白昼の笑み
「…嘘だろ」
頬を撫でる暖かな風を感じ、花びらの舞う現自宅―ジパングという国のとある町、そのはずれの山にある龍神の神社にてオレは呟いた。
目の前にあるのは赤々とした鳥居。かなりの年月が経っているのか所々ひび割れているがそれでも厳粛な雰囲気を感じさせる。いつもなら自宅で朝食を済ませこの下をくぐって町に行き、夜には夕食を済ませたり済ませぬまま帰ってきてこの下をくぐる。それがオレの日常であり、始まり方と終わり方である。
だというのに。
「…」
鳥居の下に手を伸ばす。伸ばしたところで届くものはなにもなく、向こう側には下りの石段があるだけだ。
だが。
「…っ」
鳥居のちょうど真下でごつんと、指先が硬質なものに触れた。
つつくがそれはまるで鉄のように堅く、だというのに堅さ以外にはなにも感じられない。冷たくもないし、暖かくもなく、ただの壁のごとく堅いだけだ。表面を撫でれば滑らかで煉瓦や土、石壁とはまた違った感触を伝えてくる。だというのに、オレの目には何も映ってない。壁があるようにはぜんぜん見えない。
「…どうしてだよ」
普段だったらもう町についているというのに未だに自宅の敷地から出られない。というのも鳥居をくぐらずに石段へ向かっても同じように見えない壁に阻まれるからだ。
試しに近くに転がっていた石を拾い上げると鳥居へと転がす。だが石は壁に阻まれることなく向こうがわに転がった。
続いて腰に指した十手を握りつきだした。十手は何にも遮られることなく鳥居を突き抜ける。だが、手だけが向こう側へと至る寸前指先が壁にぶつかった。
「…」
石や十手は阻まずオレだけを押さえ込むように立つ見えない壁。まるでこれは閉じこめられているみたいではないか。神社の呪いとでもいうのだろうか。だがこの神社に住んでいた龍神はここにはいないはず。祟る神様もいないということだろう。だというのにこれはどうしたことか。
「やばいな…」
どうしよう。これでは遅刻どころか欠勤だ。先輩はそういうところは本当に厳しいから説教どころじゃ済まないだろう。事情を話せばわかってもらえるだろうが遅れた分倍に仕事を増やされかねない。意地でも出て行かなければ。そう思って拳を握りしめた。
「せぃっ!!」
全力の一撃。拳に伝わってきたのは金属でも殴り抜いたような衝撃と鈍い痛み。骨が軋んだ音が小さく腕に響いてきた。
瓦なら一枚や二枚程度たやすく砕いている。木の板でも同様だ。だがオレの拳は鳥居より外に出ることはなくやはり見えない壁にここから出るな言わんばかりに止められていた。
「…冗談だろ」
今度は蹴りを放つが先ほど同様金属に近い感触と衝撃を伝えてくるだけで破れはしない。何度繰り返しても結果は変わらなかった。
これだけやっても抜けられないのならオレにはもう打つ手はない。
なら、オレ以外の手を借りることにしよう。
同心の先輩からもらった神通力を練り込んだ特別製十手。それは同心の証でありながら音叉のように震えれば遠くの十手と音声を共有することができるという早い話が携帯電話のような代物だ。いざというときには使えと言われて持たされていて良かった。
十手を握り込み鳥居へ先端を向け叩こうとしたそのときだった。
「あら、ゆうたさん」
「え?」
真正面の石段から一人の女性が上ってくる。徐々に露わになる姿は日の光を浴びて真っ白に輝いていた。
「すずしろ、さん…?」
「どうも」
髪の毛は雪のように白く、身に纏っている衣服もまた白。耳は尖って人間とは少し違った顔立ちをしている。通った鼻筋に薄桜色の唇。傷のない白い肌は滑らかで触れてみたいほど柔らかそうだ。特徴的なのは下半身だろう。呉服屋を営むジョロウグモのしのさんは下半身は蜘蛛のそれだった。以前出会ったウシオニのきなささんもまた同じ。だが彼女の下半身は蜘蛛ではない。まるで雪をちりばめたような真っ白に輝くそれは鱗。柔らかくたゆみ、日の光を反射して煌びやかに輝く、長く伸び、人の胴体ほどの太さのあるそれは蛇であった。
彼女は白蛇。龍神に使える巫女のような妖怪らしい。
現在オレが住まう場所はこの町から外れた山にある元龍神の神社だ。そこの龍神に仕えていたらしい彼女は現在神の居なくなった神社管理を手伝って貰っている。
「…どうかしましたか?」
彼女は首を傾げながら鳥居をくぐろうとこちらに近づいてきた。だが、そのままだと見えない壁にぶつかってしまう。
「危ないっ!」
あわてて止めるも時既に遅く彼女は鳥居をくぐろうとして頭を―ぶつけなかった。
「…あれ?」
「どうかしましたか?」
不思議そうな顔で彼女はオレの顔をのぞき込んでくる。それはつまり既に体は鳥居の内側に入っているということだ。あの見えない壁をぶつからずに越えて入ってきたということだ。
…どういうことだろう。
「…すいませんが今度は鳥居を出てもらえませんか?」
「え?どうかしましたか?私、何か嫌われるようなことでも…」
「いや、そういうんじゃなくてちょっと確かめたいことがあって」
オレの指示を怪訝に思いながらも彼女は従って鳥居をくぐる。だがオレと同じように壁にぶつかることもなくたやすく鳥居の外側へと抜け出ていた。
「…」
少なくとこれではっきりした部分がある。この壁は入ることはできても出ることはできないという一方通行なものではないということ。いや、それよりもずっと大事なのは―
―この見えない壁が作用しているのはオレだけということ。
「…マジでか」
もしかしたらオレ以外の人間にも作用するのかもしれないがここへと訪れる人間はまずいない。というのもここは九尾の稲荷であるいづなさんの自宅同様に立地条件が悪いからだ。昔は龍神がいたというが今はいないし来る意味もない。
―なら、頼れるのは先輩だろうか。
彼女は神通力を扱うカラス天狗だ。それならこんな不思議な現象も対処できるかもしれない。
…いや、だが待てよ。それならこの場所に詳しい彼女の方がいいのかも。
龍神の巫女である白蛇のすずしろさん。彼女ならこの神社で起きること、今まで起きたことを知っているだろう。それなら先輩以上に頼れるのではないか。
再び鳥居をくぐって戻ってきたさんにオレは頭を下げた。
「すずしろさん、助けてください」
「…なるほど。事情はわかりました」
流石に外で話をするというのもなんなのでオレと彼女は神社内の居住空間へと場所を移していた。ちゃぶ台に向かい合って座っており、お互いの前にはお茶の入った湯呑みが置かれている。ついでにそのとなりには有名な甘味所の羊羹が置かれていた。
「不思議なことですね。そのようなことが自然に起きるはずはありませんのに」
