感情表現が苦手です。
表情とはなんでしょう?
言葉以外で相手に感情を伝える、コミュニケーションの一つだと聞いたことがあります。
しかし、それは本当に必要でしょうか?
感情なんて語尾に「ぷんぷん」とか「しくしく」とかつければいいじゃないですか。
その程度のものじゃないですか。
皆さんは表情に頼りすぎているのです。
だから私の気持ちなどわからないのです。
「……はぁ」
沼があります。
私の目の前には澄んだ水と、大量の沈殿する泥がある沼です。
底が浅い池のように見えるのですが、実は結構深いです。
沼の水面は波紋一つ起こさない鏡のようになっていて、上空の青空を写します。
ぐるりと沼を囲むように木々が立っており、日の当たる所は日の光りを反射して、キラリと輝いています。
この沼は、それなりに明るい場所なのです。
花や森の動物などがいれば、絵本などで見るような素敵な池や湖みたいになるのでしょうが、あいにくこの沼には動物は近づかず、水草の花などは咲いていません。
生えているのは、とろけの野菜と水草ぐらいです。
彩りがあまりない、地味な沼です。
「…………はぁ」
この沼は昔から『彷徨い沼』と呼ばれ、それなりに有名な沼……らしいです。
『彷徨い沼』は明緑魔界でもめずらしいらしく、魔王城の偉いバフォメット様が保護対象として扱われるほど貴重な沼みたいです。
魔王軍魔術部のバフォメット様が言うには、
『とろけの野菜が群衆するほどの魔力を持っていながら、闇精霊のウンディーネが住んでおらず、魔界の水のようにとろみもなく桃色がかっていない。
それどころか、沼の水は魔力のないタダの真水でありり、普通の人間が飲んでも魔物化、インキュバス化しないのだ。
だが反対に、泥には高濃度の魔力が含まれており、少し触れただけでも魔物化、インキュバス化する可能性を持っている。
採取場所にもよるが、一般的な暗黒魔界の土よりも多くの魔力を豊富に含んでいるのもわかった。
これほどの魔力を保有しているにもかかわらず、ダークマターの出現、沼周辺の暗黒魔界化などが起きないのは不可解である。
他にも目を見張る箇所はいくつもあるが、このような沼があること自体が不思議でならない』
らしいです。
子供の時にお父さんに読んでもらったモン娘新聞にはそう書いてありました。
なので、昔から親に『あの沼は危険だから決して近づいちゃいけません!』と言われています。
子供だった私はすぐに沼を見に行きました。
そしてガッカリしました。
だって、見た目はいたって普通の…………地味な沼にしか見えませんでしたから。
ただ……大人の魔物娘や人間さん達は出来るだけこの沼には近づかないようにしています。
二人っきりになりたいカップルでさえこの場所には近づきません。
つまりです、落ち込んで一人になりたい時などにはうってつけの場所といことなのです。
「………………はぁ」
そんな『彷徨い沼』の水の鏡に、沼を覗き込む魔物娘が一人映っています。
ピンク色の長い後ろ髪を青色の丸い玉の飾りがついたバンドでまとめ、髪を両側で縛ったもっさりとしたツインテイールにしています。
前の髪はそのままで、顔横側に生えている長い髪は顔の両側から胸までさらりと垂れ下がっています。
少しつり上がった目元にオレンジ色の目は愛らしくも気が強そうです。
両耳には雫のような形をした赤い耳飾りがキラリと光ります。
子供のような童顔で、口元は小さく、開いたり閉じたりして深呼吸しているようです。
それらのパーツで作られた顔は、少々気が強そうな印象を受けますが、怒っているのか笑っているのか、それどころか何を考えているのかわからない無表情です。
首には骨で出来た首輪のようなものが付いており、首飾りのような青い目のついたハサミのなアクセサリーがくっついています。
胸はピンク色の布で隠されており、胸の中央あたりには突起が浮き出て見えますが、それは胸を覆っている茶色い貝です。
それほど大きくない胸なので、真下の下半身がよく見えるようですね。
腕はピンク色の布をジパングの着物のように着て、裾からは腕や手は出してません。
腕の上腕部分と手に当たる部分には赤いリボンがついています。
腕のリボンは布がズレ下がるの防ぐため、手についてたリボンは、どうやらリボンの真下にはスリットが入っていて、手や泡が簡単に出せるような仕組みになっているようです。
上半身は胸と腕以外の布は着ておらす、可愛いおへそが覗いています。
お腹はまるだしです。冬になったら大変寒そうな格好ですね。
そんな魔物娘の上半身パッと見た感想は、大人びた雰囲気なのに、見た目は少女と変わりありません。
大人にもなってない少女が少し背伸びして大人のような格好をしている、ような感じです。
さらに目線を下へと移すと、腰から下は蟹の姿をしいました。
その魔物娘の第二の目である藍色の蟹の目や、蟹のハサミ、8本の足があります。
どれも毎日手入れをしているのでしょうね、メタリックのように太陽の光りをツヤツヤ反射しています。
蟹の胴体から生えている蟹の目は青い宝石の中に黒目があり、時折パチクリと瞬きをしています。
蟹の口では少しだけ開け絞めされ、その間からはびっしりとブラシのような毛が生えています。
そこから細かな泡がついており、そのブラシを少しでもここすれば泡がどんどん出てきそうです。
人間部分の上半身の腰の後ろ辺にもブラシがついた甲羅があり、上半身を左右に動かすたびにぴったりと張り付いて、蟹の口と後ろの甲羅で上半身を支え、下半身を隠しています。
ハサミは大人の人間の胴体を挟めるほど大きく、ハサミの刃の部分には凹凸が付いています。
切れ味は無さそうに見えますが、力強さは感じられます。
蟹の胴体部分にも凹凸がありますが、表面が凸凹している程度です。触っても痛くなさそうです。
胴体から生えた左右4本づつの蟹足は、人間の上半身と蟹の下半身をがっしりと支えています。
一言で言うと、無表情のキャンサーが沼を覗き込んでいたのです。
下半身の蟹は全く動きません。
このキャンサーは何を考えているのでしょう?
さっぱりわかりません。
ああ、やっぱり表情は必要ですね。
このキャンサーを見ていると強く思います。
いくら言葉が通じあっても、いつも話しているわけではありませんし。
それに、話しかけようとした時だって相手の機嫌が悪かったら嫌ですから。
話しかけるなら悪い時よりいい時の方がいいに決まってます。
うん、表情はあったほうがいい。
そう……あったほうがいいのです。
水の鏡に写る『私』には、表情という物があった方がいい。
どうしても、鏡に写る私を、他人のように思えてしまうから。
表情が、感情が顔に出たらいいのに。
そう強く思うのに……どうして私の顔は、いつも無表情なのでしょう?
