連載小説
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事実と師匠
傷む脇腹を手で押さえ、釘を刺されるような痛みを堪え、消耗しきった足を踏ん張り、荒くなった呼吸を整えようともせずにオレはただ走り続ける。
走って、歩いて、また走って、ようやく其処についた。
病院から大分離れた場所にあり、本来なら車で送ってもらいたかったほどに遠くにあったここ。
大きな門は変わらずそこに堂々と立ちふさがり、その奥にはいつもと同じように豪勢な建物が聳え建っている。

師匠の家。

闇夜の帳に包まれた中で近くに電灯が見当たらず月明かりのみが照らすこの場所。
長い時間をかけてようやくここについた。
途中何度も転びかけ、込み上げる吐き気を耐え、壁に手をついてまでようやく来ることができた。
それでも、どうしてだろうか。
体が妙に動く。
痛いのに、辛いのに。
気にならないのはお父さんからもらったあの飲み薬のおかげだろうか…それとも師匠に会うため一心になってるからだろうか。
それは…わからない。
でもいい。今はそんなところを気にしているわけにはいかない。
オレは冷たく重く立ちはだかる門に手をかけた。
本来ならここに立つのではなく道場に行くというのもあるが、ここからの方が距離的に近い。
傍にはインターホンもあるが…今の師匠はきっと反応しないだろう。
それをオレはよく知っている。
オレが師匠を止めてから…いや、止められずに寝込んでまだ一日ちょっと。
そのくらいで立ち直れるほど師匠は強くはない。
あの女性は、そういうところは極端に弱いのだから。
体は異常なほど頑丈で、華奢で細身なのにオレよりも丈夫。
まるで人間らしくないほどの強さを誇る師匠でも、精神はそうでもない。
オレを傷つけたことによる罪悪感。
それを止められずに繰り返したことによる嫌悪感。
それはどんな刃物よりも鋭くて、どんな鈍器よりも固く、何よりも心へと突き刺さる。
刺さって、抉って、裂いて、殺す。
そう簡単に立ち直れるような傷ではない。
だから今の師匠はきっと…。

「行かないと…」

門に置いた手に力を込めてゆっくりと押していく。
力を入れたとたんに脇腹が痛み出したが、気にすることなく進む。
僅かな隙間を開き、その間に身を滑り込ませて敷地内に入り込むとそのまま師匠のいるであろう家に向かって駆け出した。
固く均された道を踏んでそのまま沿って走っていた途中。

「…?」

オレは足を止めることとなった。
普段から見ているこの庭に違和感を感じたからだ。
心に潤いをというつもりで植えられたらしい木々や草草。それから明るい色の花がいくつも咲き誇っていて中には毒々しく妙に艶のある花などもあるこの空間。
流石に池なんてものがあるほど庭まで豪勢にしているわけではない、それでも高価で金をかけたのだろうことは少しだけわかる。
そんな庭のど真ん中。

一人、女性がいた。

月明かりに照らされたそこは彼女がいるだけで幻想的な舞台となっている。
後ろ姿しか見えないが、煌びやかな長髪、膨らみ、引っ込み、すらりとした完璧なスタイル。
纏う雰囲気は不可思議で、それはまるでお父さんの実家にいる先生のようで、妖艶に笑う玉藻姐とも似ている。
しかし、違う。似ていても何かが違う。
生物として、男として何かを語りかけてくる…否、むしろ誘ってくるような…。
誘うというよりも…これは、直接本能を刺激するというような…。
美しいのに禍々しく、秀麗なのに恐ろしい。
それはまるで師匠の持っていたあの赤いブローチのような…いや、それだ。
あの雰囲気をまんま、彼女が纏っているんだ。
恐ろしいのに見とれてしまう美貌。
現実離れしたまるで夢の中の存在。

