中編
「まずは夕食を作ってもらおか」
案内された台所で割烹着を手渡される。おみつ姐の顔に浮かんでいるはにやにやとした、昔に見た覚えのある笑みだった。
人にどんな迷惑かけてやろうかと画策するいやらしい笑みで。
口では特に言ってこない。注文することはとくにない。つまり、眺めているだけでも楽しいということだろう。
なんと性悪な。だがこちらに非があるので強く出られない。結局仕方なくオレは渡された割烹着に袖を通して包丁を握る。
「冷蔵庫にあるもの使っていいの？」
「ええで。それからつまみも頼もか」
「つまみ？晩酌でもすんの？」
「飯に酒がつかへんなんてありえへんやろ」
典型的な呑兵衛の発言だった。
冷蔵庫の中から適当に材料を見繕い、水で洗ってとんとんとんと包丁で野菜を切り刻む。
背後には相変わらずこちらを見つめるおみつ姐。そんなに言いなりになったオレが面白いのかどこからか椅子を持ってきて座っている。もしも酒があるなら肴にして一杯やってることだろう。
呆れた。昔と何にも変わらない。小悪党みたいな笑い方も、人をいじくり倒して楽しむ性格も、だというのに妖しい雰囲気を纏った綺麗なところも。
ため息をついたその時、突然脇腹に走る刺激に上ずった声が漏れた。
「ひっ！」
「ほぅ。だいぶ筋肉がつきおったな」
臀部から背中にかけて掌が撫で、オレよりも高い体温を残していく。あくどい雰囲気だがその指先は細くて可憐な女性のもの。普通の男なら触れられることに嫌悪などしないだろう。
だが今は料理中。オレの手には包丁が握られている。そんな状況でやられては怪我の一つや二つ負いかねない。
「…危ないんだけど」
「別にええやろ。怪我せん程度に押さえとくさかい気にせんといてな」
「無茶を言わないでって」
「ん？ん？なんや？こないな別嬪から撫でられてうれしくてしゃぁないんか♪」
ニタニタと嬉しそうに笑いながらおみつ姐は顔を覗き込んでくる。悪戯を仕掛ける子供の用に純粋だが頭の中身は純粋さの欠片もないあくどいもの。きっと心行くまで辱めて泣かしたいんだろう、この狸は。
そんな彼女に短く一言。
「自分で言ってて悲しくないの、それ」
「…………あーそういやあの酒得意先のもんやったわ。こら借金さらに上乗せしたろか」
「おみつ姐って美人だよねー！」
まぁ、自他とも似認める美しさは確かに別嬪さんと呼べなくはない。あくどい雰囲気さえなければの話だが、それでもやはり美人である。
でもやっぱりその性格はいただけない。子供の頃にトラウマを植え付けられたせいだろう、この歳になってもまだびくびくしてしまう。
例えば――その指先をズボンにかけて一気に引き下げたりとか。
例えば――その足先で人の脹脛を思い切り抓りあげて跡を残したりとか。
例えば――その顔を首筋に寄せ唾液をたっぷり滴らせた舌で舐って「食ってやる」と囁かれるとか。
「…」
ろくなことされた覚えない。
というか、子供相手になにやってんだろうこの狸は。うちの師匠だってもっと自重……してないか。
椅子へ座り直して視線を向けてくるおみつ姐に小さくため息をつきながら包丁を動かし続けるのだった。
夕食を終えると既に月が昇っている時間帯。冷たい夜風の吹き抜ける庭先には淡い月明かりの下に照らされる長椅子一つ。その上にはいつの間に用意してきたのかお猪口と徳利が数本置かれていた。中身は確認せずとも間違いなく酒だろう。そのさらに隣には夕食のおかずだった鶏の皮のから揚げが置かれていた。つまるところ、月見酒。満月ではないものの、透き通った夜空に淡く輝く月は酒の肴にもってこいだろう。
そんな長椅子の上でオレはおみつ姐の隣に座り、お猪口を傾け酒を注いでいた。
「ひひひ♪懐かしいわ」
