もっと貴方をお・し・え・て♪
あたしがユウタを見つけて、宿屋をとって寝食を共にして数日がたったある日のこと。
ここ最近になってあたしの日常の一部となる大切な彼との時間を過ごしながらあたしはふと口にその言葉を出した。
「ユウタってどこから来たの?」
それは今までに何度も抱き、それでも聞かないようにしていたものだった。
ユウタから故郷の話を聞いたことはないが時折どこか遠くを眺める姿を見ることがよくあった。
例えば夜中、それも月が真上に昇る真夜中と言える時間帯。
一人でテラスにぽつんと立っていてずぅっと遠くを見つめていた。
ただ単に夜空に輝く月や星を見ているのではないと気づくのは分かりやすい表情をしてたっけ。
淡い光に照らされる姿は闇夜に同化してしまいそうなのに見とれてしまうものがあった。
だけど、不思議な雰囲気を醸し出す姿はそれ以上に遠いものに思えた。
どこか遠く、ずっと遠く。
黒髪黒目はジパング人の証といっても差し違いない。
でも魔物という概念の抜けていたユウタの故郷がジパングにあるとは思えなかった。
それはまるであたしの手では絶対に届かない所にあるように。
色々な海を駆けずり回るセリーヌでも行ったことがないような所にあるかのように。
「うん?…そうだな」
別段気にかけた様子を見せないユウタだったがそれでもあたしにはわかった。
その瞳の奥に宿した光は顔に浮かべた表情とは違うものを感じさせる。
故居を想う、懐郷の念。
「黒髪って言えば…やっぱり東だな」
「東ってジパング?」
「ジパング、か…そうだな、ジパングからちょっと来た」
その言葉はわかりやすい嘘だった。
表面を誤魔化し偽っただけのただの言葉。
嘘をついたのは故郷のことを思い出したくないからか、それともあたしに変に心配かけたくないからか。
普段から何かしら笑みに近いものを浮かべているユウタはいつもと同じように笑いながらそう言う。
だけど一瞬、ほんの刹那、ユウタの顔が曇ったことは見逃さなかった。
触れて欲しくない部分に関わることはいけないけれど、それでも知りたいと思ってしまうなんてダメね。
気になってしょうがないとはいえ、それがユウタにいい思いをさせないというのはこちらも良しとはいえない。
でもやっぱり知りたいものは知りたい。
ユウタの故郷は?
好みは?
ユウタの家族は?
性癖は?
ユウタの大切な人は?
フェチは?
―ユウタの恋人は?
思えばわからないことだらけ。
そりゃ共に過ごしたといってもその時間は数日、長いあいだ付き合った恋人なわけでもないから細かなところまでわかるわけもない。
だからこそ知りたいし、理解したいのに…。
聞けば聞くほど遠くへ言ってしまう気がする。
―あたしだけの、王子様は…。
そう考えていたとき、急にドアの方から物音がした。
もう誰だかなんて確認するまでもない控えめなノック。
「お、来たか」
ユウタもその音が誰が来たものか理解したように椅子から立ち上がり、ドアの前へと歩いていく。
「どうぞー」
そんな声と共にゆっくりとドアをあけた先にいたのはやっぱりというか、なんというか、セリーヌの姿だった。
「こんばんは、ユウタさん」
そこには以前と変わらず、それでも嬉しそうな表情を隠さずに水路からユウタを見上げていた。
頬を染めながら両手を背に隠す姿はまるでこれから意中の男性へ告白する乙女の姿。
でもセリーヌのことだからきっと何かを隠してることだろう。
今までだって彼女がここに訪れるたびに手にしてくるものがあったのだから。
美味しいお菓子やちょっとした果実水。
お話をする際にぴったりのおしゃれなものを。
だけど、セリーヌのことだからそれらが安全とは言い切れないわね。
例えば、媚薬入りのお菓子とかちゃっかり持ってきそうなんだもの…。
「実はこのようなものを頂いたんです」
そう言ってセリーヌが背に隠すようにしていたものをあたしたちの目の前に出した。
それは想いを綴った手紙でなければ、怪しさを隠した媚薬入りお菓子でも無かった。
「あら、ワインかしら?」
透き通ったガラスで形作られたそれの中には真っ赤な液体がゆったり波をうっている。
ラベルを貼り、小さく描かれているのはそれが作られた年と場所。
それはどう見ようとも立派なワインにしか見えなかった。
「ユウタさんもご一緒にどうですか?」
「そうね、ユウタ」
「ああ…あー…うん、その…」
セリーヌとあたしの声にユウタは気まずそうな声をあげた。
がしがしと頭を掻きながら視線を彷徨わせているのだけど…どうしたのかしら?