だがそれ以上に感じたのは―

―危険。

これは危険だ。危ない。

本能に語りかけてくるからこそ、本能を刺激するからこそ、逆に思えてしまう身の危険。
それは普段から師匠とともにいるからであり、自然に身についたものだろう。
故にオレは一時の感情で流されにくくなり、逆にびくびく臆病になったかもしれない。
足を勧めずに立ち止まる。
目の前の彼女を見据えて、危険がないかを探るために。

「あら?」

そうしていると彼女が先に気付いたらしい。
オレの方へ振り向いてその顔を見せてきた。
淡い光の下で照らされた顔は間違いなく、美女。
切れ長な目は冷たく鋭く、それでも優しげに見え、筋の通った鼻は作られた芸術作品の彫刻に思える。
艶やかに光る柔らかそうな唇、ソバカスもシミも一つない綺麗な肌。
それから、中でも一番目を引いたのは瞳。
覗き込めばそのまま引き込まれてしまいそうな、見続ければ惑わされてしまいそうな怪しい魔性の光を宿いていた。

美人。

飛び切りの佳人。

一生に一度見られるか見られないかというほどの美女。

ここにいるのは場違いに思え、それなのにこの庭が彼女が一人でいるだけで世界から切り取られた楽園のように、幻想的に見える。
それは…一体誰なのか。
どこかで見たことあるような顔立ちで。
何度も見たことのある様な美しさで。
抱いたことのある違和感で。
感じたことのある妖しい色香で。

―それはまるで師匠のような…。

「こんばんは」
にこやかなで優しい笑みを浮かべ彼女はオレにそう言った。
その声はまるでガラスの鈴を鳴らしたかのように透き通っている綺麗な声だった。
「…こんばんは」
いくら怪しく危険だと思えても初対面の女性に対して礼を欠くべきではない。
こちらからも頭を下げて挨拶をする。
しかし、彼女は誰だ?
こんな師匠の家に、誰ともかかわりを持っていない師匠のもとに訪れる人がいただろうか。
それもとびっきりの美女であり、どこかで見たことのある美しさは。
この破滅的で破壊的で、現実離れした美貌は―



―師匠と同じ…?



そんな女性が…いるのだろうか?
「貴方は…えっと、あの子に用があるのかしら?」
あの子、それはきっと師匠のことだろう。
そういう風に呼ぶことができるというのはやはり師匠と深い関係なのだろうか?
そんな女性、いるなんて師匠からは聞いたことがないのに。
「え、ええ…貴方は?」
「私?まぁ…あるっちゃあるわね」
そう言って一歩オレに近づいてきた。
それは無意識に相手をもっとよく見てみたいとでも感じたのだろう。
しかしその一歩だけ距離が縮まったことにより彼女から放たれる色香がオレを包む。
頭がくらくらするような、彼女以外目に入らなくなるような。
常識を捨て去って襲いかかりたくなるような、むしろ自身の警戒を解き襲ってもらいたくなるような。
そんな危険で魅惑的、恐ろしくも蠱惑的な雰囲気は抗い難い。
だからこそ、意識の奥で警鐘が鳴り響いていた。
絶対に関わってはいけない。
生死を問うようなほどではいないにしろ、危険であることに違いない。
だから、こんなところで関わるよりも早く師匠の傍へ―

「―…?貴方」

呼び止められるその声に思わず足を止めることとなった。
「…何でしょうか」
「貴方は…あの子の何なのかしら?」
「…?」
師匠の家を訪れる人が少ないのはわかってる。
というか、オレ以外に来ている人がいない。
だからこそオレは彼女が師匠の何なのかが気にかかったし、逆に彼女もまたオレが何なのかを気にしているのだろう。
師匠と関わる人なんてそういないから。
「…ただの、弟子ですよ」
「弟子…師弟関係の男の子って貴方のことなのかしら?それじゃあ…貴方が…」
オレの言葉を繰り返し不思議そうに首を傾げた美女はどこか納得したように頷くとオレとの距離を詰めるために進んできた。
近づく距離、強まる雰囲気。
くらくらするほどの色香と、震えあがるほどの危険性。
そのまま彼女はオレの顔に、頬にそっと手を伸ばしてきた。
まるで蛇に睨まれた蛙のようにそれを避けることもできず彼女のなすがままになってしまう。
そっと、添えられた白く柔らかな手。
それと同時に浮かべられた表情はまるで自分の子供を見るような慈愛に満ち溢れた笑みだった。
色香とはまた違う、惑わされるのともまた違う。
見惚れるというのでもない、愛する者に向ける優しい笑み。