実に楽しそうにおみつ姐は笑って酒をあおっていた。香りだけでもくらりとくるほど強烈な酒をまるで水かジュースのように飲み込んだ。白く細いのどが上下し、艶やかな唇からお猪口が離れる。まだ数杯だというのに白い肌は朱に染まり始めていた。
「何が？」
「昔もこうしてもろたのを思い出すわ。つたない仕草で酒を注いどった時のことをな」
「…あったっけ？」
「あったわ。千歳はんがまだ生きとった頃やけどな…」
おばあちゃんの名前を口にするとほんの僅かに寂しげな雰囲気が漂よった。隠してはいるが彼女もまたおばあちゃんと親しくしていた相手だ。生きていた頃には度々通い、オレとあやかの世話も手伝ってくれたのをよく覚えている。おかげで数字には強くなったが基本嫌な出来事しか思い出せない。
空いたお猪口に酒を注ぐ。白く濁った日本酒は月の光を反射して滑らかに落ちていく。細くとも途切れることなくゆっくりと。わずかにたった波で日本酒らしい芳醇な香りが弾けた。
そんなオレの姿をおみつ姐はただ見つめる。楽しそうな顔ではなく、嬉しそうな顔でもなく、悪戯をしようとするあくどい顔でもなく。
どことなく遠くを見るような、それでいて懐かしむような潤んだ瞳で。
「それがまぁ…随分と色っぽい注ぎ方するようになってからに」
「はぁ…？」
「まぁ、あの狐も趣味は悪ないゆうわけか」
「…」
確かにお酒の次ぎ方を一から叩き込んでくれたのは玉藻姐だが狐って…今更確認するまでもないことだが隠している相手に軽々しくばらしてどうするというんだ。こっちだって薄々気づいてはいるが気づかぬ振りをするのも大変なのに。
それは目の前の笑う狸も同じこと。だが彼女は隠すことなく卑しい笑い声を響かせ、つまみのから揚げを口にする。
「ん、美味いわ」
ばりばりと、品も色気もない獣のような食べ方に顔をしかめる。だがそっちのほうが彼女の雰囲気に似合っている。あくどく、それでも美人なおみつ姐が上品に食べていたら寒気がする。
「…なんや失礼なこと思うてるんやないか？」
「べっつにー」
視線に感づいたのかおみつ姐はこちらを睨みつけてくるがオレはかまわずお猪口に酒を注ぎ、から揚げを一つ口に放り込む。するとまぁいいかと呟いて再び彼女は酒をあおった。
そうして二度三度、繰り返して注いでいると夜風の寒さが身にしみてくる。私服姿でも夜風は流石に辛い。それも思わずくしゃみをしてしまうほどに。
「くしゅっ」
「んむ？」
お猪口を離し、潤んだ茶色の瞳がこちらを向く。
「なんや？寒いんか？」
「まぁ夜だし」
「ほんならお猪口持たんかい。うちが直々に注いだるわ」
「飲めないから。二十歳じゃないし」
「男が細かいこと気にしぃひんなや。ほれ」
「飲まないから」
「なんや。うちの酒が飲めへんいうんかい！」
「ちょ、絡み酒やめてよ」
お酒の香りを漂わせ突きつけられるお猪口をいやいや押しのける。女性の細腕だというのにその力は凄まじく、思わずこちらがよろけて椅子の後ろに倒れそうになるほどだ。
だがさすがのおみつ姐も拒絶の態度にあきらめたのか小さくため息をついた。
「まったく、そないな身でよくもまぁうちに注文できるもんやな。飲まんと借金増やしたるで？」
「それでも、こっちにだって軽々しく譲れないもんだってあんの」
「…さすがは千歳はんの孫やな。無駄に肝すわりおって。ちぃと待ちぃ」
お猪口を置いたおみつ姐はどこからかあるものを取り出した。瑞々しい緑色をした薄い紙のようなもの。よくよく見れば編み目のような葉脈が表面を走り、かすかな緑の香りが漂ってくる。
それをおみつ姐はまるで忍者のように頭の上に乗せた。
「え？何で葉っぱ？」
「…っと」
疑問に思った次の瞬間ぽんっと音とともに煙が舞い上がる。ぱたぱたとお盆で煽ると煙は霧散し、消えていく。
