「おいおい、逃げるなよ黒崎ィ〜」
「黒崎君、ちょっといいかしら？」
透き通った綺麗な声が騒がしい教室内でもオレへしっかりと届く。その声を聞いて今まで騒いでいた生徒は皆羨望の眼差しをこちらへ向け、逆に一人がニヤついた意地の悪い笑みを浮かべた。
「…何ですか？」
「話したいことがあるから放課後視聴覚室まで来てくれないかしら？」
そう言ったのは黒板前に立っている一人の女性。
早乙女結衣先生。
数学を受け持つこのクラスの、オレと京極の担任の先生だ。特徴的なやや赤みがかった茶髪にぱっちり開いた大きな目。すっと通った鼻筋に整った顔立ち。顔を見れば十分美人の類に入るのだがいいのは顔だけではない。
スラリと伸びた長い足と腕。さらにはそれなりに大きな胸。やや高めな身長とスタイルはこの学校の男子生徒だけではなく、女子生徒や先生からも羨望の眼差しを向けられるほど。
ただ奇妙なことに今日はその特徴的な髪の毛をヘアバンドであげて、さらには両手両足を隠すように長めの手袋とブーツを履いている。
ほぼ毎日目にする担任の姿にしては珍しい。室内で手袋や上履き用にブーツなんて変わってるなんてもんじゃない。
それでも元が美人なためか、誰も不審がる人はいない。逆にお洒落だと騒ぐ生徒は沢山いたが。
「お願いね？」
優しそうな声に温かな雰囲気。男子生徒なら誰もが呼ばれてみたい声色にげんなりする。それでも早乙女先生は笑みを浮かべて教室を出て行った。
「大変だなーおい」
にやにやと意地の悪い笑みを浮かべたオレの席の後ろの奴は楽しそうにそう言った。対してオレは椅子を倒して首だけそちらへ向ける。そこにいたのは京極。いつも木刀を傍に置いているオレの友人だ。
「勘弁してくれよ」
「おいおい、あんな美人の先生に呼ばれてんだぜ？もっと喜ぶとこだろーよ？」
「なら変われ」
「呼ばれたのは俺じゃなくて黒崎だからなー。あーあー望ましいぜこのやろー」
そんなことを言いながらも心底楽しそうに笑う京極。彼が笑ってるのは望ましいからじゃないのをよく知っていた。ただ、このクラスでそれを知ってるのは京極とオレのみだけど。
「…はぁ」
笑う京極を尻目にオレはため息をついた。
教室と比べてやや厚く、防音機能もばっちりなドアを前にオレは立ち尽くしていた。上を見れば視聴覚室と書かれている。
「…」
入りたくない。
他の生徒から見たらあの早乙女先生から呼び出しをくらったということは話の内容が悪いことだとしても、例え赤点とったとかそういうことだとしても皆喜ばしいことだろう。それほど彼女は皆の憧れの的であり、人気者なのだから。
外見がいい。授業内容もわかりやすい。さらには時折顧問でもない部活動に手伝いとして参加しているとかどうとか。容姿端麗、頭脳明晰、文武両道の言葉が似合うこの学校自慢の教師。それがこのドアの向こう側にいる。
「…帰りたいな」
ぼやいたところで帰れるわけがない。
もしも呼び出されたのがオレではなくオレの双子の姉のあやかか同じクラスの京極なら呼び出しなんて無視して帰ったかもしれないけど。
「………はぁ」
小さくため息をついてオレはドアを開けた。
そして広がったのは見慣れた机と椅子が並ぶ教室よりも広い空間。その中央にオレを呼び出した担任がいた。
「あら、来てくれたのね黒崎君」
「…」
にこりと上品な笑みを浮かべて席を立つ早乙女先生。その向かいにはオレと同い年の女子生徒が座っていた。おそらく進路相談でもしていたのだろう。
「ごめんなさいね、また今度相談してもらえるかしら？」
「は、はいっ！相談に乗ってもらってありがとうございます！！」
頭を下げて興奮気味に言う彼女。きっと早乙女先生に憧れを抱いている多くの生徒の一人に違いない。
女子生徒はそのまま丁寧にお辞儀をし、視聴覚室のドアの傍でも一礼して出ていった。
「それじゃあ黒崎君、こっちに来てくれるかしら？」
「…いや、すいません。今日オレ用事があったんでまた今度にさせていただこうと思いまして。それでは失礼します」
一礼してそのままドアに手を掛ける。すぐさま先ほどの女子生徒同様に出ていこうとドアを開け背を向けたその時。
オレの顔の横から伸びてきた細い手が開きかけたドアを抑えた。それだけではなくするりと手が落ち鍵を掛けるとオレの体に絡みついてくる。
「おいおい、逃げるなよ黒崎ィ〜」
がしっと人の肩に手をまわして逃走を阻止する。それどころかそのまま体を寄せて顔を覗き込んでくるこの先生。浮かべているのはいつも生徒に見せている優しい笑みではない、フランクな笑みだ。
ただし、ニヤニヤといやらしく、ニタニタと鬱陶しい。
普段クラス担任している時の優しげな顔ではなく、数学教師としての凛とした雰囲気もない、部活動に出るときの生き生きした感じでもない、まるで同年同性相手にするような面持ちにオレは顔をしかめた。
「何ですか？こっちはさっさと帰りたいんで早くしてくださいよ」
