面影と君とオレと郷愁 中編
「どーん」
そんな気の抜けたような声と共に体に走る軽い衝撃、それから柔らかいもの。
それは大体オレが台所に立っているときか、人気のない道を歩いているときぐらいだった。
いつの間にか腹に回されている二本の細い腕。
華奢であり、どこか儚さを兼ね備えているそれはオレをしっかり捕らえて離さない。
そういうときは決まって言うんだ。
「…なんだよ?」
「疲れた、おぶれ」
「…はぁ」
家の中ならまぁいいだろう。…いや、家の中でおぶるのもどうかと思うけど。
しかし問題は外にいるとき。買い物が終わって帰るとき。
人がいないことを確認しているとはいえ外でそうベタベタするものではない。
買い物をし終えた後なんてさらに大変だ。
買い物袋を手で持ち、そのまま背負うのだから。
腕が痛いし背中も痛い。
それでもお構いなしに人の背中に乗りかかり帰り道を堪能する。
腕を首まで回し、足をぶらぶらさせて楽しんでいる。
他人のことなんてなんのその、自分がよければそれでいい。
それがオレの双子の姉である黒崎あやか。
暴君で、我侭で、自分勝手で大雑把。
それでも―
「―ゆうた」
「うん?」
「…いつもありがと」
「ああ、どういたしまして」
ちゃんと感謝していて、それでどこか優しい―
―オレの最愛の家族。
「へぇ、ここにユウタは住んでるんだ」
そう言いつつも黒髪を揺らす彼女はオレが普段寝るべき場であるベッドの上に当然のように腰掛けた。
我が物顔、自分のもの、当然だという態度。
いつもどおり、普段どおり。
ただ、腰掛けて足を揃えた様はどこかしおらしいものを感じさせる。
彼女自身の魅力をかけることなく振りまいているように。
「…」
「…?ユウタ、どうしたの?」
「あ、いや…別に」
そういいながらオレは部屋にある椅子に腰掛けた。
そこから眺める彼女の姿。
窓から差し込んだ僅かな月明かりに照らし出される体。
着ている服はオレと対なす学校指定の女子専用の制服。
一つにまとめた黒髪は月の下で輝いて、服から覗く白い肌は染み一つ見当たらない綺麗なもの。
全く変わらない、あの時と同じ姿。
―オレの双子の姉である、黒崎あやかの姿そのもの。
なのに、違和感。
いつもとは違うように感じられるこの状況。
世界が違うからとか、そういうのは関係ないのに。
目の前の彼女はそんなオレを不審そうに見ていた。
「…さっきからどうしたのさ。そんな不思議そうな顔しちゃって」
「いや、どうやってここへ来たか気になって」
そういうと彼女はふふんと鼻を鳴らした。
いつものようにない胸を誇らしげに張る様は可愛らしい姿とまったくあっておらず、それがまた彼女の魅力だということを見せ付けられる。
「頑張ってここに来たんだから。どうやってここに来れたか知りたい?」
「いや、面倒だからいいわ」
「え、ちょっと」
オレの拒否の言葉にどこか焦るも笑って許す。
そんな彼女の様子にオレはまた違和感を抱いた。
「…」
「まったく、大変だったんだから」
「…ああ、うん」
「先生があたしを止めたりしてさ、それで」
「ああ、うん」
「…聞いてる?」
「聞いてる聞いてる」
「…」
オレの言葉に彼女はベッドから立ち上がりオレのほうに歩いてきた。
おっと、いけね。これはビンタの一発でも来るか?
そんなことを考えてると彼女はオレの頬を両手で挟んでくる。
そのまま顔を近づけて距離を縮めてきた。
「っ!」
「本当に聞いてるの?」
どこか不安げで儚さを感じさせる表情は可愛らしい顔によりその魅力を何倍にも引き出してくれる。
その顔は姉弟であるオレでさえどきりとさせられるほどに。
思わず身を引いて逃げ出そうとするも、彼女の手はいまだにオレの頬から離れない。
「…聞いてるって言ってるだろ?」
「…なんか冷たくない?久しぶりに会えたっていうのに…もっと嬉しそうにしていいじゃん」
「…驚いてるんだよ」
その言葉は嘘偽りない。
彼女の姿はここではもう二度と見れないと思っていたものだ。
オレの記憶にしか残らずに、色あせていくものだと思っていた。
だから、驚いても無理はないだろう。
「あたしはすごく嬉しいよ」
その言葉が聞こえた途端、オレは柔らかなものに包まれた。
小さくも温かく、頑張ってオレを抱き込もうとするそれ。
それが彼女の体と気づくのには少し時間が必要だった。
「…何、してるんだよ」
「会いたかったんだから…」
彼女は小さく言った。
どこか声が震えている。
それは泣き出しそうに震えているのか、それとも会えたことによる感動からかはわからない。
その声に、その行為に。
どこかオレの感情は冷めていくものを感じた。
「ずっと、会いたかった」
「…ああ」
「ユウタがいなくなって、寂しかった」
「…そっか」
抱きしめられて、触れ合って。
感じる肌のぬくもりは全く同じ。
感じる肌の感触は全く変わらない。
それでも。
―感じるこの気持ちは…全く違う。
「ねぇ、ユウタ…」
彼女はオレに体重をかけ身を委ねてくる。
二人分の体重にぎしりと椅子が音を立てた。
二つの肉体は隙間なく接する。
服越しとはいえその体の感触は伝わってきた。
「本当にユウタだよね?これは…夢じゃないんだよね…?」
「…現実に決まってるだろ」
彼女は感情を昂ぶらせているのに対し、オレはどこかそっけない声色で返す。
それでも彼女はそんなオレを他所に手を背に回した。
そのまま体をわずかに動かしてオレの腰の上に座った。
大切な部分が重なり合うように。
男と女を意識させるように。
「ユウタ…」
どこか熱の篭った声でオレの名を呼んだ彼女は顔を離してオレを見た。
