過去と師匠とオレと思い出
それはとあるエレーヌの発言から始まった。
「ユウタって女性経験とかあるの?」
「ん?」
いつものようにこのカフェバーで店の番をしながら来た客と世間話をするといういつもやっていることをしている中。
客としてきたメロウのエレーヌがそう言った。
さっきまでエロエロな猥談をしていたというのになんとも急なことだ。
「…女性経験っていうと?」
「だから、付き合ってた女性とかいなかったの?」
「あら、それは私も気になるわ。」
そう言ったのはこのカフェバーのマスターの娘、マリ姉ことマリン。
さっきまでオレとエレーヌの猥談を苦笑しながら聞いていたマーメイド。
なぜだかオレの隣にいるのではなくバーカウンター越しの、エレーヌの隣で興味深そうな表情を向けてきた。
…マリ姉、仕事してよ。
いくらこの店にお客が来ないからって…。
「ん〜…女性経験ねぇ。」
そんな経験今まであっただろうか?
女子に告白されたこともないし。
逆に誰かを好きになったこともない。
バレンタインデーなんかチョコをもらった覚えもない。
というか。
バレンタインデーは嫌な思い出しかない。
毎年来るあの日。
オレは我が麗しき暴君である双子の姉によくチョコを作れと命令されてたからな。
友チョコ作れと、オレに作れと、命令してきたからな…。
あれは泣ける。
前日徹夜でチョコを作らされては次の日笑顔でチョコを渡す双子の姉の姿があるんだから。
渡している相手に「それ、オレが作ったんですよ」なんて言ってやろうかと何度思ったことか…。
…あれ?思い出したら目から水が…。
「…ちょっと?ユウタ?」
「ん?ああ、平気。なんでもないから…。」
心配そうに見てくるエレーヌにそう言った。
うん、なんでもないよ。
これは思い出しちゃいけないことだっただけだから。
「それにしても…女性経験ね。」
ふと瞼を閉じて思い出す。
オレは女性経験があっただろうか?
女性経験…?
それは…女性である師匠のことは入るのだろうか…?
「…ユウタ?」
今度はマリ姉が心配そうに身を乗り出してきた。
マリ姉、近いよ?
そんなに身を乗り出すと胸が強調されちゃうよ?
ただでさえこの港町の皆は露出が多い格好なんだから。
水着みたいな姿なんだから。
「ん〜…師匠とかって…あり?」
「師匠?その人女性なのかしら?」
「どんな人?エッチな人?」
「お前はすぐにそれだな…。」
わかってはいるんだけどそうエロい人なんていないんだからなエレーヌ。
…いや、待てよ?
師匠って…あれ?
「ちょっと待って。思い出すから。」
そう言ってオレは思い出す。
懐かしきあのころの記憶を。
久しきあのころの思い出を…。
思い出した。
そこは道場。
広いその空間にいるのはオレと師匠のみ。
オレと師匠は空手着を着て、二人で稽古をしている最中だった。
「いきますよ…師匠!」
オレは拳を握って師匠と対峙している。
ああ、これは。
師匠と組手の練習をしているところだ。
懐かしい。
懐かしいけど…あれ?
この場面って…。
「さぁ、ユウタ…来て…♪」
そう言った師匠はオレを見て微笑んでいる。
なんだかどことなく大人の笑み。
妖艶で…誘っているような?
「それじゃあ…まずは…突きでいきますっ!」
「いいよ♪その熱くて硬くて逞しいユウタのもので…突いて…♪」
…。
…何なんだろうこの発言は。
何が目的でこんな発言をしてくるのだろうか。
「…師匠。一応言っておきますけど…拳ですからね?」
なぜだろうか。
何であの女性はやたらとそっちへと言動を持っていくのだろうか。
エロい。
ある意味エレーヌよりも。
誘っていると勘違いしてしまう。
オレだって年頃の男の子なのに。
あの人はオレをからかっているのだろうか?
そう思うのも無理はない。
うん、そうだ。
だからあの発言とかも…ふざけている…はずだと思う。
うん…きっとそうだ。
例えば…そう、稽古のとき。
その中でも…空手でよくある板割りのときである。
あのときもひどかった。
何がって言うとそれは―
「それじゃあ、ユウタ。今日は正拳突きで板を割ってみようか。」
「はい、師匠。」
共に空手着姿で対峙するオレと師匠。
いつものようにニコニコ顔の師匠と集中した顔つきのオレ。
師匠の手にはオレに向けるように持たれている板が一枚。
これからこれを突きで割る。
何も難しいことじゃない。
力の加減を考え、拳のぶつかる位置を調節すれば楽に出来る。
今まで習ったことを思い出せばなんともたやすいものだ。
失敗すればかなり痛いが、まぁ平気だろう。
オレは師匠の持つ板に拳をむけ、引き絞る。
息を吐き、体中の筋肉を弛緩させて準備は出来た。
「それじゃあ…いきますっ!」
オレはそう言い師匠を見据えた。
師匠は相変わらずのニコニコ顔で告げた。
よくわからない言葉を。
「頑張って、ユウタ。板が上手く割れたらご褒美に自分が熱烈なキスをしてあげる♪」
力が抜けた。
意気込んで握った拳が解けた。
膝がガクッと抜けて倒れかけた。
何を言い出すんだこの女性は…!?
いきなり板割ったらご褒美としてキスなんて!?
そりゃ…嬉しいは嬉しいけど…。
「…何言ってるんですか師匠。」
「んふふ〜♪だから、ご褒美だよ♪頑張って板を割ってね♪」
頑張る気が失せました。
まったく、貴方という人は。
「いちいちからかわないでくださいよ、師匠。」
「からかってないんだけどな〜♪」
そうだとしたらタチが悪いと思う。
オレなんかよりももっとちゃんと好きになった相手にそういうことは言って欲しいものだ。
オレだって男の子。
師匠のような美人を目の前にして放って置けるほど性に無頓着じゃないって言うのに。
ご褒美として師匠のキス、ね。
それだったら痛い思いをして板を割らないほうがよさそうだ。
師匠のためにも。
「そんじゃ、いきますよ〜。」
思い切り力の抜けた拳を握る。
板が割れないように小突くように突けばいいだけ。
オレは拳を振り切って板に向かって構えを取った。
そんなオレを見て師匠はまたもや告げた。
誰も予想できないような一言を。
「あ、もし割れなかったら師匠が慰めてあげる♪もちろん、か・ら・だ・で♪」
「ぶっ!!」
倒れた。
間一髪拳が板に触れる前に。
ギリギリだった。
危なかった。
拳が触れてたら割れてないと判断されるところだった!
