前編
「あら、お醤油が」
「え?」
辺りを田畑に埋め尽くされ、山々に囲まれた父親の実家である田舎の一軒家、台所にて。
丁度連休に重なり帰省したオレこと黒崎ゆうたの隣で透き通った紫色の長髪を揺らしながら割烹着に身を包んだ女性―龍姫姉は気づいたようにあるものを取り出した。
「切れてしまいました」
手にした瓶を揺らすが中は何もなくなっていた。醤油の入っていた瓶だがどうやら先ほど注いだのが最後だったらしい。
「困りましたね、これでは夕飯が作れません」
「醤油以外のものを使うのは?ポン酢とか」
「今作ってるもので醤油以外だと文句を付けられそうですから」
「…あぁ」
先背の手元を見て納得する。そこにあったのはふっくらとした数枚の油揚げだ。
この家の暮らすある人の大好物。それを手抜きで作っては何を言われるかわからない。優しい性格だが大好物を手抜きで作られるなんて怒らないはずがない。食の恨みは男女どころか人間も超えるのだから。
「なんじゃ、どうかしたのか?」
困っていると台所に入ってきたのは長い狐色の髪の毛をした女性―龍姫姉と同じオレと双子の姉であるあやかの世話をしてくれた玉藻姐だった。大きく実った胸を強調する様に乱した着物姿は男ならば誰もが目を奪われる姿だろう。少し酔っているのか頬は朱に染まり色っぽさをさらに強調している。片手に空になった酒瓶を掴んでいることから新しい酒でも探しに来たのだろうか。
「醤油がきれてしまいまして」
「別に醤油がなくとも料理はできるじゃろうて。別のもの一品加えればよかろう」
「でも今作っているのは油揚げ料理ですよ」
「む」
玉藻姐が眉をひそめた。
彼女の大好物である油揚げ。いつもは先生が作り、時々は玉藻姐が作るがこの家庭では三食必ず一品は入ってくるものだ。
「他の調味料も切れますし、そろそろ買いに行った方がいいですね。玉藻、ちょっと買ってきますからお料理見ていてもらえますか?」
「まぁ、待て龍姫。ぬしが出向いたところで無駄なもの買わされて帰ってくるだけじゃろうが。それなら儂が行った方がいい」
「あら、無駄なものなど買った覚えはありませんよ」
「なら押入れに入れたものはなんじゃ?」
「あれは…いつか使おうと思いまして」
「そういうものほど使わんじゃろうが。無駄なもん買いおって」
玉藻姐が言っているのは押入の奥にしまってあるよくわからない健康器具だろうか。テレビ通販でやっているようなのとはまた違う、言葉で表せないそれは日の光に晒されることなく押入の肥やしとなっている。たぶんこれから出てくることはないだろう。
「じゃから儂が行ってくる」
「ですが玉藻、貴方にとってあの人は」
「反吐がでるほど嫌いじゃよ。じゃが変なもん買わされるよりかはましじゃろうて」
玉藻姐がここまで毛嫌いする人はまずいない。せいぜい根性の曲がった輩ぐらいだがこんな山奥の田舎、人付き合いが少ない場所で他人を嫌うというのは珍しい。ご近所つきあいが少ない分そういうのは結構大切なはずである。
だが、まぁ…玉藻姐にとっては苦手というか生理的に無理なのかもしれない。いや…生物的と言うべきか。
「あぁ、ゆうた。ぬしも共に来とくれ」
「ん、わかった」
かき混ぜていた鍋の日を消しエプロンを畳む。自室に行って財布をとってくると寝ころんでいた双子の姉、我が麗しの暴君こと黒崎あやかを見つけた。
「買い物行ってくるけど何か欲しいもんある?」
「んー?どこ行くの?」
「おみつ姐のとこ」
「…あ、そう。なら駄菓子でも買ってきてよ」
ごろごろと畳の上で寝転びながら手元の携帯電話を見つめてそういった。その姿は自宅となんらかわらない。実際のところ幼少の頃はここで育ったから自宅となんら変わらない。だからと言って手伝いもせずごろごろ…流石は暴君、相手が年上だろうが世話になった相手だろうがお構いなしだ。
「…てい」
蹴られた。
足の痛みに耐えつつ玄関で靴をはき、玉藻姐と並ぶ。彼女の手には先生に貰ったのかメモを手渡され、横開きのドアを開けた。
「行ってくるわ」
「行ってきます」
父親の実家である山中にある一軒家。それは大きなものでありうちの家族と玉藻姐達と暮らしても有り余るほどの広さを誇る。その裏にはこれまた大きな田畑が広がりそこで米や野菜の栽培をしている。つまるところこの家はほとんど自給自足でまかなっていたりする。それは普段の食事だけではなく玉藻姐の飲む酒もまた作っているという事だ。
だからといって全てを賄えるわけもなく、時々こうして買い出しにでる。いつもは玉藻姐と先生、時にはオレも連れられて調味料などを買いにいくわけだ。
山から下りて数十分。かなりの距離を歩いた先に目的地はあった。周りは田畑に囲まれ等感覚に突き刺さった電柱が虚しさを醸し出す。道の横に地蔵でもあればまた違ったのだろうが人気のないここでは大してかわらないのかもしれない。
そんな景色の中に建っているのはうちと同じぐらいの大きさの一軒家。年季の入った木造建てで特徴的な看板を出している。ファンシーな狸の絵と名前を刻んだそれを見て玉藻姐の顔が嫌そうに歪む。それだけここの店主のことを嫌っているということだ。
「…玉藻姐、ここで待ってる?メモ渡してくれればオレ一人でも行ってこれるよ?」
「いや、ゆうた一人では危ないじゃろう」
「そうかな。別におみつ姐はそこまで危ない人じゃないと思うけど」
「そう思ってる時点で危ないんじゃ。ぬしは人がいいからのぅ、変に信用すれば身ぐるみ剥がされ尻の毛まで持ってかれるぞ?」
「そこまでは流石にされないと思うけど…」
だが相手は商人だ。こんなど田舎の一軒家で経営してるとはいえその腕前は一流。先ほど玉藻姐が言っていたように隙あらば余計な物を売りつけてくる。その言葉使いは巧みなもので気づけば財布の紐をゆるめることとなるだろう。
だが、それでも目的の物を買うためにも行かなければならない。
「仕方ないかのぅ」
「仕方ないよ」