彼女の目にはどんな風に映っているだろうか。
オレの目に彼女の姿は映っている。
ちゃんと、そこにある姿がハッキリと。
ただ映っている。
映っている、だけだ。
「ユウタ」
もう一度、どこかうっとりとした表情で彼女はオレを呼んだ。
甘い吐息が顔にかかり、背筋をぞくぞくと悪寒にも似た感覚が走る。
それでも、昂ぶらない。
感情はいまいち反応を示さない。
「…んぅ」
そっと、ゆっくりと彼女は唇を突き出した。
桜色の唇がとても柔らかそうに見え、今すぐにでも自身の唇を押し付けてやりたいと思えるだろう。
本来ならば。
重なり合う姉弟の姿。
そこにあるは踏み込んではいけない禁忌がある。
インセスト・タブー。
近親相姦。
血縁関係のあるもの同士の交わり。
しかし、そのようなものはない。
オレと彼女の間には何もない。
関わりも、つながりも。
何もないから、特に感じない。
「ちょっと一つ…聞いていいか?」
「うん?」
彼女は動きを止めた。
それでも瞳に宿す光をぎらつかせたままで。
あと少しで唇が触れそうという距離で。
「何が聞きたいっていうの?」
「一つだけ聞きたいんだけどさ」
すぐ目の前にあるあやかの顔。
手入れされた綺麗な髪が窓から差し込む月明かりで宝石のように煌く。
顔にかかる甘い吐息はどこか熱が篭っており、潤んだ瞳はこの先を期待しているように見える。
小悪魔のような笑みを浮かべ、大人の女の顔をしていた。
だけどそれは。
その光は。
その姿は。
その顔は。
「―…お前は誰なんだよ?」
オレの双子の姉である、黒埼あやかの姿とは似ても似つかない。
その姿が全く同じだとしても、仕草が、癖が全く同じだったとしても。
オレの唯一無二の双子の姉のものとは重ならない。
「…え?何言ってるのさ?」
彼女は一瞬固まるも笑って返す。
それはどうにか慌てているという事実を隠そうとしているのがありありとわかった。
瞳に宿った光が揺れる。
迷うように、動揺するように、オレから視線を外せる状況ではないからよくわかる。
それを見てオレは確信した。
「あたしはあたしだよ。あんたの双子の姉の、黒崎アヤ―」
「―だから」
オレはそれを言わせない。
その名前を口にさせない。
「お前は、誰だって聞いてるんだよ…」
「…」
「オレは、お前みたいなのは知らねーんだよ」
どこか口調が強くなり、荒くなる。
女性相手だというのに、家族相手だとしてもここまで荒くものを言わない。
だがそれはオレの最も触れられたくないものを触れられたことから。
―最も見たくないものを見せられたから…。
「なんで、そんな事言うのさ…」
そう言った彼女は目元に涙を浮かべている。
その姿に本当なら胸が痛くなるはずなのに、どうしてか何も感じない。
だって、その姿は偽りだから。
ありもしない幻想で、何もない空想だから。
「あたしは、ただ…ユウタに会いたくて、ただ会いたかったから…ここまで頑張ってきたんだよ?やっとユウタに会えたって言うのに…どうしてそんなことを言うのさ…?」
「…」
その姿をやめて欲しかった。
その顔をやめて欲しかった。
見たくない。
もう、見たくないんだ。
やっと覚悟を決めたというのに。
ようやく思いを吹っ切ったというのに。
―決心を踏みにじられたように感じてしまうから。
「お前は…優しいんだよ」
オレは小さい声で問題点を上げていく。
彼女がオレの知っているものではないという理由を一つずつ。
声を落ち着かせ、沸き立つ感情を何とか抑えて。
「女の子らしい」
理由であって、彼女の失敗の原因。
「可愛らしい」
事実であって、現実である。
―でも、だから。
「お前は全く違うんだよ」
あやかではない。
オレが十八年間共に生きてきた片割れとも呼べる存在ではない。
それが彼女にわかるはずもないだろう。
だってこれはオレだからわかるもの。
その姿はあまりにも理想的であり、オレの憧れる双子の姉の想像図。
完全無欠の完璧な存在。
だからこそありえるはずもない。
オレは欠点を知っているし、横暴なところも知っている。
オレの前では女の子らしく振舞わないことも、オレを下僕のように扱うことも。
それでも、どこか優しくしてくれる、そんな小さな優しさを知っている。
しかし彼女は違う。
オレの前でも女の子らしいし、可愛らしく見せようとしている。
それは全くありえない。
全てを知っているオレからすればありえないと断言できること。
そして、何よりも。
「―あやかは、迷わないんだよ」
どこか肝が据わっていて、どこか覚悟を決めている。
優柔不断なオレと違ってハッキリとものを言う。
迷ったとしてもそれを他人に言うような奴じゃないし、弟であるオレに弱みを見せ付けるような女の子じゃない。
彼女の姿は完璧すぎた。
しおらしい姿に欠点はなかった。
女の子らしいあやかの姿はオレの理想に重なりすぎた。
―でも本当は…最初から気づいていた。
一目見たあのときから違和感を抱いていた。
それは双子だからわかること。
唯一無二の存在だからわかったこと。
目の前で微笑まれたとき、まるで赤の他人のように感じられた。
十八年間共に育ったんだ、自分の片割れといっても過言じゃない。
いや、自分自身といってもいいかもしれない。
でも、それなら。
一目見ようと、初めて会おうと。
それが双子の姉ならば見ずとも、会わずともわかったはずだ。
「お前は…違う」
彼女の肩を掴んでオレは言った。
「お前は、別人だ」
血の繋がりは誰かが成り代われるものじゃない。
家族の関わりは人が取り作れるものじゃない。
―双子の絆は他人が取って代われるものじゃない…!
