貴方と微笑み
教団。
それは『主神』という存在を信仰する団体。
簡単に言えば私たちを敵と見なす存在。
魔物を悪とし、私たちを殲滅しようと行動する。
私たちにとっても敵といっていい。
だからといって私たちは彼らを殺めたりしない。
私たち魔物の本能は男性と交わること。
そのためにも彼らを殺そうとは思わない。
彼らはあくまで愛すべき存在なのだから。
「…っと。」
そんな彼らの前に私は降り立った。
広い魔界の平原に。
大勢で城へと歩みを進めていた集団の前に。
翼で飛ぼうとせず、空間移動魔法を使って。
数百人の軍勢の前に私は立った。
白い長髪をなびかせて。
白い肌を見せ付けて。
赤い瞳で見つめてあげて。
そうして微笑む。
それでいい。
それだけで、彼らは終わりだ。
あるものは握っていた剣を落としてしまう。
あるものは腰が砕けたように座り込んでしまう。
あるものは恍惚とした表情を浮かべて動きを止める。
誰も抵抗はしない。
誰も私を殺しにかかりはしない。
それが私だ。
大勢の男を虜にする存在。
サキュバス種の最高位。
魔王の娘、なのだから。
「…。」
他の魔物娘はいない。
彼女たちの出番は必要ないからだ。
私一人が彼らの前に出てしまえば済む。
私が彼らを魅了してしまえばそれで終わる。
お母様の出る意味もない。
魔王の精鋭達も出る必要もない。
私の親衛隊もいらない。
こんな大人数でも私一人で納まるのだから。
―それは私がリリムだから。
これが普通なんだ。
これがいつもなんだ。
私の姿を見ただけで男は皆抵抗をやめる。
これが当たり前のはずなのに―
―そんな当たり前を覆した存在が私のそばにいた。
ずっと、そばで笑っていてくれた。
私を気遣っていてくれた。
気づいて欲しくないからといってずっと微笑んでくれていた。
それは、本心か。
それとも、偽った感情か。
どうしてそこまで私を気遣ってくれるのかわからない。
そこまで私に優しくできる理由が理解できない。
本当なら彼は私を憎んでいてもおかしくはないのに。
怒られても、憤られても文句は言えないのに。
それでも彼は優しく接してくれた。
それに私はただ甘えることしか出来なかった。
彼の気持ちを考えるべきだったのに。
彼の優しさを返すべきだったのに。
私は彼に甘え続けてしまった。
なんと馬鹿らしいことだろう。
なんと愚かなことだろう。
「ユウタ…っ!」
あまりの感情にまた涙が溢れ出しそうになる。
先ほども泣いていたというのに。
まだまだ私は悔い足りないといわんばかりに。
後悔が溢れ出そうとする。
「ユウタぁ……っ!」
彼の名を呼ぶ。
そんなことをしても彼は戻ってきてくれない。
本当なら今すぐにでも城に戻って彼を探していたい。
そうして会って話がしたい。
謝りたい。
今まで彼の気持ちに気づけなかったことに。
今まで彼がかけてくれた優しさに。
今更遅いと思っていても。
それでも彼に会いたかった。
私はもっと彼と一緒にいたかったのだから…。
一人の男としてではない。
彼を一人の存在として。
彼を一人の人間として。
―私の…大切な存在として……。
その隣にいたかった。
そんなことを考えてしまっていたから私は気づかなかった。
どうして教団が私の存在を知らないでいたのかを。
教団は私たちを敵と見なす存在なんだ、それなら敵の情報を詳しく持っていてもおかしくはない。
私の存在を、リリムという魔物を知らないわけでもない。
それなのに。
私の魅了を知っているはずなのに。
どうして彼らは魔界へ足を踏み入れたのか。
この世界に訪れたのか。
ここまで進行してきたのか。
それは誰にも予想できない答え。
お母様でも、私でも。
セスタでもヘレナでもエリヴィラでも。
クレマンティーヌでも。
予想できなかったものだった。
―風が私の肩を掠めた。
「っ。」
遅れて気づく。
これはただの風ではなかったことに。
遅れて肯定される。
この風の正体を。
―私の血とともに…。
「っ!?」
左肩から私の鮮血が噴出した。
遅れて痛みが体中を走る。
赤い雫が何滴も地面に散らばった。
油断、していた。
いや、油断するのも当たり前だ。
私はリリム。
私を前にしている状態で満足に動ける男はいない。
もしかしたら、女でも十分に動けないと思う。
それでも、動いたものがいた。
動いて私を傷つけたものがいた。
その証拠に私の肩が裂けてしまった。
鋭利な刃物で切りつけたように。
幸い傷は浅い。
だから致命傷にはならないだろう。
それでも、この事実は驚きだった。
すぐさま私は振り返る。
左肩を右手で抑えて。
私を傷つけた存在と対峙するように。
振り向いた先には、いた。
「貴方が、魔王の娘のリリム、ですか?」
それは一人の男だった。
青年といっていいほどの体格。
輝くような黄金の鎧を着込んだ男。
髪は金髪でも銀髪でもない。
黒色。
ユウタと同じ…いや、ユウタよりもくすんだ黒色。
その背に赤いマントを翻して。
顔にはにこやかな笑みを浮かべて。
手には剣を持って立っていた。
その剣には私の血が滴っている。
あれで切りつけられたのは間違いないだろう。
だが、それはおかしなことだった。
男は平然と笑って私を見ている。
周りの騎士団のような恍惚とした笑みではなくて、感情の篭っていない笑みだ。
そんな表情をして私を見ていた。
ただ、見ていた。
誘惑もされず、魅了もされずに。
男はにこやかに微笑んで立っていた。
それは私にとって驚愕すべきこと。
私を、リリムを前にして平然と立てる男がいるなんて思わなかった。
―ユウタ以外にいるとは思わなかった。
息は荒くない。
目はにこやかに閉じられたまま。
興奮しているわけでもないし。
期待している様子もない。
「…聞こえていますか?」
男はそういってきた。
よく通る声で。
私に声を掛けてきた。
それに私は答える。
ただし、男を睨み付けて。
「…ええ、聞こえてるわよ。」
「ああ、それは良かった。」
男は微笑む。
ただ表情を変えるだけ。
感情が篭っていない表情で。
「それではもう一度確認してよろしいですか?」
紳士的な口調だが手に握られた剣がそのイメージを壊す。
いや、紳士じゃない。
男の姿は紳士ではない。
騎士のような姿。
ただ、周りの騎士よりも高価で丈夫な黄金の鎧を纏った姿。
平然と経ち続けるその姿はまさに―
―勇者。
人間側では英雄とも呼ばれる存在。
私の母、魔王を敵とみなして殺しに来る者。
魔物である私たちを殺す人間。
目の前の男は正しく勇者の姿だった。
「貴方は魔王の娘のリリムですか?」
「…そうよ。」
そういうと男は剣を握りなおした。
その意味は言わずともわかる。
その剣で私を殺すつもりなのだろう。
それが勇者のすべきことだから。
彼ら勇者は魔物を殺すことが正義だというのだから。
「貴方…勇者…ね。」
「おや、わかってしまいましたか。これは意外だ。」
男は…勇者はおどけたように言った。
それでも笑みは崩さずに。
何も読めないその表情で。
「そうですよ、貴方のおっしゃるとおり私は勇者です。」
「…そう。」
それは最悪だった。
今までだって勇者を前にしたことはいくつかあった。
教団がこの魔界へと攻め込んできたときが何度もあって。
そのたびに勇者を連れてきていることがたびたびあった。
それでも。
私が興味を持って前に出ただけで彼らは動きを止めた。
勇者という存在は私の前に膝を着いた。
それは明らかな降伏。
ただ私を見ただけで私に魅了さらたという証。
そんな男に興味はなく他の娘に明け渡してしまったが…。
勇者。
それはドラゴンをも狩る力を持っているという。
ヴァンパイアでさえ無傷では勝てず。
バフォメット相手でも苦戦をせず。
エキドナ相手でも余裕で勝つという。
それほどの力を持っているという存在でもある。
そんな存在が今私の目の前に存在している。
私の魅了をものともせずも。
おそらくこれが、教団が魔界まで攻めてきた理由だろう。
この勇者が只者ではないということを見つけたからだろう。
「ふむ、リリムというのがどういった魔物かと思えば…なるほど、やはり女性でしたか。それなら今までどおり加減せずに済みそうですねぇ…まったく、『この世界』の魔物というのは本当にすばらしい…。」
勇者はわけのわからないことを口にした。
やはり無常に。
感情を感じさせない。
それでも言っていた。
『この世界』…?