ため息をつく玉藻姐の隣でオレは肩を叩いて横開きの戸をあけた。
「ごめんくださーい」
がらりと重く乾いた音と共に開いた先に見えるのはいくつもの駄菓子。瓶に詰められた烏賊の酢の物、きな粉をつけた一口サイズの餅、そこらで売ってそうな板チョコや小粒の麦チョコ。他にもゼリーや小さなカップ麺と昔懐かしの駄菓子が並んでいた。その店の奥からからんころんと下駄の音を響かせてやってきたのは玉藻姐と同じくらいの女性だった。
「はいはいおおきに」
短い茶色の髪の毛を揺らし、鎖のついた片眼鏡が印象的な女性。背丈はオレと同じくらいだが年は玉藻姐と並び、その体は緑色の和服に包まれていた。体の線がわかりにくいが女性らしい膨らみが見て取れる。ファンシーな狸の刻まれた前掛けにここらでは珍しい大阪弁。前髪が長いからか目元まで影がかかりどことなくあくどい雰囲気を漂わせ、頭の上には緑色の葉っぱと特徴的な人物。それがここの店主であるおみつという人だった。
「ああ!誰かと思えばゆうたか!久しぶりやなぁ」
オレの顔を見てどことなくいやらしい笑みを浮かべるおみつ姐。
実は彼女もまた以前オレとあやかを世話してくれた一人の女性であり、昔龍姫姉や玉藻姐と一緒におばあちゃんと親しかった女性だ。
以前おばあちゃんが生きていた頃には頻繁に家に訪れ時々勉強を教えてくれた。算盤の使い方や迅速な計算方法、またはいかに品物を安く買うかなど商人仕込みの教育は今でも結構役立っている。だが最近はめっきり家に訪れなくなった。その理由はきっと―
「…それから、玉藻もか」
「ふん」
隣の玉藻姐をみるなり不機嫌そうな顔へと変わる。玉藻姐も同じように眉間にしわを寄せて嫌そうな表情を浮かべていた。
この二人は仲が悪い。それも犬猿というほどの仲である。
だがおみつ姐はオレの方を向くと再び顔に笑みを浮かべ歩み寄ってくる。手を伸ばしては頭をぽんと叩いた。
「めんこかった子供が随分とええ男になったやないかい。ええ?」
「…どうも」
その言葉にオレは引きつった笑みで応える。
実はオレもこの女性はあまり好きではない。というのも昔のことでも今なおはっきりと思い出せるほどの事を、トラウマとなるようなえげつないことを植え付けられたのだから。
「こらもう簡単には泣かんか…残念やなぁ」
「…」
「昔は楽しかったんやけどなぁ…ただの毛虫でも泣くんやから」
泣かされる度におばあちゃんに慰めてもらいおみつ姐が笑う。時には先生に、玉藻姐に、おじいちゃんにも泣きついたのを覚えている。その都度おみつ姐は笑い転げ玉藻姐や先生に叱られていたっけか。
流石にこの歳で泣かされることはないだろうが…それでも刻み込まれた記憶のせいで嫌に緊張してしまう。そんなこと余所に当の本人はけたけたと笑っているのだが。
「おい狸」
そんなオレの前に庇うように玉藻姐が進み出た。瞬間おみつ姐の顔から笑みが消える。
「なんや狐」
対して狐と呼ぶおみつ姐の目はぎらついていた。客人相手に向ける社交的なものではない、獣が威嚇するような鋭い目つきで。
「わざわざこんな人気のない廃れた店に来てやっとんじゃぞ、もてなしもないのか」
「年下のガキがいんと買い物もできへん狐が偉ぶんなや」
「どうせ一人もこないのじゃから二人で来てやっているんじゃぞ?ありがたく思えんのか。これだから狸は…」
二人して狸だとか狐だとかまるで揶揄するように言葉を交わすがオレは知ってる。それは揶揄ではなく、事実であるということを。
「独占欲の強い狐やなぁ」
「性悪狸よりかはずっとましじゃろうが」
「誰が性悪やて?」
「鏡で見てこい。見るに堪えない性悪の面が映るじゃろうて」
女同士の口での争い。冷淡で静かなものだが言葉の応酬は激しく、その下に渦巻く感情は計り知れない。男のオレには到底手の出せないものであり、ここにいるべきではないと本能が告げている。
だが今は争っている時じゃない。
「玉藻姐、メモ」
彼女の腕を引いてメモを差し出すように促すがその視線はおみつ姐に向けられたままだ。ついでに言うと表情も剣呑なものになっていた。
「鏡見た方がいいのはあんさんやのうて?どぎつい面浮かべて、そないな顔から皆から嫌われたんやろが」
「こんな寂れた場所でないと商売できん性悪狸が何をいうか」
「卑劣な狐よかましやろて」
二人の眼光が鋭さを増した。張りつめた雰囲気も肌をぴりぴりと刺激する。ただ立っているだけでも冷や汗が吹き出し逃げ出したくなる空気に流石に恐怖せざるを得ない。
人間よりもずっと格上と認識させる存在感。自分がどれほどちっぽけで弱弱しいのかを自覚してしまう雰囲気。まるで粘度の高い液体中にいるような動きにくさと息苦しさ。だがそれは気のせいでも勘違いでもない。
「ただの狸が九尾相手に図に乗るな」
「九本あるからなんや?数があるから格上なんて考え方古いんとちゃうか?」
「…ぁ!」
玉藻姐の臀部から狐色をした尻尾が九本も出た。それだけではなく頭の上には三角形の耳が生える。
それに対抗してかおみつ姐の頭の上にも丸い耳が生えた。さらには臀部から黒い線がいくつも入った一本の大きな尻尾が―狸の尻尾が突き出す。
『狐』と『狸』
共に化かしあう者同士故の同族嫌悪とでも言うべきか。玉藻姐はおみつ姐の事が大嫌いであり、おみつ姐もまた玉藻姐の事を受け付けない。っていうか普段からオレの前で隠してるのにこうぽんぽん出されてはこっちも対応に困る。今更驚きはしないが知らん顔するのにも無理があるというものだ。
「やるのか?」
「やらいでか?」
張りつめた空気が痛い。肌の表面をちりちりと刺激する。刃を突き立てられているような、針をいくつも突きつけられているかのような、そう錯覚してしまうほど二人の存在感は規格外だ。
九尾の妖狐の玉藻姐。
一尾の刑部狸のおみつ姐。
それは人間よりもずっと上に位置する神にも近い存在だろう。事実九尾の狐は天災すら引き起こすとか伝説があるくらいなんだし、狸もその狐に一歩も引かず対立してるんだし。
