悲劇、ついで慟哭
ユウタと逢瀬を重ねて既に二桁。
彼のおかげで彼に触れることができるようになった。
今まで男性に触れることのできなかった私にとって喜ばしいことだ。
…ただ、ユウタ以外の男にできるかはわからないが。
それに。
ユウタは血を分けてくれる。
こんなヴァンパイアである私を前にしても恐れず、動じず、女性として扱ってくれる。
傍から見たら馬鹿だとしか言いようがない。
ユウタ自身も自覚してるだろう。
それでも、今まで人間に虐げられてきた私にとってそれがどれほど嬉しいことか。
そして、温かいことか。
私はいつものようにこの世界に来て電信柱(ようやく名を教えてもらった、これが何のためにあるのかはまだ知らない)の上に立ち、蝙蝠を夜空に放っていた。
ユウタを探すために。
今夜もまたユウタに会いに来た。
以前のこともあり約束をし忘れていたからだ。
次に会う日を決められず、どこで会うかを伝えられず。
結果こうして探し出している。
血をもらうわけではない。
ただ単に話しに…いや、少しばかり触れ合うために。
手を繋ぐぐらいなら彼も許可してくれるだろう。
そのまま夜の散歩へといくのもまた乙なものだ。
本当はさらにその先へと行きたいのだが…行けるだろうか?
この前は口付けまでした。
以前の私なら絶対に考えられないだろう。
触れるだけでその感覚を引き離そうと突き飛ばしていた私からは予想もつかないものだ。
それは…とても甘いものだった。
今でも思い出せるあの感触。
気持ちが、心が、蕩けるようなあの行為。
ただ唇を重ねただけだというのにあそこまで昂ぶるとは。
もともと大蒜で少しばかり昂ぶっていたせいもあるだろうがそれでも。
それでもやはりいいものだった。
今まで感じたものよりもずっと、よかった。
親友に話してみたところ、なんでもっと先に進まないのか、そのまま押し倒せばよかったのだと口うるさく言われた。
万年旦那と体を重ねてる君とは違うのだよ。
こちらは君の影響を受けたところで元々ヴァンパイア。
貴族という名を背負っている。
その貴族が、親友と肩を並べたこの私がそのような真似できるわけない。
…まぁ、したかったかと聞かれれば…したかったのだが。
心のどこか、もっとユウタを求めていたことは事実だ。
好意だって彼に向けている。
今さら否定する気はないさ。
「…と」
どうやら蝙蝠たちがユウタの居場所を突き止めてくれたようだ。
それでは一刻も早く行くとしようか。
この時間は有限だ。
無限の時を生きてきたからこそその大切さは身にしみている。
ユウタは私と違う人間。
生きることができる時間が限られている。
…もし、私と同じヴァンパイア…いや、インキュバスにできたら…。
「…何を考えているんだ、私は」
そんなことをすれば確実に殺される。
ユウタの双子の姉である彼女が怒らないわけがない。
それに、いくら優しいユウタでもそれを望んでいるかわからない。
もしも私が無理やり彼を人ではないものへ変えてしまったときは怒らないでいてくれるだろうか。
それとも見たことのないような形相で憤るのだろうか。
それとも仕方ないといって受け入れてくれるのだろうか。
…わからない。
私自身それを望んでいるだろうが…それでも。
ユウタがどうしたいのかわからない以上すべきではない。
彼が初めて私に血をくれたときは手首を切っていた。
あれは私への気遣いと共に、私に噛まれることを避けたかったからじゃないのだろうか。
だとして、私がユウタに牙を立てるべきではない。
彼自身、人間でありたいと思っているのだろうから。
「…行こうか」
考えを振り払うように。
そんな思いを拭うように。
私は翼を開き、飛び立った。
そうして夜空に羽ばたく私はどんなところか知りもしなかった。
ユウタを探して見つけた場所を。
ユウタがそこにいた、その意味を。
「…ここ、か?」
蝙蝠に案内させてたどり着いた場所。
ここにも複数立てられている電信柱の上に立ち私はその建物を見た。
窓がいくつも並んだ大きな建物。
私の屋敷や親友の城には劣るかもしれないが…それに近いほど大きい。
何の建物だろうか。
下には赤い光を放つ変わった鉄の塊がある。
確か…車というものだったか。
白く塗られている反面、上で輝く赤色がとても目立つ。
なんのためにここに止まっているのだろう。
いや、それ以上に気になるのが…香るんだ。
この独特のにおい。
わずかだが…それでも大量に。
不気味なほどに、沢山。
私達が生きていく上で必要なあのニオイが。
鉄に良く似たあの香りが。
―血のニオイ…?
