迷いと貴女とオレと路 中編
無機質な机の表面をそっと撫でる。
それは撫でたオレの体温をわずかながらに奪っていく。
…あまりにも現実的過ぎる。
机から感じる硬さ、温度、はたまた香りそれ全てが本当に存在しているんじゃないかってほど感じられる。
ためしに自分の席の机の中を確認する。
中には化学の教科書、ノート、そしてなぜかあるカビたパン。
一番右の一番前の机の中を確認する。
中には分厚い週刊の漫画雑誌。
…これ続きまだ読んでなかったな…。
最後に教室の掃除道具入れのロッカーを開け、下のほうを確認する。
下にある金属板を外して、そこにあったのは―
「…!」
あった。本当にあった。このクラスの勇者が隠し持ってきた男の宝が。オレ達の財産が。すなわち、
エロ本が…。
「…。」
何事も無かったかのようにその本を戻す。
何から何までこの空間はオレの知っている教室だった。
嘘だろ…。オレはもうここには戻って来れないはずなのに。
幻かと疑ってもこの手に伝わる感覚は本物だろう…。
オレは…帰ってきた?
…それはない。きっと無いだろう。
ここはおそらくかぐやさんが作り上げた幻の世界。
そして、ゲーム。
かぐやさんとオレの、鬼ごっこ。
かぐやさんの言っていた『迷い』。おそらくそれが今のこの空間だろう。
…『迷い』か…。
迷ってんのかな、オレは。
オレはまだこの空間に、オレのいた世界に悔いでも残してきっけか?
そんなことを考えていると廊下のほうで音がする。
パンパンっ
手を叩くような、肌と肌がぶつかる乾いた音。
その音に続くは高くきれいな女性の声。
「鬼はんこちら。手のなるほうへ…。」
「!」
かぐやさんのものだった。
成程ね…。オレの記憶の中での鬼ごっこか…。中々洒落たことしてくれるじゃんか。
ゲームをするからには…負けるわけにはいかないよなぁ!
この校舎の中全部を使ってまで逃げ切れる範囲は限られる。
外に逃げて…という手もあるがここは教室。
外に出るにはここからかなりの距離がある昇降口まで行かなければいけない。
さっき聞こえた声は廊下から…。
それも、昇降口とは反対側の方だった。
それなら、行ける。
三年間通い続け、校舎全体を把握しているこのオレに地の利はあるといってもいい!
オレはすぐさま駆け出した。
廊下に出るなり声のした方へと走り出す。
いくつもの教室の前を通りながら横目で中を確認する。
誰もいない教室がいくつも続いた。
…どうやらここにいるのはオレとかぐやさんの二人だけってことか。
尚更好都合。存分に校舎内を走り回れる!
三年の教室は南校舎の三階にある。
屋上は北校舎にしか存在しない。
なら逃げ道を塞ぎ、北校舎に追い詰めるというのも手だ。
一年の教室がある一階。
二年の教室がある二階を走りぬけオレは足を止めた。
どーやら南校舎にはいないようだ。
なら、北校舎か、体育館か、校庭か…。
校庭は隠れるとこがないから行くのはやめよう。
体育館は最後にするか?
そんなことを考えていたら再び、聞こえてきた。
パンパンっ
「鬼はん、こちら。手のなるほうへ…。」
声のしたのはオレの目の前。
南校舎から北校舎へ行く途中の渡廊下の向こう側。
そこにかぐやさんはいた。
「!!」
金色の髪をなびかせて。
口元を押さえ、微笑んだ。
「こっちやで、ゆうたはん。」
誘うように、言った。
「見っけたぁ!」
即行動!
オレはかぐやさんに全力で飛びつき、抱きしめる―が!
「―!?」
まるで霞でも抱きしめたような感覚…それすなわちオレの腕の中に入っているだろうと思えたかぐやさんの体は、かぐやさん自身は消えていた。
煙のように、空気のように。
はじめから何も無かったかのように…。
「…!?どーゆーことだよ…。」
足でブレーキをかけ、止まる。
まるで狐に化かされてるみたいじゃないか…。
…あ、今実際に狐に化かされてるじゃん。
左右を確認しても誰もいない。
右には職員室だが扉の開いたような気配も無い。
左の視聴覚室も同じだ。
いったい何所へ…!?
とにかく歩き出す。
止まってても仕方が無い。
かぐやさんから捕まりに来てくれるわけじゃあないんだから。
とりあえず上の階に行こうと階段を上ろうと顔を上げた。
「ふふふ、こっちやて。」
「!」
いた!
二階と三階の間、階段の踊り場でくすくす笑うかぐやさんの姿。
オレは階段を駆け上がる。
今度こそ!
かぐやさんを捕まえるために飛びつこうと階段の最後の段に足を乗せた、そのとき。
ゆらりと、
かぐやさんの姿が揺れ、消えた。
「!?」
目の前から、跡形も無く。
いったい何なんだよ!?
目の前に現れちゃ消えて、馬鹿にされてるみたいじゃないか!
「こっちこっち。」
まただ!
今度は姿はない。
上の階、いや、三階よりももっと上から聞こえた。
そこにあるのは確か―
「―屋上か!」
三階より上に廊下はない。他の教室もない。
屋上へ続いた階段だけだ!
これなら行ける!
階段を二段とばしで駆け上がり一気に屋上のドアの前に立つ。
この先に、かぐやさんはいるのか…?
もしかしたらさっきと同じように消えるのでは?
そんなことを考えたいたが考えても仕方ない。
オレはドアノブに手をかけ、一気にドアを開け放った!
