オレと煩慮
最近変だ。
すっごく変だ。
全く変だ。
師匠が更衣室を覗いてこない。
…覗きは変なことだけどそれでもおかしい。
犯罪だけど毎度のことしてきた師匠がしてこないのはおかしい。
常識的に考えれば覗きこそがおかしいのだけどそうじゃない。
師匠が下ネタ発言をしてこない。
…普通の女性ならしないか。
常識的に考えれば絶対にしないよな。
ああ、そうだ、あれだ。
師匠がやたら人の服を脱がしたり脱いだりしない。
…。
……。
………え?うちの師匠って痴女?
いやいやいや、例え世間からは離れたような女性でもオレにとっての師だ。
多少のことは慣れてきてるし、それが当たり前だ。当然だ。
おかしく思うことはない。
だからおかしいと思うのはそういうことをしない今の師匠だ。
以前ならどこかに隠し持っていたローションを出したり、手が滑ったとか言ってオレの服を脱がしにかかったり、潤んだ瞳で求めるように緊縛プレイ用の縄を渡して来たり、誕生日にはどっかのなにかで使うような鞭を送ってきたり、勝負下着を惜しげもなく晒したりするんだけど。
…あれ?何だっけ?
これがいつもの師匠だよな?
これが普通なんだよな?
…普通って…何だっけ?
…とりあえず、今の師匠は変だ。
何がというとなんというか…どういうか…。
師匠が、師匠らしくない。
いつも明るく朗らかで笑ってる師匠じゃない。
普段からからから笑う、それでいてオレを狙うような妖しい光を宿した目をしているあれではなくて、どこか冷めたような笑みで、無気力な表情をしている。
想像できないその姿。
昔のような凛とした姿とも重ならない、初めて見る姿。
気丈にふるまってツンツンしていたあの頃ではなくて、無理やりすり寄ったオレに対して見せた弱弱しいものでもなくて。
言いたいことを言い出せない、決めたいものを決められない、そんな感じだ。
…?何か悩み事でもあるのだろうか?
いかにオレの空手の師匠といえ彼女は一人の女性であることに変わりない。
普段は快活で悩みなんて見せないそぶりをしていたところで悩みがないというわけではない。
彼女もまた悩むんだ。
何についてかは知らないけど、悩みを持つ一人の女性なんだ。
ならオレができることはそれを解決できるように手伝うこと。
その問題を解決させるのは最終的には師匠だ。だからオレはそれを手伝うことまで。
たった一人の大切な師匠なんだ、それくらいして当然だ。
しかしここでストレートに聞くというのはあまりいただけない。
繊細な問題だからこそ解きほぐすようにそっと探っていく。
オレもそこまで気が回せないわけじゃないんだから。
「師匠、何かあったんですか?」
元気のない師匠にそう言った。
師匠は空手着姿でオレと対峙しながら拳を構えている。
それでも覇気を感じられず、俯いた顔には影が差していた。
本当に師匠らしくない。
「うん?」
ワンテンポ遅れてからの返事。
聞き逃したというわけではないだろう。
すぐに反応できるほどの精神力がなかったとでもいうのか。
「ん、いや、なんでもないよ」
「…」
なんでもない。
そんな言葉を普段の顔で普段の笑みで言われたなら気にすることはなかっただろう。
しかし今の師匠は誰がどう見ようとも何かがあった顔だ。
気になって声をかけてしまう顔だ。
誰もが美女と称すことができる美貌を持っていようと曇った表情ならそれも半減する。
それ以上に普段の行いがないことが一番気にかかる。
本来オレと師匠が稽古に入るまでに何度かセクハ…ちょっと過激なスキンシップを受ける。
例えば道着に着替える時―
「…」
「…」
「…師匠、いつまで更衣室にいるんですか?」
「え?いちゃいけないの?」
「いけないに決まってるでしょうが。師匠は女性、オレ男。それもう着替え終わってるじゃないですか」
「でもここには自分とユウタだけだよ?だからね♪」
「だからねじゃないでしょうが。ほら、出てく出てく」
「うわーんひどいよー」
「………よし、鍵かけた。これでもう入ってこないよな」
「むしろユウタから入って来てほしいな♪」
「…どっから入ってきたんですか?」