「そうなんですか」
「ええ、私の知りうる限りでは結界に近いものを感じますね」
結界というとバリアーみたいなあれだろう。外力に強く、内側のものを守る見えない障壁。または内側のものを閉じこめておく厳重な牢獄。この状況では後者のものだろう。
「私も結界の心得はありますがさっぱりですね」
「すずしろさんも結界をはれたりといたりできるんですか?」
「ええ、以前は龍神様の儀式の際誰も邪魔を入れないために結界をはることがありました」
「なら、今この神社にあるあれをどうにかすることはできませんかね?」
オレの言葉にすずしろさんはもうしわけなさそうに首を振った。
「すいません、心得ているというだけで結界の全てを知っているわけではないのです。私にはせいぜい自分の作った結界しか扱えません」
「…そう、ですか」
つまるところ外の結界はどうにもできないということであり、オレはこの敷地から出ることはできないと言うことだ。
…どうするか。一応食材は買い置きがいくらかあるからしばらくは町に行かなくとも平気だが同心の仕事にでられないのでは先輩に迷惑をかけてしまう。
「本当にすいません」
「あ、いや、いいんですよ、すずしろさん」
「ですが私の力及ばずで…」
「そんなこと言わないでくださいよ。オレ一人だと何もわからなかったんですから。それに出られないってわかれば今日は神社の管理をすればいいだけですからね」
普段休日にしかできないことだがどうせ神社の外に出られないのならちょうどいいだろう。天気も晴れだし散った花びらの掃除や境内の掃除でもするとしよう。まぁ、本当は昨日休みだったから粗方終わらせたのだが。
「ですが、ゆうたさん。いつまでもこうしてはいられないんではないですか?例えば食料がつきたときにはどうするんですか?」
「…そこなんですよね」
一応それなりに買い置きがあるとはいえ一月ももつような量はない。この状況がそれだけ長引くかはわからないが最悪餓死する可能性もある。探せば食べられる山菜とかあるだろうが春である今だけだ。
「それなら、私に手伝わせてください」
「え?」
「私もこの神社を管理すべき巫女です。本来ならば私がやらねばならないこと、それをいつもゆうたさんにおしつけてしまって申し訳なく思っていたのですからこういう時には私に頼っていただけませんか?」
「ですがオレがここに住むことは神社の管理が条件でしてそんな気を遣わなくてもいいんですよ」
「気を遣っているのではありません。それとも…私ではただ迷惑なだけでしょうか」
年上の申し出を、それもかなりの美女の言葉を無碍に断るのは気が引ける。何より迷惑をかけているのは彼女ではなくオレなんだ、ここで拒否するのはさらに迷惑をかけることになりそうだ。
「…そうですね、それならお願いしちゃいましょうか」
「はい、任せてください。それじゃあゆうたさんは休んでいてくださいね」
そう言ってすずしろさんは立ちあがった。そのまま玄関へと向かって進んでいくのかと思いきやオレの隣へと近寄ってくる。
「それではこちらはお預かりしますね」
「え?」
伸びてきた手がオレのベルトに刺した十手を掴んだ。引き抜くと自分の着物の帯に差し込む。
「すずしろさん?」
「普段だって同心としてがんばっているのですから今日くらいは同心である事なんて忘れてちゃんと休んでください。体をこわしたら元も子もないでしょう?」
「そうはいっても一応先輩から連絡が入るかもしれませんのでその十手は…」
言い切る前にすずしろさんの指先がオレの唇に触れる。指先は撫でるように頬へと移動するとある場所を撫でた。今では何もないが、かつては怪我をした部分だ。
「ゆうたさんは普段から頑張りすぎです。怪我をすることだってあるのですからもう少し自分をいたわるべきですよ。ですから私が街に行ったとき事情を話しておきますからちゃんと休んでくださいね」
撫でた指先を自分の唇に添えて微笑み、すずしろさんは部屋を出て行ってしまった。その後玄関の戸を開く音が聞こえ、たぶんもう石段を下りている頃だろう。
「…仕方ないか」
昼までにはまだ時間がある。なら今できることは散った花びらの後始末。昨日掃除したとは言え場所によっては桜の絨毯ができあがってるところもある。それなら彼女が帰ってくるまで箒で掃いてよう。そう思ってオレもまた部屋から出ていくのだった。
しばらくしてすずしろさんが戻ってきたその後、掃き掃除を終えたオレは庭先を眺められる縁側に座っていた。隣ですずしろさんも座り、その手元にはお茶の入った湯呑みがある。彼女が淹れてくれたものだ。
「お疲れさまです、ゆうたさん」
「すずしろさんこそ。ありがとうございます」
「いえいえ」
お互い一仕事を終えて休憩中。といってもこれからすることなんて昼飯の用意ぐらいであとはすることがない。というわけでオレとすずしろさんは特にすることもなくお茶を片手に縁側でくつろぐのだった。
温かな春の日差しに照らされる庭先。先ほど掃いたにもかかわらずいくつもの花びらが舞い散っていく。これなら掃除せずに洗濯だけやっておくべきだっただろうか。
そんな景色を眺めながらお茶を啜っていたすずしろさんがオレの方へと視線を向けた。
「ありがとうございます、ゆうたさん」
「え?」
突然のお礼の言葉に首をかしげるとすずしろさんが柔らかな微笑みを浮かべた。
「いつも神社をこんなにきれいにしていただいて」
「ああ、そりゃここに住む条件が神社の管理ですからね」
「住む条件だからといってここまで丁寧にする人はそういませんよ」
そう言ってすずしろさんは縁側の床を指先で擦った。指先は変わることなく綺麗なままで埃なんてものは一つもついていない。
「仕事はどれも丁寧で、神社だって細かなところまで綺麗にしてくれて。それだけではなく仕事熱心で街では同心をしているじゃないですか。丁寧で優しくて、それで頑張り屋さん。とても素敵です」
「…そういわれると照れますね」
誉められるのは嫌じゃないがくすぐったい。その相手が美女ならなおさらだ。誤魔化すように頬をかいたがきっと顔は赤くなってることだろう。
少し涼しい風が頬を撫で、隣のすずしろさんの髪をなびかせた。処女雪のように真っ白なそれは光を反射し靡く様は神々しさすら感じる。元々神様に仕える巫女というのだからその雰囲気もまた神秘的なものだ。
そんな女性が今オレの隣にいる。人気のない居住空間で二人きりで。
オレの視線に気づいたのかすずしろさんは笑いかけてきた。下半身は蛇であっても美女であることに変わりないのにそんな表情浮かべられては反則だ。
「どうかしましたか?」