怪我人が大量にいるのだろう、距離を置いても窓越しでも染み出し、漂ってくる。
ふむ…といことはここは病院なのだろう。
しかし、それで疑問に思うことがある。
なぜここなのか。
どうして、ユウタがここにいるのか。
…嫌な予感がする。
経験を積めば勘や予感という不確かなものでも確かなものになる。
経験上こういったものはいい結果にならない。
自然とわかってしまう。
それは、今回もまた…同じだった。
規則正しく沢山並んだ窓の内の一つ。
まるで誘い込むかのように開いていた。
そこから香る血のニオイ。
それは紛れもない…ユウタのもの。
おそらく、というか確実にここにユウタはいる。
だが、どうしてだろう。
どうしてここまで香るのだろう。
他の者の地のにおいに混じってなお濃く香るそれが。
ユウタの血の香りが…。
どうして、ここまで届くのだろう。
「…っ」
ここでうだうだしていたところで何も起きない。
私はその窓の中へと入ることにした。
窓枠に足を掛け、背に生やした翼をしまい、血のように真っ赤なドレスを翻してそこへ降り立った。
そこは個室だった。
こじんまりとした室内。
特に飾られているわけでもない、装飾などない白い部屋。
彼の部屋と比べれば大きいそこの中央に置かれたベッド。
そこに―
―ユウタはいた。
寝やすいようにだろう、白く大きな服を着て。
安らかとは言いがたい、不健康そうな青白い顔。
瞼は閉じていて一見寝ているのかと思うが…様子がおかしい。
血のニオイがするのに目立った傷は見えない…いや。
覆い隠されていて見えそうにない。
影のような黒い髪を覆っている白い布によって。
包帯。
どこをどう見たところでそれにしか見えない。
「…っ!ユウタ―」
言いかけて、気づいた。
この部屋にいるのはユウタだけではない。
明かりもつけず、窓を開けて。
ユウタの傍にひっそりと座っていた。
顔は見えない。
うつむいて表情を隠しているようだ。
だが、それでも。
私が来たことには気づいたようだった。
「…笑っちゃうよね」
アヤカは呟くように言った。
あのときのように私に食って掛かろうとせずに。
私を前にして、刃物を突きつけてきたときとは違う。
気力がなく、生気がない。
後一歩で死んでしまいそう、そんな風に弱弱しさを感じる。
「ゆうたさ、学校の階段で転げ落ちたんだって」
「っ!」
「見てた人が言ってたんだけど、くらくら目眩がしてるような素振りを見せたら急に倒れて…だってさ」
その言葉にユウタを見た。
頭に巻かれた包帯、それはやはり怪我をしたということだろう。
それも、軽いものじゃない。
私に血をくれるために切ったような傷ではない。
もっと重い、命に関わる傷。
「そうなっちゃうのも仕方ないよ。だってゆうた、最近貧血気味だって言ってたんだもん」
「…っ」
「貧血だよ?貧血。血が足りないってことだよ…わかる?」
「…」
「ねぇ……わかってるの!?」
一瞬。
アヤカはユウタの寝ているベッドを飛び越えて窓枠に脚かけていた私のドレスを引っつかんだ。
それでは止まらずそのまま引き摺り下ろされ、壁に叩きつけられる。
それは見えていたし、本当なら避けることもできた。
あの夜のときよりもずっと真っ直ぐで愚直な行為。
それでも避けることはできなかった。
彼女の顔を見てしまったから。
アヤカは―
―泣いていた。
頬に涙の跡を残して、目を真っ赤に腫らして。
冷たい表情でもなく、蔑む表情でもない。
私を憎んで、ユウタの身に起きたことを悲しんでいる顔だ。
そんな顔を見て、何も出来なくなる。
口を開こうとして、噤んでしまう。
「あんたのせいだ!あんたが、ゆうたから血をもらわなければこんなことにならなかった!」
「…」
「あんたが!あんたがゆうたにかかわらなければこうはならなかった!!」
「…」
