連載小説
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温情、それと挟撃
「…はぁ」
それは何度目のため息だっただろう。
付き始めた時から数えれば既に二桁は超えているかもしれない。
それほど最近の私はため息をついていた。
私の親友が押し付けてくる仕事に疲れているからじゃない。
領主としての仕事に苦労しているわけでもない。
なら、なぜか?
それは簡単だ。
「クレマンティーヌ様」
「…ああ、すまないね」
「いえ」
私は隣のメイドに謝った。
赤毛で紺色のメイド服に身を包んだメイド。
ハリエット・リード。
私には数多くのメイドが生活の世話をしてくれるが彼女はそのメイド達を束ねるメイド長である。
勿論私と同じヴァンパイア。
私の親友がまだ王になる前に眷属にした女性だ。
「お気に召しませんでしたでしょうか?」
そう言われて目の前にあるものを見た。
売れば家一個建ててもおつりが来るくらいに高いワイングラス。
形、質、指で弾くと響く音。
無駄なところまで完璧を追求した私のお気に入りのグラス。
そんな中に注がれた赤い液体。
一見ワインにも見えるだろうが違う。
これは血だ。
私達ヴァンパイアが食事として採るものだ。
別に普通の食事でも栄養は取れるがやはり血のほうが格段に上だ。
それでも…。
「なんだか…違うのだよ…」
「…?違うのですか」
「ああ」
同じ血であり、同じ人間の体内に流れるものである。
命の雫、そういっても過言じゃないもの。
それを一口飲んでみて思う。
やはり、違うんだ。
確かに美味ではあるのだが…それでも。
何かこう、来ない。
わずかに口にしただけで媚薬のように体を熱していくのだが…しかし。
なんだか、違う。
私の求めているものと。
私の知っているものと。
なんと言うか…そう。

―満たされないのだ。

「ハリエット、この血は?」
「はい、クレマンティーヌ様のご希望通りに十代の健康な青年の血でございます」
「…そうかい」
ちなみに私が今いるところ。
自分の屋敷のわけだがここの地下には数千と及ぶ大量の人間の血を収めておく倉庫がある。
腐敗することもないように冷却魔法をかけた倉庫だ。
昔からいざというときに血を飲めるように少しずつさまざまな方法を用いて集めていたのだが…気づいたらとんでもない数になっていたようだ。
誤解のないように言っておくと、殺すなんて物騒な事はしていない。
そして今口にしているのがその数千に及ぶ人間の一人の血。
十代の健康的な青年。
それは彼に近い者だろう。
近いが、違う。
やはり、違う。
まったく、異なっている。
血など人により流れているものは違うのだからそれでいて当然なのだろうけど…。
「…はぁ」
気づけばまたため息をついていた。
やはり欲しい。
彼の血が欲しい。
彼の血はあまりにも魅力的だ。
たったの一杯でもこれ以上に満たされるほどに。
だがそれ以上に。

