食前の祈り
修道女の朝は普通の人と比べて早い。というのも修道女として日々神様へ感謝と祈りを捧げるためだ。
それは魔界にいようとも変わらない。日が昇るよりも早く起きた私は既にベッドから抜け修道服を着込んでいた。
窓の外から日の光は入ってこない。まだ登っていないのだから当然なのだが魔界の黒い空では真昼でも明るくはならないだろう。
ふと、ベッドの端へと視線を向けた。シーツが盛り上がっているそこには未だに眠る男性の姿。いつも着込んだ真っ黒な服ではない薄く着心地の良さそうな寝巻きを纏った黒崎ユウタは安らかな寝息を立てている。
結局昨日はお互いベッドで寝ることを拒否し、譲り合った結果二人で寝るということになってしまった。ベッドで眠ってくださいと言っても頑なに拒否する姿は私と眠ることが嫌というわけではなさそうでただ単に気を遣われているというだけ。ただそれだけらしい。
だが、悪いものではない。慎ましく気の回る性格からして護衛としては適しているだろう…信仰心のないところや魔物を拒絶できないところは問題だが。
「…」
手を伸ばせば届く距離にいる彼。ベッドの端で近づくことないように縮こまって眠る姿はどうしてか儚く見えてしまう。もしもこの手が触れれば砕け散ってしまうガラスのように。
…おかしな話だ。男性相手に儚いと思うなんて。
「ふふ…っ」
小さく笑った私はそっと彼の髪の毛を撫でた。寝返りをうったからか乱れに乱れた黒髪は思った以上に柔らかく、触り心地のいいものだった。まだ眠っているのだから意味ないかもしれないが乱れが部分を整えてあげる。
それが終わったら窓際に移動する。そこで首にかけていた十字架を立てかけ、膝をついた。両手を組んで瞼を閉じる。
ただ一心に祈るのは神様のこと。
ただ一念に願うのは試練のこと。
ただ一途に想うのは私たちのこと。
「神よ、我らをお救いください…」
私はそう言って十字架に祈りの言葉を唱えた。
朝の祈りを終え、黒崎ユウタも起きて身なりを整え、ともに朝食を終えたその後。私と彼は部屋のテーブルに向かい合って座っていた。
「それで、今日は一体何するの?」
「祈るのです」
「…え?一日中?」
「ええ、そうですよ」
これは試練。この魔界で自身の信仰心が保てるかどうかという試練。魔物にならず、汚れることなく純潔に保てるかという試練。だからそれ以外に何をするというのだろうか。
当然のようにそう言うと黒崎ユウタは疲れたようにため息をついた。
「…食事は?食材の調達は?」
「今朝食べたでしょう?あれが三食一ヶ月分貴方と私のバッグに入ってます」
「あんなバランス栄養食のバーみたいなもので一ヶ月も!?」
「当たり前です。ここは魔界、何があるかわからないものを口にするよりかずっとマシでしょう?」
聞けば一口食べただけで堕落してしまう果実があるとか、魔物になってしまう果物とか、食べれば死んでしまう毒キノコとかそのようなものが沢山あるらしい。現物は見たことがないのでわからないが魔界なのだからあって当然だろう。
それに何より修道女には節制が当然。暴食など許されるはずもない。
「食べることに執着すると堕落してしまいます。むしろ私たちにはあれだけの食事でも恵まれているのです」
「あれで、ねぇ…」
呆れたようにため息をつく黒崎ユウタ。正直言って失礼極まりない行為だが今まで騎士団や勇者と共にさんざん体を動かし鍛錬していた彼にとってはきついものがあるのだろう。
だからといって甘やかすつもりはない。それにここでは身の危険が迫っている。
普通の街だったらよかったがここは魔界。下の食堂で出されている料理も同じように汚染されたもので普通の人間が食べただけでも堕落していまうだろう。身を守るためにも出来る限りここの食事は控えなければいけない。
そんな風に考えている私を他所に黒崎ユウタは自分の財布の中身を確認していた。
「十、二十、三十、よし」
チャリンチャリンと硬貨の音がしたと思ったら彼は座っていた椅子から立ち上がった。そのまま身なりを整えてバッグを手にとる。
「ちょっと買い出し行ってくる」
まるでそこらへんを歩いてくるというような気軽な一言に私は椅子から転げ落ちそうになってしまった。
「な、何を言っているんですか!!貴方は金輪際この部屋から出るなと言ったのを忘れたのですか!?」
「そんなこと言ってもね、あんな食事ばっかしてちゃ体を壊すって言うんだよ。いくらなんでもあんな食事だけで一ヶ月は無理だって」
「だからって魔界のものを食べるわけにはいきません!貴方はわかってないでしょうがここの食材はどれも人体にとって毒なんですよ!?」
「どれもって…これだけ大きな街なら普通の人参やじゃがいもだってあるでしょ。昨日この宿に来る前に見た市場みたいなとこでもピーマンとかきゅうりとか、見たことある野菜売ってたし」
「だ、だからって貴方が外に出たらどうなるのかわからないのですか!」
昨日私の傍からわずかに離れただけでも魔物に声をかけられ誘惑される始末。この宿屋の中でも毛布を求めて尋ねたところで捕まり、また誘惑されていた。彼が一人で外に出たらどうなってしまうのか予想できないわけじゃない。
「な、なら私も共に出ます。貴方が一人出るよりもずっと安全でしょう?」
私は椅子から立ち上がってそう言った。ただ、ともに出るためにはこの修道服では面倒だ。この格好では外から来たということ以上に私が魔物にとっての敵国の者だということを示すようなものなのだから。
だが彼は立ち上がった私を制するように首を振った。
「あーいいよ。祈ることがヴィエラにとっての試練なのにそれを邪魔しちゃ悪いって。買い物は一人で行ってくるから待っててよ」
「で、ですが!昨日のことを忘れたわけじゃないのでしょう!?」
「平気。あれぐらい振りほどこうとすれば振りほどけるよ」
師匠に比べりゃ可愛いもんさ、なんてよくわからないことを小さく付け加えて彼はドアのそばへと歩いていく。音も立てずに開くと一度私の方を向いて言った。
「オレはヴィエラの護衛なんだよ。護衛なら護る相手の体調も含めて護ってやんなきゃね?」
にぃっと子供のような笑みを浮かべてそのまま出ていく黒崎ユウタ。ただドアが締まる寸前「あ、ちょっと待ってくださいお姉さん!そうじゃなくて!昨日の続きじゃなくて!家庭なんてオレと貴方はまだ知り合ったばかりですって!!」なんて声が聞こえてきた。
…正直、不安だ。
私が静かにお祈りをしていると不意にドアがノックされる。乾いた音に瞼を開け、そちらを見るとわずかに開いたドアから数時間前に出て行った黒崎ユウタの姿が見えた。
ただ、この部屋を出て行った時とは様子が変わっている。整えられていた黒髪はボサボサになり、体のいたるところに内出血のような赤いあざが出来ていた。纏っていた服はボタンが外され、下に着ていたのだろう絹のような白い服も全てボタンが外されて肌は晒され、さらにはベルトの留め具も外されていた。
明らかに何かがあった跡。聞くまでもない明らかな状態に呆れ顔を浮かべてため息をついた。
「ただいま」
「…とりあえずおかえりなさい」
すごく気まずそうな表情だった。まるでいたずらがバレて怒られる子供のような顔だ。
「どうしたというのですか?」
「えっと、すごく言いにくいんだけどさ…」
「何ですか?それよりも話すのなら部屋の中に入ってきてください。そこではまた魔物に襲われかねませんよ」
「いや、話したくても離れないんだよ」
「…?」
その言葉に私は首をかしげてしまう。
話したくても離せない?それは一体どういう意味なのか?そもそも離せないとは一体何を?