その姿が偽者だって気づいていた。
その容姿が幻想だってわかっていた。
それでも。
懐かしさを感じずにはいられない。
あの頃を思い出さずにはいられない。
だから言い出せなかったんだ。
だからこの状況をもう少し長く感じていたかったんだ。
それでも―
「―…やめてくれよ」
かろうじて出せた弱弱しい声は悲鳴にも近かったかもしれない。
否、その言葉は悲鳴そのものだった。
「その姿を見せないでくれよ、頼むから」
「…」
「もう、わかっているんだ」
オレがこの世界に来たことで、もう向こうの世界に帰れないということは。
もう皆には会えないということは。
お父さんやお母さん、姉ちゃん。
師匠。
学校の友達。
先生に玉藻姐、夜宵。
―それから、あやか。
会うことは許されず、見ることさえも叶わない。
手を伸ばしたところで誰にも届かないし、どうやったところであの日常に戻れない。
退屈で、色あせて、それでも楽しく、温かかったあの頃に。
「わかってるんだよ」
オレは彼女の目を見れなかった。
もう彼女の姿を見れなかった。
その姿は見たくないから。
「もう、帰れないってことぐらい…」
届かぬ期待を持たせるな。
叶わぬ思いを抱かせるな。
やっとここで生きていくと覚悟が決まったのに、それを揺らすようなことをしてくれるな。
そんなことをしてはあきらめられなくなる。
どんなことをしてまでも帰りたくなる。
だから。
だから―
「―…ごめんなさい」
その声はあやかの声ではなかった。
弱弱しく、儚く、震えたそれは彼女の声そのもの。
今にも泣き出しそうで壊れそうにも聞き取れた。
その声にオレは顔を上げる。
するとそこにはあやかの姿は既になかった。
あったのは先ほどよりも頭一つ小さく震える少女。
夜を切り取ったかのように黒い髪の毛にそれとは逆の真っ白の肌。
それから同じ黒いワンピース姿であり、まだまだ成長途中で幼さを残した姿があった。
赤い瞳がオレを捉える。
それは既に潤んでいて目の端には涙を溜めていた。
「ごめん、なさい…」
彼女は先ほどと同じ言葉を紡ぐ。
「ユウタさん、が、いつも…寂しそうに、してたから…ユウタさん、いつも、泣きそうに、笑ってたから…」
今にも泣き崩れそうな彼女は何とか言葉を続けつつもじっとオレの目を見ている。
赤く魔性の光を宿した瞳が真っ直ぐオレに嘘偽りない感情だということを伝えてきた。
オレは何も言わない。
彼女の言葉に頷き、ただ聞くだけだった。
「だから、だから…どうにかしたいって、思って…ユウタさんを、慰めたいって、思って…」
「…」
「だから…ユウタさんの、心の中で、一番、大切な女性の姿を、纏って…」
そう言いながらも目からはぼろぼろと涙が零れ落ちた。
それでも彼女は言葉を続ける。
流れる涙を気にしない、拭おうともしない。
それでも必死にオレに気持ちを伝えるために口を開いてくれる。
「そうすれば…ユウタさんも、笑ってくれると、思っていたから………ユウタさんが、少しでも…心から、笑ってくれると、思っていたから…っ」
「…」
「ユウタさん、いつもどこか、遠くを見てて…我慢してて……つらいのに、つらいって、顔してないのに、わかっちゃうから…だからっ」
彼女の手がオレの学生服を強く硬く掴んだ。
崩れそうな体を必死に支えているのだろう。
触れただけで儚く消えそうなのに、それでも彼女は立ち続け、嗚咽を交えながらもしゃべり続けた。
そんな姿にオレは―
「―…もう、いいから…」
オレは彼女の小さな体を抱きしめた。
そっと優しく、それでどこか縋り付くように。
そうしながら言った。
「そこまでしてくれなくて…いいから…そんなに頑張ってくれなくていいから…」
震える手で彼女の頬に手を添えた。
ぼろぼろと零れ落ちる涙が窓から差し込む月明かりに煌く。
まるで宝石のように落ちていく雫を指で拭っていく。
弱弱しい表情。
今にも崩れそうに震えるその体。
オレよりも小さくて、オレよりも幼くて。
オレよりも、ずっと優しい彼女。
「う、ふ、ふぇぇぇ…っ」
我慢していたものが壊れたように彼女はいきなり泣き出した。
それはきっと自身が情けなかったのだろう。
こんなオレを助けようとして、逆に怒らせたことを許せなかったのだろう。
でも、嬉しかった。
自身の姿を偽ってまであやかの姿を纏ってくれていたことが。
それがドッペルゲンガーというものだとしても自分を捨ててまでオレを慰めようとしてくれたことが嬉しかった。
だから。
目の前のドッペルゲンガーの少女にオレはそっと呟いた。
「―ありがとう」
本当に、ありがとう。
こんなオレのためにそこまでしてくれて、ありがとう。
心の底から感謝した。
そのまま、椅子に座ったままオレは彼女を抱きしめていた。
彼女もオレの体を力いっぱい抱きしめていた。
小さい体躯、細い腕、華奢な足。
どれもこれも儚げで、どれもこれもが可愛らしい。
胸に顔を埋めてようやく涙を流し終えて、体の震えも収まってきた。