「そう…貴方が、あの人の…」

『あの人』…?あの人の…なんだ?
その言葉は、その意味は…いったい何なのだろうか?
その後に続く言葉は…何だろうか?
わからない。
あの人が誰なのかさえ見当がつかない。
「…貴方は?」
こちらの関係を聞かれたのだからこれくらいは聞いてもいいだろう。
彼女はオレの言葉に反応を見せつつも添えた手は下ろさずにいた。
「私?そうね…あの子とお互いに、大切に思ってる関係…とでもいおうかしら?」
「大切…?」
「そう、とっても大切」
「…っ」

その言葉を聞いた瞬間オレは彼女の手を振り払った。

「!」
「…大切?本当に師匠のことをそう思ってるんですか?」
その言葉を言う人をオレは知りたかった。
そう平然と言える人物をオレは見たことがなかったから。
会ったら言おうと思っていたことがある。

見たら絶対してやろうと思っていたことがある。

今までずっと不審に思っていた。
ずっと不思議で、不可解だと感じていた。
オレが師匠とともにいた長い時間、師匠との深い関わりを持った人は誰ひとり見ていない。
オレが来ていない時にいたというのなら師匠もその人の話を少しはするだろうが、そんなことは今までなかった。

師匠は今まで一人だった。

一人にすべきではないのに。

「あんたは…っ」

師匠を大切に思っているなら。

「何でっ…」

互いに大切に思いあう関係なら。



「師匠を、一人にしてるんだよっ!!」



ずっと言ってやりたかった。
ずっと聞いてみたかった。
どうしてあそこまで不安定で、寂しがり屋の師匠をたった一人でいさせたのか。
時折訪れていたとしてもどうしてずっと共にいることができなかったのか。
どうして、傍に居てやろうとしなかったのかを…っ!
「…貴方は、真っ直ぐなのね」
オレの言葉を、オレの剣幕をものともせずに彼女はそうっと呟いた。
「ふふ、そっくりに…」
「…」
「そう睨まないで。いい男が台無しよ?」
「何を…」
言ってるんだ、そう続けるはずが言葉が出なかった。
睨みつけたまま詰め寄ろうかと足を出すはずが、動かなかった。
まるで時間がこのまま止まったかのように。
まるで足が地面にぴったり張り付いたかのように。
言葉では説明しつくせない状況。
現実にありえない、まるで魔法にかかったかのようだった。
それが彼女の仕業だということにはすぐに気付く。
この世界にいることが不自然に思える彼女のものだとすぐにわかる。
本来ならば信じることなんてできないはずなのに。
「だから、そう睨まないで。睨んだところまでそっくりよ」
「あんた…」
「それから私たちだってあの子を一人にさせたくて一人にしているわけじゃないのよ?」
「…あ?」
動けないこの体でもできる限り声を低くし、ドスをきかせるが彼女は対して気にも留めない。
その言葉、どういう意味だ?
何が一人にさせたくなかっただ。
それでも一人にさせているだろうに。
師匠があれほど寂しがっていたといのに。
あれほど弱いというのに、一人にさせたくなかったなんて言えるのか?
「貴方は知らないからそう言えるのでしょうけど…それでも相応の理由があるのよ。あの子がここに一人でいるのもね」
「…」
「聞きたいかしら?」
「……―