「美人で理知的な担任に呼び出されてんだぞぉ？もっと嬉しそうにするとこだろ」
「だったらオレらの前でも美人で理知的でいて欲しいですね」
「勘弁してくれよ。アタシだってずっとあんなキャラ演じられないんだから」
これこそ我らが担任早乙女先生の素顔。皆の前では絶対に見せない、いい先生の本当の顔。
男勝りな態度に口調。だらしない姿にまるで不良みたいな雰囲気。誰もが憧れる美人で理知的で優しく頭のいい先生の姿は欠片もない。
これを知っているのはオレと、あやかと、京極のたった三人のみだ。
早乙女先生はオレの肩を掴んだままずるずると引きずっていき、先程まで座っていた席に
連れて行く。席に着くとぺしぺしと向かいの席を叩いた。
「…」
今ここで走り出せば逃げ出せるだろうか？いや、でもこの女性一応陸上部顧問でそれなりの実力があったらしい。こんな室内でドアまでの短距離じゃ不利なのはオレの方か。
仕方なく無言で座る。
「呼んだ理由は何ですか？」
「それが相談したいことがあってさ。その前にこの重要書類にサインとハンコくれ」
そう言って机の中から取り出したのは一枚の用紙。何やら細かに字が並んでいるが一見するとそれっぽい。
早乙女先生は置かれていたペンをオレに差し出した。
「仕方ないですね」
ため息を付きながら机に置かれた書類のアンダーラインが引かれた部分を見る。ここに名前を書けばいいのだろうが…なんか嫌な予感がする。一枚の書類にしてはちょっと厚みがおかしいというか、何か下に隠しているというか…。
「…」
オレは無言で書類をめくった。
「あ！？」
早乙女先生が気まずげな声を上げるが無視し、見てみる。書類の裏には一面真っ黒な用紙が張り付いており、さらにその下には別の書類が置かれていた。
『婚姻届』
「…」
「…」
これを目にするのは高校に入って何度目だったか。きっと京極よりもオレの方が多いかもしれない。
オレは早乙女先生を睨みつけた。しかし彼女はニヤニヤした笑みを崩さない。
「なんだよ、黒崎ィ。あたしとお前の仲だろ？ちゃちゃっと書いてくれりゃあたしだって何度も出さねぇよ」
「いい加減この冗談やめてください」
「冗談でこんなものあたしが出すと思ってんのか？」
「じゃ、オレ以外に頼みますよ。素はともかく、普段なら皆の憧れの先生なんですから。もしもそういう話を出されたら断る男子はきっといませんよ」
「素のあたしを知っても引かずに承諾してくれる男子は何人いると思う？」
「…」
反応に困るようなこと言ってくれるなぁ、この教師。
話題を変えるために婚姻届を見て、次に早乙女先生へと視線を移して言ってみる。
「そろそろ先生も歳ですから必死なんですか？」
「…」
無言で頭に拳が添えられた。ため息をついてその拳をどける。
「なら、京極にやったらどうですか？あいつは素知ってるから引かれないでしょ？」
「やったよ」
やっぱりやったのか…。
最近京極と並んで歩いてる時に早乙女先生とすれ違うと嫌そうに舌打ちしてたけど…これが原因か。
「そしたら目の前でビリビリに破かれて木刀叩きつけられてビビったね。あいつ中学の頃から危ないとは思ったけどあそこまで危なくなるもんかぁ？」
「先生の方が危ないと思いますが」
「ちなみにあやかにもやってやったぜ」
「…は？」
今あやかといったかこの教師は？オレの双子の姉の名前を言ったのか、この女は？
「一応言っときますがあやかは女ですよ？」
「わぁかってるよ」
「…」
それでも結婚を申し込むって相当追い詰められてんのかこの先生は。
「ただ京極の時より反応ひどかったね。『頭に蛆虫湧いてんじゃないですか？熱湯消毒するから口あけて待っててください。お湯とってきます』って笑顔で言うんだぜ？」
「ありゃー…」
その発言と行動からしてあやかは本気で怒ったようだ。あいつがものを持ち出すときは相当なものなんだし。
「あんまりあやかに変なことしないでくださいよ？あいつならされる前に投げ飛ばすなり殴るなりするでしょうけど…もしもの時は」
「わぁかってるよ。まったく変わらないねぇ、姉想いの性格はさ。中学のまんまだ」
「…」
「…悪い、この話はタブーだったな」
先程までおちゃらけていた早乙女先生は静かにそう言った。オレも机の下で見えないように握りこんでいた拳を解く。
「黒崎は変わらんね」
「…それ言ったら先生はかなり変わりましたよね。ここまでおちゃらけてたのはいつものことでしたけど必死に結婚の話持ち出す人じゃなかったのに」
「恩人相手に言うねぇ。こっちだって結婚したいって思う歳なんだよ」
「もう三十路ですか？」
刹那、襟首が掴まれてゴツンと額に何かがぶつかった。目の前には笑みを浮かべた早乙女先生の顔がある。ただし苦笑いというよりも引きつった笑みで。
「あたしはま・だ・ま・だ・二十代だっつーの」
