涙とアンタとオレと意地 前編
それに気づいたのはこの洞窟内にオレこと黒崎ゆうたが来て、歩き始めて数十分たったころだった。
それは物音。
耳を澄ませばこの暗い洞窟内にわずかに響く音が聞こえる。
どんな音かはまだよくわからない。
それが声だとわかったのはその一分後。
悲しさを感じさせる声。
すすり泣くようなそんな声だった。
それが男性のものか女性のものかわかったのはその三十秒後。
男性にしては高い、おそらく女性の声。
女性のすすり泣く声が洞窟の奥から聞こえる。
こんな暗い洞窟内でなんで女性が泣くんだよ…?
そんな考えとともにオレは足を速めた。
歩く速度から早歩きへ。
徐々に近くなるすすり泣き。
悲しみに溢れたその声。
いつの間にかオレは駆け出していて地面を強く蹴っていた。
この先。それももうすぐ。
すぐそこから声は響いてくる…!
暗いはずの洞窟の奥から光が見えた。
きっとあそこにいる!
足を最大まで動かして速度を上げ、腕を振り闇の中を駆け抜ける。
そして、走り抜けるようにしてオレはその光の中へと身を投じた。
そこは今までいた暗闇とは違う明るいところだった。
開けた空間。明るい光。
だが物らしいものは何一つない部屋。
ドーム状でありオレの学校の体育館と同じくらいの大きさだろう。
だが、自然にできた洞窟には思えない。あまりにも壁が綺麗だ。
それに燃えている松明まで立てかけてある。
洞窟内というのに明るかったのはそのせいか。
きっとこの部屋は人工的に作られて物だろう。
鉱石でも掘っていたのか…?
この洞窟へ初めて訪れるも何も、急にこんなところへ飛ばされたオレにはこの洞窟を作った理由はわかる分けがなかった。
だが、そんなことはどうでもいい。
部屋の中央より少し奥のところ。
そこに一人の女性が蹲っていた。
こちらに薄い紫…アジサイに似た綺麗な色の髪の毛をした頭を向けてすすり泣いていた。
遠目でみるとなんだか緑色に見える彼女。
静かに涙を流しているのがわかった。
女性が泣いているんだ。
その理由はともかく、男なら目の前の女性を何とかしてあげるべきじゃないか…。
…こんな洞窟内ですすり泣く相手にどう接すればいいのかわからないけど…。
とにかく彼女に近づこうと一歩足を踏み出そうとしたそのときだ。
「来るな!」
女性は言った。
泣きながらも、震えながらも凛としたよく通る声で。
自然と止まる足。
その声を聞いた瞬間に肌から何かを感じた。
ピリピリする…嫌な何か。
空気が痛く感じられそうな…そんな感覚が体を支配する。
この感覚は…あのときの師匠と対峙したときと似ている…。
目の前でとてつもない化物がいるという感覚。
ライオンや豹といった猛獣でも遠く及ばない、嫌な感覚。
体内に液体窒素を流し込まれるような、体温を絶対零度まで無理やり下げられるような嫌な冷たさ。
目の前で命を握られるような、押しつぶされそうな…そんな気持ちにさせられた。
「それ以上、来ないでくれ…。」
さっきとは違う弱弱しい声で彼女は言った。
「来ないでって…。」
泣きながらいったい何を言っているんだこの女性は…。
泣いている人を放っておけるほどオレは冷徹じゃないんだよ。
しかし彼女は言葉を繋ぐ。
同じように弱弱しく。
「こちらへ…来ないでくれ…頼むから…っ。」
なおさら行かずにいられるかよ。
彼女はこちらを見ずに顔を下げたままだ。
オレのほうを見ようとはしない。いや。
自分自身に絶対に見せないように蹲っているように見えた。
オレという存在を知らずにいられるように。
オレという人間を認識しないように…。
…わけがわかんないな。
こんな洞窟内で一人淋しくすすり泣いて。
それで「来ないでくれ」って…なにがしたいんだ?
彼氏に浮気でもされて泣いているのか?
旦那に不倫されて涙しているのか?
はたまた誰か大切な人を失ったとか…?