「あんたが隠れてゆうたに会ってたことは知ってたよ!ゆうたも結局は楽しそうだったから目を瞑ることにしてたんだよ!」
「…」
「でもっ!あんたはっ!!」
アヤカは私のドレスをきつく握り、泣き叫ぶ。
既に止まっていた涙が再び流れ出す。
可愛らしい顔を乱し、みっともなく、痛々しく、目も当てられないほどに悲しく。
「あんたのせいでゆうたが大怪我したんだよ!!」
「…」
「あんたがいなければゆうたは怪我しなかったんだよ!!」
「…」
「それなにの、それなのにっ!まだ血をもらいに来てるって言うの!?」
何もいえなくなってしまう。
アヤカの言っていることは正しい。
彼女が口にしていることは全て事実で、現実だ。
血をもらいに来ているわけではないが、それでもきっと欲してしまう。
またきっと、ユウタを求めてしまう。
その結果が、これだ。
「あんたが!あんたがいなければ…ゆうたはこんなことにならなかったって言うのにっ!!あんたが…あんたのせいでぇ…っ!」
ずるずると、アヤカは泣き崩れた。
そのまま床に座り込んでしまう。
それでも、執念深くドレスを掴んだままで。
「…すまない」
言えることといえばこれくらいだ。
こうなるとは私も思っていなかった。
こんなことになるなんて、予想していなかった。
また楽しく会うことができると思っていた。
なのに。
また、ユウタを傷つけてしまった。
それも、ずっと酷く。
私のせいで。
「…本当に、すまない」
「謝って、どうにかなるの…?ゆうたがどんな状態なのか知ってるの…?血は足りない、頭を強く打って意識は戻らない、体だって、あちこち骨折してるんだよ…っ!?」
顔は見えない。
それでもアヤカは嗚咽を交えながらもそう言った。
それは誰が聞こうと明らかな重症。
助かることが難しいだろう。
触れることができればどこまで怪我しているのかわかるのだがそれを許してもらえるわけがない。
回復魔法。
それがあれば今よりもずっとマシなほどになるだろうが…私は使えない。
ここにユニコーンがいてくれれば重症といえど一瞬で治せる魔法を使ってくれただろう。
それでも、彼女らはここにはいない。
この世界は私のいる世界とまったく異なるのだから。
「…」
静かな夜。
物音のしない、沈黙の闇。
私は何も出来ずに壁に身を預けていた。
アヤカにドレスをつかまれたまま、何もできずにいた。
窓から月明かりの入ってくるこの部屋にただアヤカのすすり泣く声だけが響いていた。
あの後アヤカは泣きつかれて眠ってしまった。
そのまま床に横たわらせるわけにもいかず、椅子を並べその上に寝かせた。
そうしてようやくユウタに近づける。
アヤカ以外にいないところを見ると両親は仕事、それともアヤカに任せているのだろうか。
おそらくアヤカが無理やりにでも居座っているのだろう。
ユウタのことなら無茶をする、実に彼女らしい。
それでも、ただでは済まなかったはずだ。
自らを放任主義と言っていた父親でも、感情的になっていたはずだ。
いくら私とユウタの仲を肯定していたところでここまで容認できようか。
ここまでしてしまい、何も感じずにいられようか。
実の父親だ、いられるはずがないだろう。
「…ユウタ」
私はベッドで横たわり、意識を失っている彼の名を呼んだ。
当然返事はない。
いつものように優しげに答えるあの声は聞こえない。
顔は白く、生気を失っているようにしか見えない。
瞼は閉じ、開くようには思えない。
「ユウ、タ…」
そっと彼の頬に手を添えた。
冷たい。
今までに触れて感じていたものよりもずっと冷たい。
これが無事じゃないということは見ただけでもわかる。
重症ということが嫌でもわかる。
このまま助かる可能性は少ないということも…。
ようやく落ち着いて触れられるようになったというのに。
やっとのことで君に手を伸ばせるようになったというのに。