彼の手は買ってきた物でいっぱいの紙袋でふさがっている。紙袋の中身は林檎やパンといった一般的な、私の国でも売られているものが見える。これならそこまで警戒する必要もないだろう。
ただ単に荷物から手が離せない、というわけではないはずだ。手がふさがっていたところでここまで気まずい顔なんて普通浮かべない。
なら、なんなのだろうか?
「…」
不思議に思ってドアを全部開け、黒崎ユウタの姿を確認する。
するとドアに隠れて見えなかった部分、ちょうど彼の体にしがみつくような形で
抱きつく小さな女の子が見えた。
「…こいつが離れてくれなくて」
疲れたようにため息をついて指さす彼。それを見てぶすっと不機嫌そうに頬を膨らませる女の子。
「嫌じゃ!絶対に嫌じゃ!!やっといい男を見つけたんじゃ!もう離さんぞ!!」
駄々っ子のように黒崎ユウタに抱きつき続ける少女。いや、少女というよりも幼女と言ったほうが正しいだろう、とにかく幼い女の子だった。
ただし、人間ではない。
茶色い髪の毛に頭から二本の角が生えていた。それだけではなく布地の少ない服、もはや服というよりもただの布切れとしかいえないモノを身に纏い、獣のような手足をした幼女。
それは私の知識の中でも最上級に位置する危険な魔物の姿。
並の兵では太刀打ちできず、精鋭でも足元に及ばない。勇者となってようやく相手できるかどうかの存在。
修道女である私にとってこんな魔物に対抗する手段は持ち合わせていない。どうやったところで太刀打ちできるはずがない。
『バフォメット』
「な…っ!!」
驚愕と絶望が湧き上がる。
目の前にいるのは見た目こそ幼い女の子だが私ではどうにもできない魔物。しかも魔王の幹部にいるほど強力な魔力と実力を兼ね備えた危険な存在だ。
それがどうして彼の体に抱きついているのだろうか。
私はすぐさま彼に詰め寄り襟首を掴んで引き寄せた。すぐ傍の魔物に聞こえによう極力小さな声で言う。
「うぐっ!」
「な、なぜそんな、よりにもよって危険な魔物を連れてきてしまうのですか!?」
「危険って…ただの子供じゃん」
「こんなところにいる子供がただの子供なわけがないでしょう!?あれは魔物の中でも恐ろしいバフォメットですよ!?」
「バフォメット?」
その言葉に黒崎ユウタはバフォメットを見て笑った。
「バフォメットっていうのは黒ヤギの頭を持った化物なんだよ。こんな可愛い女の子がバフォメットなわけないって」
「か、可愛い…っ」
彼の言葉に反応したのかバフォメットは恥ずかしそうにほほに手を添え顔を赤らめた。
腹立たしい。
なぜだかとても腹立たしい。
その理由はよくわからないのだけど、それでもいい気持ちではなかった。
「頭からヤギの角はやしているのにわからないんですか!?」
「ハロウィンのコスプレかと思って」
「こす…?」
「いや、こっちの話」
「とにかくっ!そのバフォメットを元の場所に戻してきなさい!!」
「そんな捨て犬みたいに言わなくても」
「魔物に対する知識がないのなら口出ししないでください!それは外見こそ幼子ですが中身は私たちでは太刀打ちできないような魔物なんですからさっさと遠くに捨ててきてください!!」
「そう言われてもね、離れないんだよこの子。無理やり引き剥がそうにしても人らしくない手だから爪の方が剥がれそうだし」
「人じゃないとわかっているなら連れてこないでください!!」
「オレだってこんな子供連れて来たくなかったさ。青い肌の蛇みたいな女性にこの街のことちょっと聞いてたらいつの間にかくっついてたんだし」
青い肌の蛇…どうしてだろう、その言葉で思いつく魔物もバフォメット同様危険な気がするのだが今そんなことどうでもいい。この子供のように駄々をこねる魔物をどうにかして追い払わないといけない。
この魔物はあまりにも危険すぎる。
「これから昼飯作りたいのに…どうするか」
どうしたものかと困ったように首をかしげる黒崎ユウタ。それでも魔物に向ける顔は優しそうな笑みを浮かべている。
…正直いって気に食わない。
魔物にそんな笑みを向けること、普通はしない。それどころか嫌悪感を抱くのが当然で浄化することが当然だというのに。
「一緒にいるのじゃ〜」
「こら、離せよヘレナ。一緒にいた蛇の人…エリヴィラだっけ?が心配してるぞ?」
「大丈夫じゃよ。バフォメットが心配されるほどやわな存在ではないからのう。それよりもユウタ〜♪抱きしめて欲しいのじゃ〜♪」
気づけばお互いに名前を呼び合っている始末。本当に困った男だ。
いや、でもバフォメットを子供のように扱えるというのは只者ではない。知識がないただの無知から来るものだとしても、普通に考えれば常軌を逸している。
無知ゆえの馬鹿なのか、それとも度胸があるのか、一体どちらなのかはわからない。
そんなことを考えているとぐ〜っと、どこからかお腹の鳴る音がした。
「…」
「…ん?」
「何ですか?私ではありませんよ」
「…じゃあ」
「…」
私でも黒崎ユウタでもない。それならばもう一人しかいない。
音の発信源である魔物は顔を真っ赤にさせて俯いてしまう。それでもしっかりと手は彼の服を握ったままで。
恥ずかしがるように小さくなる魔物を前に黒崎ユウタは小さく笑った。
「まぁ…仕方ないか。ヴィエラ、これから昼飯にしようと思うんだけどこの子も一緒でいい?」
「…はぁ!?」
何を言い出すのだろうこの男は!
「ここ結構物が安いから一人増えても余裕は全然あるんだし」
「い、いいわけないでしょう!?」
魔物と食を共にする?そんなこと許されるはずもない!
