連載小説
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おはようございます、御主人様
冷たい朝の空気を吸いこみ私は気持ちを落ち着ける。耳を澄ませば聞こえるのは極力音をたてまいとせわしなく働き始める女中や従者達。私もまたその内の一人である。
ただし、私の場合は王族に仕え、王宮で仕事をする彼等とは違う。
忠誠を誓ったのは国ではない。心を捧げたのは王ではない。



―私が仕えるのはたった一人の男性だけ。



仕えるべき主人の元へと足を進める。時間はまだまだ早朝だ。普通の人ならまだ活動時間どころか起床時間にすらなっていない。この時間帯に行動を起こすのは私たちや早朝から仕事のある者ぐらいだろう。
木造であり清潔感のある、高級感を醸し出す一枚のドアの前に私は立つ。一度息を吐き出して服が乱れてないかをチェックし、胸元に着けた十字架を整える。中央にはめ込まれているのは私の仕える主と同じ色の宝石であり、指先で表面をなぞると控えめにノックする。

「…」

耳をすませるも返事はない。それが普通だ。
皆まだベッドの中で睡眠の最中。それならば返答はないのが当然のこと。今の内に今日着る服の用意や目覚めの紅茶やコーヒーなどの用意をする。本来ならば厨房で朝食を運んできてもいいのだがそんなことをしていたら彼は自分で全てを済ませてしまうだろう。

「…失礼します」

その一言と共に私はドアを開けて部屋の中へと入っていった。





朝日の差し込む大きな窓。一人で使うには十分すぎる広さを有する空間。足裏に感じる柔らかな絨毯に豪勢な家具が見栄えよく配置されている。しかしそれが部屋の主の趣味ではないことを私は知っている。
寝室へと足を向ける。そこにいるであろう御主人様を確認するためだ。
同じデザインのドアを開け、足音を立てないように彼の元に近づいていく。シーツの膨らみが確認できる距離に踏み込もうとしたそのとき―

「―おはよ」

柔らかな声色が背後からかけられた。優しい挨拶に内心落胆しながら私は抑えて振り返る。

「…おはようございます、御主人様」
「御主人様はやめてって」

頭を下げる私を前に彼は苦笑する。頭を上げるように言われ私は彼の姿を見た。
差し込む朝日を吸い込むような黒い色の髪の毛。影を縫い合わせたような服に星のように煌めく黄金のボタン。そして闇夜を押し固めたような漆黒の瞳。私と初めて出会ったときと同じ姿。



―今の私の御主人様である黒崎ユウタ様。



「いっつも言ってるじゃん。オレはあのときそう呼ばれたいから助けたわけじゃないって」
「…ですが私にとって今仕えるべき御主人様は貴方様しかおりません」
「エミリーさんを助けたのは仕えてほしいからじゃないんだよ」
「…メイド相手に『さん』を付けるべきではありません。それに、私に存在意義を説いたのはユウタ様です」
「それはまぁ、そうだけどさ」

私と出会ったときと同じ姿をしているということは既に着替え終えたということ。身なりは整っているし洗顔や他も既に終わらせていることだろう。あまりの行動時間の早さと手際の良さに頭が痛くなる。
御主人様の世話をすることこそメイドの仕事。それは雑用や家事だけではなく体調管理や金銭管理と言ったことも含まれる。御主人様に心地よい朝を提供する。それもまた、メイドの大切な仕事だ。

「…ユウタ様」

よって私は進言しなければならない。
メイドとは時に、御主人様の過ちをただすこともまた一つの仕事であるのだから。

「…僭越ながら申し上げますがユウタ様。私が来る前に起きるのはお止め下さい」
「ん?何で?」
「…メイドの一日の始まりは御主人様を起こすことから始まります。もちろんその前に料理や服の準備はさせていただきますがそれでもメイドの始まりはあくまで御主人様のお目覚めで始まるのです。御主人様であるユウタ様が快適な朝を迎えられるようにすることが私のメイドとしての始まりなのです」
「あ、そう、なんだ…」
「…ええ、そうです。なので、私が来るまでは睡眠をご堪能下さい」
「って言ってもね。寝顔を見られるのはあまり好きじゃないし、寝起きってオレ機嫌すごく悪いよ」
「…だからこそ私が快適に目を覚ませるように尽力させていただくのです」
「いや、でもさ。異性なわけだし、何かと大変なところもあるから」
「…ナニかと、ですか」
「うん?何でそこに反応したの?」