待っている結果が、これか。
笑えるじゃないか。
こんな、こんなこと…。
―望んでいたはずないのに。
こんなことならばヴァンパイアなどに生まれるべきではなかった。
こんなことなら血を欲するべきではなかった。
こんなことなら…
―ユウタに会わなければ良かった…。
会わなければこんなことにはならなかった。
会うことがなければ傷つけることもなかった。
会っていなかったら…こんな風に触れることもできなかっただろう。
会っていたからこそ私は味わったことのない優しさを感じたのではないだろうか。
ユウタがいてくれたからこそ、触れ合うことができたのではないだろうか。
ユウタのおかげでこんな気持ちになれたのではないだろうか
私は…。
「…だからといって、何もできないのには変わらないのに、ね」
自嘲気味に私は笑った。
小さく乾いた声が室内に寂しく響く。
そう、変わらないんだ。
私がユウタに出来ることなんてないんだ。
今まで甘えていたように、返せるものがないんだ。
ユウタは言っていた。返せるときに返してくれればいいと。
そんなときが、既にないというのに…。
重症を負っているユウタを救うことはできないというのに。
―…いや。
できないというわけではない。
方法がないわけではない。
あるんだ。
厳密に言えば一つだけ。
私にでもユウタを救うことはできるんだ。
確実に助けることはできる。
それをすればこの状態から回復することは間違いない。
ただそれは。
それは、してはいけないこと。
ユウタの気持ちを聞かずにしてはいけないこと。
そして―
―私の望んでいること。
望んではいけない。願ってはいけない。
叶えてはいけない、押し付けてはいけない。
ただの我侭。
ユウタがそれをよしとしているとはわからない。
それでいいと望んでいるかわからない。
ユウタがそれを願っているなんて、思えない。
「…ねぇ、ユウタ。君は…どうなのだろうね…」
私のわがままを受け入れてくれた君でも嫌がるのかい?
私の謝罪に怒ったように、怒るのかい?
そっと、彼の頬を撫でた。
やはり冷たく、それでも柔らかな感触が伝わる。
冷たいね…このまま冷たくなってしまうのだろうか。
そうして、ユウタは死んでしまうのだろうか…。
「…」
失いたくはない。
手放したくはない。
あの温もりを。あの優しさを。
知ってしまって離れられるわけがない。
…はは、なんと私は勝手なのだろうね。
これじゃあ聞き分けのない子供も同然。
我侭な稚児じゃないか…。
「…」
私はそっと身を寄せた。
冷たい体に覆いかぶさり、顔を覗き込むように。
表情は勿論変わらない。
これほどまで近づけば恥ずかしそうに顔を背けていたのに、ね。
彼の頬を一撫でし終え、着ていた白い服に手を掛けた。
脱がすわけじゃない、ただ少しばかり露出させるだけ。
ボタンを二つ三つ外し、止まる。
さらけ出された首筋。
白く、それでもうっすらと血管が浮き出ている。
それを指でなぞった。
わずかな脈を感じられる。
それでも、あまりにも弱弱しい。
「ユウタ…」
もう一度だけ、彼の名を読んで私は―
「…すまない」
―ユウタの首に牙を突き立てた。
彼のおかげで彼に触れることができるようになった。
今まで男性に触れることのできなかった私にとって喜ばしいことだ。
…ただ、ユウタ以外の男にできるかはわからないが。
それに。
ユウタは血を分けてくれる。
こんなヴァンパイアである私を前にしても恐れず、動じず、女性として扱ってくれる。
傍から見たら馬鹿だとしか言いようがない。
ユウタ自身も自覚してるだろう。
それでも、今まで人間に虐げられてきた私にとってそれがどれほど嬉しいことか。
そして、温かいことか。
私はいつものようにこの世界に来て電信柱(ようやく名を教えてもらった、これが何のためにあるのかはまだ知らない)の上に立ち、蝙蝠を夜空に放っていた。