そうして煙の中にいたおみつ姐には人間としてあってはならないものが存在していた。
頭の上に生えた丸い耳。臀部からつきだした大きな尻尾が一本。黒いライン状の模様がはいったそれは紛れもなく昼間に見せたものと同じ。
おみつ姐の本来の姿。『刑部狸』の姿である。
「……なにいきなり」
「ほれ、体寄せんかい」
「わ」
大きな狸の尻尾がオレの体に巻き付いてくる。背中に回り、腕の下をくぐるとおみつ姐が体を寄せてきた。
触れ合う肩と肩。膝の上に収まった尻尾の暖かさや僅かな動きが作り物ではないと如実に伝えてくる。これが本物であることなどとうの昔から知っているのだけど。
「これなら温いやろ？」
「そりゃ…まぁ、そうだけど。反応に困るよ」
「こないな美人に寄られてか？」
「…まぁ、美人は否定しないけど」
けたけたおかしそうに笑うおみつ姐を横目に尻尾を抱きしめため息をつく。人にはない部分だが獣の体毛に覆われた柔らかな器官にはちゃんと血も通っているらしく、暖かい。
『刑部狸』
日本三大狸話の一つに数えられる化け狸、だったっけか。
かなり昔のことだが玉藻姐やおばちゃんに教わった記憶がある。昔のことで朧気だがとにかく「騙されるな」と言われた覚えがある。誰にでも優しいおばあちゃんですら言うのだからおみつ姐の性格は相当なんだろう。
「ひひひ。ほんまのこと言ってええんやで？嬉しいんやろ？」
「その美人がやったらめったらトラウマ植えつけてくれなきゃね！」
睨みつけたというのにどこ吹く風。むしろ酒の肴と言わんばかりにお猪口をあおるおみつ姐にため息をついた。
忘れられない昔の事。
おみつ姐にされた悪戯の数々。
ある時は…トイレを我慢するときには下腹部に力を込めずに思い切り押せと教わった。おかげで縁側で漏らして大泣きしたこともあった。
またある時は…タケノコの親はタケオヤといって生で食べるのが通だと教わった。竹林に連れて行かれて実際にかみつこうとしておばあちゃんに止められたこともあったか。
騙しに騙され、恥をかかされ何度泣いたことだろう。生まれてから引っ越すまでの間に涙した数など覚えていない。玉藻姐やおばあちゃんに泣きついたのも数え切れない。
その都度おみつ姐はけたけた笑い転げていたのだからもうこちらとしては生涯残るほどの傷となる。おかげで無駄に精神強くなったわけだが。
「まぁ、そうがなるなや」
オレの反応を楽しんだおみつ姐は再び酒を呷り出す。そうして空になったお猪口にまた酒を注ぐ。
繰り返して二度三度、いくつもの徳利が空になっていくと彼女はお猪口を置いてこちらを見つめてきた。
茶色の目。あくどく影の落ちた瞳はぎらつきながらもまっすぐ向けられている。まるで獲物を狙う獣みたいだが若干潤んでいるのが堪らなく色っぽい。
「しっかし本当に…成長しおって」
おみつ姐はそっとオレの顎を掴むと無理矢理顔を向かせる。
茶色の瞳が優しげに細められ、桜色の唇からは酒気を帯びた息が吐き出された。薄手の浴衣と羽織姿。普段とは少し違う部屋着の袖から延びた腕が月明かりで輝いている。
酒の匂いを忘れてしまうほど色っぽい。狸であることなど関係なしに魅力的。元々それだけの美人なのだからそう思うのも仕方ないだろう。
これで優しいお姉さんだったら言うことなしなんだけど
「…ほれ、もう一杯頼もか」
「はいはい」
手を振りほどいてまだ中身のある徳利を探す。いくつも空になった徳利を指でどけて端にあったものを手に取った。
「…あれ」
徳利傾けたところで一滴も落ちてこない。なら別のを、と探してみるがどれを揺らしても酒の揺れる感じが伝わってこない。
ちらりと置かれた皿をみる。その上に乗っていたから揚げも既になくなっていた。