「玉藻姐、それよりも買い物が先だよ」
「待てゆうた。この性悪狸と白黒はっきりつける方が先じゃ」
「そやでゆうた。こないな狐を変に調子づかせるもんやないで」
「…」
玉藻姐に後ろから抱きつき羽交い締めにする。その際尻尾に顔を埋めてしまうのだがこれがまた心地いい。ふわふわの尻尾は力を込めた分だけ柔らかくオレを受け止め暖かく包み込んでくれる。このまま瞼を閉じれば気づかぬうちに意識が落ちてしまいそうなほど気持ちがよくて―
「じゃなくて」
この感触は名残惜しいが二人を放ってはおけない。このまま引っ張って帰った方が平和的でいいはずだ。だが、帰るには最低でも醤油がなければならない。
「玉藻姐、先に買い物してからやろうよ」
「黙れ」
「………お、おみつ姐。オレそこの駄菓子買いたいんだけど」
「邪魔や」
「…………………………」
どうやら二人して聞く耳持たずなようだ。これではどうやっても口が挟めない。
こんなときは先生やあやかの出番だろう。同じ女性として最善の対処を知ってるはずだ。
……いや、あやかが居たら絶対に手を出してる。こんな状況なったところで二人の脛を蹴り抜くに違いない。それで怒鳴られようものならビンタの十発や二十発、普通に叩き込むことだろう。参考にならない。
「…」
ふと店内を見回した。ここは駄菓子屋のようだが実際は他の食品、日用雑貨も取り扱っている店だ。探せば魚や見たことのない果物、はたまた薬まで売っている。幅の広さは計り知れず、注文すれば大抵のものを取り揃えてくれる。その分高くつくけど。
―それだけ幅広ければ狐の好むものも当然ある。
―それだけ取り揃えていれば狸の好きな物も勿論ある。
二人の傍から離れると買い物のメモと照らし合わせて店内のものを勝手にとっていく。それからあるものを二つ。結構高くつくがまぁ、状況打破のためにはしょうがない。
全てを揃えてメモを机に置くと合計金額を隣に置く。そして未だ睨みあう二人の間にオレは立った。
「その肉刻んで狸汁にでもされたいか?」
「狐の毛ぇなんてどなたはんも必要とせんしなぁ?」
オレがいても見えていないかのこの態度。それほどまでに互いが大嫌いなのだろう。
そんな二人の目の前にあるものを放り投げた。
「「っ!!」」
『山口屋超高級油揚げ』
『対馬海域お取り寄せ最高級アジの開き』
互いの視線がそちらに移り、その隙に玉藻姐の体を抱きしめる。玉藻姐は目の前に放られた油揚げに手を伸ばすが関係ない。
「それじゃ!」
大人と言えど女性の体、男のオレが抱き上げ運べないことはない。すぐさま玉藻姐を抱き上げると急いでおみつ姐の店を後にするのだった。
「すまんのぅ、ゆうた」
「別に大丈夫だよ、玉藻姐」
おみつ姐の店の帰り道、人気のない道をオレと玉藻姐は並んで歩いていた。玉藻姐は頭を掻きながら一緒に買った高級油揚げを食べている。謝りながらもよほど嬉しいのか耳や尻尾がせわしなく動いていた。
「本当にすまんのぅ」
「大丈夫だってさ」
だから早いところ耳と尻尾を収めて欲しい。オレ以外に人は見当たらないがそんな姿では目を合わせられない。どうしても尻尾や耳に目線がいってしまう。出ていることすら忘れてしまうほど油揚げに夢中だというのだろうか。
ちらちらと見てしまうのをなんとかしようと財布の中身を確認するためポケットに手を伸ばし―
「―…んん?」
「ん?どうした?」
「……財布がない」
いつもポケットに入れているはずの財布がない。触っても膨らみのないズボンの生地の感触しか伝わってこない。手をつっこんでも小銭すらない。
冷や汗が出た。ただでさえあれは家の鍵など大切なものを一緒につけているというのに紛失しようものなら一大事だ。
…もしかして。
「忘れてきたかも」
お金を置いていこうと財布を出したときにしまい忘れてしまっただろうか。
「まったく、仕方ないのぅ。それなら儂が一緒にいってやるわ」
「大丈夫だよ、もう子供じゃないんだからさ。それくらい一人でできるって」
「じゃが…」
それにもう一度あれを繰り返されてはたまったもんじゃない。あんなことをされてはこちらも寿命が縮むと言うものだ。それに、玉藻姐の持ってる油揚げもかなり財布には痛いのだし。
「そういうわけでちょっと行ってくるけど荷物任せて大丈夫?」
「これくらい平気じゃからさっさと行ってこい。龍姫もあやかも腹をすかせて待っとるからのぅ」
「ん」
「気をつけるんじゃぞ」
「わかってるー」
背中にかけられた声に振り返らず手を降るとおみつ姐の店へとかけだした。
「ごめんくださーい」
再び戸をあけて中にはいると今度はすぐに下駄の足音が聞こえてくる。奥から現れたおみつ姐は耳のない人間の姿で現れた。
ただし、先ほど放ったアジの開きをバリバリ食べながら尻尾を揺らしているが。
…本当に反応に困るな。
「はいはいおおきに…ってゆうたかいな。どないしたんや」
「ちょっと忘れ物を…あった」
やはり払ったときにしまい忘れてしまったのか机の上に鍵のついた財布があった。それを掴んで確認するとポケットに戻す。
「財布忘れちゃって」
「なんやそそっかしい。そないな不用心やといろいろと危ないで?」
「たまたまだよ」
原因はおみつ姐と玉藻姐の二人のせいでもあったのだが。
目的のものは手に入れたのでさっさと帰ろう。そう思って戸に手を掛けたその時。
「まぁ待ちぃや」
いつの間にか側に近づいていたおみつ姐に肩を捕まれた。思いのほか力が強く、半身ほど出ていた体がすぐに店内に戻される。
「…何?」
「ゆうた。ちょいと酒を持って行かんか?」
「へぇ?」
「さっきのことはうちにも非があった。それやったらちびっとばかりの詫びのつもりや、持ってってほしいんやけど」
「…いいの?」
「うちとて商売人、客人とは仲良うしたいんや。玉藻とは仲悪かろうが得意先なんやし」
「…」