ユウタを探すために。
今夜もまたユウタに会いに来た。
以前のこともあり約束をし忘れていたからだ。
次に会う日を決められず、どこで会うかを伝えられず。
結果こうして探し出している。
血をもらうわけではない。
ただ単に話しに…いや、少しばかり触れ合うために。
手を繋ぐぐらいなら彼も許可してくれるだろう。
そのまま夜の散歩へといくのもまた乙なものだ。
本当はさらにその先へと行きたいのだが…行けるだろうか?
この前は口付けまでした。
以前の私なら絶対に考えられないだろう。
触れるだけでその感覚を引き離そうと突き飛ばしていた私からは予想もつかないものだ。
それは…とても甘いものだった。
今でも思い出せるあの感触。
気持ちが、心が、蕩けるようなあの行為。
ただ唇を重ねただけだというのにあそこまで昂ぶるとは。
もともと大蒜で少しばかり昂ぶっていたせいもあるだろうがそれでも。
それでもやはりいいものだった。
今まで感じたものよりもずっと、よかった。
親友に話してみたところ、なんでもっと先に進まないのか、そのまま押し倒せばよかったのだと口うるさく言われた。
万年旦那と体を重ねてる君とは違うのだよ。
こちらは君の影響を受けたところで元々ヴァンパイア。
貴族という名を背負っている。
その貴族が、親友と肩を並べたこの私がそのような真似できるわけない。
…まぁ、したかったかと聞かれれば…したかったのだが。
心のどこか、もっとユウタを求めていたことは事実だ。
好意だって彼に向けている。
今さら否定する気はないさ。
「…と」
どうやら蝙蝠たちがユウタの居場所を突き止めてくれたようだ。
それでは一刻も早く行くとしようか。
この時間は有限だ。
無限の時を生きてきたからこそその大切さは身にしみている。
ユウタは私と違う人間。
生きることができる時間が限られている。
…もし、私と同じヴァンパイア…いや、インキュバスにできたら…。
「…何を考えているんだ、私は」
そんなことをすれば確実に殺される。
ユウタの双子の姉である彼女が怒らないわけがない。
それに、いくら優しいユウタでもそれを望んでいるかわからない。
もしも私が無理やり彼を人ではないものへ変えてしまったときは怒らないでいてくれるだろうか。
それとも見たことのないような形相で憤るのだろうか。
それとも仕方ないといって受け入れてくれるのだろうか。
…わからない。
私自身それを望んでいるだろうが…それでも。
ユウタがどうしたいのかわからない以上すべきではない。
彼が初めて私に血をくれたときは手首を切っていた。
あれは私への気遣いと共に、私に噛まれることを避けたかったからじゃないのだろうか。
だとして、私がユウタに牙を立てるべきではない。
彼自身、人間でありたいと思っているのだろうから。
「…行こうか」
考えを振り払うように。
そんな思いを拭うように。
私は翼を開き、飛び立った。
そうして夜空に羽ばたく私はどんなところか知りもしなかった。
ユウタを探して見つけた場所を。
ユウタがそこにいた、その意味を。
「…ここ、か?」
蝙蝠に案内させてたどり着いた場所。
ここにも複数立てられている電信柱の上に立ち私はその建物を見た。
窓がいくつも並んだ大きな建物。
私の屋敷や親友の城には劣るかもしれないが…それに近いほど大きい。
何の建物だろうか。
下には赤い光を放つ変わった鉄の塊がある。
確か…車というものだったか。
白く塗られている反面、上で輝く赤色がとても目立つ。
なんのためにここに止まっているのだろう。
いや、それ以上に気になるのが…香るんだ。
この独特のにおい。
わずかだが…それでも大量に。
不気味なほどに、沢山。
私達が生きていく上で必要なあのニオイが。
鉄に良く似たあの香りが。
―血のニオイ…?