「…もしかしてお酒ダメなんですか?」
「実は…まぁ、そう。飲めなくもないけど二十歳になるまで飲まないって決めてるからさ」
「あらぁ」
それは残念ね。
お酒は苦手な人だっているくらいだしユウタはその一人だったのだろう。
…酔ったらどうなるのか見たかったのに。
真面目で淑女なセリーヌは酔ったらそりゃもうエロエロになるっていうに。
猥談をしつつも紳士ぶるユウタだからこそ酔ったときは恐ろしいことになりそうで是非とも見てみたかったわ。
流石に禁酒している人に勧めるのはいただけないし、あたしだって迷惑になることはしたくない。
残念だけど酒盛りはやめておきましょうか。
そう思ってセリーヌに視線を移すと―
「…」
明らかに残念な顔をしていた。
それもいつの間にか飲むことを承諾すると確信してかワイングラスを三つ持ったままで。
まるでおもちゃを取り上げられた子供のように残念な顔を浮かべながら。
何を考えていたのか、どうするつもりだったのかわかりやすい。
おおかた酔わせた勢いでそのまま情事に誘い込むつもりだったのね。
お酒は百薬の長というけど、同じく酒は媚薬の長とも言うし。
でもあたしはそんな外道な真似はしないんだからっ!
そりゃ…大胆になったユウタは見てみたいと思うけど…。
「それは…ざ、残念です…」
そう言ってしょんぼりするセリーヌは誰がみても慰めたくなるほどの落ち込み姿。
ユウタも例外ではなく申し訳なさそうな表情を浮かべながらセリーヌの手を取った。
そうっと、優しく包み込むように。
それはさながらお姫様の手を取る王子様のように…。
「あー、その…オレはワインは飲めませんけどそれでも代わりのものがありますからせっかく用意してくれたんですから乾杯だけでもしましょうよ。確かここに…」
そう言って部屋の隅の小箱、内部に冷却魔法の掛かった木製の小型冷蔵庫。
中にあるのは果実水の入った瓶が一つ。
お酒の飲めない人も子供用の飲み物としても人気があるものであり、その種類は様々なものがある。
オレンジはいわずもがな、りんご、いちご、メロンなど。
そして、その冷蔵庫の中にあるのは―
―ぶどう。
どうしてかしら、色はワインによく似てるのだけど?
どうしてかしら、それは最初からこの部屋には用意されてるはずのないものだったはずなんだけど。
どうしてかしら―
―それってこの前セリーヌが持ち込んできたやつじゃなかったかしら?
もしそうだとしたら…セリーヌのやろうとしていることはなんとも予想しやすいこと。
ぶどうの果実水とワインって見た目同じだから注がれたグラスを替えてもわからないものねー。
ユウタはセリーヌの体をお姫様のように抱き上げ以前とは違いちゃんと用意していたもうひとつの椅子に座らせる。
セリーヌは恥ずかしげに小さな声でお礼を言うとユウタは微笑み、いつの間にか手に果実水の入った透明なボトルを見せるように揺らした。
とんっとテーブルの上にそれをおき、ワイングラスを手渡されてコルクを抜く。
「エレーヌはワイン、行けるのか?」
「ええ、全然平気よ」
「大人なんだな」
本当は嘘だけど。
あたしだって酔うとただじゃ済まないことになることをセリーヌから聞いている。
でもせっかく用意してくれたものを頂かないのも失礼になる。
それに、セリーヌが酔ったら確実にユウタへ大胆なことをするに違いない。
それを阻止するために、あわよくばあたしがそれを頂くために、同じ状態になってあげようじゃないの。えっへっへ〜♪
ムードも大切だけど、やっぱり目前にあるチャンスはちゃんと物にしないとね!
