言った。
「さぁ、レモネードを飲んだら、早く休む事」
彼はすぐに優しい笑顔を浮かべる。
ゾフィーアのお兄様が作ってくれたレモネードは、優しい蜂蜜の味がした。
############################
その後、彼女たちは同じベッドで眠りについた。
2人寄り添ってベッドに横たわり、同じように天井を見上げる。
「…お兄様、起きてますか?」
ゾフィーアは寝つけないのか、そう囁いてきた。
「…うん、起きてるよ」
「わたくし、絶対に大会で優勝しますから…」
「僕も応援してるから…でも無理をしちゃあ、駄目だよ?」
青年は彼女の髪を撫でながら優しい声を出した。
「大会で優勝すれば、魔王軍・魔術部隊への入隊も夢ではないと思います」
髪を撫でられ、幸せな心地に浸りながら彼女はそう続ける。
「かの部隊は数あるサバトの中でも生え抜き魔女を集めたエリート部隊だと聞きます。
日夜、様々な魔術や魔法薬の研究を行なっているとか。
その一員を輩出した一族ともなれば、我がメルダース家の名も上がるでしょう」
メルダース家の再興。少女の望み。
「何より、わたくしを支えてくれる…お兄様の苦労に報いる事ができますもの」
現在のメルダース家の内情はその実、苦しいものだ。
青年が1人で遣り繰りしているといっても過言ではない。
そんな状況でも彼は不平の1つも言わず。何時でも笑顔で彼女を支えてくれる。
「…僕は別に苦労しているとは思ってないけどね」
彼はゾフィーアの瞳を真剣な眼差しで見つめながらそう答えた。
「僕はゾフィーアの傍にいられるだけで幸せだから」
そして、歯の浮くような台詞をサラリと言ってのける。
「わ、わたくしは…もっとお兄様を幸せにしたいんです!」
彼の台詞に少女は顔を真っ赤にする。
恥ずかしくて視線を逸らしたい。でも逸らしたくない気持ちもある。
「お兄様は何時もわたくしを幸せにしてくれるから…その幸せに応えたい…」
「君がそうしたいならそうすればいいよ。僕はいつでも君の隣を歩いていくだけだから」
青年はそう返すと彼女の唇に優しく口づけする。
ゾフィーアも彼の想いに応えるように口を重ねていく。
しばらくキスを交わした後、ゆっくりと顔を離す。
嬉しさと。幸せと。恥ずかしさと。
色んな感情が混ざり合って、お互いに笑顔を浮かべる。
少女は彼の。青年は彼女の幸せを想って。
「お兄様…大好きです…」
2つの想いを月だけが見ていた。
草木が薫る緑の庭園には一揃いのテーブルと椅子が置かれている。
今、そのテーブルで1人の幼い少女が読書に耽っていた。
豊かな金色の髪。宝石を思わせる翡翠色の瞳。
フリルをふんだんにあしらった白いドレスを着た少女である。
彼女が机の上に広げているのは一抱えもある黒い革装丁の古めかしい本。
少女の白い指先が羊皮紙にびっしりと書かれた文字をなぞる。
「ゾフィーア、お疲れ様。ひと息入れたら?」
少女が読書に没頭していると不意に声がかけられた。
見上げるとピシリと糊をきかせたシャツとズボンに身を包んだ青年が立っていた。
彼はティーポットとカップの乗った銀盆をテーブルへ置く。
「ありがとう、お兄様」
彼女、ゾフィーアは本に栞を挟むと脇へとどかした。
お兄様と呼ばれた青年は手際よくお茶をカップに注ぎ、少女の前に配膳する。
「あ、そうそう…そういえば、君に荷物が届いているよ」
ゾフィーアがカップを口につけ、香りを楽しんでいると青年は思い出したようにそう告げた。
「荷物? 誰からですか?」
「奥様からだよ」
彼の答えを聞いた彼女はあからさまに顔をしかめる。
「お母様からの荷物……。正直、嫌な予感しかしませんけど…」
「荷物の注意書きに生ものだから早く開けろって書いてあったよ」
青年がそう付け加える。
「……仕方ありませんわね。気は進みませんが、開けてみましょう」
############################
ゾフィーアと青年は一緒に玄関へ赴いた。
見ると壁際に人間が入れる位の大きな宝箱(チェスト)が置かれている。