怪我人が大量にいるのだろう、距離を置いても窓越しでも染み出し、漂ってくる。
ふむ…といことはここは病院なのだろう。
しかし、それで疑問に思うことがある。
なぜここなのか。
どうして、ユウタがここにいるのか。
…嫌な予感がする。
経験を積めば勘や予感という不確かなものでも確かなものになる。
経験上こういったものはいい結果にならない。
自然とわかってしまう。
それは、今回もまた…同じだった。
規則正しく沢山並んだ窓の内の一つ。
まるで誘い込むかのように開いていた。
そこから香る血のニオイ。
それは紛れもない…ユウタのもの。
おそらく、というか確実にここにユウタはいる。
だが、どうしてだろう。
どうしてここまで香るのだろう。
他の者の地のにおいに混じってなお濃く香るそれが。
ユウタの血の香りが…。
どうして、ここまで届くのだろう。
「…っ」
ここでうだうだしていたところで何も起きない。
私はその窓の中へと入ることにした。
窓枠に足を掛け、背に生やした翼をしまい、血のように真っ赤なドレスを翻してそこへ降り立った。
そこは個室だった。
こじんまりとした室内。
特に飾られているわけでもない、装飾などない白い部屋。
彼の部屋と比べれば大きいそこの中央に置かれたベッド。
そこに―
―ユウタはいた。
寝やすいようにだろう、白く大きな服を着て。
安らかとは言いがたい、不健康そうな青白い顔。
瞼は閉じていて一見寝ているのかと思うが…様子がおかしい。
血のニオイがするのに目立った傷は見えない…いや。
覆い隠されていて見えそうにない。
影のような黒い髪を覆っている白い布によって。
包帯。
どこをどう見たところでそれにしか見えない。
「…っ!ユウタ―」
言いかけて、気づいた。
この部屋にいるのはユウタだけではない。
明かりもつけず、窓を開けて。
ユウタの傍にひっそりと座っていた。
顔は見えない。
うつむいて表情を隠しているようだ。
だが、それでも。
私が来たことには気づいたようだった。
「…笑っちゃうよね」
アヤカは呟くように言った。
あのときのように私に食って掛かろうとせずに。
私を前にして、刃物を突きつけてきたときとは違う。
気力がなく、生気がない。
後一歩で死んでしまいそう、そんな風に弱弱しさを感じる。
「ゆうたさ、学校の階段で転げ落ちたんだって」
「っ!」
「見てた人が言ってたんだけど、くらくら目眩がしてるような素振りを見せたら急に倒れて…だってさ」
その言葉にユウタを見た。
頭に巻かれた包帯、それはやはり怪我をしたということだろう。
それも、軽いものじゃない。
私に血をくれるために切ったような傷ではない。
もっと重い、命に関わる傷。
「そうなっちゃうのも仕方ないよ。だってゆうた、最近貧血気味だって言ってたんだもん」
「…っ」
「貧血だよ?貧血。血が足りないってことだよ…わかる?」
「…」
「ねぇ……わかってるの!?」
一瞬。
アヤカはユウタの寝ているベッドを飛び越えて窓枠に脚かけていた私のドレスを引っつかんだ。
それでは止まらずそのまま引き摺り下ろされ、壁に叩きつけられる。
それは見えていたし、本当なら避けることもできた。
あの夜のときよりもずっと真っ直ぐで愚直な行為。
それでも避けることはできなかった。
彼女の顔を見てしまったから。
アヤカは―
―泣いていた。
頬に涙の跡を残して、目を真っ赤に腫らして。
冷たい表情でもなく、蔑む表情でもない。
私を憎んで、ユウタの身に起きたことを悲しんでいる顔だ。
そんな顔を見て、何も出来なくなる。
口を開こうとして、噤んでしまう。
「あんたのせいだ!あんたが、ゆうたから血をもらわなければこんなことにならなかった!」