「いえ、こういうの好きだなって思いまして」
「え!?そ、それは……も、もしかして私の髪の毛でしょうか!?ゆうたさんも艶やかな黒髪で素敵だと思いますよ!」
「いえ、髪の毛ではなくて」
手元のお茶を一度すすってため息をつくとオレもまた笑いかける。
「側に誰かがいるっていいなぁって思いまして」
「ふふ、そうですね」
お互いに一人暮らしの身である故に一人の寂しさはよく知っている。だからこそ、こうして一人ではない時間のありがたみをよくわかっていた。
「昔は龍神様と一緒だったんですけどね。それでもいつのまにか彼女の隣には一人の男性がいて、気づけばその男性が旦那様になっていました」
神様と人間で夫婦になるというのはこの国ではそう珍しいことではないらしい。むこうの山にいる九尾の稲荷であるいづなさんも一人の女性、ならいつかは結婚することもあるだろう。
かつての光景を思い出しているのか彼女は頬に手を当てて瞼を閉じている。
「いつか、私もあのような殿方と添い遂げることがいいなと何度思ったことか」
うっとりとした表情で抱いた憧れを話すすずしろさん。その姿はまさしく恋する乙女の姿。人外だろうが一人の女性、やはり結婚願望というのはあるのだろう。
だがこれほどまでの美女だ。下半身が蛇だろうが男だったら放っておかないだろう。
「すずしろさんなら絶対にできますよ。気だてが良くて、優しくて、それで美人なんですから」
「ありがとうございます」
ほんのりと恥ずかしそうに頬を染めたすずしろさん。やっぱり美人はどんな顔をしても綺麗なもんだなとしみじみ思いながらまたお茶をすする。
「なら、そのときは―」
一瞬ねっとりとからみつくような声色に彼女の方を向いた。だが肝心の言葉は突然吹いてきた風に遮られて聞こえない。何を言ったのか訪ねようと湯呑みをおいたそのとき。
「そろそろお昼ごはんの時間ですね」
「え?」
いつの間にか真上に上っていた太陽を見上げてすずしろさんが立ち上がった。
「待っててくださいね。今とびきりおいしいお料理作ってきますから」
「え!?そんな!そこまでしてもらうわけにはいきませんよ!」
「いいからいいから。ゆうたさんは休んでいてください」
オレの肩を叩くとそのまま台所へと向かっていこうとする。それを止めようと手を伸ばすとふと気づいたように振り返った。
「せっかくだからお夕飯も作っていきましょうか?」
「…」
にっこり笑うずすしろさんを前に嬉しさ半分申し訳なさ半分にオレは伸ばした手を下ろすのだった。
気づけば昼どころか日は落ち、月も昇る夜の時間。だというのに彼女は未だにオレの側にいて真っ白な割烹着を纏っていた。
「それじゃあ、お夕飯今作りますからね?」
「いや、そんなとこまで迷惑かけるわけには」
「私がやりたいんですからいいんですよ。ゆうたさんは待ってるだけでいいですからね」
「いや、ちょっと」
オレの返答を聞くよりも先に台所へと進んでいくしずしろさん。白い鱗の生え揃った蛇の尻尾がどことなく嬉しそうに左右に揺れる。そんな姿を見ると断るのに気が引けた。だからといって全て任せるのも引け目を感じる。せめて手伝おうと歩み寄ればやんわりと拒絶する様に尻尾で背中を押された。
…仕方ないか。
しばらくして並べられた料理はどれも見栄えよく食欲を刺激する香りを漂わせてくる。ふんわりとした卵料理にほうれん草とごまの和え物。塩のみで味付けした焼き魚に香の物、赤味噌を用いたお味噌汁には透き通ったネギと豆腐、さらには真っ白に輝く白米がまぶしい。
さすがにオレもここまでできるものではない。只でさえ釜を使ってのご飯というのは調整が難しく、現代で電化製品に頼り切っていた身としては上手く炊くこつなんてまだわからない。
「すごいですね。お店開けるんじゃないですか?」
「うふふ、それほどでもありませんよ。料理は得意なんです。たくさん作りましたから遠慮せずにおかわりしてくださいね」
本当にいい女性だと思う。料理はできるし気だてはよく、優しいしさらには美人だ。真っ白な髪の毛や透き通った肌は例え人外であっても男ならば心奪われることだろう。結婚だってできないのが不思議なくらいに魅力的。そんな女性がオレの為に料理を振る舞ってくれる。一人暮らしの身としてはこれ以上嬉しいことはない。ふと声に漏らしてしまうほど。
「…いいなぁ」
「え?」
「あ、いえ、一人でここに暮らしてるから毎回夜は寂しい食事なんですよ。帰ってくる時間も場所が場所だからかなり遅くになってしまいますしね」
オレが同心の仕事を終えるのは結構早めの時間である。時折急用が入って真夜中までやることもしばしあるが基本的には日が暮れる前には終わる。その後この神社へと帰ってくるまでにはかなりの時間がかかりつく頃にはあたりは真っ暗だ。そんな中一人食事の準備をするのはあまりにも寂しいものであり、一人でとる食事は味なんて食べられればいいだけのものだ。
「それなら…私が作ってあげましょうか?私も一人暮らしで寂しいのは同じですから」
「いや、そこまでしてもらうのは申し訳ないですよ。それに時々は同心の先輩に夕飯に連れてって貰うこともありますしね」
「…そう、ですか」
「っ」
今の一言だけ彼女の声色がかわった気がした。少しだけ、ほんの少しだけ背筋を震わせるような冷たいものに。だがそれはほんの一瞬のことで彼女はすぐにオレの料理を勧めてくる。
「こちらのは自信作なんです。よく味わって食べてくださいね」
「はい、いただきます。あ、そうだ」
料理に手をつけようとした寸前オレはその場から立ち上がり台所へと足を運ぶ。しばらくして奥の戸棚から一升瓶とお猪口を抱えて戻ってきた。
「して貰ってばかりではわるいですからお酒、飲みますか?」
「え、そんな…悪いですよ」
「オレ飲めないんで誰かに飲んで貰うしかないんですよ。このまま腐らせるにはもったいないですからね」
実際この酒は知り合いのアカオニから貰ったかなりの上物らしい。先輩曰く知名度はかなりのもので売れば結構な金になるという。だが貰い物をたやすく手放せるわけもなく、また未成年故飲むこともできず戸棚の奥にいくつも並んでしまっていた。
封をあけ、お猪口へ注いでいく。それをすずしろさんへと差し出した。
「どうぞ」
「でも、そんな…」
そういいつつも視線は酒へと注がれる。どうやら彼女も酒は好むらしい。蛇だけにうわばみなのかもしれない。
「殿方の前でふしだらな姿を晒すというのはいただけません」
「…」
すずしろさんのふしだらな姿。ちょっと見てみたいかも。
なんて邪な考えはすぐさま振り切り彼女の手をとった。細いきれいな指先に触れ滑らかな肌を感じつつもその指先にお猪口を乗せる。