その正面に紙が貼ってあり、そこに件(くだん)の注意書きが記されていた。
少女はこめかみを押さえ、大きな溜息をついた。
「お兄様、運送業者の手違いで荷物が届かなかった事にしませんか?」
「それだと業者の人に迷惑がかかっちゃうよ」
青年は真面目な顔で彼女の提案を即座に反対する。
「では受け取った後、うっかり落としてしまったという事で。
燃えないゴミにでも出しておいてください」
ゾフィーアは何としても受け取りを拒否しようとする。
「…仕方ないな。君がそこまで言うのなら」
彼は肩をすくめると宝箱へ手を伸ばした。
青年が触れる寸前に突然、宝箱が独りでにガタガタと揺れる。
まるで捨てないでと自己主張するように。
「うーん、捨てられたくないみたいだよ」
青年は手を止めると少女へと振り返った。
「はあ…、分かりましたわ」
流石にゾフィーアも観念して、宝箱を開ける事を決意した。
青年の代わりに箱の前に立ち、蓋をゆっくりと持ち上げる。
すると10cmほど口が開いた所で内側から蓋が勢い良く押し上げられた。
「じゃーん! ミミックじゃなくて、お母さんでしたぁ~!」
そして、宝箱の中からゾフィーアにそっくりな少女が立ち上がった。
ドカッ、バタン。ゾフィーアは無言で蓋を押さえつけて閉じる。
「Isa Fehu Jera. 我は鍵をかける」
彼女の指先が光の軌跡をなぞり、宙に秘紋(ルーン)を刻む。
魔力が戒めとなり、宝箱の蓋を開かなくする。
「く、暗いよぉ~っ! ゾフィーアちゃん、開けてぇ~!」
宝箱の中から、ドンドンと蓋を叩く音と、悲痛な声が聞こえてくる。
「お兄様、やっぱり燃えないゴミに出しておいてくださいませ」
箱から聴こえてくる声を無視して、ゾフィーアは満面の笑みでそう言った。
「…………」
彼女のその台詞に宝箱が沈黙する。
「…お母様、反省したのなら、開けてあげますわよ?」
「…………」
へんじはない。ただのたからばこのようだ。
「お母様…?」
返事がない事にゾフィーアは怪訝な表情を浮かべる。
「サプラーイズ!」
突然、後ろからそんな叫びが聞こえ、彼女は何者かに背後から抱きつかれた。
「!? お母様、いつの間に!?」
驚きと共に振り返るとそこには宝箱に入っていた少女、ゾフィーアの母親マルティナがいた。
「お母さん、転移魔法(テレポート)は得意なんだよ?
昔、お父さんの寝室(へや)に夜這いする為に一杯練習したもん!」
彼女は自慢げにそんな事を言ってくる。
「…子供の前で堂々と夜這いとか言わないでください」
「ゾフィーアちゃんだって、彼に夜這いくらいしてるでしょ?」
「し、してませんわ!」
「そうですね。僕の方が夜這いしてます」
「お兄様、余計な事を言わないでください!」
「うふふ、孫の顔を見れる日ももうすぐね♪」
マルティナは娘に抱きついたまま、心底嬉しげにそうのたまった。
「と、ところで突然、どうしたんですの。帰ってくるなら連絡を入れてくれても…」
ゾフィーアは話を誤魔化そうと慌てて話題を変えた。
「うーん、ごめんねぇ。今日、長居はできないんだぁ。
ちょっと近くまで寄ったから顔を見せに帰ってきただけだよ」
マルティナは申し訳なさそうにそう言う。
「お仕事が忙しいなら無理をしてくださらなくても…」
「帰ってきてくれて嬉しいと言っています」
「お兄様!」
少女は青年が発した代弁の言葉を掻き消すように叫ぶ。彼女の顔は赤かった。
「うん、分かってる♪」
「今度、レースに出るんでしょう?
当日は応援に行けそうにないから、先に激励しておこうと思って。陣痛見舞いって奴?」
「…陣中見舞いです。わたくしに何を産ませる気ですか」
「孫とか孫とか孫とか」
マルティナの手がゾフィーアの下腹部を撫でる。
「きゃっ…! ど、どこを触っているんですか…!」
「お母さんが(性的な意味の)成長を確かめてあげる」
母は舌なめずりしながら手を娘の太股の間へと伸ばしていく。
「やめ…んんっ…!」
「あれあれぇ? この間、帰ってきた時より感度が上がっているよぉ?