「お酒なくなったけどどうすんの？とってくるならついでに摘みも作るけど」
「んん？もうないんか……そやな」
若干朱に染まった顔で何かを考え込むおみつ姐は突然何かを思いついたかのように笑みを浮かべた。
「ちぃと肩を貸してもらおか」
「え？あっ」
オレの言葉を待たずに頭を肩へ乗せてくる。その感触を気に入ったのかだらしなく開いた口から「ひひひ」と小悪党な笑い声が漏れた。
茶色の瞳がゆっくり細まり、肩から動かず瞼が閉じる。言葉もなく、悪戯するような動きもなく、ただ体を預けるだけでおみつ姐は体から力を抜いていく。
「ほんまに…」
ぼそり、と耳元に届く小さな声。どこか切ない声の呟きにオレは尻尾を抱きしめた。
「何さ？」
「ひひっ。ほんまに大きくなった思うてな」
感慨深そうに囁くと閉じた瞼が開かれた。茶色の潤んだ瞳が懐かしげにオレを見て、そっとのばされた手が頬に添えられる。頬を摘まんで限界まで伸ばすのか、なんて思っているとその指先は優しく撫でてきた。
「千歳はんが生きとった頃なんてうちの腰ぐらいやったのに。今ではこうして頭預けられるほど大きくなって…ほんま人の成長は早いわぁ」
「…」
しみじみと紡がれた言葉は計り知れないほどの感情と思い出が込められていたに違いない。
オレにはわからない人外の言葉。それがわかるのは同じ立場にいられる玉藻姐達か、いくつもの歳を重ねたおばあちゃん達ぐらいだろう。
ほんの少しだけもどかしい。理解できない子供な自分だからなおの事。
「あぁ、眠いわ。久方ぶりの酒で酔ってもうた。ゆうた、寝室まで運ばんかい」
「…え〜」
「なんや？こないなつまらんところで借金増やしたいんか？」
「借金たてにすんのやめてくれる？」
なんて言ったところで現状おみつ姐に逆らうことはできない。肉親みたいな関係であっても彼女はれっきとした商人だ、この立場を覆すことは絶対ない。
「まったく、仕方ないね」
そう呟いてオレはおみつ姐を立たせた。彼女の足裏に腕を伸ばし、もう片腕を背中に添える。そうしてゆっくりと体重をかけて抱き上げた。
「…おっ」
「なんか言うたか？」
「いも」
「何やそれ」
からから笑うおみつ姐をお姫様抱っこの姿勢で抱き上げる。美人相手にやるのなら悪い気はしないが相手がトラウマを刷り込んできた女性相手だと変に警戒してしまう。
だがオレの疑いとは裏腹に何もしようとしない。素振りすら見せないおみつ姐は「ひひひ」と笑うだけだった。
「それじゃあおみつ姐様、どこまで運びましょうか」
「ほんなら寝室まで頼もか。布団はうちがしいといてやったで。感謝せぇよ」
「はいはい、ありがと」
冷たい廊下を素足で歩き進む。無機質な床板は二人分の体重に軋む音を立て、人肌の熱が染み込んでいく。特に飾り気もない、日本家屋らしい質素な壁を右手に指示されるままに進んでいく。
その間にもおみつ姐は笑っている。不敵に、だけど嬉しそうに。ぱたぱたと揺れ動く尻尾や丸い耳がその感情を如実に表す。妖しい美貌とはまた違う愛らしい姿は反則的だ。
個人的には猫派なんだけど。
「あぁ、ここやで」
熱い息を吐き出しながら腕を伸ばして襖をあける。そしてオレの目に映ったのは他の部屋よりもずっと大きな和室だった。
下に敷き詰められた畳の数々。中央に敷かれた布団になぜだか二つある枕。それからティッシュの箱と妖しい光を発する灯籠が天井を照らしている。
見たことがある。いや、実際にはないがイメージとしてよくありがちな光景をテレビで何度か見たことがある。
「…」
「ひひひ♪」
言葉を失うオレを横目ににやりと笑うおみつ姐は言った。
「ほな、酌の次は伽いってみよか？」
案内された台所で割烹着を手渡される。おみつ姐の顔に浮かんでいるはにやにやとした、昔に見た覚えのある笑みだった。