「んふふ〜♪どこからだと思う?当てられたらご褒美として―」
「出てけっ!!」
休憩中なんて―
「ユウタ、ゲームしよう?」
「…はい?ゲームって?」
「ゲームはゲームだよ」
「でも師匠、ゲーム機持ってないじゃないですか」
「そんなのは必要ないよ、ほら」
「トランプ?」
「そそ、ポーカーでもと思って」
「……ちなみにかけるものは?」
「服」
「…やめときます」
「それじゃあ麻雀は?」
「…かけるものは?」
「服」
「…やめときましょう」
「じゃあ野球拳は?」
「脱衣から離れてくださいよ、まったく。師匠、セクハラですよこれ。わかってるんですか?」
「セクシーハラハラ?」
「…そりゃある意味ハラハラしますけど」
「同時にワクワクするよね♪」
「しませんよ、犯罪ですよ」
「愛ある行為に罪はないんだよ?」
「同意なき行為が罪なんです」
「いやよいやよも好きな内なんでしょ?んもうユウタったらメドゥーサよりもツンデレさんなんだから〜♪」
「メドゥーサ?」
「そんなツンツンユウタもいいんだけどね♪でも、どうせだし自分にデレてくれないかな〜♪」
「師匠、わきわきするその手をやめてください」
「んもう、ツンツンしないでよ♪自分が脱がせてあげるから♪」
「すいません、警察の方ですか?」
これが師匠だ。
これで師匠だ。
こんなんでもそんなんでも、誰がどう言おうと師匠だ。
たった一人のオレの師であり、オレにとって大切な存在である。
途中で性格が変わってしまう(むしろこっちが素かもしれない)事の発端を作ったのがオレであれ、小学二年生からずっと付き合い続けてきた一人の女性だ。
その今までなかったことが今起きているというのだから、気になるのも当然だろう。
「師匠…」
「うん?何かな?」
「…無理、しないで下さいよ?」
「ふふ、無理なんてしてないよ。ユウタは心配性だなぁ」
「…」
にこやかに、それでも物足りなく。
いつものように、それでも寂しそうに笑う師匠を前にオレは構えた拳を下げた。
稽古中にこれをすることは降参の意思表示か休憩、いったんストップ。
オレの行動に師匠は不思議そうに手を下げた。
「うん?どうしたの、ユウタ。もう疲れちゃった?」
「…師匠、今日はもうやめましょうか」
「んん?まだ始めて十分しか経ってないよ?」
「…師匠」
オレは師匠の細い腕をそっと掴んだ。
細腕だというのにとんでもない力で拳を振るうなんて想像できない綺麗な女性の腕を。
その行為に彼女は首をかしげる。
意味が分からないと言いたげな表情を浮かべる、
別にそれでもいい。
今はそんなことを気にしてるわけにはいかないのだから。
そのままオレは師匠の腕を引っ張った。
「!」
いくら空手の師範といっても女性であることに変わりない。
体重だって軽いし、身長が高くとも華奢な体つきである。
ゆえにオレの腕に引かれるまま師匠の体は倒れこんだ。
しかし床に衝突したわけではない、そのままオレが師匠の体を抱き込んだ。
―しっかり、きつく。
―ゆったり、優しく。
―ぎゅっと、強く。
―それで切なく。
師匠の体を抱きしめた。
「…ユウタ?」
「師匠は、我慢しすぎですよ」
倒れこんだ師匠の体は膝をつき、頭はちょうどオレの胸の位置にある。
オレはそのまま師匠の頭を抱きかかえ、そっと片手を添える。
「普段はからから笑って、これでもかってくらいにねだってくるのに何を今更我慢してるんですか」
「我慢なんて、してないよ」
「どこがですか。そんな元気のない師匠久々に見ましたよ」
軽口一つたたけない。
下ネタ発言を一言もしない。
おちゃらけて、甘ったれて、構ってちゃんで寂しがり屋な師匠らしくない。
「そういう時こそ甘えてくださいよ」
オレは師匠の体を、頭を抱きしめたまま言った。
言い聞かせるように、そっと。
馴染ませるように、ずっと。
「オレは貴方の弟子である以前に男なんですよ?以前とは違う、もう大人の男なんですよ?師匠が何に悩んでいるのかわかりませんが、それでも解決するために役立つことぐらいはできますよ」
「…」
「師匠の手助けぐらい、できますよ」
