連載小説
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暴状と師匠
師匠の道場には元々二、三十人の門下生がいた。
黒帯をしている高校生がいれば、茶帯をしている中学生がおり、緑帯をしている中学生がいれば青帯をしている小学生もいた。
そんな中でオレは白帯をしている初心者だった。
あのころはまだ少ない方。
多いときには三十人どころか四十人は道場に集まっていたはずだ。
その中には少なからず女子も数人混じっていたか。
それほど師匠の元には人が集まっていた。
集まっていたのにどこか余所余所しかったのを今でも覚えている。
理由はどうしてかわからない。
師匠が美人すぎるからかなと思っていたが、どうなのだろうか。
今は置いておくとしよう。

それほどの人数を収めていた大きな道場からはある事件を境に皆消えた。

オレと師匠を残してすべて消えた。

本当のことを言うとオレもやめさせられるところだった。
というのも過保護すぎる我が母親から。
そんな怪我をするところに息子を通わせることができるか、とのことだ。
当然だ、母親としてそれは当たり前に思うことである。
しかしそれを押し切ってくれたのは、それでもなおオレが通うことを容認してくれたのは―

―他の誰でもない、お父さんだ。

当然あやかはいい顔をしなかったあのとき。
流石の姉ちゃんも渋った顔で聞いていたあのとき。
初めて見せたお父さんとお母さんの夫婦喧嘩。
それでも何とかオレが通うことを許してくれたのは。
今もこうして師匠の傍にいられるのはお父さんのおかげである。
どうしてお父さんがそこまで必死になってくれたのかはわからないが、それでもいい。

またこうして師匠の元に通えるというのだから。

常識的に考えればいくら女性といえそんなことをする人のところに自分の息子娘を通わせられない。
それが当然であり、一般的な考えである。
皆は二度と師匠のところには来なかった。
悲しかったのは少しだけ。
ああ、やっぱりかと思ったのも少し。
オレに対する反応を師匠に対してもしたというだけだから。
ある意味必然的にこうなっていたのかもしれない。
本来師匠は警察だのなんだの厄介ごとに巻き込まれるはずだったのだがそこらへんは詳しく知らない。
それらしいことを受けたという話も聞いていないし、オレ自身師匠を訴えようとしているわけではなかったので大事にならなかったのかもしれない。
誰かが根回ししたとか?
…そんなことができる人がいるのだろうか?
まぁ、これも今更気にするべきことではない。
それよりもだ。
この出来事には続きがある。
それで終わり、大団円では済まされない。
師匠のその『事件』はそれから度々続いた。
長くて半年、短くて三か月の間を経て何度も何度も。
そのたびにオレは何度も師匠を止めて、何度も死にかける経験をしている。
何が原因なのかはわからない。
精神の病気にそのような一種があったはずだがそれともまた違う。
師匠のそれは何にも当てはまらない。
例えるなら―


―怪物のような。



―化け物のような。




―魔物のような、ものだった。









師匠が元気をなくしてから数日がたったあるとき、オレは師匠の家の門の前に立っていた。
片手に持っているのは空手の道着。
今日は週に三回ある稽古の日である。
ただ、前回のこともあるので稽古はせずにまた同じようなことになるかもしれない。
ああいうときこそ師匠は一人にできない。
寂しそうで、悲しそうで、今にも泣き出しそうな顔をしていた師匠。
まるで、あの時と、オレがたった一人で彼女のもとに進んだあの時と同じ…。
「…」
放ってはいけない。
一人にしてはならない。
だからこそ、何があろうといかなければいけない。
そのままオレは門をくぐり、道場に到着しては扉を開けた。
扉の向こう、道場のど真ん中、そこに師匠はいた。
「……師匠?」
師匠は私服姿だった。
あの時、オレと一緒に食事をした時と同じ姿でそこに立っていた。
道場のど真ん中、ただ背を向けて突っ立っているだけ。
声をかけるも反応はなし。
「…」
嫌な、予感がする。
これはいけないと体が訴えている。
長く付き合ってきたことによるものか、多く経験してきたことなのか。
肌から感じるピリピリとした嫌な感覚。
ざらざらで、肌に纏わりつくように感じるこの張りつめた空気。