「……この悩みを本当にわかってくれるのは……サーラだけなのです」
サーラは友人のサハギンです。
私と同じ表情が乏しい種族で、同じ河に住んでます。
家が隣の幼馴染というヤツで、子供の時からの一緒にいる親友です。。
無口で無表情で、言葉よりも先に体が動いてしまう魔物娘ですけど、気は優しい、ユーモア溢れる魔物娘なのです。
綺麗な青いストレートの長い髪をしていて、両目はいつもジト目。
両手足には水かきを持っていて、私よりも泳ぐのが得意です。
そんなサーラと長い間一緒にいましたから、無口で無表情でも何を考えているかわかるようになりました。
子供の時はあらゆる行き違いで、何度も何度も何度も喧嘩をしましたが、今ではちゃんとお互いの気持ちを知った上で、時々、肉体言語で語り合ったりしています。(そっちのほうが早かったりしますからね)
言っておきますけど、無表情、無口の種族の魔物娘の気持ちを知るには時間が必要なんですよ?
表情の読めない種族と付き合うには、観察眼と忍耐と、経験が必要なのです!
「……わたしも他の種族のことは、言えませんね」
キャンサーという種族事態が表情表現が乏しいのです。
下半身に蟹の体をもつ私、キャンサーのシャルルというのですが、お察しの通り感情を表情で表すのが苦手です。
それはキャンサーとう種族だからというわけではなく、キャンサーの中でも感情が表情にでない能面顔なのです。
上半身だけでなく、下半身の蟹さえも、素直に感情を表せません。
私のお母さんはそれなりに表情表現が乏しい魔物娘ですが、声色や顔に当たる光りの角度によって喜怒哀楽が表現できます。
能面顔を利用した、ちょっとした技術です。
羨ましいです。
「わたしも……お母さんのように高い声とか、低い声とか出せればいいのですが」
私の声はいつも平坦で、無表情のこともあって、とにかく感情が伝わりにくいのです。
サーラも私と同じぐらい顔で感情が伝えづらいらしいですが、その分体で表現しています。
嬉しい時は抱きついてきますし、悲しいときは私の胸……ではなく下半身の甲羅の上で涙を流します。
驚いた時は10秒ぐらい動かなくなりますし、怒った時は拳とハサミで肉体言語のトークバトルです。
しかし、私にはそういった体で表現することも難しく感じます。
唯一の表現方法が、怒った時や警戒している時にハサミをカチカチと鳴らす程度。
そんな私なので、今日も
『シャルルちゃんの顔って、可愛いけど無表情だから何を考えてるのかわかんないよ』
『シャルルちゃんの声って、可愛いけど感情がこもってないね』
『シャルルちゃんの胸って、可愛いけどブラシ付き貝で盛ってるように見えるよ』
と河の近くの森に住む人間の女の子に言われました。
ショックです。
なので今は人気がない沼までやって来て、一人悩みながら落ち込んでいるのです。
「…………………………はぁ」
今のため息も、今までのため息も、鏡に写る私を見ていると、ただ深呼吸をしているようにしか見えません。
「……はぁ〜〜〜〜〜〜〜」
長いため息でも息を吐いているようにしか見えませんね。
ガッカリです。
「……こんな時にヴァネッサさんがいてくれたら、相談相手になってもらうのですが」
今は私が住んでいる河、そこに住むウンディーネさんがヴァネッサさんです。
ヴァネッサさんはいつも優しく、穏やかな性格をした、頭のよい水の魔精霊さんです。
子供の頃からサーラちゃんと一緒にお世話になっている近所のお姉さんで、時々私達の相談に乗ってくれたりします。
そんなヴァネッサさんのお仕事は『放浪い沼』の管理です。
私が生まれる前は、サバトに所属している多くの魔女の研究者さん達や精霊使いさん達が『彷徨い沼』を調査、管理していたのですが、『とある理由』でヴァネッサさんが『彷徨い沼』の調査、管理をすることになりました。
が、私は管理している所を一度だって見たことがありません。
管理している本人からの話だと、一ヶ月に一度か二度、様子を見に来てちょちょいと調査、調整して、報告書にまとめるだけでいいらしいのです。
それでホントにいいのでしょうか?
疑問です。
たま〜に魔王城へ行って『彷徨い沼』の調査報告書を持って行ったり、その魔王城から帰ってくるといつもヘンテコな道具を持ち帰ってきます。
前にヘンテコな道具を見せてもらいますが、全く用途がわかりません。
そのヴァネッサさんですなんですが、今日は一度も見かけていません。
「困りましたね。表情のこともそうですが、サーラからもらった物についても相談したかったのに。サーラはいったい、なぜこんなものを」
今日、人間の女の子にショックなことを言われた後、最初に表情のことを相談したのはサーラです。
無口ながらも相槌をうちながら話を聞いてくれました。
話を聞き終わると、サーラは水に入っても大丈夫そうな青い服のような鱗、その股間あたりの鱗から小さなレンコンをぬるっと抜き出し、私にくれました。
両手で包み込めるほど小さなレンコンです。
会った時から気になってしょうがなかった股間の盛り上がりは、これだったのですか。
ヌルヌルした体液や血痕はついていません。
よかった、サーラはまだ処女のようですね。
安堵する反面、このレンコンをくれた意味がイマイチわかりません。
股間の鱗に入れていた意味もわかりません。
理由を聞こうとしましたが、既にサーラは河の中へ潜った後でした。
そして今、そのレンコンを見つめながらまた考えます。
なぜ私の気持ちが理解されないのでしょう?
どうすれば私の表情や声、蟹の下半身で感情を表現できるようになるのでしょう?
なぜサーラはこのレンコンをくれたのでしょう?
いったいどうして……あっ。
「レンコンが」
手から滑り落ちたレンコンは、ちゃぽんと音を立てて沼へと落ちていきました。
レンコンは重力に逆らわず、ズブズブと泥の中に沈んでいきます。
「あ……あぁ……」
急いでハサミを伸ばしましたが、レンコンは完全に沈んだ後です。
ああ、落としてしまいました。
嫌なことは続くと言いますが、これはあんまりです。
泣きそうになります。
「……踏んだり蹴ったりです」
レンコンはもったいないですが、諦めます。
河に帰ってからサーラに『あなたのジュニアは沼へ沈んでしまいました』と言っておきましょう。
涙目になって地面を転がるサーラの姿が目に浮びます。
少し経つと、レンコンが沈んでいった水面が静かになり、鏡のようになります。
その水面に私の顔が写りましたが、今は見たくありません。
「はぁ…………(ザパァ〜ッ)……むぅ?」
私が沼に背を向けて帰ろうとすると、ザパァ〜ッと沼から水音が聞こえます。
振り返ると、沼の中央から水がせり上がって、その中から女性の形をした魔物娘が現れました。
「あなたが落としたのはこの金のレンコンですか?それとも、この銀のジュニアですか?」
「あ、あなたは」
それは、金と銀のレンコンを持ったヴァネッサさんだったのです。
大事なことなのでもう一度言いますが、金と銀のレンコンを持ったヴァネッサさんだったのです。
「ヴァネッサさん」
「あらシャルルちゃん、こんにちわ。ねぇ、この辺にレンコンかジュニアを落とした男の人見なかった?わたし、その人に用があるの」
ヴァネッサさんは今、恋に恋する乙女です。
最近恋愛系の絵ばかりの本や小説を読んでいるからでしょう。
今もきっと、斧か何かを落とした男性が正直者なら、『あなたは正直者ですね。では金の斧と銀の斧、そして先ほど落とした斧を持った私を差し上げましょう』とか言うつもりだったのでしょうね。
「ヴァネッサさん、男の人がジュニアを落としてしまったら、それはもうアルプなのです。諦めて百合に走るか他の契約者を探してください。それと……レンコンを落としたのは私です。申し訳ないのですが、レンコンを返していただけないでしょうか?サーラからもらった物なのです。」
「あらそうなの?ちょっと待っててね」
金と銀のレンコンを沼に落とし、代わりに私が落とした小さなレンコンが水の膜に包まれて、沼から出てきました。
そしてヴァネッサさんの手に収まり、水の膜がはじけます。
「サーラちゃんがこのレンコンをねぇ。……これ……食べるの?」
食べませんよ、失敬な!