すでに十八歳になったこの体。
初めて師匠のもとを訪れた小学二年生の時とは全然違う、大人な今。
師匠をよく知っているオレだからこそ力になれることがある。
だから。
だから、師匠―
「―そんな泣き出しそうに笑わないでくださいよ」
先ほどからずっと眺めていた師匠の顔。
今にも崩れそうで、今にも零れ落ちそうで。
見ていられるようなものではなかった。
「泣きそうな顔なんて似合わないんですよ」
「…」
「師匠は普段通り、笑顔がよく似合うんですからね」
返答はない。
それでも答えるように師匠の腕がオレの背に回された。
泣いてはいないらしい。
それでも小さく肩が震えていた。
続いた声も、震えていた。
「ユウタはさ…自分のこと、嫌い?」
抱きしめて、そのままで、そうしていると師匠が小さく言った。
その発言におやっと思った。
このような発言は今までになかったわけではない。
ただ、質問の言葉が違った。
初めてされたのはオレが師匠を受け止めたあの出来事から数週間後。
「君は自分のことどう思ってるのかな?」
不安げで、儚げで、消え入りそうな声で聞いてきたことを今でもはっきり思い出せる。
初めてされた発言の意味を理解しかねたもの。
それでもかなりの勇気を出して聞いてきたことだけはわかった。
それからずっと先のこと。
再びされた質問はこうだった。
「ユウタはさ、自分のこと好きかな♪」
疑問がなかった。
ほぼ肯定の返事が貰えること前提の質問だった。
いや、質問ともいえないかもしれない。
このころは…まぁ、あれだった。
かつての凛としてた師匠の面影すらなくなっていたころだった。
でも。
それでも。
嫌っていることを前提に聞いたことは今までに一度たりともなかった。
相当、きてる。
かなり、きてる。
普段の師匠なら、以前の師匠なら、絶対に言わなかった言葉を口にしているんだ。
嫌われることを嫌ってる彼女がそんなことを言っているんだ。
何かがあった、そうとしか思えない。
オレはそんな師匠をつよく抱きしめた。
強く、強く、それでも優しく言葉を紡ぐ。
「そんな風に思ってたらここにきていませんよ」
頭に手を添え、そっと撫でた。
枝毛一本すら見当たらないサラサラの長髪はオレの指に絡むことなく柔らかく解きほぐされていく。
もう片方の手は師匠の背に回して抱き寄せる。
時折摩っては幼子をあやすかのように落ち着ける。
その甲斐あってか師匠は先ほどのような表情から少しだけ回復していた。
そう、少しだけ。
「ユウタは…どうして自分のところに来るの…?」
続いた言葉がそれだった。
悲しく、寂しく、辛く、重い。
いつもなら口が裂けても言わない言葉を。
普段なら絶対にオレに聞かない言葉を。
小さく口にした。
「自分のところに来る意味って…ないでしょ?」
「…」
「自分は…君を傷つけちゃうかもしれないんだよ」
その言葉の意味はよくわかってる。
事実、師匠の手によって何度も病院送りにされている。
病院送りどころではない、重症、死の淵を何度さまよったことか。
しかしそれは当然理由があってのこと。
それ相応のわけがあるからで、それなりの原因があるからで。
師匠自身そんなことをしたくないのはわかってるんだ。
師匠は優しい。
昔の師匠は冷たくツンツンしていたがそれでも優しかった。
こんなオレでさえ、受け止めてくれたのだから。
『あんなこと』をしてしまったオレなのに、見放さなかったのだから。
だからよく知っている。
皆いなくなってしまっても、それでもオレだけはわかってる。
だから見捨てられないんだ。
優しくて、寂しくて。
温かくて、悲しいから、一人にできないんだ。
師匠の弱い部分を知っているから、こうしているんだ。
でも、それだけではない。それだけで師匠のそばにいるわけではない。
「師匠は…オレの恩人ですからね」
その言葉の意味を師匠もわかっているだろう。
思えばあのとき、中学生の最後のときに『馬鹿』をやらかしたオレを受け止めてくれた一人の女性。
先生にも言ってない、玉藻姉にも言えてないあの事件。
あれがあるからオレは地元の高校には通えずに自転車を使ってまで遠くまで通っている。