―師匠、じゃない……。


師匠という雰囲気がしない。
まるで別人…いや人ではない。


―獣。


―化け物。


―魔物。


そのような類を前にしているかのような感覚だった。


まずい。
そう感じたのにそれでも確かめたかった。
それが偽りだと思いたかった。
「師匠…」
もう一度呼ぶ。
その声に反応して師匠はゆっくりと振り返った。

「…っ!」

綺麗で透き通った瞳が濁っていた。
妖しく艶のある光を宿した瞳が獣のような光を宿していた。


師匠が、師匠ではなくなっていた。


すぐさまオレは右に飛んだ。
刹那、オレのいた場所に師匠の拳が突き出される。
筋がない、技術はない、ただ我武者羅で力任せな拳。
ただ恐ろしいほどの力を秘めた骨と肉と皮の塊。
一撃でも掠ろうものなら骨の一本持っていかれるような馬鹿みたいな力の一撃。
すぐさまオレは師匠と距離を置く。
もっとも先ほどの動き、俊敏性からはこの広い道場内とはいえすぐさま距離を詰められるから対して意味のないことだろうが。
「…師匠っ!」
いまだにわからない。
いまいちわからない。
どうして師匠がこうなっているのか。
何で師匠はこうならないといけないのか。
精神病の一種にこういうものがあったと思う。
もしかしたら師匠はそれを患っているのだろうか?
そう思っていたこともあったがこんな高校生にそんな専門的なことはわからない。
図書館で調べようにも、インターネットを使おうにも、わからないことはあるのだから。
そんなことを考えていたら顔の横から寒気がした。
まるで日本刀を突き付けられているかのような、悪寒。
命を刈り取られるという本能の奥底から湧き上がる原初の恐怖。
今度は無意識に横へ転がると一瞬遅れて細く華奢な足が斧のように振るわれた。
危ない。今のは反応が遅れていたら首が折れていた。
冷汗が垂れ、心臓が早鐘のように鼓動を刻む。
命を投げるこの感覚、死が隣にあるこの実感。
久しぶりのものであり、不可解なものだった。
どうして、今頃。
よりによって師匠が元気のないときに…いや。

もしかして師匠に元気がなかったから?

そんなことぐらいで発症していただろうか。
これは定期的とは言えずともそれなりの最低期間をあけて次が来た。
その原因は…やはりわからない。
…考えるのはやめだ。
そんなこと、今に始まったことじゃないんだから。
だから、今は。


師匠を止めることが先だ!


すぐさま上着を脱ぎ捨て、動きやすい姿になる。
手に持っていた道着は投げ捨てた。
空いた手は握りしめ、拳を作って構えた。
「師匠、行きますよ…!!」
当然返事はなかった。
それどころか声が届いているのかすら怪しい。
この時の師匠は何を言っても聞こえていない。
ただ体が反応するだけ。


まるで獣のようにオレを殺そうとするだけだ。


次の瞬間オレの目の前に拳があった。
「っ!」
速いなんてものじゃない。速すぎる。
獣とか、野獣とか、人間らしい動きではない。
人間であるオレが追い付ける動きではない。
それでも。
今の今まで経験してきているんだ。
これぐらい、避けきれなくとも受けきれる。
「ふんっ!!」
両手を使って師匠の拳を受け止める。
まるでハンマーを使って放たれたようなその一撃は受け止めきれるような生易しいものではなかった。
だから、いなす。
受けきるのではなく、受け止めるのでもなく。
力に従うようにオレはそのまま後ろに飛んだ。
一度世界が回転し、ずだんっと足の裏から固い床の感触が伝わってくる。
着地は成功。それでもこれで安心できるわけではなかった。
この広い道場内でオレと師匠の距離は十分空いている。
これぐらいなら次の攻撃に移るまでのわずかな隙ができるし、オレも準備ができるというもの。
すぐにオレは構えを変えた。
拳を握ったまま、左手を師匠へ向ける。
そして右肘を捩じるように曲げ、右拳を顔の横へとあげる。
前足は曲げ、後ろ足を伸ばす。
これで構えは終了、準備は完了。
一撃必殺。
師匠から教えられた奥義のうち一つ。