そこは屋上ではなかった。
「―っ!?」
オレの目の前、少し先のところ。
黒く光る鉄柱がいくつも並び作る大きな箱。中にいるはずの動物達がいないが…。
それ、つまり檻が並んで列を作る。
左の方には円形の形に窪んだ地面があり、その中には大型プールが設けられていた。
右にはお店。
お土産や飲食店が立ち並ぶ。
オレは…ここをよく知っている…。
ここは家族と一緒に、何度も訪れたことのある―
―動物園だ!
どーゆーことだよ!?
さっきは高校。今は動物園!?
わけがわかんねぇ!
こんな何の繋がりも共通点もないようなところで何で鬼ごっこなんか…。
「…っ。」
いや、共通点、もしかしたらあるかもしれない。
さっきの高校といい、今のこの動物園といい…。
その二つはオレにとって、黒崎ゆうたにとっての―
「鬼はん、こちら。手のなるほうへ…。」
すぐ後ろから声がした。
オレの一歩後ろ、振り向けばすぐ前にいるようなそんな距離から。
まったく…もう少し考えさせてくれる時間ぐらい欲しいもんだぜ。
「始まってさかい10分の時間が過ぎとるよ?」
え!?そんなに!?さっきっまで校舎の中を駆けずり回ってたけどそんなに時間が過ぎてたのか!
時間を忘れて熱中しそうだな、この鬼ごっこは―
「せいやっ!」
振り向きざまに抱きつく!
すぐ後ろにいるのならオレの腕も十分に届く!
この距離ならいくらなんでも逃げられはしないだろ!
そんな思いを胸に背後のかぐやさんに抱きついた、が。
「…。」
やはりというか…何もいなかった。
…何だよこれ。
捕まえられそうな気がしねーぞ。
ひとつため息をつき、顔を上げればその視線の先にかぐやさんの姿があった。
こっちを見て、微笑んで。そこに立っていた。
「…かぐやさん、これって捕まえられるんすかね?」
「ふふふ、どうどすやろね。」
「もういっそのこと捕まってくれないですかね?」
「そら無理な相談や。」
「ですよね〜。」
期待してなかったけど。
そこで、またかぐやさんの姿が消える。
煙のごとく、ゆらゆら揺れて。
気がつけばかぐやさんはオレの隣に立っていた。
「…変わったトコどすなぁ。」
かぐやさんは目の前の檻を見てそう言った。
興味津々な声色で。
「ここのことですか?」
「ええ。こないなトコ初めて見たんやよ。」
そりゃ、そうだろうな…。
この人からしちゃオレのいた世界なんて別世界。
予想もできないようなものが広がっている。
目にするもの全てが初めてなのだから興味を持つなという方が無理だ。
別世界に来てしまったオレのように…。
「…捕まえへんのどすか?」
「そりゃ…。」
ここまでかわされちゃねぇ…。やる気も失せるってもんだ。
抱きつこうと捕まえようとそこにあるのは煙のような、掴めぬもの。
「ふふふ、ええのどすか、ゆうたはん。うちはこないな所におるんやよ?」
「…。」
そんなこと言われても…捕まえようが無いってのに…。
「さすがに無茶でしょ。ここまで上手くかわされちゃ…。まるで煙か幽霊相手にしてるみたいですよ。」
「そんなら、ちびっとだけ…。」
そう言うとかぐやさんはオレの手をとり、その手を自分の胸へと押し付けた。
むにっと。むしろ、むにゅっと。
かぐやさんの右手で、オレの左手を掴んだままで…。
「っ!?か、かかかぐやさん!?」
「ここより先はうちもちゃんと逃げまひょ。よう煙みたいになるのはやめまんねん。」
かか、かぐやさん!?
手が!手からあなたの柔らかな胸の感触が!!
モロに伝わってきてあわわわわわ!!
「ふふ♪」
かぐやさんは手を離し、楽しげに笑う。
…もう少しあの感覚を楽しみたかったな。
なんてことは言わない。大人だもの…。
「ほら、こっちゃやて。」
まるで少女のような無邪気な笑みを浮かべながら逃げていく。
今度は煙のように消えずに自分の足で。
「…。」
なーんか疑わしいな…。
また霞のように消えそうで。
「捕まえることがでけたら、ふふふ。」
かぐやさんは自分の和服の襟を軽くつまみ、引っ張る。
当然そんな事をすれば着物の襟が広がるわけで。
服の下にあるかぐやさんのそのきれいな肌がオレの目に晒されるわけで。
かぐやさんの胸の谷間が、オレの瞳に映るわけで…!
「っ!か、かぐやさん!?」
「ゆうたはんの好きな事、してあげまんねん…♪」
まぁじすかぁぁぁぁぁ!!!
テンションが一気にあがったぜぇ!
やってやらぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!
「ふふふ、鬼はんこちら。手のなるほうへ…。」
五本の尻尾をゆらゆら誘うかのように揺らしながら逃げていく。
そうしてすぐにオレの視界から消えた。
…なんか、かぐやさんって誘い上手だな。
やる気が消えそうなところで上手く誘って、またやる気を出させるなんて。
まったく…。
「狐ってのはタチが悪いもんだな…!」
オレは走り出した。
特に行く当ては無くただ走る。
檻の間を抜け、キリンでもいたのだろう柵の横を通る。
人影はない。
この動物のいないただ広い動物園にいるのはオレとかぐやさんの二人だけ。
目に付く人影があったらそれは間違いなくかぐやさんだ。
徹底的に、虱潰しに捜して行ってやる!
え?もっと頭使えって?