理由はともかくこんな洞窟内ですすり泣きやがって。
一人になりたいって言うのはよくわかるけどさすがこんな洞窟は危ないだろ。
危ないというのに彼女は泣き続ける。
泣き続けながらオレへ向かって言葉を発する。
「冒険者か…ギルドの者かなんてものは、どうでもいい…頼むから…来ないでくれ。ここには貴様の望むような宝なぞないっ…。」
いや、宝って…。
確かに洞窟内を抜けた先の部屋には宝が置いてあるっていうのはゲームでよくあるけどさ。
冒険者か…ギルド?ファンタジーな響きだなおい。
そんな人達が来るのか?
え?何この世界?
オレはどんな世界に来たんだよ…。
心の中で大きなため息をつきつつも彼女のほうへ視線は向けたまま。
動く様子はないらしい。
さっきっから一ミリもあの場所を動こうとしない。
それどころか指一本、頭さえ動かさない。
「私が欲しいというわけではないのだろう…?だったら早く帰ってくれ…!」
…初対面でとんでもないこと言われたな。
初めて出会った人へ欲しいって言うかよ普通。
彼女は震える声を出し続ける。
「私の命なら…くれてやりたいのに…っ。」
訴えるように、嘆くように出された言葉。
聞いてるだけで悲しくなってきそうだった。
その声も。その言葉も。
「私は…もう…
誰も殺したくはないんだっ!!」
今までで一番大きな声だった。
一番大きく、一番辛そうな発言だった。
体が震えながら言うその様子は弱弱しく、さっき感じたあの押しつぶされそうな嫌な感覚を感じていたのが嘘だと思えるようだ。
嘘だと思えるようだけど…内容がとてもそうじゃなかった。
誰も殺したくはない…?
何を言っているんだ彼女は…。
どこかの殺人鬼だろうか…それともただのイタイ人だろうか…。
冒険者とかギルドとかファンタジーなこと言ってるんだ。きっと後者のほうだろう。
彼女の発言なんて知ったこっちゃないと、オレは足を一歩踏み出した。
一歩。
足音も立てずに踏み出したのだが彼女はそれに反応した。
「来るなぁ!」
そこで初めて顔を上げる。
露になる彼女の顔。
それは涙でぐしゃぐしゃだったがとてもこの世のものとは思えないものがあった。
それは美。
人間なのかと疑いたくもなるような綺麗な顔がそこにはあった。
切れ長のつり目からとめどなく涙を流すその顔はひとつの完成された芸術といっても通るだろう。
涙していることが逆に美しさを引き立てる。
絶世の美女。
まさしくその言葉が当てはまる女性だった。
「…そんなに泣いてるのに何言ってるんだよ。」
オレはかまわず足を進める。
一歩一歩確実に距離を詰めていく。
しかし彼女はオレが近寄るたびに声をあげる。
「来るなといっているだろう!人間!やめろっ!その足を止めろォ!」
泣きながら叫んでオレに止まるように命令する。
そんなことでオレは止まらない。
止められるわけがない。
アンタが泣いているんだ。
それだけでもうオレは止まらない。
何か変な、どこかで嗅いだような臭いがしても。何か彼女の姿が人間らしくないと思えても。
オレは進む。
進むが…その足が不意に止まった。
彼女との距離はもう3歩ほどというところ。
蹲っていた彼女の姿が全部見えるようになって。
異様な匂いがより強く香るところで。
オレは両足を動かすのをやめた。
「っ!?」
全体像が…人のそれではない。
人間にあるはずがないものが存在している。
頭には角。
遠目で見たときには髪飾りの何かだと思ったが大きく当てが外れていたようだ。
ヤギとか牛とか…そんなちんけなものじゃなく大きな角。
さらには鱗。
体のところどころにその一つ一つがエメラルドのように輝く綺麗な鱗を生やしていた。
鋭い爪。
大きく鉄板でも難なく切り裂きそうな獰猛な爪が両手から生えている。
ただ片方は白く強く輝いているのに対して、もう片方は黒く汚れていた。
長い尻尾。
まるで蜥蜴の生やしている尻尾を大きくして取り付けたようなもの。
動く気配は見せないが彼女の腰の部分とくっついている。
そして…翼。
たたまれているが広げればオレ一人優に包み込めそうなほど大きな翼が背中から生えていた。
何だよこれ…何なんだよこの人は…!?