「いえ、食べません。ですが、なぜ私にレンコンを渡したのかわからないのです。食用に渡したいのなら、もう少し成長した物をくれるでしょうし、小ぶりである必要はありません。それに、食べ物なら川魚がいいです」
「そうよねぇ、サーラちゃんもシャルルちゃんの好物ぐらい知ってるだろうし…………観賞用なら花を咲かせたほうが…………ああ、なるほど」
ヴァネッサさんは一人納得したように頷き、レンコンを沼の中へと戻してしまいました。
「あぁ……サーラ・ジュニアが……」
「ねぇ、シャルルちゃん。今、悩んでいたり、苦しいと思っていたりしない?」
ヴァネッサさんが優しく語りかけてくれます。
鋭いですね。
相談モードのヴァネッサさんです。
「……はい。今、とても悩んでいます。レンコンのこともそうですが、私の……表情について悩んでいるのです」
私は今悩んでいることを正直に話しました。
種族特有の表情を出しにくい体質、コミュニケーションによっておきる勘違い、さらには平坦な声や付き合いが浅い人や魔物娘達からの自分の評価など。
それらを話して、ヴァネッサさんはうんうんと頷きました。
「そっかそっか。シャルルちゃんも自分の体質について悩む年頃になったのね。いいわ、正直に話してくれたシャルルちゃんには、お姉さんから特別な物をあげちゃう♪ちょ〜っとまってて!」
ヴァネッサさんは沼にトプンと戻って、すぐに何かを持って出てきました。
魔力の泡に包まれた、ヘンテコな道具です。
泡に包まれているため、道具は全く濡れていません。
「はいこれ。関税防水機能付き、魔力で動くCDラジカセと、『内側から自分を変えよう。デビルの悪魔的コアリズムダンスCD!全3巻セット』よ。これは音楽を聞く道具とその音楽が入った道具。これには音楽以外にも声も入ってて、体を動かす手助けになってくれるわ。悩んでいるときはね、体を動かせばいいの。直接の悩みの解決にはならないかもしれないけど、きっかけにはなるはずよ」
地面に道具を置くと泡ははじけてしまいました。
ヴァネッサさんが沼の底から持ってきてくれたのは、白くて四角くて、ボタンがいくつもついている機械と、四角くて素材がわからない透明な箱の中にデビルさんの精密すぎる絵と虹色に光る円盤が3枚入った物でした。
「これの使い方はね、この白い箱のこのボタンを押すとパカって開くでしょ?そこにこのCDっていう丸くて薄いのを入れて、しめる。それからこのボタンを押せば音楽と声が聞こえてくるわ。声に従って動いていれば、気分がスッキリするはずよ。すごいのよこれ。とある村で祀られていた物の複製らしいんだけど、魔王城の魔術部で研究されている異世界の技術が使われているらしいの。これには魔術部の魔女ちゃん達もびっくりで…………ああっ!!」
ヴァネッサさんは何か思い出したように声を上げ、急いで沼の中へ戻ろうとします。
「ごめんなさいシャルルちゃん!わたし、これから魔王城に行って、魔術部に沼の報告書を渡さないといけないの!ちょっとの間だけこの『沼』を預かってもらえないかしら?」
「え?あ、預かるって。む、無理ですよ」
「お願い!見ているだけでいいから!!普段は大人しい子だし、今はたぶん動けないはずだから……ああっ、もう時間がない!もし『沼』に何かあったら他のウンディーネに相談するのよ?それと、ぜったいに沼の中へ入ったりしちゃダメだからねっ!栓も抜かないでね!絶対よ!!じゃ、急いで戻ってくるから、後はお願いねぇ〜」
「あっ、ちょっと待ってくださ」
ヴァネッサさんは、トプン、と沼に潜ってしまいました。
沼の底から虹色の光りが輝き、徐々に光りが弱くなっていきます。
どうやらこの沼の下の方には転送用のポータルが設置されており、そこからいつも魔王城へ行っているようです。
でも、沼の面倒って、どうすればいいのでしょう?
「……見ているだけでいいと……言ってましたよね?」
誰に質問するわけでもなく、つぶやきます。
いつもヴァネッサさんはどうやって沼の面倒を……というか、沼の面倒を見るとはどういうことでしょう?
水温とか、魔力の調節とかすることでしょうか?
それに、動くとも言ってましたね。
「全くの謎です。……おや?あそこにあるのは」
沼の中央で何かがぷかぷかと浮いています。
あれは……ヴァネッサさんが拾ってくれた、サーラのジュニア、もとい私のレンコンです。
レンコンの中は空洞ですから、浮いてきたのでしょうか?
はやく取り戻したいですが、今はヴァネッサさんはいません。
取りに行くなら自分の力で、です。
「ですが、沼の中央ですか。泳いでなら行けるかもしれませんが、親からもヴァネッサさんからも『沼には入るな』と言われていますし……」
悩んでいると、レンコンはぷかぷかと浮かびながら、こちらに近づいてきます。
徐々に近づいてきて、あともう少しでハサミが届きそう、といったところで止まります。
ラッキーです。
「……ハサミを限界まで伸ばせば、届きそうですか。…………うん、沼に入らなければいいだけですし、少し頑張ってみましょう」
私は下半身の蟹のハサミを限界まで伸ばし、レンコンを取ろうとします。
ハサミは届いているのですが、ぷかぷかと上下に揺れるレンコンを掴むのは一苦労です。
「もう少し……もう少しで掴めそう……あ、取れた!」
やった!と言おうとしたのですが、レンコンを沼から出すと、スポンッ!という音が聞こえました。
沼からレンコンを拾う時の感触も変でした。
まるで浴槽の底にある栓を引っこ抜いてしまったような感じです。
「……おや?」
よく見ると、レンコンに何か巻きついてあります。
銀の糸が巻きついており、その先端には…魔界銀で作られた……栓でしょうか?