昨日まで仲の良かった皆が急に手のひらを返し、見放されたあの経験。
母に頬を張られ、進路が決定していた高校からは合格を取り消しにされ、先生も頼れず、ずっと一人だったあの頃。
誰もが突き放した中で傍にいてくれたのはお父さんと、あやかと、あの親友共と、それから師匠。
破門される覚悟で報告したオレに対して師匠はただ一言。
『そっか』
興味がないというわけではなかった。
呆れたというわけでもなかった。
ただ一言。
たった、一言。
それだけで済ましてあとは普段通りの接し方だった。
あれがあの時のオレにとってはどれほど救いだったことか。
「嬉しかったんですよ…あの時のは」
昨日遊びに行った友達も目を合わせない。
同じ道場に通っていた友達でさえオレと口をきこうとしなかった。
女子なんて言わずもがな、誰も近寄ろうとしなかった。
それなのに師匠は相変わらずクールで、凛としていて、それでいつものようだったんだから。
「皆離れちゃったっていうのに、師匠は一緒にいてくれたから…だからですかね」
オレが師匠のそばにいるというのは。
それが理由なのかもしれない。
あの時の恩からの行動なのかもしれない。
「それじゃあさ…」
師匠がそっと口を開いた。
今にも消え入りそうな声で、闇に溶け込みそうなほど頼りない声で。
「ユウタはさ、それがなかったら…それがなかったとしたら…自分の傍にはいないのかな?」
「愚問ですね」
即答だった。
そんなこと聞かれなくても決まってる。
師匠があの時救ってくれなかったとしても、決めている。
確かに救ってくれた恩返しというところが幾分かあるだろう。
でも。
それでも。
「そんなことがなかったとしてもオレは師匠の傍にいますよ」
オレが師匠の傍にいる理由はそれだけじゃないんだ。
オレが師匠の隣にいるわけはこれだけじゃないんだ。
理由の一つであって、主なわけではないのだから。
「今までも、これからも」
できることなら、このままずっと。
その言葉は飲み込んで抱きしめた師匠の頭を撫でた。
師匠はそれから何も口にすることはなかった。
ただそれでも、嬉しそうにオレを抱き返しただけで十分だった。
すっごく変だ。
全く変だ。
師匠が更衣室を覗いてこない。
…覗きは変なことだけどそれでもおかしい。
犯罪だけど毎度のことしてきた師匠がしてこないのはおかしい。
常識的に考えれば覗きこそがおかしいのだけどそうじゃない。
師匠が下ネタ発言をしてこない。
…普通の女性ならしないか。
常識的に考えれば絶対にしないよな。
ああ、そうだ、あれだ。
師匠がやたら人の服を脱がしたり脱いだりしない。
…。
……。
………え?うちの師匠って痴女?
いやいやいや、例え世間からは離れたような女性でもオレにとっての師だ。
多少のことは慣れてきてるし、それが当たり前だ。当然だ。
おかしく思うことはない。
だからおかしいと思うのはそういうことをしない今の師匠だ。
以前ならどこかに隠し持っていたローションを出したり、手が滑ったとか言ってオレの服を脱がしにかかったり、潤んだ瞳で求めるように緊縛プレイ用の縄を渡して来たり、誕生日にはどっかのなにかで使うような鞭を送ってきたり、勝負下着を惜しげもなく晒したりするんだけど。
…あれ?何だっけ?
これがいつもの師匠だよな?
これが普通なんだよな?
…普通って…何だっけ?
…とりあえず、今の師匠は変だ。
何がというとなんというか…どういうか…。
師匠が、師匠らしくない。
いつも明るく朗らかで笑ってる師匠じゃない。
普段からからから笑う、それでいてオレを狙うような妖しい光を宿した目をしているあれではなくて、どこか冷めたような笑みで、無気力な表情をしている。
想像できないその姿。
昔のような凛とした姿とも重ならない、初めて見る姿。
気丈にふるまってツンツンしていたあの頃ではなくて、無理やりすり寄ったオレに対して見せた弱弱しいものでもなくて。
言いたいことを言い出せない、決めたいものを決められない、そんな感じだ。
…?何か悩み事でもあるのだろうか?