吐息が頬に触れるほどの距離。本来ならその剣幕に恐れ戦くとこだろうが正直これならあやかのほうがずっと恐ろしい。それにいくら生徒相手でも一応異性なのだからこういう男みたいな行動は控えて欲しい。
とりあえず重要書類だけを離してカーボン紙ごと婚姻届を丸めて彼女の前に置いた。
「随分と冷たいな、黒崎ぃ。そんなにあたしと結婚するのは嫌なのかよ」
「自分の生徒に手を出すなんて恥じてくださいよダメ教師」
「別にいいだろぉ？もう十八歳なんだし、どうせ社会に出たら婚活しまくってそうなんだからあたしがここでもらってやるって言ってるんだぞ？」
「京極にも同じこと言ってるんですよね？」
「あやかにも言ったぞ」
「馬鹿ですか」
はぁっと大きなため息をつく。それでも彼女は笑みを絶やさない。
「で、だよ。あんたを呼んだ理由なんだが」
「結婚してくれって言うんなら帰らせてもらいます」
「それは一先ず置いとくからさ話聞いてくれよ」
「…まぁ、聞くだけなら」
そう言ってオレは椅子に座り直した。早乙女先生はよしっと小さく頷いて普段はつけないヘアバンドに手をかける。
「実は…これなんだよ」
そう言って早乙女先生はつけていたヘアバンドと、さらに手袋を外した。それだけではなくスカートの裾を捲くって中から何かを取り出す。
いつも学校につけてこないものだから何かのイメチェンかと思ったが、そうでないことを今理解した。
「…」
「…」
「…また、随分と変わった趣味をお持ちで」
「あたしが趣味で学校にこんなのつけてくると思うか？」
ヘアバンドを用いて髪の毛に隠していたのは耳だった。ただし、それは人間の耳じゃない。ぴょこんと生えていたのは三角形の耳。早乙女先生の髪の毛と同じ色の毛を生やした猫の耳だった。
それだけではない。両手につけた長めの手袋からは耳と同じ色の毛を生やした腕が出てきた。その先には五本指と言えない肉球のついた手。さらには巻くり上げたスカートの中から現れたのは細長い尻尾。
その姿を見て思い浮かぶのはある動物。
「…猫ですか」
「そうなんだよ、猫だにゃん」
「先生の歳でその発言はどうかと」
「…」
だが注目したのは猫みたいな腕や耳だけじゃない。ヘアバンドにちょうど隠れていたのは一筋の白い髪の毛。メッシュらしきそれは雪のように白く、また雲のような純白さで異様な雰囲気を放っている。
随分と変わったイメチェン、なのだろうか…。
「いやぁまいった。まさかこんな姿になっちゃうなんて」
「なんか心当たりあるような言い方ですけど何があったんですか？」
「いやね、一昨日に変な女に会っちゃってさ」
ガシガシと頭を掻きながら早乙女先生は机に座る。その間にも猫の耳はピコピコせわしなく動いていた。作り物…というわけではないらしい。
「学校の帰りにさ、髪の毛真っ白で痴女みたいに露出の多い女に会ったわけよ」
「…髪真っ白で痴女ってどんな女ですか」
「いや、あたしもさっぱり。だけどその女がすごい優しいんだ。あたしの悩みを親身になって聞いてくれるし」
「…」
悩みの内容が聞かなくても分かる。きっと結婚ができないどうしよう今年も一人だやべぇという感じのものだろう。
「そしたら『それなら私がいいことしてあげる。貴方が素敵な結婚をできるおまじないをね』なんて言ってそれで次の日の朝にはこれだよ」
「…なんか現実味ありませんね。酔ってたりしたんじゃ？」
「そん時は素面だったぞ」
「普段酔ってるような感じですよ早乙女先生は」
「…黒崎はなんか最近あたしに対して冷たいよな」
「先生の教育の賜物です」
「あたしそんなこと教えてないぞぅ」
猫の手で腕を組む早乙女先生。なるほど、これなら長めのブーツや手袋を室内でもしてきた理由がわかる。ただ、普段の彼女の評判なら引かれるどころか騒ぎ出すやつの方が多いだろうけど。
「つうか、なんでオレに相談するんですか。そういうことならあやかでも京極でもいいでしょうが」
「あやかと京極が呼んで来ると思うのか？」
「…」
「仮に来たとして、この姿みたらなんて言うと思う？」
「…」
『それ以上来んなコスプレ年増』か『アンタにそんな趣味があったなんて知らなかった。もともとあれだとは知ってたけどね』ぐらいは言われるだろう。あの二人容赦ないし。
「それになんだかんだで黒崎はあたしの頼み聞いてくれるからな」
「…」
断れないのは中学時代に問題を起こした時、彼女が少なからず助けを出してくれたから。こんなのでも一応恩人ゆえにオレは彼女の頼みはあまり無碍にできないでいる。
そこを漬け込むのは先生としてどうかと思うけど。
「で、オレに一体どうしろと？」
「いや、どうにかこれ外せないかと思ってよ」
「外すって…」
そうは言われても耳や腕はまんま猫のそれだ。生えていると言ってもいい。それを外すとなると…人の手では無理じゃないのか。
そう考えていると先程から後ろでゆらゆら揺れてる尻尾に目がいった。
「…尻尾なら抜けるんじゃないですか？」