ユウタはワインをあたしとセリーヌのグラスに順番に注いでいく。
姿勢を崩さず上品に、そしてどこか優雅に注ぐその姿は黒一色の服装も相まって高級レストランで働く一流のソムリエの姿を連想させた。
…なんていうか、手馴れてるわね。
「もしかしてユウタって以前はレストランで働いてたりしたの?」
「?違うけど」
「あら?それじゃあソムリエだったの?」
「高校生がソムリエなんてなれるわけないって」
「?…それにしちゃ手馴れてるのね」
「…近いことさせられてたからな」
「?」
どこか遠い目をしてかつての過去を思い出すのかと思ったら目頭抑えてうつむいちゃった。
…あまり思い出したくないことなのかしらね。
何があったのか聞いてみたいけどやはり辛い思いはさせられない。
ユウタはワインを注ぎ終え、自分のグラスに果実水の入ったボトルを傾けた。
音も立てずに流れ出すその色は赤。
夜の闇に包まれた中ではどちらがワインで果実水か見分けがつかない。
…これならあたしが取り替えることもできるわね…。
そうしてあたしとセリーヌはワインの入ったグラスを、ユウタは果実水の入ったグラスを掲げる。
「「「乾杯」」」
淡く照らし出す月明かりの下であたしたちはグラスを重ねた。
「…で、その男性とマーメイドの方がご結婚なされたんですよ」
「へぇ、マーメイドの恋話っていうとやっぱりロマンチックなもんが多いですよね」
「本当、素敵よね。あたしもそんな恋したいな〜」
「それは無理かと…」
「無理じゃね?」
「ひどっ!何よ!二人揃ってそんなこというの!?」
「いやぁ、まぁ…あれだからな」
「あ、ユウタさん、果実水どうぞ」
「おっとどうも…ってそれはワインですよ」
「あ………そうですね」
「こう暗いと見分けがつきにくいですね」
「ほ、本当ですね…」
「…」
「エレーヌ、何さりげなくオレのグラスとってんだよ」
「ちっ」
「なんだその舌打ち…」
「だってねぇ、そんなんじゃいけないじゃないのぉ…うぅ、ひっぐ……」
「ああ…えっ?ちょっとエレーヌ、そんな泣かなくても」
「これが泣かずにいられるわけないじゃないのっ!…ぐすん…」
「えっと…セリーヌさん、ちょっと助けてもらえませんかね?」
「ユウタさぁん♪」
「…あれ?セリーヌさん?…どうしたんですか?」
「んふぇへへ〜♪」
「え?あれ?誰?」
「ん〜♪ユウタさんの体、硬くってぇ素敵ですぅ♪」
「…」
「ちょっと!ユウタ!聞いてるの!?」
「…」
「ふえぇぇぇんっ!!」
「っ!おい!!エレーヌ!お前オレのどこに顔擦り付けてんだよ!!」
「えへへ〜♪ユウタさんのここ、硬ぁい♪」
「セリーヌさん!!どこ触ってるんですか!?」
「うわぁぁああああ!!」
「んふふ〜♪」
月が真上から傾き始めた頃、あたしの意識は正気に戻っていた。
戻ってその場を見渡す。
そこは変わらない二人部屋のテラスがあるはずだった。
だがそこにあったのはテーブルにいくつものワインボトルが転がっている。
グラスからはこぼれ落ちた赤い液体が床に滴り、暗い夜の中ではまるで血だまりのように見えて恐ろしい。
だが気にかかるのはそこじゃない。
セリーヌは?
この惨劇の原因であり、主犯格の彼女の姿が見えない。
あの娘のことだ、酔った姿で外へいくとは考えられない。
むしろ酔ってるからこそ積極的に襲いかかりに行くはずだ。
あたしはテラスから部屋の中を見渡した。
「よぅ、起きたか?」
部屋のベッドの傍、明かりもつけずに暗闇と同化しそうなユウタがひっそりと立っていた。
どうして顔が疲れたようにげんなりしている。
何かあったのかしら?