それどころかこうして同じ部屋にいること自体があってはいけない。神様から見放された堕落した魔物がどれほど罪深き存在か、それと共にいることがどれほど愚かなことかこの男はまったくわかっていない。
頭を抱えたくなりながらも私は怒鳴り気味に彼に向かって言おうとしたとき、催促するように再びお腹の鳴る音が響いた。
「…」
「…」
「…」
そして上目遣いでこちらを見つめる幼子の瞳。それから申し訳なさそうに頼み込む彼の顔。
そんな一匹と一人を前に私は…。
「…今回だけですからね」
折れるしかなかった。
許可を取って、食材を袋から取り出した黒崎ユウタはさっさと下の階へと行ってしまった。正直言って心配でならない。料理を任せる形になってしまったが大丈夫だろうか。このような宿には宿泊客用のキッチンがついているものだがそれを借りる際にカウンターの魔物にまた何かされていないだろうか。先程もドアが閉まる寸前に「違うんです!服が脱げかけてるのは誘ってるわけじゃなくて…いや!食材持ってるのは食べてって意思表示してるわけでもないんですって!ちょっと!!」なんて声が聞こえてきたのだし…。
…いや、それ以上に今心配すべきなのは。
「ありがとうなのじゃ〜」
バフォメットと一緒の部屋にいる私自身だろう。
どうしてよりにもよってこんなことになっているのだろうか。こんな密室に上級魔物と一対一。そしてこちらは武器もなにもない無防備な状態。最もあったところで役には立たないのだけど。
ぱたぱたとベッドに座って足をばたつかせるバフォメットは椅子に座る私を見据えて小さく唸った。
「むぅ、それにしても…まさかユウタには既にパートナーがいたとは思わんかったのう」
「…私のことですか?」
「そうじゃよ。いやぁ、惜しいのぅ。ユウタが一人ならわしのお兄ちゃんにしたのにのう…」
「…」
それを聞いてやはりと思う。
魔物というのは教えられたとおり罪深き、穢らわしい存在だ。隙あらば堕落へと導き、破滅へと落とさせる危険な存在。
それをどうして黒崎ユウタはわからないのだろうか。別の国の勇者や騎士は魔物の外見に騙されそのまま懐柔されると聞くが、このままでは彼も同じ末路を辿りかねない。
「それにしてもぬし、変わった格好しておるの」
「っ!」
「もしかしてぬし…」
「な、何ですか…っ?」
張り詰めた空気の中バフォメットは鋭い視線を私に向けた。ただそれだけなのに相手が相手だからか冷汗が垂れ、鼓動が早まる。
もしかして気づかれてしまっただろうか?むしろこのような格好をしているのに気づかない者はいないだろう。修道服を纏った女性の姿などこの魔界でどれほど浮いた存在なのかわからないワケじゃない。
バフォメットは鋭い視線をこちらに向けたままゆっくりと言葉を紡いだ。
「自分のいた国から逃れてここに来たんじゃな?」
「…………は?」
思わず素っ頓狂な声が出てしまった。
何を言っているんだこの魔物はと思ってしまう。修道服姿をどう見ればそんな考えに結びつくのだろうか。
「あー皆まで言うな。わしには分かるぞ。反魔物国家はそれはそれは厳しく辛いものばかりじゃと聞くからのう。それが修道女ともなれば計り知れんわい。以前男性と駆け落ちするために修道服のまま逃げ出して来た者もおったくらいじゃし」
それは…なんと罪深きことか。
神様の信仰を捨てこのような堕落しきった世界へと身を投じるなど愚かしいにも程がある。
思わず拳を握りしめ、表情が引きつってしまうがそれでもなんとか愛想笑いを浮かべておく。ここで変に波風立てるのは危険だろう。
「それにしても…おぬし、ユウタと一緒にいるみたいじゃがそのわりには精の匂いがこれっぽっちもしないのう…そういえばユウタもおぬしの匂いがあまりせんかったわ」
すんすんと鼻を鳴らして私の匂いを嗅ぐ幼子。
やっているのは穢らわしい魔物。そして上級の存在であるバフォメット。そんな行為失礼極まりないのだがそれ以上に嫌悪感と恐怖心を抱かずにはいられない。
バフォメットは憐れむような視線を向けながらも何かに納得したように頷いた。
「修道女だったのなら性に関して遠慮することもあろう。まぁ安心せい。ここは魔界じゃ。どれほど愛しい男性とつながろうが誰にも迷惑のかからん場所なんじゃ。流石に人前はすすめんが交わったところで文句は言われんよ」
「まじっ…!」
「じゃが早く手を打たんと別の魔物に連れて行かれるぞ?女の匂いのしない男一人魔界を行くなど結婚してくれと言うようなもんじゃからのう。ベッタベタに互いの匂いが染み付くまで交わればそんなことなくなるじゃろうし」
平然と言い放たれた言葉に一気に体温が上昇する。
なんと…なんとふしだらで下品なのだろうか!いくら外見が幼子だとは言えそんなことを平然と口にするあたりやはり魔物ということなのだろうが、それにしたってあまりにもいやらしすぎる
「修道女ならダークプリーストをすすめるが…儂のサバトに入るのはどうじゃ?皆プリティーでキュートな魔女ばかりじゃ。ぬしもそうなれるじゃろうよ」
にぱぁと笑ってこちらを見てくるバフォメット。これが普通の女の子ならどれほど可愛らしいことか。魔物が浮かべているだけでとても淫靡で汚らわしいものになる。
「遠慮しておきます」
「そんなこと言わずにのう?ピッチピッチの肌と可愛らしい姿になれるんじゃぞ?」
「遠慮しておきます!」
「最近儂のサバトの人数が減ってきておるんじゃ。頼む!儂を助けると思って!」
「遠慮しておくと言ったでしょう!!」
あまりのしつこさにバッグの中に入っている聖書に手が伸びてしまった。
私の国で、修道女に持たされる聖なる書物。それに記された文字は私たちを邪悪から救い、汚れ堕落した者を退ける力がある。その力は絶大で魔物なら触れれば火傷を負うことになる。
バフォメット相手に有効とは思えない。だけども無傷で済むはずもない。
なーんじゃーといじけたように呟いて背を向けるバフォメット。その背中からは警戒心なんてものは全く感じられない。
今ならば奇襲のチャンス。男性よりは力の劣る修道女の私だが狙いどころによっては聖書の力と相まって重傷を与えられるかもしれない。
「…よし」
私は音を立てずにバッグの中から聖書を抜き出した。
バフォメットまでは二歩もない距離。飛び込み、振るえば直撃は間違いないだろう。たった一撃でも退魔の力を持つこの本なら滅することはできずもそれなりの傷を負うことになる。そこに黒崎ユウタが戻れば…。
「…」
彼ならばなんと言うだろうか。
もしもここで私が聖書で殴りつけたとしたら、彼はなんと言うだろうか。
魔物に対する知識が全くないから傍から見れば幼子を殴りつける大人としか見えないはずだ。そんなものを見たら黒崎ユウタはきっと怒るだろう。
非常識なのに常識人。気弱なのか、それとも優しいのかよくわからない男性。
そんな彼に今朝言われたことを思い出す。
『オレはヴィエラの護衛なんだよ。護衛なら護る相手の体調も含めて護ってやんなきゃね?』
あんなことを言っておいて、あんなに優しく微笑んでいて私の身の危険になるものを連れてくるとは思えない。バフォメットのことを知らなかったから仕方ないとはいえ、それでも彼はこの魔物のことを無害だと感じたのではないか。
「…」
少しは…彼のことを信じてみるもの必要かもしれない。
私は静かに聖書をバッグの中へと戻した。
運ばれてきた料理はスパゲティだった。赤く染まったパスタと一口大に切られたトマト、散りばめられたチーズに飾られたバジルの葉。なんとも本格的で手の込んでいるそれから湯気とともに食欲を刺激する香りが漂ってくる。思わず私も空腹を隠しきれなくなる美味しそうな匂いだった。
