連載小説
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「唾つけとかないとなぁ」
「…あやかさ、今日は一日暇だったよな?」
「んー…多分」
「…暇ならオレと一緒に行って欲しいとこがあるんだけど」
「やだ。今日は家にいたい」
「いや、暇なんだろ?」
「家にいたい」
「…なんか奢るから」
「じゃケーキ」
「……わかった、それでいい」
「ちなみにどこ行くの?」
「…早乙女先生の家」
「じゃ、ケーキいらない」
「お、来てくれるんだな?」
「は?行くわけ無いでしょ」
「…ケーキ二つ」
「嫌だ」
「三つ」
「無理」
「五つ」
「いーやーだー」
「…ケーキ、それもホールとパフェ、二つずつ」
「………………やだ」
「…そこまでか」





「―でさ、転げまわるんだよな」
『そーだそーだ、あれは面白かったな』
「いや本当だな。それでさ京極、話変わるんだけど今日暇?」
『あん?何だ?爺との稽古があるが…まー暇だな』
「早乙女先生の家に一緒に行ってくれ」
『…』
「…」
『…』
「…」
『…』
「…京極?」
『…』
「京極、反応しろよ。おい、京極!!」
『…ブッ』
「あ!切りやがった!!」





結局、一緒に来てもらおうと誘った相手二人を見事に逃してしまいオレは一人で行くことになってしまった。別に二人以外にも誘うことはできるのだがあの人の素顔を知らない人と一緒に行くと絶対に混乱する。それに素顔を知ってる者として、クラスの生徒として彼女の顔を立てないといけない。

「…仕方ないか」

自宅から電車にしばらく揺られて三十分。高級というわけじゃなく、それでもボロいというわけでもない、いたって普通のマンションの前にオレは立っていた。呼び出してくれた担任はここの三階に彼女は住んでいる。
ゆっくりと階段を上がり目的の階で止まる。一歩進むごとに気が重くなるも表札を確かめながら歩いていくと一番端のドアで足を止めた。

『早乙女』

間違いようのない見慣れた文字。というかこの場所自体間違えるはずもない。なぜなら一度彼女が風邪をひいた時に見舞いに訪れているのだから。
ため息をつきながらドアの傍に備え付けられたインターフォンを押すと軽めな音に続きバタバタと慌ただしい音が聞こえた。

「うぃ、今開ける」

気だるそうな声と共に開かれた玄関のドアを開ける早乙女先生。そこにいたのは普段目にする美人教師の姿はなかった。
赤みがかった茶髪は寝癖がつき、先程まで寝ていたのか目が開ききっていない。服装はシワだらけのピンク色のパジャマ。そして昨日と変わらない猫耳や猫の手。夢かと思っていたがやはり現実であることにため息をつく。化粧はしなくとも綺麗だったが、人が来るならせめてもう少し身なりを整えて欲しかった。
早乙女先生はオレを見るといつものようにフランクな笑みを浮かべた。

「おぅ、黒崎ィ。よく来てくれたな」
「帰っていいですか?」
「開口一番それかよぅ。まぁ入れ」

そんな風に言いながら人の腕を引っつかみ、自宅へと引きずり込む。猫の手だから力なんて入らないかと思っていたがこれが意外にしっかりしてる。逃げようにも爪が食い込みそうだ。

「っと」

念入りに、丁寧に、執拗に、徹底的に鍵をかけ、チェーンをして満足そうに頷くとようやく早乙女先生はドアから離れ、オレから手を離した。
…あれを解いて脱出できるだろうか。まぁ、いざとなったら窓から逃げることにしよう。三階だけど…なんとかなるはずだ。