怪訝そうに片眉を吊り上げたユウタ様。対して私は滴りかけた涎を啜る。

「まぁ、ともかくさ。自分でやれるべきことはやるべきだよ。オレは何も出来ない子供じゃないんだから」
「…ですがこれでは私がいる意味がありません。どれほど細かなことであってもそれをサポートするのがメイド。心地よい目覚めから満足いく睡眠までを支えるのがメイドの義務です」
「それは、まぁ別のことをやってくれればいいからさ。それで、その…」

気まずそうに視線を泳がせユウタ様はある方向を見る。部屋の向こう、その先にあるのはこの部屋に備わったキッチンのある場所だ。

「朝ご飯…作っちゃった…」
「…またですか?」

今度こそ私はため息をつかずにはいられなかった。

「…ユウタ様。いつもいつも申し上げているではありませんか。お食事は全て私がお運びします。掃除も、洗濯も、買い物も、勿論朝昼晩の料理も全てが私の仕事なのですから」
「そうはいってもね、今までメイドなんていなかったからどう接していいのかわからないんだよ。メイド喫茶にだって行ったことないし」
「…メイド…喫茶?」
「こっちの話」

どこかそっけなく話を終わらせるユウタ様。視線も私とあわせず泳いでいる。嘘か、疚しいことか、いったい何を隠しているのかはわからない。
隠しているのなら無理に詮索する必要はない。メイドは御主人様のことを理解しなければいけないが詮索をして傷つけようもならメイド失格だ。
だから私は彼の命令を従順にこなす。ただし、当然ながら言われたことだけではない。一言われるのなら百を察して千をこなす。それがメイドというものだ。

「…メイドなのですから何でも仰ってください。命令されれば何でもいたします」
「何でもって言われてもね、こういうことわからないんだよ」
「…裸踊りをしろと言われれば喜んでさせて頂きます」
「え?」
「…冗談です。『メイド・冗談』です」
「……なにそれ」
「…御主人様の肩の力を抜かせるのもメイドの勤めですので」
「あ、そうなんだ。とにかくさ、こっち来てよ」

そう言ってユウタ様は私を連れてテーブルのあるリビングへと足を進める。そこで椅子を引いて私を招いた。
紳士的な振る舞いは女性に対してすべき当然の行いだろう。だが、メイド相手にすべきものではない。それどころか本来ならば私が椅子を引いて彼を座らせるべきだ。
だが、ここで拒絶したところでは話が進まない。今までの何度も経験したことである。ユウタ様は人の話を聞かないというよりも聞いても自分のことを曲げない性格だ。よく言えばひたむきだがこれでは頑固と変わりない。



―…だからこそ仕える意味があるといえるのだけど。



「さ、食べよっか」

既に運ばれた料理を前に、まるで親しい友達を相手にするようにユウタ様は笑みを浮かべてそう言った。
その言葉は優しくて―困ってしまう。
その扱いが心地良くて―戸惑ってしまう。
既に席を共にしているが私は言わなければならない。ユウタ様に仕える者として、一人のメイドとして。

「…ユウタ様。私はメイドです」
「わかってるよ」
「…メイドが自分の仕える御主人様と席を共にすることなど無礼にもほどがあります。私のことはいいのでどうぞ食事を召し上がりください」
「そうはいってもね二人分も作ったから一人で食べるには寂しいんだよ」

扱いはメイドに対するものではない。優しく気遣い、暖かな言葉をかける様は一人の女性と同じだ。
だからこそ心惹かれるものがある。
今まで仕えてきた御主人様は一人であり、命令を聞く相手は奥方様を含めて二人だけだった。二人とも優しくはしてくれたが私への扱いはメイドのものだった。
それで当然。それが普通。そして常識。
私は身も心もメイドであるのだからその扱いこそ日常であり、人生であった。

「…しかしメイドが御主人様と食事を同席するのは無礼なことです」
「メイドなんて堅苦しいこと言わないでよ。せっかく二人分作ったんだしさ」
「…ですが、本来なら私が朝食を用意すべきでした。それなのにユウタ様のお手を煩わせてしまって…地面に頭を擦り付けて謝罪すべきことだというのに」
「やめてってば。こっちがやりたいからやったのに謝れちゃどうすりゃいいのか困るんだよ」