いかにオレの空手の師匠といえ彼女は一人の女性であることに変わりない。
普段は快活で悩みなんて見せないそぶりをしていたところで悩みがないというわけではない。
彼女もまた悩むんだ。
何についてかは知らないけど、悩みを持つ一人の女性なんだ。
ならオレができることはそれを解決できるように手伝うこと。
その問題を解決させるのは最終的には師匠だ。だからオレはそれを手伝うことまで。
たった一人の大切な師匠なんだ、それくらいして当然だ。
しかしここでストレートに聞くというのはあまりいただけない。
繊細な問題だからこそ解きほぐすようにそっと探っていく。
オレもそこまで気が回せないわけじゃないんだから。
「師匠、何かあったんですか?」
元気のない師匠にそう言った。
師匠は空手着姿でオレと対峙しながら拳を構えている。
それでも覇気を感じられず、俯いた顔には影が差していた。
本当に師匠らしくない。
「うん?」
ワンテンポ遅れてからの返事。
聞き逃したというわけではないだろう。
すぐに反応できるほどの精神力がなかったとでもいうのか。
「ん、いや、なんでもないよ」
「…」
なんでもない。
そんな言葉を普段の顔で普段の笑みで言われたなら気にすることはなかっただろう。
しかし今の師匠は誰がどう見ようとも何かがあった顔だ。
気になって声をかけてしまう顔だ。
誰もが美女と称すことができる美貌を持っていようと曇った表情ならそれも半減する。
それ以上に普段の行いがないことが一番気にかかる。
本来オレと師匠が稽古に入るまでに何度かセクハ…ちょっと過激なスキンシップを受ける。
例えば道着に着替える時―
「…」
「…」
「…師匠、いつまで更衣室にいるんですか?」
「え?いちゃいけないの?」
「いけないに決まってるでしょうが。師匠は女性、オレ男。それもう着替え終わってるじゃないですか」
「でもここには自分とユウタだけだよ?だからね♪」
「だからねじゃないでしょうが。ほら、出てく出てく」
「うわーんひどいよー」
「………よし、鍵かけた。これでもう入ってこないよな」
「むしろユウタから入って来てほしいな♪」
「…どっから入ってきたんですか?」
「んふふ〜♪どこからだと思う?当てられたらご褒美として―」
「出てけっ!!」
休憩中なんて―
「ユウタ、ゲームしよう?」
「…はい?ゲームって?」
「ゲームはゲームだよ」
「でも師匠、ゲーム機持ってないじゃないですか」
「そんなのは必要ないよ、ほら」
「トランプ?」
「そそ、ポーカーでもと思って」
「……ちなみにかけるものは?」
「服」
「…やめときます」
「それじゃあ麻雀は?」
「…かけるものは?」
「服」
「…やめときましょう」
「じゃあ野球拳は?」
「脱衣から離れてくださいよ、まったく。師匠、セクハラですよこれ。わかってるんですか?」
「セクシーハラハラ?」
「…そりゃある意味ハラハラしますけど」
「同時にワクワクするよね♪」
「しませんよ、犯罪ですよ」
「愛ある行為に罪はないんだよ?」
「同意なき行為が罪なんです」
「いやよいやよも好きな内なんでしょ?んもうユウタったらメドゥーサよりもツンデレさんなんだから〜♪」
「メドゥーサ?」
「そんなツンツンユウタもいいんだけどね♪でも、どうせだし自分にデレてくれないかな〜♪」
「師匠、わきわきするその手をやめてください」
「んもう、ツンツンしないでよ♪自分が脱がせてあげるから♪」
「すいません、警察の方ですか?」
これが師匠だ。
これで師匠だ。
こんなんでもそんなんでも、誰がどう言おうと師匠だ。
たった一人のオレの師であり、オレにとって大切な存在である。
途中で性格が変わってしまう(むしろこっちが素かもしれない)事の発端を作ったのがオレであれ、小学二年生からずっと付き合い続けてきた一人の女性だ。
その今までなかったことが今起きているというのだから、気になるのも当然だろう。
「師匠…」
「うん?何かな?」
「…無理、しないで下さいよ?」
「ふふ、無理なんてしてないよ。ユウタは心配性だなぁ」
「…」
にこやかに、それでも物足りなく。
いつものように、それでも寂しそうに笑う師匠を前にオレは構えた拳を下げた。
稽古中にこれをすることは降参の意思表示か休憩、いったんストップ。