人体における急所を打ち抜く技。

そもそもどんな生物でも絶対に守るべき器官がある。
脳と心臓。
脳は体の全てをつかさどる以上傷つくことは許されない。
ゆえに頭蓋骨は何重にも折り重なって厚くできている。
心臓は体の中心部であり、体内の血液循環に欠かせない器官。
その役割はポンプであり、酸素を運ぶ血液を流すもの。
これがなければ体中の細胞が死滅する。
だからこそ体の奥に存在する。
そしてこの技はその心臓を打ち抜く技。
一歩間違えれば危険だが、それでも習得すれば一撃で誰であろうと昏倒させる。
昏倒というよりも、仮死である。
心臓に刺激を与え、衝撃を伝えることにより体中をパニックにさせる。
普段から一定のリズムを刻む命を外からの攻撃によりそのリズムを崩す。
そうなれば体が危険を訴えるのは当然、それゆえに体は生命維持のために仮死状態へとなる。
医学的な技であり、技術に頼った技である。
一撃。たった一撃決めれば終了。
あの師匠を止めるならこれが一番手っ取り早い。
互いの傷を最小に抑え、被害を出さずにすむ手段。
ただし、それ相応の危険を孕んだ技でもある。
息を吐き出し集中する。
すぐさま弾けたように飛び出してオレに向かってくる師匠。
距離があるおかげでその動きが予想しやすく、どこにどう動けばいいのか長年培った経験によりわかる。
だんっと一歩、もう一歩。
そうしてオレの射程範囲内へと足を踏み入れた。

―ここだっ!

目標を定めるために突き出した左手を引くと同時に限界まで捩じ絞った右腕を飛び出させる。
最小の動きで最大の威力を、最高の効果を引き出すために。
胸の中心より外れた、心臓部を打ち抜くために。
オレは拳を突き出して―


『ユウタは…自分のことが嫌いかな…?』

「っ!?」
一瞬、師匠の胸を掠って拳が空を打ち抜いた。
手ごたえはなし、感触は当然なし。
反動もない分、効果もない。
外した。
一撃容易に当てられたはずなのに―
刹那。
拳が脇腹にめり込んだ。
「っぐぅ!!」
嫌な感覚、久しい熱。
吐き気に近いものを感じ、熱が鈍い痛みへと変換される。
それだけでは止まらない。
そのままぶつけられた拳の力は殺せず、そのままオレの体を突き飛ばした。
女性と思えないほどの力で大人の男性の体をだ。
まるでトラックに撥ねられたかのような感覚。
ワイヤーに釣られた鉄球を振るわれ、ぶつけられたかのような感触。
そのまま木の床に叩きつけられた体は反動で撥ねるようなことはしなかったが、脇腹を強く刺激した。
「ぐ、うぅぅ…っ」
集中するために整えていた呼吸が乱れる。
体中からぶわっと冷汗が流れる。
久しぶりの一撃に今更ながら恐怖する。
死ぬところだった。
先ほどの一撃を脇腹ではなく首や顔に貰っていたら、あるいは心臓部に貰っていたら。
今こうしてかろうじて立ててはいまい。
師匠を見た。
先ほどとなんら変わらない、異常なほどに濁った目でオレを見ている。
「…」
どうしてだろうか。
先ほど拳を振りぬけたというのに。
何をいまさら迷っているのだろうか。
別に、いつものことなのに。
こうなることは理解しているし、上手く師匠を止められた経験もある。
先ほどの技だって決めたことは数回あるというのに。
どうして今になって―