…ひょっとして、彼に開発されちゃった?」
マルティナは愉しそうに娘の秘所をまさぐる。
「っ!! いい加減にしなさいっ!」
ゾフィーアは母の腕を振りほどくと、向き直り、両の拳を固めた。
「こ・の・バ・カ・親・が!」
少女は両の拳を母親のこめかみに当て、容赦なく拳を回す。
「ゾフィーアちゃん! 痛い痛い痛い!! ギブギブ!!」
2人がじゃれ合ってるとどう見ても姉妹にしか見えない。
しかも母親の方が年下に見える。
ゾフィーアはひとしきりグリグリした後、マルティナを解放した。
「うう、ひどいよぉ…親に向かってバカって言ったぁ」
彼女は半泣きになって、床へと蹲った。
その姿はとても一人前の女性には見えない。
「はあ…ちょっとやり過ぎましたわ。ほら、お母様、泣き止んでください」
少女は母の手を引っぱって立ち上がらせると優しく抱き締めた。
「うう…ゾフィーアちゃんは優しい、いい子だよ~。
こんないい子に育ってくれて、お母さん嬉しい」
マルティナは娘の胸に頬を擦りつけて、そう言う。
「こんなに素敵ないい子だもん。今度のレースはゾフィーアちゃんの優勝で決まりだね!」
「ま、まあ…わたくしの実力からすれば、優勝するのは当たり前ですわ。
今度の大会で世にわたくしの実力を知らしめ、メルダース家再興の足がかりにしてみせますわ」
「えー、別に家の再興とかはどうでもいいよー」
「メルダースを没落させたのはお母様になんですから、少しは気にしてください」
メルダース家は大陸で名の知れた魔法使いの名家だった。
だが、マルティナの代で、あっさりと没落する事になる。
若くして当主を継いだマルティナが政略結婚を蹴り、恋人と駆け落ちしたからだ。
聞いた話によれば、恋人への想いに苦しんでいた所へ旅のバフォメットが通りかかり、
魔女へと堕とされたらしいが。
「全く、ご先祖様に申し訳が立たないと思いませんの?」
「お母さんは家の再興よりも、お父さんやゾフィーアちゃん達の幸せの方が大事だと思うけどね」
母は身体を離すと珍しく真面目な顔でそう言った。
母の言っている事も分かる。けれども彼女にも諦められない理由がある。
「もう、ゾフィーアちゃんは真面目なんだから~。一体誰に似たのかしら」
「お母様、反面教師って言葉、知ってます?」
「いやぁ~」
「……褒めてませんから」
定番のボケをかまされて、ゾフィーアは、げんなりとした表情で突っ込んだ。
「まあ、再興はともかく、力一杯ぶつかってきなさいね」
マルティナはゾフィーアの手をそっと握った。
「もちろんですわ、お母様」
母の小さな手から優しい温もりが伝わってくる。
「…それじゃあ、お父さんを待たせているから。そろそろ行くね」
マルティナはさり気無く手を離し、娘にそう告げる。
「え…、もう出発するのですか?」
ゾフィーアは母の言葉に表情を曇らせた。
「うん、ゾフィーアちゃんの顔を見に帰ってきただけだから」
彼女は娘の背に両手を回すと愛しさを込めて抱擁する。
「それじゃあ、行って来るね」
「…お母様、どうぞお気をつけて」
少女も母の温もりを求めて抱き締め返す。
母娘はしばらく、抱擁を交わしたのち、ゆっくりと身体を離した。
「ゾフィーアちゃんの事をよろしくね?」
マルティナは娘の傍らに寄り添うように立っている青年を見上げる。
「はい、奥様」
彼は力強く頷いた。
彼女は青年の返事に満足気な笑みを浮かべると扉を開けて出かけていった。
「お母様ももう少しゆっくりできる時に帰ってきてくださればいいのに…」
ゾフィーアは母親の背が見えなくなった後、ポツリとそう呟く。
傍らの青年は微笑を浮かべて、少女の肩をそっと抱いた。
「べ、別に寂しいわけではありませんのよ?」
「君が寂しい時には僕が傍にいるから」
彼は優しく彼女を抱き寄せた。
いつもと同じ、けれど、かけがえの無い幸福感に彼女は包まれた。
############################
青年がゾフィーアの使い魔(お兄様)になったのは半ば必然だった。
少女と青年は幼い頃からの、いや生まれた時からの付き合いだ。
彼の家は代々メルダース家に仕える家系であった。
メルダース家が没落し、多くの使用人が去った時も青年の一族だけは残った。
青年の一族といっても彼1人だけだったが。
彼は幼い頃に両親を亡くし、メルダース家で家族同然に育てられた。
嬉しい事も悲しい事も。楽しい思い出も喧嘩した思い出も。
様々な事をともに分かち合ってきた2人がお互いと男女として意識したのも当然の事だろう。
そして、ある夜に彼女たちは結ばれ、魔女的な意味で本当の兄妹となった。
############################
その夜。ゾフィーアは1人自室に篭っていた。
しばらく読書に集中したいから1人にして欲しいと青年には断っておく。