ワイングラスなどについている、コルク栓みたいなような形です。
それに何か書いてあります。
人間さんの言葉でしょうか?ふ、ふうい……ふう……い、ん?
「なんですかこれは。一体何故こんな物が沼に」
ズル。
「……?」
足元を見ると、私が立っていた地面があった場所に、沼がありました。
信じられませんが、どうやら沼が移動したみたいです。それしか考えられません。
足元に地面がなくなった私の体は、ズボリ、と沼に落ちてしまいます。
「あ……ヤバイです」
抜け出そうとしますが、泥が体にまとわりついて身動きがとれません。
沼の中央では、ずずずっを音を出しながら渦を巻き始めています。
「やばいです……本格的にピンチです……」
力を込めて蟹足をジタバタ動かしますが、動けば動くほど下へと沈んでいきます。
陸地に手を伸ばし、腕の力で体を引き上げようとしましたが、ズル、と沼がまた移動してしまったため、つかもうとした陸地が遠のきます。
渦の方はさらに勢いが激しくなり、中央にはカリュブディスさんが作るような渦が出来上がってます。
「あ……ああ……」
こ、怖いです。
あのまま渦に飲み込まれてしまったら、私はどうなってしまうのでしょう?
怖さのあまり、顔が引きつっているかもしれません。
一体どうすれば……あ。
「ヴァネッサさんがくれた……不思議アイテム……」
私と一緒に沼におちたのでしょうか?
沼の渦に飲まれ、私と同じように渦の中を流されながも浮いています。
とてもあの不思議アイテムに浮力があるとは思えませんが、今はこれに頼るしかありません。
私は力を振り絞りCDラジカセとCDセットにつかまりました。
どうにか沈まないように頑張ります。
渦の遠心力で私の体はぐるぐると回され、徐々に中央の渦が近づいていきます。
ああ、お父さん、お母さん、サーラ、ヴァネッサさん……私はもしかしたら、遠いどこかへ行ってしまうかもしれません。
できればもう一度、みんなの顔を見たかったです。
渦に飲まれつつある私の覚悟が決まってきたところで、ふとCDセットと呼ばれる、素材がわからない透明でツルツルした四角い箱に、私の顔が写っているのに気がつきました。
……信じられないことに……
……私の顔は……
……全く感情が感じられない……
………………無表情でした。
嘘でしょう?こんな時になっても、私は……。
頭が真っ白になるのと感じながら、私の体は、渦に飲み込まれ、ドプリと、沼の底へ、沈んでしまいました。
……………………………………………………………………………………………………………………………………
…………ああ、光りです。
……光りが見えます。
毎朝、河の底から見ている朝の日の光に似ています。
どれくらい沼の中を漂っていたのかわかりませんが、徐々に意識がはっきりとしてきました。
私は、蟹足と腕を懸命に動かしつつ、水面を、光りを目指しましす。
とにかくここから出たい。
その思いだけが私の動かし、上へ、上へと体を持っていきます。
上半身の腕も動かし、蟹足で水を蹴って、蹴って、蹴って、水面へと近づきます。
「ぷはぁっ!」
どうにか水の中から出ることができました。
近くに陸なあるので、体に残った力を振り絞って陸地にたどり着きます。
「はぁっ……はぁっ……」
溺れそうでした。
水の中で住んでいる魔物娘とは思えないほどの必死さで泳ぎましたよ。
まるで陸地に住んでいる人間や魔物娘のように、必死になって体に空気を取り込みます。
私は始めて、溺れかけたというのを経験しました。
極めて知りたくなかった経験です。
「はぁ……はぁ……こ、ここは?」
顔に張り付く髪をかきあげながら、周りを見ます。
あたりには木々がなく、畑が一面に広がっています。
遠くに山も見えますね。
これだけで私がさっきまでいた場所ではないことがわかります。
それと……陸に上がった時から気になっていたのですが、沼を取り囲む人間さん達が、私のこと驚いたように見ていのです。
子供達も合わせて50人ほどでしょうか。
男性よりも女性方が圧倒的に多いみたいですね。
「……沼から誰か出てきた……」
「……あれは……魔物娘かしら?……」
「……そんな。いつの間に畑の中へ……」
人間さん達がざわめきます。
ひそひそざわざわ、それぞれ近くにいる人同士で話し合っているようです。
「しずまれーい!」
人間さんの一人がひときわ大きな声を出しました。
他の人間さん達が道を開けて、背の低い、痩せ細った、ヒゲの長いおじいさんが杖を付きながら私の前に歩いてきます。
あのおじいさんはこの人間さん達の中の、『偉い人』と呼ばれる人でしょうか?
おじいさんはペタペタと歩いてきて、普通に話しても聞こえる程度の距離までやってきます。
「おめえさん、この沼の主かの?」
「え?あの……」
おじいさんは力の篭った、低い声で質問してきます。
私はいきなりの質問だったのでどもってしまいました。
だってそうでしょう?
急いで沼から出たら囲まれていて、頭が混乱しているのに質問されているのです。
取り乱してもいいのですが、体でどう表現すればいいのかわかりません。
おじいさんはポンッと私の肩に手を置き、今度は優しく、ゆっくりとした口調で二度目の質問をします。
「もう一度聞くべ。おめぇさんは、この沼を、主様か?」
前の質問の時よりかはいいですが、その笑顔の裏には何か恐ろしい顔があるような気がします。
裏の顔でしょうか?
そう思いとこのおじいさんの顔が仮面のように見えてしましますね。
「えっと……沼の主ではないのですが……少しの間預かってま」
「やっぱりオメエだべか!」
いきなりおじいさんの顔が般若のように怖くなります。
怖いです。ガクブルです。
きっと顔も歪んでいるに違いまりません。
蟹の下半身は今にも震えそう……と思いましたが、全然震えていません。
どうしてでしょう?
怖すぎて震えることもできないのでしょうか?
「この畑は大事な芋を育てていたんだべ!それがいきなり出てきた沼のせいで底に沈んじまっただよ!どうしてくれんだ!これじゃ約束の日に間に合わん!」
「えっと……その……」
どうにか言い訳をしようと頑張りますが、全然ダメです。
思ったように口が回りません。
体の代わりに心がとても動揺して震えてしまっています。
大地震です。震度5です。
同時に涙のダムが決壊しそうです。
「この責任、とってもらうべからな?」
私の肩に置かれた手に力が入れられます。
どうしましょう。
言い訳も話も聞いてくれないうちに、私が畑の責任を取らされそうになっています。
こんな時、少しでも怯えていたら……あ。
「……あれ?」
鏡のようになっていた沼に私とおじいさんの顔が写っていました。
おじいさんは怒りに燃えた恐ろしい顔で、私の表情は、全く何を考えているかわからない、無表情でした。 でも……目の箸には少しだけ、ほんの少しだけ、涙が溜まっていました。
お母さん、お父さん、サーラ、ヴァネッサさん。
こんな時でも私は無表情みたいです。
ですが、少しぐらいは涙が出るみたいですよ?