無理。オレそんな頭いい方じゃないし…。
走り続けてどれくらいか過ぎて、いつの間にかオレは室内にいた。
ガラス張りの室内。
透明な板のその先には今はいない動物達の生活の跡が残っている。
「…。」
ひとつのガラスの前で足を止めた。
手で手すりの向こうにある動物について書かれた板を撫でた。
『アカギツネ ネコ目 イヌ科 キツネ属に属する哺乳類動物』
そこにはそう、書かれていた。
「……狐、か。」
以前家族で何度も訪れたこの動物園。
ここにはよく双子の姉と姉ちゃんの三人で訪れていたな…。
懐かしき記憶がよみがえる。
『ゆうたゆうた、狐って人を化かすのかな?』
『さぁ?それを言ったら狸もそうじゃねぇの?』
『ん〜?お姉ちゃん、どう思う?』
『化かすんじゃないかな?狐も狸も。昔の話だけどね。』
『やっぱり今じゃ誰も化かされないか…。』
『…昔も無かっただろ。』
『狐や狸に化かされることってなんていうんだっけ?』
『あん?狐につつまれる…じゃなかったか?』
『そっちじゃない方。』
『…なんだっけか。確か昔の俗信に基づいた…えっと…。』
『簡単だよ、ゆうた。それは―』
「ここ、いったいどないなトコどすねん?」
一気に現実に引き戻される。
隣にはまたかぐやさん。
また、こんな近くにいて。
捕まえてくれと言わんばかりに。
…あんたは人を馬鹿にしに来てるんですか?
「動物達を見て回るっていう施設ですよ。オレのいた国じゃ見られないような動物を捕まえて、見世物にするとこです。」
「まぁ…怖いトコどすなぁ。」
「怖いって言っても猟奇的なものは無いんですけどね。ただ単に『こんな動物もいるんですよ。皆で大切にしていきましょう』みたいな想いを込めて造られたものだと思います。」
「そんなら実際に見に行かはったらええのに…。」
「そうしたくてもできない人が多かったんですよ。お金もかかるし時間もかかる。そんな人たちのためにできたんですよ。」
「ふふふ、ほんまに変わったトコどすなぁ。」
かぐやさんはさっきとは違う様子で言った。
さっきは興味津々な声色だったが、今はどこと無く淋しがるようなそんな声で。
小さく、笑った。
「…せいっ。」
抱きついてみた。
今までやったように、捕まえるように。
そしたら予想外なことに、
ぎゅっと、抱きしめることができた。
「やん、積極的ぃ♪うち、そないな人は結構好きや…♪」
「さいですか…。」
じつはこの状態かぐやさんのお腹より少し上のところで背後から抱きついている。
…ちゃっかり腕にかぐやさんの柔らかな胸が感じられるのは偶然だろう。
…狙ってやったけど。
「逃げないんですか?」
「逃げる必要があらしまヘン。」
「え?」
「かて、『そこにおる』うちは偽モンどす。」
後ろから声がした。
首だけ動かして見ればそこには抱きしめているはずのかぐやさんの姿がある。
…え!?
抱きしめているかぐやさんは偽者!?え?なにそれ!?
ドロンッと
腕の中から音とともに煙が広がる。
「!」
煙が消え、オレが抱きしめていたかぐやさんは一枚の薄い何かになって下に落ちた。
それは木の葉。
昔から狐が人を化かすときに用いられたっていう、どこにでもありそうな木の葉だ。
「…ちゃんと逃げるって言いませんでしたっけ?」
「言やはった。さかいにちゃんと逃げてるではおまへんどすか。」
「…。」
確かにちゃんと逃げてるけど…偽物まで用意してるなんて一言も言ってなかったじゃん。
屁理屈だ…。
「ふふふ、鬼はんこちら。手のなるほうへ…。」
そう言って再び逃げ出す。
誘うかのようにゆっくりと。でも捕まらないように早く。
五本の揺れる尾を追いかけ続け、気がつけばオレは―
―自宅にいた。
「―っ!」
もう戻ることのできないオレの居場所。
本当のオレの帰るべき場所。
そこにオレは立っていた。
自宅の、狭くも無く、広くも無い無機質な玄関に…。
「…はは、こりゃ…。」
かぐやさんの言っていた意味がわかった気がする。
『迷い』…それはオレにとっての、人にとっての思い入れの在るところ。
毎日通った高校の教室。
家族で何度も訪れた動物園。
帰るべき場所の自宅。
どれも思い出深い場所じゃないか…。
こんなところで『鬼ごっこ』か…。
そんなの勝てるわけが無い。
ここまで意志を、心を迷わされちゃあ捕まえられるものも捕まえられない。
「…っ。」
少し、思ってしまった。
今のオレが思っちゃいけないことを。心の内にずっと秘めておこうと思っていた想いを…。
少しだけ、迷わされた。
「…。」
靴を脱ぎ、上がりこむ。
とたんに香ってくるのは懐かしき我が家のにおい。
「ただいま」とは、言えなかった。
言いたかったけども、オレはここでその言葉を発する資格は無い。
この場所とはもう関われないから…。どうやっても戻れないから…。
どうしたって、帰れないから…。
「よっと。」
リビングにあるベージュの色をしたソファーに腰掛けた。
座る感覚までもがあの頃と同じ。
少し硬い、馴染みの座り心地。
「…。」
ソファーの前にあるテーブルの上に目をやる。
そこには母親の趣味で置かれた花と白い写真立てに入った家族の写真。
さっき行ってきたあの動物園で撮った写真だった。
「…。」
一番新しい家族で撮った写真。
そして、家族で撮った最後の写真。
その写真を手にとる。
写真の中にいるオレは笑っていた。
父と母と姉ちゃんと双子の姉と、オレで。
