連載小説
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牛鬼の腕試し
その日、弥彦とお華のもとに客人が来た。
びしゃりと開け放たれて外れてしまった戸を呆然と眺める二人の眼前に現れたのは、角を生やし、緑色の肌の女性の上半身、黒い毛に覆われた蜘蛛の下半身を持つ魔物娘のウシオニである。彼女は邪魔するぞ、と言うと狭そうに戸を抜けてそこらの熊よりも大きく鋭い爪で弥彦を指差した。

「あんたが弥彦って奴で間違いねえな?」
「いかにも、其が弥彦だが…」
「だったら話は早い。一つ、あたしの頼みを聞いてもらおうか」
「内容にもよるが…先ずは戸を直してもらわねば」

戸は未だに外れたままであった。ウシオニは申し訳なさそうに頬を掻いている。

「悪い悪い、どうにも加減するのが苦手でな。こいつを、こう嵌めるんだろ?…いや、こうか?」

どうしたものかと悪戦苦闘しながらウシオニが奮闘するかたわら、戸からは不吉な音が聞こえ始めた。それを聞いてお華が慌ててウシオニに駆け寄ると、ウシオニの手から戸を受け取った。

「悪いね、細かい事も苦手なんだよ」
「いえいえ。それより、弥彦様に何かご用があるとか」
「おっと、そうだったそうだった」

ウシオニは弥彦の前に陣取ると蜘蛛の腹をどっかりと下ろした。

「さて、町ではまず名乗るのが礼儀とか言うんだっけな?あたしは椿ってんだ」
「あい分かった。して、椿殿はどのような用件で」
「早い話が、あたしは番になる男を探しに山を降りて来た訳よ」
「ふむ、それで?」
「そこらに居る男を拐っちまえば済む話だが、それじゃあつまらねえ。あたしは強い男を負かして番にしたいのさ」
「なるほど…しかし、私より高名な人は何人か居ると思うのだが」

実際、弥彦の言う通りであった。抱える門下生も多く、自前の道場を持つ者は何人かこの町には居る。中には藩主の屋敷に出入りする程に腕の立つ者も居る。そのため、弥彦がこのように思うのは至極当然と言えよう。

「勿論、名の通った奴等の所には行ったさ。だがよ、どいつもこいつも、あたしの姿を見ると腰を抜かしちまうか、突っ掛かって来てもてんで歯応えが無え。そこで、あんたに白羽の矢が立ったってことよ。知ってるぞ。あんた、魔物娘を刀一本で退けたそうじゃねえか」
「どこでそれを!?」
「噂好きのカラステングが山中で触れ回ってんのさ。町じゃあどうかは知らねえが、山であんたの事を知らない奴はまず居ないだろうよ」
「なんと…」

にやりと笑いながら話すウシオニの話を聞いて、弥彦はがっくりと項垂れてしまった。そして、そんな弥彦をお華がきらきらと輝く瞳で見ている。おそらく、お華の中で弥彦は辺りの魔物娘でその名を知らぬ者は居ない剣豪、ということになっているのかもしれない。

「それでだ、そんなあんたの門下生なら一人か二人、腕の立つ男がいるだろうと考えてここに来たって事だ。あたしとあたしの番になる男での腕試しってとこかね」

どうだと言わんばかりに胸を張るウシオニを見ながら、弥彦は思いあぐねていた。腕試しを受けるだけであればそれほど難しい話ではない。だが、相手がウシオニとなると話は別である。ウシオニは魔物娘の中でも血の気の多い者と聞くからだ。魔物娘が人を傷付けることは無いとは言え、万が一ということもあるかもしれない。

「…一つ条件がある」

そこで、弥彦は条件を設けることにした。いくら血の気が多いとは言え、魔物娘が約束を違えることは無いだろうと考えたのだ。

「で、その条件ってのは何だ?」
「無いとは思うが、相手を無闇に傷付ける事はせぬようにしていただきたい」
「おう、分かった!番になる男を粗雑に扱うものかよ!」

椿はそう言いながら立ち上がるとそわそわと身体を揺すっている。

「身体が疼いて仕方ねえ!腕試しは何時やるんだ!?今か?今からか!?」

掴み掛からんばかりの気迫にいくらか呑まれかけている弥彦だったが、何とか落ち着きを戻すと椿に言った。

「今日は稽古をせぬ日なのだ。明日の同じ時間に来ていただけないだろうか…」
「よおし、明日だな!?明日のこの時間にまた来るぞ!」

椿は踵を返すと、来た時と同じように戸を開けて巨体に見合わぬ速さで山へと駆けて行った。さながら嵐のようだと思った弥彦とお華であった。



次の日、弥彦が椿を伴って稽古場の野原に訪れると稽古を受けに来た殆どの者が椿を見て腰を抜かしたり、逃げ出そうとしたりした。弥彦は椿に害意が無いこと伝えて何とか場を鎮めたが、遠巻きに眺めているばかりである。