「師匠!変なこと言うのやめてくださいよ!!」
へんなことって言うか、割れても割れなくても結果は同じ!
むしろ割れなかったほうがひどいっ!
すぐさま起き上がり師匠に怒鳴りつけるが師匠はそんなオレなんてどこ吹く風。
むしろオレをニヤニヤとしたなんか妖艶な笑みで見ていた。
明らかに…何かの意味を込めた笑みだ。
「師匠!貴方はいったい何がしたいんですか!?」
「うん?自分?自分はねユウタといちゃつきたいだけだよ♪それもねっちりべったりと…ね♪」
「師匠!擬音が変です!」
「それならしっぽりぬっぽりと…♪」
「師匠!ぬっぽりって何ですかっ!?」
初めて聞いた!
ぬっぽりって何!?
「さぁ、ユウタ。この板を割ってごらん?」
「いやいや、師匠!人の話を無視しないで―ってなんですかその板は!?」
師匠が近づけてきた板を見て驚愕した。
板の裏。
師匠側のほうになぜか明らかにいたとは思えないものがくっついていた。
というよりも板と一緒になっていた。
木が出すような色でもなく、木の出すような模様もなく。
光沢を出していた。
金属のような光沢…金属光沢を。
って、これ明らかに金属じゃねえか!
「…師匠?オレに板を割らす気無いでしょ?」
「勿論あるわけないよ♪」
最悪だ。なんだこの師匠は。
弟子をいじめてるのか。
オレの拳を砕かせる気か。
「だから、板を割れなかったユウタを慰めてあげるんだよ♪砕けちゃったユウタの拳も心も自分が優しく手取り足取り癒してあげて…♪」
「師匠、オレの心はこんな板一枚で砕けるほど脆くはありません。」
「それじゃあ師匠の心を癒して…♪」
「師匠、何でそこで師匠の心が出るんですか。」
壊れてもないでしょーに。
「それじゃあ単純に師匠を体で癒して…♪」
「師匠、発言がまたおかしくなってます。」
「それならユウタの体で自分をおかしくして…♪」
「師匠、稽古再開しますよ?」
あーの人は何で案なんであったんだろう…。
ふざけが過ぎるというか。
あー、もう、とんでもない女性だったな…。
「…ユウタ、大丈夫なの?」
「あ、うん、平気。」
あまりにも悩んでいたからマリ姉が不審がって声を掛けてきた。
悩みすぎて心配かけるのも悪いな。
だったら話したほうが…いいのか?
ふと目の前のマーメイドを見た。
片方はお淑やかなマーメイドのマリンことマリ姉。
もう片方はエロいメロウのエレーヌ。
…この二人になら話しても大丈夫だろうか?
あのとんでもない性格をしたオレの師匠のことを話しても平気だろうか…。
「どうしたのユウタ。さっきっからひたっちゃったように…それがいわゆる賢者タイムってやつかしら?」
「変なことを言うな。」
お前はあれだな、さっきっからそれだな。
でも、まぁこいつになら離しても平気だろうな。
…ただ、マリ姉のほうは…大丈夫かな…。
ちょっと心配だけど…。
オレは迷いに迷ってそして決めた。
話してみよう。
「あー…えっと…とにかく…話してみるわ。」
腹を括って覚悟も決めた。
少しだけ、あの師匠のことを二人に教えてみよう。
二人を見ればなぜだか残念そうな顔をしていた。
なんていうか…落ち込んでいるというか…。
「そう…ユウタ…女性経験あるのね…。」
「ないと思ってたのに…。」
…何さ、二人して。
いったい何なのさ、その反応は…。
オレに女性経験がないと思ってたのか?
失礼な!ねえよ!
威張れないことなんだけどね!
閑話休題。
マリ姉とエレーヌ、それからオレ自身にコーヒーを用意して。
二人もどうにか落ち着いたところで。
オレは口火を切った。
「まぁ…これを女性経験なんて言えないと思うけど…こんな人がいたってことで聞いてみてよ。」
そうして話し出す。
あのころの、オレと師匠の日々を。
なんともいえないふざけた過去を。
もう会うことなんて出来ない、師匠との思い出を。
それは野外稽古。
師匠の家はかなり大きい。
道場がありながらその庭の大きさもとんでもない。
豪邸の一歩手前というところだろう。
実際師匠の家に合宿したときもそんな印象を受けるような部屋の装飾だったし。
空手の合宿。
…いや…合宿という名目のお泊りだったんだけど。
あれはあれできつかったな…。
師匠が裸エプロンなんてものをしてくるわ、風呂場に侵入してくるわ…。
あまつさえ寝床を一緒にさせられるわ…。
おっと、話がずれた。
思い出したのは野外稽古のことである。
「…師匠。何度も言いますけど…自宅だからってこうも何度も壁を壊してしまうのはどうかと…。」
「平気だよ、ユウタ。」
庭の端。
塀のところで。
オレと師匠は離していた。
目の前にあるのは穴の開いた塀。
ブロック塀に、穴だ。
誰が開けたか?それは勿論師匠。
オレの目の前にいる女性だ。
「…いくら『砕』の練習だからって壁まで壊すのは…。」
「これくらいやらないと練習にならないからね。」
っていうかその技はオレが練習して習得しなきゃいけない技だ。
師匠を止めるために必要な技。
でも…ここまで威力のある技じゃなきゃいけないのだろうか。
これ…絶対に相手死ぬぞ。
師匠は何でこんな技を作れたのだろうか…。
「それに師匠、壁はタダじゃないですよ?」
そこだ。
一番の問題。
こんな風に何度も壁を壊していたら修理代で師匠の持っているお金もそこをついてしまうはずだ。
師匠、仕事らしい仕事をしてないって言うし。
そんな収入源のないはずの師匠は笑って答える。
「平気だって。前にも言ったでしょ?自分の家はそれなりの上流階級だったって。その家から定期的にそれ相応のお金を送ってもらっているんだ。」
勘当、されちゃってる身だけどね。
そう悲しげに付け加えた師匠。
そういえば師匠の実家はかなりすごいらしい。
師匠の親が社長だったりするのかな?