―温かいのだ。

口で言い表すのは難しいが…体が温かいのではない。
気持ちが、心が。
温まるのだ。
自分自身何を言っているのかよくわからないが…そんな感じなのだよ。
「至らぬところがありましたでしょうか?」
「いや、違うよ」
いけない、彼女にいらぬ心配を掛けてしまう。
だがこのまま飲み干すというのもなんだか気が進まない。
私はワイングラスをそっと脇へどけ、椅子に寄りかかる。
まるで空気に座ったかのように柔らかな椅子。
それは反発することなく私の体重を受け止め、沈む。
そうして私はまた、ため息をついた。
「…ふぅ」
「…何か悩み事ですか?」
「うん?まぁ、悩み事かな」
悩んでいるのは勿論彼のこと。
会いに行こうか、迷っている。
だが…会ったところでまた血をねだってしまうのだろう、私は。
あれほどの血を目の前にして我慢できそうにない。
以前は私が空腹だったからにしても…今また目の前にしたらきっと欲しくなってしまう。
それを彼は拒否しないだろう。
多少、困りながらも手首を切って私に血を分けてくれる。
前回依然同様、自分を傷つけてまで。
それが問題である。
それ以上に問題なのがお姉さんだ。
私が彼に会えば彼女にも会うことになるだろう。
家族で、双子なのだから。
同じ屋根の下で暮らしていて、彼のみに会うのは難しい。
野外ならそうは行かないかもしれないが…もう一人の女性がいる。
彼の、師だ。
.灰色の髪の毛をし、にこやかな笑みを顔に貼り付けたあの女性だ。
武器も魔法も使わずに壁を砕いた彼女だ。
彼女に見つかっても…危ない。
あの二人は…危険だな。
見つかったらただではすまないだろう。
無事でいられるわけがない。
「…」
しかし、それは…。
二人が禁じているのは…彼を傷つけることじゃないのだろうか?
そうだ、それだ。
それなら…彼を傷つけなければいいのではないか?
血をもらわなければ…。
ただ…話をするだけなら…。
それなら…。
ただ、一目見るだけでも…いいかもしれない。
「…そうしようか」
「はい?」
「いや、少しばかり出かけてこようかと思ってね」
「それなら御仕度を」
「いや、そう長いものではないから平気だよ」
私はそう言って椅子から立ち上がる。
ただ一夜くらい話して…いや、少しばかり様子を伺うだけ。
一時間も掛からないだろう。
外を見た。
この世界でも今は夜。
それなら向こうの世界もおそらく、夜。
以前向こうの世界から帰ってきたときにはちょうどこちらも夜中だったから同じぐらいの時間なのだろう。
都合がよくて助かる。
これで朝日の下に出ようものなら移動魔法はおろか、変身や翼を生やすこともできなくなってしまうが。
気をつけないと。
そう思っていたところにハリエットの声が掛かった。
メイドが主人に異を唱えることはない。
意図を問うことはない。
質問、意見などはもってのほかだ。
それが使用人であり、メイドであり、彼女である…のだが。
私と付き合いが長いせいだろう、メイドながらもよく口出しをする。
時には冗談まで交えてくるのだ。
私も特に気にするようなことはないし、むしろ良いとまで思っているので何も言わないが。
「楽しそうですね」
「そうかい?」
「ええ、いつもと比べるとどことなくですが…どこかうきうきしているように見受けられます」
「…そのようなつもりはないのだけどね」
「もしかして殿方にでも会いにいくかのように」
「ハリエット、私のことをわかっているだろう?」
親友に比べると劣るが、彼女とも長い付き合いだ。
私が抱えている問題を彼女も知っている。
それがわかっているなら私が自ら男性に会いにいこうとは考えられないだろう。
…いや、会いに行くのだが。
「わかっていますけど、万が一のために」
そう言ってふむ、と何か考え込む彼女。
そして十分時間を置いてそれを言った。
「これは…そろそろ旦那様と呼ぶ練習をしておいたほうがよさそうですね」
「…」
何ちゃっかり言っているんだこのメイド長は。
そんな急に旦那様などと…。
…。
旦那…か。
「ふふ、そうかもしれないね」
「おや、否定はしないのですか」
「男性に会いに行くのは間違っていないからね」
「それではやはり旦那様が来るのですか?」
「気が早いよ」
「メイドとは常に万全に準備を整えておくものです。それがご主人様の色恋となればなおさらです」
「なぜなおさらなのだい?」
「メイドとは恋の話が好きなのですよ」
「そういうものか…」
「メイド長となればなおのことですね」
…そういうものなのだろうか。
とりあえずこの部屋から出ることにしよう。
出て、野外に行って、そこで移動魔法を使おう。
既にあの世界には一度行ったのだ、二度目となれば簡単だ。
部屋のドアをハリエットが開き、私はそのまま部屋を出る。
出るときに、再び質問。
というか、願望。
「クレマンティーヌ様をメロメロにした殿方に私も会ってみたいです」
「…」
メロメロって…。
何を口にしているんだ、ハリエット。
私は別にメロメロになどされて…。
…されているかもしれない。
しかし私はそれを許さない。
「それはダメだよ」
「おや、ダメですか」
「ああ、ダメだ」
君が会ってみろ。
私と同じヴァンパイアの君が会ってみろ。
それこそ同じ目に合うぞ。
私と違って男性に普通に接せる君じゃ私よりも酷い目にあうぞ。