人とは形容できない人物…いや、異形の女性。
人間とは別の生物。
その女性が蹲って泣いていた。
人間じゃない…化物とか…怪物とか形容できそうな…。
それにこの女性の身体的特徴。
よく見れば何かのゲームとかに出てきそうな気もする。
翼に鱗。爪に角。蜥蜴のような尻尾まで。
たとえるなら…そう、ドラゴンだ。
古来の伝説で出てくる竜だ。
それを人の形に押さえ込んだような、彼女はそんな姿だった。
って何観察してるんだ。
確かに姿は人のそれじゃないがそれでも女性だ。
泣いているんだからせめて慰めることぐらいはできる。
余計なお世話かもぢれないけど…彼女をほうっておけないんだらから。
また一歩踏み出そうとしたそのとき。
風がすり抜けた。
一瞬。
オレの頬を撫でるように風が吹いた。
…風?
こんな洞窟内で風なんて吹くわけがないはず。
こんな密室でどこに風が抜けるんだ?
そう思いつつも彼女を見れば。
「!?」
いなかった。
さっきまで蹲っていたその場所に。
一瞬にして消えた。
いったいどこへ…!?
そう思って辺りを見回せば…そこにいた。
オレの後ろに。
オレとは少し離れたところに。
…え?何が起きた?
さっきの一瞬で何が起こった?
何で彼女はオレの後ろに移動してるんだ?
さまざまな疑問が頭を過ぎるがその疑問はひとつの感覚によって全て掻き消えた。
ひとつの感覚。肌より感じる痛覚に。
「っ!?」
ぱたたと垂れた鮮やかな赤い液体。
この無機質な洞窟の地面を赤く染めた。
その出所はオレの右頬。
右頬がパックリと切られていた。
鋭利な刃物を用いたかのように。
短いが真っ直ぐに傷が入っていた。
鋭い痛みが頬から広がる。
だが、痛みよりも先に驚きが広がった。
彼女の姿を見て、体が固まった。
あの鋭利な爪が赤く染まっていた。
この洞窟内の地面を染めた色と同じ色に。
オレの血によって。
「…っは?」
そこからわかるのはさっきの一瞬、彼女はオレの頬を切り裂いたということ。
信じられないけど、あの爪から滴る液体は間違いなくオレの頬から出たもの。
一瞬にして、オレの頬を切り裂いた。
オレはそれに反応できていなかった。
「嫌…なんだ…。」
彼女が言った。
うわごとを言うように、恨めしく呟くように。
「傷つけたくは…ないのに…っ!」
そこで気づいた。
この空間に入ってから臭っていた香りに。
薄くなっているがそれでも相当香る臭いに。
鉄のような…その臭いに…。
まさかこの臭い…血か!
どこかで嗅いだことがあるとは思ったが…そうだ。
この鉄の臭いは紛れもない血の臭い。
その臭いは彼女から、彼女の爪から臭ってきていた。
片方何かが乾いて黒く汚れているあの爪だ。
それじゃ…あの汚れって…まさか!
「嫌…なのに…!」
彼女は言った。
綺麗な顔をぐしゃぐしゃに歪めて。
「止められないんだ…っ!」
それは心の奥底からの叫び。
悲痛な声。
「自分を…抑え…切れない…っ!」
そんな叫びとは逆に膨れ上がってくる何か。
肌身で感じるピリピリとした雰囲気。
それがいったい何なのか…生物的危険察知能力が働き、答えを導き出す。
殺気。
オレという生物を殺そうとする気。
大きく、深く、禍々しく…。
恐ろしい死の予感がオレの体を包んだ。
「うわっ!!」
情けない声を漏らしながらオレは逃げ出そうと足を出す。
やばい!これは本当にやばい!
ここにいたら確実に殺される!
逃げないと!
さっきの一瞬で彼女はオレの後ろへ移動した。
そんな常識はずれな速度を有する彼女から逃げ切れるとは到底思えない。
それでも!
何とかして逃げなければ!