「ユウタ、どうしたの?すごい疲れたみたいな顔だけど」
「…二人ともこれから酒飲むとき注意してくれよ」
「…?わかったけど、セリーヌは?」
「…ここ」
ユウタが指差したのはこの部屋にある二人用のベッド。
本来二人が寝るためのものなのだがそこで寝ているのはあたしだけ、ユウタは一人ソファで眠っているから実質あたししか使ってない。
そこでセリーヌは横になって眠っていた。
「んふふぇ〜♪ユウタさぁ〜ん♪」
鼻にかかった甘ったるい声は同性のあたしでさえも聞いただけでくらっと来るものがある魅惑のねだり声。
しかしそこに意識はなく彼女はベッドに置かれた枕を誰かさんに見立てて頬擦りしていた。
ちゃっかり手が愛撫をするかのようにいやらしい軌道を描いている。
それはもうそこに一人の男性がいるかのように…。
「…セリーヌ」
「寝ぼけてるな」
「…セリーヌの手、やらしい」
「寝相悪いんだろ、きっと」
「…」
甘えた声を上げながら体をベッドに押し付け擦るセリーヌの隣にユウタは腰掛ける。
特に反応を示さない眠ったままのセリーヌの頬をそのまま撫でた。
「シー・ビショップっていうんだから…疲れてたんだろうな」
以前シー・ビショップのしていることをセリーヌから聞いたユウタはとても感心していたんだっけ。
海の魔物と人をつなぐために世界中の海を駆けずり回る。
それをユウタは興味深く聞きながら褒めていた。
それに対してあたしはどうだろう。
セリーヌのように人助けをしているわけじゃない、一人のメロウ。
できることなんて恋の話や猥談ぐらい。
ユウタはあたしとセリーヌを比べはしないだろうけど、それでも劣等感を抱いてしまう。
「ユウタ、さぁ〜ん…んみゅ♪」
「はは、子供みたい」
まるで自分の子供にやるかのように、まるで愛しい恋人にするかのように。
そっとセリーヌの頬を撫でるユウタの顔は手のかかる子供をようやく寝かせたかのような疲れを見せるが、優しげであり、慈愛にみち溢れる暖かな笑みだった。
あたしはその笑みを初めて見た。
あたしには向けられたことのない笑みだった。
二人の姿を、ユウタの笑みを見て、また胸が痛む。
そういえばユウタは以前あたしとの猥談をした時に言ってたっけ。
―純情なのがいいって。
それはきっと…いや、絶対にユウタの好みのことだろう。
純粋で、女性らしい娘がタイプなのだろう。
―あたしはその言葉からしてみればほど遠い。
自覚はある。
だって仕方ないじゃない。
恋の話が好きだから、猥談が好きだから、男の人が好きだから。
エッチで、スケベで、メロウなんだもの。
でもそれはユウタのいう好みにはほど遠いものであって…。
その好みに一番近いのはシー・ビショップのセリーヌ。
策士であってもその根本は純粋な乙女。
淑女らしくて恥じらい合って、優しくて可愛らしい。
それはきっとユウタの好みど真ん中な女の子。
あたしと違って、ユウタの好きなタイプなんだろう。
だからあんな笑みを浮かべてるし、あたしとはどこか違う扱いをするんだ。
―やっぱりユウタは…セリーヌのことが、好きなんだ…。
胸が痛い。
内側からちくちくと刺されるように痛い。
奥からじくじくと疼くように痛い。
底からズキズキと傷のように痛い。
…痛い。
それと同時に湧き上がる筆舌し難い苦い感情。
口から漏れ出しそうになる言葉を唇を噛んでなんとか押さえ込む。
押さえ込んで、それで…。
「…エレーヌ?」
ユウタがあたしを呼んだ。
その優しさあふれる声であたしの名前を呼ばれることは嬉しかった。
そうやって呼んでくれた男性は今までいなかったから、とても嬉しかった。
なのに、どうしてかな…。
今は、すごく辛い。
あたしがもっと女の子らしかったら変わっていただろうか。
ユウタにもっとお淑やかに接せていたら変わっていただろうか。
ユウタの好みの女性だったら変わっていただろうか。
―ユウタがあたしとキスをしていたことを覚えていたならもう少し変わっていただろうか。
そこまで考えて、限界だった。
ぼろぼろと目から何かがこぼれ落ちる。
それが涙だと気づく前にあたしはユウタから逃げ出すように飛び出した。
「エレーヌ!?」
「ごめんなさいっ」
何に対してユウタに謝ったのかはわからない。
わからないけど、分かりたくもなかった。
あたしはそのまま水路へ飛び込み、水しぶきを散らしながらも脱兎のごとく泳いでそこから逃げ出した。
今は一瞬でもユウタと二人で一緒に居たくなかったから。
不思議ね、あれほど一緒にいたいと思ってたのに…。
それなのに体は勝手に動き、鰭を動かし水路を突き進む。