まぁ、あの酒豪の玉藻姐だ。それほど単純ではないだろうが、酒瓶一つぐらいなら機嫌は直してくれるだろう。引きずるような性格はしていないが機嫌がよくなってくれるのならそれに越したことはない。
「それなら…貰ってこうかな」
「そら、よかったわ」
一瞬おみつ姐がほくそ笑んだように見えたのだが…気のせいだろう。
「ここやで」
和服の後ろ姿を眺めながら連れられて来たのは店の奥の奥、石の階段を下りた先にあった薄暗い地下室だった。壁一面には酒瓶の先が突き出している。まるで中世の城の地下室みたいな光景に一瞬別世界にでも来たのかと思えるほどだ。
「すげぇ…」
「うちの特大保管庫や。わいんにびーる、他にも滅多にお目にかかれへん高級品もぎょうさん仕舞っとるで」
得意げに鼻を鳴らしておみつ姐は手元のライトであたりを照らす。だがそれでも部屋全ては照らしきれずこの空間の広さを思い知らされる。きっと上の店内と同等かそれ以上なんだろう。
「えっと…そう、ここや」
棚に示した銘柄を確認しておみつ姐は足を止める。見上げた視線を追ってオレもそちらを見ると遥か上の方に突き出た酒瓶がいくつか見えた。
「あれ、持ってってや」
「…あんなところにあるのを?」
「ちゃんと台はあるから気ぃ付けて取るんやで」
「…」
近くにあった台を引き寄せるが乗ったところで届くか届かないかの位置にある。それ以前に辺りにはいくつも刺さった酒瓶がある。変にバランスを崩してぶつかろうものならきっと落ちて割れてしまうに違いない。そう考えると恐ろしい。いや、考えたくもない。
「…仕方ないか」
貰う側なんだ、迷惑かけるわけにはいかない。そう結論付け台を引っ張っては上に乗った。
「うぉ…」
「ぐらつくから気ぃつけや」
上に乗った途端にぐらつく台。安定していないのか左右にがたがた揺れ動く。よくもまぁこんな危ないものを直さずにいられるなこの女性。だがこの程度なら気を付けておけば大丈夫だろう。
「よっと」
目的のものに手を伸ばす。指先が酒瓶に触れるのだが触れるだけ。後少しでつかめるというぎりぎりの位置だ。
「く、この…」
さらに背伸びして人差し指と中指で瓶先をはさみ引っ張る。だがこの位置にある酒がそう簡単にとれるはずのない。地震や事故で落ちないように強固に固定されているらしく二本の指では引っ張れそうになかった。
「がんばりや」
背後で応援するおみつ姐。どうしてだか嬉しそうに聞こえるのは気のせいだろうか。だが集中してやってるオレにはそんなこと気にする余裕もない。
後少し。もう少し。
徐々に腕が痛くなるがそれでも延ばし続ける。届いているのに引っ張れないと言うじれったさに集中力も徐々にきれかけてきた。
「こんの…っ!」
我慢できなくなり延ばした腕を戻してあたりを確認する。酒瓶の先に触れないように、事故で他のものを割らないように注意しながらオレは足に力を込めて飛び上がった。
「ふっ!」
掌まで握り込み一気に引き抜く。そして台の上ではなく床の上に着地する。膝をクッションにし音すら立てずに軽やかに、周りの酒瓶を割らないように注意深く。
「とれた!」
幸いなことにどこにも触れず目的のものも無事に取ることができ安堵のため息をついた―そのとき。
ばりんっと、何かが砕ける音がした。
「…ぁ?」
続いて水を床にぶちまけるような音が響く。音のした方を向けばそこにあったのは砕け散った緑色のガラスと白濁した液体だった。芳醇なアルコール臭が部屋の中に広まっていく。
「ああああああああああ!!」
そして、悲鳴のような声を上げたのはおみつ姐だった。
「な、なんてことしとんねんっ!」
「え?何!?」
先ほどはぶつかる手応えなんてなかったというのに。それでも確かに酒瓶が砕け散っていた。彼女の震える手が飛び散ったガラス瓶の破片を拾い上げる。銘柄すらわからない状態では何がなんだかわからないが彼女の反応を見ると割れてしまったのは―
「これはなぁ…これはなぁ!!めっちゃ高いもんなんやで!?売るところに売れば一本だけで遊んで暮らせるほどの代物なんやで!?」
「…え?」
自分の顔が蒼白になっていくのがわかった。背筋には嫌な汗が浮かび心臓が早く鼓動を刻む。子供の頃に経験した悪戯がばれたときのとはまた違う嫌な感覚。取り返しのつかないことをしてしまったという後悔で指先が震え、呼吸が乱れる。
「それを…こないなことしてからにっ!どないすんねんっ!」
「ご、ごめん…おみつ姐」
「謝って済むんやったら警察いらんわっ!!」
怒鳴り声でわめき散らすおみつ姐。普段飄々としているのとは違う怒り姿に思わずたじろいてしまう。
はて、こんなに激昂する女性だったか。先ほどの玉藻姐との応酬は怒鳴ることはしなかったというのに。人間離れした雰囲気はあったが。
「どないすんねん…」
一級品の酒瓶が砕けてしまったことに気を落としうつむくおみつ姐。その感情を表すようにか生えた尻尾が床にだらんと垂れた。
弁償しよう、そう思いついたがそんなものを払う金オレは持ってない。この反応、先ほどの発言からしてオレでは逆立ちしたところでどうにもできない金額だろう。
「ゆうた」
低くドスの利いた声色に思わず体が強ばった。
「な、なに…?」
「男やったら誠意見せぃ。きちんと値段分弁償してもらうで」
「え、でも…そんなもの買える金なんて持ってないんだけど…」
「やったらどないすればええかわかるか?」
ぎろりと向けられる二つの瞳。先ほどの玉藻姐に向けていたのと同じ、獣のような眼光だ。ぞくりとする。先ほども恐ろしかったが今度はその眼光がオレへ向いている。標的は真正面から対抗できる玉藻姐ではなくただの人間であるオレ一人だけだ。
「今日から、いや、今からや。ゆうた、今からうちの言うこと何でも聞いてもらうで」
「え…っ!?」
「出した損害分全部、体使うて残らずかえすんやで?」
あくどくぎらつく瞳を向けながら唇を舐める仕草がやたらと艶めかしく映るのだった。
「え?」
辺りを田畑に埋め尽くされ、山々に囲まれた父親の実家である田舎の一軒家、台所にて。