どうにかして離れないと!
大きく踏み出しその場を離れようと走り出そうとしたそのとき。
それは聞こえた。
搾り出すような声が聞こえた。
「…た、すけて…。」
嫌な声だった。
嫌な顔だった。
もう二度と聞きたいとは思いたくもない言葉。
もう二度と見たくないと思う表情。
悲しみに溢れ、孤独に包まれた口で。
涙を流し、嘆き続けたその顔で。
放たれた言葉にオレは逃げ出そうと出した足を止めた。
何逃げようとしてるんだオレは…。
女性が泣いて助けを求めてるのに…見捨てろって言うのかよ…!
覚悟を決めて振り返る。
そこには泣いている顔でオレを見つめる彼女の姿。
見ているだけでこちらの気分を悲しくさせる哀れな格好。
そしてさっきの悲しき言葉。
全てがイヤだ。
その全てがかつて見たことが、聞いたことがあったから。
その悲しそうな顔を、嘆く声を。
オレは知っていた。
だってそれは―
―オレの師匠と同じだから。
精神的な一つの難病。
オレの知っている中で最悪の症候群。
温厚な人が急に刃物を取り、道行く誰かを殺しにかかるという衝動。
他人を傷つけずにはいられないという症状。
それは過剰のストレスが爆発したり、プライドを傷付けられたり、生きるのが嫌になったりと起こる理由は多々ある。
だが、師匠は違う。
一定周期にその症状が現れる師匠にとってその理由は―
―自己嫌悪。
自分自身に埋め込まれたその症状を師匠は呪いと称していた。
師匠はその呪いがかけられている自分をとても嫌っていた。
誰かを傷つけたくはないから。
自分自身が恐ろしくて他人と接することができないから。
自分自身の呪いを恨んだ。
師匠自身を嫌った。
その症状によって誰かを傷つけてしまった。
その事実が更なる自己嫌悪をさせる。
そしてまたその症状が出る。
繰り返しだ。
最悪な負の悪循環。
その症状は本来暴走中の記憶というのはないらしい。
だが、師匠は違う。
意識があるのに体が勝手に動く。
意志があっても体を止められない。
自分が誰かを傷つける感覚を嫌でも意識する。
だからより深く自分を嫌悪した。
だからその症状がより悪化した。
目の前の人間ではない女性もきっと師匠と同じ。
嫌だと叫ぶのに体が勝手に動き出す。
だからこんな人気のない洞窟内で泣いていた。
誰も傷つけたくないから…。
自分が人と接すれば殺してしまうから。
だから一人泣き叫んでいた。
そして…。
「たす…けて…。」
助けを求める。
一人では止められない自分自身を止めてほしいから。
一人で居ることがとても辛いから。
その姿が、その表情が。
全て師匠と同じ…!
…だったら!
オレは学ランを脱ぎ捨て、さっきより動きやすくなったYシャツ姿で足を引き、腰を低くして拳を構える。
彼女の動きに対応できるように。
彼女を止められるように!
オレはその症状を止める方法を知っている。
なぜなら師匠のその症状を止めてきたのがオレだから。
今まで暴走状態の師匠を相手にしてきたのがオレだからから…!
「…っ。」
軽く自己嫌悪。
なんでオレは見ず知らずの女性に、人外の存在のために命張ってるんだろうな…。
見捨てて逃げれば楽なのに。
あの症状がどれほど危険か知っているのに。
本当に馬鹿だな。
『君は…本当に馬鹿だよ。ただ単純で…それで、馬鹿なだけなんだよ…。』
これじゃ…師匠が言ったとおりだ。
師匠に言われた言葉。
本当にそのとおりだな…オレは。
…でも。
ここで逃げれば彼女はずっとこのままだ。
このまま、来る人来る人を殺そうとする。
何も知らずに来る人を容赦なく傷つけ、彼女自身も傷つく。
それを…止められるかもしれない。
オレなら…止められるかもしれない。
だからこそ!