「気を悪くさせてしまったなら申し訳ない…」
「何時もの事だから気にしちゃいねえよ。それによお、気骨のある奴も居るじゃねえか」

舌舐めずりをする椿の視線の先には一人の巨漢が居た。その男はのっしのっしと弥彦と椿に近付くと、恐れる様子も無く言った。

「よお、先生。ウシオニを連れて来るとはさすがに驚いた!今度はどんな厄介事に巻き込まれたんだい?」
「うむ、実はな太平殿…」

この大男、名を太平と言う。身の丈六尺半(一尺は30.3cm)、目方三十貫(一貫は3.75kg)というジパング人には珍しい巨体の持ち主である。弥彦よりも頭一つ半程身の丈の大きい椿と同じ位だ。
弥彦は大きな笑い声を上げる太平に事の次第を話すと、太平は更に笑い声を大きくして弥彦の肩を叩いた。

「はっはっは!先生、そいつは面白い話じゃないか!よしよし、その腕試しを受けて立とうじゃないか!」
「太平殿、その様に安請け合いをしては…」
「なあに、心配無用。この太平、付いた渾名は金時よ!そんじょそこらの奴に負けはしないさ!」

太平は椿へ向き直ると言った。

「お前さん、名はなんて言うんだい?」
「あたしは椿ってんだ。腕試し、受けてくれて嬉しいねえ」

舐め回す様な視線を一身に受けながらも、怯むことの無い姿はまさに剛の者と言った所である。

「幾ら自信があっても、あんたは人であたしは魔物娘だからね。何で腕試しをするかはあんたが決めるといいさ」
「…うーむ、そうだな」

暫し顎に手を当てて悩んでいた太平であったが妙案を思い付いたのか、ぽんと手を打った。

「相撲にしようじゃないか。金時と鬼の力比べよ!」
「よし来た、相撲だな!あたしは相撲が大好きなのさ!」

椿は喜び勇んで太平から離れると、足で地面を削って土俵を拵えた。そして、土俵に入ると太平が来るのを落ち着き無く待っている。土俵が出来たのを見た太平は着物をはだけさせた。隆々たる筋肉の上に脂の乗った、はち切れんばかりの肉体から止めどなく精気が溢れ出ている。

「堪らねえ身体だなあ、おい…今直ぐにでも押し倒して食っちまいたくなるじゃねえか」
「まあそう慌てるな。先ずは勝負、勝負」

太平は瞳をぎらつかせ、口角を吊り上げる椿の対面に着くと、腰を落として蹲踞した。

「それじゃあ先生、行司を頼むよ」
「うむ、頼まれた」

「待った無し!はっきよい…のこった!」

弥彦の掛け声と同時に椿と太平が飛び出すと、ごつっという岩と岩がぶつかり合う様な音が響いた。これには思わず弥彦と取り巻きに眺めていた者達は目を瞑ってしまった。そして、どさっと何かが倒れる様な音が聞こえると恐る恐る目を開けた。頭を強かに打った太平が哀れにも伸びているかと思った皆であったが、土俵の中には信じられぬ光景が見られた。

「まずまずの取組だったな」
「まさか、あたしが人に負けるとはねえ…それにしても、なんて膂力と石頭だ!あいたた…」

ぴんぴんしている太平を人で言えば尻餅を着いた様な姿勢で椿が見上げているのだ。
大人達は自分の頬をつねり、文字通りに開いた口が塞がらないのに対し、子供らは太平は鬼より強いなどと騒ぎながら、太平にまとわりついている。