勘当したといってもやはり自分の子は子。
心配でそれくらいならしてくれているようだ。
だからね、と師匠は続ける。
「『自分とユウタの曾孫』くらいまでなら余裕で遊んで暮らせるくらいのお金はあるんだよ♪」
「…え?」
今この人なんて言った?
自分と…オレの……曾孫?
「え、いや、師匠。曾孫以前にオレと師匠の間に子供なんていないでしょ。」
いるわけがない。
オレと師匠はそんな関係でもないしましてやそんな行為さえしてないんだから。
しかし師匠は笑う。
いつものように楽しそうに。
それでいてどことなく妖艶に。
「それなら…作ろっか♪」
「いや、師匠?それはあまりにも急ですって…。」
「大丈夫だよぉ♪全部自分がやってあげるからぁ♪」
「いやいや、師匠?それはいただけないんではないでしょうか?オレはまだ十代ですし就職していませんし。」
「経済面でも生活面でも自分は準備万端だよ?もちろん結婚の準備だってできてるよ♪」
「いやいやいや、師匠?オレまだ結婚できる年齢じゃありませんからね?」
「それでも子供は作れるお歳でしょ?」
「いやいやいやいや!師匠っ!?」
「平気だよ♪自分がユウタを幸せにしてあげるから♪」
「師匠っ!それは男の台詞です!」
「えっ!?それじゃあユウタが自分を幸せにしてくれるのっ!?」
「えっ!!?」
「んふふ〜♪でも、今からちょっとばっかし幸せにならない?」
「えっ!!?何するつもりですか師匠!?ってああ!師匠!空手着に手を掛けないでください!脱がそうとしないで下さいよ師匠!ここは野外ですよ!」
「それじゃあ室内ならいいんだね♪」
「はっ!しまった!」
「それじゃあ自分の部屋にでも…行こうか♪」
「ええっ!?師匠っ!?ちょ、早まらないでくださいよ師匠!!」
なんか…オレの言うこと全て揚げ足取られてたような気がする…。
あの人は本当にとんでもない人だった。
いろんな意味で。
あるときはブロック塀を壊してくれたり、電信柱にひびを入れるような蹴りをかましてくれたり。
またあるときは人前だろうと人目をはばからずにオレに抱きついてきたからなぁ。
学校の文化祭なんて皆の前だというのに抱きついてきたからなぁ…。
あの人、外見は美人だからとんでもなく目立つし。
ただでさえオレのいた世界でも珍しい灰色の髪してたし…。
それなのにオレにベタベタしてきて…。
まったく、こっちの身にもなってもらいたい。
あんな極上な美人相手に男が平気でいられるわけがないっていうのに。
オレなんかよりももっとちゃんとした男を見つけてもらいたいもんだ。
そんなところを話してみると二人して変わった反応を示してくれた。
マリ姉はなぜか固まって。
エレーヌは引きつった顔をしていた。
…どうしたのだろう。
やはり師匠との思い出は他人には少しばかり重かったか…?
「…そこまでしても気づかないなんて…鈍感ね…。」
「え?マリ姉、それどういう意味?」
「鈍いにもほどがあるでしょ…。」
「ん?エレーヌ?」
二人して似たような反応をしちゃって。
いったい何だというんだ。
そういえば。
師匠にもそんなことをよく言われていたな。
「ひどいよっ!ここまでしてるのに何でそっけなくいられるのさ!ここまでしてるんだよ!?大サービスものだよ!?ここまでやって興味をもたれないなんて自分は女としての自信を大いに失っちゃったよ!!責任持ってユウタのお嫁さんにしてっ♪」
最後がなんか変わっていたような…。
どことなく嬉々としていたような気もするんだよな。
まったく、あの人は。
子供のようで大人っぽくて。
妖艶なのに純粋で。
それでいて、乙女なんだよなぁ。
思い出して思わず微笑んでしまうくらいに。
師匠、笑った顔はとんでもなく可愛かったからなぁ。
それでいて凛とした雰囲気があったからなぁ。
そっと瞼をおろして師匠の顔を思い出す。
初めてオレが師匠とあったころ。
「やぁ、黒崎君。さっそく組み手の練習といこうか。人数が揃わないから自分が相手になっていいかな?」
凛とした近寄りがたい雰囲気の師匠。
あの『症状』が出た後、師匠を受け止めると決めたとき。
「君は…本当に馬鹿だよ…。ただ単純で…それで、馬鹿なだけなんだよ…。」
子供のように泣いた弱弱しい師匠。
それから、道場でオレと師匠の二人っきりという現状が続いていた最近のこと。
「んふふ〜♪それじゃあ楽しく関節技でもやろっか。くんずほぐれつ絡み合ってそのまま…♪」
妖艶でそれでいて心のそこから楽しそうに笑っていた師匠。
「…ん?」
それを思い出して違和感に気づく。
あまりにも当たり前すぎて気づかなかった違和感。
ぼやけていてハッキリとしないもの。
「……。」
何だ…これ。
オレは何に違和感を感じた…?