オレの行動に師匠は不思議そうに手を下げた。
「うん?どうしたの、ユウタ。もう疲れちゃった?」
「…師匠、今日はもうやめましょうか」
「んん?まだ始めて十分しか経ってないよ?」
「…師匠」
オレは師匠の細い腕をそっと掴んだ。
細腕だというのにとんでもない力で拳を振るうなんて想像できない綺麗な女性の腕を。
その行為に彼女は首をかしげる。
意味が分からないと言いたげな表情を浮かべる、
別にそれでもいい。
今はそんなことを気にしてるわけにはいかないのだから。
そのままオレは師匠の腕を引っ張った。
「!」
いくら空手の師範といっても女性であることに変わりない。
体重だって軽いし、身長が高くとも華奢な体つきである。
ゆえにオレの腕に引かれるまま師匠の体は倒れこんだ。
しかし床に衝突したわけではない、そのままオレが師匠の体を抱き込んだ。
―しっかり、きつく。
―ゆったり、優しく。
―ぎゅっと、強く。
―それで切なく。
師匠の体を抱きしめた。
「…ユウタ?」
「師匠は、我慢しすぎですよ」
倒れこんだ師匠の体は膝をつき、頭はちょうどオレの胸の位置にある。
オレはそのまま師匠の頭を抱きかかえ、そっと片手を添える。
「普段はからから笑って、これでもかってくらいにねだってくるのに何を今更我慢してるんですか」
「我慢なんて、してないよ」
「どこがですか。そんな元気のない師匠久々に見ましたよ」
軽口一つたたけない。
下ネタ発言を一言もしない。
おちゃらけて、甘ったれて、構ってちゃんで寂しがり屋な師匠らしくない。
「そういう時こそ甘えてくださいよ」
オレは師匠の体を、頭を抱きしめたまま言った。
言い聞かせるように、そっと。
馴染ませるように、ずっと。
「オレは貴方の弟子である以前に男なんですよ?以前とは違う、もう大人の男なんですよ?師匠が何に悩んでいるのかわかりませんが、それでも解決するために役立つことぐらいはできますよ」
「…」
「師匠の手助けぐらい、できますよ」
すでに十八歳になったこの体。
初めて師匠のもとを訪れた小学二年生の時とは全然違う、大人な今。
師匠をよく知っているオレだからこそ力になれることがある。
だから。
だから、師匠―
「―そんな泣き出しそうに笑わないでくださいよ」
先ほどからずっと眺めていた師匠の顔。
今にも崩れそうで、今にも零れ落ちそうで。
見ていられるようなものではなかった。
「泣きそうな顔なんて似合わないんですよ」
「…」
「師匠は普段通り、笑顔がよく似合うんですからね」
返答はない。
それでも答えるように師匠の腕がオレの背に回された。
泣いてはいないらしい。
それでも小さく肩が震えていた。
続いた声も、震えていた。
「ユウタはさ…自分のこと、嫌い?」
抱きしめて、そのままで、そうしていると師匠が小さく言った。
その発言におやっと思った。
このような発言は今までになかったわけではない。
ただ、質問の言葉が違った。
初めてされたのはオレが師匠を受け止めたあの出来事から数週間後。
「君は自分のことどう思ってるのかな?」
不安げで、儚げで、消え入りそうな声で聞いてきたことを今でもはっきり思い出せる。
初めてされた発言の意味を理解しかねたもの。
それでもかなりの勇気を出して聞いてきたことだけはわかった。
それからずっと先のこと。
再びされた質問はこうだった。
「ユウタはさ、自分のこと好きかな♪」
疑問がなかった。
ほぼ肯定の返事が貰えること前提の質問だった。
いや、質問ともいえないかもしれない。
このころは…まぁ、あれだった。
かつての凛としてた師匠の面影すらなくなっていたころだった。
でも。
それでも。
嫌っていることを前提に聞いたことは今までに一度たりともなかった。
相当、きてる。
かなり、きてる。
普段の師匠なら、以前の師匠なら、絶対に言わなかった言葉を口にしているんだ。
嫌われることを嫌ってる彼女がそんなことを言っているんだ。
何かがあった、そうとしか思えない。
オレはそんな師匠をつよく抱きしめた。
強く、強く、それでも優しく言葉を紡ぐ。
「そんな風に思ってたらここにきていませんよ」
頭に手を添え、そっと撫でた。
枝毛一本すら見当たらないサラサラの長髪はオレの指に絡むことなく柔らかく解きほぐされていく。