「料理…できたのですね」
「できないように見えた?」
「ん〜♪美味しそうなのじゃ♪」
「味は保証するぞ」
得意げに笑みを浮かべて黒崎ユウタは料理の乗ったお皿を並べていく。手慣れた手つきでフォークとともに並べて、空いている椅子に座る。
私と黒崎ユウタとバフォメット。
人間二人と向かい合うように座った魔物が一匹。
なんと奇妙な光景だろう。こんなところでこんな相手と食事を共にすることになるなんて…。でも許可をしたのは私なのだから仕方ない。
小さくため息をついた私はバフォメットから見えないように両手をテーブルの下で組み、我らが神へと食前の祈りを捧げる。
「いただきます」
だが、隣でただの一言で食事を始めようとする彼の姿に私は椅子から落ちそうになった。
肘で彼の脇腹を突き、目前のバフォメットに聞こえないように小声で耳打ちする。
「何をしているんですかっ!」
「ん?食前の挨拶ってやつだよ。ヴィエラも朝食の時にやってたでしょ?あれと同じだよ」
「今朝は私とともに祈りを捧げていたでしょう!何でいきなりそんなことをしているんですか!?」
「だってさ、ヴィエラのやり方で祈りすると結構時間かかるじゃん。せっかく温かいのに料理が冷める。料理っていうのは出来立てを食べるべきなんだよ」
「我らが神に感謝を捧げ、食事をいただくのですから祈りに時間がかかるのは当然でしょう!」
「…それは時間をかけて作った料理をあえて一番美味しい状態じゃないところで食べたいっていう意味?」
「そ、そんなこと…」
いきなり刺のある言い方変わった彼に言葉を詰まらせていると目前のバフォメットにも聞こえるようにわざと大きな声でいった。
「いただきますっていうのは自分の命のために他の命を頂くってこと。それで食後にいうごちそうさまっていうのは食材を用意してくれた人、料理を作ってもらった人とかもてなしてくれた人に対する感謝の言葉なんだよ」
諭すような言葉に出かけた声が止まってしまう。神への感謝を行わないのは失礼なのだが考えさせられる部分はある。
「だからヘレナもきちんとするんだぞ?」
黒崎ユウタの言葉に手に持ったフォークをスパゲティに突き刺そうとしていたバフォメットが動きを止めた。フォークを静かに置くと彼の見せている通りに両手を合わせる。
「いただきます、か。それはジパングの挨拶じゃとは知っておったがそんな意味があったとはのう。いいことを聞いたわ。やはりユウタはジパング人じゃったんか」
「ん?」
その言葉に一瞬私を見て反応を伺う黒崎ユウタ。私は頷くと彼は小さく肯定を返した。
ジパングなんて彼は知らないはず。そもそも彼は異界から来たのだからまだまだこの世界について知らないことが多いはずだ。それでも一度私を見たということはその発言でぼろを出さないためだろう。
変にぼろを出せばここにいられなくなる。そうなれば私の試練はなかったことになるどころか国に帰れば修道女であることを剥奪されかねない。
そこまで考えてなのか、それとも気まぐれか。どちらにしろそういう微妙なところに気が配れるのならこのバフォメットを連れてきて欲しくなかったのだが。
「それじゃあ…いただきます」
「どうぞ、召し上がれ」
まるで子供をしつける親のような、いや、年齢的には妹をしつける兄のような姿だった。
「ヴィエラは?」
「わ、私は神に祈りを…」
「おいしく食べてもらいたいんだけど…ね?」
「……いただきます」
私の声に黒崎ユウタは嬉しそうに笑った。
全くこの男はよくわからない。私のペースを狂わせては引っ掻き回してくれる。予測できないことをしたかと思えば常識外れなものを連れてくるし、だというのにその根本ではしっかり私の護衛を考えているらしいし。
どこか小生意気な弟のような存在にため息をつきたいような、それでもくすぐったさのある不思議なものを感じながら私は目の前の料理を口に運んだ。
「…んっ」
ちょうどいい感触まで茹でられたパスタに絡められたトマトソースの味。そこに加わるチーズの風味にバジルの香り。濃厚なのにさっぱりとしていてしつこくなく、だけどもしっかりと舌に残る味わいはどの食材の味もしっかりと感じ取れる絶妙なもの。
「ん〜♪美味しいのじゃ〜♪」
「美味しいですね」
バフォメットと同じ意見というのは嫌だがそれでもそれ以外に言葉に表しようがなかった。その言葉を聞いて黒崎ユウタは嬉しそうに笑った。
「そりゃよかった。味覚に差があったらどうしようかと思ってたんだよ」
「少し濃い気がしますが…それでも十分美味しいです」
「店だせるのではないかの?」
「ははは、そりゃ言いすぎだって」
笑いながらスパゲティをフォークに絡めて口へと運ぶ黒崎ユウタ。それを見て私も再び食事を始める。
噛むたびに舌を刺激してくるそれは喉を通りお腹の中を満たしていく。空腹も相まって美味に感じられるのだがどうしてだかそれだけじゃない。
なんでなのか、温かい。
出来立てなのだからそれは当然のこと。だけどそういうことではない。食材には変なものは混じっていなかったし、この料理自体修道院でも出される時もある。
だけど、何かが違う。
ホカホカするというか、暖かくなるというか。よくわからない不思議な感覚だった。
「…」
その正体を考えつく前にフォークを動かし、食事とともに飲み込んでしまった。
今必要なのはこの食事に感謝すること。
これらの恵みを与えてくれた神へ、私たちを救ってくれる神へと…。
食事を終えると空いたお皿を黒崎ユウタが回収するために椅子から立ち上がった。
「よっと、片付けしないと」
「片付けなら私がしますよ」
伸ばした手を遮りバフォメットの前の皿と彼の前の皿を掴んで自分のと重ねる。
「いや、いいよ。それくらいオレがやっておくから」
「なにがいいですか。お皿とフォークだけなのですからこれくらい私たちにやらせてください」
「私たち?わしも?」
「当然でしょう。貴方はそんな気もまわせないのですか?」
「むぅ、刺のある言い方するのう…」
「それから口周りにソースが付いたままですよ。さっさとお拭きなさい」
「む、むぅ…」
「ヘレナ。こっち向けよ。拭いててやるからさ」
「黒崎ユウタ。貴方もついてますよ」
「え」
大慌てで口元を拭う黒崎ユウタ。先程までとは打って変わった子供っぽさに思わずくすりと笑みが漏れた。
「鏡でも見てきなさい。その間にでも片付けておきますから」
「いや、オレがやるって言ってるのに」
「いいから―」
そう言ってお皿を手にしたとき視界がぐらりと揺れ、階段を踏み外したように体が倒れかけた。
「…っ」
「ヴィエラ?」
それでもなんとか踏みとどまる。心配そうに駆け寄ってきた。私はそれを片手で制して姿勢を正す。
「…なんでもありません。ちょっと立ちくらみがしただけです」
「立ちくらみって…それ風邪でもひいたんじゃ」
「風邪などでは、ありません」
「…」
そう言っても変わらず心配そうな表情の黒崎ユウタに倒れかけたことを訝しげに見てくるバフォメット。私は頭を振り、二つの視線から逃れるように部屋の外へと出ていった。
「…っ」
ぐらつく足元。揺れる視界。ぼんやりとしてくる意識。どう考えても正常ではない体の状態に私は廊下の長椅子に座り込んだ。
…きっと旅の疲れでも出たのだろう。この魔界に来るまでにも結構な道のりだったんだから気を抜いて体が休息を求めてしまっている、そうに違いない。
大きく息を吸って吐き出しながら、気づかないうちに震えていた手が胸元へと伸びる。