人にどんな迷惑かけてやろうかと画策するいやらしい笑みで。
口では特に言ってこない。注文することはとくにない。つまり、眺めているだけでも楽しいということだろう。
なんと性悪な。だがこちらに非があるので強く出られない。結局仕方なくオレは渡された割烹着に袖を通して包丁を握る。
「冷蔵庫にあるもの使っていいの？」
「ええで。それからつまみも頼もか」
「つまみ？晩酌でもすんの？」
「飯に酒がつかへんなんてありえへんやろ」
典型的な呑兵衛の発言だった。
冷蔵庫の中から適当に材料を見繕い、水で洗ってとんとんとんと包丁で野菜を切り刻む。
背後には相変わらずこちらを見つめるおみつ姐。そんなに言いなりになったオレが面白いのかどこからか椅子を持ってきて座っている。もしも酒があるなら肴にして一杯やってることだろう。
呆れた。昔と何にも変わらない。小悪党みたいな笑い方も、人をいじくり倒して楽しむ性格も、だというのに妖しい雰囲気を纏った綺麗なところも。
ため息をついたその時、突然脇腹に走る刺激に上ずった声が漏れた。
「ひっ！」
「ほぅ。だいぶ筋肉がつきおったな」
臀部から背中にかけて掌が撫で、オレよりも高い体温を残していく。あくどい雰囲気だがその指先は細くて可憐な女性のもの。普通の男なら触れられることに嫌悪などしないだろう。
だが今は料理中。オレの手には包丁が握られている。そんな状況でやられては怪我の一つや二つ負いかねない。
「…危ないんだけど」
「別にええやろ。怪我せん程度に押さえとくさかい気にせんといてな」
「無茶を言わないでって」
「ん？ん？なんや？こないな別嬪から撫でられてうれしくてしゃぁないんか♪」
ニタニタと嬉しそうに笑いながらおみつ姐は顔を覗き込んでくる。悪戯を仕掛ける子供の用に純粋だが頭の中身は純粋さの欠片もないあくどいもの。きっと心行くまで辱めて泣かしたいんだろう、この狸は。
そんな彼女に短く一言。
「自分で言ってて悲しくないの、それ」
「…………あーそういやあの酒得意先のもんやったわ。こら借金さらに上乗せしたろか」
「おみつ姐って美人だよねー！」
まぁ、自他とも似認める美しさは確かに別嬪さんと呼べなくはない。あくどい雰囲気さえなければの話だが、それでもやはり美人である。
でもやっぱりその性格はいただけない。子供の頃にトラウマを植え付けられたせいだろう、この歳になってもまだびくびくしてしまう。
例えば――その指先をズボンにかけて一気に引き下げたりとか。
例えば――その足先で人の脹脛を思い切り抓りあげて跡を残したりとか。
例えば――その顔を首筋に寄せ唾液をたっぷり滴らせた舌で舐って「食ってやる」と囁かれるとか。
「…」
ろくなことされた覚えない。
というか、子供相手になにやってんだろうこの狸は。うちの師匠だってもっと自重……してないか。
椅子へ座り直して視線を向けてくるおみつ姐に小さくため息をつきながら包丁を動かし続けるのだった。
夕食を終えると既に月が昇っている時間帯。冷たい夜風の吹き抜ける庭先には淡い月明かりの下に照らされる長椅子一つ。その上にはいつの間に用意してきたのかお猪口と徳利が数本置かれていた。中身は確認せずとも間違いなく酒だろう。そのさらに隣には夕食のおかずだった鶏の皮のから揚げが置かれていた。つまるところ、月見酒。満月ではないものの、透き通った夜空に淡く輝く月は酒の肴にもってこいだろう。
そんな長椅子の上でオレはおみつ姐の隣に座り、お猪口を傾け酒を注いでいた。
「ひひひ♪懐かしいわ」
実に楽しそうにおみつ姐は笑って酒をあおっていた。香りだけでもくらりとくるほど強烈な酒をまるで水かジュースのように飲み込んだ。白く細いのどが上下し、艶やかな唇からお猪口が離れる。まだ数杯だというのに白い肌は朱に染まり始めていた。