「―君のほうが彼にメロメロにされてしまうぞ?」

私の言葉に彼女は微笑んだ。
「おや、それは…ぜひとも会ってみたいですね」
「…まったく、君という奴は」
困ったメイドだよ、まったく。



どこだろうと月はあるものだろうか?
少なくとも私の生まれ育った世界と、この世界にはあるようだ。
暗闇を照らし出す優しい光。
そんな光を背に私は空を飛んでいた。
背中に蝙蝠のような翼を生やして風のように。
夜なので出歩く人間もいない。
人に見られる心配はないのだが…それでも見つかる可能性はある。
彼ではなく、彼女に…。
「…っと」
以前来たときと変わらないそこに着く。
あれから大して日も経っていないのだ、当然だろう。
私が上空から眺めていたもの。
それは彼の住む家だ。
彼。
あの夜私を救ってくれた黒崎ユウタという青年。
「…」
彼のいそうな部屋を見るが…わからない。
カーテンが掛かっていて中がどうなっているのか見えない。
それどころか明かりもついていない。
この家のどの窓にもだ。
…どうやら既に寝入ってしまったのだろう。
声も聞こえなければ物音もしない。
来る時間があまりにも遅すぎたか…。
…それでは、仕方ないな。
戻ろうか。
このまま家を訪ねるというのもありだが…今はユウタの家族がいるかどうかわからない。
尋ねたところでユウタが出てくるとは限らない。
寝入っているところを起こすのは失礼だ。
それに…運が悪ければ彼女が出てくる。
ユウタのお姉さんが。
彼女が私を見たら…今度こそくるだろうな。
二度と来るな、とまで言われてしまったのだから。
仕方ない…か。
「戻ることにしよう」
未だ躊躇う気持ちもあるがそんな自分に言い聞かせるようにして私は翼を広げた。
そのときだった。

「―あ、クレマンティーヌじゃん」

「!」
声のしたほうを見ればそこにいた。
締まっていたはずの窓を開けて、窓枠を乗り越えるように身を乗り出して私を見ている彼が。
ユウタが、そこにいた。
この前見た服とは違う、その黒い服はおそらく寝巻きだろう。
けだるげに、それでも私に向かって笑みを向ける。
「よう」
まるで親しい友人にするかのような挨拶で迎えてくれた。
気軽で、気さくに。
それで優しく、温かく。
以前と変わらず、ヴァンパイアを目の前にしているというのに。
そんなユウタに私は―
「―や、やぁ…」
遠慮がちに挨拶を返した。
一目見るだけだったはずだが。
ただ話して帰るつもりだったのだが。
それでも…。
「入れよ、血なら今用意するから」
そう言って私を快く迎えてくれる。
仕方ないと困ったように笑いながらも、迎えてくれる。
それが彼を傷つけることだとわかっているのに。
ユウタ自身、それが自分を傷つけていることをわかっているのにだ。
それがどれほどおかしなことか。
どれほど異常な行為なのか。
彼はわかっていないのではないか?
そう思ってしまう一方でその厚意は。
そんな彼の気遣いは。
優しさは。