それは…いったいどういう意味?
しかしそんなことを疑問に思った私なんてお構いなしに勇者は喋る。
「それも、魔物の王である魔王の娘…その娘がこんなか弱そうな女性だとは…ね。」
「…か弱いと思うの?」
その言葉に私は手を出した。
勇者の方へと右手を向けた。
向けて、指差す。
人差し指で勇者の顔を。
「魔王の娘を…!」
そして、私は魔力を人差し指に込めた。
ありったけの魔力で魔法を使ってやる。
殺すつもりではない。
ただ気絶してもらうだけだ。
それくらいなら私でも余裕で出来る。
勇者といえ人だ。
気絶していては手も足も出ないだろう。
だから私は勇者を極力傷つけないような魔法を使おうと魔力を指先に込めた。
「おや、魔法ですか。これはおそろしい。」
そういう勇者は恐ろしがる素振りを見せない。
それどころかさっきから感情らしい感情を見せない。
常に笑みを貼り付けていて。
それでいて中身がわからない。
まるでユウタと反対。
中身の篭らない冷たい笑み。
それに比べてユウタは温かい笑み。
いつも私に向かって浮かべてくれた。
「っ。」
一瞬手元が狂い掛けるが持ちなおす。
そして、込められた魔力を一気に開放する!
―力が弾けた。
「―…え?」
弾けたのは私の体から。
体中の力が弾けたように感じられ、そして一気に抜けていく。
足が崩れ。
腕が下がり。
体が落ち。
私はその場に座り込んでしまう。
「……なん、で?」
力を入れようとしても入らない。
むしろ入れようとした分だけ抜けていく。
何で…!?
そう思って気づいた。
さっき私は魔法を使おうとした。
魔力を媒体にして。
だけど。
その魔法は魔力がなければ勿論使えない。
魔力は私たち魔物が持つ力。
だが、無限にあるというわけではない。
私たちがその魔力を得るためには男の人から精をもらうことが必要になる。
男の人の精が私たちの魔力へ変換されるから。
でも。
私はそれをここ数日間していない。
別に男の人と体を交わさずとも手に入れることは出来る。
薬や、その場しのぎで微量だけど食事から。
あとは魔力を持つ者から分けてもらう。
今までならお母様に分けてもらっていた。
でも。
今はしていない。
だってそれはユウタとするつもりだったから。
ユウタから精をもらうつもりだったから。
でもユウタが私を拒み続けた。
だから私の体内にあるべき魔力は…ない。
欠片も、残っていない。
だから体から力が抜けていく…!
ああ、しまった…。
おそらくここに来るときに使った移動魔法。
きっとあれが最後の魔力だったんだろう。
こんなところで魔力切れなんて…。
他の魔物娘たちはここにはいない。
私が一人で十分だと言ってしまったがために誰も来ていない。
今頃私が虜にして連れてきた彼らを夫にする準備でもしているだろう。
今までだってそうだったから。
だから誰も私がこんなピンチに陥ってるとは思っていない。
でも私は現に動けない。
それも敵の、魅了されない勇者の前で。
「…おや?攻撃してこないのですか?」
とうとう勇者が動き出した。
ゆっくりと私との距離を縮めてくる。
鋭い刃を持った剣を握って。
死が、迫ってきた。
「っ!」
逃げられない。
逃げるためにも体に力が入らない。
もしかしたら魔力を切らしたときに同時に抜けたのだろう。
指一本さえ動かすのがつらいこの状態。
逃げ切るなんて事は無理だ。
生き残るなんて事は不可能だ。
「動けないとはいい的ですね。魔王の娘ともあろう者なのに。」
「…っ。」
正しく言うとおり。
あまりにも驕っていた。
あまりにも傲慢だった。
私の魅了をものともしない人間がいるなんて思わなかったから。
それが私の死に繋がるなんて思ってなかった。
「これで私が魔王の娘を殺したとすれば…僕はいったいどれほどの名誉を得られるのでしょう?ああ、考えただけでも手が震えますね。」
喜悦の声色。
だが、やはり感情を感じさせない。
嬉しそうに言っているのに何も感じない。
「まったく、こんな女を殺すだけでもてはやされるなんて…本当に『ここ』に来て良かったとおもいますよ。そうは思いませんか?」
「…。」
「って言っても貴方にはわからないでしょうがね。」
何なんだこの男は。
まるで自分がここにいなかったというような口ぶりで。
いったい何を言っている?