つづく
言葉以外で相手に感情を伝える、コミュニケーションの一つだと聞いたことがあります。
しかし、それは本当に必要でしょうか?
感情なんて語尾に「ぷんぷん」とか「しくしく」とかつければいいじゃないですか。
その程度のものじゃないですか。
皆さんは表情に頼りすぎているのです。
だから私の気持ちなどわからないのです。
「……はぁ」
沼があります。
私の目の前には澄んだ水と、大量の沈殿する泥がある沼です。
底が浅い池のように見えるのですが、実は結構深いです。
沼の水面は波紋一つ起こさない鏡のようになっていて、上空の青空を写します。
ぐるりと沼を囲むように木々が立っており、日の当たる所は日の光りを反射して、キラリと輝いています。
この沼は、それなりに明るい場所なのです。
花や森の動物などがいれば、絵本などで見るような素敵な池や湖みたいになるのでしょうが、あいにくこの沼には動物は近づかず、水草の花などは咲いていません。
生えているのは、とろけの野菜と水草ぐらいです。
彩りがあまりない、地味な沼です。
「…………はぁ」
この沼は昔から『彷徨い沼』と呼ばれ、それなりに有名な沼……らしいです。
『彷徨い沼』は明緑魔界でもめずらしいらしく、魔王城の偉いバフォメット様が保護対象として扱われるほど貴重な沼みたいです。
魔王軍魔術部のバフォメット様が言うには、
『とろけの野菜が群衆するほどの魔力を持っていながら、闇精霊のウンディーネが住んでおらず、魔界の水のようにとろみもなく桃色がかっていない。
それどころか、沼の水は魔力のないタダの真水でありり、普通の人間が飲んでも魔物化、インキュバス化しないのだ。
だが反対に、泥には高濃度の魔力が含まれており、少し触れただけでも魔物化、インキュバス化する可能性を持っている。
採取場所にもよるが、一般的な暗黒魔界の土よりも多くの魔力を豊富に含んでいるのもわかった。
これほどの魔力を保有しているにもかかわらず、ダークマターの出現、沼周辺の暗黒魔界化などが起きないのは不可解である。
他にも目を見張る箇所はいくつもあるが、このような沼があること自体が不思議でならない』
らしいです。
子供の時にお父さんに読んでもらったモン娘新聞にはそう書いてありました。
なので、昔から親に『あの沼は危険だから決して近づいちゃいけません!』と言われています。
子供だった私はすぐに沼を見に行きました。
そしてガッカリしました。
だって、見た目はいたって普通の…………地味な沼にしか見えませんでしたから。
ただ……大人の魔物娘や人間さん達は出来るだけこの沼には近づかないようにしています。
二人っきりになりたいカップルでさえこの場所には近づきません。
つまりです、落ち込んで一人になりたい時などにはうってつけの場所といことなのです。
「………………はぁ」
そんな『彷徨い沼』の水の鏡に、沼を覗き込む魔物娘が一人映っています。
ピンク色の長い後ろ髪を青色の丸い玉の飾りがついたバンドでまとめ、髪を両側で縛ったもっさりとしたツインテイールにしています。
前の髪はそのままで、顔横側に生えている長い髪は顔の両側から胸までさらりと垂れ下がっています。
少しつり上がった目元にオレンジ色の目は愛らしくも気が強そうです。
両耳には雫のような形をした赤い耳飾りがキラリと光ります。
子供のような童顔で、口元は小さく、開いたり閉じたりして深呼吸しているようです。
それらのパーツで作られた顔は、少々気が強そうな印象を受けますが、怒っているのか笑っているのか、それどころか何を考えているのかわからない無表情です。
首には骨で出来た首輪のようなものが付いており、首飾りのような青い目のついたハサミのなアクセサリーがくっついています。
胸はピンク色の布で隠されており、胸の中央あたりには突起が浮き出て見えますが、それは胸を覆っている茶色い貝です。
それほど大きくない胸なので、真下の下半身がよく見えるようですね。
腕はピンク色の布をジパングの着物のように着て、裾からは腕や手は出してません。
腕の上腕部分と手に当たる部分には赤いリボンがついています。
腕のリボンは布がズレ下がるの防ぐため、手についてたリボンは、どうやらリボンの真下にはスリットが入っていて、手や泡が簡単に出せるような仕組みになっているようです。
上半身は胸と腕以外の布は着ておらす、可愛いおへそが覗いています。
お腹はまるだしです。冬になったら大変寒そうな格好ですね。
そんな魔物娘の上半身パッと見た感想は、大人びた雰囲気なのに、見た目は少女と変わりありません。
大人にもなってない少女が少し背伸びして大人のような格好をしている、ような感じです。
さらに目線を下へと移すと、腰から下は蟹の姿をしいました。
その魔物娘の第二の目である藍色の蟹の目や、蟹のハサミ、8本の足があります。
どれも毎日手入れをしているのでしょうね、メタリックのように太陽の光りをツヤツヤ反射しています。
蟹の胴体から生えている蟹の目は青い宝石の中に黒目があり、時折パチクリと瞬きをしています。
蟹の口では少しだけ開け絞めされ、その間からはびっしりとブラシのような毛が生えています。
そこから細かな泡がついており、そのブラシを少しでもここすれば泡がどんどん出てきそうです。
人間部分の上半身の腰の後ろ辺にもブラシがついた甲羅があり、上半身を左右に動かすたびにぴったりと張り付いて、蟹の口と後ろの甲羅で上半身を支え、下半身を隠しています。
ハサミは大人の人間の胴体を挟めるほど大きく、ハサミの刃の部分には凹凸が付いています。
切れ味は無さそうに見えますが、力強さは感じられます。
蟹の胴体部分にも凹凸がありますが、表面が凸凹している程度です。触っても痛くなさそうです。
胴体から生えた左右4本づつの蟹足は、人間の上半身と蟹の下半身をがっしりと支えています。
一言で言うと、無表情のキャンサーが沼を覗き込んでいたのです。
下半身の蟹は全く動きません。
このキャンサーは何を考えているのでしょう?
さっぱりわかりません。
ああ、やっぱり表情は必要ですね。
このキャンサーを見ていると強く思います。
いくら言葉が通じあっても、いつも話しているわけではありませんし。
それに、話しかけようとした時だって相手の機嫌が悪かったら嫌ですから。
話しかけるなら悪い時よりいい時の方がいいに決まってます。
うん、表情はあったほうがいい。
そう……あったほうがいいのです。
水の鏡に写る『私』には、表情という物があった方がいい。
どうしても、鏡に写る私を、他人のように思えてしまうから。
表情が、感情が顔に出たらいいのに。
そう強く思うのに……どうして私の顔は、いつも無表情なのでしょう?