オレは拳を彼女に向けた。
命の危険を感じながら。
死の予感を察知しながら。
恐怖に震える心を抑えながら。
オレは言った。
「来いよ…!!」
黒崎ゆうた VS ドラゴン
第一戦 開始
それは物音。
耳を澄ませばこの暗い洞窟内にわずかに響く音が聞こえる。
どんな音かはまだよくわからない。
それが声だとわかったのはその一分後。
悲しさを感じさせる声。
すすり泣くようなそんな声だった。
それが男性のものか女性のものかわかったのはその三十秒後。
男性にしては高い、おそらく女性の声。
女性のすすり泣く声が洞窟の奥から聞こえる。
こんな暗い洞窟内でなんで女性が泣くんだよ…?
そんな考えとともにオレは足を速めた。
歩く速度から早歩きへ。
徐々に近くなるすすり泣き。
悲しみに溢れたその声。
いつの間にかオレは駆け出していて地面を強く蹴っていた。
この先。それももうすぐ。
すぐそこから声は響いてくる…!
暗いはずの洞窟の奥から光が見えた。
きっとあそこにいる!
足を最大まで動かして速度を上げ、腕を振り闇の中を駆け抜ける。
そして、走り抜けるようにしてオレはその光の中へと身を投じた。
そこは今までいた暗闇とは違う明るいところだった。
開けた空間。明るい光。
だが物らしいものは何一つない部屋。
ドーム状でありオレの学校の体育館と同じくらいの大きさだろう。
だが、自然にできた洞窟には思えない。あまりにも壁が綺麗だ。
それに燃えている松明まで立てかけてある。
洞窟内というのに明るかったのはそのせいか。
きっとこの部屋は人工的に作られて物だろう。
鉱石でも掘っていたのか…?
この洞窟へ初めて訪れるも何も、急にこんなところへ飛ばされたオレにはこの洞窟を作った理由はわかる分けがなかった。
だが、そんなことはどうでもいい。
部屋の中央より少し奥のところ。
そこに一人の女性が蹲っていた。
こちらに薄い紫…アジサイに似た綺麗な色の髪の毛をした頭を向けてすすり泣いていた。
遠目でみるとなんだか緑色に見える彼女。
静かに涙を流しているのがわかった。
女性が泣いているんだ。
その理由はともかく、男なら目の前の女性を何とかしてあげるべきじゃないか…。
…こんな洞窟内ですすり泣く相手にどう接すればいいのかわからないけど…。
とにかく彼女に近づこうと一歩足を踏み出そうとしたそのときだ。
「来るな!」
女性は言った。
泣きながらも、震えながらも凛としたよく通る声で。
自然と止まる足。
その声を聞いた瞬間に肌から何かを感じた。
ピリピリする…嫌な何か。
空気が痛く感じられそうな…そんな感覚が体を支配する。
この感覚は…あのときの師匠と対峙したときと似ている…。
目の前でとてつもない化物がいるという感覚。
ライオンや豹といった猛獣でも遠く及ばない、嫌な感覚。
体内に液体窒素を流し込まれるような、体温を絶対零度まで無理やり下げられるような嫌な冷たさ。
目の前で命を握られるような、押しつぶされそうな…そんな気持ちにさせられた。
「それ以上、来ないでくれ…。」
さっきとは違う弱弱しい声で彼女は言った。
「来ないでって…。」
泣きながらいったい何を言っているんだこの女性は…。
泣いている人を放っておけるほどオレは冷徹じゃないんだよ。
しかし彼女は言葉を繋ぐ。
同じように弱弱しく。
「こちらへ…来ないでくれ…頼むから…っ。」
なおさら行かずにいられるかよ。
彼女はこちらを見ずに顔を下げたままだ。
オレのほうを見ようとはしない。いや。
自分自身に絶対に見せないように蹲っているように見えた。
オレという存在を知らずにいられるように。
オレという人間を認識しないように…。
…わけがわかんないな。
こんな洞窟内で一人淋しくすすり泣いて。
それで「来ないでくれ」って…なにがしたいんだ?
彼氏に浮気でもされて泣いているのか?
旦那に不倫されて涙しているのか?
はたまた誰か大切な人を失ったとか…?