―やはり、温かいのだ。




気づけば私は。
ユウタの部屋に上がっていた。
簡素な部屋。
私の部屋と比べるのもどうかと思うが…比べると半分もないだろう。
ただ単に私の部屋が大きいだけなのだが。
クローゼットに机。
本棚にベッド。
そんなところで私はベッドに座っていた。
その私の正面で向き合うようにユウタは椅子に座っている。
前面を大きく肌蹴ている服を着て。
…女性を前にその格好はいけないと思うのだが
筋肉を付けすぎて筋骨隆々というわけではない、細い体格。
時折あばらや鎖骨が覗き、服で隠されていた体が見え隠れする。
なんていうかこう…艶っぽい姿だね。
…って何を考えているのだろうは。
こんなの親友の娘達がよくしている格好に比べたらまだまだじゃないか。
私自身も前面肌蹴ているドレスをよく着ているのだが。
だが…なんというか…。
引き締まった体つきなのだね…。
「そんじゃ、ちょっと待っててくれよ」
そう言ってユウタは椅子の後ろにでもおいてあったのだろう、ガラスのコップを取り出した。
あの夜私に出したのと同じ大きさのものだ。
それなりの量を入れることのできるコップである。
それを見て私は慌てた。
「ああ、そうじゃないのだよ!ユウタの血が欲しいとかいうわけではなくて…その…」
「その?」
立ち止まって不思議そうに私を見つめるユウタ。
明かりをつけず窓から入ってくる月明かりだけが部屋を照らすので暗闇も同然なのだが、どうしてか闇の中でも彼の瞳がよくわかる。
周りの闇よりも濃いように。
それでいて、黒く輝くように。
ヴァンパイアなので暗闇でもよく見えるのだが彼の瞳が目だって見える。
そんな瞳を向けられて私はしどろもどろになりながらも答えた。
「ただ…話をしに来ただけだよ」
本当はただ遠目で君の様子を確認するくらいのつもりだったのだけどね。
なんて、そんなことは言わない。
それから、本当は血が欲しいと思っていることも言わない。
それを言えばユウタが傷つくことになる。
お姉さんの言っていたことのままになる。
それは、いけない。
しかしユウタは私の言葉を聞いて目を怪訝そうに細めた。
「ど、どうかしたのかい?」
「…いや、口から涎垂れてるんだけど」
「っ!」
いけない、どうやら体は正直だったらしい。
慌てて口を拭うのだがそこには何も付いていなかった。
「…あれ?」
「冗談でした」
「…君という奴は」
まったく、冗談でそんなことを言ってもらいたくないね。
こっちだって身だしなみに気を配っているのだから。
そんなことを言われたら焦ってしまうだろう。
ユウタは楽しげに笑いながらも机にコップを置いた。
「悪い、どうも目が物欲しそうにしてたからさ」
「…」
…そんな目をしていたのだろうか。
いや、これもまた冗談の類だろう。
「こっちは本当だぞ?真正面でそんな目されれば誰だって気づくって」
「…」
…本当にしていたのか、私は。
「クレマンティーヌはヴァンパイアだろ?血を主食としてるのに何我慢してるんだよ。我慢は体に毒だぞ」
そんなことを言いながらもユウタは机の引き出しの中からそれを取り出した。
手に取り、カチカチと変わった音を立ててそれが出てくる。
月明かりに煌く銀色。
短くも鋭く光るそれは間違いなく刃の類。
「ユウタ、それは?」
「これ?カッターナイフ」
「かったー…ナイフ?」
「ナイフをコンパクトにしたようなもんだよ。ペンやら定規の類の文房具だけど」
文房具の類。
そういわれてもその鋭さは明らかに十分すぎる。
その輝きは文房具以上の役割を果たしてくれるだろう。
ユウタはそれを使って手首に巻いてある布を取り払った。
白く、何度も巻きつけている布。
包帯だろう。
しかし手首に近くなるにつれて赤い染みが目立ってくる。
それと同時にあの独特の香りが漂う。
部屋の中にいる分、その香りは薄まることもなく私を包んできた。
「っ!」
ああ、ダメだ。
やはりこれは…ダメだ。
先ほどだって食事をしたし、血を飲んだ。
それでも、足りない。
それでも、欲しい。
ユウタの血が、欲しくなる。
「んで、どうする?」
そう言うユウタの顔はどことなく楽しそうで、それでいて誘うようなようにも見受けられる。
大胆に、妖艶に。
ユウタは笑みを浮かべる。
そんな彼を前に。
彼の血を前に。
私は―
「―頂こうか」
再び求めてしまうのだった。