「おうとも!俺は鬼より強い太平だ!」

太平は腕にしがみつく子供らをそのまま持ち上げると、ぐるぐる回りだした。
椿はきゃっきゃと騒ぐ子供らと太平を呆然と眺めていると、再び口角を吊り上げた。

「ますます気に入っちまったじゃねえか…。何としてでもあたしの番にしないと気が済まないね」



それからというもの、毎日毎日、椿は太平を訪ねては野良仕事をしていようと稽古を受けていようとお構い無しに相撲を取らせた。そして、何度太平に突飛ばされようと、投げられようとも、その度に闘志と獣欲を煮えたぎらせて向かって行った。
だが、椿が何度ぶつかっていこうとも太平と四つに組むことが出来なかった。四つに組むことが出来たなら勝機はあると考えている椿は、ちくりと胸が痛む思いだったが太平を怒らせてみようとした。
ある大雨の日、椿は大岩を川に投げ落として塞き止めてしまった。このせいで、太平の田んぼは水浸しになり、稲は駄目になってしまった。

「これで太平の奴も顔を真っ赤にして当たってくるに違いねえ!…しかし、さっきから胸の辺りがちくちく痛むが、こいつは何なんだ?」



大雨は夜通し降ったが次の朝には止んでいた。
寝床の洞穴から顔を出した椿は、今日こそ太平を負かしてやると鼻息荒く太平の家に向かった。

「太平、居るんだろ!今日という今日は、あたしがあんたを負かしてやるからな!」

椿が太平の家の戸の前でそう捲し立てていると、戸が開いた。

「お前さんか…悪いが今日ばっかりは相手をしてやれねえよ…」

そう言う太平の顔は酷く疲れが浮かんでいた。あの巨体も縮こまって一回り小さく見える。

「田んぼが駄目になっちまったんだろう?」
「…何でお前さんがそれを知ってるんだい?」
「何でも何も、大岩を投げ落として川を塞き止めたのはあたしだからな」

それを聞いた太平は瞬く間に顔を真っ赤にし、体中をぶるぶると震えさせた。そして、それを見た椿は太平が当たって来るのを今か今かと待ち受けていたが、太平は踵を返すと家に入って戸をぴしゃりと閉めて心張り棒をした。

「お、おい太平、当たって来ねえのか…?」
「うるせえ!お前さんの顔なんざ見たくもねえ!とっとと失せろ!」

思ってもみなかった言葉を叩き付けられた椿は、震える手で、壊さぬようにゆっくりと戸を開けようとしたが、心張り棒のされた戸が開くことはなかった。

「な、なあ太平。この戸、立て付けが悪いのか動かねえんだ。あたしがやるとあんたの家を壊しちまうかもしれないからさ、太平、開けておくれよ…」
「何度も同じ事を言わせるんじゃねえ!」
「うっ…分かったよ、あたしは居なくなるよ。それで気が済むんだろ…?」
「………」
「…そうかよ」

そして、何処をどう歩いたものか、椿は気付くと寝床の洞穴に帰り着いていた。

「あたしは怪物牛鬼さ!人間一人に嫌われたところで、悲しくなんかありゃしねえんだ!今までだって独り、これからだって独りさ!だから悲しくなんて…ないはずなんだよ…」

大声で喚いた椿は糸が切れた様に干し草と葉っぱの床に倒れ込むとポロポロと涙を溢した。

「ちくしょう、胸がちくちく傷みやがる…今まで斬られようと突かれようと何でもなかったはずなのに、痛くて痛くて仕方ねえ…。こんな事になるんなら、馬鹿なことはやるんじゃなかった…」

椿は一晩泣き明かすと、何日も洞穴の中でうずくまっていた。



あれから幾日が経った頃か、椿はむくりと起き上がると洞穴を飛び出した。

「あんなに酷いことをやっちまったんだ。太平に謝らなきゃ駄目だ!目一杯に謝れば、太平もあたしを許してくれるかもしれねえし、そうでなくとも謝らなきゃならねえ!」

椿は木々を薙ぎ倒し、騒ぎを聞きつけて集まって来た魔物娘達に一瞥をくれることもなく、ただ真っ直ぐに太平の家へと駆けた。
そして、太平の家へ辿り着いた椿は戸に手を掛けた。だが、その手は凍りついてしまったかのように動かない。

(もし、もしもまた開かなかったらあたしは逃げ出しちまうかもしれねえ…それが恐い……だけど、このままはもっと恐い。太平に謝るんだ)