丁度連休に重なり帰省したオレこと黒崎ゆうたの隣で透き通った紫色の長髪を揺らしながら割烹着に身を包んだ女性―龍姫姉は気づいたようにあるものを取り出した。
「切れてしまいました」
手にした瓶を揺らすが中は何もなくなっていた。醤油の入っていた瓶だがどうやら先ほど注いだのが最後だったらしい。
「困りましたね、これでは夕飯が作れません」
「醤油以外のものを使うのは?ポン酢とか」
「今作ってるもので醤油以外だと文句を付けられそうですから」
「…あぁ」
先背の手元を見て納得する。そこにあったのはふっくらとした数枚の油揚げだ。
この家の暮らすある人の大好物。それを手抜きで作っては何を言われるかわからない。優しい性格だが大好物を手抜きで作られるなんて怒らないはずがない。食の恨みは男女どころか人間も超えるのだから。
「なんじゃ、どうかしたのか?」
困っていると台所に入ってきたのは長い狐色の髪の毛をした女性―龍姫姉と同じオレと双子の姉であるあやかの世話をしてくれた玉藻姐だった。大きく実った胸を強調する様に乱した着物姿は男ならば誰もが目を奪われる姿だろう。少し酔っているのか頬は朱に染まり色っぽさをさらに強調している。片手に空になった酒瓶を掴んでいることから新しい酒でも探しに来たのだろうか。
「醤油がきれてしまいまして」
「別に醤油がなくとも料理はできるじゃろうて。別のもの一品加えればよかろう」
「でも今作っているのは油揚げ料理ですよ」
「む」
玉藻姐が眉をひそめた。
彼女の大好物である油揚げ。いつもは先生が作り、時々は玉藻姐が作るがこの家庭では三食必ず一品は入ってくるものだ。
「他の調味料も切れますし、そろそろ買いに行った方がいいですね。玉藻、ちょっと買ってきますからお料理見ていてもらえますか?」
「まぁ、待て龍姫。ぬしが出向いたところで無駄なもの買わされて帰ってくるだけじゃろうが。それなら儂が行った方がいい」
「あら、無駄なものなど買った覚えはありませんよ」
「なら押入れに入れたものはなんじゃ?」
「あれは…いつか使おうと思いまして」
「そういうものほど使わんじゃろうが。無駄なもん買いおって」
玉藻姐が言っているのは押入の奥にしまってあるよくわからない健康器具だろうか。テレビ通販でやっているようなのとはまた違う、言葉で表せないそれは日の光に晒されることなく押入の肥やしとなっている。たぶんこれから出てくることはないだろう。
「じゃから儂が行ってくる」
「ですが玉藻、貴方にとってあの人は」
「反吐がでるほど嫌いじゃよ。じゃが変なもん買わされるよりかはましじゃろうて」
玉藻姐がここまで毛嫌いする人はまずいない。せいぜい根性の曲がった輩ぐらいだがこんな山奥の田舎、人付き合いが少ない場所で他人を嫌うというのは珍しい。ご近所つきあいが少ない分そういうのは結構大切なはずである。
だが、まぁ…玉藻姐にとっては苦手というか生理的に無理なのかもしれない。いや…生物的と言うべきか。
「あぁ、ゆうた。ぬしも共に来とくれ」
「ん、わかった」
かき混ぜていた鍋の日を消しエプロンを畳む。自室に行って財布をとってくると寝ころんでいた双子の姉、我が麗しの暴君こと黒崎あやかを見つけた。
「買い物行ってくるけど何か欲しいもんある?」
「んー?どこ行くの?」
「おみつ姐のとこ」
「…あ、そう。なら駄菓子でも買ってきてよ」
ごろごろと畳の上で寝転びながら手元の携帯電話を見つめてそういった。その姿は自宅となんらかわらない。実際のところ幼少の頃はここで育ったから自宅となんら変わらない。だからと言って手伝いもせずごろごろ…流石は暴君、相手が年上だろうが世話になった相手だろうがお構いなしだ。
「…てい」
蹴られた。
足の痛みに耐えつつ玄関で靴をはき、玉藻姐と並ぶ。彼女の手には先生に貰ったのかメモを手渡され、横開きのドアを開けた。
「行ってくるわ」
「行ってきます」
父親の実家である山中にある一軒家。それは大きなものでありうちの家族と玉藻姐達と暮らしても有り余るほどの広さを誇る。その裏にはこれまた大きな田畑が広がりそこで米や野菜の栽培をしている。つまるところこの家はほとんど自給自足でまかなっていたりする。それは普段の食事だけではなく玉藻姐の飲む酒もまた作っているという事だ。
だからといって全てを賄えるわけもなく、時々こうして買い出しにでる。いつもは玉藻姐と先生、時にはオレも連れられて調味料などを買いにいくわけだ。
山から下りて数十分。かなりの距離を歩いた先に目的地はあった。周りは田畑に囲まれ等感覚に突き刺さった電柱が虚しさを醸し出す。道の横に地蔵でもあればまた違ったのだろうが人気のないここでは大してかわらないのかもしれない。
そんな景色の中に建っているのはうちと同じぐらいの大きさの一軒家。年季の入った木造建てで特徴的な看板を出している。ファンシーな狸の絵と名前を刻んだそれを見て玉藻姐の顔が嫌そうに歪む。それだけここの店主のことを嫌っているということだ。
「…玉藻姐、ここで待ってる?メモ渡してくれればオレ一人でも行ってこれるよ?」
「いや、ゆうた一人では危ないじゃろう」
「そうかな。別におみつ姐はそこまで危ない人じゃないと思うけど」
「そう思ってる時点で危ないんじゃ。ぬしは人がいいからのぅ、変に信用すれば身ぐるみ剥がされ尻の毛まで持ってかれるぞ?」
「そこまでは流石にされないと思うけど…」
だが相手は商人だ。こんなど田舎の一軒家で経営してるとはいえその腕前は一流。先ほど玉藻姐が言っていたように隙あらば余計な物を売りつけてくる。その言葉使いは巧みなもので気づけば財布の紐をゆるめることとなるだろう。
だが、それでも目的の物を買うためにも行かなければならない。
「仕方ないかのぅ」
「仕方ないよ」
ため息をつく玉藻姐の隣でオレは肩を叩いて横開きの戸をあけた。
「ごめんくださーい」