ユウタ様にとって私は一人の女性。

しかし

私にとってユウタ様は一人だけの御主人様。

だから互いに譲れぬものがある。
だからといってこのままでは何も進まない。

「こっちの顔を立てるってことでつきあってくれるかな」

だからこそ―いつも私が折れることとなってしまう。

「…そこまで仰るのではメイドとして応じぬわけにはいきません。不束者ですがお願いします」
「朝食一つで畏まり過ぎじゃないかな」
「…これでも礼を欠いている方です」
「別にそんなことオレは気にしないよ」
「…メイドにも通すべき作法というものがあります。『メイド・作法』です」

扱いは一人の女性に対するもの。
振る舞いは親しくとも紳士的。
決して悪いものではない。むしろ良いと言えるほど。


だが、私はメイドであってメイドでしかない。


だからこそ、その対応を素直に受け入れるのは難しかった。

「頂きます」

料理に手を付けたユウタ様を見て改めて出されたものを見る。
ふっくらとしたプレーンオムレツにたっぷりのチーズに包れたピザトースト。彩りを添える色豊かなサラダに食欲を刺激する香り漂うオニオンスープ。
至って簡単に作れる軽い朝食だ。だがしっかりと栄養のとれる献立である。それだけではなく栄養の過剰接種を防ぐために用いる油や材料を気にかけていることがわかる。
男性の目線から見たらもっと量が必要になるだろう。ユウタ様は私よりも年下とは言え活発に運動する男性だ。さらにはこのディユシエロ王国の王女の護衛を勤めているのだから私と比べると運動量も全く違う。
それでもこの軽めの料理をつくるということはつまり、私の為に作ってくれたとしか考えられない。

ああ、まったくと頭を抱えたくなる。

尽くすべき相手に気を遣われるなどメイドとしてあってはならない。さらには栄養バランスをメイド相手のために変え、自分のことを軽視するなどもってのほか。御主人様のことを第一に考えるどころか自分のことをないがしろにして尽くされるなどメイドとして失格だ。


―だけどもそんな気遣いに悦びを得てしまう程度には私も女性であった。


柔らかなオムレツは抵抗なくスプーンで掬え、口へと運ぶ。

「…っ」

ふわふわの感触とわずかに混ぜられた塩と胡椒の風味。それからほのかに香る甘みは…蜂蜜だろう。ごく少量で気づきもしない、だけども確かに味を引き立てる隠し味はメイド故気づけたものだ。
またこの食感を出すには火の扱いが難しいことを私は知っている。火にかける時間、熱の量、その強さを十分理解し、経験しなければまずできないだろう。
ついでに言うと、かなり私好みの味でもある

「…とても美味しいです」
「そっか。口にあってよかったよ」

私の言葉に心底嬉しそうに笑みを浮かべたユウタ様は止めていた手を動かし始める。年下とはいえやはり男性、食べるペースは私よりも早い。
そうして食事を終えた私の前ではユウタ様が頬杖を突きながら私を見つめていた。





「お粗末様」

流石に食器の片づけまでを主であるユウタ様にやらせるわけにはいかない。私はすぐさまユウタ様の手が伸びる前に食器を全て取り上げた。

「あ、いいって」
「…いけません、ユウタ様。御主人様であるのにメイドに任せないとはどれほど私を泣かせたいのですか?」
「いや、そういうわけじゃないけど」
「…ユウタ様は私が泣いた姿を見たいのですか?それならば喜んで私は泣きますが」
「そういうわけじゃないけど!」

ユウタ様は唸りながら黒髪をかきむしる。

「人に仕えられるのなんて経験ないって言ったでしょ。だからこういうのむず痒くてたまらないんだよ」
「…ですがそれがメイドを侍らせる御主人様と言うものです。メイドの行いに片眉すら動かさず平然とふんぞり返っているものですよ」
「それ無理だなぁ…」

困ったように頬を掻きながらユウタ様はそう言った。
だが困っていてもメイドは進言しなければならない場合もある。御主人様のあるべき姿を否定するのではないが、時には過ちを正すのがメイドだ。

「…あの時、仰ったようにユウタ様は御主人様としての責任を持った態度をすべきです。責任は、取るべきです」
「あの、下腹部抑えながら何で言い直した?」
「…メイドとして拾ってきたのですから最後まで御主人様らしく面倒を見るべきです」
「捨て犬みたいに言うもんじゃないよ」
「…ある意味メイドは犬ですよ。どのような命令でも嬉々として従い、主人の言葉に尻尾を振る従順な犬です」
「んじゃ…鳴いてみてって言われたら?」
「わん」
「…」
「わん」
「…」
「きゃぅんっあぉんっ」
「た、躊躇わないんだ…」
「…当然です。これこそがメイドとしてのあるべき姿。主人の言葉に従順に従う姿こそ私たちのあるべき姿。これぞ『メイド・姿勢』です」
「語呂悪くない?」