―そんなもん、知るか」



聞きたいといえば聞きたいだろう。
師匠が一人でいる理由、それから彼女がそれを知っているわけ。
知りたいが、それでも今優先すべきことはそこじゃない。
病院でお父さんから詳しく聞かなかったように、今この女性から詳しく聞くわけにもいかない。
こっちはいそいで急いでいるのだから。
一刻も早く師匠の傍に行きたいのだから。
「そんなことを聞く時間なんかないんだよ」
そうは言うものの体の自由はいまだに戻らない。
きっと彼女がオレを離そうとしない限りこのままだろう。
何とも歯がゆく、腹が立つ。
「まぁ、そう言わないでよ。つれない所までそっくりね」
彼女はくすりと笑い、オレの前に立った。
その仕草、その動作の一つ一つがどれも魅力的で考えることをやめて見とれてしまうほどのものなのに、今はただ腹立たしい気持ちにしかなれなかった。
「貴方は聞く必要があるわ。いや、義務と言ったところかしら?」
「…義務?」
「そう、聞かなければいけない。あの子の傍に居たいのならもっとあの子のことを知らなければいけないわ。もっとも―




―知った後であの子の傍に居られれば、だけどね」」






























「―これでもあの子の傍に居たいと思えるのかしら」
そのままの姿勢で、そのままの立ち位置で。
彼女はオレに話し終えた。
座りもしない、かといって離れもしない。
ずっとオレの前にいて耳元で語りかけてくる。
それは焦らしているかのようで誘うかのような語り方だった。
しかし口に出された言葉はそれとは真逆なもの。
甘い口調とは違った苦い事実。
生きてきた人生で聞くようなものではない、まるで夢であるかのような話。
夢というにはあまりにも酷なものだったが。
幻想というにはあまりにも悪夢に染まっていたのだが。
「貴方はこれまで通り、あの子の傍に居られるかしら?」
そう言った彼女は笑っていた。
ニタニタと、まるで悪魔のように。
人間離れした美しさを持っているからこそその笑みはさらに妖しく映えた。
彼女はただオレの答えを待っているのだろう。
どんなことを言うのか、楽しみにしているのだろう。
「…そんなの」
ぎりぎりと、力を込めると悲鳴のように手足が軋む。
いまだに動かないこの状態だが返答ぐらいならば何とかできる。
「ん、何かしら?」
「…そんなのは」
まるで鉄芯でも体に突き刺されたように動かない身体。
それでも力を込めるたびにぎしぎしと、ぎちぎちと軋んだ音を立てるということは完全に動きが止められていないのではないだろうか。
脇腹が傷み、肋骨に鈍い痛みが何度も走る。

それでも止まれない。

骨から音がするから、体が傷むから、動ける可能性が出てきているんだから。
「…最初、か、ら…っ」
みきみきと音が変わった。
みしみしと骨が折れそうな音になった。
それと同時に感じる痛みもまた増えた。
それでも、止めてはいけない。
「…貴方」
彼女の声に耳を貸す暇もない。
オレはただ力を込めて、引きちぎるように、振り切るように体を動かした。


「決まってるって、言うんだよっ!!」


ばきり、と何か鈍い音がした。
それは骨からした音か、それとも体を拘束していた何かなのかはわからない。
それでも、その音がすると同時に体が軽くなった。
縛るものが消え、自由が戻った。
「っ!」
そのまま走りだす。
いきなり動き出したことは予想外だったらしく動揺を隠せない表情が一瞬見える。
しかしそんなことを気に掛けることもなくオレはそのまま師匠の家へと駆けこんだ。
鍵を差し込み回し、ガチャリと手ごたえを感じてからすぐさま引く。
そうして時間をかけることなくすぐさま家の中へと入っていく。
「あ、貴方っ!」
オレを呼ぶ声が聞こえるのとドアが閉じるのはほぼ同時だった。




「………無茶しちゃって。本当にそっくりなんだから」




ああ、まったく。時間を無駄にしてしまった。
早く師匠の傍に行きたいというのに余計な時間をかけてしまった。
階段を駆け上がり、廊下を走り、物音一つしない家の中を駆けずり回り、そうしてオレはある一つのドアの前に立った。
師匠の部屋。
足を止めても何も聞こえない。
まるで誰一人いないように思えるほど静かな建物内。
しかし師匠がいるとすればここであり、ここ以外にありえない。
先ほどの彼女が話したように―