「んじゃ、こっち来てくれ」

早乙女先生の後を付いていく中、廊下の壁際に積まれた新聞に目が行く。なんだかやたらとズタボロになっているのが気にかかる。
廊下を通ってリビングに出る。そこは一人暮らしにはちょっと大きめの空間だった。白い壁紙にレースのカーテン。大きめのテレビとガラス製のテーブルに明るい色のカーペット。キッチンはカウンター付きだし、寝室は別の部屋にあるんだったか。
全体的に特にお洒落という訳ではない、それでも明るく飾られたそれらしい女性の部屋だ。
だけど、部屋の隅に置かれたビール缶と新聞の束、壁際に積まれた、おそらく早乙女先生のつけていたであろう下着らしきものがやたらと目立つ。まぁ大体予想はついたが本当にこの女性、だらしない。
その空間のど真ん中に早乙女先生は胡座で座り、オレも同じように向かいに座った。

「黒崎が来るのは見舞いの時以来だな」
「…来るのわかっててなんでビール缶とか下着とか放置してるんですか?片付けてくださいよ」
「おいおい黒崎ぃ、あたしの下着がそんなに気になるのか?やっぱりお前も男だなぁおい」
「いや、だらしねぇ女だなって思いまして」

普段の出来る女教師はどこへ行ってしまったのか。何も知らない学校の連中が今の早乙女先生を見たら別人と思ってしまうかもしれない。

「なんだよぅ、世の中完璧よりも少しだらしねぇ方がいいんだぞぅ」
「そんなことありますか?」
「出来る女だとしても本当はドジっ子とか。そういうギャップが堪らないだろ?」
「その意見、同意はしますけど先生の場合は別ですね」
「担任に向かってひどいねぇ」
「生徒前にしてパジャマな担任ですから」

そう言っても早乙女先生はニヤニヤするばかり。それにつられてか後ろの尻尾がゆっくりと大きく揺れる。昨日は猫の姿に違和感を感じていたが、なかなかどうしてしっくりくる。元々とんでもないおちゃらけた性格で自由人なところがある早乙女先生にとって猫というのはピッタリなのかもしれない。

「んで、オレはいったい何を手伝わされるんですか、早乙女先生」
「よせやぃ。休日まで早乙女先生なんて呼ばれたくねぇよ」
「じゃ、なんて呼べばいいんですか?」
「そだな……名前で結衣って呼んでもいいぞ。それかお前とか」
「年上相手にお前って」
「そんかわりあたしは貴方とかゆうたって呼ぼうか」
「…」

なんかもう何も言えなかった。
なんでこんな女性が先生やれてんだろうと本気で考えさせられる。考えたところでどうにかなる問題じゃないけど。

「ア・ナ・タ♪へっへっへ、いい響きだなおぃ。ほら、好きに呼べよ」
「じゃメス猫で」
「……以前から思ってたけど黒崎結構Sっけあるな」
「んなこと言ってないでいい加減パジャマ着替えてくださいよ」
「なんだよぅ、滅多に見られない担任のパジャマ姿だぞ?喜べよ」
「滅多に見られないからこそだらし無さが半端じゃないんです」
「とか言って、あたしのセクスィな裸体を眺めたいっていうんだろぉ?ったくよぉ、黒崎ったらエロいなぁ」
「…そろそろオレ帰らせてもらいますね」
「まぁてぇよぉお」

そこまで言うと流石に早乙女先生も観念したのかがしがしと頭をかいた。猫の手でも人の手と大して変わらない仕草を見て本当はオレが来なくても大丈夫だったんじゃないだろうかと思う。

「わぁかったよ。脱げばいいんだろ脱げば」

そう言って早乙女先生はオレの目の前でパジャマに手をかけ、裾を巻くりあげた。

「…ちょっと、なんで人前で脱ごうとするんですか」
「担任の貴重なストリップシーンだぞ?興奮するだろ?おっ勃つだろ」
「ええ、腹がおっ勃ちますね。思わず手を固く握りこんで殴りたくなりますよ」
「…黒崎って確か空手の有段者だよな?本気でやるなよ?」
「じゃ、さっさと寝室で着替えてきてください」
「何だよ、つまんねぇの」
「あんたは本当に教師か」