そんなことをしながらも食器を片づけ終えた後私はユウタ様に食後の紅茶を出していた。王宮内でも滅多に見られない王族御用達の茶葉だ。淹れただけでもほんのり甘く爽やかな香りを漂わせている。
彼は一口付けると満足そうに小さく息を吐く。その様子を見て私は気づかれないように胸を撫で下ろした。

いくら完璧を目指しても完全に理解できる相手などいない。ユウタ様に至っては私の常識を越えるお方故その価値観がわからない。
御主人様に全てを注ぎ、全てを捧げるメイドにとって好み以外のものを出すことは当然無礼に当たる。メイドとはいかにそれを悟り、実行するかが腕の見せ所である。
甘いのが好きなのか、苦いのが好きなのか。
渋いのは苦手か、はたまた辛いのが好きなのか。
人によって千差万別、その中でたった一人御主人様の好みを把握することはメイドの基礎であり、真髄だ。



―だが、実のところ私もまだまだメイドとして完璧ではない。



ユウタ様がメイドを必要としないのでは私が仕える意味がない。
彼に仕えていながら苦労をかけていてはメイドが存在する必要がない。
御主人様に仕えることこそがメイドの存在意義。
ユウタ様に尽くすことが私の生きる意味。
メイドが必要とされてこそ、一人前。


―私が求められてこそ、本当のメイドなのだから。



カップを置いて、隣に佇む私を見据えるとユウタ様は口を開いた。

「エミリーを見てるとよく思うんだけどさ。メイドさんって…ただのお手伝いさんじゃないの?」
「…いえ。有能なのはメイドではありません。当然無能など論外です」
「えっと、それじゃなんなの?」
「…メイドとは万能であるものです」

ユウタ様のお言葉に私は胸を張って答える。

「ご主人様の命令に全力で応じ、不満一つないように行動する。御主人様の言葉を一とすれば十を行うのではなく、百を済ませて千の事態に備えておく。それがメイドです」
「オレの思ってるメイドとなんか違うなぁ。王宮で見かける他のメイドさんはそこまでやってないと思うんだけど?」
「…それは彼女たちが真のメイドではないからです」
「真のメイドって…」
「…至って真面目なことですよ」

呆れたような困ったような、それでもやはり柔らかい表情を浮かべるユウタ様。常識はずれでありながら一般的な価値観も持ち合わせる彼からしてみればそうなってしまうのも仕方ないだろう。
メイドにはメイドにしかわからない覚悟がある。傍から見れば下らない事だとしても私にとって命がけのこともありうるのだ。

「…メイドというのは本来そういったもの。命をとして御主人様に従う者。御主人様の為に働くもの。彼女たちはただ王宮に仕え給金のために働いているだけなのです」
「なら、エミリーは?」
「…私はメイドです。メイドとしての誇りを持ってメイドとして生きているのです。『メイド・矜持』を胸に抱く一人のメイドなのです」
「語呂悪ーい」

そのようなことを言いながらも笑みを浮かべるユウタ様。そうして彼は窓辺へ視線を向け、日差しの差し込む位置を確認すると椅子から立ち上がった。

「そろそろ時間かな」

ユウタ様の言葉に私は静かに、それでも急ぎながら一着の服を取ってくる。彼が普段着ている服に似た黒を基準とした服は背中に特徴的な十字架が描かれていた。
それはこのディユシエロ王国の王女の紋章。私が胸に付けた十字架が王宮内で従者を表すように、彼女に仕えることを許された者のみ背負える証だ。
私はその上着を広げ、ユウタ様は腕を伸ばして袖を通していく。

「ありがと」
「…いえ」

この程度当たり前のこと。お礼を言われるようなことではない。普通の御主人様なら当然だというのにこんな些細なことすら感謝してくれる。律儀というか、細かな人というか、几帳面なお方だ。
正面に立って襟を直し皺を伸ばす。仕える御主人様にみっともない恰好をさせるわけにはいかない。王女の御前とあらばなおさらだ。