「あっ」
「どうぞ。酔いつぶれても介抱なら任せてください」
オレは料理を食べ、彼女に酒を注ぐ。彼女は注がれる酒を売まそうに飲み干し料理を摘む。そんな一人ではない夕食を続けて気づけば。
「…寝ちゃったか」
こくりこくりと船を漕いでいた彼女は横になって眠ってしまった。真っ白な頬を朱に染めた寝顔はとても艶やかで妖しい色香を纏ってる。蛇故にうわばみかと思いきやそこまで強くはないのだろうか。
「…すずしろさん」
名前を呼んでみるが反応はない。結構深く眠ってる。これなら何をしてもしばらくは起きないだろう。
例えばその柔らかな頬をつついてみたり。
例えば桜色の唇に唇を重ねたり。
例えば滑らかな肌をなでてみたり。
例えばその大きな膨らみに指を―
「…」
オレはゆっくり手を延ばす。無防備に眠るすずしろさんの体へと。音を立てずに、その指先を腰へと向け―
「―…っと」
帯に刺さっていた十手を引き抜いた。それの重さを確認するように握り込むと静かに居間から出て行く。
既に時間は夜中。報告するにも襲い時間帯だが先輩に心配をかけてしまったことに対する謝罪と報告をしなければ。すずしろさんに伝えてもらったとしてもやはりこういうことは自分の言葉で言うべきだろう。この時間帯なら先輩もまだ起きているはずだし。
家の中で話すのは彼女を起こしそうで気が引ける。それに一度没収されたものを勝手にとってばれてはあまりいい気はされない。故にオレは外に出ようと靴を履いて戸をあけた。まだまだ寒い春先の夜風が身にしみる。
「さてと」
神通力で作られた遠隔通信機用十手。その先端を弾こうと足を進めながら指を突きだしたそのとき。
「―いてっ」
額になにか堅いものがぶつかった。
一体なんだと思って顔を上げるが目の前にはいつも朝っぱら出て行くときに見る玄関先の光景しかない。頭にぶつかるようなものはまったくない。
「…」
…まさか。そう考えるよりも先に十手を握ったまま手をつきだした。
すると案の定十手は突き抜けるのだがオレの手だけが堅い何かに阻まれ敷居の先には出られない。見えない壁があるようにオレの手を遮るそれは間違いなく、今朝この神社の敷地内に張られていたものと同じものだ。
「…なんだよ」
二度三度、拳をたたきつけるが硬質な感触が伝わってくるだけで音すら響かない。
これは…流石におかしいと思うしかない。
最初はオレを境内に閉じこめるように張られていた結界。それは今玄関に、もしかしたら他の勝手口や縁側にも張られているかもしれない。徐々にせばまる空間は明らかに意図的なものだろう。
なんで、どうして、そして誰が?
こういうときこそ先輩に助けを求めるべきか。彼女はカラス天狗、神通力を遣う彼女なら打開策を授けてくれることだろう。なんだかんだで面倒見のいい性格だしこんな不可解なことが起きたら助けてくれるはずだ。
それに、あの町には九尾の稲荷であるいづなさんもいる。彼女にいたっては神様とあがめられる存在だ。その力なら結界の一つや二つたやすく破れることだろう。
あの二人に早いところ頼んでおくべきだったが今十手はオレの手元にある。これなら先輩と連絡がとれてそこから助けを―
「―どうかしましたか、ゆうたさん」
「っ!?」
突然方に手を置かれた。それだけではなく耳元で妖しく言葉を囁かれる。酔いが醒めて起きたのかはたまた物音で起きてしまったのか、あまりにもいきなりのことで思わず十手を取り落としてしまった。甲高い音を立てて十手は敷居の向こう側へと転がっていく。
「あっ」
「もう、私を起こしてもいいじゃないですか。突然いなくなられて驚きましたよ」
「す、すいません。あまりにも気持ちよさそうに眠っていたもので」
慌てて振り返りながら十手へと手を延ばす。だがかなり先まで転がってしまい、さらには手は結界によって敷居を越えることはできない。何か長い箒か、すずしろさんに頼まなければとれないだろう。
だが彼女はオレの肩をつかんだ。
「もう、ゆうたさんたら本当にお優しいんだから。でも春とはいえ夜はまだ冷えますからこんなところにいては風邪を引いてしまいますよ。お風呂の用意をしておきましたからどうぞこちらに」
まだ酔いが残っているのかほんのりと赤い頬をしたすずしろさんは風呂に入るように促してくる。だがそれだけではなくきっちりと玄関の戸を閉め鍵すらかける。十手はこの向こう側に落ちたというのにだ。
偶然か、はたまた意図的なものかはわからない。彼女に言って十手をとって貰おうかと考えたが彼女は風呂場へと押しやってくる。まるで早く離れろと言わんばかりに。
「あのっすずしろさんっ!」
「はい、何ですか?」
「先に入ってきてどうでしょうか?こんな今まで世話になりっぱなしなんですから一番風呂ぐらいは譲りますよ」
「あら、家主さんをさしおいて私が入るなど図々しい真似はできませんよ」
「その家主がいいって言ってるんですよ。これだけ世話になっているんですからせめてそれぐらいは譲りますって」
「それなら―」
いったん言葉を区切ったすずしろさんは胸元に手を当てた。巫女服と言うにはあまりにも過激な露出の多いその姿では彼女の放漫な胸の谷間が強調される。うっすらと朱に染まった頬で瞳には熱をはらませて、彼女は普段と違う雰囲気をまといながら言った。
「―お背中、流しましょうか…?」
「っ!」
ぞくっと背筋が震えた。
まるで淫らに誘う娼婦の姿。神に仕えた巫女と同じ女性とは思えない色気に溢れるすずしろさんを見て思わず喉がなる。
その言葉にその雰囲気。ただ背中を流す程度で済ますだけにはあまりにもいやらしく、甘い声色だった。男だったら誰もが期待し胸を高鳴らせることだろう。健全な高校男児も例外ではない。
「な、何言ってるんですか。ほら、オレが良いって言ってるんですから」
だが素直にうなずけないのはやはりオレがへたれだからか。はたまたその雰囲気になにやら違和感を感じたからか。彼女の背中に回り込むとさっさと脱衣所の方へと背中を押しやった。下半身が蛇であろうが押される力に従って彼女はそのまま進んでいく。
そのまま脱衣所においやるとオレはすぐさま玄関にかけていく。
やはり十手は回収しておかなければ。あれがなければ同心はつとまらないし、盗まれでもしたら大目玉だ。それに先輩から連絡があるかもしれない。
長さ的にぎりぎり届くだろう箒を握ると転がった十手をとるため鍵を開け戸を引こうと手をかける。
「…は?」
だが、閉められた戸はぴくりとも動かなくなっていた。
頬を撫でる暖かな風を感じ、花びらの舞う現自宅―ジパングという国のとある町、そのはずれの山にある龍神の神社にてオレは呟いた。