求めてしまってすぐに後悔した。
求めることがユウタを傷つけることだとわかっているのに。
それでも自分の欲望に抗えない自分が嫌になる。
「…すまない」
「ん?何が?」
「また…君に迷惑を掛けてしまって」
「何言ってるんだよ」
そう言ったユウタは特に気にしている様子もない。
まるで痛みを感じていないような表情をしてユウタは手首から流れ出す赤い雫をコップに注いでいく。
本当は痛いはずなのに。
自分を傷つけるなんて並みの人間なら好き好んでしないだろう。
見ていて、異常。
それはあまりにも外れている行為だ。
手首から滴る赤い雫が月明かりに輝いた。
今までに何度も血が流れる光景は見てきた。
教団のものや勇者達と戦ってきたときにもそんな光景幾度と目にしてきた。
それでも、どうしてだろう。
ユウタの姿を見ているのが一番つらい。
その光景を目にするのが一番痛い。
自身に傷などついていないのに。
まるで刃をつきたてられてるかのように。
胸の内をえぐられるように、痛い。
「…すまない」
再び謝ってしまった。
ユウタの血が欲しいのにそれでも罪悪感を抱いてしまう。
自分が求めておきながら負い目を感じる。
あまりにも勝手に。
自分でしたことに後悔している。
そんな私を前にユウタは困ったようにため息をついた。
「ヴァンパイアにとって血の摂取は食事だろ?それに罪悪感なんて感じるなよ」
「…しかし」
「そんなことで後ろめたさ感じてたら生きてけないぞ?今までどうやって生きてきたんだよ、クレマンティーヌは」
「…」
今まで生きてきたこと…。
今までに何百何千、もしかしたら既に何万という血を摂取してきた私だ。
親友が王になる以前にも何度も吸血してきた。
それでもこのような感情を抱くことはなかった。
なぜなら生きることが当たり前。
生きるために血を吸うことが当然だからだ。
人間も食事をするときに罪悪感など感じはしないだろう。
寝るときにだってそんなものを感じはしない。
それと、同じ。
生きるための欲求に従うのは当然のことだ。
そんなことに罪の意識を感じていては生きてはいけない。
人間が豚や牛を食すことに躊躇いなんて感じはしないように。
私もまた血を吸うことに抗うこともない。
はずだったのだ。
だがそれは違う。
ユウタは別だ。
今まで私が味わってきた血は収集したもの。
さまざまな方法で人間から集めたものだ。
領主として、領地に住まわす人間の血を税として納めてもらう。
それが私の街での決まり。
それでも、どの人間だろうと自ら血を差し出すものはいなかった。
仕方ないから。
ルールに従って。
それ相応の対価として。
それくらいにしか思っていないものばかりだ。
私が親友の影響を受けて男性の血を好むようになる前もそうだ。
あのころは麗しき美女を惑わしてよく血を啜ったものだ。
全盛期だった私は実にヴァンパイアらしかったといえよう。
それでもやはり自ら首を差し出すものなどいはしない。
自分の血を捧げるものなどいるはずがない。
だから。
ユウタが初めてだったのだ。
私に自ら血を分けた人間は。
私に恐れずに寄ってきた人間は。
私を受け入れてくれた男性は。
今までにユウタしかいなかった。
死に掛けのヴァンパイア、それを見て誰が救おうとするだろうか。
人間ではない者を見て、どこに血を差し出す者がいるだろうか。
人間に救われた経験のない、男性に助けられたことのない私にとってユウタの厚意はあまりにも優しかった。
そして、嬉しかった。
だから…。
ユウタが私のために傷ついていることに対して罪悪感を抱いてしまうんだ。
ユウタ、だから。
「ほらよ」
そう言ってユウタはそれを差し出した。
なみなみと鮮血が注がれたガラスのコップ。
それが無機質で安っぽかろうが、注がれたユウタの血は月明かりの下で鮮やかに照らされる。
明々と、輝くように。
赤々と、誘うように。
私はそのコップをユウタの手から―

―受け取れなかった。

受け取りたくても、だ。
それは仕方ないこと。
いくら目の前にいるのが人間だろうと、ほかならぬユウタであろうと。
手を出せない。
近づけても、触れられない。
体が、動くのを拒んでくる。
「…もしかしてさ」
そんな私を前にユウタはコップを机に置いた。
正確には机の上に置いてあった盆の上に。
そうして再び私の前に差し出した。
コップには何も触れてない。
ユウタの手は盆の端だ。
そうすることでようやく私はそのコップを手に取れる。
私はようやく受け取ることができた。
その様子を見てユウタは言った。
「クレマンティーヌって…人に触れるの苦手だったりする?」
「!」
ユウタの言葉に目を見開いた。
ユウタの言うとおりに私は人間に触れるのは苦手である。
いや、正確には人間じゃない。