理由はともかくこんな洞窟内ですすり泣きやがって。
一人になりたいって言うのはよくわかるけどさすがこんな洞窟は危ないだろ。
危ないというのに彼女は泣き続ける。
泣き続けながらオレへ向かって言葉を発する。
「冒険者か…ギルドの者かなんてものは、どうでもいい…頼むから…来ないでくれ。ここには貴様の望むような宝なぞないっ…。」
いや、宝って…。
確かに洞窟内を抜けた先の部屋には宝が置いてあるっていうのはゲームでよくあるけどさ。
冒険者か…ギルド?ファンタジーな響きだなおい。
そんな人達が来るのか?
え?何この世界?
オレはどんな世界に来たんだよ…。
心の中で大きなため息をつきつつも彼女のほうへ視線は向けたまま。
動く様子はないらしい。
さっきっから一ミリもあの場所を動こうとしない。
それどころか指一本、頭さえ動かさない。
「私が欲しいというわけではないのだろう…?だったら早く帰ってくれ…!」
…初対面でとんでもないこと言われたな。
初めて出会った人へ欲しいって言うかよ普通。
彼女は震える声を出し続ける。
「私の命なら…くれてやりたいのに…っ。」
訴えるように、嘆くように出された言葉。
聞いてるだけで悲しくなってきそうだった。
その声も。その言葉も。
「私は…もう…
誰も殺したくはないんだっ!!」
今までで一番大きな声だった。
一番大きく、一番辛そうな発言だった。
体が震えながら言うその様子は弱弱しく、さっき感じたあの押しつぶされそうな嫌な感覚を感じていたのが嘘だと思えるようだ。
嘘だと思えるようだけど…内容がとてもそうじゃなかった。
誰も殺したくはない…?
何を言っているんだ彼女は…。
どこかの殺人鬼だろうか…それともただのイタイ人だろうか…。
冒険者とかギルドとかファンタジーなこと言ってるんだ。きっと後者のほうだろう。
彼女の発言なんて知ったこっちゃないと、オレは足を一歩踏み出した。
一歩。
足音も立てずに踏み出したのだが彼女はそれに反応した。
「来るなぁ!」
そこで初めて顔を上げる。
露になる彼女の顔。
それは涙でぐしゃぐしゃだったがとてもこの世のものとは思えないものがあった。
それは美。
人間なのかと疑いたくもなるような綺麗な顔がそこにはあった。
切れ長のつり目からとめどなく涙を流すその顔はひとつの完成された芸術といっても通るだろう。
涙していることが逆に美しさを引き立てる。
絶世の美女。
まさしくその言葉が当てはまる女性だった。
「…そんなに泣いてるのに何言ってるんだよ。」
オレはかまわず足を進める。
一歩一歩確実に距離を詰めていく。
しかし彼女はオレが近寄るたびに声をあげる。
「来るなといっているだろう!人間!やめろっ!その足を止めろォ!」
泣きながら叫んでオレに止まるように命令する。
そんなことでオレは止まらない。
止められるわけがない。
アンタが泣いているんだ。
それだけでもうオレは止まらない。
何か変な、どこかで嗅いだような臭いがしても。何か彼女の姿が人間らしくないと思えても。
オレは進む。
進むが…その足が不意に止まった。
彼女との距離はもう3歩ほどというところ。
蹲っていた彼女の姿が全部見えるようになって。
異様な匂いがより強く香るところで。
オレは両足を動かすのをやめた。
「っ!?」
全体像が…人のそれではない。
人間にあるはずがないものが存在している。
頭には角。
遠目で見たときには髪飾りの何かだと思ったが大きく当てが外れていたようだ。
ヤギとか牛とか…そんなちんけなものじゃなく大きな角。
さらには鱗。
体のところどころにその一つ一つがエメラルドのように輝く綺麗な鱗を生やしていた。
鋭い爪。
大きく鉄板でも難なく切り裂きそうな獰猛な爪が両手から生えている。
ただ片方は白く強く輝いているのに対して、もう片方は黒く汚れていた。
長い尻尾。
まるで蜥蜴の生やしている尻尾を大きくして取り付けたようなもの。
動く気配は見せないが彼女の腰の部分とくっついている。
そして…翼。
たたまれているが広げればオレ一人優に包み込めそうなほど大きな翼が背中から生えていた。
何だよこれ…何なんだよこの人は…!?