目の前にあるのは赤々とした鳥居。かなりの年月が経っているのか所々ひび割れているがそれでも厳粛な雰囲気を感じさせる。いつもなら自宅で朝食を済ませこの下をくぐって町に行き、夜には夕食を済ませたり済ませぬまま帰ってきてこの下をくぐる。それがオレの日常であり、始まり方と終わり方である。
だというのに。
「…」
鳥居の下に手を伸ばす。伸ばしたところで届くものはなにもなく、向こう側には下りの石段があるだけだ。
だが。
「…っ」
鳥居のちょうど真下でごつんと、指先が硬質なものに触れた。
つつくがそれはまるで鉄のように堅く、だというのに堅さ以外にはなにも感じられない。冷たくもないし、暖かくもなく、ただの壁のごとく堅いだけだ。表面を撫でれば滑らかで煉瓦や土、石壁とはまた違った感触を伝えてくる。だというのに、オレの目には何も映ってない。壁があるようにはぜんぜん見えない。
「…どうしてだよ」
普段だったらもう町についているというのに未だに自宅の敷地から出られない。というのも鳥居をくぐらずに石段へ向かっても同じように見えない壁に阻まれるからだ。
試しに近くに転がっていた石を拾い上げると鳥居へと転がす。だが石は壁に阻まれることなく向こうがわに転がった。
続いて腰に指した十手を握りつきだした。十手は何にも遮られることなく鳥居を突き抜ける。だが、手だけが向こう側へと至る寸前指先が壁にぶつかった。
「…」
石や十手は阻まずオレだけを押さえ込むように立つ見えない壁。まるでこれは閉じこめられているみたいではないか。神社の呪いとでもいうのだろうか。だがこの神社に住んでいた龍神はここにはいないはず。祟る神様もいないということだろう。だというのにこれはどうしたことか。
「やばいな…」
どうしよう。これでは遅刻どころか欠勤だ。先輩はそういうところは本当に厳しいから説教どころじゃ済まないだろう。事情を話せばわかってもらえるだろうが遅れた分倍に仕事を増やされかねない。意地でも出て行かなければ。そう思って拳を握りしめた。
「せぃっ!!」
全力の一撃。拳に伝わってきたのは金属でも殴り抜いたような衝撃と鈍い痛み。骨が軋んだ音が小さく腕に響いてきた。
瓦なら一枚や二枚程度たやすく砕いている。木の板でも同様だ。だがオレの拳は鳥居より外に出ることはなくやはり見えない壁にここから出るな言わんばかりに止められていた。
「…冗談だろ」
今度は蹴りを放つが先ほど同様金属に近い感触と衝撃を伝えてくるだけで破れはしない。何度繰り返しても結果は変わらなかった。
これだけやっても抜けられないのならオレにはもう打つ手はない。
なら、オレ以外の手を借りることにしよう。
同心の先輩からもらった神通力を練り込んだ特別製十手。それは同心の証でありながら音叉のように震えれば遠くの十手と音声を共有することができるという早い話が携帯電話のような代物だ。いざというときには使えと言われて持たされていて良かった。
十手を握り込み鳥居へ先端を向け叩こうとしたそのときだった。
「あら、ゆうたさん」
「え?」
真正面の石段から一人の女性が上ってくる。徐々に露わになる姿は日の光を浴びて真っ白に輝いていた。
「すずしろ、さん…?」
「どうも」
髪の毛は雪のように白く、身に纏っている衣服もまた白。耳は尖って人間とは少し違った顔立ちをしている。通った鼻筋に薄桜色の唇。傷のない白い肌は滑らかで触れてみたいほど柔らかそうだ。特徴的なのは下半身だろう。呉服屋を営むジョロウグモのしのさんは下半身は蜘蛛のそれだった。以前出会ったウシオニのきなささんもまた同じ。だが彼女の下半身は蜘蛛ではない。まるで雪をちりばめたような真っ白に輝くそれは鱗。柔らかくたゆみ、日の光を反射して煌びやかに輝く、長く伸び、人の胴体ほどの太さのあるそれは蛇であった。
彼女は白蛇。龍神に使える巫女のような妖怪らしい。
現在オレが住まう場所はこの町から外れた山にある元龍神の神社だ。そこの龍神に仕えていたらしい彼女は現在神の居なくなった神社管理を手伝って貰っている。
「…どうかしましたか?」
彼女は首を傾げながら鳥居をくぐろうとこちらに近づいてきた。だが、そのままだと見えない壁にぶつかってしまう。
「危ないっ!」
あわてて止めるも時既に遅く彼女は鳥居をくぐろうとして頭を―ぶつけなかった。
「…あれ?」
「どうかしましたか?」
不思議そうな顔で彼女はオレの顔をのぞき込んでくる。それはつまり既に体は鳥居の内側に入っているということだ。あの見えない壁をぶつからずに越えて入ってきたということだ。
…どういうことだろう。
「…すいませんが今度は鳥居を出てもらえませんか?」
「え?どうかしましたか?私、何か嫌われるようなことでも…」
「いや、そういうんじゃなくてちょっと確かめたいことがあって」
オレの指示を怪訝に思いながらも彼女は従って鳥居をくぐる。だがオレと同じように壁にぶつかることもなくたやすく鳥居の外側へと抜け出ていた。
「…」
少なくとこれではっきりした部分がある。この壁は入ることはできても出ることはできないという一方通行なものではないということ。いや、それよりもずっと大事なのは―
―この見えない壁が作用しているのはオレだけということ。
「…マジでか」
もしかしたらオレ以外の人間にも作用するのかもしれないがここへと訪れる人間はまずいない。というのもここは九尾の稲荷であるいづなさんの自宅同様に立地条件が悪いからだ。昔は龍神がいたというが今はいないし来る意味もない。
―なら、頼れるのは先輩だろうか。
彼女は神通力を扱うカラス天狗だ。それならこんな不思議な現象も対処できるかもしれない。
…いや、だが待てよ。それならこの場所に詳しい彼女の方がいいのかも。
龍神の巫女である白蛇のすずしろさん。彼女ならこの神社で起きること、今まで起きたことを知っているだろう。それなら先輩以上に頼れるのではないか。
再び鳥居をくぐって戻ってきたさんにオレは頭を下げた。
「すずしろさん、助けてください」
「…なるほど。事情はわかりました」
流石に外で話をするというのもなんなのでオレと彼女は神社内の居住空間へと場所を移していた。ちゃぶ台に向かい合って座っており、お互いの前にはお茶の入った湯呑みが置かれている。ついでにそのとなりには有名な甘味所の羊羹が置かれていた。
「不思議なことですね。そのようなことが自然に起きるはずはありませんのに」
「そうなんですか」
「ええ、私の知りうる限りでは結界に近いものを感じますね」