「尻尾か」
「ええ。尻尾です。とりあえずそっちも生えてるのか知りたいんで見せてもらえますか？」
だがオレの言葉に早乙女先生は笑みを浮かべた。ニヤニヤと、なんだか腹立たしい笑みを。
「とか言って、本当はあたしの尻を見たいんだろぉ？黒崎も男だな、おい」
「ノコギリ持ってきますから尻出しといてください。一応消毒のため熱湯もかけようと思うんで時間かかるから待っててくださいよ」
「待て待て待て待て！！」
「…生えてるんですね」
「あたしのセクスィな尻を拝ませてやったのにその態度か？もっと嬉しそうにしろよぅ」
とりあえず身なりを整えて再び席に着くオレと早乙女先生。互いにどうしようもない状況にため息が漏れた。
まさか尻尾までもとから生えてるとは…これでは本当に打つ手がない。
「生えてるときちゃ外せませんよ」
「やっぱりかぁ。そうなりゃ隠して生活するしかないんかね？」
「別に普段の早乙女先生なら皆新しいお洒落とか思うんじゃないんですか？実際今日のだってそんな感じに思われてたみたいですし」
「猫なんだぞ？どんなお洒落だ」
「まぁ一部の人にとっては両手を上げて喜ぶ事態でしょうけど」
とりあえず早乙女先生を見つめる。猫の耳は髪の毛とヘアバンドでなんとか隠せているがちょっと不安は残る姿だ。よく考えるとあの猫の手でペンとかどうやって持つんだろう。
「…なんだよ、黒崎。そんな熱ぅい視線なんか向けちゃってさ。結婚したくなったか？」
「寝言は起きてる時に言うもんじゃないですよ…あ、そうだ」
ちょっとした思いつきで早乙女先生へと左手を伸ばしてみる。
「…ん？結婚指輪はめて欲しいのか？」
「違いますよ。ちょっと失礼します」
そっと早乙女先生の顎を撫でてみる。擽るように下から上へ四本の指で触れては時折頬を親指で撫でた。まるで猫に対する扱いなのだがそれでも彼女は目を細めて気持ちよさそうに身を捩る。
「あぁ〜……っはぁ〜………なんかこれいいわ。随分と手馴れてるけど猫でも飼ってるんか？」
「ええ。父親の実家に一匹いますよ」
「そうなのか」
ごろごろと喉を鳴らす姿はまんま猫そのものだ。まるで中身までが猫になってしまったかのような感じだが、一体こんなことをしてくれた白髪の女とは誰なんだ。魔法使いとか悪魔とか、現実味のない存在だったとしても彼女がこれでは納得してしまう。
「こぉやって何匹ものメスを泣かしてるんだな？」
「その言い方やめてもらえますか？」
「罪作りな男め」
その言葉にオレは手を引いた。途端に早乙女先生はあっと小さく声を漏らし、残念そうな表情を浮かべる。
「もっとやってくれよぅ」
「お断りします」
「お願いだにゃん♪」
「うわぁ…」
「…露骨に嫌な顔すんなよぅ。傷つくぞ」
オレはそろそろ帰ろうかとカバンを手にとった。早乙女先生は途端ジト目になってこちらを見るが無視する。
「帰らせないぞ」
「帰らせていただきますよ。今日は特売日なんですから早く行かないとなくなるんです」
「本当にお前は主夫みたいだな。よし、あたしが特別に車で送っていってやる」
「嫌ですよ。オレ免許持ってないんですから」
「あたしに運転任せとけって」
「早乙女先生に任せて変なとこ連れてかれたら帰れないじゃないですか」
「…」
ぐったりと項垂れる自称美人教師。外見は悪くないものの素の性格があれだからか残念美人に思える。
肩にバッグの紐をかけ、席から立ち上がると早乙女先生の視線が壁にかけられたカレンダーにいっていることに気がついた。
「明日は土曜日か」
「ええ、そうですけど…どうしたんですか？仕事があるとか言うんですか？」
「いや、黒崎。明日うちに来いよ」
「嫌です」
即答。
「なんでだよぅ、こんな美人教師のお願いだぞ？」
「なんで休日に担任の家に行かなきゃいけないんですか？」
「進路についてためになる話してやるよ」
「別にオレ教師目指してるわけじゃないんで」
「じゃ、次の数学のテストの答え教えるから」
「あんた本当に教師か」
「頼むっ！この姿だと色々と厄介でまだ手が回らなくって大変なんだ！」
パンっと両手を合わせてオレに頭を下げてくる担任教師。大の大人が、普段数学をわかりやすく教えてくれる教師がこんな姿晒して頼み込んでくると流石に断りづらくなる。それに何より師匠ほどとはいかないが付き合いが長いし、彼女はオレの恩人だ。
…仕方ないか。
「分かりましたよ。行きますよ。行ってやろうじゃないですか」
「本当か！いやぁ、やっぱり黒崎は頼りになるよなぁ！！」
断れない性分とも言えるけれど…。
それでも日頃の恩もあるし多少手伝えることは手伝ったほうがいいだろう。そんな風に考えてオレは小さくため息をついた。
「それじゃあ明日うちに来るときにはハンコ持ってきてくれよな？」
「それじゃ離婚届持っていきますから先に名前書いてハンコくださいね」
「…」