そう思ったそのとき。
―フラッシュバック。
自身の記憶が一気に甦ってくる。
師匠と初めてであった時の光景が。
師匠に褒められた時の光景が。
師匠と組み手をした時の光景が。
師匠に殺されかけたときの光景が。
師匠を抱きしめている光景が。
師匠と笑いあっている光景が。
師匠と―
「―っ!?」
そこで気づいてしまった。
それは気づくべきではなかったのかもしれない。
いや、今まで気づいていたのに目を背けていたのかもしれない。
その違和感はずっと感じていた。
その疑問はずっと抱いていた。
それは―
「…ユウタ?大丈夫?」
そこでマリ姉が声を掛けてきたことにより思考が中断される。
引き戻された意識。
だが、それに気づいてしまったオレの体はわずかに震える。
「急に顔色悪くなったけど…。」
「へ、平気だよ。マリ姉。」
オレは慌てて手を振って何とか誤魔化す。
誤魔化しきれてないだろうが、それでもいい。
それは手元にあったコーヒーをそのままにカウンターを離れる。
「ユウタ?どこかいくの?」
「あ、ああ。ちょっと散歩に。」
「それならあたしも行くわ。」
エレーヌが席を立とうとしたがオレはそれよりも先にエレーヌを制するように言う。
「ちょいとした散歩だよ。」
少し考え事ついでの、散歩。
気晴らしに近いものかもしれない。
「すぐ帰ってくるつもりだから、待っててくれよ。」
「…そう?」
オレの言葉にエレーヌは座り直すだけにしてくれた。
もしかしたらオレの顔を見たからかもしれない。
顔色悪くなっているオレの顔を。
もしかしたら余計な気をつかわせてしまったかもしれない。
オレは申し訳なく思いながら逃げるように二人の前から、このカフェバーから出た。
夜空に明るく輝く満月。
港町から離れた静かな浜辺。
海水が押し寄せ、白く波立つ砂浜をオレは裸足で歩いていた。
静かな夜に響く波の音がオレの頭の中を落ち着ける。
感情を抑えてくれる。
少しばかり冷静になったところでオレは再び考えた。
そうだよ。
なんでオレは今まで気づかなかった!?
よく考えればわかることだったのに…!
オレと師匠の出会いはオレが小学三年生のとき。
昨日のようにハッキリと思い出せる。
そんな小さいころから師匠のもとへと空手を習いに通っていた。
そこで師匠はいつものように笑ってオレを迎えていたんだ。
それからもずっと変わらずに。
師匠の『症状』がでて、他の門下生がいなくなっても変わらずに。
オレを迎えてくれた。
―何一つ変わることない、オレへの微笑みを向けて…。
そう、何一つだ。
師匠は何も変わっていない。
その珍しい灰色の髪。
優しく包み込むような微笑み。
女性にしては少し高い身長。
綺麗でモデルのような体格。
女優やアイドルだって目じゃない綺麗な顔。
そのどれもが変わっていないんだ。
師匠と長い付き合いだからこそわかったこと。
師匠は―
―オレを初めて迎えてくれたあのときから何も変わっちゃいない…!!
成長なんてしていない。
老いてもいない。
小学三年生から高校三年生の約十年間。
毎日通い続けたあの日と同じ。
ずっと、同じ。
十年も経てば人間は嫌でも成長する。
大人になれば必然的に老いてしまう。
老いていることを隠そうとして化粧なんてものを使う方法もあるが…師匠はそんなもん使ってないはずだ。
というか、師匠そこらへん疎いし。
でも…。
もし、そうだとしたら。
師匠が十年経った今でも何一つ変わっていなかったとしたら。
―師匠は…人間じゃない…?
…でも。
十年ぐらい外見だけなら歳をとってるように見えないかもしれない。
歳よりも若く見える事だってあるかもしれない。
―いや、それじゃあ説明がつかない。
あの師匠のことと結びつかない。
なにより師匠の家にお泊りに行った合宿のとき。
師匠の部屋で見てしまった『あれ』。
あれは、あれを見たからわかる。
あの人が、師匠がどれほど―
「―…やめだ。」
考えるのが馬鹿らしくなってきた。
そんな今更師匠が人間じゃなかったことを知ったところでどうなるっていうんだ。
オレのいた世界へ戻る方法さえわからないのに。
それに師匠は師匠。
オレにとっての恩師であることに変わりない。
オレの、大切な人に変わりない。
「…師匠、元気かな…。」
オレは小さく呟いた。
呟いても意味のない言葉を。
足を止め、海のほうを向く。
月が透き通った海面に反射する幻想的な雰囲気。
オレのいた世界ではここまで綺麗な風景を見るのは難しいだろう。
まるで別世界に立っているかのような光景。
…いや、オレは今別世界に来ているんだ。
どうしてきてしまったのかはわからないけど。
まったく違う世界に来ている。
もう皆には会えない。
オレの家族も。
我が麗しき暴君こと双子の姉も。
仲のよかった友達とも。
―そして、師匠とも。
「ねぇ、師匠。」
オレは海に向かって呟く。
誰も聞いていない言葉を。
向けられない相手に向かって。
少しばかり自嘲気味に苦笑して。
「知ってましたか?師匠。オレは…決めてたんですよ。」
答える者は誰もいない。
聞く者も一人もいない。
規則的に打ち付ける波の音しか聞こえない。
「ねぇ、師匠。」
顔を上げて、月を仰ぎ見る。
この月がオレのいた世界の月と同じかはわからない。
だが、もしかしたら。
師匠もオレと同じように月を仰ぎ見ているかもしれない。
そんなあっても意味のない可能性の中で。
オレは一人届くはずのない言葉を紡いでいく。
「決めてたんですよ。オレは―
―高校を卒業したら…貴方の想いを受け止めるって…。」
それはオレの決めていた言葉。
既に遅い、意味もない想い。
オレの、男としての覚悟。
師匠のあの言動がオレへの好意だったとしたら。
それでいて、オレがちゃんとした大人へとなれたのなら。
言おうと思っていた事。
「もう、無駄な覚悟になっちゃいましたけどね…。」
自嘲気味に笑って、ため息をついた。
本当に、どうしようもないな。オレって奴は。
師匠に言われたまま、どうしようもない。
こんな言葉を今更言ってどうなると?
届かない想いを告げて何になると?