「神よ、我らを…お守りください…」
服の中へと隠した十字架を握りしめて私は小さく呟いた。
それは魔界にいようとも変わらない。日が昇るよりも早く起きた私は既にベッドから抜け修道服を着込んでいた。
窓の外から日の光は入ってこない。まだ登っていないのだから当然なのだが魔界の黒い空では真昼でも明るくはならないだろう。
ふと、ベッドの端へと視線を向けた。シーツが盛り上がっているそこには未だに眠る男性の姿。いつも着込んだ真っ黒な服ではない薄く着心地の良さそうな寝巻きを纏った黒崎ユウタは安らかな寝息を立てている。
結局昨日はお互いベッドで寝ることを拒否し、譲り合った結果二人で寝るということになってしまった。ベッドで眠ってくださいと言っても頑なに拒否する姿は私と眠ることが嫌というわけではなさそうでただ単に気を遣われているというだけ。ただそれだけらしい。
だが、悪いものではない。慎ましく気の回る性格からして護衛としては適しているだろう…信仰心のないところや魔物を拒絶できないところは問題だが。
「…」
手を伸ばせば届く距離にいる彼。ベッドの端で近づくことないように縮こまって眠る姿はどうしてか儚く見えてしまう。もしもこの手が触れれば砕け散ってしまうガラスのように。
…おかしな話だ。男性相手に儚いと思うなんて。
「ふふ…っ」
小さく笑った私はそっと彼の髪の毛を撫でた。寝返りをうったからか乱れに乱れた黒髪は思った以上に柔らかく、触り心地のいいものだった。まだ眠っているのだから意味ないかもしれないが乱れが部分を整えてあげる。
それが終わったら窓際に移動する。そこで首にかけていた十字架を立てかけ、膝をついた。両手を組んで瞼を閉じる。
ただ一心に祈るのは神様のこと。
ただ一念に願うのは試練のこと。
ただ一途に想うのは私たちのこと。
「神よ、我らをお救いください…」
私はそう言って十字架に祈りの言葉を唱えた。
朝の祈りを終え、黒崎ユウタも起きて身なりを整え、ともに朝食を終えたその後。私と彼は部屋のテーブルに向かい合って座っていた。
「それで、今日は一体何するの?」
「祈るのです」
「…え?一日中?」
「ええ、そうですよ」
これは試練。この魔界で自身の信仰心が保てるかどうかという試練。魔物にならず、汚れることなく純潔に保てるかという試練。だからそれ以外に何をするというのだろうか。
当然のようにそう言うと黒崎ユウタは疲れたようにため息をついた。
「…食事は?食材の調達は?」
「今朝食べたでしょう?あれが三食一ヶ月分貴方と私のバッグに入ってます」
「あんなバランス栄養食のバーみたいなもので一ヶ月も!?」
「当たり前です。ここは魔界、何があるかわからないものを口にするよりかずっとマシでしょう?」
聞けば一口食べただけで堕落してしまう果実があるとか、魔物になってしまう果物とか、食べれば死んでしまう毒キノコとかそのようなものが沢山あるらしい。現物は見たことがないのでわからないが魔界なのだからあって当然だろう。
それに何より修道女には節制が当然。暴食など許されるはずもない。
「食べることに執着すると堕落してしまいます。むしろ私たちにはあれだけの食事でも恵まれているのです」
「あれで、ねぇ…」
呆れたようにため息をつく黒崎ユウタ。正直言って失礼極まりない行為だが今まで騎士団や勇者と共にさんざん体を動かし鍛錬していた彼にとってはきついものがあるのだろう。
だからといって甘やかすつもりはない。それにここでは身の危険が迫っている。
普通の街だったらよかったがここは魔界。下の食堂で出されている料理も同じように汚染されたもので普通の人間が食べただけでも堕落していまうだろう。身を守るためにも出来る限りここの食事は控えなければいけない。
そんな風に考えている私を他所に黒崎ユウタは自分の財布の中身を確認していた。
「十、二十、三十、よし」
チャリンチャリンと硬貨の音がしたと思ったら彼は座っていた椅子から立ち上がった。そのまま身なりを整えてバッグを手にとる。
「ちょっと買い出し行ってくる」
まるでそこらへんを歩いてくるというような気軽な一言に私は椅子から転げ落ちそうになってしまった。
「な、何を言っているんですか!!貴方は金輪際この部屋から出るなと言ったのを忘れたのですか!?」
「そんなこと言ってもね、あんな食事ばっかしてちゃ体を壊すって言うんだよ。いくらなんでもあんな食事だけで一ヶ月は無理だって」
「だからって魔界のものを食べるわけにはいきません!貴方はわかってないでしょうがここの食材はどれも人体にとって毒なんですよ!?」
「どれもって…これだけ大きな街なら普通の人参やじゃがいもだってあるでしょ。昨日この宿に来る前に見た市場みたいなとこでもピーマンとかきゅうりとか、見たことある野菜売ってたし」
「だ、だからって貴方が外に出たらどうなるのかわからないのですか!」
昨日私の傍からわずかに離れただけでも魔物に声をかけられ誘惑される始末。この宿屋の中でも毛布を求めて尋ねたところで捕まり、また誘惑されていた。彼が一人で外に出たらどうなってしまうのか予想できないわけじゃない。
「な、なら私も共に出ます。貴方が一人出るよりもずっと安全でしょう?」
私は椅子から立ち上がってそう言った。ただ、ともに出るためにはこの修道服では面倒だ。この格好では外から来たということ以上に私が魔物にとっての敵国の者だということを示すようなものなのだから。
だが彼は立ち上がった私を制するように首を振った。
「あーいいよ。祈ることがヴィエラにとっての試練なのにそれを邪魔しちゃ悪いって。買い物は一人で行ってくるから待っててよ」
「で、ですが!昨日のことを忘れたわけじゃないのでしょう!?」
「平気。あれぐらい振りほどこうとすれば振りほどけるよ」
師匠に比べりゃ可愛いもんさ、なんてよくわからないことを小さく付け加えて彼はドアのそばへと歩いていく。音も立てずに開くと一度私の方を向いて言った。
「オレはヴィエラの護衛なんだよ。護衛なら護る相手の体調も含めて護ってやんなきゃね?」
にぃっと子供のような笑みを浮かべてそのまま出ていく黒崎ユウタ。ただドアが締まる寸前「あ、ちょっと待ってくださいお姉さん!そうじゃなくて!昨日の続きじゃなくて!家庭なんてオレと貴方はまだ知り合ったばかりですって!!」なんて声が聞こえてきた。
…正直、不安だ。
私が静かにお祈りをしていると不意にドアがノックされる。乾いた音に瞼を開け、そちらを見るとわずかに開いたドアから数時間前に出て行った黒崎ユウタの姿が見えた。
ただ、この部屋を出て行った時とは様子が変わっている。整えられていた黒髪はボサボサになり、体のいたるところに内出血のような赤いあざが出来ていた。纏っていた服はボタンが外され、下に着ていたのだろう絹のような白い服も全てボタンが外されて肌は晒され、さらにはベルトの留め具も外されていた。
明らかに何かがあった跡。聞くまでもない明らかな状態に呆れ顔を浮かべてため息をついた。
「ただいま」
「…とりあえずおかえりなさい」
すごく気まずそうな表情だった。まるでいたずらがバレて怒られる子供のような顔だ。
「どうしたというのですか?」
「えっと、すごく言いにくいんだけどさ…」
「何ですか?それよりも話すのなら部屋の中に入ってきてください。そこではまた魔物に襲われかねませんよ」
「いや、話したくても離れないんだよ」
「…?」
その言葉に私は首をかしげてしまう。
話したくても離せない?それは一体どういう意味なのか?そもそも離せないとは一体何を?