心の底から楽しむように、笑っていた。
「綺麗な絵どすなぁ…。」
やはり隣にはかぐやさん。
もうこれで何度目だよ…。さすがのオレも呆れてくるぞ。
上品にオレの隣に座っているかぐやさんはオレの持っていた写真を覗き込んだ。
「こら…家族を描おいやしたモンどすか?」
「ええ、オレの自慢の家族、ですよ。」
あの世界に写真は無い。時代が、違うんだ。
かぐやさんから見ればこれはリアルすぎる絵にしか映らないだろう。
「…。」
「…。」
何も言わない。
ただ時間だけが過ぎていく。
ふと、顔を上げて壁に立てかけてある時計を見た。
秒針は動かずずっと止まっている。
動くわけがない。
ここはオレの『迷い』の世界。
別の言い方をすれば記憶の中。
そんなところで、記憶の中で時間が過ぎるはずが無い。
それなのに…。
その時計が動いたように見えた。
…いや、そう見たかった。
いつもと変わらぬあの日のように。
退屈でも充実していたあの頃のように。
そこのドアを開けて、「ただいま」と言えたあの時のように…。
「…時間。残り1分。もうしまいや…。」
「…早いですね。」
「ゆうたはんもうちを捕まえられまへんどしたね…。」
「…さて、それはどうでしょうか。」
今ここで隣にいるかぐやさんを捕まえようとすればまた消えるに違いない。
煙のようにならずともおそらく幻術の類でオレを化かしていると考えるのが妥当。
…化かしているのなら。
「おまじないがあるんですよ。」
オレは写真を置き、立ち上がる。
かぐやさんもそれにあわせるかのように立ち上がった。
「おまじない…?なんのどすか?」
「誰かに騙されないようにっていうおまじない。」
動物園のところで思い出したあの記憶。
姉ちゃんが言っていたこと。
狐につつまれる、狐に化かされるなんてことの別の呼び方。
オレは自分の両手の人差し指を舐め、眉に『唾』塗った。
―その瞬間―
自宅の景色が一瞬にして消えた。
馴染みのソファーははじめから無かったかのように消えうせ、壁に立てかけてあった時計も無くなる。
「え!?」
今度はかぐやさんが驚愕する番だった。
壁一面紫の色に戻る。
気がつけばそこはかぐやさんのお店『迷い路屋』の中だった。
「…こらいったいどないなことどすか…!?」
「狐や狸に化かされたような事を『眉唾物』って言うんです。昔からオレのいた国で言われていたんですよ。」
元は化かされないためのおまじないで自分の眉に唾をつけると化かされないという俗信、迷信から来たものだが…まさか成功するなんて思っても無かった。
「はい。」
「!」
「捕まえましたよ、かぐやさん。」
オレはかぐやさんの肩をしっかり掴んでいった。
今度は偽物という心配は無いだろう。
自宅の景色が消えた今、かぐやさんの幻も化かしも破ったんだから。
「お見事どす…。まさか、ほんとにうちを捕まえるなんて…。」
「オレ自身もびっくりですよ。」
肩から手を離し、言った。
「これで終わりですね。すごく面白かったですよ。」
できるだけ笑顔を浮かべて言った。
面白かったが…それ以外に、とても迷った。
主に、精神的に…。
「それじゃ、また来ますね。」
オレは歩き出す。
この店の出口に向かうため。自宅へ…『レグルさんの家』へ帰るため…。
力なく、歩く。
が、突然腕を引かれた。
「待っておくれやす。」
見ればかぐやさんがオレの腕を掴んでいて、オレを見ていた。
「言わはったでっしゃろ。ゆうたはんの好きな事してあげまんねんって。」
「あー言ってましたね…。」
忘れてた…。頑張った理由。
まぁ…今はそんな気分じゃないが…。
「それに、捕まえられたなら豪華賞品をこしらえてまんねん。」
「あー。」
それも忘れてたな。
「ほら。」
パンと乾いた音が店内に響く。
かぐやさんが両手を合わせたからだ。
その手をそっと開くとそこには
「…宝箱ですか。」
こじんまりした、両手に収まってしまうような宝箱が存在していた。
特にこれといった装飾はない、木で作られた宝箱。
…これミミックとかじゃないよな。
「ふふ、御開けになって。」
「…。」
仕方ない、貰う物貰っておくか。
そう思い、宝箱を覗き込むようにしてその蓋に手をかけた。
…なんか怪しさ満点なんだが、開けるか。
一気にその蓋を開け放つ。
ボワンッ!
「ぶっ!!?」
目の前が一気にピンク色になった。
とてつもない甘い香りがオレを包み宝箱からピンク色の煙が吐き出される。
ってかこの宝箱煙が入ってやがったのか!
何だよこれ!玉手箱か!オレはおじいさんになっちまうのか!?
あまりの煙の多さに咳き込む。覗き込むような体勢でいたせいかかなりの量を吸い込んでしまった。
「ゲホッ!ゴホッ!…か、かぐやさん!?」
かぐやさんを見上げれば笑っていて。
でもその表情は明らかに普段目にする優しそうな笑みじゃなくて。
どこか大人な雰囲気をかもし出す妖艶な笑みで…!
でも、そこまでだった。
オレが意識を保っていられてのは。
「か、かぐや…さ…ん?」
意識が急に沈んでいく。
体から力が抜け、倒れこむ。
…なぜだかとても眠い。どうしようもないくらいに、眠い。
「…っ?」
薄れゆく意識の中で、倒れる体をかぐやさんに抱きとめられて、
オレはかぐやさんの声を聞いた…気がした。
「ふふふ、豪華賞品をこしらえてまんねんって言やはったどすやろ…?」
娯楽店 『迷い路屋』
あなたはこれまで何に『迷い』ましたか?
