辻斬り千春
買い物に出ていたお華は普段見ることのない光景を見ている。いつもであれば、人通りこそそれなりの通りに人だかりが出来ている。その中心には立看板があるらしく、皆、それを見ながらやいのやいのと騒いでいる。お華は立看板の内容が気になったが、いかんせん人だかりのため見ることは叶わなかった。どうにか隙間からでも見れないものかとうろちょろしているお華であったが、それもいかんともし難い。特別気にかけるような内容なら、後でも分かるだろうと考えて人だかりから離れたお華に男が声をかけた。
「お、先生の奥さんじゃないですか」
「あら、こんにちは」
この男は弥彦の剣術道場に通っている一人である。
「奥さん、先生は問題ないと思いますが奥さんは気をつけてくださいよ?」
男は立看板の方に向き、指差しなから言った。
「いえ、あの立看板の内容は存じていないのですよ」
「そうなんですかい。これは失礼。で、立看板にはですね…」
「辻斬りか…」
弥彦は夕飯を食べながらお華の話を聞いていた。
夕飯は深川めし、蛸と若布の酢の物である。深川めしとは、だし汁に味噌、醤油、酒、生姜を加えて味を調えたものへ浅蜊や青柳といった貝類、葱等の野菜を入れて煮立て、これを飯にぶっかけた物である。米と一緒に炊き込んだ物も深川めしと呼ばれているが、飯に貝と野菜、煮汁を掛けた物の方が主流と言えようか。
貝の旨味と野菜の甘味が味噌仕立ての汁に溶け込んでいるため飯に良く合い、ぶっかけ飯であるためさらさらと食べられる。
「そうなのでございます…弥彦様、その様に急いで食べるとお腹に悪いですよ」
「旨いのだから仕方があるまい」
「まったく、もう…」
緊張感の足りない弥彦に少し呆れたお華だったが、旨そうに深川めしを掻き込む弥彦を見ると嬉しそうに微笑んだ。そして、空になった二人分の食器を片付けると弥彦が茶を入れて待っている卓に着いた。
「さて、話の続きを聞こう」
弥彦は茶を一口啜るとお華に話を促した。先程とは違い、一言一句聞き漏らすまいとする姿勢が見てとれる、
「はい。なんでも、寄越してきた刀を受け取ると問答無用で斬りかかってくるという話で、ちょっとした騒ぎになっております」
「ふむ…随分と変わった辻斬りだ。それで、襲われた人は?」
「なんでも、斬られたはずが傷一つ無いのだとか…おそらくは魔界の金属で出来た刀なのでしょう」
お華はそう話したが、弥彦の脳裏には一人の女の姿が浮かんだ。それは、かつて弥彦と相対した女剣客であった。だが、確証を得ない考えのため、ついぞ言い出すことはなかった。
「お華、相手はどんな奴か分からぬがよく気を付けてくれ」
「はい、勿論でございます。家でも外でもお側に置いていただければ、このお華がどんな凶刃からも弥彦様をお守りいたします!」
胸を反らして自信満々に言い放つお華に、何とも言えない苦笑いを浮かべる弥彦であった。
件の辻斬りが相変わらず市井を騒がせているなか、弥彦とお華は稲荷亭から部屋への帰路に着いていた。弥彦を守ると豪語したものの、わざわざ危険に晒させる必要はないと考えているお華は不要な外出を拒んだが、珍しく頑として譲らない弥彦に折れてしまった。そして、当の弥彦はと言うと、何の考えも無しに言い出した訳ではなく、ある種の確信めいた物がそうさせていた。
弥彦にとって得物の刀は問題ではなかったが、辻斬りが行われている場所が問題なのであった。なにせ、その場所はかつて弥彦がかの女剣客千春に敗れた橋であるからだ。
(あの女剣客であれば某が相手をせねばこの騒ぎは治まらぬであろうし、そうでないのであればそのとき時はその時だ)