「んじゃ、いってきます」
「…行ってらっしゃいませ、ユウタ様」

私は頭を下げ彼を見送るのだった。















「…」

気付けばこうして頭を下げるのも何度目になるだろう。ここへ連れられてきて早半年。仕えるようになって既に幾日も過ぎ去っていた。
ディユシエロ王国。それは魔物を敵対視し神を崇める一つの国家。一人で軍隊程の力を持つ四人の勇者、間を退ける力を持った王族が治める王国は私も風の噂で聞いたことがあった。
連れられ、驚かされたのはユウタ様が王女専属の付き人だったということ。身なりがよかったとは言えそこまで予想できるはずがなかった。
そして私は忠誠を誓いこの王国で働いている。最も頭を下げたのは王女ではなくユウタ様だが。

「…仕事を始めますか」

懐かしい想いを振り切り次の仕事へと移っていく。
メイドである私がすべきことはユウタ様が仕事中にできないことが主な仕事だ。部屋の掃除や洗濯は当たり前、ユウタ様が料理する食材の補充や装飾品の手入れ、淹れる茶葉の選定や状態確認、夕食の献立や部屋に振り撒く香水などすべきことはいくらでもある。
それを毎日こなす。それがメイドである私の仕事であり日常だ。



だが、そんな私にも趣味嗜好というものは存在する。



あれが好き。
これがしたい。
ああしたいだのこうしたいだのという考えはメイドであろうが存在する。
そもそも仕事を万全にこなすためには自身の生活もまた充実させるもの。万能であるメイドなら御主人様に尽くしながらも自身を満たすことを欠かさないものだ。

「…さて」

私はリビングではなく脱衣所へと足を進める。清潔な白とわずかだが高級感あふれる装飾のされた空間であるものに目を付けた。それは洗濯籠に入っている衣類一式。普段ユウタ様が着込んだ制服と寝巻、それから下着が入っている。
その中に手を突っ込んであるものを握ると引っ張り出す。髑髏というユウタ様の性格からはあまり似合わない柄のそれは―下着だった。

「……ふへ」

思わず顔がにやけて唇の端から唾液が垂れてしまう。だがそれを咎める者はいないし、こんなだらしない姿を見られて困る相手もいない。
私はユウタ様の下着を握りしめると思い切り顔を押し付けた。そして、一呼吸。

「……ぁあっ」

くらりとくる汗の混じった主の匂い。女性にはないつんとした、だけども決して嫌ではない癖になる香り。
昨晩脱いだゆえに体温はもう残ってないのが残念だがそれでも肺一杯を埋め尽くす残り香に私は熱いため息を漏らした。



別に匂いが好きなわけではない。匂い含めて好きなのだ。



死にかけた私に生きる意味を与えてくれた彼が。

メイドとして消えようとした私に手を伸ばしてくれた彼が。

死の淵に落ちかけた私を引き上げてくれた彼が。



私はユウタ様が好きなのだ。



だからと言ってその想いを真っ直ぐ伝えることなどできるはずがない。
私はメイド。御主人様に仕え、御主人様の意向に沿って時には体を張って守る者。そんな従者が想いを告げるなど片腹痛い。逆なら喜んで受け入れるのだが…。
つまるところそんな恋慕を抱いたところで叶わないのは承知の上。ならばとユウタ様の知らぬところで迷惑を掛けない程度にやりたい放題やっていた。


いつの間にか洗濯籠に突っ込んでいた顔を引きぬいて選別に取り掛かる。
ユウタ様が帰るころには全てが終わり万全な状態で迎えられるようにする。それがメイドの務めである。
さりげなくポケットに突っ込んだ下着も帰るまでには綺麗な状態で仕舞っておく。これがメイドの腕の見せ所である。


まずは洗濯。続いて部屋の掃除。頭の中で仕事の順序を組み立てながら洗い終わった洗濯物を籠に入れて運ぶ。どれもこれも毎日こなしているせいで仕事の量は少なく楽な物。だからと言って気を抜けるはずもない。
いつでもきれいに。
どんなときでも美しく。
御主人様が心地よく体を休める日常を提供する。そのためには炊事洗濯掃除雑用全てメイドにとっての基本であり極意である。

「…さて」

次の仕事へと移ろうとベランダから戻る。するとリビングの真ん中に見覚えのない女性が悠然と佇んでいた。

「―…?」

その女性は誰よりも気高く凛とした王女様や清廉で汚れのない聖女様とはまた違う、見たことのない妖しげな美しさを備えていた。
ひらりと舞う白い髪の毛。合間からは禍々しさを漂わせる二本の角。広い空間を隠すように広げられたのは人間には存在しない翼。それからしなるのは悪魔のような尻尾。
その姿は以前の御主人様の書斎で目にした図鑑の一節を思い出させる。