がらりと重く乾いた音と共に開いた先に見えるのはいくつもの駄菓子。瓶に詰められた烏賊の酢の物、きな粉をつけた一口サイズの餅、そこらで売ってそうな板チョコや小粒の麦チョコ。他にもゼリーや小さなカップ麺と昔懐かしの駄菓子が並んでいた。その店の奥からからんころんと下駄の音を響かせてやってきたのは玉藻姐と同じくらいの女性だった。
「はいはいおおきに」
短い茶色の髪の毛を揺らし、鎖のついた片眼鏡が印象的な女性。背丈はオレと同じくらいだが年は玉藻姐と並び、その体は緑色の和服に包まれていた。体の線がわかりにくいが女性らしい膨らみが見て取れる。ファンシーな狸の刻まれた前掛けにここらでは珍しい大阪弁。前髪が長いからか目元まで影がかかりどことなくあくどい雰囲気を漂わせ、頭の上には緑色の葉っぱと特徴的な人物。それがここの店主であるおみつという人だった。
「ああ!誰かと思えばゆうたか!久しぶりやなぁ」
オレの顔を見てどことなくいやらしい笑みを浮かべるおみつ姐。
実は彼女もまた以前オレとあやかを世話してくれた一人の女性であり、昔龍姫姉や玉藻姐と一緒におばあちゃんと親しかった女性だ。
以前おばあちゃんが生きていた頃には頻繁に家に訪れ時々勉強を教えてくれた。算盤の使い方や迅速な計算方法、またはいかに品物を安く買うかなど商人仕込みの教育は今でも結構役立っている。だが最近はめっきり家に訪れなくなった。その理由はきっと―
「…それから、玉藻もか」
「ふん」
隣の玉藻姐をみるなり不機嫌そうな顔へと変わる。玉藻姐も同じように眉間にしわを寄せて嫌そうな表情を浮かべていた。
この二人は仲が悪い。それも犬猿というほどの仲である。
だがおみつ姐はオレの方を向くと再び顔に笑みを浮かべ歩み寄ってくる。手を伸ばしては頭をぽんと叩いた。
「めんこかった子供が随分とええ男になったやないかい。ええ?」
「…どうも」
その言葉にオレは引きつった笑みで応える。
実はオレもこの女性はあまり好きではない。というのも昔のことでも今なおはっきりと思い出せるほどの事を、トラウマとなるようなえげつないことを植え付けられたのだから。
「こらもう簡単には泣かんか…残念やなぁ」
「…」
「昔は楽しかったんやけどなぁ…ただの毛虫でも泣くんやから」
泣かされる度におばあちゃんに慰めてもらいおみつ姐が笑う。時には先生に、玉藻姐に、おじいちゃんにも泣きついたのを覚えている。その都度おみつ姐は笑い転げ玉藻姐や先生に叱られていたっけか。
流石にこの歳で泣かされることはないだろうが…それでも刻み込まれた記憶のせいで嫌に緊張してしまう。そんなこと余所に当の本人はけたけたと笑っているのだが。
「おい狸」
そんなオレの前に庇うように玉藻姐が進み出た。瞬間おみつ姐の顔から笑みが消える。
「なんや狐」
対して狐と呼ぶおみつ姐の目はぎらついていた。客人相手に向ける社交的なものではない、獣が威嚇するような鋭い目つきで。
「わざわざこんな人気のない廃れた店に来てやっとんじゃぞ、もてなしもないのか」
「年下のガキがいんと買い物もできへん狐が偉ぶんなや」
「どうせ一人もこないのじゃから二人で来てやっているんじゃぞ?ありがたく思えんのか。これだから狸は…」
二人して狸だとか狐だとかまるで揶揄するように言葉を交わすがオレは知ってる。それは揶揄ではなく、事実であるということを。
「独占欲の強い狐やなぁ」
「性悪狸よりかはずっとましじゃろうが」
「誰が性悪やて?」
「鏡で見てこい。見るに堪えない性悪の面が映るじゃろうて」
女同士の口での争い。冷淡で静かなものだが言葉の応酬は激しく、その下に渦巻く感情は計り知れない。男のオレには到底手の出せないものであり、ここにいるべきではないと本能が告げている。
だが今は争っている時じゃない。
「玉藻姐、メモ」
彼女の腕を引いてメモを差し出すように促すがその視線はおみつ姐に向けられたままだ。ついでに言うと表情も剣呑なものになっていた。
「鏡見た方がいいのはあんさんやのうて?どぎつい面浮かべて、そないな顔から皆から嫌われたんやろが」
「こんな寂れた場所でないと商売できん性悪狸が何をいうか」
「卑劣な狐よかましやろて」
二人の眼光が鋭さを増した。張りつめた雰囲気も肌をぴりぴりと刺激する。ただ立っているだけでも冷や汗が吹き出し逃げ出したくなる空気に流石に恐怖せざるを得ない。
人間よりもずっと格上と認識させる存在感。自分がどれほどちっぽけで弱弱しいのかを自覚してしまう雰囲気。まるで粘度の高い液体中にいるような動きにくさと息苦しさ。だがそれは気のせいでも勘違いでもない。
「ただの狸が九尾相手に図に乗るな」
「九本あるからなんや?数があるから格上なんて考え方古いんとちゃうか?」
「…ぁ!」
玉藻姐の臀部から狐色をした尻尾が九本も出た。それだけではなく頭の上には三角形の耳が生える。
それに対抗してかおみつ姐の頭の上にも丸い耳が生えた。さらには臀部から黒い線がいくつも入った一本の大きな尻尾が―狸の尻尾が突き出す。
『狐』と『狸』
共に化かしあう者同士故の同族嫌悪とでも言うべきか。玉藻姐はおみつ姐の事が大嫌いであり、おみつ姐もまた玉藻姐の事を受け付けない。っていうか普段からオレの前で隠してるのにこうぽんぽん出されてはこっちも対応に困る。今更驚きはしないが知らん顔するのにも無理があるというものだ。
「やるのか?」
「やらいでか?」
張りつめた空気が痛い。肌の表面をちりちりと刺激する。刃を突き立てられているような、針をいくつも突きつけられているかのような、そう錯覚してしまうほど二人の存在感は規格外だ。
九尾の妖狐の玉藻姐。
一尾の刑部狸のおみつ姐。
それは人間よりもずっと上に位置する神にも近い存在だろう。事実九尾の狐は天災すら引き起こすとか伝説があるくらいなんだし、狸もその狐に一歩も引かず対立してるんだし。
「玉藻姐、それよりも買い物が先だよ」
「待てゆうた。この性悪狸と白黒はっきりつける方が先じゃ」