「…」
「あんたが!あんたがゆうたにかかわらなければこうはならなかった!!」
「…」
「あんたが隠れてゆうたに会ってたことは知ってたよ!ゆうたも結局は楽しそうだったから目を瞑ることにしてたんだよ!」
「…」
「でもっ!あんたはっ!!」
アヤカは私のドレスをきつく握り、泣き叫ぶ。
既に止まっていた涙が再び流れ出す。
可愛らしい顔を乱し、みっともなく、痛々しく、目も当てられないほどに悲しく。
「あんたのせいでゆうたが大怪我したんだよ!!」
「…」
「あんたがいなければゆうたは怪我しなかったんだよ!!」
「…」
「それなにの、それなのにっ!まだ血をもらいに来てるって言うの!?」
何もいえなくなってしまう。
アヤカの言っていることは正しい。
彼女が口にしていることは全て事実で、現実だ。
血をもらいに来ているわけではないが、それでもきっと欲してしまう。
またきっと、ユウタを求めてしまう。
その結果が、これだ。
「あんたが!あんたがいなければ…ゆうたはこんなことにならなかったって言うのにっ!!あんたが…あんたのせいでぇ…っ!」
ずるずると、アヤカは泣き崩れた。
そのまま床に座り込んでしまう。
それでも、執念深くドレスを掴んだままで。
「…すまない」
言えることといえばこれくらいだ。
こうなるとは私も思っていなかった。
こんなことになるなんて、予想していなかった。
また楽しく会うことができると思っていた。
なのに。
また、ユウタを傷つけてしまった。
それも、ずっと酷く。
私のせいで。
「…本当に、すまない」
「謝って、どうにかなるの…?ゆうたがどんな状態なのか知ってるの…?血は足りない、頭を強く打って意識は戻らない、体だって、あちこち骨折してるんだよ…っ!?」
顔は見えない。
それでもアヤカは嗚咽を交えながらもそう言った。
それは誰が聞こうと明らかな重症。
助かることが難しいだろう。
触れることができればどこまで怪我しているのかわかるのだがそれを許してもらえるわけがない。
回復魔法。
それがあれば今よりもずっとマシなほどになるだろうが…私は使えない。
ここにユニコーンがいてくれれば重症といえど一瞬で治せる魔法を使ってくれただろう。
それでも、彼女らはここにはいない。
この世界は私のいる世界とまったく異なるのだから。
「…」
静かな夜。
物音のしない、沈黙の闇。
私は何も出来ずに壁に身を預けていた。
アヤカにドレスをつかまれたまま、何もできずにいた。
窓から月明かりの入ってくるこの部屋にただアヤカのすすり泣く声だけが響いていた。
あの後アヤカは泣きつかれて眠ってしまった。
そのまま床に横たわらせるわけにもいかず、椅子を並べその上に寝かせた。
そうしてようやくユウタに近づける。
アヤカ以外にいないところを見ると両親は仕事、それともアヤカに任せているのだろうか。
おそらくアヤカが無理やりにでも居座っているのだろう。
ユウタのことなら無茶をする、実に彼女らしい。
それでも、ただでは済まなかったはずだ。
自らを放任主義と言っていた父親でも、感情的になっていたはずだ。
いくら私とユウタの仲を肯定していたところでここまで容認できようか。
ここまでしてしまい、何も感じずにいられようか。
実の父親だ、いられるはずがないだろう。
「…ユウタ」
私はベッドで横たわり、意識を失っている彼の名を呼んだ。
当然返事はない。
いつものように優しげに答えるあの声は聞こえない。
顔は白く、生気を失っているようにしか見えない。
瞼は閉じ、開くようには思えない。
「ユウ、タ…」
そっと彼の頬に手を添えた。
冷たい。
今までに触れて感じていたものよりもずっと冷たい。
