第2回「空に憧れた魔女(前編)」 - ヘザー編 -
見上げた空はどこまで青かった。
風で散り散りになった雲の合間を海鳥たちがゆっくりと渡っていく。
「ちくしょう…」
呟いて、手を伸ばしても空へは届かない。
自由に空を飛ぶ鳥たちが羨ましく妬ましい。
もうどのくらい、こうして空を見上げているだろうか。
絶望と孤独が彼の時間感覚を麻痺させ、行動する気力を奪っている。
けれど、身体は正直なもので。
ぐぅと腹の虫が鳴り、その青年は気だるげに身体を起こした。
空きっ腹を抱えながら、彼はのろのろと立ち上がる。
このままでは本当に死んでしまう。待っていても助けは現れない。
現実は否が応にも彼を急き立てる。
立ち上がり、睨みつけるように周囲を見渡す。
眼前に広がるのは海の青。
彼は無人島で1人、絶賛遭難中だった。
青年は暗い表情で浜辺を歩く。
何か使える道具があれば、それで魚でも取るのだが…。
血眼になって、波打ち際を見下ろしながら進む。
「止まってえええええぇぇぇぇぇっ!!」
何の前触れも無く前方からそんな悲鳴が聞こえてきた。
はっとなり、顔を上げる。
誰もいない。
「お願いだからあああぁぁぁっ!?」
だが、悲鳴は続いている。
その声が前方の、それも空の方から響いてくるのに気づく。
不思議に思って、見上げれば、青い空に1つ。赤い染みが見えた。
その染みは徐々に大きくなっていき、やがて人間だと気づく。
(人間…? どうして人間が空に…?)
空中に人間と言う非常識な組み合わせに青年の思考が停止する。
それ故に。彼は迫り来る危険を回避するのが遅れた。
気づけば、その少女は前方上空から物凄い勢いで彼へと迫っていた。
箒(ほうき)に跨った赤い服の少女。その姿が目に焼きつく。
もはや避けられないタイミング。
だが、突然、箒の柄の先端がガクリと下を向き、砂浜へと突き刺さった。
ボキリと木の折れる音が響いたような気もする。
何故曖昧な言い方のかといえば、その直後、彼の意識も途切れたからだ。
「きゃあああああぁぁぁぁぁっ!?」
箒の上から放り出された少女がそのままの勢いで青年の上半身に激突する。
その衝撃で彼は吹き飛ばされ、意識を失った。
###############################
青年は海辺の小さな漁村に生を受け、平凡に育ち。
そして、気がつけば、漁師になっていた。
彼は特別、漁師という職業に拘りがあったわけではない。
父親が漁師であり、漁猟の他に生計を立てる術がない。
いわば、流されるように漁師となった。
とはいえ別段、今の暮らしに不満があるわけでもなかったが。
その朝も青年はいつものように夜明け前、漁へ出かけた。
海は少し波が高かったが仕事を休む訳にはいかなかった。
なぜなら最近、漁に出ても魚が取れない日々が続いていたからだ。
今、思えば、少しは焦りもあったのだろう。
だから普段は立ち入らないあの海に入ってしまった。
彼は小さな帆船を操り、海へと乗り出した。
目指すは沖合いにある小さな島。
その島は島といっても小さな岩礁でできた無人島だった。
普段、村の漁師は近づかない場所。
理由は簡単。危険な海に浮かぶ島だからだ。
複雑な潮の流れに、島の周囲に存在する暗礁。
海を知る者なら避けて通る場所。そんな場所だった。
だからこそ、穴場とも言えた。
誰も立ち入らない海なら魚も残っているかも知れない。
そんな期待を抱いて彼はその海へと入った。
期待通り、それなりの収穫はあった。
しかし、彼は引き際を誤った。
夢中になって、漁に励んでいた為、風と空が変化していく事に気づけなかった。
逃げ遅れた青年は嵐に巻き込まれ…彼の乗った舟は波にさらわれ見事に転覆した。
###############################
ぼんやりとした視界に最初に映ったのは白と黒の縞々だった。
青年は自分が砂浜の上に仰向けになっている事に気づいた。
どうやらさっきの衝撃で倒れたらしい。背中が酷く痛む。
彼は身を起こそうとして、自分に何かが覆いかぶさっている事を認識する。
柔らかい白黒の縞々が青年の顔を圧迫し、上手く呼吸ができない。
彼は空気を求めて、身を捩りながら喘いだ。
「ひゃうっ!? 変なトコ、触らないでっ!」
突然、青年の頭上で悲鳴が上がった。
彼の顔を圧迫していた縞々が飛び上がるように離れる。
「ぶはっ!」
解放された青年は大きく息を吸い込み、頭上を見上げた。
そこには白黒の縞々とそこから伸びる2本の肌色が見える。
「あー…えーっと…」
「…ヘンタイっ!」
それが少女のパンツと太股だと気づいた時、彼の顔に彼女の膝がめり込んでいた。
「いてて…」
「だ、大丈夫?」
鼻を擦る青年を彼女は心配そうに見上げた。
「あー…まあ、大丈夫だから」
実際はかなり痛むが、子供相手に怒鳴り散らすのも大人げないので、そう答える。
「本当にごめんなさい…」
膝蹴りの後、我に返った少女は事の発端が自らの責任だと気づき、慌てて謝罪してきた。
「いや、もういいって…まあ、お互い事故だったって事で…」
「ううっ…」
青年の言葉にパンツを見られた事を思い出したのが、彼女は真っ赤になって俯く。