それは撫でたオレの体温をわずかながらに奪っていく。
…あまりにも現実的過ぎる。
机から感じる硬さ、温度、はたまた香りそれ全てが本当に存在しているんじゃないかってほど感じられる。
ためしに自分の席の机の中を確認する。
中には化学の教科書、ノート、そしてなぜかあるカビたパン。
一番右の一番前の机の中を確認する。
中には分厚い週刊の漫画雑誌。
…これ続きまだ読んでなかったな…。
最後に教室の掃除道具入れのロッカーを開け、下のほうを確認する。
下にある金属板を外して、そこにあったのは―
「…!」
あった。本当にあった。このクラスの勇者が隠し持ってきた男の宝が。オレ達の財産が。すなわち、
エロ本が…。
「…。」
何事も無かったかのようにその本を戻す。
何から何までこの空間はオレの知っている教室だった。
嘘だろ…。オレはもうここには戻って来れないはずなのに。
幻かと疑ってもこの手に伝わる感覚は本物だろう…。
オレは…帰ってきた?
…それはない。きっと無いだろう。
ここはおそらくかぐやさんが作り上げた幻の世界。
そして、ゲーム。
かぐやさんとオレの、鬼ごっこ。
かぐやさんの言っていた『迷い』。おそらくそれが今のこの空間だろう。
…『迷い』か…。
迷ってんのかな、オレは。
オレはまだこの空間に、オレのいた世界に悔いでも残してきっけか?
そんなことを考えていると廊下のほうで音がする。
パンパンっ
手を叩くような、肌と肌がぶつかる乾いた音。
その音に続くは高くきれいな女性の声。
「鬼はんこちら。手のなるほうへ…。」
「!」
かぐやさんのものだった。
成程ね…。オレの記憶の中での鬼ごっこか…。中々洒落たことしてくれるじゃんか。
ゲームをするからには…負けるわけにはいかないよなぁ!
この校舎の中全部を使ってまで逃げ切れる範囲は限られる。
外に逃げて…という手もあるがここは教室。
外に出るにはここからかなりの距離がある昇降口まで行かなければいけない。
さっき聞こえた声は廊下から…。
それも、昇降口とは反対側の方だった。
それなら、行ける。
三年間通い続け、校舎全体を把握しているこのオレに地の利はあるといってもいい!
オレはすぐさま駆け出した。
廊下に出るなり声のした方へと走り出す。
いくつもの教室の前を通りながら横目で中を確認する。
誰もいない教室がいくつも続いた。
…どうやらここにいるのはオレとかぐやさんの二人だけってことか。
尚更好都合。存分に校舎内を走り回れる!
三年の教室は南校舎の三階にある。
屋上は北校舎にしか存在しない。
なら逃げ道を塞ぎ、北校舎に追い詰めるというのも手だ。
一年の教室がある一階。
二年の教室がある二階を走りぬけオレは足を止めた。
どーやら南校舎にはいないようだ。
なら、北校舎か、体育館か、校庭か…。
校庭は隠れるとこがないから行くのはやめよう。
体育館は最後にするか?
そんなことを考えていたら再び、聞こえてきた。
パンパンっ
「鬼はん、こちら。手のなるほうへ…。」
声のしたのはオレの目の前。
南校舎から北校舎へ行く途中の渡廊下の向こう側。
そこにかぐやさんはいた。
「!!」
金色の髪をなびかせて。
口元を押さえ、微笑んだ。
「こっちやで、ゆうたはん。」
誘うように、言った。
「見っけたぁ!」
即行動!
オレはかぐやさんに全力で飛びつき、抱きしめる―が!
「―!?」
まるで霞でも抱きしめたような感覚…それすなわちオレの腕の中に入っているだろうと思えたかぐやさんの体は、かぐやさん自身は消えていた。
煙のように、空気のように。
はじめから何も無かったかのように…。
「…!?どーゆーことだよ…。」
足でブレーキをかけ、止まる。
まるで狐に化かされてるみたいじゃないか…。
…あ、今実際に狐に化かされてるじゃん。
左右を確認しても誰もいない。
右には職員室だが扉の開いたような気配も無い。
左の視聴覚室も同じだ。
いったい何所へ…!?
とにかく歩き出す。
止まってても仕方が無い。
かぐやさんから捕まりに来てくれるわけじゃあないんだから。
とりあえず上の階に行こうと階段を上ろうと顔を上げた。
「ふふふ、こっちやて。」
「!」
いた!
二階と三階の間、階段の踊り場でくすくす笑うかぐやさんの姿。
オレは階段を駆け上がる。
今度こそ!
かぐやさんを捕まえるために飛びつこうと階段の最後の段に足を乗せた、そのとき。
ゆらりと、
かぐやさんの姿が揺れ、消えた。
「!?」
目の前から、跡形も無く。
いったい何なんだよ!?
目の前に現れちゃ消えて、馬鹿にされてるみたいじゃないか!
「こっちこっち。」
まただ!
今度は姿はない。
上の階、いや、三階よりももっと上から聞こえた。
そこにあるのは確か―
「―屋上か!」
三階より上に廊下はない。他の教室もない。
屋上へ続いた階段だけだ!
これなら行ける!
階段を二段とばしで駆け上がり一気に屋上のドアの前に立つ。
この先に、かぐやさんはいるのか…?
もしかしたらさっきと同じように消えるのでは?
そんなことを考えたいたが考えても仕方ない。
オレはドアノブに手をかけ、一気にドアを開け放った!