そんなの、どうにもならないし何にもならない。
それでも。
ただ、言いたかった。
あの人に届けたかった。
だから―
「―… 。―」
オレは呟いた。
静かな海で誰も聞き取れないような小さな声で。
囁くように。
送る相手のいない言葉を送った。
「…はは。」
乾いた笑いと共にオレは歩き出す。
足音もたたない砂の上をゆっくりと。
さて、帰ろうか。
今は今で待たせてる人がいるんだから。
向こうの世界と決別して。
帰る道を自ら閉ざして。
この世界で生きていくと決めたのだから。
カフェバーへと戻るために動かした足はどことなく重そうに動いていた。
ただ、少しだけ願いが叶うのなら…。
さっきの言葉があの人のものへと届きますように…。
END
「ユウタって女性経験とかあるの?」
「ん?」
いつものようにこのカフェバーで店の番をしながら来た客と世間話をするといういつもやっていることをしている中。
客としてきたメロウのエレーヌがそう言った。
さっきまでエロエロな猥談をしていたというのになんとも急なことだ。
「…女性経験っていうと?」
「だから、付き合ってた女性とかいなかったの?」
「あら、それは私も気になるわ。」
そう言ったのはこのカフェバーのマスターの娘、マリ姉ことマリン。
さっきまでオレとエレーヌの猥談を苦笑しながら聞いていたマーメイド。
なぜだかオレの隣にいるのではなくバーカウンター越しの、エレーヌの隣で興味深そうな表情を向けてきた。
…マリ姉、仕事してよ。
いくらこの店にお客が来ないからって…。
「ん〜…女性経験ねぇ。」
そんな経験今まであっただろうか?
女子に告白されたこともないし。
逆に誰かを好きになったこともない。
バレンタインデーなんかチョコをもらった覚えもない。
というか。
バレンタインデーは嫌な思い出しかない。
毎年来るあの日。
オレは我が麗しき暴君である双子の姉によくチョコを作れと命令されてたからな。
友チョコ作れと、オレに作れと、命令してきたからな…。
あれは泣ける。
前日徹夜でチョコを作らされては次の日笑顔でチョコを渡す双子の姉の姿があるんだから。
渡している相手に「それ、オレが作ったんですよ」なんて言ってやろうかと何度思ったことか…。
…あれ?思い出したら目から水が…。
「…ちょっと?ユウタ?」
「ん?ああ、平気。なんでもないから…。」
心配そうに見てくるエレーヌにそう言った。
うん、なんでもないよ。
これは思い出しちゃいけないことだっただけだから。
「それにしても…女性経験ね。」
ふと瞼を閉じて思い出す。
オレは女性経験があっただろうか?
女性経験…?
それは…女性である師匠のことは入るのだろうか…?
「…ユウタ?」
今度はマリ姉が心配そうに身を乗り出してきた。
マリ姉、近いよ?
そんなに身を乗り出すと胸が強調されちゃうよ?
ただでさえこの港町の皆は露出が多い格好なんだから。
水着みたいな姿なんだから。
「ん〜…師匠とかって…あり?」
「師匠?その人女性なのかしら?」
「どんな人?エッチな人?」
「お前はすぐにそれだな…。」
わかってはいるんだけどそうエロい人なんていないんだからなエレーヌ。
…いや、待てよ?
師匠って…あれ?
「ちょっと待って。思い出すから。」
そう言ってオレは思い出す。
懐かしきあのころの記憶を。
久しきあのころの思い出を…。
思い出した。
そこは道場。
広いその空間にいるのはオレと師匠のみ。
オレと師匠は空手着を着て、二人で稽古をしている最中だった。
「いきますよ…師匠!」
オレは拳を握って師匠と対峙している。
ああ、これは。
師匠と組手の練習をしているところだ。
懐かしい。
懐かしいけど…あれ?
この場面って…。
「さぁ、ユウタ…来て…♪」
そう言った師匠はオレを見て微笑んでいる。
なんだかどことなく大人の笑み。
妖艶で…誘っているような?
「それじゃあ…まずは…突きでいきますっ!」
「いいよ♪その熱くて硬くて逞しいユウタのもので…突いて…♪」
…。
…何なんだろうこの発言は。
何が目的でこんな発言をしてくるのだろうか。
「…師匠。一応言っておきますけど…拳ですからね?」
なぜだろうか。
何であの女性はやたらとそっちへと言動を持っていくのだろうか。
エロい。
ある意味エレーヌよりも。
誘っていると勘違いしてしまう。
オレだって年頃の男の子なのに。
あの人はオレをからかっているのだろうか?
そう思うのも無理はない。
うん、そうだ。
だからあの発言とかも…ふざけている…はずだと思う。
うん…きっとそうだ。
例えば…そう、稽古のとき。
その中でも…空手でよくある板割りのときである。
あのときもひどかった。
何がって言うとそれは―
「それじゃあ、ユウタ。今日は正拳突きで板を割ってみようか。」
「はい、師匠。」
共に空手着姿で対峙するオレと師匠。
いつものようにニコニコ顔の師匠と集中した顔つきのオレ。
師匠の手にはオレに向けるように持たれている板が一枚。
これからこれを突きで割る。
何も難しいことじゃない。
力の加減を考え、拳のぶつかる位置を調節すれば楽に出来る。
今まで習ったことを思い出せばなんともたやすいものだ。
失敗すればかなり痛いが、まぁ平気だろう。
オレは師匠の持つ板に拳をむけ、引き絞る。
息を吐き、体中の筋肉を弛緩させて準備は出来た。
「それじゃあ…いきますっ!」
オレはそう言い師匠を見据えた。
師匠は相変わらずのニコニコ顔で告げた。
よくわからない言葉を。
「頑張って、ユウタ。板が上手く割れたらご褒美に自分が熱烈なキスをしてあげる♪」
力が抜けた。
意気込んで握った拳が解けた。
膝がガクッと抜けて倒れかけた。
何を言い出すんだこの女性は…!?
いきなり板割ったらご褒美としてキスなんて!?
そりゃ…嬉しいは嬉しいけど…。
「…何言ってるんですか師匠。」
「んふふ〜♪だから、ご褒美だよ♪頑張って板を割ってね♪」
頑張る気が失せました。
まったく、貴方という人は。
「いちいちからかわないでくださいよ、師匠。」
「からかってないんだけどな〜♪」
そうだとしたらタチが悪いと思う。
オレなんかよりももっとちゃんと好きになった相手にそういうことは言って欲しいものだ。
オレだって男の子。
師匠のような美人を目の前にして放って置けるほど性に無頓着じゃないって言うのに。
ご褒美として師匠のキス、ね。
それだったら痛い思いをして板を割らないほうがよさそうだ。
師匠のためにも。
「そんじゃ、いきますよ〜。」
思い切り力の抜けた拳を握る。
板が割れないように小突くように突けばいいだけ。
オレは拳を振り切って板に向かって構えを取った。
そんなオレを見て師匠はまたもや告げた。
誰も予想できないような一言を。
「あ、もし割れなかったら師匠が慰めてあげる♪もちろん、か・ら・だ・で♪」
「ぶっ!!」
倒れた。
間一髪拳が板に触れる前に。
ギリギリだった。
危なかった。
拳が触れてたら割れてないと判断されるところだった!