『君は…馬鹿だよ…っ』

―迷っているんだ。

「ぐっ…」
きりぎりと傷む脇腹を抑えて何とか拳を握った。
がくがくと震える足を抑えてどうにか立った。
そうして、構えた。
これからさらに襲いかかってくるだろう師匠に対して、防衛ではない、攻撃で撃ち迎えるために。
そうするとぞくりと背筋が凍えるように震えた。
「っ!」
今度はそのまま後ろに転がる。
一瞬遅れてオレの顔を打ち砕くように師匠のつま先が現れた。
後ろへ転がるオレに対しての追撃。
速い。
速いがゆえに、間に合わない。
転がっているがゆえに、避けられない。
すぐさま両手の平で抑え込むように受け止めるがそれすらも跳ね上げられる。
一瞬、体を引き寄せる重力が消えた。
刹那、オレの体は床に叩きつけられていた。
「ぐふっ!」
かろうじて受け身はとったものの脇腹に衝撃が響き、肺の中の空気が一気に吐き出された。
それでも呼吸を整えるだけの余裕があったのは不幸中の幸いか。
二三度大きく息を吐き、必要最低限の酸素を取り入れるとオレは師匠に背を向けて―

―逃げ出した。

みっともない姿。
情けない恰好。
目も当てられないこの行動。
それでもただ逃げているわけではなかった。
当然追ってきた師匠を背にオレは道場内にあった一つの窓に狙いを定める。
大きく、僅かだが開いている窓。
そこをめがけてオレは飛び上がった。
跳躍、ジャンプ。
脇腹が傷んだが今はそんなことを気にしていられる状況ではない。
足を僅かに開いた窓の隙間にかけ、もう一度跳躍する。
通常時、床からの時とは段違いの跳躍。
人間でありながらも人一人なら余裕で飛び越えられるほどのジャンプはオレの目論見通り師匠の後ろへと飛んだ。
それも空中で。
床よりも高いここでは当然落下する。
落下するのならばそれなりの力が生じる。
高校生ならだれでもわかる、高い分だけエネルギーが多くなるという物理のあれ。
この高さを利用しての攻撃だ。
師匠の肩を砕かせてもらう。
片方だけだとしても動きは制することができるし、両手で相手にするよりも楽になる。
しかし気の進むものではない。
自分から守ると決めた女性を傷つけなければいけないのだから。
「師匠、ごめんっ!!」
振り上げた踵を落下とともに師匠の肩に炸裂させた。
大の大人とはいかなくともそれなりの体重があり、それなりの力がある男の踵落とし。
それも空中からというのだからその一撃を食らえば誰だろうと無事で済まない。
食らえば、だ。

「っ!!」

踵から伝わってきたのは激痛だった。
肩を砕いた反動ではない、外して床に激突した衝撃でもない。
拳で撃ち抜かれた時の痛みだった。
「いづっ!!」
流石に踵ともなればたった一撃で砕かれるようなやわな骨ではない。
しかし空中で受けたことによって保っていたバランスはたやすく崩された。
着地する体勢が整えられず、そのまま床に頭をしたたかに打ち付ける。
それで終わらない。
転がったオレを前に今の師匠は容赦ができないのだから。
師匠の足がオレの腹を蹴り飛ばす。
「ぐぅっ!!」
蹴り飛ばすだけでは止まらない、込められた力によりオレの体はそのまま道場の床を何度も回転していく。
頭を打ち付けたことによるものか意識が朦朧としてきた。
やばい。
自覚はできても行動に移せない。
どうやら先ほど頭を打ち付けた時に少し脳が揺れてしまったらしい。
頭を振って何とか正常に戻そうと試みるもすぐさま妨げられた。
師匠の拳によって。
紙一重、危機一髪。
目の前に師匠の拳が突き刺さった。
「っ!」
あともう少しずれていたらオレの顔が潰れていたに違いないその一撃。
すぐさま体を起こし、飛び退いた。
「ふぅ…ふぅ…」
荒い息を少しずつ整え師匠の出方を探る。
こんな状態の師匠に出方も何もないのだが。
稽古の時のようではない、人の姿を模しただけの獣のような状態。
人というよりも化け物。
女性というよりも魔物。
そんな師匠に理性なんておろか、知性さえも見当たらない。
あるのは本能に近い衝動とでもいうところか。
「…」
何で、あるのだろうか。
まるで獣のように、いや、獣以上に厄介なこの衝動はどうして師匠に巣食うのか。
いまだにわからない。
わからないからこそ今まで悩み、止めてきた。
それでもどこか釈然としない。
それでも、そんなのでも。
今すべきは師匠を止めること。
最優先事項であり、最重要事項だ。
すぐさま拳を構えなおして師匠の方を見たら師匠は―