意味のわからないことを口にして。
何を教えたいのか、何を伝えたいのかわからない。
いや、一つだけ伝わることはある。
私を殺すこと。
それだけは確実だろう。
こんな感情のわからない男からでもよく感じ取れる。
私を殺すということが。
…嫌だった。
死にたくなかった。
まだしたいことは沢山あったのに。
まだ遣り残したことは沢山あったのに。
それなのに、死ぬなんて。
まだ愛すべき夫もいないのに。
子供だっていないのに。
幸せな家庭を築きたいと願っていたのに。
それに。
まだユウタに謝れてない。
またユウタと共にいれてない。
まだユウタに抱きしめてもらってもいない。
もっと抱きしめてもらいたかった。
もっと近くにいたかった。
もっと触れ合って言葉を交わしたかった。
―もっとユウタと…
そうしてみると思い出す。
ユウタが私に召喚されたとこのことを。
『オレは黒崎ゆうた。よろしく、フィオナ。』
そう言って微笑んで握手した場面を。
『女の子なんだからもっと慎めよ。』
困った顔して私に言うその姿を。
『ん?ああ、おはよう、フィオナ。』
そう挨拶してくれたその顔を。
『わ、ちょ!何してんだよフィオナ!』
真っ赤な顔で慌てていたそのときを。
『じゃあな、フィオナ。もっといい男、見つけろよ。』
悲しげに微笑んで去っていった後姿を。
「ユウタぁ…っ!」
会いたかった。
話したかった。
謝りたかった。
そして、抱きしめてもらいたかった。
初めて私の魅了にかからなかった人間だから。
初めて私に触れた男の人だから。
初めて私を受け止めてくれた存在だから。
―初めて私が………。
「ユウタぁ……っ!」
そうやって彼の名を呼ぶ私を前にしても勇者は止まらない。
無常にも剣を握り。
非常にも刃を閃かせ。
私を殺しにかかる。
勇者は私の目の前で私の血のついた剣を振り上げた。
無情の笑みを浮かべたままで。
そっと口を動かして私に言った。
「それでは、死んでください。」
その言葉に私は目を閉じた。
生きることをあきらめたから。
でも。
本当なら。
こんな形で死んでしまうなら。
―せめてユウタにこの気持ちを言っておきたかった。
そう後悔して。
―刹那。剣が突き刺さった。
しかし、痛みはない。
剣で刺されたというのに体に痛みは走らない。
それは死が近いという予兆か。
命の尽きる前兆か。
血は噴出さない。
冷たく硬い剣の感触さえ感じない。
…いや。
そんなものは感じなくても別のものを感じた。
それは温かさ。
私の体を包むように感じられる柔らかな温度。
それから安心感。
死が近づいているというのに不思議と穏やかな気分になる。
そして、充足感。
こうしているだけで満たされる。
そんな感情がわきあがる。
予想外の感覚に私は思わず目を開けてしまう。
そこにいる存在を確認して、自分の死を見てしまう。
―そこに死はなかった。
目を開けても私の体に剣は刺さっていなかった。
私のずっと前。
5,6歩なんてものじゃなくもっと離れたところで。
勇者の持った剣は私の体を貫かずに平原の土に刺さっていた。
私を殺そうとしたのに。
私から剣を外した?
いや、それならこんなに距離が開くのはおかしい。
私が避けた?
いや、避けられるほど体力は残っていない。
勿論転移魔法なんてものを使えるわけもない。
それなら、何で…?
そこで声がかかった。
「大丈夫かよ?フィオナ。」
それでもその優しい声は確かに聞こえた。
そのまま少し強い力で体が寄せられる。
否、抱き寄せられる。
さっきから感じていた温かさは、安心感は、充足感は。
私が誰かに抱き寄せられていたから感じていたものだったらしい。
それも、誰になんていわずともわかってしまう。
さっきの声は私の知る人物で一人しかいない。
「まったく…女の子が一人で戦場に行くなっていうのに…傷でもついたら大変だろうが。」
呆れたような、困ったような声が聞こえる。
でも、おかしい。
その声をここで聞けるはずがない。
それがここにいるわけがない。
私が一方的に怒鳴り散らしてしまったのだから、自ら近づきに来てくれるわけがない。
そのはずなのに。
顔を上げて見た先には。
私の赤い瞳に映ったものは。
深く先の見えない夜のような服。
触れれば沈んでしまいそうな影のような髪。
見ていると吸い込まれそうになる闇のような瞳。
ただ、その瞳は。
私を映して、優しげに微笑を浮かべていて。
それは紛れもない。
間違いようもない。
―黒崎ユウタという一人の男の人だった。
「ユウタ…!?」
あまりにも驚くべきこと。
人間であるユウタがここまでどうしてこられたのか。
同じ魔界とはいえ魔王城から遠く離れたこの平原までどうやってきたのか。
それ以前に。
あそこまでつらく当たったのにどうして来てくれたのか。
どうして優しく抱きしめてくれているのか。
理解できないことが沢山あった。
でも。
今はそんなことはどうでも良くなってしまう。
会いたいと思っていたユウタに抱きしめられていて。
謝りたいと思っていたユウタに頬笑まれていて。
ずっと一緒にいたいと思ったユウタが傍にいて。
私は。
「ユ、ユウタぁああ……っ!!」
恥ずかしくも泣いてしまった。
前方には勇者という存在がいるのにもかかわらず。
ユウタに抱きついて涙を流してしまった。
それがユウタを困らせるとわかっていたのに。
それでも涙は止まってくれそうにない。
やっと会えた喜びが。
触れ合えなかった寂しさが。
感じられなかった孤独が。
涙の箍を壊し、次から次へと溢れ出させる。
本当は泣いてはいけないのに。
泣きたいのはユウタのほうなのに。
本当は私に怒って憤りたいはずなのに。
それなのに、ユウタは。
「…ごめん、な。」
優しい言葉と共に抱きしめてくれた。
私に送るべきではない言葉と共に。
違うのに。
謝るのは私の方なのに。
何に対して謝っているのかわからない。
たぶん、私が泣いていることについてだろう。
どこまでもユウタらしい。
その優しさがまた私に涙を流させる。
情けなく、みっともなく。
ユウタに抱きついて泣き喚いてしまう。
「ユウタぁぁああっ!ごめん、なさいっ!!あんな、ひどいこと言って、ごめんなさいっ!!」
嗚咽交じりにも私は言う。
溢れ出した涙を拭いもせずに言う。
ユウタに言いたかった言葉を。
謝罪の言葉を。
それから、呆れてしまうほど勝手な言葉まで出てしまう。
「謝るっ謝るから、ぁ!も、うっ!どこにも、行かないでっ!」
それは私が思っていた言葉。
私の我侭な言葉。
たった半日も満たない時間、ユウタと離れていて気づかされたこと。
ユウタが傍にいなくて気づいてしまったこと。
私はユウタに傍にいて欲しかった。
すぐ近くにいて欲しかった。
「私の、傍に…いて…ぇ…っ!!」
でも、やはりそれは我侭。
クレマンティーヌに言われた、理不尽。
私はユウタのように相手に気配れない。
ユウタのように他人を優先できない。
自分を優先してしまい、自分自身に気を配ってしまう。
こんな勝手な自分。
嫌になってしまう。
それでもユウタは。
「…まったく、仕方ないな。」
そう言いながらもそっと指を私の頬に添えた。
そのまま流した涙を拭っていく。