「師匠!変なこと言うのやめてくださいよ!!」
へんなことって言うか、割れても割れなくても結果は同じ!
むしろ割れなかったほうがひどいっ!
すぐさま起き上がり師匠に怒鳴りつけるが師匠はそんなオレなんてどこ吹く風。
むしろオレをニヤニヤとしたなんか妖艶な笑みで見ていた。
明らかに…何かの意味を込めた笑みだ。
「師匠!貴方はいったい何がしたいんですか!?」
「うん?自分?自分はねユウタといちゃつきたいだけだよ♪それもねっちりべったりと…ね♪」
「師匠!擬音が変です!」
「それならしっぽりぬっぽりと…♪」
「師匠!ぬっぽりって何ですかっ!?」
初めて聞いた!
ぬっぽりって何!?
「さぁ、ユウタ。この板を割ってごらん?」
「いやいや、師匠!人の話を無視しないで―ってなんですかその板は!?」
師匠が近づけてきた板を見て驚愕した。
板の裏。
師匠側のほうになぜか明らかにいたとは思えないものがくっついていた。
というよりも板と一緒になっていた。
木が出すような色でもなく、木の出すような模様もなく。
光沢を出していた。
金属のような光沢…金属光沢を。
って、これ明らかに金属じゃねえか!
「…師匠?オレに板を割らす気無いでしょ?」
「勿論あるわけないよ♪」
最悪だ。なんだこの師匠は。
弟子をいじめてるのか。
オレの拳を砕かせる気か。
「だから、板を割れなかったユウタを慰めてあげるんだよ♪砕けちゃったユウタの拳も心も自分が優しく手取り足取り癒してあげて…♪」
「師匠、オレの心はこんな板一枚で砕けるほど脆くはありません。」
「それじゃあ師匠の心を癒して…♪」
「師匠、何でそこで師匠の心が出るんですか。」
壊れてもないでしょーに。
「それじゃあ単純に師匠を体で癒して…♪」
「師匠、発言がまたおかしくなってます。」
「それならユウタの体で自分をおかしくして…♪」
「師匠、稽古再開しますよ?」
あーの人は何で案なんであったんだろう…。
ふざけが過ぎるというか。
あー、もう、とんでもない女性だったな…。
「…ユウタ、大丈夫なの?」
「あ、うん、平気。」
あまりにも悩んでいたからマリ姉が不審がって声を掛けてきた。
悩みすぎて心配かけるのも悪いな。
だったら話したほうが…いいのか?
ふと目の前のマーメイドを見た。
片方はお淑やかなマーメイドのマリンことマリ姉。
もう片方はエロいメロウのエレーヌ。
…この二人になら話しても大丈夫だろうか?
あのとんでもない性格をしたオレの師匠のことを話しても平気だろうか…。
「どうしたのユウタ。さっきっからひたっちゃったように…それがいわゆる賢者タイムってやつかしら?」
「変なことを言うな。」
お前はあれだな、さっきっからそれだな。
でも、まぁこいつになら離しても平気だろうな。
…ただ、マリ姉のほうは…大丈夫かな…。
ちょっと心配だけど…。
オレは迷いに迷ってそして決めた。
話してみよう。
「あー…えっと…とにかく…話してみるわ。」
腹を括って覚悟も決めた。
少しだけ、あの師匠のことを二人に教えてみよう。
二人を見ればなぜだか残念そうな顔をしていた。
なんていうか…落ち込んでいるというか…。
「そう…ユウタ…女性経験あるのね…。」
「ないと思ってたのに…。」
…何さ、二人して。
いったい何なのさ、その反応は…。
オレに女性経験がないと思ってたのか?
失礼な!ねえよ!
威張れないことなんだけどね!
閑話休題。
マリ姉とエレーヌ、それからオレ自身にコーヒーを用意して。
二人もどうにか落ち着いたところで。
オレは口火を切った。
「まぁ…これを女性経験なんて言えないと思うけど…こんな人がいたってことで聞いてみてよ。」
そうして話し出す。
あのころの、オレと師匠の日々を。
なんともいえないふざけた過去を。
もう会うことなんて出来ない、師匠との思い出を。
それは野外稽古。
師匠の家はかなり大きい。
道場がありながらその庭の大きさもとんでもない。
豪邸の一歩手前というところだろう。
実際師匠の家に合宿したときもそんな印象を受けるような部屋の装飾だったし。
空手の合宿。
…いや…合宿という名目のお泊りだったんだけど。
あれはあれできつかったな…。
師匠が裸エプロンなんてものをしてくるわ、風呂場に侵入してくるわ…。
あまつさえ寝床を一緒にさせられるわ…。
おっと、話がずれた。
思い出したのは野外稽古のことである。
「…師匠。何度も言いますけど…自宅だからってこうも何度も壁を壊してしまうのはどうかと…。」
「平気だよ、ユウタ。」
庭の端。
塀のところで。
オレと師匠は離していた。
目の前にあるのは穴の開いた塀。
ブロック塀に、穴だ。
誰が開けたか?それは勿論師匠。
オレの目の前にいる女性だ。
「…いくら『砕』の練習だからって壁まで壊すのは…。」
「これくらいやらないと練習にならないからね。」
っていうかその技はオレが練習して習得しなきゃいけない技だ。
師匠を止めるために必要な技。
でも…ここまで威力のある技じゃなきゃいけないのだろうか。
これ…絶対に相手死ぬぞ。
師匠は何でこんな技を作れたのだろうか…。
「それに師匠、壁はタダじゃないですよ?」
そこだ。
一番の問題。
こんな風に何度も壁を壊していたら修理代で師匠の持っているお金もそこをついてしまうはずだ。
師匠、仕事らしい仕事をしてないって言うし。
そんな収入源のないはずの師匠は笑って答える。
「平気だって。前にも言ったでしょ?自分の家はそれなりの上流階級だったって。その家から定期的にそれ相応のお金を送ってもらっているんだ。」
勘当、されちゃってる身だけどね。
そう悲しげに付け加えた師匠。
そういえば師匠の実家はかなりすごいらしい。
師匠の親が社長だったりするのかな?