―いなかった。

「っ!」
違う、いなかったんじゃない。
すでにオレの視界から消えていた。
上にではなく、右にでもなく、左でもない。
それなら後ろ?いや、違った。

下。

それもオレの懐。

しまった!
すぐさま後ろに飛ぼうとするがそれよりも先に師匠の拳が振るわれる。
ぞくりと感じるこの嫌に冷たい恐怖。
一撃でも喰らおうものなら無事では済まない攻撃。
それに反応した体は、避けきれないと踏んだ身体は瞬時に行動を起こした。
もはや反射。
考える間もなく両手が拳を受け止めるために突き出された。
ばしんっとまるでハンマーを受け止めたかのような衝撃が走る。
しかしそれだけでは終わらない。
受け止めたのは片手であり、師匠の腕はまだもう一本あるのだから。
ぞくりと再び感じた嫌な寒気。
それが終わる前に体はまたもや反射で動いていた。
右から感じた寒気に首を左へ傾ける。

次の瞬間オレの目の前には赤い液体が舞っていた。

「っ!」
走るのは鋭い痛み。
骨折のような嫌な熱のあるそれではなくて、鈍い殴られたあれではない。
切り裂かれる痛み。
ほんの一瞬師匠の振るわれた手が見えた。
予想とは違う拳を握っていない手は指が隙間なく揃えられ、爪の先には部屋の光で輝く血が付着していた。
爪…っ!!
まるで刃によって裂かれた頬は師匠の爪に切られたもの。
あと一歩避けるのが遅く、首に食らっていようものなら…っ!
「っ!」
次いで同じく同じ手で爪がこちらを向いた。
すぐさま右足を後ろへ下げ、体は勢いよく捩じる。
刹那、空手着の脇腹部分が切り裂かれた。
まるでナイフや日本刀を一振りされたかのようだ。
当たる場所が場所なら一撃で命を刈り取られる。
ある意味先ほどの拳撃よりも恐ろしい。
出血を伴う傷には慣れていないというのだから。
次いで右から左に腕が薙がれる。
「っ!」
足を一歩下げて上体を反らしどうにか避けるもこの一撃だけでは済まない。
さらに左から一閃。
次いで上から一撃。
それから下から突き上げるように首を。
そして突き刺すように体へ。
あまりに鋭く、恐ろしく早く、目で追うことなんて困難な動き。
本来ならオレも追い付くことはできずされるがままずたぼろになっているはずだ。
師匠と稽古していなければ。
「く、ぐ、ぅっ!!」
オレはその攻撃を受けきり、受け流す。
右から、左から、上から、下から、完全に完璧に受けきらなければいけない。
一歩間違えれば死ぬのだから。
傍から見ればこの攻防を目でついていけないものだが正面で向き合って相手をするならできなくもない。
それが師匠との稽古の成果なんだから。
「はぁっ!」
師匠の両手を一気にはたき落とし、すぐさま距離を取るために後ろへ飛ぶ。
何度も距離を開けてきているが師匠との間を開けることはあまり意味がないもの。
それでも開けずにいられないのはオレがビビっているからであり、最低限体の状態を回復させたいからである。
滴る汗をそのままに、構えた拳を下ろさずに、荒い呼吸を整えながら師匠を見た。
師匠は―