見上げればぼやけながらにも微笑む顔が。
前には温もりある胸が。
背中には優しく抱き寄せる腕が。
そこにあった。
ここにいてくれた。
ああ…。
これが私の、本当に求めていたものなんだ。
ユウタが離れていた半日間。
永遠のように感じられた孤独。
それを打ち破ってくれるただ一人の男の人。
ああ、と思う。
私は見ていたんだ。
最初から、もしかしたら出会ったそのときから。
ユウタを一人の男として。
ユウタを一人の人間として。
ユウタを一人の―
「ブラボー。」
そこで声が入る。
見なくてもわかる。
私の背後からかかる感情の篭らない声。
それは勇者のもの。
ユウタはその声に顔を上げて見た。
私を抱き寄せたまま。
「…あれが、ヘレナが言ってた教団ってやつか…。」
いつもの優しい柔らかな笑みを消した顔。
鋭い目つきに一瞬ドキリとさせられる。
「ヘレナに送ってもらって助かった…。」
その言葉に理解した。
ユウタはにヘレナに転移魔法かなんかで送ってもらったのだろう。
だからここにいるんだ。
「ブラボー。」
勇者はもう一度言った。
その一言。
私にとっては理解できない言葉が混じっているが、反応を示した。
ユウタが。
一瞬体を硬直させた。
「いやぁ、いいですね。『高校生』と魔王の娘の感動の再会、泣けてきますねぇ。」
「っ!?」
ユウタが浮かべたのは驚愕の表情。
何に対してかはわからない。
おそらく勇者の言葉に反応したのかもしれない。
そして、勇者を睨み付ける。
「…あんたが勇者か?」
「いかにも、『高校生』君。」
こうこうせい…?
聞いたことのない言葉だった。
だがそれは。
ユウタにとっては驚くべき言葉だった。
「…何でその言葉を知ってるんだよ。『ここ』にはない職業だろうか。」
その言葉に勇者は笑う。
私に向けた笑みとは違う。
少し嬉しそうな顔で。
「ええ、『ここ』にはありませんね。だから『ここ』ではない世界にありますよ。」
「…何が言いたいんだよ?」
「それは貴方の予想通りだと思いますよ。」
そこで黙ったのはユウタ。
目を怪訝そうに細めたまま何も言わない。
何かを考えているように見える。
そうしていると勇者が喋りだす。
やはりどことなく嬉しそうに。
「まさか驚きですよ。こんなところでボクと同じ境遇の男性に出会えるなんて。ただ、私の場合は教団に召喚されたのですけどね。」
親近感が沸きます、とユウタに向けて言った。
その言葉にユウタは口を開いた。
「こっちも驚いた。同じ境遇の人間がいるなんて。でも、アンタのことを聞いてみるとそう平和的な勇者じゃないらしいんだろ?」
それはおそらくヘレナから聞いた言葉だろう。
その言葉に対して勇者は答える。
隠すつもりもないというように。
すらすらと話す。
「ええ。勇者ですからね。魔物などを殺していますよ。」
「…魔物?」
「ええ、勇者と聞けばわかりますよね?ゲームでよく出てくる勇者です。勇者は魔物を殺し、魔王を殺す存在だと。」
「…?魔物ってモンスターのことか?」
「ええ、モンスターです。スライムから始まりドラゴンやエキドナ、ヴァンパイアやバフォメットなど。」
そう言って勇者は剣を向ける。
その先にあるのはユウタじゃない。
魔物である、リリムである私だ。
「他にも貴方が大切そうに抱えているその者なども、ね。」
「…あ?」
一瞬ユウタの顔が変わった。
目を細め、睨み付ける。
勇者を視線だけで殺せそうなほどに。
「フィオナが魔物?ふざけんな。」
「ふざけてはいません。それは魔物です。」
「それ以前に女の子だろーが。」
「ええ、魔物以前に屑ですね。」
「…テメェ。」
「何を怒るんですか?それは魔物です。殺して喜ばれる存在ですよ?」
「…本気で言ってるのかよ?」
「ええ、本気です。それにその魔物たちは皆女性の姿をしている。それを殺すだけで富みも名誉も手に入る。最高じゃありませんか?」
「…殺すことがかよ?」
「ええ、女性を殺すことがです。」
「…女性が嫌いってことか?」
「大嫌いですね。全員死んでしまえばいいと思うほどに。だから―
―その抱えている魔物を私に殺させてください。」
そこでユウタの動きは止まる。
目を見開いたまま。
勇者の剣を凝視したまま。
そして、私を見た。
「…フィオナ、その肩どうした?」
そう言ってユウタは私の肩を見る。
そこにあるのは傷。
あの勇者によって付けられた切り傷があった。
いまだに血が止まらない傷。
それでも致命傷にはならない。
この程度放っておいても平気だろう。
だけど。
ユウタはそうでなかった。
「大丈夫か?」
「え、ええ。平気…。」
「そっか。」
ユウタはそう言うなり私の体をそっと地面に座らせた。
力が入らない体ではユウタのなすがままになる。
そうして座ったところでユウタはがくらんの下に着ている服に手を掛けた。
あの白く綺麗な服を。
躊躇いなく切り裂いた。
「っユウタ!?何して…っ!?」
「これ、傷の上から巻いてろよ。」
そう言うなりユウタは私の肩の傷の上から切り裂いた服を巻きつける。
包帯のように、止血するように巻きつける。
手馴れた手つきですぐに巻き終え、解けないようにと縛った。
そんなことをすれば当然血が染み込んでいく。
ユウタの着ていた服が赤く染まっていく。
それなのにユウタは満足そうに頷いた。
「よし。少しここで待っててくれよ。」
微笑を浮かべた表情に何もいえなくなる。
だけど、ユウタは何をしようとしているのだろう。
そんなことをして、私を座らせて。
いったい何をするきなのだろう。
そんな困惑した表情を浮かべてしまう私。
それを見てユウタは私の頭をそっと撫でた。
「そんな顔すんなよ。別に変な事するわけじゃないんだから。」
そしてユウタは勇者を見る。
他の教団の騎士達。
私を前に動くこともままならないその中心で平然と立つ男を。
そして勇者はユウタを見る。
私のすぐ前に立っている。
まるで私を守るかのように立つ彼を。
私に背を向けたユウタは言った。
「ちょっとあの勇者、殴ってくるだけだからさ。」
それは『主神』という存在を信仰する団体。
簡単に言えば私たちを敵と見なす存在。
魔物を悪とし、私たちを殲滅しようと行動する。
私たちにとっても敵といっていい。
だからといって私たちは彼らを殺めたりしない。
私たち魔物の本能は男性と交わること。
そのためにも彼らを殺そうとは思わない。
彼らはあくまで愛すべき存在なのだから。
「…っと。」
そんな彼らの前に私は降り立った。
広い魔界の平原に。
大勢で城へと歩みを進めていた集団の前に。
翼で飛ぼうとせず、空間移動魔法を使って。
数百人の軍勢の前に私は立った。
白い長髪をなびかせて。
白い肌を見せ付けて。
赤い瞳で見つめてあげて。
そうして微笑む。
それでいい。
それだけで、彼らは終わりだ。
あるものは握っていた剣を落としてしまう。
あるものは腰が砕けたように座り込んでしまう。
あるものは恍惚とした表情を浮かべて動きを止める。
誰も抵抗はしない。
誰も私を殺しにかかりはしない。
それが私だ。
大勢の男を虜にする存在。
サキュバス種の最高位。
魔王の娘、なのだから。
「…。」
他の魔物娘はいない。
彼女たちの出番は必要ないからだ。