彼の手は買ってきた物でいっぱいの紙袋でふさがっている。紙袋の中身は林檎やパンといった一般的な、私の国でも売られているものが見える。これならそこまで警戒する必要もないだろう。
ただ単に荷物から手が離せない、というわけではないはずだ。手がふさがっていたところでここまで気まずい顔なんて普通浮かべない。
なら、なんなのだろうか?
「…」
不思議に思ってドアを全部開け、黒崎ユウタの姿を確認する。
するとドアに隠れて見えなかった部分、ちょうど彼の体にしがみつくような形で
抱きつく小さな女の子が見えた。
「…こいつが離れてくれなくて」
疲れたようにため息をついて指さす彼。それを見てぶすっと不機嫌そうに頬を膨らませる女の子。
「嫌じゃ!絶対に嫌じゃ!!やっといい男を見つけたんじゃ!もう離さんぞ!!」
駄々っ子のように黒崎ユウタに抱きつき続ける少女。いや、少女というよりも幼女と言ったほうが正しいだろう、とにかく幼い女の子だった。
ただし、人間ではない。
茶色い髪の毛に頭から二本の角が生えていた。それだけではなく布地の少ない服、もはや服というよりもただの布切れとしかいえないモノを身に纏い、獣のような手足をした幼女。
それは私の知識の中でも最上級に位置する危険な魔物の姿。
並の兵では太刀打ちできず、精鋭でも足元に及ばない。勇者となってようやく相手できるかどうかの存在。
修道女である私にとってこんな魔物に対抗する手段は持ち合わせていない。どうやったところで太刀打ちできるはずがない。
『バフォメット』
「な…っ!!」
驚愕と絶望が湧き上がる。
目の前にいるのは見た目こそ幼い女の子だが私ではどうにもできない魔物。しかも魔王の幹部にいるほど強力な魔力と実力を兼ね備えた危険な存在だ。
それがどうして彼の体に抱きついているのだろうか。
私はすぐさま彼に詰め寄り襟首を掴んで引き寄せた。すぐ傍の魔物に聞こえによう極力小さな声で言う。
「うぐっ!」
「な、なぜそんな、よりにもよって危険な魔物を連れてきてしまうのですか!?」
「危険って…ただの子供じゃん」
「こんなところにいる子供がただの子供なわけがないでしょう!?あれは魔物の中でも恐ろしいバフォメットですよ!?」
「バフォメット?」
その言葉に黒崎ユウタはバフォメットを見て笑った。
「バフォメットっていうのは黒ヤギの頭を持った化物なんだよ。こんな可愛い女の子がバフォメットなわけないって」
「か、可愛い…っ」
彼の言葉に反応したのかバフォメットは恥ずかしそうにほほに手を添え顔を赤らめた。
腹立たしい。
なぜだかとても腹立たしい。
その理由はよくわからないのだけど、それでもいい気持ちではなかった。
「頭からヤギの角はやしているのにわからないんですか!?」
「ハロウィンのコスプレかと思って」
「こす…?」
「いや、こっちの話」
「とにかくっ!そのバフォメットを元の場所に戻してきなさい!!」
「そんな捨て犬みたいに言わなくても」
「魔物に対する知識がないのなら口出ししないでください!それは外見こそ幼子ですが中身は私たちでは太刀打ちできないような魔物なんですからさっさと遠くに捨ててきてください!!」
「そう言われてもね、離れないんだよこの子。無理やり引き剥がそうにしても人らしくない手だから爪の方が剥がれそうだし」
「人じゃないとわかっているなら連れてこないでください!!」
「オレだってこんな子供連れて来たくなかったさ。青い肌の蛇みたいな女性にこの街のことちょっと聞いてたらいつの間にかくっついてたんだし」
青い肌の蛇…どうしてだろう、その言葉で思いつく魔物もバフォメット同様危険な気がするのだが今そんなことどうでもいい。この子供のように駄々をこねる魔物をどうにかして追い払わないといけない。
この魔物はあまりにも危険すぎる。
「これから昼飯作りたいのに…どうするか」
どうしたものかと困ったように首をかしげる黒崎ユウタ。それでも魔物に向ける顔は優しそうな笑みを浮かべている。
…正直いって気に食わない。
魔物にそんな笑みを向けること、普通はしない。それどころか嫌悪感を抱くのが当然で浄化することが当然だというのに。
「一緒にいるのじゃ〜」
「こら、離せよヘレナ。一緒にいた蛇の人…エリヴィラだっけ?が心配してるぞ?」
「大丈夫じゃよ。バフォメットが心配されるほどやわな存在ではないからのう。それよりもユウタ〜♪抱きしめて欲しいのじゃ〜♪」
気づけばお互いに名前を呼び合っている始末。本当に困った男だ。
いや、でもバフォメットを子供のように扱えるというのは只者ではない。知識がないただの無知から来るものだとしても、普通に考えれば常軌を逸している。
無知ゆえの馬鹿なのか、それとも度胸があるのか、一体どちらなのかはわからない。
そんなことを考えているとぐ〜っと、どこからかお腹の鳴る音がした。
「…」
「…ん?」
「何ですか?私ではありませんよ」
「…じゃあ」
「…」
私でも黒崎ユウタでもない。それならばもう一人しかいない。
音の発信源である魔物は顔を真っ赤にさせて俯いてしまう。それでもしっかりと手は彼の服を握ったままで。
恥ずかしがるように小さくなる魔物を前に黒崎ユウタは小さく笑った。
「まぁ…仕方ないか。ヴィエラ、これから昼飯にしようと思うんだけどこの子も一緒でいい?」
「…はぁ!?」
何を言い出すのだろうこの男は!
「ここ結構物が安いから一人増えても余裕は全然あるんだし」
「い、いいわけないでしょう!?」
魔物と食を共にする?そんなこと許されるはずもない!