「し、しょう…そんな、泣かないで下さいよ…」

―泣いていた。
表情を浮かべず、濁った瞳にオレを映し、何も言葉を発さずに、ただ涙を流していた。
ああ、それだ。その顔だ。
オレが一番見たくなかったものは。
それが見たくないからこそここまで体を張っているわけだし、師匠の傍に居るんだ。
それなのに泣かせるというのは何とも情けない。
だけど。
それでも。
まだ終わりじゃないっ!
揺れる視界を何とか保ち、震える体に喝を入れる。
力の入らない足を奮い立たせ、今にも消えそうな意識を覚醒させる。
まだ、終わらない。

「オレは、全然平気ですよ…っ!」

しかし口から出た言葉とは裏腹に体の方は限界が近い。
肋骨は何本も折られ、頭は何度も打ち付け、頬に至っては切り裂かれているのだから。
出血がある分血を失いすぎて意識を落としかねない。
そうなれば終わり。
もう二度と目を覚ますことはないだろう。
だから、おそらく…いや、確実に次が終わり。
次の一撃で決めないと、終わりだ。
文字通り、言葉通りに。
「…ふぅ」
そぅっとオレは小さく体の力を抜くために息を吐き出した。
決めるのはたった一撃。
それも意識を落とすためのではなくて体の動きを止めるためのもの。
先ほどの心臓を狙った一撃を打つにはもう体が十全ではなくなってしまった。
ゆえに頼るは徹底的な力、単純明快な暴力。
女性相手に使うべきではない、人間相手に用いるものではない技。
両手を師匠に向けて、わずかに腰を落とし、迎撃の体勢に入る。
もともとオレは攻撃するタイプではなく、カウンターや迎撃が得意な受け身のタイプ。
磨いてきたのはどんな一撃も受け止め、躱し、逸らす技術。
一撃、そう一撃受け終わればこちらにチャンスが来る。
あの状態の師匠の一撃を食らおうものなら再起不能間違いないだろうが、受けきればこちらのもの。
何が何でも受け止める。

そして、師匠を止める。

刹那、師匠の姿が一気に加速して空いていた距離が一瞬で詰められた。
途端に背筋に走る嫌な悪寒。体に伝わる死の気配。
恐怖であって、生物的本能、危険察知。
それはオレの右脇腹で炸裂した。
「っ!」
当然ただ無様に受けるわけがない。
一撃必殺といっても過言ではない拳を何もせずに眺め受け入れるわけではない。

オレは師匠の腕を掴んでいた。

服を握り、腕を絡め、足で踏ん張り、歯を食いしばって。
あまりの力に爪から血が滲んでも。
折れた肋骨が軋んで息をつく余裕もない痛みを感じようとも。
叩き落されそうな意識をかろうじて繋ぎ、踏みとどまる。
「ぐ、ぅぅ…っ」
唸り堪えようとも掴むべきものは掴んだ。
あとは、ここからだ!
掴んだ腕を抱き込み、引いた。
体全体を引くようなものではなく、腕のみ。
そして引いた腕は背に負うように、そのまま体全体を背でおぶるように。
それは師匠から教わった技ではない。
あやかが使う合気道の技でもない。
ただの見おう見まね。
受けた経験も、かけた経験さえもないもの。
だからただ我武者羅だった。
成功なんて考えていない。
技が決まるなんて思えない。
ただ師匠を引きずり倒せればいい。
師匠が床に伏せてくれさえすればいい。
ただ、それだけで放ったのは―



―昔に見た、お父さんの一本背負い。



「うらぁあっ!!」
そのまま師匠の体を床に叩きつける。
道場内に建物全体を震わせるような振動と音が響き、窓ガラスまでもが震えた。
だが逆に反動としてオレの体も震え、脇腹に痛みが走る。
完璧な一本背負いならここまで反動を返さないだろうし、これ以上の威力が出せることだろう。
やはり見たまま真似る、それもずっと昔、今までしたことのないものをしたんだ。
むしろ倒せたことが幸運だっただろう。



そして、その幸運がもう少し続けば…っ!