「……この悩みを本当にわかってくれるのは……サーラだけなのです」
サーラは友人のサハギンです。
私と同じ表情が乏しい種族で、同じ河に住んでます。
家が隣の幼馴染というヤツで、子供の時からの一緒にいる親友です。。
無口で無表情で、言葉よりも先に体が動いてしまう魔物娘ですけど、気は優しい、ユーモア溢れる魔物娘なのです。
綺麗な青いストレートの長い髪をしていて、両目はいつもジト目。
両手足には水かきを持っていて、私よりも泳ぐのが得意です。
そんなサーラと長い間一緒にいましたから、無口で無表情でも何を考えているかわかるようになりました。
子供の時はあらゆる行き違いで、何度も何度も何度も喧嘩をしましたが、今ではちゃんとお互いの気持ちを知った上で、時々、肉体言語で語り合ったりしています。(そっちのほうが早かったりしますからね)
言っておきますけど、無表情、無口の種族の魔物娘の気持ちを知るには時間が必要なんですよ?
表情の読めない種族と付き合うには、観察眼と忍耐と、経験が必要なのです!
「……わたしも他の種族のことは、言えませんね」
キャンサーという種族事態が表情表現が乏しいのです。
下半身に蟹の体をもつ私、キャンサーのシャルルというのですが、お察しの通り感情を表情で表すのが苦手です。
それはキャンサーとう種族だからというわけではなく、キャンサーの中でも感情が表情にでない能面顔なのです。
上半身だけでなく、下半身の蟹さえも、素直に感情を表せません。
私のお母さんはそれなりに表情表現が乏しい魔物娘ですが、声色や顔に当たる光りの角度によって喜怒哀楽が表現できます。
能面顔を利用した、ちょっとした技術です。
羨ましいです。
「わたしも……お母さんのように高い声とか、低い声とか出せればいいのですが」
私の声はいつも平坦で、無表情のこともあって、とにかく感情が伝わりにくいのです。
サーラも私と同じぐらい顔で感情が伝えづらいらしいですが、その分体で表現しています。
嬉しい時は抱きついてきますし、悲しいときは私の胸……ではなく下半身の甲羅の上で涙を流します。
驚いた時は10秒ぐらい動かなくなりますし、怒った時は拳とハサミで肉体言語のトークバトルです。
しかし、私にはそういった体で表現することも難しく感じます。
唯一の表現方法が、怒った時や警戒している時にハサミをカチカチと鳴らす程度。
そんな私なので、今日も
『シャルルちゃんの顔って、可愛いけど無表情だから何を考えてるのかわかんないよ』
『シャルルちゃんの声って、可愛いけど感情がこもってないね』
『シャルルちゃんの胸って、可愛いけどブラシ付き貝で盛ってるように見えるよ』
と河の近くの森に住む人間の女の子に言われました。
ショックです。
なので今は人気がない沼までやって来て、一人悩みながら落ち込んでいるのです。
「…………………………はぁ」
今のため息も、今までのため息も、鏡に写る私を見ていると、ただ深呼吸をしているようにしか見えません。
「……はぁ〜〜〜〜〜〜〜」
長いため息でも息を吐いているようにしか見えませんね。
ガッカリです。
「……こんな時にヴァネッサさんがいてくれたら、相談相手になってもらうのですが」
今は私が住んでいる河、そこに住むウンディーネさんがヴァネッサさんです。
ヴァネッサさんはいつも優しく、穏やかな性格をした、頭のよい水の魔精霊さんです。
子供の頃からサーラちゃんと一緒にお世話になっている近所のお姉さんで、時々私達の相談に乗ってくれたりします。
そんなヴァネッサさんのお仕事は『放浪い沼』の管理です。
私が生まれる前は、サバトに所属している多くの魔女の研究者さん達や精霊使いさん達が『彷徨い沼』を調査、管理していたのですが、『とある理由』でヴァネッサさんが『彷徨い沼』の調査、管理をすることになりました。
が、私は管理している所を一度だって見たことがありません。
管理している本人からの話だと、一ヶ月に一度か二度、様子を見に来てちょちょいと調査、調整して、報告書にまとめるだけでいいらしいのです。
それでホントにいいのでしょうか?
疑問です。
たま〜に魔王城へ行って『彷徨い沼』の調査報告書を持って行ったり、その魔王城から帰ってくるといつもヘンテコな道具を持ち帰ってきます。
前にヘンテコな道具を見せてもらいますが、全く用途がわかりません。
そのヴァネッサさんですなんですが、今日は一度も見かけていません。
「困りましたね。表情のこともそうですが、サーラからもらった物についても相談したかったのに。サーラはいったい、なぜこんなものを」
今日、人間の女の子にショックなことを言われた後、最初に表情のことを相談したのはサーラです。
無口ながらも相槌をうちながら話を聞いてくれました。
話を聞き終わると、サーラは水に入っても大丈夫そうな青い服のような鱗、その股間あたりの鱗から小さなレンコンをぬるっと抜き出し、私にくれました。
両手で包み込めるほど小さなレンコンです。
会った時から気になってしょうがなかった股間の盛り上がりは、これだったのですか。
ヌルヌルした体液や血痕はついていません。
よかった、サーラはまだ処女のようですね。
安堵する反面、このレンコンをくれた意味がイマイチわかりません。
股間の鱗に入れていた意味もわかりません。
理由を聞こうとしましたが、既にサーラは河の中へ潜った後でした。
そして今、そのレンコンを見つめながらまた考えます。
なぜ私の気持ちが理解されないのでしょう?
どうすれば私の表情や声、蟹の下半身で感情を表現できるようになるのでしょう?
なぜサーラはこのレンコンをくれたのでしょう?
いったいどうして……あっ。
「レンコンが」
手から滑り落ちたレンコンは、ちゃぽんと音を立てて沼へと落ちていきました。
レンコンは重力に逆らわず、ズブズブと泥の中に沈んでいきます。
「あ……あぁ……」
急いでハサミを伸ばしましたが、レンコンは完全に沈んだ後です。
ああ、落としてしまいました。
嫌なことは続くと言いますが、これはあんまりです。
泣きそうになります。
「……踏んだり蹴ったりです」
レンコンはもったいないですが、諦めます。
河に帰ってからサーラに『あなたのジュニアは沼へ沈んでしまいました』と言っておきましょう。
涙目になって地面を転がるサーラの姿が目に浮びます。
少し経つと、レンコンが沈んでいった水面が静かになり、鏡のようになります。
その水面に私の顔が写りましたが、今は見たくありません。
「はぁ…………(ザパァ〜ッ)……むぅ?」
私が沼に背を向けて帰ろうとすると、ザパァ〜ッと沼から水音が聞こえます。
振り返ると、沼の中央から水がせり上がって、その中から女性の形をした魔物娘が現れました。
「あなたが落としたのはこの金のレンコンですか?それとも、この銀のジュニアですか?」
「あ、あなたは」
それは、金と銀のレンコンを持ったヴァネッサさんだったのです。
大事なことなのでもう一度言いますが、金と銀のレンコンを持ったヴァネッサさんだったのです。
「ヴァネッサさん」
「あらシャルルちゃん、こんにちわ。ねぇ、この辺にレンコンかジュニアを落とした男の人見なかった?わたし、その人に用があるの」
ヴァネッサさんは今、恋に恋する乙女です。
最近恋愛系の絵ばかりの本や小説を読んでいるからでしょう。
今もきっと、斧か何かを落とした男性が正直者なら、『あなたは正直者ですね。では金の斧と銀の斧、そして先ほど落とした斧を持った私を差し上げましょう』とか言うつもりだったのでしょうね。
「ヴァネッサさん、男の人がジュニアを落としてしまったら、それはもうアルプなのです。諦めて百合に走るか他の契約者を探してください。それと……レンコンを落としたのは私です。申し訳ないのですが、レンコンを返していただけないでしょうか?サーラからもらった物なのです。」
「あらそうなの?ちょっと待っててね」
金と銀のレンコンを沼に落とし、代わりに私が落とした小さなレンコンが水の膜に包まれて、沼から出てきました。
そしてヴァネッサさんの手に収まり、水の膜がはじけます。
「サーラちゃんがこのレンコンをねぇ。……これ……食べるの?」
食べませんよ、失敬な!