それどころかこうして同じ部屋にいること自体があってはいけない。神様から見放された堕落した魔物がどれほど罪深き存在か、それと共にいることがどれほど愚かなことかこの男はまったくわかっていない。
頭を抱えたくなりながらも私は怒鳴り気味に彼に向かって言おうとしたとき、催促するように再びお腹の鳴る音が響いた。
「…」
「…」
「…」
そして上目遣いでこちらを見つめる幼子の瞳。それから申し訳なさそうに頼み込む彼の顔。
そんな一匹と一人を前に私は…。
「…今回だけですからね」
折れるしかなかった。
許可を取って、食材を袋から取り出した黒崎ユウタはさっさと下の階へと行ってしまった。正直言って心配でならない。料理を任せる形になってしまったが大丈夫だろうか。このような宿には宿泊客用のキッチンがついているものだがそれを借りる際にカウンターの魔物にまた何かされていないだろうか。先程もドアが閉まる寸前に「違うんです!服が脱げかけてるのは誘ってるわけじゃなくて…いや!食材持ってるのは食べてって意思表示してるわけでもないんですって!ちょっと!!」なんて声が聞こえてきたのだし…。
…いや、それ以上に今心配すべきなのは。
「ありがとうなのじゃ〜」
バフォメットと一緒の部屋にいる私自身だろう。
どうしてよりにもよってこんなことになっているのだろうか。こんな密室に上級魔物と一対一。そしてこちらは武器もなにもない無防備な状態。最もあったところで役には立たないのだけど。
ぱたぱたとベッドに座って足をばたつかせるバフォメットは椅子に座る私を見据えて小さく唸った。
「むぅ、それにしても…まさかユウタには既にパートナーがいたとは思わんかったのう」
「…私のことですか?」
「そうじゃよ。いやぁ、惜しいのぅ。ユウタが一人ならわしのお兄ちゃんにしたのにのう…」
「…」
それを聞いてやはりと思う。
魔物というのは教えられたとおり罪深き、穢らわしい存在だ。隙あらば堕落へと導き、破滅へと落とさせる危険な存在。
それをどうして黒崎ユウタはわからないのだろうか。別の国の勇者や騎士は魔物の外見に騙されそのまま懐柔されると聞くが、このままでは彼も同じ末路を辿りかねない。
「それにしてもぬし、変わった格好しておるの」
「っ!」
「もしかしてぬし…」
「な、何ですか…っ?」
張り詰めた空気の中バフォメットは鋭い視線を私に向けた。ただそれだけなのに相手が相手だからか冷汗が垂れ、鼓動が早まる。
もしかして気づかれてしまっただろうか?むしろこのような格好をしているのに気づかない者はいないだろう。修道服を纏った女性の姿などこの魔界でどれほど浮いた存在なのかわからないワケじゃない。
バフォメットは鋭い視線をこちらに向けたままゆっくりと言葉を紡いだ。
「自分のいた国から逃れてここに来たんじゃな?」
「…………は?」
思わず素っ頓狂な声が出てしまった。
何を言っているんだこの魔物はと思ってしまう。修道服姿をどう見ればそんな考えに結びつくのだろうか。
「あー皆まで言うな。わしには分かるぞ。反魔物国家はそれはそれは厳しく辛いものばかりじゃと聞くからのう。それが修道女ともなれば計り知れんわい。以前男性と駆け落ちするために修道服のまま逃げ出して来た者もおったくらいじゃし」
それは…なんと罪深きことか。
神様の信仰を捨てこのような堕落しきった世界へと身を投じるなど愚かしいにも程がある。
思わず拳を握りしめ、表情が引きつってしまうがそれでもなんとか愛想笑いを浮かべておく。ここで変に波風立てるのは危険だろう。
「それにしても…おぬし、ユウタと一緒にいるみたいじゃがそのわりには精の匂いがこれっぽっちもしないのう…そういえばユウタもおぬしの匂いがあまりせんかったわ」
すんすんと鼻を鳴らして私の匂いを嗅ぐ幼子。
やっているのは穢らわしい魔物。そして上級の存在であるバフォメット。そんな行為失礼極まりないのだがそれ以上に嫌悪感と恐怖心を抱かずにはいられない。
バフォメットは憐れむような視線を向けながらも何かに納得したように頷いた。
「修道女だったのなら性に関して遠慮することもあろう。まぁ安心せい。ここは魔界じゃ。どれほど愛しい男性とつながろうが誰にも迷惑のかからん場所なんじゃ。流石に人前はすすめんが交わったところで文句は言われんよ」
「まじっ…!」
「じゃが早く手を打たんと別の魔物に連れて行かれるぞ?女の匂いのしない男一人魔界を行くなど結婚してくれと言うようなもんじゃからのう。ベッタベタに互いの匂いが染み付くまで交わればそんなことなくなるじゃろうし」
平然と言い放たれた言葉に一気に体温が上昇する。
なんと…なんとふしだらで下品なのだろうか!いくら外見が幼子だとは言えそんなことを平然と口にするあたりやはり魔物ということなのだろうが、それにしたってあまりにもいやらしすぎる
「修道女ならダークプリーストをすすめるが…儂のサバトに入るのはどうじゃ?皆プリティーでキュートな魔女ばかりじゃ。ぬしもそうなれるじゃろうよ」
にぱぁと笑ってこちらを見てくるバフォメット。これが普通の女の子ならどれほど可愛らしいことか。魔物が浮かべているだけでとても淫靡で汚らわしいものになる。
「遠慮しておきます」
「そんなこと言わずにのう?ピッチピッチの肌と可愛らしい姿になれるんじゃぞ?」
「遠慮しておきます!」
「最近儂のサバトの人数が減ってきておるんじゃ。頼む!儂を助けると思って!」
「遠慮しておくと言ったでしょう!!」
あまりのしつこさにバッグの中に入っている聖書に手が伸びてしまった。
私の国で、修道女に持たされる聖なる書物。それに記された文字は私たちを邪悪から救い、汚れ堕落した者を退ける力がある。その力は絶大で魔物なら触れれば火傷を負うことになる。
バフォメット相手に有効とは思えない。だけども無傷で済むはずもない。
なーんじゃーといじけたように呟いて背を向けるバフォメット。その背中からは警戒心なんてものは全く感じられない。
今ならば奇襲のチャンス。男性よりは力の劣る修道女の私だが狙いどころによっては聖書の力と相まって重傷を与えられるかもしれない。
「…よし」
私は音を立てずにバッグの中から聖書を抜き出した。
バフォメットまでは二歩もない距離。飛び込み、振るえば直撃は間違いないだろう。たった一撃でも退魔の力を持つこの本なら滅することはできずもそれなりの傷を負うことになる。そこに黒崎ユウタが戻れば…。
「…」
彼ならばなんと言うだろうか。
もしもここで私が聖書で殴りつけたとしたら、彼はなんと言うだろうか。
魔物に対する知識が全くないから傍から見れば幼子を殴りつける大人としか見えないはずだ。そんなものを見たら黒崎ユウタはきっと怒るだろう。
非常識なのに常識人。気弱なのか、それとも優しいのかよくわからない男性。
そんな彼に今朝言われたことを思い出す。
『オレはヴィエラの護衛なんだよ。護衛なら護る相手の体調も含めて護ってやんなきゃね?』
あんなことを言っておいて、あんなに優しく微笑んでいて私の身の危険になるものを連れてくるとは思えない。バフォメットのことを知らなかったから仕方ないとはいえ、それでも彼はこの魔物のことを無害だと感じたのではないか。
「…」
少しは…彼のことを信じてみるもの必要かもしれない。
私は静かに聖書をバッグの中へと戻した。
運ばれてきた料理はスパゲティだった。赤く染まったパスタと一口大に切られたトマト、散りばめられたチーズに飾られたバジルの葉。なんとも本格的で手の込んでいるそれから湯気とともに食欲を刺激する香りが漂ってくる。思わず私も空腹を隠しきれなくなる美味しそうな匂いだった。
「料理…できたのですね」
「できないように見えた?」