どこへ行こうか考えず、ただ離れることしか考えられない。
ずっと、ずっと遠くへ。
ユウタから離れるために…。
ここ最近になってあたしの日常の一部となる大切な彼との時間を過ごしながらあたしはふと口にその言葉を出した。
「ユウタってどこから来たの?」
それは今までに何度も抱き、それでも聞かないようにしていたものだった。
ユウタから故郷の話を聞いたことはないが時折どこか遠くを眺める姿を見ることがよくあった。
例えば夜中、それも月が真上に昇る真夜中と言える時間帯。
一人でテラスにぽつんと立っていてずぅっと遠くを見つめていた。
ただ単に夜空に輝く月や星を見ているのではないと気づくのは分かりやすい表情をしてたっけ。
淡い光に照らされる姿は闇夜に同化してしまいそうなのに見とれてしまうものがあった。
だけど、不思議な雰囲気を醸し出す姿はそれ以上に遠いものに思えた。
どこか遠く、ずっと遠く。
黒髪黒目はジパング人の証といっても差し違いない。
でも魔物という概念の抜けていたユウタの故郷がジパングにあるとは思えなかった。
それはまるであたしの手では絶対に届かない所にあるように。
色々な海を駆けずり回るセリーヌでも行ったことがないような所にあるかのように。
「うん?…そうだな」
別段気にかけた様子を見せないユウタだったがそれでもあたしにはわかった。
その瞳の奥に宿した光は顔に浮かべた表情とは違うものを感じさせる。
故居を想う、懐郷の念。
「黒髪って言えば…やっぱり東だな」
「東ってジパング?」
「ジパング、か…そうだな、ジパングからちょっと来た」
その言葉はわかりやすい嘘だった。
表面を誤魔化し偽っただけのただの言葉。
嘘をついたのは故郷のことを思い出したくないからか、それともあたしに変に心配かけたくないからか。
普段から何かしら笑みに近いものを浮かべているユウタはいつもと同じように笑いながらそう言う。
だけど一瞬、ほんの刹那、ユウタの顔が曇ったことは見逃さなかった。
触れて欲しくない部分に関わることはいけないけれど、それでも知りたいと思ってしまうなんてダメね。
気になってしょうがないとはいえ、それがユウタにいい思いをさせないというのはこちらも良しとはいえない。
でもやっぱり知りたいものは知りたい。
ユウタの故郷は?
好みは?
ユウタの家族は?
性癖は?
ユウタの大切な人は?
フェチは?
―ユウタの恋人は?
思えばわからないことだらけ。
そりゃ共に過ごしたといってもその時間は数日、長いあいだ付き合った恋人なわけでもないから細かなところまでわかるわけもない。
だからこそ知りたいし、理解したいのに…。
聞けば聞くほど遠くへ言ってしまう気がする。
―あたしだけの、王子様は…。
そう考えていたとき、急にドアの方から物音がした。
もう誰だかなんて確認するまでもない控えめなノック。
「お、来たか」
ユウタもその音が誰が来たものか理解したように椅子から立ち上がり、ドアの前へと歩いていく。
「どうぞー」
そんな声と共にゆっくりとドアをあけた先にいたのはやっぱりというか、なんというか、セリーヌの姿だった。
「こんばんは、ユウタさん」
そこには以前と変わらず、それでも嬉しそうな表情を隠さずに水路からユウタを見上げていた。
頬を染めながら両手を背に隠す姿はまるでこれから意中の男性へ告白する乙女の姿。
でもセリーヌのことだからきっと何かを隠してることだろう。
今までだって彼女がここに訪れるたびに手にしてくるものがあったのだから。
美味しいお菓子やちょっとした果実水。
お話をする際にぴったりのおしゃれなものを。
だけど、セリーヌのことだからそれらが安全とは言い切れないわね。
例えば、媚薬入りのお菓子とかちゃっかり持ってきそうなんだもの…。
「実はこのようなものを頂いたんです」
そう言ってセリーヌが背に隠すようにしていたものをあたしたちの目の前に出した。
それは想いを綴った手紙でなければ、怪しさを隠した媚薬入りお菓子でも無かった。
「あら、ワインかしら?」
透き通ったガラスで形作られたそれの中には真っ赤な液体がゆったり波をうっている。
ラベルを貼り、小さく描かれているのはそれが作られた年と場所。
それはどう見ようとも立派なワインにしか見えなかった。
「ユウタさんもご一緒にどうですか?」
「そうね、ユウタ」
「ああ…あー…うん、その…」
セリーヌとあたしの声にユウタは気まずそうな声をあげた。
がしがしと頭を掻きながら視線を彷徨わせているのだけど…どうしたのかしら?