透き通った綺麗な声が騒がしい教室内でもオレへしっかりと届く。その声を聞いて今まで騒いでいた生徒は皆羨望の眼差しをこちらへ向け、逆に一人がニヤついた意地の悪い笑みを浮かべた。
「…何ですか？」
「話したいことがあるから放課後視聴覚室まで来てくれないかしら？」
そう言ったのは黒板前に立っている一人の女性。
早乙女結衣先生。
数学を受け持つこのクラスの、オレと京極の担任の先生だ。特徴的なやや赤みがかった茶髪にぱっちり開いた大きな目。すっと通った鼻筋に整った顔立ち。顔を見れば十分美人の類に入るのだがいいのは顔だけではない。
スラリと伸びた長い足と腕。さらにはそれなりに大きな胸。やや高めな身長とスタイルはこの学校の男子生徒だけではなく、女子生徒や先生からも羨望の眼差しを向けられるほど。
ただ奇妙なことに今日はその特徴的な髪の毛をヘアバンドであげて、さらには両手両足を隠すように長めの手袋とブーツを履いている。
ほぼ毎日目にする担任の姿にしては珍しい。室内で手袋や上履き用にブーツなんて変わってるなんてもんじゃない。
それでも元が美人なためか、誰も不審がる人はいない。逆にお洒落だと騒ぐ生徒は沢山いたが。
「お願いね？」
優しそうな声に温かな雰囲気。男子生徒なら誰もが呼ばれてみたい声色にげんなりする。それでも早乙女先生は笑みを浮かべて教室を出て行った。
「大変だなーおい」
にやにやと意地の悪い笑みを浮かべたオレの席の後ろの奴は楽しそうにそう言った。対してオレは椅子を倒して首だけそちらへ向ける。そこにいたのは京極。いつも木刀を傍に置いているオレの友人だ。
「勘弁してくれよ」
「おいおい、あんな美人の先生に呼ばれてんだぜ？もっと喜ぶとこだろーよ？」
「なら変われ」
「呼ばれたのは俺じゃなくて黒崎だからなー。あーあー望ましいぜこのやろー」
そんなことを言いながらも心底楽しそうに笑う京極。彼が笑ってるのは望ましいからじゃないのをよく知っていた。ただ、このクラスでそれを知ってるのは京極とオレのみだけど。
「…はぁ」
笑う京極を尻目にオレはため息をついた。
教室と比べてやや厚く、防音機能もばっちりなドアを前にオレは立ち尽くしていた。上を見れば視聴覚室と書かれている。
「…」
入りたくない。
他の生徒から見たらあの早乙女先生から呼び出しをくらったということは話の内容が悪いことだとしても、例え赤点とったとかそういうことだとしても皆喜ばしいことだろう。それほど彼女は皆の憧れの的であり、人気者なのだから。
外見がいい。授業内容もわかりやすい。さらには時折顧問でもない部活動に手伝いとして参加しているとかどうとか。容姿端麗、頭脳明晰、文武両道の言葉が似合うこの学校自慢の教師。それがこのドアの向こう側にいる。
「…帰りたいな」
ぼやいたところで帰れるわけがない。
もしも呼び出されたのがオレではなくオレの双子の姉のあやかか同じクラスの京極なら呼び出しなんて無視して帰ったかもしれないけど。
「………はぁ」
小さくため息をついてオレはドアを開けた。
そして広がったのは見慣れた机と椅子が並ぶ教室よりも広い空間。その中央にオレを呼び出した担任がいた。
「あら、来てくれたのね黒崎君」
「…」
にこりと上品な笑みを浮かべて席を立つ早乙女先生。その向かいにはオレと同い年の女子生徒が座っていた。おそらく進路相談でもしていたのだろう。
「ごめんなさいね、また今度相談してもらえるかしら？」
「は、はいっ！相談に乗ってもらってありがとうございます！！」
頭を下げて興奮気味に言う彼女。きっと早乙女先生に憧れを抱いている多くの生徒の一人に違いない。
女子生徒はそのまま丁寧にお辞儀をし、視聴覚室のドアの傍でも一礼して出ていった。
「それじゃあ黒崎君、こっちに来てくれるかしら？」
「…いや、すいません。今日オレ用事があったんでまた今度にさせていただこうと思いまして。それでは失礼します」
一礼してそのままドアに手を掛ける。すぐさま先ほどの女子生徒同様に出ていこうとドアを開け背を向けたその時。
オレの顔の横から伸びてきた細い手が開きかけたドアを抑えた。それだけではなくするりと手が落ち鍵を掛けるとオレの体に絡みついてくる。
「おいおい、逃げるなよ黒崎ィ〜」
がしっと人の肩に手をまわして逃走を阻止する。それどころかそのまま体を寄せて顔を覗き込んでくるこの先生。浮かべているのはいつも生徒に見せている優しい笑みではない、フランクな笑みだ。
ただし、ニヤニヤといやらしく、ニタニタと鬱陶しい。
普段クラス担任している時の優しげな顔ではなく、数学教師としての凛とした雰囲気もない、部活動に出るときの生き生きした感じでもない、まるで同年同性相手にするような面持ちにオレは顔をしかめた。
「何ですか？こっちはさっさと帰りたいんで早くしてくださいよ」
「美人で理知的な担任に呼び出されてんだぞぉ？もっと嬉しそうにするとこだろ」