「あの…! それじゃあ、あたしはこの辺で! 箒の練習があるので!」
恥ずかしさに耐えられなくなったのか、彼女は早口でそう言い、立ち去ろうとした。
「待ってくれ!」
青年は素早く少女の腕を掴んで引き止める。彼女は驚いた顔で彼を見上げた。
「…君は魔法使いなんだろ!? 空を飛べるんだよな!?」
彼は興奮気味に彼女へと詰め寄る。
「う、うん…あたしは魔女で…ひ、飛行魔法は練習中だけど…」
突然迫られて目を白黒させながらも彼女はそう答えた。
彼の心に希望の光が宿る。
「頼みがある…俺も空に連れてってくれ! あっちの対岸まででいいんだ!」
空さえ飛べれば、この無人島から脱出するのも容易い。
「えっ、あの…2人乗りは自信ないけど…それでもいいなら…」
青年の迫力に押されて、少女は小さな声でそう言う。
「全然構わないって! なあに、ホンの少しの距離だ。君なら上手くいくって!」
彼は浮かれて、根拠もなしにそう断言した。
「分かった…それじゃあ、箒に乗って…」
青年の言葉に気分を良くしたのか、彼女は微笑むと地面に落ちている箒を指差す。
そこには真っ二つに折れた箒の残骸が無残な姿を晒していた。
「にぎゃあああああぁぁぁぁぁっ!? あたしの箒があぁっ!?」
彼女はその残骸に駆け寄るとガクリと膝を折り、両手を地面についた。
「お…おい…それ直る…よな?」
青年は力なく項垂れる少女に近づくと恐る恐るそう尋ねる。
彼女はゆっくりと顔を上げ、彼を見る。その両目には涙。
「む、無理だよぉ……完全に壊れてるしぃ……ううっ、新しい材料に交換しないと…」
彼女は箒の残骸を手にして、さめざめと泣いた。
重苦しい沈黙の後、青年は口を開く。
「…新しい材料は無いんだ」
「うえっ? 材料なら、ウチに帰ればあるよ?」
少女は涙を拭いながら、きょとんとした顔で彼を見上げた。
「帰れないんだよっ!」
希望が打ち砕かれた彼はヒステリックにそう叫ぶ。
大声に驚いた少女の顔に怯えの色が浮かんだ。
「わ、悪い……急に怒鳴ったりして…」
そんな彼女の様子に気づき、青年はバツの悪そうな表情になる。
「…か、帰れないってどういう事?」
怯えた表情で遠慮がちに彼女はそう尋ねてきた。
「この島は岩礁の無人島なんだ…箒の柄になりそうな木は生えてない…」
「え…」
見る見る彼女の顔が青ざめていく。
「潮の流れと暗礁の所為で誰も近づけないし…ここから出て行くこともできない…。
俺たち遭難しているんだよ…」
こうして遭難者は2名となった。
###############################
日が落ち、砂浜は夜の闇に包まれていた。
青年は砂の上に熾した小さな焚き火を枯れ枝で突きながら、向かい側に座る少女をチラリと見る。
そこには空から降ってきた赤紫色の髪の少女―ヘザー=タウンゼントが膝を抱えて座っていた。
年の頃は青年の半分くらいだろうか。幼い外見からそう判断する。
少女は虚ろな目つきで炎をじっと見つめたまま動かない。
遭難の事実を告げてから、ずっとこの調子だった。
不安なのだろう。正直、彼も泣きたい気分だ。
だが、泣こうが喚こうが助けがくる可能性はゼロに等しい。
青年は数年前に両親を流行り病で亡くしていた。彼の身を案じてくれる親兄弟はいない。
もちろん、村の友人、知人は心配してくれるだろうが、まさか彼がここにいるとは思わないだろう。
ヘザーに聞いてみると彼女も似たようなものだった。
彼女は一応、住み込みで魔法の修行をしているが、師匠は外を出歩いている事が多く
最近も家を留守にしているという。こちらも救助の望みは薄だろう。
状況を整理してみると益々気が滅入った。
だが、諦める訳にはいかなかった。
今日の昼までの彼なら絶望に屈していたかもしれない。
けれど今は。ヘザーの…守るべき対象の存在が彼の心を支えていた。
保護欲とでもいうのだろうか。彼の心の奥底でヘザーへの正体不明の想いが渦巻いている。
でも逆にそれがありがたくもあった。
彼1人だったなら今頃完全に挫けていたかもしれない。
「ヘザー、寒くないか?」
沈黙に耐えかねて、彼は何気ないふりを装って少女へ声をかけた。
「あ…うん…少しだけ…」
今の季節は野宿には向かない季節だ。昼間はともかく夜は少々肌寒い。
「じゃ、じゃあ…もう少し薪でもくべるとするかなっ」
わざと明るい調子でそう返す。本当は燃料も乏しいのだが、彼女の手前、不安な要素は見せられない。
「…それより…そ、そっちに行ってもいい…かな…」
「え…あ…うん…別に…か…構わないけど…」
彼女の顔が赤いのは焚き火の所為だと思いたい。
というか、不安プラス寒さで人肌恋しいのだろう。うん。
彼はそう思う事にした。
ヘザーはぐるりと焚き火を迂回し、彼の隣にストンと腰を下ろした。
そして、ごく自然に青年へと体重を預けてくる。
服越しに彼女の体温を感じると妙にドギマギした。
同時に彼女の身体から甘い匂いが漂ってきた。
男の本能か、彼の中に劣情が芽生え、ピクリと股間が反応する。
(いやいや、こんな小さい子を相手に。どんだけ俺は飢えてんだ!)