―男性に触れることができないのだ。

「あ、ああ…そうだよ」
「ふぅん、やっぱりか」
私の言葉に納得したようにユウタは頷いた。
予想はできていた、というように。
「よくわかったね、私が触れるのが苦手ということが」
「男だからさ、女性が何を考えてるのか、何を嫌っているのかぐらいは察しないといけないんで」
それはなんとも素晴らしい心がけだと思うよ。
「以前、それで失敗してほぼ一方的な姉弟喧嘩に発展したし」
「…」
…なぜだろう、その光景が嫌でも目に浮かぶ。
「それに、女性が男性に触れられるのを好まないのは当然だと思うけど?」
「そういう…もの、かな…?」
「そういうもんだろ」
そう言ってユウタは笑い、私の正面に座った。
ベッドよりも少し高い椅子に胡坐をかいて座る。
手首にはいつの間にか巻いたのだろう、先ほどの包帯がきつく巻かれていた。
闇夜でもわかるその白い布。
それがまた、痛々しい。
その下にあるのが傷であり、その傷が私のためにつけられたものだということが。
とても、痛い。
「…すまない」
もう何度目か、手に持ったコップをそのままに私は俯いてそう言った。
謝罪の言葉。
今の私が言えることといえばこれくらいだろう。
これ以外に、何が言える?
そんな私を前にしているユウタは呆れたようにまたため息をついた。
「くどいぞ」
くどい、確かにそうだ。
くどい。くどすぎるというほどに。
しかし、今の私に何ができよう?
謝罪以外に何をすべきだろう?
人間の血を吸う私が、初めて恵まれたこの私が、ユウタに対して何をしてやれるだろう。
「何度も謝るなよ、聞いてて辛気臭くなるんだよ」
静かなその声にはかすかに怒気を帯びていた。
隠していてもイラついているのがわかる。
それでも、そう言われても…。
今までこのようなことはなかったのだ。
長い時間を、永遠とも言っていいほどの時間を過ごしてきたこのヴァンパイアがたった一人の青年を前にしてうろたえる。
あまりにも滑稽な様であり、あまりにも酷いものだろう。
それでも、わからない。
長く生きてきたというのに。
何でも知っているというのに。
こんな経験は初めてだから。
「私にできることは…これくらいしかない…」
「これくらい?謝る以外にもできるだろうが」
「…何を?」
「…はっ」
ユウタが鼻で笑った。
その姿は以前彼のお姉さんと二人きりになったとき、彼女が見せた姿に酷似している。
似ていない双子とはいえ、それでも双子。
ところどころ姿が重なるところがある。
「オレが謝って欲しいから血をやってると思ったのかよ?」
ユウタは私を真っ直ぐに見つめる。
静かに。
それで、しっかりと。
「血を飲んで、それで生きるのがヴァンパイアだろ?」
私は何もいえない。
ユウタの言葉を待つ。
一言も聞き逃さないように。
「オレが血を流してるのはそのためなんだよ。それで謝られたら、オレはどうすりゃいいんだよ?」
「…君は」
ユウタの言葉に私は口を開いた。
ユウタの、傷をつけてまで私に血をくれる理由。
言い方は違うだろうが、その意味は。
ヴァンパイアが生きるために血を流すといったその言葉は。
どうやって聞こうとも、こうにしか聞こえない。

―生きていて欲しいから血を流してるんだよ。

ユウタに聞いたところでそう答えるだろう。
その理由はとても素晴らしい。
思わず惚れてしまいそうだ。
ヴァンパイアであるものなら、確実に興味を引かれる。
メイド長のハリエットを連れてきていたならもしかしたら彼女は惹かれていたかもしれない。
だが。
ユウタの言葉は。
その言葉の意味は。
「わかっているのかい?その意味が、どういうことだか」
「ん?」
「君が私のために血を流す。それはとても嬉しい。嬉しいことだよ。それでも…それでは君は」
ユウタは。
人間だろう?
人だろう?
私と違う存在だろう?
そんな君が私のために血を流すということは。