面倒なやりとりを終え、別室で着替え終えた早乙女先生がようやく姿を現した。
明るい色のセーターにジーパン。いたって簡素な私服姿。それでも滑らかなセーターの布地を押し上げる二つの膨らみやスラリと伸びた脚線美は飾り気のない服装でも十分に輝いて見える。
寝癖は直していても化粧はやはりなし。それでも綺麗なので女子生徒の多くは憧れを抱いているらしい。
そりゃ見た目だけなら美人だし…。
普通にしてれば美女だし…。
だけど…。

「何だぁ?黒崎ぃ。そんなにあたしを見つめちゃって…結婚したくなったか?」
「いえ、残念な人だなと思いまして」
「じゃ、これ以上残念にならないようにもらってくれよぅ」
「いらないでーす」

いくら見た目が良くてもやはり中身は変わらない。変に気を使う必要がないのは嬉しいけど。

「それで、オレを呼んだ理由は何ですか?」
「黒崎に助けてもらいたい事なんだけど…実はさ、爪が思った以上に鋭いんだよ」
「爪、ですか」

猫の手足に生える鋭く尖った短い爪。確か木に登ったり塀に登ったりするときにも使うんだったか。室内で飼う猫ならそんなことはしないから鋭くなって肉球に刺さったりして危険なんだっけ。

「そう。この手だとテストの丸付けの時に引っ掻いちゃいそうで危ないんだ。他にもチラシとか新聞とかバリバリだし」

だから廊下やリビングに新聞紙が積まれてあったのか。うちの猫はそこまでバリバリ引っかかないけど猫の手である以上そういうことになってしまうのも無理ないか。

「これじゃあ婚姻届を扱うのも一苦労だよ」
「…じゃ、そのままの方がいいですね」
「困ってるんだから助けろよぅ」

猫の手である早乙女先生にとって爪を切るにも一苦労だろう。なら爪を研ぐ…って、逆に鋭くなってしまうか。

「仕方ないですね」

オレは持ってきていたバッグの中からあるものを取り出した。小さめのハサミと棒状のヤスリみたいなもの。猫のための爪切りと爪やすり。ここに来る途中にあったペットショップで購入していたものだ。
実はキャットフードも買おうかと考えたのは…秘密だ。

「そうだろうと思って爪切り持ってきましたよ。ほら、こっち来てください」
「おぉ、助かる」
「手出してくださいよ」

それから早乙女先生の腕を自分の腕の下に通し、抱き込むように手を掴んだ。猫の指に当たる部分を上から押すと鋭く尖った真っ白な爪が現れる。
…思った以上に鋭い。確かにこれならものを持つときも苦労しそうだ。
早乙女先生の爪を普段実家の猫にやるように切っていく。普通の猫と違って大きい分とてもやりやすい。人の爪とは大きく異なるがこれならそれほど苦労もしないだろう。

「…手馴れてるな」
「父の実家に猫飼ってるって言ったでしょ。まぁうちの猫はこんなことしなくてもいいんですけどね」

山の中にあるお父さんの実家。そこなら爪とぎ用の木だって沢山あるし、実際そこで爪とぎしてる姿をよく見てた。それでもうちの猫はよくオレに擦り寄ってきては爪の手入れをねだる。それがまた可愛いからいいんだけど。

「はい、次の手出してください」

今度は逆の腕を掴み、先程同様抱え込むように掴む。
傍から見ると早乙女先生が後ろから抱きつくような姿勢になってしまっているが仕方ない。彼女は猫と違って小さくないし、抱きかかえるなんてことはできない…いや、したくない。
だがそう思っても後ろから先程爪を切り終えた方の腕が伸びてきた。そして体に巻き付き、背中になにか温かくて柔らかなものが押し付けらる。

「…………何するんですか?」
「黒崎、なんかいぃ匂いだな」
「…あの、人の匂い嗅ぐのやめてもらえませんか?」
「香水でもつけてるんか?」
「つけてませんよ。それに、もしつけてたとして早乙女先生の嗅覚が猫並になってたら近寄れないくらいに強烈なはずですよ」
「それもそだな」