悲しい事に青年の女性経験は皆無に等しかった。
同年代の友人たちは恋人が出来たり、早い奴は結婚したりしているのに。
そっち方面に今まで無頓着だった事が災いしたのか。恋愛経験すらない。
友人たちの惚気話を聞いては一人寂しく自分を慰める夜を過ごしていた。
いや、そうじゃなくて。
「あの…ごめんね……あたしが箒を壊したりしなければ…こんな事には…」
「へ…」
考え事の最中に急に話しかけられ彼は間の抜けた表情で傍らの少女を見下ろした。
「い、いや…あれは君の所為じゃないっていうか…」
彼女の言葉の内容を遅ればせながら理解し、青年は慰めの言葉を選んだ。
「あー…もう、その話はやめようぜ。済んだ事は仕方ないんだ」
青年はヘザーを元気づけるように彼女の肩を抱く。
「大丈夫、何とかなるって! きっと帰れる!」
自分でも空元気なのは承知の上。今はただ彼女が前向きになる事を願って声を張る。
「…あたし達、きっと帰れるよね」
少しは元気が出てきたのか、少女は微かに笑みを浮かべる。
「ああ、必ず…!」
根拠も無く断言すると彼女は嬉しそうに身体をすり寄せてきた。
「ねえ…兄(にい)やん…って呼んでもいい?」
ヘザーは不意にそんな事を尋ねてきた。
「に、兄やん…?」
「あたしの故郷ではお兄ちゃんの事をそう呼んでたんだけど…。兄やんって呼ばれるのは嫌?」
「い、いや…嫌じゃないけど…耳慣れない言葉だから…ね」
上目遣いに見られては断れる筈もなく。
こうして、青年は彼女の兄やんとなった。
###############################
翌朝、日の出と共に2人は起き出し、行動を開始した。
まずは生き延びる為、そして脱出の糸口を掴む為、2人で砂浜に流れ着いている漂着物を集める事にする。
幸いというべきかどうなのか。青年の乗っていた舟の破片が浜に打ち寄せられていた。
あの後、波に揉まれて、暗礁で粉々になったのだろう。舟は完全にバラバラになっていた。
もはや舟としては使えないが、最悪薪にはなるだろう。
1つ1つ拾っては砂浜の乾いた場所へと重ねていく。
まあ、よしんば舟として使えたとしても、潮と暗礁に行く手は阻まれてどうしようもないが。
そうこうしていた時、彼は波間に一抱えはある大きな破片が浮かんでいる事に気づいた。
何かに使えそうだと思った青年はざぶざぶと海へと入ってそれを掴まえる。
「兄やん、それ…!」
大きな破片を回収して浜に上がるとヘザーが驚いた様子で駆け寄ってきた。
「ああ…何かに使えそうだと思って…」
「うん…使えると思う…」
彼女は目を輝かせて、彼を見上げた。
「…使えるって?」
彼女の言いたい事が分からず、青年は鸚鵡返しに尋ねた。
「飛行魔法に…使えると思う…」
「本当か!?」
ヘザーの思いがけない言葉に彼は思わず叫んだ。
「う、うん…練習した事はないけど…箒には立ち乗りする方法もあって…
立ち乗りには、大きい板の方が向いてるから…」
青年は心の中で彼女の言葉を反芻すると静かに板をヘザーへと差し出した。
「使ってくれ。…俺には魔法の事は分からないけど。今は君だけが頼りなんだ」
「…でも…上手くいくかどうかも…分かんないし…」
ヘザーは俯き、小さな声で言葉を濁す。
「練習しよう。上手く乗れるようになるまで俺は待つから」
力強い彼の言葉に少女は思わず顔を上げた。
「何回、失敗したっていいじゃないか! 何日かかったっていい!
大丈夫、その間、他の事は全部、俺がする! だから君は練習に集中してくれ!」
「でも…本当に…自信ないよ…?」
そう言う少女の視線は弱弱しかった。
「大丈夫…俺はヘザー、君を信じる!」
青年は真っ直ぐに彼女を見つめ、そう言い切る。
「うん! 兄やん、あたし頑張るから!」
その日からヘザーの立ち乗りの猛特訓が始まった。
###############################
波打ち際に箒代わりの板切れを浮かべ、その上に片足を添える。
板に魔力が伝達しやすいようソックスは脱いでおく。
実際には履いていようがいまいが大差ないのだが、気分の問題だ。
無論、全く意味のない事でもない。魔法を使うのにはイメージが重要だ。
素足で直に触れるという事で、魔力を送り込むイメージをより明確にする。
魔力を注いで数秒もすれば、波の上で揺れていた板が足の下でピタリと静止した。
板がわずかに水面から浮き上がったのだ。
ヘザーはそれを確かめると勢い良く。残った足を板の上へと上げた。
一瞬の浮遊感。
そして、傾く世界。
「ふえっ?」
派手な水しぶきを上げて少女は海の中へと倒れた。
「うえっ!? げほっ、げほっ!」
何とか起き上がり、鼻や口の中に入った海水を吐き出す。
「大丈夫か!?」
少し離れた場所で釣りをしていた青年が騒ぎに気づき駆け寄ってきた。
「だ、大丈夫…」
海の中に落ちた為、身体に被害は無い。見事にずぶ濡れな事を除いては。
「あうう…」
水をたっぷり吸い込んだ布が肌に張り付いて気持ち悪い。
まさかここまで安定しないとは…。
一応、箒を浮かせる能力はあると思って、完全に油断していた。
「服脱がなきゃ…」
最初から脱いでおけば良かった。それなら被害は最小で済んだのに…。
自分の迂闊さを呪いつつ、ヘザーは砂浜へと上がる。
そして、おもむろに上着のボタンを外していく。
「ちょ、おま…何脱いでんだ…!」
傍にいた青年がいきなり叫び声を上げる。
視線を向けると、彼は顔を赤らめ、慌てた様子でそっぽを向いていた。
「え…だって、濡れたままだと風邪引きそうだし…?」
「あ…あのなあ…」
理由を答えると彼は脱力して、ガクリと肩を落とした。
一体、兄やんは何が言いたいんだろう?