勘当したといってもやはり自分の子は子。
心配でそれくらいならしてくれているようだ。
だからね、と師匠は続ける。
「『自分とユウタの曾孫』くらいまでなら余裕で遊んで暮らせるくらいのお金はあるんだよ♪」
「…え?」
今この人なんて言った?
自分と…オレの……曾孫?
「え、いや、師匠。曾孫以前にオレと師匠の間に子供なんていないでしょ。」
いるわけがない。
オレと師匠はそんな関係でもないしましてやそんな行為さえしてないんだから。
しかし師匠は笑う。
いつものように楽しそうに。
それでいてどことなく妖艶に。
「それなら…作ろっか♪」
「いや、師匠?それはあまりにも急ですって…。」
「大丈夫だよぉ♪全部自分がやってあげるからぁ♪」
「いやいや、師匠?それはいただけないんではないでしょうか?オレはまだ十代ですし就職していませんし。」
「経済面でも生活面でも自分は準備万端だよ?もちろん結婚の準備だってできてるよ♪」
「いやいやいや、師匠?オレまだ結婚できる年齢じゃありませんからね?」
「それでも子供は作れるお歳でしょ?」
「いやいやいやいや!師匠っ!?」
「平気だよ♪自分がユウタを幸せにしてあげるから♪」
「師匠っ!それは男の台詞です!」
「えっ!?それじゃあユウタが自分を幸せにしてくれるのっ!?」
「えっ!!?」
「んふふ〜♪でも、今からちょっとばっかし幸せにならない?」
「えっ!!?何するつもりですか師匠!?ってああ!師匠!空手着に手を掛けないでください!脱がそうとしないで下さいよ師匠!ここは野外ですよ!」
「それじゃあ室内ならいいんだね♪」
「はっ!しまった!」
「それじゃあ自分の部屋にでも…行こうか♪」
「ええっ!?師匠っ!?ちょ、早まらないでくださいよ師匠!!」
なんか…オレの言うこと全て揚げ足取られてたような気がする…。
あの人は本当にとんでもない人だった。
いろんな意味で。
あるときはブロック塀を壊してくれたり、電信柱にひびを入れるような蹴りをかましてくれたり。
またあるときは人前だろうと人目をはばからずにオレに抱きついてきたからなぁ。
学校の文化祭なんて皆の前だというのに抱きついてきたからなぁ…。
あの人、外見は美人だからとんでもなく目立つし。
ただでさえオレのいた世界でも珍しい灰色の髪してたし…。
それなのにオレにベタベタしてきて…。
まったく、こっちの身にもなってもらいたい。
あんな極上な美人相手に男が平気でいられるわけがないっていうのに。
オレなんかよりももっとちゃんとした男を見つけてもらいたいもんだ。
そんなところを話してみると二人して変わった反応を示してくれた。
マリ姉はなぜか固まって。
エレーヌは引きつった顔をしていた。
…どうしたのだろう。
やはり師匠との思い出は他人には少しばかり重かったか…?
「…そこまでしても気づかないなんて…鈍感ね…。」
「え?マリ姉、それどういう意味?」
「鈍いにもほどがあるでしょ…。」
「ん?エレーヌ?」
二人して似たような反応をしちゃって。
いったい何だというんだ。
そういえば。
師匠にもそんなことをよく言われていたな。
「ひどいよっ!ここまでしてるのに何でそっけなくいられるのさ!ここまでしてるんだよ!?大サービスものだよ!?ここまでやって興味をもたれないなんて自分は女としての自信を大いに失っちゃったよ!!責任持ってユウタのお嫁さんにしてっ♪」
最後がなんか変わっていたような…。
どことなく嬉々としていたような気もするんだよな。
まったく、あの人は。
子供のようで大人っぽくて。
妖艶なのに純粋で。
それでいて、乙女なんだよなぁ。
思い出して思わず微笑んでしまうくらいに。
師匠、笑った顔はとんでもなく可愛かったからなぁ。
それでいて凛とした雰囲気があったからなぁ。
そっと瞼をおろして師匠の顔を思い出す。
初めてオレが師匠とあったころ。
「やぁ、黒崎君。さっそく組み手の練習といこうか。人数が揃わないから自分が相手になっていいかな?」
凛とした近寄りがたい雰囲気の師匠。
あの『症状』が出た後、師匠を受け止めると決めたとき。
「君は…本当に馬鹿だよ…。ただ単純で…それで、馬鹿なだけなんだよ…。」
子供のように泣いた弱弱しい師匠。
それから、道場でオレと師匠の二人っきりという現状が続いていた最近のこと。
「んふふ〜♪それじゃあ楽しく関節技でもやろっか。くんずほぐれつ絡み合ってそのまま…♪」
妖艶でそれでいて心のそこから楽しそうに笑っていた師匠。
「…ん?」
それを思い出して違和感に気づく。
あまりにも当たり前すぎて気づかなかった違和感。
ぼやけていてハッキリとしないもの。
「……。」
何だ…これ。
オレは何に違和感を感じた…?