『リリム』


魔の王の娘であり、教団の人間にとって最大の脅威。一つの国すら容易く陥落させる異形の存在で魔物の頂点。

「あら?」

首を傾げ白髪が日の光に輝く。赤い瞳であたりを見渡すと露出の多い艶めかしい肌に目を奪われる。
それはまるで作られた芸術のように完成している。さらに続いたのは優しくありながらも人の心を惑わせる魔性の声だった。

「ユウタに会いに来たんだけど…いないのかしら?」

柔らかい微笑みを顔に浮かべ紡がれると心が容易く揺らいでしまう。そう思えるほど彼女の笑みと声色は、絶大な魅力を備えていた。
だが、その程度で揺らぐほど私の忠誠心は薄いものではない。他者に誘惑されるほど弱いものでもない。私は普段と変わらぬ声色で彼女に応じる。

「…御主人様のお知り合いですか?」
「え、あ。誰、かしら?それに御主人様?」

その言葉に彼女はこちらに気付いて首を傾げた。白い長髪を揺らしながら背中の翼がぱたりと閉じる。
異形な姿。人にはない悪魔の証だがどうして嫌悪感を抱けないのか。むしろ自ら応じて体を明け渡し跪きたくなるほど美しい。

「…失礼しました。黒崎ユウタ様のお知り合いですか?」
「そうだけど、御主人様って?」

不思議そうな表情を浮かべる彼女の前で私はスカートの裾を持ち上げ頭を下げた。
悪魔であろうとリリムであろうとユウタ様のお知り合いならば話は別だ。

「…我が主、黒崎ユウタ様に仕えるメイド、エミリー・ドメスティカと申します。以後お見知り置きを」
「エミリー、ね。私はフィオナっていうの。見ての通りリリムだけど…あまり驚いた様子じゃないのね」
「…メイドですので」
「メイド、メイド、ね。まさかユウタにもメイドがいたなんて私の方が驚いちゃったわ」

浮かべていた表情に声色。ここまでの応対で彼女とユウタ様の関係を察するにそれなりに親しいご友人という間柄だろう。
ただ、友人とするにはあまりにも常識から外れている。こんな魔物を嫌う王国で敵対すべき、それも頂点に近い存在のリリムといったいどうやって知り合ったのだろう。
だが疑問に思っても言葉にはしない。抱いた感情は押し込め冷静に彼女へ応えるまでだ。

「…ユウタ様なら只今仕事の最中です」
「お仕事?あー、レジーナの護衛ね。まったくもぅ」

なぜか不満そうにため息をつくフィオナ様。突然零れた王女の名前と不満げな表情。どうやらこの王国の王女と多少なりともお知り合いらしい。

「それならレジーナのところにでも…行ったら切りつけられちゃうわね」

血のように真っ赤な瞳が部屋を見回す。家具を見て、窓を映し、ドアに移って

―私を捕らえた。

艶やかな唇が弧を描く。柔らかな視線の中に筆舌しがたい感情を忍ばせながら。

「ねぇ、エミリー。せっかくだから貴方とお話してもいいかしら?」
「…私ですか?しかしユウタ様が戻られるのは夕方頃になるかと思われます」
「時間つぶしの為じゃないわ。ただ貴方とお話ししたいのよ」

誘いを断ることは失礼だろう。仮にもユウタ様のご友人というお方だ、無碍にしてユウタ様の顔に泥を塗るようなことはできない。

「…かしこまりました。それではこちらへどうぞ」

私は一礼してフィオナ様を案内するのだった。








普段ユウタ様が座っている位置にフィオナ様が座っている。その前に先ほど淹れてきた紅茶を出すと彼女は微笑んでありがとうと言った。

「貴方も座りなさい」
「…いえ、私はメイドですので」
「誘っているのよ?そこは応じるべきだわ」
「…では、失礼します」

フィオナ様の言葉に私は彼女の向かいの椅子に座る。それを見て彼女は満足そうにうなずき小さく笑った。

「…?どうかなさいましたか?」
「いえ、私を見ても驚くどころか剣も持たないなんて珍しい人だと思ってね。ほら、ここって反魔物の国じゃない。ユウタ以外にそういう人見かけなかったから」
「…ユウタ様のお知り合いと名乗る方にどうして刃を向けることができましょうか。御友人というのなら人間であろうと魔物であろうと礼節を持ち御主人様の名に傷をつけぬ行いをする。それがメイドです。『メイド・作法』です」