上着もスカートも脱ぎ、キャミソールにパンツだけになる。
本当は全部脱ぎたかったけど、それにはちょっと抵抗があった。
胸とか股間とか、湿った布が擦れてムズムズするんだけど、それは我慢。
「服、干してくるわ…」
「うん。お願い、兄やん」
浜辺に脱ぎ捨てた服を拾い集め、彼はゆっくりと立ち去っていった。
ヘザーは適当に返事を返しながらも再び魔力を集中させる。
そして、もう一度、板に片足を乗せた時、彼女は気づいた。
下着姿を青年に見られた事を。
瞬間、血液が沸騰し、羞恥心で顔が茹るほど真っ赤になる。
となれば、当然、集中も乱れるわけで。
過剰に魔力を注がれた板切れが足の下で跳ね上がり、ヘザーの足を掬う。
「ぎにゃあぁっ!?」
彼女は再び、海へと沈んだ。
###############################
「くしゅん!」
焚き火の向かい側でヘザーの可愛らしいくしゃみが聞こえた。
「ヘザー、寒いのか?」
青年の心配そうな顔が少女を見る。
「ううん、平気…」
毛布代わりに身体へ纏った帆布を何重にも巻きつける。
硬い帆布はごわごわとして肌触りも悪いが贅沢は言ってられない。
ヘザーの今日の練習は結局、板の上に乗る所までしか進まなかった。
彼女はあの後、何度も海に落ちたものの、最後には板の上に立つ所までは上達していた。
とはいえ、その姿勢を立つのが精一杯で板を動かす事もできないが。
この調子で本当に飛べるようになるのだろうか。
そんな不安が少女の中で頭をもたげる。
実の所を言えば、箒で練習していた時も浮き上がるまで、かなり時間がかかった。
けれど、今回は時間がない。のんびりとしている訳にはいかないのだ。
ヘザーはそう考えながら、焚き火の向かい側に座る青年を見つめた。
彼の顔には疲労の色が濃い。当然だ。
食料探しや焚き火の燃料集め、生活に必要な事は全て彼がこなしてくれている。
さっきの夕食の時だって、自分は料理しながら食べたとか言って、
焚き火で焼いていた小魚を全部、彼女へと渡してくれた。
青年がロクに食事を取っていないのは、彼の姿を見ていれば分かる。
ヘザーの飛行魔法に生還の望みを託しての行動なのかもしれないが、
それでも彼は何かにつけて彼女の世話を焼いてくれる…。
「どうした?」
青年の顔を見つめていると不意に視線があった。
「…そんなに落ち込むなって。大丈夫、明日はもっと上達するって」
ヘザーが練習で失敗して落ち込んでいるとでも思ったのか。
彼は笑顔を浮かべてそう励ましてくれる。
「うん、大丈夫だよね…」
青年の笑顔を見ていると、つられて彼女も笑顔になる。
不思議な気分だった。
青年の大丈夫という言葉を聞くと本当になんとかなりそうな気がしてくる。
根拠がない事は彼女も理解している。
それでも彼の大丈夫はヘザーに元気と勇気をくれる。
だから…。
ヘザーは焚き火を回り込むと青年の隣に立ち、両手を横へ開き、バサリと帆布を広げた。
「いっ…」
焚き火にヘザーの白い裸身が照らされる。
こちらを見上げる彼の驚いた顔。
少女は躊躇なく、青年に抱きつくと帆布で2人の身体を覆った。
「こうすれば暖かいし…大丈夫だよ…」
大丈夫。見えないから恥ずかしくない。自分にそう言い聞かせる。
「あ…ありがとう…」
ガチガチに緊張した声で彼がそんな事を言った。
「どうしたしまして」
それに微笑みで答える。
肌を寄せていると、なんだか心も身体もくすぐったかった。
彼の傍にいると心の中にわだかまっていた不安も溶けていく。
だからだろうか。
ついつい、昔話をしてしまったのも…。
そう、あれはヘザーがまだ本当に子供だった頃…。
###############################
その日、彼女は生まれて初めて魔王城の城下町を訪れた。
両親に連れられて、初めて歩いた町は見たこともない賑わいだった。
それもその筈、その日はサバト主催の飛行魔法大会の当日。
どこも見物客でごったがえしていた。
ヘザーがレースのゴールである大通りに辿り着いた時、
大会は終盤に差し掛かっていた。
通りに面した建物に掛けられた大きな白い幕に魔法の幻影が投影され、
レースの実況中継を映し出しているのが見える。
そこに映っていたのは青い飛行服(フライトスーツ)に身を包んだ黒髪の魔女。
前回の大会の優勝者。そして、今大会もトップを独走する伝説の魔女。
大会優勝者に贈られる称号。
《最速の魔女》(ライトニング・ウィッチ)の名を欲しいままにする空の女王。
その勇姿は幼かった少女の心に衝撃を与えた。
ぶっちぎりの一位でゴールした青い魔女を観客たちが轟音のような声援をもって迎える。
彼女は観客たちの声援に応える為、城下町の上空をぐるりと一周した。
観客たちに手を振りながら、悠然と空を舞う魔女の姿はヘザーの記憶にしっかりと焼きついた。
「それでね…飛行魔法を覚える為に魔術学校に入学したんだけど…」
入学したものの、飛行魔法の基礎となる初級魔法すら習得できずに落第した事。
その時、分かったのがヘザーに魔法の才能が欠如している事実。
それでも諦めきれずに今の師匠に弟子入りして、何とか飛行魔法の訓練を始めた事。
「あたしじゃ、伝説の青い魔女みたいにはなれないと思う。
でも夢を諦めたくない。大会に参加するのがあたしの夢だもん。
だから絶対に飛行魔法だけはマスターしてみせるんだ」
焚き火を見つめながら、そう語るヘザーの瞳は生き生きと輝いていた。
「夢か…」
そんな少女の姿を眩しそうな目で見つめながら、青年はポツリと呟く。
自分の夢は何なのだろう?