これが無事じゃないということは見ただけでもわかる。
重症ということが嫌でもわかる。
このまま助かる可能性は少ないということも…。
ようやく落ち着いて触れられるようになったというのに。
やっとのことで君に手を伸ばせるようになったというのに。
待っている結果が、これか。
笑えるじゃないか。
こんな、こんなこと…。
―望んでいたはずないのに。
こんなことならばヴァンパイアなどに生まれるべきではなかった。
こんなことなら血を欲するべきではなかった。
こんなことなら…
―ユウタに会わなければ良かった…。
会わなければこんなことにはならなかった。
会うことがなければ傷つけることもなかった。
会っていなかったら…こんな風に触れることもできなかっただろう。
会っていたからこそ私は味わったことのない優しさを感じたのではないだろうか。
ユウタがいてくれたからこそ、触れ合うことができたのではないだろうか。
ユウタのおかげでこんな気持ちになれたのではないだろうか
私は…。
「…だからといって、何もできないのには変わらないのに、ね」
自嘲気味に私は笑った。
小さく乾いた声が室内に寂しく響く。
そう、変わらないんだ。
私がユウタに出来ることなんてないんだ。
今まで甘えていたように、返せるものがないんだ。
ユウタは言っていた。返せるときに返してくれればいいと。
そんなときが、既にないというのに…。
重症を負っているユウタを救うことはできないというのに。
―…いや。
できないというわけではない。
方法がないわけではない。
あるんだ。
厳密に言えば一つだけ。
私にでもユウタを救うことはできるんだ。
確実に助けることはできる。
それをすればこの状態から回復することは間違いない。
ただそれは。
それは、してはいけないこと。
ユウタの気持ちを聞かずにしてはいけないこと。
そして―
―私の望んでいること。
望んではいけない。願ってはいけない。
叶えてはいけない、押し付けてはいけない。
ただの我侭。
ユウタがそれをよしとしているとはわからない。
それでいいと望んでいるかわからない。
ユウタがそれを願っているなんて、思えない。
「…ねぇ、ユウタ。君は…どうなのだろうね…」
私のわがままを受け入れてくれた君でも嫌がるのかい?
私の謝罪に怒ったように、怒るのかい?
そっと、彼の頬を撫でた。
やはり冷たく、それでも柔らかな感触が伝わる。
冷たいね…このまま冷たくなってしまうのだろうか。
そうして、ユウタは死んでしまうのだろうか…。
「…」
失いたくはない。
手放したくはない。
あの温もりを。あの優しさを。
知ってしまって離れられるわけがない。
…はは、なんと私は勝手なのだろうね。
これじゃあ聞き分けのない子供も同然。
我侭な稚児じゃないか…。
「…」
私はそっと身を寄せた。
冷たい体に覆いかぶさり、顔を覗き込むように。
表情は勿論変わらない。
これほどまで近づけば恥ずかしそうに顔を背けていたのに、ね。
彼の頬を一撫でし終え、着ていた白い服に手を掛けた。
脱がすわけじゃない、ただ少しばかり露出させるだけ。
ボタンを二つ三つ外し、止まる。
さらけ出された首筋。
白く、それでもうっすらと血管が浮き出ている。
それを指でなぞった。
わずかな脈を感じられる。
それでも、あまりにも弱弱しい。
「ユウタ…」
もう一度だけ、彼の名を読んで私は―
「…すまない」
―ユウタの首に牙を突き立てた。
11/11/24 20:52更新 / ノワール・B・シュヴァルツ
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