「何が？」
「昔もこうしてもろたのを思い出すわ。つたない仕草で酒を注いどった時のことをな」
「…あったっけ？」
「あったわ。千歳はんがまだ生きとった頃やけどな…」
おばあちゃんの名前を口にするとほんの僅かに寂しげな雰囲気が漂よった。隠してはいるが彼女もまたおばあちゃんと親しくしていた相手だ。生きていた頃には度々通い、オレとあやかの世話も手伝ってくれたのをよく覚えている。おかげで数字には強くなったが基本嫌な出来事しか思い出せない。
空いたお猪口に酒を注ぐ。白く濁った日本酒は月の光を反射して滑らかに落ちていく。細くとも途切れることなくゆっくりと。わずかにたった波で日本酒らしい芳醇な香りが弾けた。
そんなオレの姿をおみつ姐はただ見つめる。楽しそうな顔ではなく、嬉しそうな顔でもなく、悪戯をしようとするあくどい顔でもなく。
どことなく遠くを見るような、それでいて懐かしむような潤んだ瞳で。
「それがまぁ…随分と色っぽい注ぎ方するようになってからに」
「はぁ…？」
「まぁ、あの狐も趣味は悪ないゆうわけか」
「…」
確かにお酒の次ぎ方を一から叩き込んでくれたのは玉藻姐だが狐って…今更確認するまでもないことだが隠している相手に軽々しくばらしてどうするというんだ。こっちだって薄々気づいてはいるが気づかぬ振りをするのも大変なのに。
それは目の前の笑う狸も同じこと。だが彼女は隠すことなく卑しい笑い声を響かせ、つまみのから揚げを口にする。
「ん、美味いわ」
ばりばりと、品も色気もない獣のような食べ方に顔をしかめる。だがそっちのほうが彼女の雰囲気に似合っている。あくどく、それでも美人なおみつ姐が上品に食べていたら寒気がする。
「…なんや失礼なこと思うてるんやないか？」
「べっつにー」
視線に感づいたのかおみつ姐はこちらを睨みつけてくるがオレはかまわずお猪口に酒を注ぎ、から揚げを一つ口に放り込む。するとまぁいいかと呟いて再び彼女は酒をあおった。
そうして二度三度、繰り返して注いでいると夜風の寒さが身にしみてくる。私服姿でも夜風は流石に辛い。それも思わずくしゃみをしてしまうほどに。
「くしゅっ」
「んむ？」
お猪口を離し、潤んだ茶色の瞳がこちらを向く。
「なんや？寒いんか？」
「まぁ夜だし」
「ほんならお猪口持たんかい。うちが直々に注いだるわ」
「飲めないから。二十歳じゃないし」
「男が細かいこと気にしぃひんなや。ほれ」
「飲まないから」
「なんや。うちの酒が飲めへんいうんかい！」
「ちょ、絡み酒やめてよ」
お酒の香りを漂わせ突きつけられるお猪口をいやいや押しのける。女性の細腕だというのにその力は凄まじく、思わずこちらがよろけて椅子の後ろに倒れそうになるほどだ。
だがさすがのおみつ姐も拒絶の態度にあきらめたのか小さくため息をついた。
「まったく、そないな身でよくもまぁうちに注文できるもんやな。飲まんと借金増やしたるで？」
「それでも、こっちにだって軽々しく譲れないもんだってあんの」
「…さすがは千歳はんの孫やな。無駄に肝すわりおって。ちぃと待ちぃ」
お猪口を置いたおみつ姐はどこからかあるものを取り出した。瑞々しい緑色をした薄い紙のようなもの。よくよく見れば編み目のような葉脈が表面を走り、かすかな緑の香りが漂ってくる。
それをおみつ姐はまるで忍者のように頭の上に乗せた。
「え？何で葉っぱ？」
「…っと」
疑問に思った次の瞬間ぽんっと音とともに煙が舞い上がる。ぱたぱたとお盆で煽ると煙は霧散し、消えていく。
そうして煙の中にいたおみつ姐には人間としてあってはならないものが存在していた。