暮れ六つに差し掛かろうとした頃、弥彦とお華は件の橋を渡ろうとしていた。
「何もこのような危ない橋を使わずとも…」
「少し思う所があってな…」
「この事になると本当に譲らないのですね…さ、早く帰りましょう」
弥彦の着物の袖をぐいぐいと引くお華に引き摺られる形でついていく弥彦であったが、薄闇の向こうから誰かが駆けてくる音を聴くと、ばっと前に出てお華を庇った。じっと目を凝らして窺っていると何やら男が息急き切ってやって来る。疲れが極まったのか、人に会った安心からか、男は足を縺れさせて弥彦達の前でころばった。
「おい、大丈夫か!?」
「で、出たんだ…」
「もしや、辻斬りか?」
弥彦の問いに、息を切らせた男はがくがくと頷いて答えた。
「あんたらも早いとこ逃げな!直に来る!」
男はそう言い残すと、時折転びそうになりながら駆け出した。暫し呆けていた二人であったが、はっとしたお華が弥彦の袖を手を引いた。
「まだ間に合うやもしれません。引き返しましょう!」
しかし、弥彦がそれに答えることはなかった。硬く強張った顔は正面だけを見据えている。その視線の先には一人の女がいた。女は腰に二振りの太刀を差し、尋常ならざる雰囲気を醸し出している。そして、二振りの太刀の内の一つを弥彦に投げて寄越した。弥彦はそれをなんなく受け取るが、それを見たお華は顔を青ざめさせた。
「な、なりません、弥彦様!」
「あやつの目的は初めから某だ。これは避けて通れぬ道故、お華は下がっていなさい」
「ですが…」
「いいから…」
「…はい」
決して語気は強くないが、有無を言わせぬ迫力にお華は下がった。弥彦はお華にすまぬな、と詫びると女剣客千春に向き直った。千春は歓喜と狂気の混ざった笑みを浮かべながら弥彦を見つめている。
「あの逢瀬からそれほど時は経っていないと覚えているけれど、一日千秋の思いとはこのような気持ちを言うのだね…会いたかったよ、弥彦殿」
獲物に絡み付く蛇の如く、千春の口から呟かれた言葉は弥彦にねっとりと絡み付いて鼓膜を叩き、それだけで官能を刺激した。弥彦は丹田に力を込めてこれを堪えると、不敵に笑いながら言った。
「それにしては、随分と堪え性の無い様に見受けられるな」
千春は一瞬、驚いた様子を見せたが、にぃ、と笑みを深めた。
「ふふ、実際そうなのだから返す言葉もないよ…。五人だ、こうして弥彦殿と再び相見える迄に五人斬った。せめてもの足しにと刃向かう気骨のある者だけにしたが、やはり駄目だったよ」
千春は妖刀をすらりと抜いた。刀身から漏れ出た瘴気が陽炎の様に立ち上り、千春の身体に纏わり付く。弥彦もこれに合わせて刀を抜くと正眼に構えた。
「やはり私の相手は弥彦殿でなければならない。そうでなければ、もう満足できなくなってしまった」
「いたく評価されているようだ」
「ふふ、なにせ見初めた男だからね。…そんな貴殿だからこそ、女としての私と刀としての私を受け入れる鞘になってほしい。…だから、もう仕合おうか」
言い終わるやいなや、千春はその脚力を持ってして瞬く間に間を詰めると弥彦に斬りかかった。弥彦はこれを鎬で受け止め、擦り落としていなすと横薙ぎに斬り払う。
かつての再現の様に突き上げを放とうとした千春だったが、ばっと身を退けた。千春の眼前を弥彦の刀が通過する。前髪が幾らか斬られたのか、はらりと宙を舞った。弥彦が斬り払いの返す刀で斬り下ろしたのだ。
「ニの轍は踏まん」
「ふふ、そうでなくては」