そんな疑問が彼の胸中に生じた。
今まで考えた事もなかった疑問。
彼は自分が今まで何となく漁師を続けていた事に気づいた。
年頃になり、両親の仕事を手伝うようになり、気がつけば漁師になっていた。
別に漁師と仕事が立派とかそうじゃないとか、そういう意味ではない。
けれど、彼は今日を。日々の忙しさにかまけ。
いつの間にか、明日という未来を考える事を忘れてしまっていた。
それ故に純粋に自分の夢を追いかける少女を。青年は眩しく感じた。
「ヘザーなら《最速の魔女》にきっと成れるさ」
自分にできる事は彼女を応援する事くらい。
そんな風に考えながら青年は少女を励ます。
「うん、絶対に諦めないよ!」
風で散り散りになった雲の合間を海鳥たちがゆっくりと渡っていく。
「ちくしょう…」
呟いて、手を伸ばしても空へは届かない。
自由に空を飛ぶ鳥たちが羨ましく妬ましい。
もうどのくらい、こうして空を見上げているだろうか。
絶望と孤独が彼の時間感覚を麻痺させ、行動する気力を奪っている。
けれど、身体は正直なもので。
ぐぅと腹の虫が鳴り、その青年は気だるげに身体を起こした。
空きっ腹を抱えながら、彼はのろのろと立ち上がる。
このままでは本当に死んでしまう。待っていても助けは現れない。
現実は否が応にも彼を急き立てる。
立ち上がり、睨みつけるように周囲を見渡す。
眼前に広がるのは海の青。
彼は無人島で1人、絶賛遭難中だった。
青年は暗い表情で浜辺を歩く。
何か使える道具があれば、それで魚でも取るのだが…。
血眼になって、波打ち際を見下ろしながら進む。
「止まってえええええぇぇぇぇぇっ!!」
何の前触れも無く前方からそんな悲鳴が聞こえてきた。
はっとなり、顔を上げる。
誰もいない。
「お願いだからあああぁぁぁっ!?」
だが、悲鳴は続いている。
その声が前方の、それも空の方から響いてくるのに気づく。
不思議に思って、見上げれば、青い空に1つ。赤い染みが見えた。
その染みは徐々に大きくなっていき、やがて人間だと気づく。
(人間…? どうして人間が空に…?)
空中に人間と言う非常識な組み合わせに青年の思考が停止する。
それ故に。彼は迫り来る危険を回避するのが遅れた。
気づけば、その少女は前方上空から物凄い勢いで彼へと迫っていた。
箒(ほうき)に跨った赤い服の少女。その姿が目に焼きつく。
もはや避けられないタイミング。
だが、突然、箒の柄の先端がガクリと下を向き、砂浜へと突き刺さった。
ボキリと木の折れる音が響いたような気もする。
何故曖昧な言い方のかといえば、その直後、彼の意識も途切れたからだ。
「きゃあああああぁぁぁぁぁっ!?」
箒の上から放り出された少女がそのままの勢いで青年の上半身に激突する。
その衝撃で彼は吹き飛ばされ、意識を失った。
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青年は海辺の小さな漁村に生を受け、平凡に育ち。
そして、気がつけば、漁師になっていた。
彼は特別、漁師という職業に拘りがあったわけではない。
父親が漁師であり、漁猟の他に生計を立てる術がない。
いわば、流されるように漁師となった。
とはいえ別段、今の暮らしに不満があるわけでもなかったが。
その朝も青年はいつものように夜明け前、漁へ出かけた。
海は少し波が高かったが仕事を休む訳にはいかなかった。
なぜなら最近、漁に出ても魚が取れない日々が続いていたからだ。
今、思えば、少しは焦りもあったのだろう。
だから普段は立ち入らないあの海に入ってしまった。
彼は小さな帆船を操り、海へと乗り出した。
目指すは沖合いにある小さな島。
その島は島といっても小さな岩礁でできた無人島だった。
普段、村の漁師は近づかない場所。
理由は簡単。危険な海に浮かぶ島だからだ。
複雑な潮の流れに、島の周囲に存在する暗礁。
海を知る者なら避けて通る場所。そんな場所だった。
だからこそ、穴場とも言えた。
誰も立ち入らない海なら魚も残っているかも知れない。
そんな期待を抱いて彼はその海へと入った。
期待通り、それなりの収穫はあった。
しかし、彼は引き際を誤った。
夢中になって、漁に励んでいた為、風と空が変化していく事に気づけなかった。
逃げ遅れた青年は嵐に巻き込まれ…彼の乗った舟は波にさらわれ見事に転覆した。
###############################
ぼんやりとした視界に最初に映ったのは白と黒の縞々だった。
青年は自分が砂浜の上に仰向けになっている事に気づいた。
どうやらさっきの衝撃で倒れたらしい。背中が酷く痛む。
彼は身を起こそうとして、自分に何かが覆いかぶさっている事を認識する。
柔らかい白黒の縞々が青年の顔を圧迫し、上手く呼吸ができない。
彼は空気を求めて、身を捩りながら喘いだ。
「ひゃうっ!? 変なトコ、触らないでっ!」
突然、青年の頭上で悲鳴が上がった。
彼の顔を圧迫していた縞々が飛び上がるように離れる。
「ぶはっ!」
解放された青年は大きく息を吸い込み、頭上を見上げた。
そこには白黒の縞々とそこから伸びる2本の肌色が見える。
「あー…えーっと…」
「…ヘンタイっ!」
それが少女のパンツと太股だと気づいた時、彼の顔に彼女の膝がめり込んでいた。
「いてて…」
「だ、大丈夫?」
鼻を擦る青年を彼女は心配そうに見上げた。
「あー…まあ、大丈夫だから」
実際はかなり痛むが、子供相手に怒鳴り散らすのも大人げないので、そう答える。