そこは屋上ではなかった。
「―っ!?」
オレの目の前、少し先のところ。
黒く光る鉄柱がいくつも並び作る大きな箱。中にいるはずの動物達がいないが…。
それ、つまり檻が並んで列を作る。
左の方には円形の形に窪んだ地面があり、その中には大型プールが設けられていた。
右にはお店。
お土産や飲食店が立ち並ぶ。
オレは…ここをよく知っている…。
ここは家族と一緒に、何度も訪れたことのある―
―動物園だ!
どーゆーことだよ!?
さっきは高校。今は動物園!?
わけがわかんねぇ!
こんな何の繋がりも共通点もないようなところで何で鬼ごっこなんか…。
「…っ。」
いや、共通点、もしかしたらあるかもしれない。
さっきの高校といい、今のこの動物園といい…。
その二つはオレにとって、黒崎ゆうたにとっての―
「鬼はん、こちら。手のなるほうへ…。」
すぐ後ろから声がした。
オレの一歩後ろ、振り向けばすぐ前にいるようなそんな距離から。
まったく…もう少し考えさせてくれる時間ぐらい欲しいもんだぜ。
「始まってさかい10分の時間が過ぎとるよ?」
え!?そんなに!?さっきっまで校舎の中を駆けずり回ってたけどそんなに時間が過ぎてたのか!
時間を忘れて熱中しそうだな、この鬼ごっこは―
「せいやっ!」
振り向きざまに抱きつく!
すぐ後ろにいるのならオレの腕も十分に届く!
この距離ならいくらなんでも逃げられはしないだろ!
そんな思いを胸に背後のかぐやさんに抱きついた、が。
「…。」
やはりというか…何もいなかった。
…何だよこれ。
捕まえられそうな気がしねーぞ。
ひとつため息をつき、顔を上げればその視線の先にかぐやさんの姿があった。
こっちを見て、微笑んで。そこに立っていた。
「…かぐやさん、これって捕まえられるんすかね?」
「ふふふ、どうどすやろね。」
「もういっそのこと捕まってくれないですかね?」
「そら無理な相談や。」
「ですよね〜。」
期待してなかったけど。
そこで、またかぐやさんの姿が消える。
煙のごとく、ゆらゆら揺れて。
気がつけばかぐやさんはオレの隣に立っていた。
「…変わったトコどすなぁ。」
かぐやさんは目の前の檻を見てそう言った。
興味津々な声色で。
「ここのことですか?」
「ええ。こないなトコ初めて見たんやよ。」
そりゃ、そうだろうな…。
この人からしちゃオレのいた世界なんて別世界。
予想もできないようなものが広がっている。
目にするもの全てが初めてなのだから興味を持つなという方が無理だ。
別世界に来てしまったオレのように…。
「…捕まえへんのどすか?」
「そりゃ…。」
ここまでかわされちゃねぇ…。やる気も失せるってもんだ。
抱きつこうと捕まえようとそこにあるのは煙のような、掴めぬもの。
「ふふふ、ええのどすか、ゆうたはん。うちはこないな所におるんやよ?」
「…。」
そんなこと言われても…捕まえようが無いってのに…。
「さすがに無茶でしょ。ここまで上手くかわされちゃ…。まるで煙か幽霊相手にしてるみたいですよ。」
「そんなら、ちびっとだけ…。」
そう言うとかぐやさんはオレの手をとり、その手を自分の胸へと押し付けた。
むにっと。むしろ、むにゅっと。
かぐやさんの右手で、オレの左手を掴んだままで…。
「っ!?か、かかかぐやさん!?」
「ここより先はうちもちゃんと逃げまひょ。よう煙みたいになるのはやめまんねん。」
かか、かぐやさん!?
手が!手からあなたの柔らかな胸の感触が!!
モロに伝わってきてあわわわわわ!!
「ふふ♪」
かぐやさんは手を離し、楽しげに笑う。
…もう少しあの感覚を楽しみたかったな。
なんてことは言わない。大人だもの…。
「ほら、こっちゃやて。」
まるで少女のような無邪気な笑みを浮かべながら逃げていく。
今度は煙のように消えずに自分の足で。
「…。」
なーんか疑わしいな…。
また霞のように消えそうで。
「捕まえることがでけたら、ふふふ。」
かぐやさんは自分の和服の襟を軽くつまみ、引っ張る。
当然そんな事をすれば着物の襟が広がるわけで。
服の下にあるかぐやさんのそのきれいな肌がオレの目に晒されるわけで。
かぐやさんの胸の谷間が、オレの瞳に映るわけで…!
「っ!か、かぐやさん!?」
「ゆうたはんの好きな事、してあげまんねん…♪」
まぁじすかぁぁぁぁぁ!!!
テンションが一気にあがったぜぇ!
やってやらぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!
「ふふふ、鬼はんこちら。手のなるほうへ…。」
五本の尻尾をゆらゆら誘うかのように揺らしながら逃げていく。
そうしてすぐにオレの視界から消えた。
…なんか、かぐやさんって誘い上手だな。
やる気が消えそうなところで上手く誘って、またやる気を出させるなんて。
まったく…。
「狐ってのはタチが悪いもんだな…!」
オレは走り出した。
特に行く当ては無くただ走る。
檻の間を抜け、キリンでもいたのだろう柵の横を通る。
人影はない。
この動物のいないただ広い動物園にいるのはオレとかぐやさんの二人だけ。
目に付く人影があったらそれは間違いなくかぐやさんだ。
徹底的に、虱潰しに捜して行ってやる!
え?もっと頭使えって?