ただし、と私はスカートの下に、太股に括り付けていた銀色の刃を取り出して見せつけた。鋭い先端は何かに濡れたような独特の照りをしている。

「御主人様であるユウタ様を傷つけるようならば容赦はしませんが」

刃の先端に塗られているのは暗殺でも用いられる毒だ。一度傷口に入り込めば解毒はほぼ不可能なほど強力。人間よりはるかに強い魔物とて無事では済まないだろう。

「うふふっ♪怖い人ね」

それでも彼女は笑う。とても楽しそうに。
風貌、性格、私に対する扱い。当然だがどれもユウタ様とは全く違う。
仕えられることに慣れている。
下の者への対応を知っている。
やはり魔王の娘と言うだけある応対。ユウタ様と違って彼女は根っからの王たる存在ということだろう。私の挙動を気にすることなく出されたお茶に口を付けた。

「んっ。おいしいわね」
「…ディユシエロ王国産の茶葉です。王族御用達の店で仕入れました」
「あら、それならレジーナの部屋に置いてあったものと同じね。レジーナは淹れてくれたことがないんだけど」

それよりも殺されかけちゃったと小さく舌を出して彼女はお茶目に言った。
実際お茶目どころではない。王国の最高戦力である勇者と並ぶ戦闘狂の王女の部屋に魔物が侵入すること自体自殺行為だろう。
それでも彼女は笑う。ユウタ様とはまた違った笑みで。

「それにしてもユウタにメイドがいたなんて初耳だわ。あの性格じゃそういうの好きじゃないと思ったんだけど」

カップから薄桃色の唇を離しフィオナ様の真っ赤な瞳が私を映し出す。
どうやら魔物である彼女から見てもユウタ様はそういう人間に見えるらしい。メイドである私ですら初めて仕えたときに同じ印象を抱いたのだから誰の目から見てもそう映る性格なのだろう。


人の上に立ち、誰かを従えることには向いていない。


だが。


人の傍に立ち、誰かを支えることには適している。


王としての器には適さないが私が忠誠を誓うには十分な魅力だ。


「もしかしてレジーナが用意させたのかしら?」
「…いえ、私は自分からユウタ様にお仕えしているのです」
「自分から?」
「…はい。そもそも私はこの王国出身ではありませんから」
「そうなの。どうしてユウタに仕えてるのか気になるわね」

ことりと乾いた音を立ててカップが置かれる。そして鮮血のように赤い瞳で私を見つめてくる。まるで値踏みでもするように頭のてっぺんからつま先まで、執拗に。
一度見ただけでわかる、見続けているだけで惑わされそうになる瞳。ユウタ様が闇のように見るものを吸い込む瞳ならこちらは誰をも虜にする魔性の瞳だ。
正直なところ私であっても正面から見つめられるだけでどぎまぎする。まるで思春期の乙女が好いた男性を前にしたかのように。
薄桃色の唇が艶めかしく動きねっとりと舌が揺れる。見ているだけでも心をかき乱す仕草をしながらフィオナ様は言葉を紡ぐ。



「ねぇ、エミリー。貴方魔物になってみない?」



異性を口説くように魅惑的に、だけども魔王の娘らしく上品に、それでいて戦場の猛者のように大胆にフィオナ様はそう言った。

「…魔物、ですか」
「ええ、魔物よ。私と同じ女性として魅力的な存在にならないかしら?ちょうど貴方にぴったりの魔物がいるの」

細長い指先に紫色の禍々しい光が生じる。触れただけでも肌が焼けそうな、触ることを躊躇ってしまいそうなほど濃密な魔力だ。

「貴方は魅力的よ。その肌もその髪もスタイルも顔も素敵。きっと性格も良いでしょ。だけど、魔物になればもっと魅力的になれるし、大切な人のことをもっと理解することが出来るわ。絶対ユウタも喜んでくれるわ」

魔物は愛おしい男性と歩む生を何よりも欲するというが魔物が増えることにも喜びを感じるともいう。フィオナ様は私を魔物として堕落させたいのではなく魔物としての喜びを教えようとしているのだろう。



―だが、私は喜びを欲してはいない。



「…私はメイドです」

フィオナ様の提案に私は静かに言葉を返す。

「ええ」
「…メイドとは御主人様あってのものです。御主人様に尽くし、御主人様を敬い、御主人様の願いを叶え、御主人様の言葉には命すら懸ける。それこそがメイドという者です」