―ここからいなくなっていなければ、だが…。


「…」
話された内容の中にあった一つの言葉。
引っかかり、深く心に残ったその発言。
それが事実だとしたらそうさせたのはオレであり、オレの勝手な優しさが仇となったということ。
それが本当なら、オレのやっていたことは…ただの押し付け。

「…」

だからこそここまで来て、今更迷っている。
このドアノブに手を掛けて向こう側にいる師匠に会うことを躊躇ってしまう。
今まで何ともなかったのに。
確かに師匠の気持ちを考えていなかったといえばそうかもしれない。

…それでも。

師匠を放っておけない。
あの女性に聞いたことすべてが事実だとしても、オレが疎ましく思われていたとしても。
それでもやはり、一人にしておくことはできないんだ。
木でできているドアを叩き、師匠が中にいることを確認する。
しかし、反応はない。
それはいつものことであり、出られる状態ではないということだ。

「…師匠、入りますよ?」

その言葉にも当然返答はない。
仕方ないのでそっとドアを開け、ゆっくり身を滑り込ませ、同じようにドアを閉める。
部屋の中は暗闇だった。
本来つけるべき明かりをつけない空間は光のない夜には照らすものが何もなくなる。
しかし今日は以前と同じように月明かりの淡い光が降り注ぎ、わずかに部屋を照らしていた。
大きな家具も、高級感溢れる不思議なアクセサリーも。

一人小さく縮こまって泣いている師匠の姿も。

「…師匠」
オレの声に師匠は何も反応しない。
離れているわけではないこの距離で、なにも物音のしないこの場で聞こえていないというわけでもないだろう。
ただ、反応したくない。
オレを見ることさえ、嫌だというように。
「…」
師匠は何も言わない。
オレを傷つけてしまった手前、口にすべき言葉が思いつかないのだろう。
思いつかないというよりも、存在しない。
ただごめんなさいと謝って事が済むにはオレの体についた傷は酷すぎる。
主に骨折、打撲。外傷らしいものはないが重症に近かったことに変わりない。
それだけの傷を与えておいてどのような顔ができるだろうか。
そのような傷を残して何の言葉を掛けられるだろうか。
本来ここに来るべきではなかったのかもしれない。
しかし、来なかったら来なかったで誰が師匠を支えるのか。
先ほど出会った彼女の言うことが本当なら、師匠の大切な人ならできるかもしれない。
それでも、全て支えきれるわけではないだろう。
きっとオレにしかできない部分もあるだろう。
今まで師匠とともにいたオレにしかできないところがあるはずだ。

だから、オレはここにいる。

オレの身勝手な優しさが逆に師匠を傷つけてしまうとしても、その傷も癒せるように。

「師匠っ!」
オレは彼女の傍に駆け寄り、膝を抱え込むように回されていた手を掴んだ。
刹那、弾かれる。
「っ!」
か細く、今にも折れそうな様を見せるその腕は師匠が女性だからというわけではないだろう。
まるで息を吹きかけただけで消えそうな儚い蝋燭の火。
死にそうで、消えそうだからこそそう見える。
それでも、掴まれた手を振り払うほどに力はしっかりと入っていた。
「…師匠」
「…………………」
彼女はそれから手を振り払うだけでそれ以降は何もしない。
睨みもしない。
突き飛ばしもしない。
ただじっとして、弾いた手をゆっくりもとの位置に戻すだけ。
それがとても寂しくて、悲しくて、切ない。
一人で抱えて自己嫌悪している彼女の姿が、とても。
何を言えばいいのだろう。
今までは平然と…は言えなかったがそれでも何とか接することはできていた。
それができないのはやはり先ほどの彼女の話を聞いてしまったからだろう。