「いえ、食べません。ですが、なぜ私にレンコンを渡したのかわからないのです。食用に渡したいのなら、もう少し成長した物をくれるでしょうし、小ぶりである必要はありません。それに、食べ物なら川魚がいいです」
「そうよねぇ、サーラちゃんもシャルルちゃんの好物ぐらい知ってるだろうし…………観賞用なら花を咲かせたほうが…………ああ、なるほど」
ヴァネッサさんは一人納得したように頷き、レンコンを沼の中へと戻してしまいました。
「あぁ……サーラ・ジュニアが……」
「ねぇ、シャルルちゃん。今、悩んでいたり、苦しいと思っていたりしない?」
ヴァネッサさんが優しく語りかけてくれます。
鋭いですね。
相談モードのヴァネッサさんです。
「……はい。今、とても悩んでいます。レンコンのこともそうですが、私の……表情について悩んでいるのです」
私は今悩んでいることを正直に話しました。
種族特有の表情を出しにくい体質、コミュニケーションによっておきる勘違い、さらには平坦な声や付き合いが浅い人や魔物娘達からの自分の評価など。
それらを話して、ヴァネッサさんはうんうんと頷きました。
「そっかそっか。シャルルちゃんも自分の体質について悩む年頃になったのね。いいわ、正直に話してくれたシャルルちゃんには、お姉さんから特別な物をあげちゃう♪ちょ〜っとまってて!」
ヴァネッサさんは沼にトプンと戻って、すぐに何かを持って出てきました。
魔力の泡に包まれた、ヘンテコな道具です。
泡に包まれているため、道具は全く濡れていません。
「はいこれ。関税防水機能付き、魔力で動くCDラジカセと、『内側から自分を変えよう。デビルの悪魔的コアリズムダンスCD!全3巻セット』よ。これは音楽を聞く道具とその音楽が入った道具。これには音楽以外にも声も入ってて、体を動かす手助けになってくれるわ。悩んでいるときはね、体を動かせばいいの。直接の悩みの解決にはならないかもしれないけど、きっかけにはなるはずよ」
地面に道具を置くと泡ははじけてしまいました。
ヴァネッサさんが沼の底から持ってきてくれたのは、白くて四角くて、ボタンがいくつもついている機械と、四角くて素材がわからない透明な箱の中にデビルさんの精密すぎる絵と虹色に光る円盤が3枚入った物でした。
「これの使い方はね、この白い箱のこのボタンを押すとパカって開くでしょ?そこにこのCDっていう丸くて薄いのを入れて、しめる。それからこのボタンを押せば音楽と声が聞こえてくるわ。声に従って動いていれば、気分がスッキリするはずよ。すごいのよこれ。とある村で祀られていた物の複製らしいんだけど、魔王城の魔術部で研究されている異世界の技術が使われているらしいの。これには魔術部の魔女ちゃん達もびっくりで…………ああっ!!」
ヴァネッサさんは何か思い出したように声を上げ、急いで沼の中へ戻ろうとします。
「ごめんなさいシャルルちゃん!わたし、これから魔王城に行って、魔術部に沼の報告書を渡さないといけないの!ちょっとの間だけこの『沼』を預かってもらえないかしら?」
「え?あ、預かるって。む、無理ですよ」
「お願い!見ているだけでいいから!!普段は大人しい子だし、今はたぶん動けないはずだから……ああっ、もう時間がない!もし『沼』に何かあったら他のウンディーネに相談するのよ?それと、ぜったいに沼の中へ入ったりしちゃダメだからねっ!栓も抜かないでね!絶対よ!!じゃ、急いで戻ってくるから、後はお願いねぇ〜」
「あっ、ちょっと待ってくださ」
ヴァネッサさんは、トプン、と沼に潜ってしまいました。
沼の底から虹色の光りが輝き、徐々に光りが弱くなっていきます。
どうやらこの沼の下の方には転送用のポータルが設置されており、そこからいつも魔王城へ行っているようです。
でも、沼の面倒って、どうすればいいのでしょう?
「……見ているだけでいいと……言ってましたよね?」
誰に質問するわけでもなく、つぶやきます。
いつもヴァネッサさんはどうやって沼の面倒を……というか、沼の面倒を見るとはどういうことでしょう?
水温とか、魔力の調節とかすることでしょうか?
それに、動くとも言ってましたね。
「全くの謎です。……おや?あそこにあるのは」
沼の中央で何かがぷかぷかと浮いています。
あれは……ヴァネッサさんが拾ってくれた、サーラのジュニア、もとい私のレンコンです。
レンコンの中は空洞ですから、浮いてきたのでしょうか?
はやく取り戻したいですが、今はヴァネッサさんはいません。
取りに行くなら自分の力で、です。
「ですが、沼の中央ですか。泳いでなら行けるかもしれませんが、親からもヴァネッサさんからも『沼には入るな』と言われていますし……」
悩んでいると、レンコンはぷかぷかと浮かびながら、こちらに近づいてきます。
徐々に近づいてきて、あともう少しでハサミが届きそう、といったところで止まります。
ラッキーです。
「……ハサミを限界まで伸ばせば、届きそうですか。…………うん、沼に入らなければいいだけですし、少し頑張ってみましょう」
私は下半身の蟹のハサミを限界まで伸ばし、レンコンを取ろうとします。
ハサミは届いているのですが、ぷかぷかと上下に揺れるレンコンを掴むのは一苦労です。
「もう少し……もう少しで掴めそう……あ、取れた!」
やった!と言おうとしたのですが、レンコンを沼から出すと、スポンッ!という音が聞こえました。
沼からレンコンを拾う時の感触も変でした。
まるで浴槽の底にある栓を引っこ抜いてしまったような感じです。
「……おや?」
よく見ると、レンコンに何か巻きついてあります。
銀の糸が巻きついており、その先端には…魔界銀で作られた……栓でしょうか?