「ん〜♪美味しそうなのじゃ♪」
「味は保証するぞ」
得意げに笑みを浮かべて黒崎ユウタは料理の乗ったお皿を並べていく。手慣れた手つきでフォークとともに並べて、空いている椅子に座る。
私と黒崎ユウタとバフォメット。
人間二人と向かい合うように座った魔物が一匹。
なんと奇妙な光景だろう。こんなところでこんな相手と食事を共にすることになるなんて…。でも許可をしたのは私なのだから仕方ない。
小さくため息をついた私はバフォメットから見えないように両手をテーブルの下で組み、我らが神へと食前の祈りを捧げる。
「いただきます」
だが、隣でただの一言で食事を始めようとする彼の姿に私は椅子から落ちそうになった。
肘で彼の脇腹を突き、目前のバフォメットに聞こえないように小声で耳打ちする。
「何をしているんですかっ!」
「ん?食前の挨拶ってやつだよ。ヴィエラも朝食の時にやってたでしょ?あれと同じだよ」
「今朝は私とともに祈りを捧げていたでしょう!何でいきなりそんなことをしているんですか!?」
「だってさ、ヴィエラのやり方で祈りすると結構時間かかるじゃん。せっかく温かいのに料理が冷める。料理っていうのは出来立てを食べるべきなんだよ」
「我らが神に感謝を捧げ、食事をいただくのですから祈りに時間がかかるのは当然でしょう!」
「…それは時間をかけて作った料理をあえて一番美味しい状態じゃないところで食べたいっていう意味?」
「そ、そんなこと…」
いきなり刺のある言い方変わった彼に言葉を詰まらせていると目前のバフォメットにも聞こえるようにわざと大きな声でいった。
「いただきますっていうのは自分の命のために他の命を頂くってこと。それで食後にいうごちそうさまっていうのは食材を用意してくれた人、料理を作ってもらった人とかもてなしてくれた人に対する感謝の言葉なんだよ」
諭すような言葉に出かけた声が止まってしまう。神への感謝を行わないのは失礼なのだが考えさせられる部分はある。
「だからヘレナもきちんとするんだぞ?」
黒崎ユウタの言葉に手に持ったフォークをスパゲティに突き刺そうとしていたバフォメットが動きを止めた。フォークを静かに置くと彼の見せている通りに両手を合わせる。
「いただきます、か。それはジパングの挨拶じゃとは知っておったがそんな意味があったとはのう。いいことを聞いたわ。やはりユウタはジパング人じゃったんか」
「ん?」
その言葉に一瞬私を見て反応を伺う黒崎ユウタ。私は頷くと彼は小さく肯定を返した。
ジパングなんて彼は知らないはず。そもそも彼は異界から来たのだからまだまだこの世界について知らないことが多いはずだ。それでも一度私を見たということはその発言でぼろを出さないためだろう。
変にぼろを出せばここにいられなくなる。そうなれば私の試練はなかったことになるどころか国に帰れば修道女であることを剥奪されかねない。
そこまで考えてなのか、それとも気まぐれか。どちらにしろそういう微妙なところに気が配れるのならこのバフォメットを連れてきて欲しくなかったのだが。
「それじゃあ…いただきます」
「どうぞ、召し上がれ」
まるで子供をしつける親のような、いや、年齢的には妹をしつける兄のような姿だった。
「ヴィエラは?」
「わ、私は神に祈りを…」
「おいしく食べてもらいたいんだけど…ね?」
「……いただきます」
私の声に黒崎ユウタは嬉しそうに笑った。
全くこの男はよくわからない。私のペースを狂わせては引っ掻き回してくれる。予測できないことをしたかと思えば常識外れなものを連れてくるし、だというのにその根本ではしっかり私の護衛を考えているらしいし。
どこか小生意気な弟のような存在にため息をつきたいような、それでもくすぐったさのある不思議なものを感じながら私は目の前の料理を口に運んだ。
「…んっ」
ちょうどいい感触まで茹でられたパスタに絡められたトマトソースの味。そこに加わるチーズの風味にバジルの香り。濃厚なのにさっぱりとしていてしつこくなく、だけどもしっかりと舌に残る味わいはどの食材の味もしっかりと感じ取れる絶妙なもの。
「ん〜♪美味しいのじゃ〜♪」
「美味しいですね」
バフォメットと同じ意見というのは嫌だがそれでもそれ以外に言葉に表しようがなかった。その言葉を聞いて黒崎ユウタは嬉しそうに笑った。
「そりゃよかった。味覚に差があったらどうしようかと思ってたんだよ」
「少し濃い気がしますが…それでも十分美味しいです」
「店だせるのではないかの?」
「ははは、そりゃ言いすぎだって」
笑いながらスパゲティをフォークに絡めて口へと運ぶ黒崎ユウタ。それを見て私も再び食事を始める。
噛むたびに舌を刺激してくるそれは喉を通りお腹の中を満たしていく。空腹も相まって美味に感じられるのだがどうしてだかそれだけじゃない。
なんでなのか、温かい。
出来立てなのだからそれは当然のこと。だけどそういうことではない。食材には変なものは混じっていなかったし、この料理自体修道院でも出される時もある。
だけど、何かが違う。
ホカホカするというか、暖かくなるというか。よくわからない不思議な感覚だった。
「…」
その正体を考えつく前にフォークを動かし、食事とともに飲み込んでしまった。
今必要なのはこの食事に感謝すること。
これらの恵みを与えてくれた神へ、私たちを救ってくれる神へと…。
食事を終えると空いたお皿を黒崎ユウタが回収するために椅子から立ち上がった。
「よっと、片付けしないと」
「片付けなら私がしますよ」
伸ばした手を遮りバフォメットの前の皿と彼の前の皿を掴んで自分のと重ねる。
「いや、いいよ。それくらいオレがやっておくから」
「なにがいいですか。お皿とフォークだけなのですからこれくらい私たちにやらせてください」
「私たち?わしも?」
「当然でしょう。貴方はそんな気もまわせないのですか?」
「むぅ、刺のある言い方するのう…」
「それから口周りにソースが付いたままですよ。さっさとお拭きなさい」
「む、むぅ…」
「ヘレナ。こっち向けよ。拭いててやるからさ」
「黒崎ユウタ。貴方もついてますよ」
「え」
大慌てで口元を拭う黒崎ユウタ。先程までとは打って変わった子供っぽさに思わずくすりと笑みが漏れた。
「鏡でも見てきなさい。その間にでも片付けておきますから」
「いや、オレがやるって言ってるのに」
「いいから―」
そう言ってお皿を手にしたとき視界がぐらりと揺れ、階段を踏み外したように体が倒れかけた。
「…っ」
「ヴィエラ?」
それでもなんとか踏みとどまる。心配そうに駆け寄ってきた。私はそれを片手で制して姿勢を正す。
「…なんでもありません。ちょっと立ちくらみがしただけです」
「立ちくらみって…それ風邪でもひいたんじゃ」
「風邪などでは、ありません」
「…」
そう言っても変わらず心配そうな表情の黒崎ユウタに倒れかけたことを訝しげに見てくるバフォメット。私は頭を振り、二つの視線から逃れるように部屋の外へと出ていった。
「…っ」
ぐらつく足元。揺れる視界。ぼんやりとしてくる意識。どう考えても正常ではない体の状態に私は廊下の長椅子に座り込んだ。
…きっと旅の疲れでも出たのだろう。この魔界に来るまでにも結構な道のりだったんだから気を抜いて体が休息を求めてしまっている、そうに違いない。
大きく息を吸って吐き出しながら、気づかないうちに震えていた手が胸元へと伸びる。
「神よ、我らを…お守りください…」
服の中へと隠した十字架を握りしめて私は小さく呟いた。
13/06/23 20:16更新 / ノワール・B・シュヴァルツ
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