「本当にごめんなさい…」
膝蹴りの後、我に返った少女は事の発端が自らの責任だと気づき、慌てて謝罪してきた。
「いや、もういいって…まあ、お互い事故だったって事で…」
「ううっ…」
青年の言葉にパンツを見られた事を思い出したのが、彼女は真っ赤になって俯く。
「あの…! それじゃあ、あたしはこの辺で! 箒の練習があるので!」
恥ずかしさに耐えられなくなったのか、彼女は早口でそう言い、立ち去ろうとした。
「待ってくれ!」
青年は素早く少女の腕を掴んで引き止める。彼女は驚いた顔で彼を見上げた。
「…君は魔法使いなんだろ!? 空を飛べるんだよな!?」
彼は興奮気味に彼女へと詰め寄る。
「う、うん…あたしは魔女で…ひ、飛行魔法は練習中だけど…」
突然迫られて目を白黒させながらも彼女はそう答えた。
彼の心に希望の光が宿る。
「頼みがある…俺も空に連れてってくれ! あっちの対岸まででいいんだ!」
空さえ飛べれば、この無人島から脱出するのも容易い。
「えっ、あの…2人乗りは自信ないけど…それでもいいなら…」
青年の迫力に押されて、少女は小さな声でそう言う。
「全然構わないって! なあに、ホンの少しの距離だ。君なら上手くいくって!」
彼は浮かれて、根拠もなしにそう断言した。
「分かった…それじゃあ、箒に乗って…」
青年の言葉に気分を良くしたのか、彼女は微笑むと地面に落ちている箒を指差す。
そこには真っ二つに折れた箒の残骸が無残な姿を晒していた。
「にぎゃあああああぁぁぁぁぁっ!? あたしの箒があぁっ!?」
彼女はその残骸に駆け寄るとガクリと膝を折り、両手を地面についた。
「お…おい…それ直る…よな?」
青年は力なく項垂れる少女に近づくと恐る恐るそう尋ねる。
彼女はゆっくりと顔を上げ、彼を見る。その両目には涙。
「む、無理だよぉ……完全に壊れてるしぃ……ううっ、新しい材料に交換しないと…」
彼女は箒の残骸を手にして、さめざめと泣いた。
重苦しい沈黙の後、青年は口を開く。
「…新しい材料は無いんだ」
「うえっ? 材料なら、ウチに帰ればあるよ?」
少女は涙を拭いながら、きょとんとした顔で彼を見上げた。
「帰れないんだよっ!」
希望が打ち砕かれた彼はヒステリックにそう叫ぶ。
大声に驚いた少女の顔に怯えの色が浮かんだ。
「わ、悪い……急に怒鳴ったりして…」
そんな彼女の様子に気づき、青年はバツの悪そうな表情になる。
「…か、帰れないってどういう事?」
怯えた表情で遠慮がちに彼女はそう尋ねてきた。
「この島は岩礁の無人島なんだ…箒の柄になりそうな木は生えてない…」
「え…」
見る見る彼女の顔が青ざめていく。
「潮の流れと暗礁の所為で誰も近づけないし…ここから出て行くこともできない…。
俺たち遭難しているんだよ…」
こうして遭難者は2名となった。
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日が落ち、砂浜は夜の闇に包まれていた。
青年は砂の上に熾した小さな焚き火を枯れ枝で突きながら、向かい側に座る少女をチラリと見る。
そこには空から降ってきた赤紫色の髪の少女―ヘザー=タウンゼントが膝を抱えて座っていた。
年の頃は青年の半分くらいだろうか。幼い外見からそう判断する。
少女は虚ろな目つきで炎をじっと見つめたまま動かない。
遭難の事実を告げてから、ずっとこの調子だった。
不安なのだろう。正直、彼も泣きたい気分だ。
だが、泣こうが喚こうが助けがくる可能性はゼロに等しい。
青年は数年前に両親を流行り病で亡くしていた。彼の身を案じてくれる親兄弟はいない。
もちろん、村の友人、知人は心配してくれるだろうが、まさか彼がここにいるとは思わないだろう。
ヘザーに聞いてみると彼女も似たようなものだった。
彼女は一応、住み込みで魔法の修行をしているが、師匠は外を出歩いている事が多く
最近も家を留守にしているという。こちらも救助の望みは薄だろう。
状況を整理してみると益々気が滅入った。
だが、諦める訳にはいかなかった。
今日の昼までの彼なら絶望に屈していたかもしれない。
けれど今は。ヘザーの…守るべき対象の存在が彼の心を支えていた。
保護欲とでもいうのだろうか。彼の心の奥底でヘザーへの正体不明の想いが渦巻いている。
でも逆にそれがありがたくもあった。
彼1人だったなら今頃完全に挫けていたかもしれない。
「ヘザー、寒くないか?」
沈黙に耐えかねて、彼は何気ないふりを装って少女へ声をかけた。
「あ…うん…少しだけ…」
今の季節は野宿には向かない季節だ。昼間はともかく夜は少々肌寒い。
「じゃ、じゃあ…もう少し薪でもくべるとするかなっ」
わざと明るい調子でそう返す。本当は燃料も乏しいのだが、彼女の手前、不安な要素は見せられない。
「…それより…そ、そっちに行ってもいい…かな…」
「え…あ…うん…別に…か…構わないけど…」
彼女の顔が赤いのは焚き火の所為だと思いたい。
というか、不安プラス寒さで人肌恋しいのだろう。うん。
彼はそう思う事にした。
ヘザーはぐるりと焚き火を迂回し、彼の隣にストンと腰を下ろした。
そして、ごく自然に青年へと体重を預けてくる。
服越しに彼女の体温を感じると妙にドギマギした。
同時に彼女の身体から甘い匂いが漂ってきた。
男の本能か、彼の中に劣情が芽生え、ピクリと股間が反応する。
(いやいや、こんな小さい子を相手に。どんだけ俺は飢えてんだ!)