無理。オレそんな頭いい方じゃないし…。
走り続けてどれくらいか過ぎて、いつの間にかオレは室内にいた。
ガラス張りの室内。
透明な板のその先には今はいない動物達の生活の跡が残っている。
「…。」
ひとつのガラスの前で足を止めた。
手で手すりの向こうにある動物について書かれた板を撫でた。
『アカギツネ ネコ目 イヌ科 キツネ属に属する哺乳類動物』
そこにはそう、書かれていた。
「……狐、か。」
以前家族で何度も訪れたこの動物園。
ここにはよく双子の姉と姉ちゃんの三人で訪れていたな…。
懐かしき記憶がよみがえる。
『ゆうたゆうた、狐って人を化かすのかな?』
『さぁ?それを言ったら狸もそうじゃねぇの?』
『ん〜?お姉ちゃん、どう思う?』
『化かすんじゃないかな?狐も狸も。昔の話だけどね。』
『やっぱり今じゃ誰も化かされないか…。』
『…昔も無かっただろ。』
『狐や狸に化かされることってなんていうんだっけ?』
『あん?狐につつまれる…じゃなかったか?』
『そっちじゃない方。』
『…なんだっけか。確か昔の俗信に基づいた…えっと…。』
『簡単だよ、ゆうた。それは―』
「ここ、いったいどないなトコどすねん?」
一気に現実に引き戻される。
隣にはまたかぐやさん。
また、こんな近くにいて。
捕まえてくれと言わんばかりに。
…あんたは人を馬鹿にしに来てるんですか?
「動物達を見て回るっていう施設ですよ。オレのいた国じゃ見られないような動物を捕まえて、見世物にするとこです。」
「まぁ…怖いトコどすなぁ。」
「怖いって言っても猟奇的なものは無いんですけどね。ただ単に『こんな動物もいるんですよ。皆で大切にしていきましょう』みたいな想いを込めて造られたものだと思います。」
「そんなら実際に見に行かはったらええのに…。」
「そうしたくてもできない人が多かったんですよ。お金もかかるし時間もかかる。そんな人たちのためにできたんですよ。」
「ふふふ、ほんまに変わったトコどすなぁ。」
かぐやさんはさっきとは違う様子で言った。
さっきは興味津々な声色だったが、今はどこと無く淋しがるようなそんな声で。
小さく、笑った。
「…せいっ。」
抱きついてみた。
今までやったように、捕まえるように。
そしたら予想外なことに、
ぎゅっと、抱きしめることができた。
「やん、積極的ぃ♪うち、そないな人は結構好きや…♪」
「さいですか…。」
じつはこの状態かぐやさんのお腹より少し上のところで背後から抱きついている。
…ちゃっかり腕にかぐやさんの柔らかな胸が感じられるのは偶然だろう。
…狙ってやったけど。
「逃げないんですか?」
「逃げる必要があらしまヘン。」
「え?」
「かて、『そこにおる』うちは偽モンどす。」
後ろから声がした。
首だけ動かして見ればそこには抱きしめているはずのかぐやさんの姿がある。
…え!?
抱きしめているかぐやさんは偽者!?え?なにそれ!?
ドロンッと
腕の中から音とともに煙が広がる。
「!」
煙が消え、オレが抱きしめていたかぐやさんは一枚の薄い何かになって下に落ちた。
それは木の葉。
昔から狐が人を化かすときに用いられたっていう、どこにでもありそうな木の葉だ。
「…ちゃんと逃げるって言いませんでしたっけ?」
「言やはった。さかいにちゃんと逃げてるではおまへんどすか。」
「…。」
確かにちゃんと逃げてるけど…偽物まで用意してるなんて一言も言ってなかったじゃん。
屁理屈だ…。
「ふふふ、鬼はんこちら。手のなるほうへ…。」
そう言って再び逃げ出す。
誘うかのようにゆっくりと。でも捕まらないように早く。
五本の揺れる尾を追いかけ続け、気がつけばオレは―
―自宅にいた。
「―っ!」
もう戻ることのできないオレの居場所。
本当のオレの帰るべき場所。
そこにオレは立っていた。
自宅の、狭くも無く、広くも無い無機質な玄関に…。
「…はは、こりゃ…。」
かぐやさんの言っていた意味がわかった気がする。
『迷い』…それはオレにとっての、人にとっての思い入れの在るところ。
毎日通った高校の教室。
家族で何度も訪れた動物園。
帰るべき場所の自宅。
どれも思い出深い場所じゃないか…。
こんなところで『鬼ごっこ』か…。
そんなの勝てるわけが無い。
ここまで意志を、心を迷わされちゃあ捕まえられるものも捕まえられない。
「…っ。」
少し、思ってしまった。
今のオレが思っちゃいけないことを。心の内にずっと秘めておこうと思っていた想いを…。
少しだけ、迷わされた。
「…。」
靴を脱ぎ、上がりこむ。
とたんに香ってくるのは懐かしき我が家のにおい。
「ただいま」とは、言えなかった。
言いたかったけども、オレはここでその言葉を発する資格は無い。
この場所とはもう関われないから…。どうやっても戻れないから…。
どうしたって、帰れないから…。
「よっと。」
リビングにあるベージュの色をしたソファーに腰掛けた。
座る感覚までもがあの頃と同じ。
少し硬い、馴染みの座り心地。
「…。」
ソファーの前にあるテーブルの上に目をやる。
そこには母親の趣味で置かれた花と白い写真立てに入った家族の写真。
さっき行ってきたあの動物園で撮った写真だった。
「…。」
一番新しい家族で撮った写真。
そして、家族で撮った最後の写真。
その写真を手にとる。
写真の中にいるオレは笑っていた。
父と母と姉ちゃんと双子の姉と、オレで。
心の底から楽しむように、笑っていた。
「綺麗な絵どすなぁ…。」
やはり隣にはかぐやさん。