弥彦は正眼、千春は脇構えで間合いをじりじりと詰める。触れれば切れるのではと思う程の気勢が剣撃の間合いとなって、不用意に近付く事を互いに許さないのだ。痺れを切らした千春が一歩踏み出そうとした刹那、弾ける様に踏み込んだ弥彦が鳩尾目掛けて突きを放った。
余談であるが、現代、特に剣道においての突きの脅威は、技の出の速さとそれを正確に放つ技量にある一方、剣術における突きの真の脅威はそれだけでないと著者は考えている。日本刀、ないしは木刀を思い浮かべてもらいたい。刀には反りがある。つまり、まともに突きを受ければ反りの幅だけ致命傷を受ける事になるのだ。腕の立つ使い手が怒濤の気迫で突きを放ったとなれば、それは非常に恐ろしい事である。
閑話休題。
一直線に放たれた突きを、千春は身を捻る事で何とかかわした。捉えたと思い込んだ弥彦はかわされた事に多少動揺したが、千春の避けた方向とは逆に飛ぶと構え直した。
「数回斬り結んだだけでも分かるよ。私と弥彦殿の技量は同等」
「そのようだな」
「名残惜しい。本当に名残惜しいけれど、次で終わりにしよう」
弥彦は千春の気勢が見る間に充実していくのが分かった。先程の言葉に偽りはないと思わせるには充分な程の気迫である。弥彦もこれに応えるべく気勢を充実させると、正眼の構えから上段の構えに転じた。全力の千春を渾身の一刀で斬り倒すつもりだ。
互いの気迫がぶつかり合った瞬間、千春が駆け出して目にも止まらぬ抜き打ちを放ち、弥彦がそれに合わせて怒濤の斬り下ろしを放った。千春のそれを疾風とするならば、弥彦のそれは雷と言えよう。
刹那、甲高い音を響かせて一振りの太刀が弾き飛ばされ、橋に突き立った。
「ふふふ、さすが弥彦殿。私の見初めた殿方…」
身体から大量の魔力が奔流となって溢れ、気を失った千春は弥彦の身体に倒れる様に凭れ掛かった。弥彦は千春を受け止めると妖刀の鞘を自らの腰に差し、千春の身体を肩に担いだ。
「あれだけの剣撃を放つというのに、こうも身体は軽いとは…魔物娘とは分からぬものだ…」
弥彦がそう一人呟くと、お華が駆けよって来た。
「お怪我はありませんか!?お華は心配で心配で仕方ありません!」
お華はそう言いながら弥彦の顔やら胸やらをぺたぺたと触っている。それが嬉しいのかこそばゆいのか、弥彦は笑みを見せた。
「大事無い。さて、お華、帰るとしよう」
「はい!…弥彦様、その方はどうするおつもりですか?」
弥彦しか眼中になかったお華であったが、担がれている千春に気付いたらしく剣呑な表情を浮かべた。
「帰って手当てする」
さも当然と言い放った弥彦に、お華は口を開けて驚いてしまった。それもそのはず、つい先程まで斬り合いをしていた相手を助けると言うのだから驚くなというのは無理がある。
「見た所、魔物娘のようですが、平然と弥彦様に刃を向ける輩を部屋に入れるのは同意致しかねます!」
「なに、問題無い」
「何故です!?」
「お華は某をどのような凶刃からも守ってくれるのだろう?某はお華を信じている。命を預けていると言っても過言ではない」
そう言われ、お華は顔を真っ赤にして俯いたと思うと、一気に捲し立てた。
「弥彦様は意地悪でございます!卑怯者でございます!」
「はは、お華は意地悪で卑怯者の某を嫌ってしまったか?」
「もう知りません!」
ぷいっとそっぽを向くお華は、首まで真っ赤になっていた。
「些かからかいが過ぎてしまったな。ごめんよ、お華。許しておくれ」
「知りませんったら知りません!だいたい、弥彦様は魔力を失った魔物娘の手当てが何なのか知りもせず…」
弥彦はだんだんと尻窄みになっていくお華の言葉を笑いながら聞くと言った。
「本当にすまなかった。けれど、某はお華を誰よりも信じているのは事実だ」