そう言っても彼女はオレの体を離してくれない。片腕は胸にまわり、顎を肩に乗せた姿勢だ。それどころかぐしぐしと顔を、体を擦りつけてくる。
まるで自分の匂いを付けるように。
そういえば顔を擦りつける動作ってフェイシャルマーキングっていうんだったか。それで猫が自分の匂いを付ける意味って確か……。

「…あの、やめてもらえますか?」
「んん〜?何でだよぅ、別にいいだろ?」
「手元狂いそうなんですよ」
「抱き心地いい体してんのな」
「やめてください、セクハラですよ」
「何女みたいなこと言ってんだよ」
「あんたが女らしくないから代わりにしてるんです」

気にすることなく早乙女先生の爪をさっさと切り終える。散らばった爪を捨て終えたらすぐに彼女の束縛から逃れるように抜け出した。

「あっ…なんだよぅ、逃げんなよ。猫みたいなやつだな」
「猫はあんたでしょうが。まったく…」

爪切りを仕舞い、大きくため息をついた。それでも早乙女先生はニヤニヤとフランクな笑みを崩さない。

「で、他にも手伝って欲しいことがあるんだよ。テストの丸付けとか報告書の作成とか、重要書類のサインとか婚姻届のサインとか」
「全部一人でやってください」

何ちゃっかり自分の仕事押し付けようとしてんだこの女は。しかも相手が自分の生徒だし。

「冗談だって。流石にあたしの仕事を生徒にやらせたりしねぇよ。ただ少しテスト作りを手伝ってもらったり、子作りを手伝ってもらいたいなぁって」
「どっちも嫌です」
「冗談だって」
「…どこまでが?」
「そりゃ前半だろぉ?」
「…」

タチの悪い女教師だ。
いつものやり取りで慣れているが、頭を抱えずにはいられなかった。









「もう夕食時ですか」

いつの間にか時間が思っていた以上に過ぎていたらしく外を見ると薄暗くなっている。壁の時計を見れば六時を示していた。
ここに来たのは昼頃だったからそれなりの時間が過ぎていたらしい。爪切ったりほかのこと手伝ったりしてて忙しかったから気づかなかった。

「腹減ったな」
「そうですね。それじゃあそろそろオレは帰らせていただきますよ」
「いや、待てよ」

がしりと猫の手がオレの腕を引っつかむ。爪はないから危なくないもののふにふにと柔らかな肉球の感触が服越しにも伝わってきた。

「…なんですか?」
「そこはお腹の減った麗しい嫁へ手料理をご馳走するとこじゃないんかよぅ」
「麗しい嫁って誰ですか?それに、いい大人が料理の一つもできないわけ無いでしょ?」
「この手だとまだなれないから包丁掴むのも危ないんだよ。助けてくれ」
「カップ麺とかレトルトとかないんですか?」
「昨日食べ終わった」
「…」
「頼むよぅ、こんなか弱い子猫ちゃんが頼んでるんだぞぅ?」
「どう見ても立派な成猫でしょうが」

だが、確かにあの手で包丁を持つとなるとペンを持つ時と違って危なくなる。それにこの女性、料理したとこは見たことない。多分、典型的な料理できない人かも。
…仕方ないか。

「分かりましたよ、やりますよ」

料理の一品や二品ならすぐにできるだろう。それを作ってから帰っても大して時間も手間もかからない。
オレは立ち上がり、仕方なくキッチンへと足を進めた。









大きな鍋を取り出して、水を注いで火にかける。隣ではまな板に並べた野菜を刻み、ボウルの中に入れておく。普段家でやってることと変わらない。いつものように手馴れた手つきで料理を進めた。
それを隣で見つめるクラスの担任。興味深そうに、それでいて感心するように。

「やっぱ黒崎は料理上手いな」
「どうも。毎日作ってりゃ慣れますよ。早乙女先生はどうなんですか?」
「レトルトなら簡単に」
「もともと簡単に出来る奴でしょうが。じゃ、『さしすせそ』はどうですか?さは?」
「授かり婚」
「初っ端から違う…」