もうこれで何度目だよ…。さすがのオレも呆れてくるぞ。
上品にオレの隣に座っているかぐやさんはオレの持っていた写真を覗き込んだ。
「こら…家族を描おいやしたモンどすか?」
「ええ、オレの自慢の家族、ですよ。」
あの世界に写真は無い。時代が、違うんだ。
かぐやさんから見ればこれはリアルすぎる絵にしか映らないだろう。
「…。」
「…。」
何も言わない。
ただ時間だけが過ぎていく。
ふと、顔を上げて壁に立てかけてある時計を見た。
秒針は動かずずっと止まっている。
動くわけがない。
ここはオレの『迷い』の世界。
別の言い方をすれば記憶の中。
そんなところで、記憶の中で時間が過ぎるはずが無い。
それなのに…。
その時計が動いたように見えた。
…いや、そう見たかった。
いつもと変わらぬあの日のように。
退屈でも充実していたあの頃のように。
そこのドアを開けて、「ただいま」と言えたあの時のように…。
「…時間。残り1分。もうしまいや…。」
「…早いですね。」
「ゆうたはんもうちを捕まえられまへんどしたね…。」
「…さて、それはどうでしょうか。」
今ここで隣にいるかぐやさんを捕まえようとすればまた消えるに違いない。
煙のようにならずともおそらく幻術の類でオレを化かしていると考えるのが妥当。
…化かしているのなら。
「おまじないがあるんですよ。」
オレは写真を置き、立ち上がる。
かぐやさんもそれにあわせるかのように立ち上がった。
「おまじない…?なんのどすか?」
「誰かに騙されないようにっていうおまじない。」
動物園のところで思い出したあの記憶。
姉ちゃんが言っていたこと。
狐につつまれる、狐に化かされるなんてことの別の呼び方。
オレは自分の両手の人差し指を舐め、眉に『唾』塗った。
―その瞬間―
自宅の景色が一瞬にして消えた。
馴染みのソファーははじめから無かったかのように消えうせ、壁に立てかけてあった時計も無くなる。
「え!?」
今度はかぐやさんが驚愕する番だった。
壁一面紫の色に戻る。
気がつけばそこはかぐやさんのお店『迷い路屋』の中だった。
「…こらいったいどないなことどすか…!?」
「狐や狸に化かされたような事を『眉唾物』って言うんです。昔からオレのいた国で言われていたんですよ。」
元は化かされないためのおまじないで自分の眉に唾をつけると化かされないという俗信、迷信から来たものだが…まさか成功するなんて思っても無かった。
「はい。」
「!」
「捕まえましたよ、かぐやさん。」
オレはかぐやさんの肩をしっかり掴んでいった。
今度は偽物という心配は無いだろう。
自宅の景色が消えた今、かぐやさんの幻も化かしも破ったんだから。
「お見事どす…。まさか、ほんとにうちを捕まえるなんて…。」
「オレ自身もびっくりですよ。」
肩から手を離し、言った。
「これで終わりですね。すごく面白かったですよ。」
できるだけ笑顔を浮かべて言った。
面白かったが…それ以外に、とても迷った。
主に、精神的に…。
「それじゃ、また来ますね。」
オレは歩き出す。
この店の出口に向かうため。自宅へ…『レグルさんの家』へ帰るため…。
力なく、歩く。
が、突然腕を引かれた。
「待っておくれやす。」
見ればかぐやさんがオレの腕を掴んでいて、オレを見ていた。
「言わはったでっしゃろ。ゆうたはんの好きな事してあげまんねんって。」
「あー言ってましたね…。」
忘れてた…。頑張った理由。
まぁ…今はそんな気分じゃないが…。
「それに、捕まえられたなら豪華賞品をこしらえてまんねん。」
「あー。」
それも忘れてたな。
「ほら。」
パンと乾いた音が店内に響く。
かぐやさんが両手を合わせたからだ。
その手をそっと開くとそこには
「…宝箱ですか。」
こじんまりした、両手に収まってしまうような宝箱が存在していた。
特にこれといった装飾はない、木で作られた宝箱。
…これミミックとかじゃないよな。
「ふふ、御開けになって。」
「…。」
仕方ない、貰う物貰っておくか。
そう思い、宝箱を覗き込むようにしてその蓋に手をかけた。
…なんか怪しさ満点なんだが、開けるか。
一気にその蓋を開け放つ。
ボワンッ!
「ぶっ!!?」
目の前が一気にピンク色になった。
とてつもない甘い香りがオレを包み宝箱からピンク色の煙が吐き出される。
ってかこの宝箱煙が入ってやがったのか!
何だよこれ!玉手箱か!オレはおじいさんになっちまうのか!?
あまりの煙の多さに咳き込む。覗き込むような体勢でいたせいかかなりの量を吸い込んでしまった。
「ゲホッ!ゴホッ!…か、かぐやさん!?」
かぐやさんを見上げれば笑っていて。
でもその表情は明らかに普段目にする優しそうな笑みじゃなくて。
どこか大人な雰囲気をかもし出す妖艶な笑みで…!
でも、そこまでだった。
オレが意識を保っていられてのは。
「か、かぐや…さ…ん?」
意識が急に沈んでいく。
体から力が抜け、倒れこむ。
…なぜだかとても眠い。どうしようもないくらいに、眠い。
「…っ?」
薄れゆく意識の中で、倒れる体をかぐやさんに抱きとめられて、
オレはかぐやさんの声を聞いた…気がした。
「ふふふ、豪華賞品をこしらえてまんねんって言やはったどすやろ…?」
娯楽店 『迷い路屋』
あなたはこれまで何に『迷い』ましたか?
11/02/06 21:07更新 / ノワール・B・シュヴァルツ
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