倒れこんだ師匠に起き上がる暇を与えることなく跨った。
重いとか、つらいとか、そんなことを考える余裕は欠片もない。
そのまま両手を握りしめて師匠を見据える。

「師匠―」

オレは拳を二つ、師匠の両肩にそれぞれ床に押し付けるように突き立てた。
隙間なんて存在しないこの距離で。
肩を打ち抜き、砕くために。
そうして脱力した体を、力を抜いた筋肉を躍動させる。
たった一瞬、瞬きをする間もないほどの刹那。
二か所で力が爆発した。


「―ごめんっ!!」


床が弾け飛んだ。
ばらばらと、がらがらと。
細かな木片はまるで花火のように撃ち広がり、ある程度上がったら今度は雨のように降り注いだ。
頭に、体に、足に、腕に、そのまま床に落ちていく。
そんな中で―




―オレの拳は床に突き刺さっていた。







―師匠の肩は傷一つついていなかった。







「…っ」
ああ、馬鹿だと思った。
外せばオレがやられるというのに、どうしてこういう大事なところで外すんだ。


―どうして撃つ前に師匠の顔を見ていたんだ。


何も表情を浮かべずに泣いている彼女の顔を目にしていたんだ。
そんなことをすれば決心も鈍るし、技の切れさえ悪くなる。
なる、のに…。

迷っていた。

師匠を傷つけることに。

躊躇っていた。

今まで何度もしてきたとはいえ、あのような不安な顔を浮かべていた師匠をさらに壊すことになるから。


二の足を踏み、結果失敗した。


結局、オレってやつは…肝心なところでダメだよな…。


ごずんっと体内に聞いたこともないような音が響いた。
「がっ!?」
肺の中の空気が一気に抜け出て嫌な熱がじんわりと広がり始める。
骨が折れる音は聞こえなかったがそれでも無事というわけでもないことはわかる。
それだけでは止まらない。
鈍い音は何度も腹から響き、三度目は音とともに体が無様に床を転がった。
何度も回転して、力なく止まる。
ちょうど師匠の方を向いて、その先に玄関が見える状態で。
オレに跨られていた師匠は幽鬼のように立ち上がった。
一歩一歩、ゆっくりとオレに近づいてくる。
顔は見えない。
もう首をあげる力さえ入らない。
それでもかろうじて見える床にはしたっと滴が何度も垂れ落ちた。
まだ泣いてるんだ…。
師匠は…意外と泣き虫だったりするんだよなぁ…。
本来そんなことを考えている余裕なんてあるはずがないのにそんなことばかり考えてしまう。
それはもうすぐ来る終わりを感じ取ってか、もう何もできないという無気力な諦めによるものか。
事実、足も腕も、指一本さえも動かせない。
構造上腕も足も十分動かせるはずだがやはり肋骨を何本も負ったことが原因だろう。
内臓がいくつか傷ついているかもしれない。
こんな状態では…さすがに無理か。
根性だろうと意地だろうと、無茶を通せないこともあるのだから。

それでも。

最後の最後では。


師匠に泣いていてほしくなかったな…。


薄れゆく意識の中でそんなことを考えて、オレは闇に落ちた。





落ちる寸前に窓ガラスを突き破る様な甲高い音が聞こえた気がしたが…きっと気の、せ…い………。
12/07/29 20:39更新 / ノワール・B・シュヴァルツ
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■作者メッセージ
ということで主人公VS師匠でした

師匠の悲しい顔を見ているからこそ、これ以上傷つけたくないと思ってしまった主人公
優しいからこそ鈍ってしまう決意…とでもいうのでしょうか


本来魔物として人を好んで傷つけるはずのない彼女がどうしてこんな風になってしまったのか…
それを知っているのは現代世界では一人だけ…います

そしてその原因も今回のルートで出そうと思います

そこにあるのは他人に語ることを憚れるような暗い過去…
主人公も知らない昔に何があったのか…

次回はお姉さんと主人公と、あのお方との話です!

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