私一人が彼らの前に出てしまえば済む。
私が彼らを魅了してしまえばそれで終わる。
お母様の出る意味もない。
魔王の精鋭達も出る必要もない。
私の親衛隊もいらない。
こんな大人数でも私一人で納まるのだから。
―それは私がリリムだから。
これが普通なんだ。
これがいつもなんだ。
私の姿を見ただけで男は皆抵抗をやめる。
これが当たり前のはずなのに―
―そんな当たり前を覆した存在が私のそばにいた。
ずっと、そばで笑っていてくれた。
私を気遣っていてくれた。
気づいて欲しくないからといってずっと微笑んでくれていた。
それは、本心か。
それとも、偽った感情か。
どうしてそこまで私を気遣ってくれるのかわからない。
そこまで私に優しくできる理由が理解できない。
本当なら彼は私を憎んでいてもおかしくはないのに。
怒られても、憤られても文句は言えないのに。
それでも彼は優しく接してくれた。
それに私はただ甘えることしか出来なかった。
彼の気持ちを考えるべきだったのに。
彼の優しさを返すべきだったのに。
私は彼に甘え続けてしまった。
なんと馬鹿らしいことだろう。
なんと愚かなことだろう。
「ユウタ…っ!」
あまりの感情にまた涙が溢れ出しそうになる。
先ほども泣いていたというのに。
まだまだ私は悔い足りないといわんばかりに。
後悔が溢れ出そうとする。
「ユウタぁ……っ!」
彼の名を呼ぶ。
そんなことをしても彼は戻ってきてくれない。
本当なら今すぐにでも城に戻って彼を探していたい。
そうして会って話がしたい。
謝りたい。
今まで彼の気持ちに気づけなかったことに。
今まで彼がかけてくれた優しさに。
今更遅いと思っていても。
それでも彼に会いたかった。
私はもっと彼と一緒にいたかったのだから…。
一人の男としてではない。
彼を一人の存在として。
彼を一人の人間として。
―私の…大切な存在として……。
その隣にいたかった。
そんなことを考えてしまっていたから私は気づかなかった。
どうして教団が私の存在を知らないでいたのかを。
教団は私たちを敵と見なす存在なんだ、それなら敵の情報を詳しく持っていてもおかしくはない。
私の存在を、リリムという魔物を知らないわけでもない。
それなのに。
私の魅了を知っているはずなのに。
どうして彼らは魔界へ足を踏み入れたのか。
この世界に訪れたのか。
ここまで進行してきたのか。
それは誰にも予想できない答え。
お母様でも、私でも。
セスタでもヘレナでもエリヴィラでも。
クレマンティーヌでも。
予想できなかったものだった。
―風が私の肩を掠めた。
「っ。」
遅れて気づく。
これはただの風ではなかったことに。
遅れて肯定される。
この風の正体を。
―私の血とともに…。
「っ!?」
左肩から私の鮮血が噴出した。
遅れて痛みが体中を走る。
赤い雫が何滴も地面に散らばった。
油断、していた。
いや、油断するのも当たり前だ。
私はリリム。
私を前にしている状態で満足に動ける男はいない。
もしかしたら、女でも十分に動けないと思う。
それでも、動いたものがいた。
動いて私を傷つけたものがいた。
その証拠に私の肩が裂けてしまった。
鋭利な刃物で切りつけたように。
幸い傷は浅い。
だから致命傷にはならないだろう。
それでも、この事実は驚きだった。
すぐさま私は振り返る。
左肩を右手で抑えて。
私を傷つけた存在と対峙するように。
振り向いた先には、いた。
「貴方が、魔王の娘のリリム、ですか?」
それは一人の男だった。
青年といっていいほどの体格。
輝くような黄金の鎧を着込んだ男。
髪は金髪でも銀髪でもない。
黒色。
ユウタと同じ…いや、ユウタよりもくすんだ黒色。
その背に赤いマントを翻して。
顔にはにこやかな笑みを浮かべて。
手には剣を持って立っていた。
その剣には私の血が滴っている。
あれで切りつけられたのは間違いないだろう。
だが、それはおかしなことだった。
男は平然と笑って私を見ている。
周りの騎士団のような恍惚とした笑みではなくて、感情の篭っていない笑みだ。
そんな表情をして私を見ていた。
ただ、見ていた。
誘惑もされず、魅了もされずに。
男はにこやかに微笑んで立っていた。
それは私にとって驚愕すべきこと。
私を、リリムを前にして平然と立てる男がいるなんて思わなかった。
―ユウタ以外にいるとは思わなかった。
息は荒くない。
目はにこやかに閉じられたまま。
興奮しているわけでもないし。
期待している様子もない。
「…聞こえていますか?」
男はそういってきた。
よく通る声で。
私に声を掛けてきた。
それに私は答える。
ただし、男を睨み付けて。
「…ええ、聞こえてるわよ。」
「ああ、それは良かった。」
男は微笑む。
ただ表情を変えるだけ。
感情が篭っていない表情で。
「それではもう一度確認してよろしいですか?」
紳士的な口調だが手に握られた剣がそのイメージを壊す。
いや、紳士じゃない。
男の姿は紳士ではない。
騎士のような姿。
ただ、周りの騎士よりも高価で丈夫な黄金の鎧を纏った姿。
平然と経ち続けるその姿はまさに―
―勇者。
人間側では英雄とも呼ばれる存在。
私の母、魔王を敵とみなして殺しに来る者。
魔物である私たちを殺す人間。
目の前の男は正しく勇者の姿だった。
「貴方は魔王の娘のリリムですか?」
「…そうよ。」
そういうと男は剣を握りなおした。
その意味は言わずともわかる。
その剣で私を殺すつもりなのだろう。
それが勇者のすべきことだから。
彼ら勇者は魔物を殺すことが正義だというのだから。
「貴方…勇者…ね。」
「おや、わかってしまいましたか。これは意外だ。」
男は…勇者はおどけたように言った。
それでも笑みは崩さずに。
何も読めないその表情で。
「そうですよ、貴方のおっしゃるとおり私は勇者です。」
「…そう。」
それは最悪だった。
今までだって勇者を前にしたことはいくつかあった。
教団がこの魔界へと攻め込んできたときが何度もあって。
そのたびに勇者を連れてきていることがたびたびあった。
それでも。
私が興味を持って前に出ただけで彼らは動きを止めた。
勇者という存在は私の前に膝を着いた。
それは明らかな降伏。
ただ私を見ただけで私に魅了さらたという証。
そんな男に興味はなく他の娘に明け渡してしまったが…。
勇者。
それはドラゴンをも狩る力を持っているという。
ヴァンパイアでさえ無傷では勝てず。
バフォメット相手でも苦戦をせず。
エキドナ相手でも余裕で勝つという。
それほどの力を持っているという存在でもある。
そんな存在が今私の目の前に存在している。
私の魅了をものともせずも。
おそらくこれが、教団が魔界まで攻めてきた理由だろう。
この勇者が只者ではないということを見つけたからだろう。
「ふむ、リリムというのがどういった魔物かと思えば…なるほど、やはり女性でしたか。それなら今までどおり加減せずに済みそうですねぇ…まったく、『この世界』の魔物というのは本当にすばらしい…。」
勇者はわけのわからないことを口にした。
やはり無常に。
感情を感じさせない。
それでも言っていた。
『この世界』…?