「…やっぱり意地悪です!」
お華は一人ずんずんと歩いて行く。弥彦は妖刀を橋から引き抜いて鞘に収めると、千春を揺らさぬように気を付けながらお華の後を慌てて追った。
それから二日二晩、千春は寝たきりであったが、目を覚ました後は弥彦の献身的な『手当て』によって今では健康そのものである。
懸念されたお華との仲であるが、それなりに上手くやっている。お華が一方的に教える形であるが、料理を教わっている。
「千春さん!お鍋が吹き零れてますよ!」
「なにぶん不馴れなもので…こういった時はどうすれば?」
「火から離してください!」
「では、そのように」
「あ、逃げてはなりません!」
なんの騒ぎかと様子を見に来た弥彦の後ろに千春が隠れた。女物の着物に刀を差すという、何ともちぐはぐな姿だ。
そして、その千春はというと、弥彦の後ろから勝手場の様子を窺っている。
「いやはや、包丁よりも刀の方がよっぽど私の性に合っているよ」
「あれほど女らしくなると息巻いていたではないか…」
「それはそれ、これはこれさ。私の女らしさは、もう骨身に染みているだろう?」
「…物は言い様だな」
弥彦は呆れた様に苦笑いすると勝手場へ向かおうとしたが、その手を千春が掴んで引き寄せた。
「ですが、何時かは必ずこなしてみせますよ。私の見初めた殿方の為ですから」
「…気長に待つとしよう」
「そうしていただけると、私も助かります」
千春はそう言い残すと、部屋の出口へ向かった。その背へ弥彦が声をかける。
「もう帰るのか?」
「ああ。弥彦殿と過ごす日々は素晴らしい物だが、毎日あれでは息が詰まってしまう…だが、旦那様は気長に待ってくれるようなので、気が向いた時に来るとしよう」
弥彦は引き留めようかと思ったが、それより早く千春は居なくなってしまった。
「弥彦様、食事にいたしましょう」
部屋からお華が声をかけた。
「今、向かう。…昼飯は二人分食べねばならぬな」
弥彦はのっそりと部屋に戻って行くのだった。
「お、先生の奥さんじゃないですか」
「あら、こんにちは」
この男は弥彦の剣術道場に通っている一人である。
「奥さん、先生は問題ないと思いますが奥さんは気をつけてくださいよ?」
男は立看板の方に向き、指差しなから言った。
「いえ、あの立看板の内容は存じていないのですよ」
「そうなんですかい。これは失礼。で、立看板にはですね…」
「辻斬りか…」
弥彦は夕飯を食べながらお華の話を聞いていた。
夕飯は深川めし、蛸と若布の酢の物である。深川めしとは、だし汁に味噌、醤油、酒、生姜を加えて味を調えたものへ浅蜊や青柳といった貝類、葱等の野菜を入れて煮立て、これを飯にぶっかけた物である。米と一緒に炊き込んだ物も深川めしと呼ばれているが、飯に貝と野菜、煮汁を掛けた物の方が主流と言えようか。
貝の旨味と野菜の甘味が味噌仕立ての汁に溶け込んでいるため飯に良く合い、ぶっかけ飯であるためさらさらと食べられる。
「そうなのでございます…弥彦様、その様に急いで食べるとお腹に悪いですよ」
「旨いのだから仕方があるまい」
「まったく、もう…」
緊張感の足りない弥彦に少し呆れたお華だったが、旨そうに深川めしを掻き込む弥彦を見ると嬉しそうに微笑んだ。そして、空になった二人分の食器を片付けると弥彦が茶を入れて待っている卓に着いた。
「さて、話の続きを聞こう」
弥彦は茶を一口啜るとお華に話を促した。先程とは違い、一言一句聞き漏らすまいとする姿勢が見てとれる、
「はい。なんでも、寄越してきた刀を受け取ると問答無用で斬りかかってくるという話で、ちょっとした騒ぎになっております」