そんな他愛のない会話を交わしながら料理をさっさと作っていく。
猫の嫌う柑橘系や香辛料の類は使わないように注意する。早乙女先生がどこまで猫らしいのかわからないがそれでも用心するに越したことはない。
何を作っているのか気になったのか早乙女先生は料理中に肩から覗き込んできた。

「前もこんな感じで作ってくれたな」
「以前は早乙女先生が風邪ひいた時でしたからね」
「いやぁ、あれには助かった。ホント一人暮らしって大変なんだよ」
「実はあれあやかと京極誘ってたんですけど二人してオレに丸投げにしやがったんですよ」
「ひでぇ奴らだ」
「全くですね。危険を冒して行かなきゃいけなかったオレの身にもなって欲しいですよ」
「…いや、そっちじゃなくて」

なんて会話をしながらもオレは普段通りに食材を切っていく。まな板を叩く小気味いい音が台所に響く中早乙女先生はオレの隣で眺めながら満足げにうんうんと頷いた。

「家事のできる男はいいねぇ。こりゃ嫁さん大助かりだな」
「そうですか?」
「ああ。今のうちに―」

するりと、猫の腕が体に絡まってくる。まるで後ろから抱きつくように身を寄せて、早乙女先生は耳元で囁くように言った。

「―唾つけとかないとなぁ」

刹那、頬を拭うように押し付けられる湿った温かいなにか。妙にざらついた感触は記憶の中でうちの猫に顔を舐め回された時の刺激と結びつく。それと同じ感覚だと気づくと、それが早乙女先生の舌だということにすぐ気づいた。

「わちゃちゃちゃっ!!!なな何にするんですか!!?」
「おぉ悪い、性感帯だったか?」
「違います!誰だっていきなり舐められたらこんな反応しますって!!」
「なんだ、違うのか」
「汚いんでやめてくださいよ」
「…そんなこと言われたら傷つくぞぅ」
「ばっちいからやめて下さいね」
「言い方変えても同じだろぉ」











食事を終え、片付けを終え、時計を見ればもう八時だった。もうそろそろ帰らないと電車を逃してしまう。ここら辺は田舎というほどではないが、それでも都会と言える場所でもないため電車の本数もかなり少ない。
ここから駅まではそれほど距離はないから急いで行く必要もないが、万が一のために早めに出ておこう。
万が一のため。

「帰らないでくれよぉ黒崎ぃ」
「…」

こういう時のため。
予想はしていたがこの教師、結構ひっついてくるタイプらしく人の足に縋り付いて離そうとしない。学校でのいい教師姿からは絶対に想像できない姿だ。
思わず頭が痛くなる。

「あたしを一人にしないでくれよぅ、寂しいんだよぅ」
「あのですね、早乙女先生。電車の時間があるからいつまでもいられるわけじゃないんですよ」
「車で送ってってやるからさ」
「さっき酒飲んでたでしょ」
「じゃ、数学教えてやるから」
「足りてます」
「そうなんだよなぁ…黒崎は中学からも数学できるんだもんなぁ………はっ!もしかしてあたしが好きだから数学得意になったとか!?」
「ないです」
「黒崎ぃ、そこは嘘でも『はい、大好きです』とか言うもんだぜ?それに『結婚したいくらい』って付けてくれるとあたしは嬉しいな」
「嫌です」
「冷たいぞぅ。愛する担任に向かってその態度はなんだよぅ」
「帰ります」
「待て待て待て!」

無理やり引き剥がして帰ろうとしても早乙女先生は頑なに手を離さない。所詮女性の細腕、そんなに力は入らないはずだ。
それなのに引っ掴む力は思った以上に強い。猫となった彼女の手は人間よりも上になっているのかもしれない。