それは…いったいどういう意味?
しかしそんなことを疑問に思った私なんてお構いなしに勇者は喋る。
「それも、魔物の王である魔王の娘…その娘がこんなか弱そうな女性だとは…ね。」
「…か弱いと思うの?」
その言葉に私は手を出した。
勇者の方へと右手を向けた。
向けて、指差す。
人差し指で勇者の顔を。
「魔王の娘を…!」
そして、私は魔力を人差し指に込めた。
ありったけの魔力で魔法を使ってやる。
殺すつもりではない。
ただ気絶してもらうだけだ。
それくらいなら私でも余裕で出来る。
勇者といえ人だ。
気絶していては手も足も出ないだろう。
だから私は勇者を極力傷つけないような魔法を使おうと魔力を指先に込めた。
「おや、魔法ですか。これはおそろしい。」
そういう勇者は恐ろしがる素振りを見せない。
それどころかさっきから感情らしい感情を見せない。
常に笑みを貼り付けていて。
それでいて中身がわからない。
まるでユウタと反対。
中身の篭らない冷たい笑み。
それに比べてユウタは温かい笑み。
いつも私に向かって浮かべてくれた。
「っ。」
一瞬手元が狂い掛けるが持ちなおす。
そして、込められた魔力を一気に開放する!
―力が弾けた。
「―…え?」
弾けたのは私の体から。
体中の力が弾けたように感じられ、そして一気に抜けていく。
足が崩れ。
腕が下がり。
体が落ち。
私はその場に座り込んでしまう。
「……なん、で?」
力を入れようとしても入らない。
むしろ入れようとした分だけ抜けていく。
何で…!?
そう思って気づいた。
さっき私は魔法を使おうとした。
魔力を媒体にして。
だけど。
その魔法は魔力がなければ勿論使えない。
魔力は私たち魔物が持つ力。
だが、無限にあるというわけではない。
私たちがその魔力を得るためには男の人から精をもらうことが必要になる。
男の人の精が私たちの魔力へ変換されるから。
でも。
私はそれをここ数日間していない。
別に男の人と体を交わさずとも手に入れることは出来る。
薬や、その場しのぎで微量だけど食事から。
あとは魔力を持つ者から分けてもらう。
今までならお母様に分けてもらっていた。
でも。
今はしていない。
だってそれはユウタとするつもりだったから。
ユウタから精をもらうつもりだったから。
でもユウタが私を拒み続けた。
だから私の体内にあるべき魔力は…ない。
欠片も、残っていない。
だから体から力が抜けていく…!
ああ、しまった…。
おそらくここに来るときに使った移動魔法。
きっとあれが最後の魔力だったんだろう。
こんなところで魔力切れなんて…。
他の魔物娘たちはここにはいない。
私が一人で十分だと言ってしまったがために誰も来ていない。
今頃私が虜にして連れてきた彼らを夫にする準備でもしているだろう。
今までだってそうだったから。
だから誰も私がこんなピンチに陥ってるとは思っていない。
でも私は現に動けない。
それも敵の、魅了されない勇者の前で。
「…おや?攻撃してこないのですか?」
とうとう勇者が動き出した。
ゆっくりと私との距離を縮めてくる。
鋭い刃を持った剣を握って。
死が、迫ってきた。
「っ!」
逃げられない。
逃げるためにも体に力が入らない。
もしかしたら魔力を切らしたときに同時に抜けたのだろう。
指一本さえ動かすのがつらいこの状態。
逃げ切るなんて事は無理だ。
生き残るなんて事は不可能だ。
「動けないとはいい的ですね。魔王の娘ともあろう者なのに。」
「…っ。」
正しく言うとおり。
あまりにも驕っていた。
あまりにも傲慢だった。
私の魅了をものともしない人間がいるなんて思わなかったから。
それが私の死に繋がるなんて思ってなかった。
「これで私が魔王の娘を殺したとすれば…僕はいったいどれほどの名誉を得られるのでしょう?ああ、考えただけでも手が震えますね。」
喜悦の声色。
だが、やはり感情を感じさせない。
嬉しそうに言っているのに何も感じない。
「まったく、こんな女を殺すだけでもてはやされるなんて…本当に『ここ』に来て良かったとおもいますよ。そうは思いませんか?」
「…。」
「って言っても貴方にはわからないでしょうがね。」
何なんだこの男は。
まるで自分がここにいなかったというような口ぶりで。
いったい何を言っている?