頭の上に生えた丸い耳。臀部からつきだした大きな尻尾が一本。黒いライン状の模様がはいったそれは紛れもなく昼間に見せたものと同じ。
おみつ姐の本来の姿。『刑部狸』の姿である。
「……なにいきなり」
「ほれ、体寄せんかい」
「わ」
大きな狸の尻尾がオレの体に巻き付いてくる。背中に回り、腕の下をくぐるとおみつ姐が体を寄せてきた。
触れ合う肩と肩。膝の上に収まった尻尾の暖かさや僅かな動きが作り物ではないと如実に伝えてくる。これが本物であることなどとうの昔から知っているのだけど。
「これなら温いやろ？」
「そりゃ…まぁ、そうだけど。反応に困るよ」
「こないな美人に寄られてか？」
「…まぁ、美人は否定しないけど」
けたけたおかしそうに笑うおみつ姐を横目に尻尾を抱きしめため息をつく。人にはない部分だが獣の体毛に覆われた柔らかな器官にはちゃんと血も通っているらしく、暖かい。
『刑部狸』
日本三大狸話の一つに数えられる化け狸、だったっけか。
かなり昔のことだが玉藻姐やおばちゃんに教わった記憶がある。昔のことで朧気だがとにかく「騙されるな」と言われた覚えがある。誰にでも優しいおばあちゃんですら言うのだからおみつ姐の性格は相当なんだろう。
「ひひひ。ほんまのこと言ってええんやで？嬉しいんやろ？」
「その美人がやったらめったらトラウマ植えつけてくれなきゃね！」
睨みつけたというのにどこ吹く風。むしろ酒の肴と言わんばかりにお猪口をあおるおみつ姐にため息をついた。
忘れられない昔の事。
おみつ姐にされた悪戯の数々。
ある時は…トイレを我慢するときには下腹部に力を込めずに思い切り押せと教わった。おかげで縁側で漏らして大泣きしたこともあった。
またある時は…タケノコの親はタケオヤといって生で食べるのが通だと教わった。竹林に連れて行かれて実際にかみつこうとしておばあちゃんに止められたこともあったか。
騙しに騙され、恥をかかされ何度泣いたことだろう。生まれてから引っ越すまでの間に涙した数など覚えていない。玉藻姐やおばあちゃんに泣きついたのも数え切れない。
その都度おみつ姐はけたけた笑い転げていたのだからもうこちらとしては生涯残るほどの傷となる。おかげで無駄に精神強くなったわけだが。
「まぁ、そうがなるなや」
オレの反応を楽しんだおみつ姐は再び酒を呷り出す。そうして空になったお猪口にまた酒を注ぐ。
繰り返して二度三度、いくつもの徳利が空になっていくと彼女はお猪口を置いてこちらを見つめてきた。
茶色の目。あくどく影の落ちた瞳はぎらつきながらもまっすぐ向けられている。まるで獲物を狙う獣みたいだが若干潤んでいるのが堪らなく色っぽい。
「しっかし本当に…成長しおって」
おみつ姐はそっとオレの顎を掴むと無理矢理顔を向かせる。
茶色の瞳が優しげに細められ、桜色の唇からは酒気を帯びた息が吐き出された。薄手の浴衣と羽織姿。普段とは少し違う部屋着の袖から延びた腕が月明かりで輝いている。
酒の匂いを忘れてしまうほど色っぽい。狸であることなど関係なしに魅力的。元々それだけの美人なのだからそう思うのも仕方ないだろう。
これで優しいお姉さんだったら言うことなしなんだけど
「…ほれ、もう一杯頼もか」
「はいはい」
手を振りほどいてまだ中身のある徳利を探す。いくつも空になった徳利を指でどけて端にあったものを手に取った。
「…あれ」
徳利傾けたところで一滴も落ちてこない。なら別のを、と探してみるがどれを揺らしても酒の揺れる感じが伝わってこない。
ちらりと置かれた皿をみる。その上に乗っていたから揚げも既になくなっていた。
「お酒なくなったけどどうすんの？とってくるならついでに摘みも作るけど」
「んん？もうないんか……そやな」