「だったらオレらの前でも美人で理知的でいて欲しいですね」
「勘弁してくれよ。アタシだってずっとあんなキャラ演じられないんだから」
これこそ我らが担任早乙女先生の素顔。皆の前では絶対に見せない、いい先生の本当の顔。
男勝りな態度に口調。だらしない姿にまるで不良みたいな雰囲気。誰もが憧れる美人で理知的で優しく頭のいい先生の姿は欠片もない。
これを知っているのはオレと、あやかと、京極のたった三人のみだ。
早乙女先生はオレの肩を掴んだままずるずると引きずっていき、先程まで座っていた席に
連れて行く。席に着くとぺしぺしと向かいの席を叩いた。
「…」
今ここで走り出せば逃げ出せるだろうか？いや、でもこの女性一応陸上部顧問でそれなりの実力があったらしい。こんな室内でドアまでの短距離じゃ不利なのはオレの方か。
仕方なく無言で座る。
「呼んだ理由は何ですか？」
「それが相談したいことがあってさ。その前にこの重要書類にサインとハンコくれ」
そう言って机の中から取り出したのは一枚の用紙。何やら細かに字が並んでいるが一見するとそれっぽい。
早乙女先生は置かれていたペンをオレに差し出した。
「仕方ないですね」
ため息を付きながら机に置かれた書類のアンダーラインが引かれた部分を見る。ここに名前を書けばいいのだろうが…なんか嫌な予感がする。一枚の書類にしてはちょっと厚みがおかしいというか、何か下に隠しているというか…。
「…」
オレは無言で書類をめくった。
「あ！？」
早乙女先生が気まずげな声を上げるが無視し、見てみる。書類の裏には一面真っ黒な用紙が張り付いており、さらにその下には別の書類が置かれていた。
『婚姻届』
「…」
「…」
これを目にするのは高校に入って何度目だったか。きっと京極よりもオレの方が多いかもしれない。
オレは早乙女先生を睨みつけた。しかし彼女はニヤニヤした笑みを崩さない。
「なんだよ、黒崎ィ。あたしとお前の仲だろ？ちゃちゃっと書いてくれりゃあたしだって何度も出さねぇよ」
「いい加減この冗談やめてください」
「冗談でこんなものあたしが出すと思ってんのか？」
「じゃ、オレ以外に頼みますよ。素はともかく、普段なら皆の憧れの先生なんですから。もしもそういう話を出されたら断る男子はきっといませんよ」
「素のあたしを知っても引かずに承諾してくれる男子は何人いると思う？」
「…」
反応に困るようなこと言ってくれるなぁ、この教師。
話題を変えるために婚姻届を見て、次に早乙女先生へと視線を移して言ってみる。
「そろそろ先生も歳ですから必死なんですか？」
「…」
無言で頭に拳が添えられた。ため息をついてその拳をどける。
「なら、京極にやったらどうですか？あいつは素知ってるから引かれないでしょ？」
「やったよ」
やっぱりやったのか…。
最近京極と並んで歩いてる時に早乙女先生とすれ違うと嫌そうに舌打ちしてたけど…これが原因か。
「そしたら目の前でビリビリに破かれて木刀叩きつけられてビビったね。あいつ中学の頃から危ないとは思ったけどあそこまで危なくなるもんかぁ？」
「先生の方が危ないと思いますが」
「ちなみにあやかにもやってやったぜ」
「…は？」
今あやかといったかこの教師は？オレの双子の姉の名前を言ったのか、この女は？
「一応言っときますがあやかは女ですよ？」
「わぁかってるよ」
「…」
それでも結婚を申し込むって相当追い詰められてんのかこの先生は。
「ただ京極の時より反応ひどかったね。『頭に蛆虫湧いてんじゃないですか？熱湯消毒するから口あけて待っててください。お湯とってきます』って笑顔で言うんだぜ？」
「ありゃー…」
その発言と行動からしてあやかは本気で怒ったようだ。あいつがものを持ち出すときは相当なものなんだし。
「あんまりあやかに変なことしないでくださいよ？あいつならされる前に投げ飛ばすなり殴るなりするでしょうけど…もしもの時は」
「わぁかってるよ。まったく変わらないねぇ、姉想いの性格はさ。中学のまんまだ」
「…」
「…悪い、この話はタブーだったな」
先程までおちゃらけていた早乙女先生は静かにそう言った。オレも机の下で見えないように握りこんでいた拳を解く。
「黒崎は変わらんね」
「…それ言ったら先生はかなり変わりましたよね。ここまでおちゃらけてたのはいつものことでしたけど必死に結婚の話持ち出す人じゃなかったのに」
「恩人相手に言うねぇ。こっちだって結婚したいって思う歳なんだよ」
「もう三十路ですか？」
刹那、襟首が掴まれてゴツンと額に何かがぶつかった。目の前には笑みを浮かべた早乙女先生の顔がある。ただし苦笑いというよりも引きつった笑みで。
「あたしはま・だ・ま・だ・二十代だっつーの」
吐息が頬に触れるほどの距離。本来ならその剣幕に恐れ戦くとこだろうが正直これならあやかのほうがずっと恐ろしい。それにいくら生徒相手でも一応異性なのだからこういう男みたいな行動は控えて欲しい。