結界というとバリアーみたいなあれだろう。外力に強く、内側のものを守る見えない障壁。または内側のものを閉じこめておく厳重な牢獄。この状況では後者のものだろう。
「私も結界の心得はありますがさっぱりですね」
「すずしろさんも結界をはれたりといたりできるんですか?」
「ええ、以前は龍神様の儀式の際誰も邪魔を入れないために結界をはることがありました」
「なら、今この神社にあるあれをどうにかすることはできませんかね?」
オレの言葉にすずしろさんはもうしわけなさそうに首を振った。
「すいません、心得ているというだけで結界の全てを知っているわけではないのです。私にはせいぜい自分の作った結界しか扱えません」
「…そう、ですか」
つまるところ外の結界はどうにもできないということであり、オレはこの敷地から出ることはできないと言うことだ。
…どうするか。一応食材は買い置きがいくらかあるからしばらくは町に行かなくとも平気だが同心の仕事にでられないのでは先輩に迷惑をかけてしまう。
「本当にすいません」
「あ、いや、いいんですよ、すずしろさん」
「ですが私の力及ばずで…」
「そんなこと言わないでくださいよ。オレ一人だと何もわからなかったんですから。それに出られないってわかれば今日は神社の管理をすればいいだけですからね」
普段休日にしかできないことだがどうせ神社の外に出られないのならちょうどいいだろう。天気も晴れだし散った花びらの掃除や境内の掃除でもするとしよう。まぁ、本当は昨日休みだったから粗方終わらせたのだが。
「ですが、ゆうたさん。いつまでもこうしてはいられないんではないですか?例えば食料がつきたときにはどうするんですか?」
「…そこなんですよね」
一応それなりに買い置きがあるとはいえ一月ももつような量はない。この状況がそれだけ長引くかはわからないが最悪餓死する可能性もある。探せば食べられる山菜とかあるだろうが春である今だけだ。
「それなら、私に手伝わせてください」
「え?」
「私もこの神社を管理すべき巫女です。本来ならば私がやらねばならないこと、それをいつもゆうたさんにおしつけてしまって申し訳なく思っていたのですからこういう時には私に頼っていただけませんか?」
「ですがオレがここに住むことは神社の管理が条件でしてそんな気を遣わなくてもいいんですよ」
「気を遣っているのではありません。それとも…私ではただ迷惑なだけでしょうか」
年上の申し出を、それもかなりの美女の言葉を無碍に断るのは気が引ける。何より迷惑をかけているのは彼女ではなくオレなんだ、ここで拒否するのはさらに迷惑をかけることになりそうだ。
「…そうですね、それならお願いしちゃいましょうか」
「はい、任せてください。それじゃあゆうたさんは休んでいてくださいね」
そう言ってすずしろさんは立ちあがった。そのまま玄関へと向かって進んでいくのかと思いきやオレの隣へと近寄ってくる。
「それではこちらはお預かりしますね」
「え?」
伸びてきた手がオレのベルトに刺した十手を掴んだ。引き抜くと自分の着物の帯に差し込む。
「すずしろさん?」
「普段だって同心としてがんばっているのですから今日くらいは同心である事なんて忘れてちゃんと休んでください。体をこわしたら元も子もないでしょう?」
「そうはいっても一応先輩から連絡が入るかもしれませんのでその十手は…」
言い切る前にすずしろさんの指先がオレの唇に触れる。指先は撫でるように頬へと移動するとある場所を撫でた。今では何もないが、かつては怪我をした部分だ。
「ゆうたさんは普段から頑張りすぎです。怪我をすることだってあるのですからもう少し自分をいたわるべきですよ。ですから私が街に行ったとき事情を話しておきますからちゃんと休んでくださいね」
撫でた指先を自分の唇に添えて微笑み、すずしろさんは部屋を出て行ってしまった。その後玄関の戸を開く音が聞こえ、たぶんもう石段を下りている頃だろう。
「…仕方ないか」
昼までにはまだ時間がある。なら今できることは散った花びらの後始末。昨日掃除したとは言え場所によっては桜の絨毯ができあがってるところもある。それなら彼女が帰ってくるまで箒で掃いてよう。そう思ってオレもまた部屋から出ていくのだった。
しばらくしてすずしろさんが戻ってきたその後、掃き掃除を終えたオレは庭先を眺められる縁側に座っていた。隣ですずしろさんも座り、その手元にはお茶の入った湯呑みがある。彼女が淹れてくれたものだ。
「お疲れさまです、ゆうたさん」
「すずしろさんこそ。ありがとうございます」
「いえいえ」
お互い一仕事を終えて休憩中。といってもこれからすることなんて昼飯の用意ぐらいであとはすることがない。というわけでオレとすずしろさんは特にすることもなくお茶を片手に縁側でくつろぐのだった。
温かな春の日差しに照らされる庭先。先ほど掃いたにもかかわらずいくつもの花びらが舞い散っていく。これなら掃除せずに洗濯だけやっておくべきだっただろうか。
そんな景色を眺めながらお茶を啜っていたすずしろさんがオレの方へと視線を向けた。
「ありがとうございます、ゆうたさん」
「え?」
突然のお礼の言葉に首をかしげるとすずしろさんが柔らかな微笑みを浮かべた。
「いつも神社をこんなにきれいにしていただいて」
「ああ、そりゃここに住む条件が神社の管理ですからね」
「住む条件だからといってここまで丁寧にする人はそういませんよ」
そう言ってすずしろさんは縁側の床を指先で擦った。指先は変わることなく綺麗なままで埃なんてものは一つもついていない。
「仕事はどれも丁寧で、神社だって細かなところまで綺麗にしてくれて。それだけではなく仕事熱心で街では同心をしているじゃないですか。丁寧で優しくて、それで頑張り屋さん。とても素敵です」
「…そういわれると照れますね」
誉められるのは嫌じゃないがくすぐったい。その相手が美女ならなおさらだ。誤魔化すように頬をかいたがきっと顔は赤くなってることだろう。
少し涼しい風が頬を撫で、隣のすずしろさんの髪をなびかせた。処女雪のように真っ白なそれは光を反射し靡く様は神々しさすら感じる。元々神様に仕える巫女というのだからその雰囲気もまた神秘的なものだ。
そんな女性が今オレの隣にいる。人気のない居住空間で二人きりで。
オレの視線に気づいたのかすずしろさんは笑いかけてきた。下半身は蛇であっても美女であることに変わりないのにそんな表情浮かべられては反則だ。
「どうかしましたか?」
「いえ、こういうの好きだなって思いまして」
「え!?そ、それは……も、もしかして私の髪の毛でしょうか!?ゆうたさんも艶やかな黒髪で素敵だと思いますよ!」