それなのに彼女はオレの体に抱きついたままだ。
オレも特に気にしない。
これがとても心地よく、とても安らぐ。
今はどうしてもこうしていたかった。
誰かに傍にいて欲しかった。
そうでないと、壊れてしまいそうだから。
やっと固めた決意がばらばらになりそうだったから。
ようやく抑えた自分が泣き出しそうだったから。
だから、一人にはなりたくなかった。
「…だ」
そんな中、物音一つしない中で彼女の声がかすかに聞こえた。
静かなこの部屋で聞き取れないほど小さい声で何かを言っていた。
「うん?どうかした?」
「…ま、だ」
彼女はオレの胸から顔を上げた。
涙を流した跡が残る顔だがそれでも目は真っ直ぐオレを見つめている。
赤いその目が強い意思を宿らせて。
黒ではない、赤い瞳が。
「ま、だ…です、から…」
「…?」
「まだ…終わって、ません…」
終わってない?
何が終わってないのだろうか?
というか、彼女は何かを続けるつもりだろうか?
それは何を?
どうするつもり?
またあやかの姿を纏うというのならばオレは今度こそ耐え切れない。
たぶん、怒鳴ったりしてしまう。
むしろ、それ上になってしまう。
「まだ、ユウタさん、泣きそう、です……」
「…」
「ユウタ、さん…心が…ずたずた、ですから…」
そう言って彼女はそっと続けた。
恥ずかしいのか顔を真っ赤にして。
それでも視線は外さずに。
そうして、言った。
「慰め、ます…っ」
腕に力を込めて、オレを抱きしめるというよりも自分の体を押し付けるようにして。
「癒し、ます…っ」
既に重なり合っている大切な部分を刺激するように腰を小さく動かして。
「えっち、しまふっ!」
噛んだ。
その言葉に、その行動にオレは当然驚いた。
オレの頭では考え付かないこと。
オレの予想していなかったこと。
こんな自分よりも小さな女の子が言うような言葉じゃないというのに。
でも、彼女は人間ではないドッペルゲンガー。
男性の精が必要ということもあるだろう。
だがそれ以上にオレのためということなんだろう。
あやかの姿を借りてまで迫ってきたあれは、きっと彼女の本心。
本当の姿になった今、目の前にある顔は真っ赤になっている。
それでも。
光った覚悟は変わらない。
宿った魔性は止まらない。
それから。
小さな女の子の頑張りも。
背伸びして、一生懸命尽くそうとするその意地も。
そして魔物としての本能も。
そんな彼女を前にしてオレは苦笑した。
こんな言葉を言わせる自分がどこか情けない。
それでも、それ以上にそんなことを頑張ってしようとしてくれる彼女がとても嬉しい。
そして、心から愛しくなる。
「…んっ!」
彼女は目を硬く瞑って唇を突き出した。
それは先ほどのした行為でありながらも感じるものは全く違う。
これが彼女の本当の顔。
真っ赤になって、今にも爆発しそうなほど恥ずかしいのに頑張っている。
そんな彼女をオレは突き放せなかった。
いつもならば女の子がそんなことをするんじゃありませんと拒否を示せたはずだ。
笑って、デコピンの一つでもお見舞いしたはずだ。
それが相手のためになると思うから。
それでも、今は。
今はそんなことができない。
自分のためにしてくれる、そんな彼女を受け入れたい。
それ以上に、埋めて欲しい。
ここまでしてくれる彼女だけに頼みたい。
この世界へ来たことによってできていた絶対に埋まらないものを。
だから。
オレは自分から顔を近づけた。
近づけ、触れ合うその寸前で口を開いた。
それは彼女の声のように小さくて、儚くて、微かなものだった。
「―ありがとう」
もう一度感謝の言葉を述べて、オレは彼女と唇を重ねた。
そんな気の抜けたような声と共に体に走る軽い衝撃、それから柔らかいもの。
それは大体オレが台所に立っているときか、人気のない道を歩いているときぐらいだった。
いつの間にか腹に回されている二本の細い腕。
華奢であり、どこか儚さを兼ね備えているそれはオレをしっかり捕らえて離さない。
そういうときは決まって言うんだ。
「…なんだよ?」
「疲れた、おぶれ」
「…はぁ」
家の中ならまぁいいだろう。…いや、家の中でおぶるのもどうかと思うけど。
しかし問題は外にいるとき。買い物が終わって帰るとき。
人がいないことを確認しているとはいえ外でそうベタベタするものではない。
買い物をし終えた後なんてさらに大変だ。
買い物袋を手で持ち、そのまま背負うのだから。
腕が痛いし背中も痛い。
それでもお構いなしに人の背中に乗りかかり帰り道を堪能する。
腕を首まで回し、足をぶらぶらさせて楽しんでいる。
他人のことなんてなんのその、自分がよければそれでいい。
それがオレの双子の姉である黒崎あやか。
暴君で、我侭で、自分勝手で大雑把。
それでも―
「―ゆうた」
「うん?」
「…いつもありがと」
「ああ、どういたしまして」
ちゃんと感謝していて、それでどこか優しい―
―オレの最愛の家族。