もう片方の手は師匠の背に回して抱き寄せる。
時折摩っては幼子をあやすかのように落ち着ける。
その甲斐あってか師匠は先ほどのような表情から少しだけ回復していた。
そう、少しだけ。
「ユウタは…どうして自分のところに来るの…?」
続いた言葉がそれだった。
悲しく、寂しく、辛く、重い。
いつもなら口が裂けても言わない言葉を。
普段なら絶対にオレに聞かない言葉を。
小さく口にした。
「自分のところに来る意味って…ないでしょ?」
「…」
「自分は…君を傷つけちゃうかもしれないんだよ」
その言葉の意味はよくわかってる。
事実、師匠の手によって何度も病院送りにされている。
病院送りどころではない、重症、死の淵を何度さまよったことか。
しかしそれは当然理由があってのこと。
それ相応のわけがあるからで、それなりの原因があるからで。
師匠自身そんなことをしたくないのはわかってるんだ。
師匠は優しい。
昔の師匠は冷たくツンツンしていたがそれでも優しかった。
こんなオレでさえ、受け止めてくれたのだから。
『あんなこと』をしてしまったオレなのに、見放さなかったのだから。
だからよく知っている。
皆いなくなってしまっても、それでもオレだけはわかってる。
だから見捨てられないんだ。
優しくて、寂しくて。
温かくて、悲しいから、一人にできないんだ。
師匠の弱い部分を知っているから、こうしているんだ。
でも、それだけではない。それだけで師匠のそばにいるわけではない。
「師匠は…オレの恩人ですからね」
その言葉の意味を師匠もわかっているだろう。
思えばあのとき、中学生の最後のときに『馬鹿』をやらかしたオレを受け止めてくれた一人の女性。
先生にも言ってない、玉藻姉にも言えてないあの事件。
あれがあるからオレは地元の高校には通えずに自転車を使ってまで遠くまで通っている。
昨日まで仲の良かった皆が急に手のひらを返し、見放されたあの経験。
母に頬を張られ、進路が決定していた高校からは合格を取り消しにされ、先生も頼れず、ずっと一人だったあの頃。
誰もが突き放した中で傍にいてくれたのはお父さんと、あやかと、あの親友共と、それから師匠。
破門される覚悟で報告したオレに対して師匠はただ一言。
『そっか』
興味がないというわけではなかった。
呆れたというわけでもなかった。
ただ一言。
たった、一言。
それだけで済ましてあとは普段通りの接し方だった。
あれがあの時のオレにとってはどれほど救いだったことか。
「嬉しかったんですよ…あの時のは」
昨日遊びに行った友達も目を合わせない。
同じ道場に通っていた友達でさえオレと口をきこうとしなかった。
女子なんて言わずもがな、誰も近寄ろうとしなかった。
それなのに師匠は相変わらずクールで、凛としていて、それでいつものようだったんだから。
「皆離れちゃったっていうのに、師匠は一緒にいてくれたから…だからですかね」
オレが師匠のそばにいるというのは。
それが理由なのかもしれない。
あの時の恩からの行動なのかもしれない。
「それじゃあさ…」
師匠がそっと口を開いた。
今にも消え入りそうな声で、闇に溶け込みそうなほど頼りない声で。
「ユウタはさ、それがなかったら…それがなかったとしたら…自分の傍にはいないのかな?」
「愚問ですね」
即答だった。
そんなこと聞かれなくても決まってる。
師匠があの時救ってくれなかったとしても、決めている。
確かに救ってくれた恩返しというところが幾分かあるだろう。
でも。
それでも。
「そんなことがなかったとしてもオレは師匠の傍にいますよ」
オレが師匠の傍にいる理由はそれだけじゃないんだ。
オレが師匠の隣にいるわけはこれだけじゃないんだ。
理由の一つであって、主なわけではないのだから。
「今までも、これからも」
できることなら、このままずっと。
その言葉は飲み込んで抱きしめた師匠の頭を撫でた。
師匠はそれから何も口にすることはなかった。
ただそれでも、嬉しそうにオレを抱き返しただけで十分だった。
12/07/08 21:23更新 / ノワール・B・シュヴァルツ
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