「離してくださいよ」
「頼むよぅ、一人暮らしの夜は怖いんだよぅ」
「ここら不審者なんていないでしょうが」
「一人でいる寂しさが怖いんだよぅ」
「…」

…そう言われると反応に困る。さらにはだらんと尻尾が垂れ下がっている。まるで早乙女先生の心情を表しているかのようにだ。猫が尻尾を下げる時の感情はしょんぼりしているときや元気がないとき。うちの猫も叱られたりした後なんてそうだったっけ。
彼女はねだるようにこちらを見つめては甘えるように縋り付く。先程までの鬱陶しいくらいに自分勝手なスキンシップとは違うしおらしい姿を見てると流石に迷いが生じた。
ちらりと時計を見る。ここらの駅は電車の本数は少ないが、終電まではまだまだ余裕がある時間だ。これならまだ少し、ほんの少しだけならば…大丈夫だろう。

「…まったく、仕方ないですね」

オレはため息をついてバッグを置き、早乙女先生に手招きする。そうすると彼女は嬉しそうに笑みを浮かべ、そっと頭を足に擦りつけた。仕草がもう猫そのもの。ただやっている相手が美人というのは猫の時と違ってぐっとくるものがある。
オレは足を伸ばし早乙女先生の手を引いた。膝の上に上体を乗せると頭をそっと撫でる。
慰めるように、それでいてあやすように。扱いは猫や子供のそれなのだが彼女は満足したように喉を鳴らすと体から力を抜いた。

「ん、ん〜…やっぱいいな、これ」
「そりゃよかったですよ」

ゆっくりと髪の毛を整えるように、猫ならば毛並みを整えるように手を滑らせていく。耳の後ろや間、後頭部や顎などもちゃんと撫でてやる。そうしていると早乙女先生の尻尾がゆっくりと動いた。確かこれはのんびりとして嬉しい気持ちの現れだったか。
そのままなで続けていると徐々に早乙女先生の反応が悪くなってきた。太腿の上を枕にして寝るように転がると尻尾の動きが徐々に小さくなり、先端だけがパタパタと揺れ動く。

「ん…んん………」
「…早乙女先生?」
「…」

やがて名前を呼んでも反応がなくなった。顔を近づけて見てみると瞼は閉じて安らかに寝息をたてている。どうやら眠ってしまったらしい。

「…どうするか」

起こしたいのだが彼女は一応先生。先程飲酒していたこともあるが、きっと夜遅くまで仕事をしたりしてたのだろう。オレを迎えた時はパジャマ姿だったから睡眠時間も足りてないのかもしれない。

「…仕方ない、か」

疲れているんなら仕方ない。それに気持ちよさそうに眠っているんだ。普段教師として忙しいのだからたまには寝かせてあげるのもいいだろう。
そんな風に思ってオレは先生の頭を撫で続けた。










「…ん」

…いけない。どうやらいつの間にかオレまで眠っていたらしい。

顔を上げて窓の外を見てみると既に太陽は沈んでいる。眠る前は夕食後だったのだから当然だろう。何時なのか確かめるために壁にかけられた時計を見た。

「……はっ…!?」

慌てて今度は携帯電話を取り出して時間を確認する。もしかしたら早乙女先生の家の時計は止まっていたり、遅れていたりするんじゃないかという僅かな希望にかけて。

「…」

しかし現実とは非情である、画面に表示された時刻は壁の時計と全く同じ時刻だった。
思わず携帯電話を取り落とす。その音にぴくりと膝の上で眠っていた早乙女先生の耳が動いた。

「ん?……どうした黒崎?」
「…終電の時間、過ぎてる」
「おぉ、こりゃ大変だなおぃ」
「…」
「それならせっかくだし泊まってけよ」
「…………歩いて帰ります」
「あたしが帰させると思ったかぁ?」
「逃げ足には自信があるんで」
「陸上顧問のあたしに足で勝てると?」
「………くそぅ」
「そこは素直に喜べよぅ」
13/03/17 20:18更新 / ノワール・B・シュヴァルツ
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■作者メッセージ
ということで早乙女先生編第二話でした
自宅だともうだらけまくりのだらしない一面でしたが、こんな教師もありですよね?
相手は生徒なのにかまわずベタベタな先生でした
次回は早乙女先生宅、夜です!
二人きりの状況で先生は既成事実を…!

それではここまで読んでくださってありがとうございます!
次回もよろしくお願いします!

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