「へぇ、ここにユウタは住んでるんだ」
そう言いつつも黒髪を揺らす彼女はオレが普段寝るべき場であるベッドの上に当然のように腰掛けた。
我が物顔、自分のもの、当然だという態度。
いつもどおり、普段どおり。
ただ、腰掛けて足を揃えた様はどこかしおらしいものを感じさせる。
彼女自身の魅力をかけることなく振りまいているように。
「…」
「…?ユウタ、どうしたの?」
「あ、いや…別に」
そういいながらオレは部屋にある椅子に腰掛けた。
そこから眺める彼女の姿。
窓から差し込んだ僅かな月明かりに照らし出される体。
着ている服はオレと対なす学校指定の女子専用の制服。
一つにまとめた黒髪は月の下で輝いて、服から覗く白い肌は染み一つ見当たらない綺麗なもの。
全く変わらない、あの時と同じ姿。
―オレの双子の姉である、黒崎あやかの姿そのもの。
なのに、違和感。
いつもとは違うように感じられるこの状況。
世界が違うからとか、そういうのは関係ないのに。
目の前の彼女はそんなオレを不審そうに見ていた。
「…さっきからどうしたのさ。そんな不思議そうな顔しちゃって」
「いや、どうやってここへ来たか気になって」
そういうと彼女はふふんと鼻を鳴らした。
いつものようにない胸を誇らしげに張る様は可愛らしい姿とまったくあっておらず、それがまた彼女の魅力だということを見せ付けられる。
「頑張ってここに来たんだから。どうやってここに来れたか知りたい?」
「いや、面倒だからいいわ」
「え、ちょっと」
オレの拒否の言葉にどこか焦るも笑って許す。
そんな彼女の様子にオレはまた違和感を抱いた。
「…」
「まったく、大変だったんだから」
「…ああ、うん」
「先生があたしを止めたりしてさ、それで」
「ああ、うん」
「…聞いてる?」
「聞いてる聞いてる」
「…」
オレの言葉に彼女はベッドから立ち上がりオレのほうに歩いてきた。
おっと、いけね。これはビンタの一発でも来るか?
そんなことを考えてると彼女はオレの頬を両手で挟んでくる。
そのまま顔を近づけて距離を縮めてきた。
「っ!」
「本当に聞いてるの?」
どこか不安げで儚さを感じさせる表情は可愛らしい顔によりその魅力を何倍にも引き出してくれる。
その顔は姉弟であるオレでさえどきりとさせられるほどに。
思わず身を引いて逃げ出そうとするも、彼女の手はいまだにオレの頬から離れない。
「…聞いてるって言ってるだろ?」
「…なんか冷たくない?久しぶりに会えたっていうのに…もっと嬉しそうにしていいじゃん」
「…驚いてるんだよ」
その言葉は嘘偽りない。
彼女の姿はここではもう二度と見れないと思っていたものだ。
オレの記憶にしか残らずに、色あせていくものだと思っていた。
だから、驚いても無理はないだろう。
「あたしはすごく嬉しいよ」
その言葉が聞こえた途端、オレは柔らかなものに包まれた。
小さくも温かく、頑張ってオレを抱き込もうとするそれ。
それが彼女の体と気づくのには少し時間が必要だった。
「…何、してるんだよ」
「会いたかったんだから…」
彼女は小さく言った。
どこか声が震えている。
それは泣き出しそうに震えているのか、それとも会えたことによる感動からかはわからない。
その声に、その行為に。
どこかオレの感情は冷めていくものを感じた。
「ずっと、会いたかった」
「…ああ」
「ユウタがいなくなって、寂しかった」
「…そっか」
抱きしめられて、触れ合って。
感じる肌のぬくもりは全く同じ。
感じる肌の感触は全く変わらない。
それでも。
―感じるこの気持ちは…全く違う。
「ねぇ、ユウタ…」
彼女はオレに体重をかけ身を委ねてくる。
二人分の体重にぎしりと椅子が音を立てた。
二つの肉体は隙間なく接する。
服越しとはいえその体の感触は伝わってきた。
「本当にユウタだよね?これは…夢じゃないんだよね…?」
「…現実に決まってるだろ」
彼女は感情を昂ぶらせているのに対し、オレはどこかそっけない声色で返す。
それでも彼女はそんなオレを他所に手を背に回した。
そのまま体をわずかに動かしてオレの腰の上に座った。
大切な部分が重なり合うように。
男と女を意識させるように。
「ユウタ…」
どこか熱の篭った声でオレの名を呼んだ彼女は顔を離してオレを見た。
彼女の目にはどんな風に映っているだろうか。
オレの目に彼女の姿は映っている。
ちゃんと、そこにある姿がハッキリと。
ただ映っている。
映っている、だけだ。
「ユウタ」
もう一度、どこかうっとりとした表情で彼女はオレを呼んだ。
甘い吐息が顔にかかり、背筋をぞくぞくと悪寒にも似た感覚が走る。
それでも、昂ぶらない。
感情はいまいち反応を示さない。
「…んぅ」
そっと、ゆっくりと彼女は唇を突き出した。
桜色の唇がとても柔らかそうに見え、今すぐにでも自身の唇を押し付けてやりたいと思えるだろう。
本来ならば。
重なり合う姉弟の姿。