『貴方がやっていることは…本当に彼女のためになると思ってるの?彼女がどういう気持ちでいたか、本当にわかってるの?』


会話の一部。
もっとも心に深く刺さった言葉。
それはオレの行為を否定することであり、オレのやってきたことがただのエゴだったと気付かされたもの。
言われてみればその通り。
なんだかんだでオレがやっていることはエゴだろう。
正しいわけではない。
間違っていたとも言い切れない。
ただ単に綺麗なだけだったんだから…。
「…どうしたんですか。師匠」
このまま沈黙を通しても何も変わらない。
それならオレから話しかけるのがいいだろう。
話題なんてなんでもいい。
普段から明るい彼女がこんな暗くなるときは代わりにオレが明るくならなければ。
「普段の調子はどこに行ったんですか?そんなに塞ぎ込んでちゃ師匠らしくもないでしょう」
「…」
「普段だったらもっと笑ってるのに、まるで昔の師匠を相手にしてるみたいでオレも緊張しちゃいますよ」
「…」
「…なんなら、今だけ何でもしてあげますよ?師匠のしたいことなんでもしますよ?だからいつもみたいに笑ってくださいよ」
「…」
「…ね、師匠」
そこまで言って彼女はようやく返事をする。
顔をあげて、オレを見つめて。
「もう…いいんだよ…」
泣き出しそうな震える声で、今にも溺れそうなほど涙をためて。
師匠はゆっくり口を開く。
「もう…君にかかわりたくないんだよ…これ以上関わるのが怖いんだよ…」
「…」
それは、オレを傷つけることが怖いということだろう。
自分の意思なんて関係なく傷つけてしまう、自分自身が恐ろしいのだろう。
その原因が外から与えられたものだとしても、望んでそうなったわけでもないものだとしても。
「帰ってよぉ…」
今にも泣きつくことができたのならどれほど師匠は楽だったろう。
彼女の前にいるのがオレでなければどれほど気が軽かっただろう。

オレがいなかったらどれほど師匠は救われたことだろうか。

「やめてよぉ…」
師匠は手でシーツを強く握りしめて体の震えに耐えるように縮こまっている。
それが何とも痛々しい。
オレの怪我なんて大したことのないように思えるほどに。
見ている方が辛くなってしまう姿。
そうなったのは先ほどの彼女の話に出てきた『あれ』が原因。
それでいて、そうしたのはオレが原因。
助けたいから、そんな姿を見たくないから、その優しさが逆に引き起こさせるとはなんと皮肉なものなのか。
「それでもですね…師匠」
オレもこんなところで引きさがれるものか。
ここまで来ておいて、後ろに進めるものか。
「そんな状態の師匠を…放っておけるわけがないでしょう。オレはずっと傍にいますよ。師匠がいつもみたいに戻ってくれるまでずっと傍に」

そう言ったオレを見据えて師匠は―



「―それじゃあユウタは…」



そう言った師匠の姿は人間ではなかった。
淡く降り注いだ月明かりの下で照らされたその体は人ではなかった。
その姿に言葉が出ない。
口を開こうとも口が接着剤でくっついたかのように開けない。
予想外な事態と、起こりえない現象に驚いて動くこともできない。
目が、離せない。
師匠はそれを揺らし。
師匠はそれを広げ。
師匠はそれを立てていた。
どれもこれも人間にはない部分。
備わるはずのない物体。
それらを生まれてからずっと生やしていたかのように自然に映るその部位をオレの前にさらけ出したまま師匠は言った。






師匠の本当の姿を見せて、言った。






「これでも自分の傍にいられるの…?」
12/08/19 20:43更新 / ノワール・B・シュヴァルツ
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■作者メッセージ
ということで師匠編、いよいよ終盤です!
師匠の家の庭にいた彼女、師匠のすべてを知っているその関係はなんなのか
師匠の持っていたブローチと同じ雰囲気を持つ彼女は…!


それからとうとう自分の姿をさらけ出した師匠
その姿はなんなのか
どの魔物なのか
次回、いよいよ最終話です!!
主人公は師匠を救えるのか!
あの人が話したこととは!お父さんの知っていたこととは!

それでは次回もよろしくお願います!!

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