そう思ったそのとき。
―フラッシュバック。
自身の記憶が一気に甦ってくる。
師匠と初めてであった時の光景が。
師匠に褒められた時の光景が。
師匠と組み手をした時の光景が。
師匠に殺されかけたときの光景が。
師匠を抱きしめている光景が。
師匠と笑いあっている光景が。
師匠と―
「―っ!?」
そこで気づいてしまった。
それは気づくべきではなかったのかもしれない。
いや、今まで気づいていたのに目を背けていたのかもしれない。
その違和感はずっと感じていた。
その疑問はずっと抱いていた。
それは―
「…ユウタ?大丈夫?」
そこでマリ姉が声を掛けてきたことにより思考が中断される。
引き戻された意識。
だが、それに気づいてしまったオレの体はわずかに震える。
「急に顔色悪くなったけど…。」
「へ、平気だよ。マリ姉。」
オレは慌てて手を振って何とか誤魔化す。
誤魔化しきれてないだろうが、それでもいい。
それは手元にあったコーヒーをそのままにカウンターを離れる。
「ユウタ?どこかいくの?」
「あ、ああ。ちょっと散歩に。」
「それならあたしも行くわ。」
エレーヌが席を立とうとしたがオレはそれよりも先にエレーヌを制するように言う。
「ちょいとした散歩だよ。」
少し考え事ついでの、散歩。
気晴らしに近いものかもしれない。
「すぐ帰ってくるつもりだから、待っててくれよ。」
「…そう?」
オレの言葉にエレーヌは座り直すだけにしてくれた。
もしかしたらオレの顔を見たからかもしれない。
顔色悪くなっているオレの顔を。
もしかしたら余計な気をつかわせてしまったかもしれない。
オレは申し訳なく思いながら逃げるように二人の前から、このカフェバーから出た。
夜空に明るく輝く満月。
港町から離れた静かな浜辺。
海水が押し寄せ、白く波立つ砂浜をオレは裸足で歩いていた。
静かな夜に響く波の音がオレの頭の中を落ち着ける。
感情を抑えてくれる。
少しばかり冷静になったところでオレは再び考えた。
そうだよ。
なんでオレは今まで気づかなかった!?
よく考えればわかることだったのに…!
オレと師匠の出会いはオレが小学三年生のとき。
昨日のようにハッキリと思い出せる。
そんな小さいころから師匠のもとへと空手を習いに通っていた。
そこで師匠はいつものように笑ってオレを迎えていたんだ。
それからもずっと変わらずに。
師匠の『症状』がでて、他の門下生がいなくなっても変わらずに。
オレを迎えてくれた。
―何一つ変わることない、オレへの微笑みを向けて…。
そう、何一つだ。
師匠は何も変わっていない。
その珍しい灰色の髪。
優しく包み込むような微笑み。
女性にしては少し高い身長。
綺麗でモデルのような体格。
女優やアイドルだって目じゃない綺麗な顔。
そのどれもが変わっていないんだ。
師匠と長い付き合いだからこそわかったこと。
師匠は―
―オレを初めて迎えてくれたあのときから何も変わっちゃいない…!!
成長なんてしていない。
老いてもいない。
小学三年生から高校三年生の約十年間。
毎日通い続けたあの日と同じ。
ずっと、同じ。
十年も経てば人間は嫌でも成長する。
大人になれば必然的に老いてしまう。
老いていることを隠そうとして化粧なんてものを使う方法もあるが…師匠はそんなもん使ってないはずだ。
というか、師匠そこらへん疎いし。
でも…。
もし、そうだとしたら。
師匠が十年経った今でも何一つ変わっていなかったとしたら。
―師匠は…人間じゃない…?
…でも。
十年ぐらい外見だけなら歳をとってるように見えないかもしれない。
歳よりも若く見える事だってあるかもしれない。
―いや、それじゃあ説明がつかない。
あの師匠のことと結びつかない。
なにより師匠の家にお泊りに行った合宿のとき。
師匠の部屋で見てしまった『あれ』。
あれは、あれを見たからわかる。
あの人が、師匠がどれほど―
「―…やめだ。」
考えるのが馬鹿らしくなってきた。
そんな今更師匠が人間じゃなかったことを知ったところでどうなるっていうんだ。
オレのいた世界へ戻る方法さえわからないのに。
それに師匠は師匠。
オレにとっての恩師であることに変わりない。
オレの、大切な人に変わりない。
「…師匠、元気かな…。」
オレは小さく呟いた。
呟いても意味のない言葉を。
足を止め、海のほうを向く。
月が透き通った海面に反射する幻想的な雰囲気。
オレのいた世界ではここまで綺麗な風景を見るのは難しいだろう。
まるで別世界に立っているかのような光景。
…いや、オレは今別世界に来ているんだ。
どうしてきてしまったのかはわからないけど。
まったく違う世界に来ている。
もう皆には会えない。
オレの家族も。
我が麗しき暴君こと双子の姉も。
仲のよかった友達とも。
―そして、師匠とも。
「ねぇ、師匠。」
オレは海に向かって呟く。
誰も聞いていない言葉を。
向けられない相手に向かって。
少しばかり自嘲気味に苦笑して。
「知ってましたか?師匠。オレは…決めてたんですよ。」
答える者は誰もいない。
聞く者も一人もいない。
規則的に打ち付ける波の音しか聞こえない。
「ねぇ、師匠。」
顔を上げて、月を仰ぎ見る。
この月がオレのいた世界の月と同じかはわからない。
だが、もしかしたら。
師匠もオレと同じように月を仰ぎ見ているかもしれない。
そんなあっても意味のない可能性の中で。
オレは一人届くはずのない言葉を紡いでいく。
「決めてたんですよ。オレは―
―高校を卒業したら…貴方の想いを受け止めるって…。」
それはオレの決めていた言葉。
既に遅い、意味もない想い。
オレの、男としての覚悟。
師匠のあの言動がオレへの好意だったとしたら。
それでいて、オレがちゃんとした大人へとなれたのなら。
言おうと思っていた事。
「もう、無駄な覚悟になっちゃいましたけどね…。」
自嘲気味に笑って、ため息をついた。
本当に、どうしようもないな。オレって奴は。
師匠に言われたまま、どうしようもない。
こんな言葉を今更言ってどうなると?
届かない想いを告げて何になると?
そんなの、どうにもならないし何にもならない。
それでも。
ただ、言いたかった。
あの人に届けたかった。
だから―
「―… 。―」
オレは呟いた。
静かな海で誰も聞き取れないような小さな声で。
囁くように。
送る相手のいない言葉を送った。
「…はは。」
乾いた笑いと共にオレは歩き出す。
足音もたたない砂の上をゆっくりと。
さて、帰ろうか。
今は今で待たせてる人がいるんだから。
向こうの世界と決別して。
帰る道を自ら閉ざして。
この世界で生きていくと決めたのだから。
カフェバーへと戻るために動かした足はどことなく重そうに動いていた。
ただ、少しだけ願いが叶うのなら…。
さっきの言葉があの人のものへと届きますように…。
END
11/05/16 20:26更新 / ノワール・B・シュヴァルツ
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