「そやでゆうた。こないな狐を変に調子づかせるもんやないで」
「…」
玉藻姐に後ろから抱きつき羽交い締めにする。その際尻尾に顔を埋めてしまうのだがこれがまた心地いい。ふわふわの尻尾は力を込めた分だけ柔らかくオレを受け止め暖かく包み込んでくれる。このまま瞼を閉じれば気づかぬうちに意識が落ちてしまいそうなほど気持ちがよくて―
「じゃなくて」
この感触は名残惜しいが二人を放ってはおけない。このまま引っ張って帰った方が平和的でいいはずだ。だが、帰るには最低でも醤油がなければならない。
「玉藻姐、先に買い物してからやろうよ」
「黙れ」
「………お、おみつ姐。オレそこの駄菓子買いたいんだけど」
「邪魔や」
「…………………………」
どうやら二人して聞く耳持たずなようだ。これではどうやっても口が挟めない。
こんなときは先生やあやかの出番だろう。同じ女性として最善の対処を知ってるはずだ。
……いや、あやかが居たら絶対に手を出してる。こんな状況なったところで二人の脛を蹴り抜くに違いない。それで怒鳴られようものならビンタの十発や二十発、普通に叩き込むことだろう。参考にならない。
「…」
ふと店内を見回した。ここは駄菓子屋のようだが実際は他の食品、日用雑貨も取り扱っている店だ。探せば魚や見たことのない果物、はたまた薬まで売っている。幅の広さは計り知れず、注文すれば大抵のものを取り揃えてくれる。その分高くつくけど。
―それだけ幅広ければ狐の好むものも当然ある。
―それだけ取り揃えていれば狸の好きな物も勿論ある。
二人の傍から離れると買い物のメモと照らし合わせて店内のものを勝手にとっていく。それからあるものを二つ。結構高くつくがまぁ、状況打破のためにはしょうがない。
全てを揃えてメモを机に置くと合計金額を隣に置く。そして未だ睨みあう二人の間にオレは立った。
「その肉刻んで狸汁にでもされたいか?」
「狐の毛ぇなんてどなたはんも必要とせんしなぁ?」
オレがいても見えていないかのこの態度。それほどまでに互いが大嫌いなのだろう。
そんな二人の目の前にあるものを放り投げた。
「「っ!!」」
『山口屋超高級油揚げ』
『対馬海域お取り寄せ最高級アジの開き』
互いの視線がそちらに移り、その隙に玉藻姐の体を抱きしめる。玉藻姐は目の前に放られた油揚げに手を伸ばすが関係ない。
「それじゃ!」
大人と言えど女性の体、男のオレが抱き上げ運べないことはない。すぐさま玉藻姐を抱き上げると急いでおみつ姐の店を後にするのだった。
「すまんのぅ、ゆうた」
「別に大丈夫だよ、玉藻姐」
おみつ姐の店の帰り道、人気のない道をオレと玉藻姐は並んで歩いていた。玉藻姐は頭を掻きながら一緒に買った高級油揚げを食べている。謝りながらもよほど嬉しいのか耳や尻尾がせわしなく動いていた。
「本当にすまんのぅ」
「大丈夫だってさ」
だから早いところ耳と尻尾を収めて欲しい。オレ以外に人は見当たらないがそんな姿では目を合わせられない。どうしても尻尾や耳に目線がいってしまう。出ていることすら忘れてしまうほど油揚げに夢中だというのだろうか。
ちらちらと見てしまうのをなんとかしようと財布の中身を確認するためポケットに手を伸ばし―
「―…んん?」
「ん?どうした?」
「……財布がない」
いつもポケットに入れているはずの財布がない。触っても膨らみのないズボンの生地の感触しか伝わってこない。手をつっこんでも小銭すらない。
冷や汗が出た。ただでさえあれは家の鍵など大切なものを一緒につけているというのに紛失しようものなら一大事だ。
…もしかして。
「忘れてきたかも」
お金を置いていこうと財布を出したときにしまい忘れてしまっただろうか。
「まったく、仕方ないのぅ。それなら儂が一緒にいってやるわ」
「大丈夫だよ、もう子供じゃないんだからさ。それくらい一人でできるって」
「じゃが…」
それにもう一度あれを繰り返されてはたまったもんじゃない。あんなことをされてはこちらも寿命が縮むと言うものだ。それに、玉藻姐の持ってる油揚げもかなり財布には痛いのだし。
「そういうわけでちょっと行ってくるけど荷物任せて大丈夫?」
「これくらい平気じゃからさっさと行ってこい。龍姫もあやかも腹をすかせて待っとるからのぅ」
「ん」
「気をつけるんじゃぞ」
「わかってるー」
背中にかけられた声に振り返らず手を降るとおみつ姐の店へとかけだした。
「ごめんくださーい」
再び戸をあけて中にはいると今度はすぐに下駄の足音が聞こえてくる。奥から現れたおみつ姐は耳のない人間の姿で現れた。
ただし、先ほど放ったアジの開きをバリバリ食べながら尻尾を揺らしているが。
…本当に反応に困るな。
「はいはいおおきに…ってゆうたかいな。どないしたんや」
「ちょっと忘れ物を…あった」
やはり払ったときにしまい忘れてしまったのか机の上に鍵のついた財布があった。それを掴んで確認するとポケットに戻す。
「財布忘れちゃって」
「なんやそそっかしい。そないな不用心やといろいろと危ないで?」
「たまたまだよ」
原因はおみつ姐と玉藻姐の二人のせいでもあったのだが。
目的のものは手に入れたのでさっさと帰ろう。そう思って戸に手を掛けたその時。
「まぁ待ちぃや」
いつの間にか側に近づいていたおみつ姐に肩を捕まれた。思いのほか力が強く、半身ほど出ていた体がすぐに店内に戻される。
「…何?」
「ゆうた。ちょいと酒を持って行かんか?」
「へぇ?」
「さっきのことはうちにも非があった。それやったらちびっとばかりの詫びのつもりや、持ってってほしいんやけど」
「…いいの?」
「うちとて商売人、客人とは仲良うしたいんや。玉藻とは仲悪かろうが得意先なんやし」
「…」
まぁ、あの酒豪の玉藻姐だ。それほど単純ではないだろうが、酒瓶一つぐらいなら機嫌は直してくれるだろう。引きずるような性格はしていないが機嫌がよくなってくれるのならそれに越したことはない。