「…もしかしてお酒ダメなんですか?」
「実は…まぁ、そう。飲めなくもないけど二十歳になるまで飲まないって決めてるからさ」
「あらぁ」
それは残念ね。
お酒は苦手な人だっているくらいだしユウタはその一人だったのだろう。
…酔ったらどうなるのか見たかったのに。
真面目で淑女なセリーヌは酔ったらそりゃもうエロエロになるっていうに。
猥談をしつつも紳士ぶるユウタだからこそ酔ったときは恐ろしいことになりそうで是非とも見てみたかったわ。
流石に禁酒している人に勧めるのはいただけないし、あたしだって迷惑になることはしたくない。
残念だけど酒盛りはやめておきましょうか。
そう思ってセリーヌに視線を移すと―
「…」
明らかに残念な顔をしていた。
それもいつの間にか飲むことを承諾すると確信してかワイングラスを三つ持ったままで。
まるでおもちゃを取り上げられた子供のように残念な顔を浮かべながら。
何を考えていたのか、どうするつもりだったのかわかりやすい。
おおかた酔わせた勢いでそのまま情事に誘い込むつもりだったのね。
お酒は百薬の長というけど、同じく酒は媚薬の長とも言うし。
でもあたしはそんな外道な真似はしないんだからっ!
そりゃ…大胆になったユウタは見てみたいと思うけど…。
「それは…ざ、残念です…」
そう言ってしょんぼりするセリーヌは誰がみても慰めたくなるほどの落ち込み姿。
ユウタも例外ではなく申し訳なさそうな表情を浮かべながらセリーヌの手を取った。
そうっと、優しく包み込むように。
それはさながらお姫様の手を取る王子様のように…。
「あー、その…オレはワインは飲めませんけどそれでも代わりのものがありますからせっかく用意してくれたんですから乾杯だけでもしましょうよ。確かここに…」
そう言って部屋の隅の小箱、内部に冷却魔法の掛かった木製の小型冷蔵庫。
中にあるのは果実水の入った瓶が一つ。
お酒の飲めない人も子供用の飲み物としても人気があるものであり、その種類は様々なものがある。
オレンジはいわずもがな、りんご、いちご、メロンなど。
そして、その冷蔵庫の中にあるのは―
―ぶどう。
どうしてかしら、色はワインによく似てるのだけど?
どうしてかしら、それは最初からこの部屋には用意されてるはずのないものだったはずなんだけど。
どうしてかしら―
―それってこの前セリーヌが持ち込んできたやつじゃなかったかしら?
もしそうだとしたら…セリーヌのやろうとしていることはなんとも予想しやすいこと。
ぶどうの果実水とワインって見た目同じだから注がれたグラスを替えてもわからないものねー。
ユウタはセリーヌの体をお姫様のように抱き上げ以前とは違いちゃんと用意していたもうひとつの椅子に座らせる。
セリーヌは恥ずかしげに小さな声でお礼を言うとユウタは微笑み、いつの間にか手に果実水の入った透明なボトルを見せるように揺らした。
とんっとテーブルの上にそれをおき、ワイングラスを手渡されてコルクを抜く。
「エレーヌはワイン、行けるのか?」
「ええ、全然平気よ」
「大人なんだな」
本当は嘘だけど。
あたしだって酔うとただじゃ済まないことになることをセリーヌから聞いている。
でもせっかく用意してくれたものを頂かないのも失礼になる。
それに、セリーヌが酔ったら確実にユウタへ大胆なことをするに違いない。
それを阻止するために、あわよくばあたしがそれを頂くために、同じ状態になってあげようじゃないの。えっへっへ〜♪
ムードも大切だけど、やっぱり目前にあるチャンスはちゃんと物にしないとね!