とりあえず重要書類だけを離してカーボン紙ごと婚姻届を丸めて彼女の前に置いた。
「随分と冷たいな、黒崎ぃ。そんなにあたしと結婚するのは嫌なのかよ」
「自分の生徒に手を出すなんて恥じてくださいよダメ教師」
「別にいいだろぉ？もう十八歳なんだし、どうせ社会に出たら婚活しまくってそうなんだからあたしがここでもらってやるって言ってるんだぞ？」
「京極にも同じこと言ってるんですよね？」
「あやかにも言ったぞ」
「馬鹿ですか」
はぁっと大きなため息をつく。それでも彼女は笑みを絶やさない。
「で、だよ。あんたを呼んだ理由なんだが」
「結婚してくれって言うんなら帰らせてもらいます」
「それは一先ず置いとくからさ話聞いてくれよ」
「…まぁ、聞くだけなら」
そう言ってオレは椅子に座り直した。早乙女先生はよしっと小さく頷いて普段はつけないヘアバンドに手をかける。
「実は…これなんだよ」
そう言って早乙女先生はつけていたヘアバンドと、さらに手袋を外した。それだけではなくスカートの裾を捲くって中から何かを取り出す。
いつも学校につけてこないものだから何かのイメチェンかと思ったが、そうでないことを今理解した。
「…」
「…」
「…また、随分と変わった趣味をお持ちで」
「あたしが趣味で学校にこんなのつけてくると思うか？」
ヘアバンドを用いて髪の毛に隠していたのは耳だった。ただし、それは人間の耳じゃない。ぴょこんと生えていたのは三角形の耳。早乙女先生の髪の毛と同じ色の毛を生やした猫の耳だった。
それだけではない。両手につけた長めの手袋からは耳と同じ色の毛を生やした腕が出てきた。その先には五本指と言えない肉球のついた手。さらには巻くり上げたスカートの中から現れたのは細長い尻尾。
その姿を見て思い浮かぶのはある動物。
「…猫ですか」
「そうなんだよ、猫だにゃん」
「先生の歳でその発言はどうかと」
「…」
だが注目したのは猫みたいな腕や耳だけじゃない。ヘアバンドにちょうど隠れていたのは一筋の白い髪の毛。メッシュらしきそれは雪のように白く、また雲のような純白さで異様な雰囲気を放っている。
随分と変わったイメチェン、なのだろうか…。
「いやぁまいった。まさかこんな姿になっちゃうなんて」
「なんか心当たりあるような言い方ですけど何があったんですか？」
「いやね、一昨日に変な女に会っちゃってさ」
ガシガシと頭を掻きながら早乙女先生は机に座る。その間にも猫の耳はピコピコせわしなく動いていた。作り物…というわけではないらしい。
「学校の帰りにさ、髪の毛真っ白で痴女みたいに露出の多い女に会ったわけよ」
「…髪真っ白で痴女ってどんな女ですか」
「いや、あたしもさっぱり。だけどその女がすごい優しいんだ。あたしの悩みを親身になって聞いてくれるし」
「…」
悩みの内容が聞かなくても分かる。きっと結婚ができないどうしよう今年も一人だやべぇという感じのものだろう。
「そしたら『それなら私がいいことしてあげる。貴方が素敵な結婚をできるおまじないをね』なんて言ってそれで次の日の朝にはこれだよ」
「…なんか現実味ありませんね。酔ってたりしたんじゃ？」
「そん時は素面だったぞ」
「普段酔ってるような感じですよ早乙女先生は」
「…黒崎はなんか最近あたしに対して冷たいよな」
「先生の教育の賜物です」
「あたしそんなこと教えてないぞぅ」
猫の手で腕を組む早乙女先生。なるほど、これなら長めのブーツや手袋を室内でもしてきた理由がわかる。ただ、普段の彼女の評判なら引かれるどころか騒ぎ出すやつの方が多いだろうけど。
「つうか、なんでオレに相談するんですか。そういうことならあやかでも京極でもいいでしょうが」
「あやかと京極が呼んで来ると思うのか？」
「…」
「仮に来たとして、この姿みたらなんて言うと思う？」
「…」
『それ以上来んなコスプレ年増』か『アンタにそんな趣味があったなんて知らなかった。もともとあれだとは知ってたけどね』ぐらいは言われるだろう。あの二人容赦ないし。
「それになんだかんだで黒崎はあたしの頼み聞いてくれるからな」
「…」
断れないのは中学時代に問題を起こした時、彼女が少なからず助けを出してくれたから。こんなのでも一応恩人ゆえにオレは彼女の頼みはあまり無碍にできないでいる。
そこを漬け込むのは先生としてどうかと思うけど。
「で、オレに一体どうしろと？」
「いや、どうにかこれ外せないかと思ってよ」
「外すって…」
そうは言われても耳や腕はまんま猫のそれだ。生えていると言ってもいい。それを外すとなると…人の手では無理じゃないのか。
そう考えていると先程から後ろでゆらゆら揺れてる尻尾に目がいった。
「…尻尾なら抜けるんじゃないですか？」
「尻尾か」
「ええ。尻尾です。とりあえずそっちも生えてるのか知りたいんで見せてもらえますか？」