「ふむ…随分と変わった辻斬りだ。それで、襲われた人は?」
「なんでも、斬られたはずが傷一つ無いのだとか…おそらくは魔界の金属で出来た刀なのでしょう」
お華はそう話したが、弥彦の脳裏には一人の女の姿が浮かんだ。それは、かつて弥彦と相対した女剣客であった。だが、確証を得ない考えのため、ついぞ言い出すことはなかった。
「お華、相手はどんな奴か分からぬがよく気を付けてくれ」
「はい、勿論でございます。家でも外でもお側に置いていただければ、このお華がどんな凶刃からも弥彦様をお守りいたします!」
胸を反らして自信満々に言い放つお華に、何とも言えない苦笑いを浮かべる弥彦であった。
件の辻斬りが相変わらず市井を騒がせているなか、弥彦とお華は稲荷亭から部屋への帰路に着いていた。弥彦を守ると豪語したものの、わざわざ危険に晒させる必要はないと考えているお華は不要な外出を拒んだが、珍しく頑として譲らない弥彦に折れてしまった。そして、当の弥彦はと言うと、何の考えも無しに言い出した訳ではなく、ある種の確信めいた物がそうさせていた。
弥彦にとって得物の刀は問題ではなかったが、辻斬りが行われている場所が問題なのであった。なにせ、その場所はかつて弥彦がかの女剣客千春に敗れた橋であるからだ。
(あの女剣客であれば某が相手をせねばこの騒ぎは治まらぬであろうし、そうでないのであればそのとき時はその時だ)
暮れ六つに差し掛かろうとした頃、弥彦とお華は件の橋を渡ろうとしていた。
「何もこのような危ない橋を使わずとも…」
「少し思う所があってな…」
「この事になると本当に譲らないのですね…さ、早く帰りましょう」
弥彦の着物の袖をぐいぐいと引くお華に引き摺られる形でついていく弥彦であったが、薄闇の向こうから誰かが駆けてくる音を聴くと、ばっと前に出てお華を庇った。じっと目を凝らして窺っていると何やら男が息急き切ってやって来る。疲れが極まったのか、人に会った安心からか、男は足を縺れさせて弥彦達の前でころばった。
「おい、大丈夫か!?」
「で、出たんだ…」
「もしや、辻斬りか?」
弥彦の問いに、息を切らせた男はがくがくと頷いて答えた。
「あんたらも早いとこ逃げな!直に来る!」
男はそう言い残すと、時折転びそうになりながら駆け出した。暫し呆けていた二人であったが、はっとしたお華が弥彦の袖を手を引いた。
「まだ間に合うやもしれません。引き返しましょう!」
しかし、弥彦がそれに答えることはなかった。硬く強張った顔は正面だけを見据えている。その視線の先には一人の女がいた。女は腰に二振りの太刀を差し、尋常ならざる雰囲気を醸し出している。そして、二振りの太刀の内の一つを弥彦に投げて寄越した。弥彦はそれをなんなく受け取るが、それを見たお華は顔を青ざめさせた。
「な、なりません、弥彦様!」
「あやつの目的は初めから某だ。これは避けて通れぬ道故、お華は下がっていなさい」
「ですが…」
「いいから…」
「…はい」
決して語気は強くないが、有無を言わせぬ迫力にお華は下がった。弥彦はお華にすまぬな、と詫びると女剣客千春に向き直った。千春は歓喜と狂気の混ざった笑みを浮かべながら弥彦を見つめている。
「あの逢瀬からそれほど時は経っていないと覚えているけれど、一日千秋の思いとはこのような気持ちを言うのだね…会いたかったよ、弥彦殿」
獲物に絡み付く蛇の如く、千春の口から呟かれた言葉は弥彦にねっとりと絡み付いて鼓膜を叩き、それだけで官能を刺激した。弥彦は丹田に力を込めてこれを堪えると、不敵に笑いながら言った。