人とは形容できない人物…いや、異形の女性。
人間とは別の生物。
その女性が蹲って泣いていた。
人間じゃない…化物とか…怪物とか形容できそうな…。
それにこの女性の身体的特徴。
よく見れば何かのゲームとかに出てきそうな気もする。
翼に鱗。爪に角。蜥蜴のような尻尾まで。
たとえるなら…そう、ドラゴンだ。
古来の伝説で出てくる竜だ。
それを人の形に押さえ込んだような、彼女はそんな姿だった。
って何観察してるんだ。
確かに姿は人のそれじゃないがそれでも女性だ。
泣いているんだからせめて慰めることぐらいはできる。
余計なお世話かもぢれないけど…彼女をほうっておけないんだらから。
また一歩踏み出そうとしたそのとき。
風がすり抜けた。
一瞬。
オレの頬を撫でるように風が吹いた。
…風?
こんな洞窟内で風なんて吹くわけがないはず。
こんな密室でどこに風が抜けるんだ?
そう思いつつも彼女を見れば。
「!?」
いなかった。
さっきまで蹲っていたその場所に。
一瞬にして消えた。
いったいどこへ…!?
そう思って辺りを見回せば…そこにいた。
オレの後ろに。
オレとは少し離れたところに。
…え?何が起きた?
さっきの一瞬で何が起こった?
何で彼女はオレの後ろに移動してるんだ?
さまざまな疑問が頭を過ぎるがその疑問はひとつの感覚によって全て掻き消えた。
ひとつの感覚。肌より感じる痛覚に。
「っ!?」
ぱたたと垂れた鮮やかな赤い液体。
この無機質な洞窟の地面を赤く染めた。
その出所はオレの右頬。
右頬がパックリと切られていた。
鋭利な刃物を用いたかのように。
短いが真っ直ぐに傷が入っていた。
鋭い痛みが頬から広がる。
だが、痛みよりも先に驚きが広がった。
彼女の姿を見て、体が固まった。
あの鋭利な爪が赤く染まっていた。
この洞窟内の地面を染めた色と同じ色に。
オレの血によって。
「…っは?」
そこからわかるのはさっきの一瞬、彼女はオレの頬を切り裂いたということ。
信じられないけど、あの爪から滴る液体は間違いなくオレの頬から出たもの。
一瞬にして、オレの頬を切り裂いた。
オレはそれに反応できていなかった。
「嫌…なんだ…。」
彼女が言った。
うわごとを言うように、恨めしく呟くように。
「傷つけたくは…ないのに…っ!」
そこで気づいた。
この空間に入ってから臭っていた香りに。
薄くなっているがそれでも相当香る臭いに。
鉄のような…その臭いに…。
まさかこの臭い…血か!
どこかで嗅いだことがあるとは思ったが…そうだ。
この鉄の臭いは紛れもない血の臭い。
その臭いは彼女から、彼女の爪から臭ってきていた。
片方何かが乾いて黒く汚れているあの爪だ。
それじゃ…あの汚れって…まさか!
「嫌…なのに…!」
彼女は言った。
綺麗な顔をぐしゃぐしゃに歪めて。
「止められないんだ…っ!」
それは心の奥底からの叫び。
悲痛な声。
「自分を…抑え…切れない…っ!」
そんな叫びとは逆に膨れ上がってくる何か。
肌身で感じるピリピリとした雰囲気。
それがいったい何なのか…生物的危険察知能力が働き、答えを導き出す。
殺気。
オレという生物を殺そうとする気。
大きく、深く、禍々しく…。
恐ろしい死の予感がオレの体を包んだ。
「うわっ!!」
情けない声を漏らしながらオレは逃げ出そうと足を出す。
やばい!これは本当にやばい!
ここにいたら確実に殺される!
逃げないと!
さっきの一瞬で彼女はオレの後ろへ移動した。
そんな常識はずれな速度を有する彼女から逃げ切れるとは到底思えない。
それでも!
何とかして逃げなければ!
どうにかして離れないと!