悲しい事に青年の女性経験は皆無に等しかった。
同年代の友人たちは恋人が出来たり、早い奴は結婚したりしているのに。
そっち方面に今まで無頓着だった事が災いしたのか。恋愛経験すらない。
友人たちの惚気話を聞いては一人寂しく自分を慰める夜を過ごしていた。
いや、そうじゃなくて。
「あの…ごめんね……あたしが箒を壊したりしなければ…こんな事には…」
「へ…」
考え事の最中に急に話しかけられ彼は間の抜けた表情で傍らの少女を見下ろした。
「い、いや…あれは君の所為じゃないっていうか…」
彼女の言葉の内容を遅ればせながら理解し、青年は慰めの言葉を選んだ。
「あー…もう、その話はやめようぜ。済んだ事は仕方ないんだ」
青年はヘザーを元気づけるように彼女の肩を抱く。
「大丈夫、何とかなるって! きっと帰れる!」
自分でも空元気なのは承知の上。今はただ彼女が前向きになる事を願って声を張る。
「…あたし達、きっと帰れるよね」
少しは元気が出てきたのか、少女は微かに笑みを浮かべる。
「ああ、必ず…!」
根拠も無く断言すると彼女は嬉しそうに身体をすり寄せてきた。
「ねえ…兄(にい)やん…って呼んでもいい?」
ヘザーは不意にそんな事を尋ねてきた。
「に、兄やん…?」
「あたしの故郷ではお兄ちゃんの事をそう呼んでたんだけど…。兄やんって呼ばれるのは嫌?」
「い、いや…嫌じゃないけど…耳慣れない言葉だから…ね」
上目遣いに見られては断れる筈もなく。
こうして、青年は彼女の兄やんとなった。
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翌朝、日の出と共に2人は起き出し、行動を開始した。
まずは生き延びる為、そして脱出の糸口を掴む為、2人で砂浜に流れ着いている漂着物を集める事にする。
幸いというべきかどうなのか。青年の乗っていた舟の破片が浜に打ち寄せられていた。
あの後、波に揉まれて、暗礁で粉々になったのだろう。舟は完全にバラバラになっていた。
もはや舟としては使えないが、最悪薪にはなるだろう。
1つ1つ拾っては砂浜の乾いた場所へと重ねていく。
まあ、よしんば舟として使えたとしても、潮と暗礁に行く手は阻まれてどうしようもないが。
そうこうしていた時、彼は波間に一抱えはある大きな破片が浮かんでいる事に気づいた。
何かに使えそうだと思った青年はざぶざぶと海へと入ってそれを掴まえる。
「兄やん、それ…!」
大きな破片を回収して浜に上がるとヘザーが驚いた様子で駆け寄ってきた。
「ああ…何かに使えそうだと思って…」
「うん…使えると思う…」
彼女は目を輝かせて、彼を見上げた。
「…使えるって?」
彼女の言いたい事が分からず、青年は鸚鵡返しに尋ねた。
「飛行魔法に…使えると思う…」
「本当か!?」
ヘザーの思いがけない言葉に彼は思わず叫んだ。
「う、うん…練習した事はないけど…箒には立ち乗りする方法もあって…
立ち乗りには、大きい板の方が向いてるから…」
青年は心の中で彼女の言葉を反芻すると静かに板をヘザーへと差し出した。
「使ってくれ。…俺には魔法の事は分からないけど。今は君だけが頼りなんだ」
「…でも…上手くいくかどうかも…分かんないし…」
ヘザーは俯き、小さな声で言葉を濁す。
「練習しよう。上手く乗れるようになるまで俺は待つから」
力強い彼の言葉に少女は思わず顔を上げた。
「何回、失敗したっていいじゃないか! 何日かかったっていい!
大丈夫、その間、他の事は全部、俺がする! だから君は練習に集中してくれ!」
「でも…本当に…自信ないよ…?」
そう言う少女の視線は弱弱しかった。
「大丈夫…俺はヘザー、君を信じる!」
青年は真っ直ぐに彼女を見つめ、そう言い切る。
「うん! 兄やん、あたし頑張るから!」
その日からヘザーの立ち乗りの猛特訓が始まった。
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波打ち際に箒代わりの板切れを浮かべ、その上に片足を添える。
板に魔力が伝達しやすいようソックスは脱いでおく。
実際には履いていようがいまいが大差ないのだが、気分の問題だ。
無論、全く意味のない事でもない。魔法を使うのにはイメージが重要だ。
素足で直に触れるという事で、魔力を送り込むイメージをより明確にする。
魔力を注いで数秒もすれば、波の上で揺れていた板が足の下でピタリと静止した。
板がわずかに水面から浮き上がったのだ。
ヘザーはそれを確かめると勢い良く。残った足を板の上へと上げた。
一瞬の浮遊感。
そして、傾く世界。
「ふえっ?」
派手な水しぶきを上げて少女は海の中へと倒れた。
「うえっ!? げほっ、げほっ!」
何とか起き上がり、鼻や口の中に入った海水を吐き出す。
「大丈夫か!?」
少し離れた場所で釣りをしていた青年が騒ぎに気づき駆け寄ってきた。
「だ、大丈夫…」
海の中に落ちた為、身体に被害は無い。見事にずぶ濡れな事を除いては。
「あうう…」
水をたっぷり吸い込んだ布が肌に張り付いて気持ち悪い。
まさかここまで安定しないとは…。
一応、箒を浮かせる能力はあると思って、完全に油断していた。
「服脱がなきゃ…」
最初から脱いでおけば良かった。それなら被害は最小で済んだのに…。
自分の迂闊さを呪いつつ、ヘザーは砂浜へと上がる。
そして、おもむろに上着のボタンを外していく。
「ちょ、おま…何脱いでんだ…!」
傍にいた青年がいきなり叫び声を上げる。
視線を向けると、彼は顔を赤らめ、慌てた様子でそっぽを向いていた。
「え…だって、濡れたままだと風邪引きそうだし…?」
「あ…あのなあ…」
理由を答えると彼は脱力して、ガクリと肩を落とした。
一体、兄やんは何が言いたいんだろう?