読書と言うのは方便だったが。
少女は部屋の真ん中で箒を片手にイメージトレーニングを行なっていた。
箒に微弱な魔力を注ぎこむとそこを中心として浮力が生じる。
浮力の風にあおられて、彼女の髪とスカートがふわりと揺れた。
大きな物音を立てれば、青年に気づかれてしまう。
彼はゾフィーアの体調や魔力の管理にうるさい。
バレたら叱られてしまうだろう。
普段なら彼が作ったスケジュールに反しようとは思わない。
青年はいつでも彼女を第一に考えて、トレーニングを組んでくれる。
彼のおかげで自分は実力を発揮できている。
素直にそう思えるほどに彼の事を信頼している。
けれど、大会が数日後に迫った今。
いくら調整が大事とはいえ、じっとしている事はできなかった。
だから、こうして隠れて練習をしている。
触れた手を通して、魔力を箒へと伝達する。
箒を中心として球体を想像し、魔力をその球体の表面から放出するイメージを保つ。
飛行魔法における浮力と姿勢制御の基本訓練。
実際のレースではこの制御を一瞬の判断の元、複雑に変化させて飛ぶ。
ゾフィーアは自分の身体に覚えこませるように様々なパターンをイメージしていく。
彼女はそれを何度も何度も繰り返した。
「ゾフィーア、入るよ」
突然、ドア越しに青年の聴こえたかと思うと少女が返事をする間もなく扉が開かれた。
いつもならノックして、待ってくれるのに。
「あっ…!」
ゾフィーアは慌てて箒を隠そうとするが、焦った為に集中を失い、箒は急激に上昇する。
制御を失った箒は天井にぶつかり、その後、床へと落下して、けたたましい音を立てた。
これでは誤魔化せそうにない…。
少女はバツが悪そうな顔で入ってきた青年の顔を見上げた。
「はい、タオル。濡らしておいたから」
彼は箒には目もくれず、彼女へ濡れタオルを差し出す。
「それとホットレモネード。疲れが取れるから飲んでね」
ゾフィーアがこっそり練習している事も青年はお見通しだったらしい。
「あの…。お兄様…ごめんなさい…」
水気を含んだタオルで顔や手を拭えば、ひんやりと気持ち良い。
その感触に冷静さを取り戻し、少女は素直に謝った。
「ゾフィーアの良い所は頑張り屋な事だけど。悪い所は頑張り過ぎて無理をする事だよ?」
青年は彼女の頭に手を伸ばすと真摯な瞳でそう言った。
「さぁ、レモネードを飲んだら、早く休む事」
彼はすぐに優しい笑顔を浮かべる。
ゾフィーアのお兄様が作ってくれたレモネードは、優しい蜂蜜の味がした。
############################
その後、彼女たちは同じベッドで眠りについた。
2人寄り添ってベッドに横たわり、同じように天井を見上げる。
「…お兄様、起きてますか?」
ゾフィーアは寝つけないのか、そう囁いてきた。
「…うん、起きてるよ」
「わたくし、絶対に大会で優勝しますから…」
「僕も応援してるから…でも無理をしちゃあ、駄目だよ?」
青年は彼女の髪を撫でながら優しい声を出した。
「大会で優勝すれば、魔王軍・魔術部隊への入隊も夢ではないと思います」
髪を撫でられ、幸せな心地に浸りながら彼女はそう続ける。
「かの部隊は数あるサバトの中でも生え抜き魔女を集めたエリート部隊だと聞きます。
日夜、様々な魔術や魔法薬の研究を行なっているとか。
その一員を輩出した一族ともなれば、我がメルダース家の名も上がるでしょう」
メルダース家の再興。少女の望み。
「何より、わたくしを支えてくれる…お兄様の苦労に報いる事ができますもの」
現在のメルダース家の内情はその実、苦しいものだ。
青年が1人で遣り繰りしているといっても過言ではない。
そんな状況でも彼は不平の1つも言わず。何時でも笑顔で彼女を支えてくれる。
「…僕は別に苦労しているとは思ってないけどね」
彼はゾフィーアの瞳を真剣な眼差しで見つめながらそう答えた。
「僕はゾフィーアの傍にいられるだけで幸せだから」
そして、歯の浮くような台詞をサラリと言ってのける。
「わ、わたくしは…もっとお兄様を幸せにしたいんです!」
彼の台詞に少女は顔を真っ赤にする。
恥ずかしくて視線を逸らしたい。でも逸らしたくない気持ちもある。
「お兄様は何時もわたくしを幸せにしてくれるから…その幸せに応えたい…」
「君がそうしたいならそうすればいいよ。僕はいつでも君の隣を歩いていくだけだから」
青年はそう返すと彼女の唇に優しく口づけする。
ゾフィーアも彼の想いに応えるように口を重ねていく。
しばらくキスを交わした後、ゆっくりと顔を離す。
嬉しさと。幸せと。恥ずかしさと。
色んな感情が混ざり合って、お互いに笑顔を浮かべる。
少女は彼の。青年は彼女の幸せを想って。
「お兄様…大好きです…」
2つの想いを月だけが見ていた。
11/06/29 22:08更新 / 蔭ル。
戻る
次へ