「それなら…貰ってこうかな」
「そら、よかったわ」
一瞬おみつ姐がほくそ笑んだように見えたのだが…気のせいだろう。
「ここやで」
和服の後ろ姿を眺めながら連れられて来たのは店の奥の奥、石の階段を下りた先にあった薄暗い地下室だった。壁一面には酒瓶の先が突き出している。まるで中世の城の地下室みたいな光景に一瞬別世界にでも来たのかと思えるほどだ。
「すげぇ…」
「うちの特大保管庫や。わいんにびーる、他にも滅多にお目にかかれへん高級品もぎょうさん仕舞っとるで」
得意げに鼻を鳴らしておみつ姐は手元のライトであたりを照らす。だがそれでも部屋全ては照らしきれずこの空間の広さを思い知らされる。きっと上の店内と同等かそれ以上なんだろう。
「えっと…そう、ここや」
棚に示した銘柄を確認しておみつ姐は足を止める。見上げた視線を追ってオレもそちらを見ると遥か上の方に突き出た酒瓶がいくつか見えた。
「あれ、持ってってや」
「…あんなところにあるのを?」
「ちゃんと台はあるから気ぃ付けて取るんやで」
「…」
近くにあった台を引き寄せるが乗ったところで届くか届かないかの位置にある。それ以前に辺りにはいくつも刺さった酒瓶がある。変にバランスを崩してぶつかろうものならきっと落ちて割れてしまうに違いない。そう考えると恐ろしい。いや、考えたくもない。
「…仕方ないか」
貰う側なんだ、迷惑かけるわけにはいかない。そう結論付け台を引っ張っては上に乗った。
「うぉ…」
「ぐらつくから気ぃつけや」
上に乗った途端にぐらつく台。安定していないのか左右にがたがた揺れ動く。よくもまぁこんな危ないものを直さずにいられるなこの女性。だがこの程度なら気を付けておけば大丈夫だろう。
「よっと」
目的のものに手を伸ばす。指先が酒瓶に触れるのだが触れるだけ。後少しでつかめるというぎりぎりの位置だ。
「く、この…」
さらに背伸びして人差し指と中指で瓶先をはさみ引っ張る。だがこの位置にある酒がそう簡単にとれるはずのない。地震や事故で落ちないように強固に固定されているらしく二本の指では引っ張れそうになかった。
「がんばりや」
背後で応援するおみつ姐。どうしてだか嬉しそうに聞こえるのは気のせいだろうか。だが集中してやってるオレにはそんなこと気にする余裕もない。
後少し。もう少し。
徐々に腕が痛くなるがそれでも延ばし続ける。届いているのに引っ張れないと言うじれったさに集中力も徐々にきれかけてきた。
「こんの…っ!」
我慢できなくなり延ばした腕を戻してあたりを確認する。酒瓶の先に触れないように、事故で他のものを割らないように注意しながらオレは足に力を込めて飛び上がった。
「ふっ!」
掌まで握り込み一気に引き抜く。そして台の上ではなく床の上に着地する。膝をクッションにし音すら立てずに軽やかに、周りの酒瓶を割らないように注意深く。
「とれた!」
幸いなことにどこにも触れず目的のものも無事に取ることができ安堵のため息をついた―そのとき。
ばりんっと、何かが砕ける音がした。
「…ぁ?」
続いて水を床にぶちまけるような音が響く。音のした方を向けばそこにあったのは砕け散った緑色のガラスと白濁した液体だった。芳醇なアルコール臭が部屋の中に広まっていく。
「ああああああああああ!!」
そして、悲鳴のような声を上げたのはおみつ姐だった。
「な、なんてことしとんねんっ!」
「え?何!?」
先ほどはぶつかる手応えなんてなかったというのに。それでも確かに酒瓶が砕け散っていた。彼女の震える手が飛び散ったガラス瓶の破片を拾い上げる。銘柄すらわからない状態では何がなんだかわからないが彼女の反応を見ると割れてしまったのは―
「これはなぁ…これはなぁ!!めっちゃ高いもんなんやで!?売るところに売れば一本だけで遊んで暮らせるほどの代物なんやで!?」
「…え?」
自分の顔が蒼白になっていくのがわかった。背筋には嫌な汗が浮かび心臓が早く鼓動を刻む。子供の頃に経験した悪戯がばれたときのとはまた違う嫌な感覚。取り返しのつかないことをしてしまったという後悔で指先が震え、呼吸が乱れる。
「それを…こないなことしてからにっ!どないすんねんっ!」
「ご、ごめん…おみつ姐」
「謝って済むんやったら警察いらんわっ!!」
怒鳴り声でわめき散らすおみつ姐。普段飄々としているのとは違う怒り姿に思わずたじろいてしまう。
はて、こんなに激昂する女性だったか。先ほどの玉藻姐との応酬は怒鳴ることはしなかったというのに。人間離れした雰囲気はあったが。
「どないすんねん…」
一級品の酒瓶が砕けてしまったことに気を落としうつむくおみつ姐。その感情を表すようにか生えた尻尾が床にだらんと垂れた。
弁償しよう、そう思いついたがそんなものを払う金オレは持ってない。この反応、先ほどの発言からしてオレでは逆立ちしたところでどうにもできない金額だろう。
「ゆうた」
低くドスの利いた声色に思わず体が強ばった。
「な、なに…?」
「男やったら誠意見せぃ。きちんと値段分弁償してもらうで」
「え、でも…そんなもの買える金なんて持ってないんだけど…」
「やったらどないすればええかわかるか?」
ぎろりと向けられる二つの瞳。先ほどの玉藻姐に向けていたのと同じ、獣のような眼光だ。ぞくりとする。先ほども恐ろしかったが今度はその眼光がオレへ向いている。標的は真正面から対抗できる玉藻姐ではなくただの人間であるオレ一人だけだ。
「今日から、いや、今からや。ゆうた、今からうちの言うこと何でも聞いてもらうで」
「え…っ!?」
「出した損害分全部、体使うて残らずかえすんやで?」
あくどくぎらつく瞳を向けながら唇を舐める仕草がやたらと艶めかしく映るのだった。
15/04/12 22:48更新 / ノワール・B・シュヴァルツ
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