上着もスカートも脱ぎ、キャミソールにパンツだけになる。
本当は全部脱ぎたかったけど、それにはちょっと抵抗があった。
胸とか股間とか、湿った布が擦れてムズムズするんだけど、それは我慢。
「服、干してくるわ…」
「うん。お願い、兄やん」
浜辺に脱ぎ捨てた服を拾い集め、彼はゆっくりと立ち去っていった。
ヘザーは適当に返事を返しながらも再び魔力を集中させる。
そして、もう一度、板に片足を乗せた時、彼女は気づいた。
下着姿を青年に見られた事を。
瞬間、血液が沸騰し、羞恥心で顔が茹るほど真っ赤になる。
となれば、当然、集中も乱れるわけで。
過剰に魔力を注がれた板切れが足の下で跳ね上がり、ヘザーの足を掬う。
「ぎにゃあぁっ!?」
彼女は再び、海へと沈んだ。
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「くしゅん!」
焚き火の向かい側でヘザーの可愛らしいくしゃみが聞こえた。
「ヘザー、寒いのか?」
青年の心配そうな顔が少女を見る。
「ううん、平気…」
毛布代わりに身体へ纏った帆布を何重にも巻きつける。
硬い帆布はごわごわとして肌触りも悪いが贅沢は言ってられない。
ヘザーの今日の練習は結局、板の上に乗る所までしか進まなかった。
彼女はあの後、何度も海に落ちたものの、最後には板の上に立つ所までは上達していた。
とはいえ、その姿勢を立つのが精一杯で板を動かす事もできないが。
この調子で本当に飛べるようになるのだろうか。
そんな不安が少女の中で頭をもたげる。
実の所を言えば、箒で練習していた時も浮き上がるまで、かなり時間がかかった。
けれど、今回は時間がない。のんびりとしている訳にはいかないのだ。
ヘザーはそう考えながら、焚き火の向かい側に座る青年を見つめた。
彼の顔には疲労の色が濃い。当然だ。
食料探しや焚き火の燃料集め、生活に必要な事は全て彼がこなしてくれている。
さっきの夕食の時だって、自分は料理しながら食べたとか言って、
焚き火で焼いていた小魚を全部、彼女へと渡してくれた。
青年がロクに食事を取っていないのは、彼の姿を見ていれば分かる。
ヘザーの飛行魔法に生還の望みを託しての行動なのかもしれないが、
それでも彼は何かにつけて彼女の世話を焼いてくれる…。
「どうした?」
青年の顔を見つめていると不意に視線があった。
「…そんなに落ち込むなって。大丈夫、明日はもっと上達するって」
ヘザーが練習で失敗して落ち込んでいるとでも思ったのか。
彼は笑顔を浮かべてそう励ましてくれる。
「うん、大丈夫だよね…」
青年の笑顔を見ていると、つられて彼女も笑顔になる。
不思議な気分だった。
青年の大丈夫という言葉を聞くと本当になんとかなりそうな気がしてくる。
根拠がない事は彼女も理解している。
それでも彼の大丈夫はヘザーに元気と勇気をくれる。
だから…。
ヘザーは焚き火を回り込むと青年の隣に立ち、両手を横へ開き、バサリと帆布を広げた。
「いっ…」
焚き火にヘザーの白い裸身が照らされる。
こちらを見上げる彼の驚いた顔。
少女は躊躇なく、青年に抱きつくと帆布で2人の身体を覆った。
「こうすれば暖かいし…大丈夫だよ…」
大丈夫。見えないから恥ずかしくない。自分にそう言い聞かせる。
「あ…ありがとう…」
ガチガチに緊張した声で彼がそんな事を言った。
「どうしたしまして」
それに微笑みで答える。
肌を寄せていると、なんだか心も身体もくすぐったかった。
彼の傍にいると心の中にわだかまっていた不安も溶けていく。
だからだろうか。
ついつい、昔話をしてしまったのも…。
そう、あれはヘザーがまだ本当に子供だった頃…。
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その日、彼女は生まれて初めて魔王城の城下町を訪れた。
両親に連れられて、初めて歩いた町は見たこともない賑わいだった。
それもその筈、その日はサバト主催の飛行魔法大会の当日。
どこも見物客でごったがえしていた。
ヘザーがレースのゴールである大通りに辿り着いた時、
大会は終盤に差し掛かっていた。
通りに面した建物に掛けられた大きな白い幕に魔法の幻影が投影され、
レースの実況中継を映し出しているのが見える。
そこに映っていたのは青い飛行服(フライトスーツ)に身を包んだ黒髪の魔女。
前回の大会の優勝者。そして、今大会もトップを独走する伝説の魔女。
大会優勝者に贈られる称号。
《最速の魔女》(ライトニング・ウィッチ)の名を欲しいままにする空の女王。
その勇姿は幼かった少女の心に衝撃を与えた。
ぶっちぎりの一位でゴールした青い魔女を観客たちが轟音のような声援をもって迎える。
彼女は観客たちの声援に応える為、城下町の上空をぐるりと一周した。
観客たちに手を振りながら、悠然と空を舞う魔女の姿はヘザーの記憶にしっかりと焼きついた。
「それでね…飛行魔法を覚える為に魔術学校に入学したんだけど…」
入学したものの、飛行魔法の基礎となる初級魔法すら習得できずに落第した事。
その時、分かったのがヘザーに魔法の才能が欠如している事実。
それでも諦めきれずに今の師匠に弟子入りして、何とか飛行魔法の訓練を始めた事。
「あたしじゃ、伝説の青い魔女みたいにはなれないと思う。
でも夢を諦めたくない。大会に参加するのがあたしの夢だもん。
だから絶対に飛行魔法だけはマスターしてみせるんだ」
焚き火を見つめながら、そう語るヘザーの瞳は生き生きと輝いていた。
「夢か…」
そんな少女の姿を眩しそうな目で見つめながら、青年はポツリと呟く。
自分の夢は何なのだろう?
そんな疑問が彼の胸中に生じた。
今まで考えた事もなかった疑問。
彼は自分が今まで何となく漁師を続けていた事に気づいた。
年頃になり、両親の仕事を手伝うようになり、気がつけば漁師になっていた。
別に漁師と仕事が立派とかそうじゃないとか、そういう意味ではない。
けれど、彼は今日を。日々の忙しさにかまけ。
いつの間にか、明日という未来を考える事を忘れてしまっていた。
それ故に純粋に自分の夢を追いかける少女を。青年は眩しく感じた。
「ヘザーなら《最速の魔女》にきっと成れるさ」
自分にできる事は彼女を応援する事くらい。
そんな風に考えながら青年は少女を励ます。
「うん、絶対に諦めないよ!」
11/06/23 15:58更新 / 蔭ル。
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