意味のわからないことを口にして。
何を教えたいのか、何を伝えたいのかわからない。
いや、一つだけ伝わることはある。
私を殺すこと。
それだけは確実だろう。
こんな感情のわからない男からでもよく感じ取れる。
私を殺すということが。
…嫌だった。
死にたくなかった。
まだしたいことは沢山あったのに。
まだ遣り残したことは沢山あったのに。
それなのに、死ぬなんて。
まだ愛すべき夫もいないのに。
子供だっていないのに。
幸せな家庭を築きたいと願っていたのに。
それに。
まだユウタに謝れてない。
またユウタと共にいれてない。
まだユウタに抱きしめてもらってもいない。
もっと抱きしめてもらいたかった。
もっと近くにいたかった。
もっと触れ合って言葉を交わしたかった。
―もっとユウタと…
そうしてみると思い出す。
ユウタが私に召喚されたとこのことを。
『オレは黒崎ゆうた。よろしく、フィオナ。』
そう言って微笑んで握手した場面を。
『女の子なんだからもっと慎めよ。』
困った顔して私に言うその姿を。
『ん?ああ、おはよう、フィオナ。』
そう挨拶してくれたその顔を。
『わ、ちょ!何してんだよフィオナ!』
真っ赤な顔で慌てていたそのときを。
『じゃあな、フィオナ。もっといい男、見つけろよ。』
悲しげに微笑んで去っていった後姿を。
「ユウタぁ…っ!」
会いたかった。
話したかった。
謝りたかった。
そして、抱きしめてもらいたかった。
初めて私の魅了にかからなかった人間だから。
初めて私に触れた男の人だから。
初めて私を受け止めてくれた存在だから。
―初めて私が………。
「ユウタぁ……っ!」
そうやって彼の名を呼ぶ私を前にしても勇者は止まらない。
無常にも剣を握り。
非常にも刃を閃かせ。
私を殺しにかかる。
勇者は私の目の前で私の血のついた剣を振り上げた。
無情の笑みを浮かべたままで。
そっと口を動かして私に言った。
「それでは、死んでください。」
その言葉に私は目を閉じた。
生きることをあきらめたから。
でも。
本当なら。
こんな形で死んでしまうなら。
―せめてユウタにこの気持ちを言っておきたかった。
そう後悔して。
―刹那。剣が突き刺さった。
しかし、痛みはない。
剣で刺されたというのに体に痛みは走らない。
それは死が近いという予兆か。
命の尽きる前兆か。
血は噴出さない。
冷たく硬い剣の感触さえ感じない。
…いや。
そんなものは感じなくても別のものを感じた。
それは温かさ。
私の体を包むように感じられる柔らかな温度。
それから安心感。
死が近づいているというのに不思議と穏やかな気分になる。
そして、充足感。
こうしているだけで満たされる。
そんな感情がわきあがる。
予想外の感覚に私は思わず目を開けてしまう。
そこにいる存在を確認して、自分の死を見てしまう。
―そこに死はなかった。
目を開けても私の体に剣は刺さっていなかった。
私のずっと前。
5,6歩なんてものじゃなくもっと離れたところで。
勇者の持った剣は私の体を貫かずに平原の土に刺さっていた。
私を殺そうとしたのに。
私から剣を外した?
いや、それならこんなに距離が開くのはおかしい。
私が避けた?
いや、避けられるほど体力は残っていない。
勿論転移魔法なんてものを使えるわけもない。
それなら、何で…?
そこで声がかかった。
「大丈夫かよ?フィオナ。」
それでもその優しい声は確かに聞こえた。
そのまま少し強い力で体が寄せられる。
否、抱き寄せられる。
さっきから感じていた温かさは、安心感は、充足感は。
私が誰かに抱き寄せられていたから感じていたものだったらしい。
それも、誰になんていわずともわかってしまう。
さっきの声は私の知る人物で一人しかいない。
「まったく…女の子が一人で戦場に行くなっていうのに…傷でもついたら大変だろうが。」
呆れたような、困ったような声が聞こえる。
でも、おかしい。
その声をここで聞けるはずがない。
それがここにいるわけがない。
私が一方的に怒鳴り散らしてしまったのだから、自ら近づきに来てくれるわけがない。
そのはずなのに。
顔を上げて見た先には。
私の赤い瞳に映ったものは。
深く先の見えない夜のような服。
触れれば沈んでしまいそうな影のような髪。
見ていると吸い込まれそうになる闇のような瞳。
ただ、その瞳は。
私を映して、優しげに微笑を浮かべていて。
それは紛れもない。
間違いようもない。
―黒崎ユウタという一人の男の人だった。
「ユウタ…!?」
あまりにも驚くべきこと。
人間であるユウタがここまでどうしてこられたのか。
同じ魔界とはいえ魔王城から遠く離れたこの平原までどうやってきたのか。
それ以前に。
あそこまでつらく当たったのにどうして来てくれたのか。
どうして優しく抱きしめてくれているのか。
理解できないことが沢山あった。
でも。
今はそんなことはどうでも良くなってしまう。
会いたいと思っていたユウタに抱きしめられていて。
謝りたいと思っていたユウタに頬笑まれていて。
ずっと一緒にいたいと思ったユウタが傍にいて。
私は。
「ユ、ユウタぁああ……っ!!」
恥ずかしくも泣いてしまった。
前方には勇者という存在がいるのにもかかわらず。
ユウタに抱きついて涙を流してしまった。
それがユウタを困らせるとわかっていたのに。
それでも涙は止まってくれそうにない。
やっと会えた喜びが。
触れ合えなかった寂しさが。
感じられなかった孤独が。
涙の箍を壊し、次から次へと溢れ出させる。
本当は泣いてはいけないのに。
泣きたいのはユウタのほうなのに。
本当は私に怒って憤りたいはずなのに。
それなのに、ユウタは。
「…ごめん、な。」
優しい言葉と共に抱きしめてくれた。
私に送るべきではない言葉と共に。
違うのに。
謝るのは私の方なのに。
何に対して謝っているのかわからない。
たぶん、私が泣いていることについてだろう。
どこまでもユウタらしい。
その優しさがまた私に涙を流させる。
情けなく、みっともなく。
ユウタに抱きついて泣き喚いてしまう。
「ユウタぁぁああっ!ごめん、なさいっ!!あんな、ひどいこと言って、ごめんなさいっ!!」
嗚咽交じりにも私は言う。
溢れ出した涙を拭いもせずに言う。
ユウタに言いたかった言葉を。
謝罪の言葉を。
それから、呆れてしまうほど勝手な言葉まで出てしまう。
「謝るっ謝るから、ぁ!も、うっ!どこにも、行かないでっ!」
それは私が思っていた言葉。
私の我侭な言葉。
たった半日も満たない時間、ユウタと離れていて気づかされたこと。
ユウタが傍にいなくて気づいてしまったこと。
私はユウタに傍にいて欲しかった。
すぐ近くにいて欲しかった。
「私の、傍に…いて…ぇ…っ!!」
でも、やはりそれは我侭。
クレマンティーヌに言われた、理不尽。
私はユウタのように相手に気配れない。
ユウタのように他人を優先できない。
自分を優先してしまい、自分自身に気を配ってしまう。
こんな勝手な自分。
嫌になってしまう。
それでもユウタは。
「…まったく、仕方ないな。」
そう言いながらもそっと指を私の頬に添えた。
そのまま流した涙を拭っていく。
見上げればぼやけながらにも微笑む顔が。
前には温もりある胸が。
背中には優しく抱き寄せる腕が。
そこにあった。
ここにいてくれた。
ああ…。
これが私の、本当に求めていたものなんだ。
ユウタが離れていた半日間。
永遠のように感じられた孤独。
それを打ち破ってくれるただ一人の男の人。
ああ、と思う。
私は見ていたんだ。
最初から、もしかしたら出会ったそのときから。
ユウタを一人の男として。
ユウタを一人の人間として。
ユウタを一人の―
「ブラボー。」
そこで声が入る。
見なくてもわかる。
私の背後からかかる感情の篭らない声。
それは勇者のもの。
ユウタはその声に顔を上げて見た。
私を抱き寄せたまま。
「…あれが、ヘレナが言ってた教団ってやつか…。」
いつもの優しい柔らかな笑みを消した顔。
鋭い目つきに一瞬ドキリとさせられる。
「ヘレナに送ってもらって助かった…。」
その言葉に理解した。
ユウタはにヘレナに転移魔法かなんかで送ってもらったのだろう。
だからここにいるんだ。
「ブラボー。」
勇者はもう一度言った。
その一言。
私にとっては理解できない言葉が混じっているが、反応を示した。
ユウタが。
一瞬体を硬直させた。
「いやぁ、いいですね。『高校生』と魔王の娘の感動の再会、泣けてきますねぇ。」
「っ!?」
ユウタが浮かべたのは驚愕の表情。
何に対してかはわからない。
おそらく勇者の言葉に反応したのかもしれない。
そして、勇者を睨み付ける。
「…あんたが勇者か?」
「いかにも、『高校生』君。」
こうこうせい…?