「それにしては、随分と堪え性の無い様に見受けられるな」
千春は一瞬、驚いた様子を見せたが、にぃ、と笑みを深めた。
「ふふ、実際そうなのだから返す言葉もないよ…。五人だ、こうして弥彦殿と再び相見える迄に五人斬った。せめてもの足しにと刃向かう気骨のある者だけにしたが、やはり駄目だったよ」
千春は妖刀をすらりと抜いた。刀身から漏れ出た瘴気が陽炎の様に立ち上り、千春の身体に纏わり付く。弥彦もこれに合わせて刀を抜くと正眼に構えた。
「やはり私の相手は弥彦殿でなければならない。そうでなければ、もう満足できなくなってしまった」
「いたく評価されているようだ」
「ふふ、なにせ見初めた男だからね。…そんな貴殿だからこそ、女としての私と刀としての私を受け入れる鞘になってほしい。…だから、もう仕合おうか」
言い終わるやいなや、千春はその脚力を持ってして瞬く間に間を詰めると弥彦に斬りかかった。弥彦はこれを鎬で受け止め、擦り落としていなすと横薙ぎに斬り払う。
かつての再現の様に突き上げを放とうとした千春だったが、ばっと身を退けた。千春の眼前を弥彦の刀が通過する。前髪が幾らか斬られたのか、はらりと宙を舞った。弥彦が斬り払いの返す刀で斬り下ろしたのだ。
「ニの轍は踏まん」
「ふふ、そうでなくては」
弥彦は正眼、千春は脇構えで間合いをじりじりと詰める。触れれば切れるのではと思う程の気勢が剣撃の間合いとなって、不用意に近付く事を互いに許さないのだ。痺れを切らした千春が一歩踏み出そうとした刹那、弾ける様に踏み込んだ弥彦が鳩尾目掛けて突きを放った。
余談であるが、現代、特に剣道においての突きの脅威は、技の出の速さとそれを正確に放つ技量にある一方、剣術における突きの真の脅威はそれだけでないと著者は考えている。日本刀、ないしは木刀を思い浮かべてもらいたい。刀には反りがある。つまり、まともに突きを受ければ反りの幅だけ致命傷を受ける事になるのだ。腕の立つ使い手が怒濤の気迫で突きを放ったとなれば、それは非常に恐ろしい事である。
閑話休題。
一直線に放たれた突きを、千春は身を捻る事で何とかかわした。捉えたと思い込んだ弥彦はかわされた事に多少動揺したが、千春の避けた方向とは逆に飛ぶと構え直した。
「数回斬り結んだだけでも分かるよ。私と弥彦殿の技量は同等」
「そのようだな」
「名残惜しい。本当に名残惜しいけれど、次で終わりにしよう」
弥彦は千春の気勢が見る間に充実していくのが分かった。先程の言葉に偽りはないと思わせるには充分な程の気迫である。弥彦もこれに応えるべく気勢を充実させると、正眼の構えから上段の構えに転じた。全力の千春を渾身の一刀で斬り倒すつもりだ。
互いの気迫がぶつかり合った瞬間、千春が駆け出して目にも止まらぬ抜き打ちを放ち、弥彦がそれに合わせて怒濤の斬り下ろしを放った。千春のそれを疾風とするならば、弥彦のそれは雷と言えよう。
刹那、甲高い音を響かせて一振りの太刀が弾き飛ばされ、橋に突き立った。
「ふふふ、さすが弥彦殿。私の見初めた殿方…」
身体から大量の魔力が奔流となって溢れ、気を失った千春は弥彦の身体に倒れる様に凭れ掛かった。弥彦は千春を受け止めると妖刀の鞘を自らの腰に差し、千春の身体を肩に担いだ。
「あれだけの剣撃を放つというのに、こうも身体は軽いとは…魔物娘とは分からぬものだ…」
弥彦がそう一人呟くと、お華が駆けよって来た。
「お怪我はありませんか!?お華は心配で心配で仕方ありません!」
お華はそう言いながら弥彦の顔やら胸やらをぺたぺたと触っている。それが嬉しいのかこそばゆいのか、弥彦は笑みを見せた。