「私に捕食されていることをわかっているのかい?」

人間が豚や牛を食らうように。
私もまた血を啜る。
ユウタの言っていることは、私のために血を流すということは…そういうことだ。
人間でいう、食されるものとして存在するということだ。
それを自覚するなんて…自身を家畜同然に言っているようなものじゃないか。
自分自身、人間は血袋だとかいう考えは既に捨てているがそれでも。
ユウタの考えはまるっきりそれじゃないか。
「私はこれからもきっと、ユウタを求めてしまう」
「…」
「それはきっと止まらないし、止めたいと思えなくなる」
自分が親友の影響を受けているとしても。
精を摂取するために血を欲する。
いくら嫌と思っても、ユウタの味を知ってしまったら止められない。
この手の内にあるユウタの血を知っているからこそ、止まらない。
「わかるだろう?私は…ユウタを食する対象としてみている」
「…それでもオレを食い殺そうとは考えてないんだろ?」
「それでも…だ。君の血を欲してしまうことに変わりない」
「じゃ、欲しがれば?」
「…は?」
思わず素っ頓狂な声が出た。
私自身、こんな声が出せたのかというほど気の抜けた声だった。
いや、でも仕方ないだろう。
正面から堂々とこうも言われては。
あの夜もそうだったが…今ユウタははっきりと言った。
短い言葉だったがそれでも、しっかりと。
欲しがれば、と。
「何を言っているのかわかっているのかい?」
「そのくらい考えていってるさ。オレだって馬鹿じゃない」
言い方が悪くなるだろうがしかし。
ユウタの発言はどう聞こうとも馬鹿としかいえないものだ。
あまりにも単純すぎる答え。
私の目の前に血があった。
なら、飲めばいい。
そういっていることと同じなのだから。
「そのくらい全然平気なんだよ。オレの双子の姉を前にしたらこんなの軽いだし。それに―

―女性の求めに答えられてこそ男ってもんだろ」

そう言ってユウタはけらけらと笑った。
誤魔化すように、おちゃらけて。
茶化すように、ふざけて。
そんな姿に。
そんな、ユウタに私は…。
「…私はヴァンパイア、なのにかい?」
「ヴァンパイア以前に、女性だろうが」
「…まったく、君という奴は」
思わず頭を抱えたくなった。
抱えて、泣きたくなった。
ユウタの言葉に。
今までかけられたことのない言葉に。
まったく、君は馬鹿だよ。
馬鹿で、間抜けで、異常で、異質で。
それで、優しすぎる。
あまりにも心地よくて。
あまりにも快くて。
あまりにも満たしてくれる君は―


―あまりにも、温かいよ。



「それでは、また来ても…いいのかい?」
私はユウタの部屋、窓から身を乗り出しながらもユウタに聞いた。
背中には翼を生やして。
今宵はもうこれくらいでいいだろう。
あまりにも長居するのは気が引ける。
ユウタ自身、嫌な顔をしていないがそれでも眠そうに目を擦っていることだし。
「ああ、好きなときに来てくれよ。いつでも待ってるから」
そう言ってユウタは笑う。
楽しそうに、微笑を浮かべる。
「それに、もしかしたら触れるのが苦手なのも治せるかもよ?」
「え?」
「男嫌いってわけじゃないんだろ?それならオレで慣れていけばそのうち触れられるようになるんじゃなないかなーっと思ってさ」
「…それは、わからないよ?」
「わからないんじゃ、治るまで付き合うぜ?オレの首から直接血を吸えるようになるくらいまでさ」
「…君は」
その言葉の意味、わかっているのだろうか?
それがどれほど重要な意味を持っているのか知っているのだろうか?
こんな私にそこまでしてくれるその態度。
その厚意が。
どういったものなのか。
どのようなものなのか。
おそらくユウタはわかっていないだろう。
それは男性が女性に大して言うにはあまりにも…。
「ん?何?」
「…いや、なんでもないよ」
言いかけて、やめた。
この言葉は言うべきではないだろう。
この言葉を言うとしたらもっと先だろう。
もっと、先。
もしかしたら…この先…私は…。
「それでは、失礼するよ」
そう言って私は窓枠に手を掛けた。
翼を開き、室内でも邪魔にならないように、すぐに飛び立てるようにする。
「おう、またな」
そう言って手を振るユウタを見て、私は言った。