だがオレの言葉に早乙女先生は笑みを浮かべた。ニヤニヤと、なんだか腹立たしい笑みを。
「とか言って、本当はあたしの尻を見たいんだろぉ？黒崎も男だな、おい」
「ノコギリ持ってきますから尻出しといてください。一応消毒のため熱湯もかけようと思うんで時間かかるから待っててくださいよ」
「待て待て待て待て！！」
「…生えてるんですね」
「あたしのセクスィな尻を拝ませてやったのにその態度か？もっと嬉しそうにしろよぅ」
とりあえず身なりを整えて再び席に着くオレと早乙女先生。互いにどうしようもない状況にため息が漏れた。
まさか尻尾までもとから生えてるとは…これでは本当に打つ手がない。
「生えてるときちゃ外せませんよ」
「やっぱりかぁ。そうなりゃ隠して生活するしかないんかね？」
「別に普段の早乙女先生なら皆新しいお洒落とか思うんじゃないんですか？実際今日のだってそんな感じに思われてたみたいですし」
「猫なんだぞ？どんなお洒落だ」
「まぁ一部の人にとっては両手を上げて喜ぶ事態でしょうけど」
とりあえず早乙女先生を見つめる。猫の耳は髪の毛とヘアバンドでなんとか隠せているがちょっと不安は残る姿だ。よく考えるとあの猫の手でペンとかどうやって持つんだろう。
「…なんだよ、黒崎。そんな熱ぅい視線なんか向けちゃってさ。結婚したくなったか？」
「寝言は起きてる時に言うもんじゃないですよ…あ、そうだ」
ちょっとした思いつきで早乙女先生へと左手を伸ばしてみる。
「…ん？結婚指輪はめて欲しいのか？」
「違いますよ。ちょっと失礼します」
そっと早乙女先生の顎を撫でてみる。擽るように下から上へ四本の指で触れては時折頬を親指で撫でた。まるで猫に対する扱いなのだがそれでも彼女は目を細めて気持ちよさそうに身を捩る。
「あぁ〜……っはぁ〜………なんかこれいいわ。随分と手馴れてるけど猫でも飼ってるんか？」
「ええ。父親の実家に一匹いますよ」
「そうなのか」
ごろごろと喉を鳴らす姿はまんま猫そのものだ。まるで中身までが猫になってしまったかのような感じだが、一体こんなことをしてくれた白髪の女とは誰なんだ。魔法使いとか悪魔とか、現実味のない存在だったとしても彼女がこれでは納得してしまう。
「こぉやって何匹ものメスを泣かしてるんだな？」
「その言い方やめてもらえますか？」
「罪作りな男め」
その言葉にオレは手を引いた。途端に早乙女先生はあっと小さく声を漏らし、残念そうな表情を浮かべる。
「もっとやってくれよぅ」
「お断りします」
「お願いだにゃん♪」
「うわぁ…」
「…露骨に嫌な顔すんなよぅ。傷つくぞ」
オレはそろそろ帰ろうかとカバンを手にとった。早乙女先生は途端ジト目になってこちらを見るが無視する。
「帰らせないぞ」
「帰らせていただきますよ。今日は特売日なんですから早く行かないとなくなるんです」
「本当にお前は主夫みたいだな。よし、あたしが特別に車で送っていってやる」
「嫌ですよ。オレ免許持ってないんですから」
「あたしに運転任せとけって」
「早乙女先生に任せて変なとこ連れてかれたら帰れないじゃないですか」
「…」
ぐったりと項垂れる自称美人教師。外見は悪くないものの素の性格があれだからか残念美人に思える。
肩にバッグの紐をかけ、席から立ち上がると早乙女先生の視線が壁にかけられたカレンダーにいっていることに気がついた。
「明日は土曜日か」
「ええ、そうですけど…どうしたんですか？仕事があるとか言うんですか？」
「いや、黒崎。明日うちに来いよ」
「嫌です」
即答。
「なんでだよぅ、こんな美人教師のお願いだぞ？」
「なんで休日に担任の家に行かなきゃいけないんですか？」
「進路についてためになる話してやるよ」
「別にオレ教師目指してるわけじゃないんで」
「じゃ、次の数学のテストの答え教えるから」
「あんた本当に教師か」
「頼むっ！この姿だと色々と厄介でまだ手が回らなくって大変なんだ！」
パンっと両手を合わせてオレに頭を下げてくる担任教師。大の大人が、普段数学をわかりやすく教えてくれる教師がこんな姿晒して頼み込んでくると流石に断りづらくなる。それに何より師匠ほどとはいかないが付き合いが長いし、彼女はオレの恩人だ。
…仕方ないか。
「分かりましたよ。行きますよ。行ってやろうじゃないですか」
「本当か！いやぁ、やっぱり黒崎は頼りになるよなぁ！！」
断れない性分とも言えるけれど…。
それでも日頃の恩もあるし多少手伝えることは手伝ったほうがいいだろう。そんな風に考えてオレは小さくため息をついた。
「それじゃあ明日うちに来るときにはハンコ持ってきてくれよな？」
「それじゃ離婚届持っていきますから先に名前書いてハンコくださいね」
「…」
13/03/03 22:48更新 / ノワール・Ｂ・シュヴァルツ
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