「いえ、髪の毛ではなくて」
手元のお茶を一度すすってため息をつくとオレもまた笑いかける。
「側に誰かがいるっていいなぁって思いまして」
「ふふ、そうですね」
お互いに一人暮らしの身である故に一人の寂しさはよく知っている。だからこそ、こうして一人ではない時間のありがたみをよくわかっていた。
「昔は龍神様と一緒だったんですけどね。それでもいつのまにか彼女の隣には一人の男性がいて、気づけばその男性が旦那様になっていました」
神様と人間で夫婦になるというのはこの国ではそう珍しいことではないらしい。むこうの山にいる九尾の稲荷であるいづなさんも一人の女性、ならいつかは結婚することもあるだろう。
かつての光景を思い出しているのか彼女は頬に手を当てて瞼を閉じている。
「いつか、私もあのような殿方と添い遂げることがいいなと何度思ったことか」
うっとりとした表情で抱いた憧れを話すすずしろさん。その姿はまさしく恋する乙女の姿。人外だろうが一人の女性、やはり結婚願望というのはあるのだろう。
だがこれほどまでの美女だ。下半身が蛇だろうが男だったら放っておかないだろう。
「すずしろさんなら絶対にできますよ。気だてが良くて、優しくて、それで美人なんですから」
「ありがとうございます」
ほんのりと恥ずかしそうに頬を染めたすずしろさん。やっぱり美人はどんな顔をしても綺麗なもんだなとしみじみ思いながらまたお茶をすする。
「なら、そのときは―」
一瞬ねっとりとからみつくような声色に彼女の方を向いた。だが肝心の言葉は突然吹いてきた風に遮られて聞こえない。何を言ったのか訪ねようと湯呑みをおいたそのとき。
「そろそろお昼ごはんの時間ですね」
「え?」
いつの間にか真上に上っていた太陽を見上げてすずしろさんが立ち上がった。
「待っててくださいね。今とびきりおいしいお料理作ってきますから」
「え!?そんな!そこまでしてもらうわけにはいきませんよ!」
「いいからいいから。ゆうたさんは休んでいてください」
オレの肩を叩くとそのまま台所へと向かっていこうとする。それを止めようと手を伸ばすとふと気づいたように振り返った。
「せっかくだからお夕飯も作っていきましょうか?」
「…」
にっこり笑うずすしろさんを前に嬉しさ半分申し訳なさ半分にオレは伸ばした手を下ろすのだった。
気づけば昼どころか日は落ち、月も昇る夜の時間。だというのに彼女は未だにオレの側にいて真っ白な割烹着を纏っていた。
「それじゃあ、お夕飯今作りますからね?」
「いや、そんなとこまで迷惑かけるわけには」
「私がやりたいんですからいいんですよ。ゆうたさんは待ってるだけでいいですからね」
「いや、ちょっと」
オレの返答を聞くよりも先に台所へと進んでいくしずしろさん。白い鱗の生え揃った蛇の尻尾がどことなく嬉しそうに左右に揺れる。そんな姿を見ると断るのに気が引けた。だからといって全て任せるのも引け目を感じる。せめて手伝おうと歩み寄ればやんわりと拒絶する様に尻尾で背中を押された。
…仕方ないか。
しばらくして並べられた料理はどれも見栄えよく食欲を刺激する香りを漂わせてくる。ふんわりとした卵料理にほうれん草とごまの和え物。塩のみで味付けした焼き魚に香の物、赤味噌を用いたお味噌汁には透き通ったネギと豆腐、さらには真っ白に輝く白米がまぶしい。
さすがにオレもここまでできるものではない。只でさえ釜を使ってのご飯というのは調整が難しく、現代で電化製品に頼り切っていた身としては上手く炊くこつなんてまだわからない。
「すごいですね。お店開けるんじゃないですか?」
「うふふ、それほどでもありませんよ。料理は得意なんです。たくさん作りましたから遠慮せずにおかわりしてくださいね」
本当にいい女性だと思う。料理はできるし気だてはよく、優しいしさらには美人だ。真っ白な髪の毛や透き通った肌は例え人外であっても男ならば心奪われることだろう。結婚だってできないのが不思議なくらいに魅力的。そんな女性がオレの為に料理を振る舞ってくれる。一人暮らしの身としてはこれ以上嬉しいことはない。ふと声に漏らしてしまうほど。
「…いいなぁ」
「え?」
「あ、いえ、一人でここに暮らしてるから毎回夜は寂しい食事なんですよ。帰ってくる時間も場所が場所だからかなり遅くになってしまいますしね」
オレが同心の仕事を終えるのは結構早めの時間である。時折急用が入って真夜中までやることもしばしあるが基本的には日が暮れる前には終わる。その後この神社へと帰ってくるまでにはかなりの時間がかかりつく頃にはあたりは真っ暗だ。そんな中一人食事の準備をするのはあまりにも寂しいものであり、一人でとる食事は味なんて食べられればいいだけのものだ。
「それなら…私が作ってあげましょうか?私も一人暮らしで寂しいのは同じですから」
「いや、そこまでしてもらうのは申し訳ないですよ。それに時々は同心の先輩に夕飯に連れてって貰うこともありますしね」
「…そう、ですか」
「っ」
今の一言だけ彼女の声色がかわった気がした。少しだけ、ほんの少しだけ背筋を震わせるような冷たいものに。だがそれはほんの一瞬のことで彼女はすぐにオレの料理を勧めてくる。
「こちらのは自信作なんです。よく味わって食べてくださいね」
「はい、いただきます。あ、そうだ」
料理に手をつけようとした寸前オレはその場から立ち上がり台所へと足を運ぶ。しばらくして奥の戸棚から一升瓶とお猪口を抱えて戻ってきた。
「して貰ってばかりではわるいですからお酒、飲みますか?」
「え、そんな…悪いですよ」
「オレ飲めないんで誰かに飲んで貰うしかないんですよ。このまま腐らせるにはもったいないですからね」
実際この酒は知り合いのアカオニから貰ったかなりの上物らしい。先輩曰く知名度はかなりのもので売れば結構な金になるという。だが貰い物をたやすく手放せるわけもなく、また未成年故飲むこともできず戸棚の奥にいくつも並んでしまっていた。
封をあけ、お猪口へ注いでいく。それをすずしろさんへと差し出した。
「どうぞ」
「でも、そんな…」
そういいつつも視線は酒へと注がれる。どうやら彼女も酒は好むらしい。蛇だけにうわばみなのかもしれない。
「殿方の前でふしだらな姿を晒すというのはいただけません」
「…」
すずしろさんのふしだらな姿。ちょっと見てみたいかも。
なんて邪な考えはすぐさま振り切り彼女の手をとった。細いきれいな指先に触れ滑らかな肌を感じつつもその指先にお猪口を乗せる。
「あっ」
「どうぞ。酔いつぶれても介抱なら任せてください」