そこにあるは踏み込んではいけない禁忌がある。
インセスト・タブー。
近親相姦。
血縁関係のあるもの同士の交わり。
しかし、そのようなものはない。
オレと彼女の間には何もない。
関わりも、つながりも。
何もないから、特に感じない。
「ちょっと一つ…聞いていいか?」
「うん?」
彼女は動きを止めた。
それでも瞳に宿す光をぎらつかせたままで。
あと少しで唇が触れそうという距離で。
「何が聞きたいっていうの?」
「一つだけ聞きたいんだけどさ」
すぐ目の前にあるあやかの顔。
手入れされた綺麗な髪が窓から差し込む月明かりで宝石のように煌く。
顔にかかる甘い吐息はどこか熱が篭っており、潤んだ瞳はこの先を期待しているように見える。
小悪魔のような笑みを浮かべ、大人の女の顔をしていた。
だけどそれは。
その光は。
その姿は。
その顔は。
「―…お前は誰なんだよ?」
オレの双子の姉である、黒埼あやかの姿とは似ても似つかない。
その姿が全く同じだとしても、仕草が、癖が全く同じだったとしても。
オレの唯一無二の双子の姉のものとは重ならない。
「…え?何言ってるのさ?」
彼女は一瞬固まるも笑って返す。
それはどうにか慌てているという事実を隠そうとしているのがありありとわかった。
瞳に宿った光が揺れる。
迷うように、動揺するように、オレから視線を外せる状況ではないからよくわかる。
それを見てオレは確信した。
「あたしはあたしだよ。あんたの双子の姉の、黒崎アヤ―」
「―だから」
オレはそれを言わせない。
その名前を口にさせない。
「お前は、誰だって聞いてるんだよ…」
「…」
「オレは、お前みたいなのは知らねーんだよ」
どこか口調が強くなり、荒くなる。
女性相手だというのに、家族相手だとしてもここまで荒くものを言わない。
だがそれはオレの最も触れられたくないものを触れられたことから。
―最も見たくないものを見せられたから…。
「なんで、そんな事言うのさ…」
そう言った彼女は目元に涙を浮かべている。
その姿に本当なら胸が痛くなるはずなのに、どうしてか何も感じない。
だって、その姿は偽りだから。
ありもしない幻想で、何もない空想だから。
「あたしは、ただ…ユウタに会いたくて、ただ会いたかったから…ここまで頑張ってきたんだよ?やっとユウタに会えたって言うのに…どうしてそんなことを言うのさ…?」
「…」
その姿をやめて欲しかった。
その顔をやめて欲しかった。
見たくない。
もう、見たくないんだ。
やっと覚悟を決めたというのに。
ようやく思いを吹っ切ったというのに。
―決心を踏みにじられたように感じてしまうから。
「お前は…優しいんだよ」
オレは小さい声で問題点を上げていく。
彼女がオレの知っているものではないという理由を一つずつ。
声を落ち着かせ、沸き立つ感情を何とか抑えて。
「女の子らしい」
理由であって、彼女の失敗の原因。
「可愛らしい」
事実であって、現実である。
―でも、だから。
「お前は全く違うんだよ」
あやかではない。
オレが十八年間共に生きてきた片割れとも呼べる存在ではない。
それが彼女にわかるはずもないだろう。
だってこれはオレだからわかるもの。
その姿はあまりにも理想的であり、オレの憧れる双子の姉の想像図。
完全無欠の完璧な存在。
だからこそありえるはずもない。
オレは欠点を知っているし、横暴なところも知っている。
オレの前では女の子らしく振舞わないことも、オレを下僕のように扱うことも。
それでも、どこか優しくしてくれる、そんな小さな優しさを知っている。
しかし彼女は違う。
オレの前でも女の子らしいし、可愛らしく見せようとしている。
それは全くありえない。
全てを知っているオレからすればありえないと断言できること。
そして、何よりも。
「―あやかは、迷わないんだよ」
どこか肝が据わっていて、どこか覚悟を決めている。
優柔不断なオレと違ってハッキリとものを言う。
迷ったとしてもそれを他人に言うような奴じゃないし、弟であるオレに弱みを見せ付けるような女の子じゃない。
彼女の姿は完璧すぎた。
しおらしい姿に欠点はなかった。
女の子らしいあやかの姿はオレの理想に重なりすぎた。
―でも本当は…最初から気づいていた。
一目見たあのときから違和感を抱いていた。
それは双子だからわかること。
唯一無二の存在だからわかったこと。
目の前で微笑まれたとき、まるで赤の他人のように感じられた。
十八年間共に育ったんだ、自分の片割れといっても過言じゃない。
いや、自分自身といってもいいかもしれない。
でも、それなら。
一目見ようと、初めて会おうと。
それが双子の姉ならば見ずとも、会わずともわかったはずだ。
「お前は…違う」
彼女の肩を掴んでオレは言った。
「お前は、別人だ」
血の繋がりは誰かが成り代われるものじゃない。
家族の関わりは人が取り作れるものじゃない。
―双子の絆は他人が取って代われるものじゃない…!