「大事無い。さて、お華、帰るとしよう」
「はい!…弥彦様、その方はどうするおつもりですか?」
弥彦しか眼中になかったお華であったが、担がれている千春に気付いたらしく剣呑な表情を浮かべた。
「帰って手当てする」
さも当然と言い放った弥彦に、お華は口を開けて驚いてしまった。それもそのはず、つい先程まで斬り合いをしていた相手を助けると言うのだから驚くなというのは無理がある。
「見た所、魔物娘のようですが、平然と弥彦様に刃を向ける輩を部屋に入れるのは同意致しかねます!」
「なに、問題無い」
「何故です!?」
「お華は某をどのような凶刃からも守ってくれるのだろう?某はお華を信じている。命を預けていると言っても過言ではない」
そう言われ、お華は顔を真っ赤にして俯いたと思うと、一気に捲し立てた。
「弥彦様は意地悪でございます!卑怯者でございます!」
「はは、お華は意地悪で卑怯者の某を嫌ってしまったか?」
「もう知りません!」
ぷいっとそっぽを向くお華は、首まで真っ赤になっていた。
「些かからかいが過ぎてしまったな。ごめんよ、お華。許しておくれ」
「知りませんったら知りません!だいたい、弥彦様は魔力を失った魔物娘の手当てが何なのか知りもせず…」
弥彦はだんだんと尻窄みになっていくお華の言葉を笑いながら聞くと言った。
「本当にすまなかった。けれど、某はお華を誰よりも信じているのは事実だ」
「…やっぱり意地悪です!」
お華は一人ずんずんと歩いて行く。弥彦は妖刀を橋から引き抜いて鞘に収めると、千春を揺らさぬように気を付けながらお華の後を慌てて追った。
それから二日二晩、千春は寝たきりであったが、目を覚ました後は弥彦の献身的な『手当て』によって今では健康そのものである。
懸念されたお華との仲であるが、それなりに上手くやっている。お華が一方的に教える形であるが、料理を教わっている。
「千春さん!お鍋が吹き零れてますよ!」
「なにぶん不馴れなもので…こういった時はどうすれば?」
「火から離してください!」
「では、そのように」
「あ、逃げてはなりません!」
なんの騒ぎかと様子を見に来た弥彦の後ろに千春が隠れた。女物の着物に刀を差すという、何ともちぐはぐな姿だ。
そして、その千春はというと、弥彦の後ろから勝手場の様子を窺っている。
「いやはや、包丁よりも刀の方がよっぽど私の性に合っているよ」
「あれほど女らしくなると息巻いていたではないか…」
「それはそれ、これはこれさ。私の女らしさは、もう骨身に染みているだろう?」
「…物は言い様だな」
弥彦は呆れた様に苦笑いすると勝手場へ向かおうとしたが、その手を千春が掴んで引き寄せた。
「ですが、何時かは必ずこなしてみせますよ。私の見初めた殿方の為ですから」
「…気長に待つとしよう」
「そうしていただけると、私も助かります」
千春はそう言い残すと、部屋の出口へ向かった。その背へ弥彦が声をかける。
「もう帰るのか?」
「ああ。弥彦殿と過ごす日々は素晴らしい物だが、毎日あれでは息が詰まってしまう…だが、旦那様は気長に待ってくれるようなので、気が向いた時に来るとしよう」
弥彦は引き留めようかと思ったが、それより早く千春は居なくなってしまった。
「弥彦様、食事にいたしましょう」
部屋からお華が声をかけた。
「今、向かう。…昼飯は二人分食べねばならぬな」
弥彦はのっそりと部屋に戻って行くのだった。
16/05/28 22:52更新 / PLUTO
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