オレは料理を食べ、彼女に酒を注ぐ。彼女は注がれる酒を売まそうに飲み干し料理を摘む。そんな一人ではない夕食を続けて気づけば。
「…寝ちゃったか」
こくりこくりと船を漕いでいた彼女は横になって眠ってしまった。真っ白な頬を朱に染めた寝顔はとても艶やかで妖しい色香を纏ってる。蛇故にうわばみかと思いきやそこまで強くはないのだろうか。
「…すずしろさん」
名前を呼んでみるが反応はない。結構深く眠ってる。これなら何をしてもしばらくは起きないだろう。
例えばその柔らかな頬をつついてみたり。
例えば桜色の唇に唇を重ねたり。
例えば滑らかな肌をなでてみたり。
例えばその大きな膨らみに指を―
「…」
オレはゆっくり手を延ばす。無防備に眠るすずしろさんの体へと。音を立てずに、その指先を腰へと向け―
「―…っと」
帯に刺さっていた十手を引き抜いた。それの重さを確認するように握り込むと静かに居間から出て行く。
既に時間は夜中。報告するにも襲い時間帯だが先輩に心配をかけてしまったことに対する謝罪と報告をしなければ。すずしろさんに伝えてもらったとしてもやはりこういうことは自分の言葉で言うべきだろう。この時間帯なら先輩もまだ起きているはずだし。
家の中で話すのは彼女を起こしそうで気が引ける。それに一度没収されたものを勝手にとってばれてはあまりいい気はされない。故にオレは外に出ようと靴を履いて戸をあけた。まだまだ寒い春先の夜風が身にしみる。
「さてと」
神通力で作られた遠隔通信機用十手。その先端を弾こうと足を進めながら指を突きだしたそのとき。
「―いてっ」
額になにか堅いものがぶつかった。
一体なんだと思って顔を上げるが目の前にはいつも朝っぱら出て行くときに見る玄関先の光景しかない。頭にぶつかるようなものはまったくない。
「…」
…まさか。そう考えるよりも先に十手を握ったまま手をつきだした。
すると案の定十手は突き抜けるのだがオレの手だけが堅い何かに阻まれ敷居の先には出られない。見えない壁があるようにオレの手を遮るそれは間違いなく、今朝この神社の敷地内に張られていたものと同じものだ。
「…なんだよ」
二度三度、拳をたたきつけるが硬質な感触が伝わってくるだけで音すら響かない。
これは…流石におかしいと思うしかない。
最初はオレを境内に閉じこめるように張られていた結界。それは今玄関に、もしかしたら他の勝手口や縁側にも張られているかもしれない。徐々にせばまる空間は明らかに意図的なものだろう。
なんで、どうして、そして誰が?
こういうときこそ先輩に助けを求めるべきか。彼女はカラス天狗、神通力を遣う彼女なら打開策を授けてくれることだろう。なんだかんだで面倒見のいい性格だしこんな不可解なことが起きたら助けてくれるはずだ。
それに、あの町には九尾の稲荷であるいづなさんもいる。彼女にいたっては神様とあがめられる存在だ。その力なら結界の一つや二つたやすく破れることだろう。
あの二人に早いところ頼んでおくべきだったが今十手はオレの手元にある。これなら先輩と連絡がとれてそこから助けを―
「―どうかしましたか、ゆうたさん」
「っ!?」
突然方に手を置かれた。それだけではなく耳元で妖しく言葉を囁かれる。酔いが醒めて起きたのかはたまた物音で起きてしまったのか、あまりにもいきなりのことで思わず十手を取り落としてしまった。甲高い音を立てて十手は敷居の向こう側へと転がっていく。
「あっ」
「もう、私を起こしてもいいじゃないですか。突然いなくなられて驚きましたよ」
「す、すいません。あまりにも気持ちよさそうに眠っていたもので」
慌てて振り返りながら十手へと手を延ばす。だがかなり先まで転がってしまい、さらには手は結界によって敷居を越えることはできない。何か長い箒か、すずしろさんに頼まなければとれないだろう。
だが彼女はオレの肩をつかんだ。
「もう、ゆうたさんたら本当にお優しいんだから。でも春とはいえ夜はまだ冷えますからこんなところにいては風邪を引いてしまいますよ。お風呂の用意をしておきましたからどうぞこちらに」
まだ酔いが残っているのかほんのりと赤い頬をしたすずしろさんは風呂に入るように促してくる。だがそれだけではなくきっちりと玄関の戸を閉め鍵すらかける。十手はこの向こう側に落ちたというのにだ。
偶然か、はたまた意図的なものかはわからない。彼女に言って十手をとって貰おうかと考えたが彼女は風呂場へと押しやってくる。まるで早く離れろと言わんばかりに。
「あのっすずしろさんっ!」
「はい、何ですか?」
「先に入ってきてどうでしょうか?こんな今まで世話になりっぱなしなんですから一番風呂ぐらいは譲りますよ」
「あら、家主さんをさしおいて私が入るなど図々しい真似はできませんよ」
「その家主がいいって言ってるんですよ。これだけ世話になっているんですからせめてそれぐらいは譲りますって」
「それなら―」
いったん言葉を区切ったすずしろさんは胸元に手を当てた。巫女服と言うにはあまりにも過激な露出の多いその姿では彼女の放漫な胸の谷間が強調される。うっすらと朱に染まった頬で瞳には熱をはらませて、彼女は普段と違う雰囲気をまといながら言った。
「―お背中、流しましょうか…?」
「っ!」
ぞくっと背筋が震えた。
まるで淫らに誘う娼婦の姿。神に仕えた巫女と同じ女性とは思えない色気に溢れるすずしろさんを見て思わず喉がなる。
その言葉にその雰囲気。ただ背中を流す程度で済ますだけにはあまりにもいやらしく、甘い声色だった。男だったら誰もが期待し胸を高鳴らせることだろう。健全な高校男児も例外ではない。
「な、何言ってるんですか。ほら、オレが良いって言ってるんですから」
だが素直にうなずけないのはやはりオレがへたれだからか。はたまたその雰囲気になにやら違和感を感じたからか。彼女の背中に回り込むとさっさと脱衣所の方へと背中を押しやった。下半身が蛇であろうが押される力に従って彼女はそのまま進んでいく。
そのまま脱衣所においやるとオレはすぐさま玄関にかけていく。
やはり十手は回収しておかなければ。あれがなければ同心はつとまらないし、盗まれでもしたら大目玉だ。それに先輩から連絡があるかもしれない。
長さ的にぎりぎり届くだろう箒を握ると転がった十手をとるため鍵を開け戸を引こうと手をかける。
「…は?」
だが、閉められた戸はぴくりとも動かなくなっていた。
14/07/27 22:00更新 / ノワール・B・シュヴァルツ
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