「―ありがとう」

私が初めて男性相手に口にする言葉。
そんな言葉を聞いてユウタは一瞬手を止めるも、微笑み返す。
「どういたしまして」
そう言って。
その言葉を聞いて私も笑みを浮かべて飛び立った。



「ふふ、まったく…」
思わず笑みがこぼれてしまう。
こんな気持ちになったのは初めてだ。
こんな私を目の前にして恐怖するどころか自ら歩み寄ってくる。
ヴァンパイアを前にして自ら血を差し出す。
それも、自分の意志で。
罪悪感に苛まれる私を、それごと包み込んでくれる優しさ。
私がヴァンパイアだとわかった上で付き合ってくれる温かさ。
どれも、初めてだ。
「困った男だよ」
本当に困った男だ。
困って困って、困りすぎて。
笑みを浮かべればいいのか、涙を流せばいいのかわからないじゃないか。
どうすればいいのかわからないじゃないか。
それでも、嬉しい。
ユウタの優しさが。気遣いが。温もりが。
とても、嬉しい。
「まったく」
そう呟いて、私は翼をはためかせる。
今度来るときにはどうしよう?
そうだ、薬を持ってこよう。
塗るタイプと、飲むタイプの二つぐらい。
傷跡まで綺麗に消えるほどの治療薬だ。
そこまでいくとかなり高いだろうがそんなもの、私には関係ない。
どうせ金なんて腐るほど持っているんだ。
他にも何か…。
そうだ、今度は少しばかりドレスを変えてみるというのもまた、いいかな…。
そんなことを考えながら私は上機嫌に夜空を飛んでいた。
月明かりに照らされて、優雅に舞うように。

―だから、見落としていたのだ。



ジパングから『虎穴に入らずんば虎子を得ず』などという言葉があるらしい。
その言葉で表すなら私は虎子以上に素晴らしいものを得た。
比べ物にならないほど素晴らしいものと、それからこの嬉しさを。
しかし、その反面。
私が入った穴は虎穴などという可愛らしいものではなかった。
勿論そこにいたのは虎なんてものじゃない。
虎よりもずっと恐ろしいものだった。
それはずっといた。
傍で静かに息を殺して。
私が出てくるのを待ち構えていたのだ。



「―やぁ、吸血鬼」



「っ!」
思わず止まる。
空中に留まるようにして翼をはためかせて、声のするほうを見た。
そこはどこかの家の屋根の上。
黒い屋根の上にいる、黒い姿。
影のような髪の毛を一つにまとめ、夜のような服を纏い。
闇のような瞳で私を捉えている彼女が。

―ユウタの、双子のお姉さんがいた。

しかし、そこにいたものは一人じゃない。
虎穴に入った私を待ち構えていたのはまだいた。
こちらもまた、虎など猫のように思えるくらいの女性が。


「―ん〜もしかして、自分の愛弟子に何かしてるのかな?ねぇ、ヴァンパイアさん」


灰色の長髪をした女性。
ユウタにとっての師である女性もまた、私を待ち構えていた。
石でできているような柱の上で。
空を飛ぶ私を逃がさないように立っていた。

「あの夜言ってあげたこと、忘れちゃったのかな?」

「二度目はないって、言ったはずだけど?」



そして、彼女達は動き出した。
11/10/19 20:27更新 / ノワール・B・シュヴァルツ
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■作者メッセージ
といことで、三話でした
とうとうハッピーエンドの兆しがきた!
どこまでも優しい彼の心遣いは人に蔑まれるような経験を持っているクレマンティーヌなどにとってはあまりにも温かいものなんだと思います
しかし、その分自身を傷つけてまでやろうとするその姿は果たして正しいことなのか…

それが原因でとうとうお姉さんと師匠が出ました!
フラグクラッシャーであるお姉さんの本気です!
次回、バトルパート!
ヴァンパイアVS人間&???
お姉さんと師匠の最凶コンビ!
現代でもとんでもない実力を持った二人が手を組みます!
クレマンティーヌの運命はいかに!

それでは次回もよろしくお願いします!!

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