ワイングラスなどについている、コルク栓みたいなような形です。
それに何か書いてあります。
人間さんの言葉でしょうか?ふ、ふうい……ふう……い、ん?
「なんですかこれは。一体何故こんな物が沼に」
ズル。
「……?」
足元を見ると、私が立っていた地面があった場所に、沼がありました。
信じられませんが、どうやら沼が移動したみたいです。それしか考えられません。
足元に地面がなくなった私の体は、ズボリ、と沼に落ちてしまいます。
「あ……ヤバイです」
抜け出そうとしますが、泥が体にまとわりついて身動きがとれません。
沼の中央では、ずずずっを音を出しながら渦を巻き始めています。
「やばいです……本格的にピンチです……」
力を込めて蟹足をジタバタ動かしますが、動けば動くほど下へと沈んでいきます。
陸地に手を伸ばし、腕の力で体を引き上げようとしましたが、ズル、と沼がまた移動してしまったため、つかもうとした陸地が遠のきます。
渦の方はさらに勢いが激しくなり、中央にはカリュブディスさんが作るような渦が出来上がってます。
「あ……ああ……」
こ、怖いです。
あのまま渦に飲み込まれてしまったら、私はどうなってしまうのでしょう?
怖さのあまり、顔が引きつっているかもしれません。
一体どうすれば……あ。
「ヴァネッサさんがくれた……不思議アイテム……」
私と一緒に沼におちたのでしょうか?
沼の渦に飲まれ、私と同じように渦の中を流されながも浮いています。
とてもあの不思議アイテムに浮力があるとは思えませんが、今はこれに頼るしかありません。
私は力を振り絞りCDラジカセとCDセットにつかまりました。
どうにか沈まないように頑張ります。
渦の遠心力で私の体はぐるぐると回され、徐々に中央の渦が近づいていきます。
ああ、お父さん、お母さん、サーラ、ヴァネッサさん……私はもしかしたら、遠いどこかへ行ってしまうかもしれません。
できればもう一度、みんなの顔を見たかったです。
渦に飲まれつつある私の覚悟が決まってきたところで、ふとCDセットと呼ばれる、素材がわからない透明でツルツルした四角い箱に、私の顔が写っているのに気がつきました。
……信じられないことに……
……私の顔は……
……全く感情が感じられない……
………………無表情でした。
嘘でしょう?こんな時になっても、私は……。
頭が真っ白になるのと感じながら、私の体は、渦に飲み込まれ、ドプリと、沼の底へ、沈んでしまいました。
……………………………………………………………………………………………………………………………………
…………ああ、光りです。
……光りが見えます。
毎朝、河の底から見ている朝の日の光に似ています。
どれくらい沼の中を漂っていたのかわかりませんが、徐々に意識がはっきりとしてきました。
私は、蟹足と腕を懸命に動かしつつ、水面を、光りを目指しましす。
とにかくここから出たい。
その思いだけが私の動かし、上へ、上へと体を持っていきます。
上半身の腕も動かし、蟹足で水を蹴って、蹴って、蹴って、水面へと近づきます。
「ぷはぁっ!」
どうにか水の中から出ることができました。
近くに陸なあるので、体に残った力を振り絞って陸地にたどり着きます。
「はぁっ……はぁっ……」
溺れそうでした。
水の中で住んでいる魔物娘とは思えないほどの必死さで泳ぎましたよ。
まるで陸地に住んでいる人間や魔物娘のように、必死になって体に空気を取り込みます。
私は始めて、溺れかけたというのを経験しました。
極めて知りたくなかった経験です。
「はぁ……はぁ……こ、ここは?」
顔に張り付く髪をかきあげながら、周りを見ます。
あたりには木々がなく、畑が一面に広がっています。
遠くに山も見えますね。
これだけで私がさっきまでいた場所ではないことがわかります。
それと……陸に上がった時から気になっていたのですが、沼を取り囲む人間さん達が、私のこと驚いたように見ていのです。
子供達も合わせて50人ほどでしょうか。
男性よりも女性方が圧倒的に多いみたいですね。
「……沼から誰か出てきた……」
「……あれは……魔物娘かしら?……」
「……そんな。いつの間に畑の中へ……」
人間さん達がざわめきます。
ひそひそざわざわ、それぞれ近くにいる人同士で話し合っているようです。
「しずまれーい!」
人間さんの一人がひときわ大きな声を出しました。
他の人間さん達が道を開けて、背の低い、痩せ細った、ヒゲの長いおじいさんが杖を付きながら私の前に歩いてきます。
あのおじいさんはこの人間さん達の中の、『偉い人』と呼ばれる人でしょうか?
おじいさんはペタペタと歩いてきて、普通に話しても聞こえる程度の距離までやってきます。
「おめえさん、この沼の主かの?」
「え?あの……」
おじいさんは力の篭った、低い声で質問してきます。
私はいきなりの質問だったのでどもってしまいました。
だってそうでしょう?
急いで沼から出たら囲まれていて、頭が混乱しているのに質問されているのです。
取り乱してもいいのですが、体でどう表現すればいいのかわかりません。
おじいさんはポンッと私の肩に手を置き、今度は優しく、ゆっくりとした口調で二度目の質問をします。
「もう一度聞くべ。おめぇさんは、この沼を、主様か?」
前の質問の時よりかはいいですが、その笑顔の裏には何か恐ろしい顔があるような気がします。
裏の顔でしょうか?
そう思いとこのおじいさんの顔が仮面のように見えてしましますね。
「えっと……沼の主ではないのですが……少しの間預かってま」
「やっぱりオメエだべか!」
いきなりおじいさんの顔が般若のように怖くなります。
怖いです。ガクブルです。
きっと顔も歪んでいるに違いまりません。
蟹の下半身は今にも震えそう……と思いましたが、全然震えていません。
どうしてでしょう?
怖すぎて震えることもできないのでしょうか?
「この畑は大事な芋を育てていたんだべ!それがいきなり出てきた沼のせいで底に沈んじまっただよ!どうしてくれんだ!これじゃ約束の日に間に合わん!」
「えっと……その……」
どうにか言い訳をしようと頑張りますが、全然ダメです。
思ったように口が回りません。
体の代わりに心がとても動揺して震えてしまっています。
大地震です。震度5です。
同時に涙のダムが決壊しそうです。
「この責任、とってもらうべからな?」
私の肩に置かれた手に力が入れられます。
どうしましょう。
言い訳も話も聞いてくれないうちに、私が畑の責任を取らされそうになっています。
こんな時、少しでも怯えていたら……あ。
「……あれ?」
鏡のようになっていた沼に私とおじいさんの顔が写っていました。
おじいさんは怒りに燃えた恐ろしい顔で、私の表情は、全く何を考えているかわからない、無表情でした。 でも……目の箸には少しだけ、ほんの少しだけ、涙が溜まっていました。
お母さん、お父さん、サーラ、ヴァネッサさん。
こんな時でも私は無表情みたいです。
ですが、少しぐらいは涙が出るみたいですよ?
つづく
14/11/13 20:04更新 / バスタイム
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