聞いたことのない言葉だった。
だがそれは。
ユウタにとっては驚くべき言葉だった。
「…何でその言葉を知ってるんだよ。『ここ』にはない職業だろうか。」
その言葉に勇者は笑う。
私に向けた笑みとは違う。
少し嬉しそうな顔で。
「ええ、『ここ』にはありませんね。だから『ここ』ではない世界にありますよ。」
「…何が言いたいんだよ?」
「それは貴方の予想通りだと思いますよ。」
そこで黙ったのはユウタ。
目を怪訝そうに細めたまま何も言わない。
何かを考えているように見える。
そうしていると勇者が喋りだす。
やはりどことなく嬉しそうに。
「まさか驚きですよ。こんなところでボクと同じ境遇の男性に出会えるなんて。ただ、私の場合は教団に召喚されたのですけどね。」
親近感が沸きます、とユウタに向けて言った。
その言葉にユウタは口を開いた。
「こっちも驚いた。同じ境遇の人間がいるなんて。でも、アンタのことを聞いてみるとそう平和的な勇者じゃないらしいんだろ?」
それはおそらくヘレナから聞いた言葉だろう。
その言葉に対して勇者は答える。
隠すつもりもないというように。
すらすらと話す。
「ええ。勇者ですからね。魔物などを殺していますよ。」
「…魔物?」
「ええ、勇者と聞けばわかりますよね?ゲームでよく出てくる勇者です。勇者は魔物を殺し、魔王を殺す存在だと。」
「…?魔物ってモンスターのことか?」
「ええ、モンスターです。スライムから始まりドラゴンやエキドナ、ヴァンパイアやバフォメットなど。」
そう言って勇者は剣を向ける。
その先にあるのはユウタじゃない。
魔物である、リリムである私だ。
「他にも貴方が大切そうに抱えているその者なども、ね。」
「…あ?」
一瞬ユウタの顔が変わった。
目を細め、睨み付ける。
勇者を視線だけで殺せそうなほどに。
「フィオナが魔物?ふざけんな。」
「ふざけてはいません。それは魔物です。」
「それ以前に女の子だろーが。」
「ええ、魔物以前に屑ですね。」
「…テメェ。」
「何を怒るんですか?それは魔物です。殺して喜ばれる存在ですよ?」
「…本気で言ってるのかよ?」
「ええ、本気です。それにその魔物たちは皆女性の姿をしている。それを殺すだけで富みも名誉も手に入る。最高じゃありませんか?」
「…殺すことがかよ?」
「ええ、女性を殺すことがです。」
「…女性が嫌いってことか?」
「大嫌いですね。全員死んでしまえばいいと思うほどに。だから―
―その抱えている魔物を私に殺させてください。」
そこでユウタの動きは止まる。
目を見開いたまま。
勇者の剣を凝視したまま。
そして、私を見た。
「…フィオナ、その肩どうした?」
そう言ってユウタは私の肩を見る。
そこにあるのは傷。
あの勇者によって付けられた切り傷があった。
いまだに血が止まらない傷。
それでも致命傷にはならない。
この程度放っておいても平気だろう。
だけど。
ユウタはそうでなかった。
「大丈夫か?」
「え、ええ。平気…。」
「そっか。」
ユウタはそう言うなり私の体をそっと地面に座らせた。
力が入らない体ではユウタのなすがままになる。
そうして座ったところでユウタはがくらんの下に着ている服に手を掛けた。
あの白く綺麗な服を。
躊躇いなく切り裂いた。
「っユウタ!?何して…っ!?」
「これ、傷の上から巻いてろよ。」
そう言うなりユウタは私の肩の傷の上から切り裂いた服を巻きつける。
包帯のように、止血するように巻きつける。
手馴れた手つきですぐに巻き終え、解けないようにと縛った。
そんなことをすれば当然血が染み込んでいく。
ユウタの着ていた服が赤く染まっていく。
それなのにユウタは満足そうに頷いた。
「よし。少しここで待っててくれよ。」
微笑を浮かべた表情に何もいえなくなる。
だけど、ユウタは何をしようとしているのだろう。
そんなことをして、私を座らせて。
いったい何をするきなのだろう。
そんな困惑した表情を浮かべてしまう私。
それを見てユウタは私の頭をそっと撫でた。
「そんな顔すんなよ。別に変な事するわけじゃないんだから。」
そしてユウタは勇者を見る。
他の教団の騎士達。
私を前に動くこともままならないその中心で平然と立つ男を。
そして勇者はユウタを見る。
私のすぐ前に立っている。
まるで私を守るかのように立つ彼を。
私に背を向けたユウタは言った。
「ちょっとあの勇者、殴ってくるだけだからさ。」
11/06/13 20:43更新 / ノワール・B・シュヴァルツ
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