若干朱に染まった顔で何かを考え込むおみつ姐は突然何かを思いついたかのように笑みを浮かべた。
「ちぃと肩を貸してもらおか」
「え？あっ」
オレの言葉を待たずに頭を肩へ乗せてくる。その感触を気に入ったのかだらしなく開いた口から「ひひひ」と小悪党な笑い声が漏れた。
茶色の瞳がゆっくり細まり、肩から動かず瞼が閉じる。言葉もなく、悪戯するような動きもなく、ただ体を預けるだけでおみつ姐は体から力を抜いていく。
「ほんまに…」
ぼそり、と耳元に届く小さな声。どこか切ない声の呟きにオレは尻尾を抱きしめた。
「何さ？」
「ひひっ。ほんまに大きくなった思うてな」
感慨深そうに囁くと閉じた瞼が開かれた。茶色の潤んだ瞳が懐かしげにオレを見て、そっとのばされた手が頬に添えられる。頬を摘まんで限界まで伸ばすのか、なんて思っているとその指先は優しく撫でてきた。
「千歳はんが生きとった頃なんてうちの腰ぐらいやったのに。今ではこうして頭預けられるほど大きくなって…ほんま人の成長は早いわぁ」
「…」
しみじみと紡がれた言葉は計り知れないほどの感情と思い出が込められていたに違いない。
オレにはわからない人外の言葉。それがわかるのは同じ立場にいられる玉藻姐達か、いくつもの歳を重ねたおばあちゃん達ぐらいだろう。
ほんの少しだけもどかしい。理解できない子供な自分だからなおの事。
「あぁ、眠いわ。久方ぶりの酒で酔ってもうた。ゆうた、寝室まで運ばんかい」
「…え〜」
「なんや？こないなつまらんところで借金増やしたいんか？」
「借金たてにすんのやめてくれる？」
なんて言ったところで現状おみつ姐に逆らうことはできない。肉親みたいな関係であっても彼女はれっきとした商人だ、この立場を覆すことは絶対ない。
「まったく、仕方ないね」
そう呟いてオレはおみつ姐を立たせた。彼女の足裏に腕を伸ばし、もう片腕を背中に添える。そうしてゆっくりと体重をかけて抱き上げた。
「…おっ」
「なんか言うたか？」
「いも」
「何やそれ」
からから笑うおみつ姐をお姫様抱っこの姿勢で抱き上げる。美人相手にやるのなら悪い気はしないが相手がトラウマを刷り込んできた女性相手だと変に警戒してしまう。
だがオレの疑いとは裏腹に何もしようとしない。素振りすら見せないおみつ姐は「ひひひ」と笑うだけだった。
「それじゃあおみつ姐様、どこまで運びましょうか」
「ほんなら寝室まで頼もか。布団はうちがしいといてやったで。感謝せぇよ」
「はいはい、ありがと」
冷たい廊下を素足で歩き進む。無機質な床板は二人分の体重に軋む音を立て、人肌の熱が染み込んでいく。特に飾り気もない、日本家屋らしい質素な壁を右手に指示されるままに進んでいく。
その間にもおみつ姐は笑っている。不敵に、だけど嬉しそうに。ぱたぱたと揺れ動く尻尾や丸い耳がその感情を如実に表す。妖しい美貌とはまた違う愛らしい姿は反則的だ。
個人的には猫派なんだけど。
「あぁ、ここやで」
熱い息を吐き出しながら腕を伸ばして襖をあける。そしてオレの目に映ったのは他の部屋よりもずっと大きな和室だった。
下に敷き詰められた畳の数々。中央に敷かれた布団になぜだか二つある枕。それからティッシュの箱と妖しい光を発する灯籠が天井を照らしている。
見たことがある。いや、実際にはないがイメージとしてよくありがちな光景をテレビで何度か見たことがある。
「…」
「ひひひ♪」
言葉を失うオレを横目ににやりと笑うおみつ姐は言った。
「ほな、酌の次は伽いってみよか？」
15/04/27 00:18更新 / ノワール・Ｂ・シュヴァルツ
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