ユウタはワインをあたしとセリーヌのグラスに順番に注いでいく。
姿勢を崩さず上品に、そしてどこか優雅に注ぐその姿は黒一色の服装も相まって高級レストランで働く一流のソムリエの姿を連想させた。
…なんていうか、手馴れてるわね。
「もしかしてユウタって以前はレストランで働いてたりしたの?」
「?違うけど」
「あら?それじゃあソムリエだったの?」
「高校生がソムリエなんてなれるわけないって」
「?…それにしちゃ手馴れてるのね」
「…近いことさせられてたからな」
「?」
どこか遠い目をしてかつての過去を思い出すのかと思ったら目頭抑えてうつむいちゃった。
…あまり思い出したくないことなのかしらね。
何があったのか聞いてみたいけどやはり辛い思いはさせられない。
ユウタはワインを注ぎ終え、自分のグラスに果実水の入ったボトルを傾けた。
音も立てずに流れ出すその色は赤。
夜の闇に包まれた中ではどちらがワインで果実水か見分けがつかない。
…これならあたしが取り替えることもできるわね…。
そうしてあたしとセリーヌはワインの入ったグラスを、ユウタは果実水の入ったグラスを掲げる。
「「「乾杯」」」
淡く照らし出す月明かりの下であたしたちはグラスを重ねた。
「…で、その男性とマーメイドの方がご結婚なされたんですよ」
「へぇ、マーメイドの恋話っていうとやっぱりロマンチックなもんが多いですよね」
「本当、素敵よね。あたしもそんな恋したいな〜」
「それは無理かと…」
「無理じゃね?」
「ひどっ!何よ!二人揃ってそんなこというの!?」
「いやぁ、まぁ…あれだからな」
「あ、ユウタさん、果実水どうぞ」
「おっとどうも…ってそれはワインですよ」
「あ………そうですね」
「こう暗いと見分けがつきにくいですね」
「ほ、本当ですね…」
「…」
「エレーヌ、何さりげなくオレのグラスとってんだよ」
「ちっ」
「なんだその舌打ち…」
「だってねぇ、そんなんじゃいけないじゃないのぉ…うぅ、ひっぐ……」
「ああ…えっ?ちょっとエレーヌ、そんな泣かなくても」
「これが泣かずにいられるわけないじゃないのっ!…ぐすん…」
「えっと…セリーヌさん、ちょっと助けてもらえませんかね?」
「ユウタさぁん♪」
「…あれ?セリーヌさん?…どうしたんですか?」
「んふぇへへ〜♪」
「え?あれ?誰?」
「ん〜♪ユウタさんの体、硬くってぇ素敵ですぅ♪」
「…」
「ちょっと!ユウタ!聞いてるの!?」
「…」
「ふえぇぇぇんっ!!」
「っ!おい!!エレーヌ!お前オレのどこに顔擦り付けてんだよ!!」
「えへへ〜♪ユウタさんのここ、硬ぁい♪」
「セリーヌさん!!どこ触ってるんですか!?」
「うわぁぁああああ!!」
「んふふ〜♪」
月が真上から傾き始めた頃、あたしの意識は正気に戻っていた。
戻ってその場を見渡す。
そこは変わらない二人部屋のテラスがあるはずだった。
だがそこにあったのはテーブルにいくつものワインボトルが転がっている。
グラスからはこぼれ落ちた赤い液体が床に滴り、暗い夜の中ではまるで血だまりのように見えて恐ろしい。
だが気にかかるのはそこじゃない。
セリーヌは?
この惨劇の原因であり、主犯格の彼女の姿が見えない。
あの娘のことだ、酔った姿で外へいくとは考えられない。
むしろ酔ってるからこそ積極的に襲いかかりに行くはずだ。
あたしはテラスから部屋の中を見渡した。
「よぅ、起きたか?」
部屋のベッドの傍、明かりもつけずに暗闇と同化しそうなユウタがひっそりと立っていた。
どうして顔が疲れたようにげんなりしている。
何かあったのかしら?