その姿が偽者だって気づいていた。
その容姿が幻想だってわかっていた。
それでも。
懐かしさを感じずにはいられない。
あの頃を思い出さずにはいられない。
だから言い出せなかったんだ。
だからこの状況をもう少し長く感じていたかったんだ。
それでも―
「―…やめてくれよ」
かろうじて出せた弱弱しい声は悲鳴にも近かったかもしれない。
否、その言葉は悲鳴そのものだった。
「その姿を見せないでくれよ、頼むから」
「…」
「もう、わかっているんだ」
オレがこの世界に来たことで、もう向こうの世界に帰れないということは。
もう皆には会えないということは。
お父さんやお母さん、姉ちゃん。
師匠。
学校の友達。
先生に玉藻姐、夜宵。
―それから、あやか。
会うことは許されず、見ることさえも叶わない。
手を伸ばしたところで誰にも届かないし、どうやったところであの日常に戻れない。
退屈で、色あせて、それでも楽しく、温かかったあの頃に。
「わかってるんだよ」
オレは彼女の目を見れなかった。
もう彼女の姿を見れなかった。
その姿は見たくないから。
「もう、帰れないってことぐらい…」
届かぬ期待を持たせるな。
叶わぬ思いを抱かせるな。
やっとここで生きていくと覚悟が決まったのに、それを揺らすようなことをしてくれるな。
そんなことをしてはあきらめられなくなる。
どんなことをしてまでも帰りたくなる。
だから。
だから―
「―…ごめんなさい」
その声はあやかの声ではなかった。
弱弱しく、儚く、震えたそれは彼女の声そのもの。
今にも泣き出しそうで壊れそうにも聞き取れた。
その声にオレは顔を上げる。
するとそこにはあやかの姿は既になかった。
あったのは先ほどよりも頭一つ小さく震える少女。
夜を切り取ったかのように黒い髪の毛にそれとは逆の真っ白の肌。
それから同じ黒いワンピース姿であり、まだまだ成長途中で幼さを残した姿があった。
赤い瞳がオレを捉える。
それは既に潤んでいて目の端には涙を溜めていた。
「ごめん、なさい…」
彼女は先ほどと同じ言葉を紡ぐ。
「ユウタさん、が、いつも…寂しそうに、してたから…ユウタさん、いつも、泣きそうに、笑ってたから…」
今にも泣き崩れそうな彼女は何とか言葉を続けつつもじっとオレの目を見ている。
赤く魔性の光を宿した瞳が真っ直ぐオレに嘘偽りない感情だということを伝えてきた。
オレは何も言わない。
彼女の言葉に頷き、ただ聞くだけだった。
「だから、だから…どうにかしたいって、思って…ユウタさんを、慰めたいって、思って…」
「…」
「だから…ユウタさんの、心の中で、一番、大切な女性の姿を、纏って…」
そう言いながらも目からはぼろぼろと涙が零れ落ちた。
それでも彼女は言葉を続ける。
流れる涙を気にしない、拭おうともしない。
それでも必死にオレに気持ちを伝えるために口を開いてくれる。
「そうすれば…ユウタさんも、笑ってくれると、思っていたから………ユウタさんが、少しでも…心から、笑ってくれると、思っていたから…っ」
「…」
「ユウタさん、いつもどこか、遠くを見てて…我慢してて……つらいのに、つらいって、顔してないのに、わかっちゃうから…だからっ」
彼女の手がオレの学生服を強く硬く掴んだ。
崩れそうな体を必死に支えているのだろう。
触れただけで儚く消えそうなのに、それでも彼女は立ち続け、嗚咽を交えながらもしゃべり続けた。
そんな姿にオレは―
「―…もう、いいから…」
オレは彼女の小さな体を抱きしめた。
そっと優しく、それでどこか縋り付くように。
そうしながら言った。
「そこまでしてくれなくて…いいから…そんなに頑張ってくれなくていいから…」
震える手で彼女の頬に手を添えた。
ぼろぼろと零れ落ちる涙が窓から差し込む月明かりに煌く。
まるで宝石のように落ちていく雫を指で拭っていく。
弱弱しい表情。
今にも崩れそうに震えるその体。
オレよりも小さくて、オレよりも幼くて。
オレよりも、ずっと優しい彼女。
「う、ふ、ふぇぇぇ…っ」
我慢していたものが壊れたように彼女はいきなり泣き出した。
それはきっと自身が情けなかったのだろう。
こんなオレを助けようとして、逆に怒らせたことを許せなかったのだろう。
でも、嬉しかった。
自身の姿を偽ってまであやかの姿を纏ってくれていたことが。
それがドッペルゲンガーというものだとしても自分を捨ててまでオレを慰めようとしてくれたことが嬉しかった。