大きく踏み出しその場を離れようと走り出そうとしたそのとき。
それは聞こえた。
搾り出すような声が聞こえた。
「…た、すけて…。」
嫌な声だった。
嫌な顔だった。
もう二度と聞きたいとは思いたくもない言葉。
もう二度と見たくないと思う表情。
悲しみに溢れ、孤独に包まれた口で。
涙を流し、嘆き続けたその顔で。
放たれた言葉にオレは逃げ出そうと出した足を止めた。
何逃げようとしてるんだオレは…。
女性が泣いて助けを求めてるのに…見捨てろって言うのかよ…!
覚悟を決めて振り返る。
そこには泣いている顔でオレを見つめる彼女の姿。
見ているだけでこちらの気分を悲しくさせる哀れな格好。
そしてさっきの悲しき言葉。
全てがイヤだ。
その全てがかつて見たことが、聞いたことがあったから。
その悲しそうな顔を、嘆く声を。
オレは知っていた。
だってそれは―
―オレの師匠と同じだから。
精神的な一つの難病。
オレの知っている中で最悪の症候群。
温厚な人が急に刃物を取り、道行く誰かを殺しにかかるという衝動。
他人を傷つけずにはいられないという症状。
それは過剰のストレスが爆発したり、プライドを傷付けられたり、生きるのが嫌になったりと起こる理由は多々ある。
だが、師匠は違う。
一定周期にその症状が現れる師匠にとってその理由は―
―自己嫌悪。
自分自身に埋め込まれたその症状を師匠は呪いと称していた。
師匠はその呪いがかけられている自分をとても嫌っていた。
誰かを傷つけたくはないから。
自分自身が恐ろしくて他人と接することができないから。
自分自身の呪いを恨んだ。
師匠自身を嫌った。
その症状によって誰かを傷つけてしまった。
その事実が更なる自己嫌悪をさせる。
そしてまたその症状が出る。
繰り返しだ。
最悪な負の悪循環。
その症状は本来暴走中の記憶というのはないらしい。
だが、師匠は違う。
意識があるのに体が勝手に動く。
意志があっても体を止められない。
自分が誰かを傷つける感覚を嫌でも意識する。
だからより深く自分を嫌悪した。
だからその症状がより悪化した。
目の前の人間ではない女性もきっと師匠と同じ。
嫌だと叫ぶのに体が勝手に動き出す。
だからこんな人気のない洞窟内で泣いていた。
誰も傷つけたくないから…。
自分が人と接すれば殺してしまうから。
だから一人泣き叫んでいた。
そして…。
「たす…けて…。」
助けを求める。
一人では止められない自分自身を止めてほしいから。
一人で居ることがとても辛いから。
その姿が、その表情が。
全て師匠と同じ…!
…だったら!
オレは学ランを脱ぎ捨て、さっきより動きやすくなったYシャツ姿で足を引き、腰を低くして拳を構える。
彼女の動きに対応できるように。
彼女を止められるように!
オレはその症状を止める方法を知っている。
なぜなら師匠のその症状を止めてきたのがオレだから。
今まで暴走状態の師匠を相手にしてきたのがオレだからから…!
「…っ。」
軽く自己嫌悪。
なんでオレは見ず知らずの女性に、人外の存在のために命張ってるんだろうな…。
見捨てて逃げれば楽なのに。
あの症状がどれほど危険か知っているのに。
本当に馬鹿だな。
『君は…本当に馬鹿だよ。ただ単純で…それで、馬鹿なだけなんだよ…。』
これじゃ…師匠が言ったとおりだ。
師匠に言われた言葉。
本当にそのとおりだな…オレは。
…でも。
ここで逃げれば彼女はずっとこのままだ。
このまま、来る人来る人を殺そうとする。
何も知らずに来る人を容赦なく傷つけ、彼女自身も傷つく。
それを…止められるかもしれない。
オレなら…止められるかもしれない。
だからこそ!
オレは拳を彼女に向けた。
命の危険を感じながら。
死の予感を察知しながら。
恐怖に震える心を抑えながら。
オレは言った。
「来いよ…!!」
黒崎ゆうた VS ドラゴン
第一戦 開始
11/03/13 21:01更新 / ノワール・B・シュヴァルツ
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