「ユウタ、どうしたの?すごい疲れたみたいな顔だけど」
「…二人ともこれから酒飲むとき注意してくれよ」
「…?わかったけど、セリーヌは?」
「…ここ」
ユウタが指差したのはこの部屋にある二人用のベッド。
本来二人が寝るためのものなのだがそこで寝ているのはあたしだけ、ユウタは一人ソファで眠っているから実質あたししか使ってない。
そこでセリーヌは横になって眠っていた。
「んふふぇ〜♪ユウタさぁ〜ん♪」
鼻にかかった甘ったるい声は同性のあたしでさえも聞いただけでくらっと来るものがある魅惑のねだり声。
しかしそこに意識はなく彼女はベッドに置かれた枕を誰かさんに見立てて頬擦りしていた。
ちゃっかり手が愛撫をするかのようにいやらしい軌道を描いている。
それはもうそこに一人の男性がいるかのように…。
「…セリーヌ」
「寝ぼけてるな」
「…セリーヌの手、やらしい」
「寝相悪いんだろ、きっと」
「…」
甘えた声を上げながら体をベッドに押し付け擦るセリーヌの隣にユウタは腰掛ける。
特に反応を示さない眠ったままのセリーヌの頬をそのまま撫でた。
「シー・ビショップっていうんだから…疲れてたんだろうな」
以前シー・ビショップのしていることをセリーヌから聞いたユウタはとても感心していたんだっけ。
海の魔物と人をつなぐために世界中の海を駆けずり回る。
それをユウタは興味深く聞きながら褒めていた。
それに対してあたしはどうだろう。
セリーヌのように人助けをしているわけじゃない、一人のメロウ。
できることなんて恋の話や猥談ぐらい。
ユウタはあたしとセリーヌを比べはしないだろうけど、それでも劣等感を抱いてしまう。
「ユウタ、さぁ〜ん…んみゅ♪」
「はは、子供みたい」
まるで自分の子供にやるかのように、まるで愛しい恋人にするかのように。
そっとセリーヌの頬を撫でるユウタの顔は手のかかる子供をようやく寝かせたかのような疲れを見せるが、優しげであり、慈愛にみち溢れる暖かな笑みだった。
あたしはその笑みを初めて見た。
あたしには向けられたことのない笑みだった。
二人の姿を、ユウタの笑みを見て、また胸が痛む。
そういえばユウタは以前あたしとの猥談をした時に言ってたっけ。
―純情なのがいいって。
それはきっと…いや、絶対にユウタの好みのことだろう。
純粋で、女性らしい娘がタイプなのだろう。
―あたしはその言葉からしてみればほど遠い。
自覚はある。
だって仕方ないじゃない。
恋の話が好きだから、猥談が好きだから、男の人が好きだから。
エッチで、スケベで、メロウなんだもの。
でもそれはユウタのいう好みにはほど遠いものであって…。
その好みに一番近いのはシー・ビショップのセリーヌ。
策士であってもその根本は純粋な乙女。
淑女らしくて恥じらい合って、優しくて可愛らしい。
それはきっとユウタの好みど真ん中な女の子。
あたしと違って、ユウタの好きなタイプなんだろう。
だからあんな笑みを浮かべてるし、あたしとはどこか違う扱いをするんだ。
―やっぱりユウタは…セリーヌのことが、好きなんだ…。
胸が痛い。
内側からちくちくと刺されるように痛い。
奥からじくじくと疼くように痛い。
底からズキズキと傷のように痛い。
…痛い。
それと同時に湧き上がる筆舌し難い苦い感情。
口から漏れ出しそうになる言葉を唇を噛んでなんとか押さえ込む。
押さえ込んで、それで…。
「…エレーヌ?」
ユウタがあたしを呼んだ。
その優しさあふれる声であたしの名前を呼ばれることは嬉しかった。
そうやって呼んでくれた男性は今までいなかったから、とても嬉しかった。
なのに、どうしてかな…。
今は、すごく辛い。
あたしがもっと女の子らしかったら変わっていただろうか。
ユウタにもっとお淑やかに接せていたら変わっていただろうか。
ユウタの好みの女性だったら変わっていただろうか。
―ユウタがあたしとキスをしていたことを覚えていたならもう少し変わっていただろうか。
そこまで考えて、限界だった。
ぼろぼろと目から何かがこぼれ落ちる。
それが涙だと気づく前にあたしはユウタから逃げ出すように飛び出した。
「エレーヌ!?」
「ごめんなさいっ」
何に対してユウタに謝ったのかはわからない。
わからないけど、分かりたくもなかった。
あたしはそのまま水路へ飛び込み、水しぶきを散らしながらも脱兎のごとく泳いでそこから逃げ出した。
今は一瞬でもユウタと二人で一緒に居たくなかったから。
不思議ね、あれほど一緒にいたいと思ってたのに…。
それなのに体は勝手に動き、鰭を動かし水路を突き進む。
どこへ行こうか考えず、ただ離れることしか考えられない。
ずっと、ずっと遠くへ。
ユウタから離れるために…。
12/06/10 20:12更新 / ノワール・B・シュヴァルツ
戻る
次へ