だから。
目の前のドッペルゲンガーの少女にオレはそっと呟いた。
「―ありがとう」
本当に、ありがとう。
こんなオレのためにそこまでしてくれて、ありがとう。
心の底から感謝した。
そのまま、椅子に座ったままオレは彼女を抱きしめていた。
彼女もオレの体を力いっぱい抱きしめていた。
小さい体躯、細い腕、華奢な足。
どれもこれも儚げで、どれもこれもが可愛らしい。
胸に顔を埋めてようやく涙を流し終えて、体の震えも収まってきた。
それなのに彼女はオレの体に抱きついたままだ。
オレも特に気にしない。
これがとても心地よく、とても安らぐ。
今はどうしてもこうしていたかった。
誰かに傍にいて欲しかった。
そうでないと、壊れてしまいそうだから。
やっと固めた決意がばらばらになりそうだったから。
ようやく抑えた自分が泣き出しそうだったから。
だから、一人にはなりたくなかった。
「…だ」
そんな中、物音一つしない中で彼女の声がかすかに聞こえた。
静かなこの部屋で聞き取れないほど小さい声で何かを言っていた。
「うん?どうかした?」
「…ま、だ」
彼女はオレの胸から顔を上げた。
涙を流した跡が残る顔だがそれでも目は真っ直ぐオレを見つめている。
赤いその目が強い意思を宿らせて。
黒ではない、赤い瞳が。
「ま、だ…です、から…」
「…?」
「まだ…終わって、ません…」
終わってない?
何が終わってないのだろうか?
というか、彼女は何かを続けるつもりだろうか?
それは何を?
どうするつもり?
またあやかの姿を纏うというのならばオレは今度こそ耐え切れない。
たぶん、怒鳴ったりしてしまう。
むしろ、それ上になってしまう。
「まだ、ユウタさん、泣きそう、です……」
「…」
「ユウタ、さん…心が…ずたずた、ですから…」
そう言って彼女はそっと続けた。
恥ずかしいのか顔を真っ赤にして。
それでも視線は外さずに。
そうして、言った。
「慰め、ます…っ」
腕に力を込めて、オレを抱きしめるというよりも自分の体を押し付けるようにして。
「癒し、ます…っ」
既に重なり合っている大切な部分を刺激するように腰を小さく動かして。
「えっち、しまふっ!」
噛んだ。
その言葉に、その行動にオレは当然驚いた。
オレの頭では考え付かないこと。
オレの予想していなかったこと。
こんな自分よりも小さな女の子が言うような言葉じゃないというのに。
でも、彼女は人間ではないドッペルゲンガー。
男性の精が必要ということもあるだろう。
だがそれ以上にオレのためということなんだろう。
あやかの姿を借りてまで迫ってきたあれは、きっと彼女の本心。
本当の姿になった今、目の前にある顔は真っ赤になっている。
それでも。
光った覚悟は変わらない。
宿った魔性は止まらない。
それから。
小さな女の子の頑張りも。
背伸びして、一生懸命尽くそうとするその意地も。
そして魔物としての本能も。
そんな彼女を前にしてオレは苦笑した。
こんな言葉を言わせる自分がどこか情けない。
それでも、それ以上にそんなことを頑張ってしようとしてくれる彼女がとても嬉しい。
そして、心から愛しくなる。
「…んっ!」
彼女は目を硬く瞑って唇を突き出した。
それは先ほどのした行為でありながらも感じるものは全く違う。
これが彼女の本当の顔。
真っ赤になって、今にも爆発しそうなほど恥ずかしいのに頑張っている。
そんな彼女をオレは突き放せなかった。
いつもならば女の子がそんなことをするんじゃありませんと拒否を示せたはずだ。
笑って、デコピンの一つでもお見舞いしたはずだ。
それが相手のためになると思うから。
それでも、今は。
今はそんなことができない。
自分のためにしてくれる、そんな彼女を受け入れたい。
それ以上に、埋めて欲しい。
ここまでしてくれる彼女だけに頼みたい。
この世界へ来たことによってできていた絶対に埋まらないものを。
だから。
オレは自分から顔を近づけた。
近づけ、触れ合うその寸前で口を開いた。
それは彼女の声のように小さくて、儚くて、微かなものだった。
「―ありがとう」
もう一度感謝の言葉を述べて、オレは彼女と唇を重ねた。
12/03/26 20:08更新 / ノワール・B・シュヴァルツ
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