生まれてからずっとメイドとして生きてきた私にとって喜びとは御主人様にお仕えすること。そして、御主人様の喜びこそが私の喜びである。

「…他人には軽く思われることかもしれません。ただ拾われ、命を救われた。言葉にすると簡単なことであり、ありがちなことでしょう。ですが、私にとって大切なのはそのようなことではありません」

命の恩人だったとしても感謝こそすれ忠義を誓うわけではない。
助けられた身であっても決して心を捧げるわけではない。



「…私はユウタ様に仕えたいから仕えるだけなのです」



メイドに必要なのはただそれだけだ。

私には考えられない常識に。
考えの及ばない私への扱いに。
普通から外れた思考に。
当たり前が欠落した心に。

あの雨の下で私を映しだした闇色の瞳に。


私の心は仕えたいと思わされた。


私と初めて出会ったときに浮かべていたあの顔は…きっと忘れることはできない顔。
何が悲しいのかわからない。だけど、見ているだけで胸を締め付けられる。
何を嘆いているのかわからない。だけど、見据えるだけで心を狂わせる。
でも。だからこそ、私は思ってしまったのだ。

「…先ほど私がどうしてユウタ様にお仕えしているかお聞きになりましたね。彼は私が命を懸けて尽くすに値するお方だと判断したからです。そう判断した以上、私はメイドとしての一生を彼に捧げるつもりです」

私は彼に人生を捧げる。
彼に救われた命であり、彼に存在価値を見いだされたのだ、傍から見てもなにもおかしくない。


「…ユウタ様が喜んで下さるのなら人間であることなど捨てましょう。ユウタ様に今以上尽くせるのなら喜んで魔物へと身を落としましょう」


メイドが心すべきことはそれだけだ。いかに御主人様を喜ばせるか。それこそが生き甲斐であり、存在意義であり、メイドのあり方だ。
常に己を磨き、さらなる段階へと進んでいく。御主人様が喜ぶのならどのようなこともする。喜ばす方法を目前にして足を止めてはいられない。
私はメイド。
メイドのエミリー・ドメスティカ。
ユウタ様にお仕えする一人のメイドであるのだから。

「…ユウタ様が私を必要としてくれるのならばこの命すら捧げることに恐れはありません」
「すごいわ。よくそこまで言えるわね」

フィオナ様は私の言葉に感心したように言った。驚きの表情を浮かべていたがやがて眼を細めて優しい視線を向ける。どこか母親が子に向ける慈愛に満ちた笑みの様に。

「それなら…貴方にとってユウタはいったい何かしら?」

メイドである私にとってユウタ様の存在。
それは仕えるべき主であり、尽くすべき主人であり、身を捧げるべき人である。

「ただの御主人様?それともちゃんとした異性?」

仕えるべき御主人様か。
異性として捉える男性か。
しかしそれは建前にすぎない。
この身を捧げると誓ったその意味。
一生尽くすと決めた忠誠心を抱かせたその理由。
抱いた想い以上に胸に秘めたこの感情。

ユウタ様の存在は私にとって―




「―全てです」




「最高ね、貴方」

私の言葉にフィオナ様はうっとりとした表情を浮かべながらそう言った。指先の魔力が一段と強まり臀部から生えている尻尾を揺らし彼女はこちらへ歩み寄ってきた。
あと一歩、目の前にまで迫ると恭しく頭を下げる。

「魔王の娘として、貴方に敬意を表すわ」

真っ白な翼が広がり艶やかな白髪が靡く。ゆっくりと細い指先が私に延び、頬に触れ、首筋をつたい、胸をなで徐々に下へと下がっていく。そして、指先を紫色の光が帯びだした。

「一人の素敵な魔物としての生を、貴方にあげるわ。エミリー・ドメスティカ」

肌に染み込んでくる魔力に私はゆっくりと瞼を閉じた。
16/01/04 22:39更新 / ノワール・B・シュヴァルツ
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■作者メッセージ
ということで始まりました
久しぶりの堕落ルートキキーモラ編です
今回登場するメイドさんのエミリーはちょっとあれというか…なんというか…
興奮すると涎を垂らす完璧主義で冷静沈着なメイドさんです
簡単に言うと師匠と同類でした
主人公に依存するあまり変態行動にも走っちゃってますw
今回はそんなメイドさんを侍らせてほのぼのとした話が続きます

他の堕落ルートもちびちび進めているので出来次第投稿する予定です

ここまで読んでくださってありがとうございます!!
それでは次回もよろしくお願いします!!

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