意を決すと手は思うままに動き、戸はするりと開いた。椿は戸を開け放つと家の中に飛び込んだ。

「太平!あんたに言わなきゃならない事があるんだ!あたしの顔なんざ見たくもないかもしれねえけど…太平?」

たしかに太平は居た。だが、痩せ細った体を横たえており、その傍らには弥彦と白い頭巾と前掛けをした男が座っている。状況の掴めぬ椿は弥彦を問い詰めた。

「な、なあ弥彦さん!太平は、太平はいったいどうしちまったって…」
「静かに。太平殿はちょうど寝付いた所なのだ」

そして、そんな椿を弥彦が押し黙らせた。

「す、すまねえ。それで、太平は…」
「それはこの方に説明していただく。先生、よろしく頼みます」

弥彦に先生と言われた白い頭巾に前掛けの男はこの町の医者である。そして、その男は椿に向き直ると静かに話し出した。

「彼はね、ろくに食事を摂らずにいて体が弱ってしまった所で、運悪く病を患ってしまったのです。あなたは椿さんと言うのでしょう?彼がうわ言で何度も呼ぶので弥彦さんに聞いてみると、教えてくださいました」
「そういう訳なのだ。椿殿、太平殿が食事を摂らなくなるほどの事に何か心当りはあらぬか?」

この一言に、椿の胸の傷みは一層強くなった。心当りはある。駄目になってしまった田んぼだ。

「あたしのせいだ…あたしが太平の田んぼに悪さなんかしちまったから……。なあ、あんたお医者様なんだろ?太平は助かるんだろ!?」

その問いかけに、医者の男は黙って俯くだけであった。

「おい、おい、つまらねえ冗談は止めろ!……はんっ、分かったぞ。さてはてめえ、やぶ医者だな!?ウシオニに勝つような男が病なんぞに負けるもんか!!弥彦さん!こんな奴じゃなく、もっと腕の良い医者を…」
「椿殿!!」

弥彦の声で我に帰った椿は、医者の胸ぐらを掴んでいるのを気付くと手を放した。

「そんな話があって堪るか…太平はあたしよりずっとずっと強いんだ。そんな奴が簡単に死ぬもんか…。なあ、医者の先生よ、太平はまだもつんだろ?」
「…ええ」
「だったらあたしが太平を助ける。元はと言えばあたしが原因なんだ。だからあたしが助けるのが筋ってもんだろ?それによ、人に出来なきゃ魔物娘に出来ないなんて道理はねえ!角が折れようと、脚がもげようと絶対に助ける!」

言うやいなや、椿は太平を担ぎ上げると寝床の洞穴へ駆けた。後で誰かが叫んだようだが椿にとって、それは些事でしかない。想い人を一刻も早く助ける事が、今の椿の全てであった。



椿は洞穴に辿り着くと、干し草と葉っぱの床に太平を静かに寝かせ、持っている中で一番上等な毛皮を掛けた。

「太平、何に代えてもあんたを助けるからな。待ってておくれ」

それから、来る日も来る日も椿は山へ分け入っては手当たり次第に薬草を摘んで太平に飲ませ、寒さの強い夜には干し草と毛皮だけでは寒かろうと自らの体で太平の体を暖めた。

「太平、良く熟れた木の実を採って来たぞ。食うもん食わないと、良くなる物も良くなりゃしねえからな!それによ、お天道様はもう真上に来てるんだ!早いとこ、目を覚ましてくれよ…なあ、頼むからよお…」

椿がどれ程親身に看病しても、どれだけ泣いて頼み込んでも太平は静かに寝ているままだった。

「ちくしょう…目を覚ましてくれよ…」

悔しくて悔しくて仕方がなく、噛み締めた唇から血が滲み、椿の舌に血の味が広がった。

「こんなあたしにも血は通っているんだねえ……血だ、そうだよ血だ!あたしの血を飲ませれば病なんざたちどころに治るじゃねえか!」

ウシオニの血には高濃度の魔物の魔力が溶け込んでいる。そのため血を浴びる等した場合、男であればすぐさまインキュバスになる。そうなれば人の病などどうということはない。

「良かったな太平!これであんたは助かる…」

喜びを顕にした椿であったが、ふっとその表情に影を落とした。

「でもよ、あんたはあんなに嫌っている奴の血で助かって嬉しいかい?あたしにはあんたの気持ちが分からねえ…」

椿は太平を掻き抱くと暫しじっとしていたが、ついに思い立ったのか顔を上げた。

「好いた男が助かるんなら、あたしはどれだけ嫌われようと構いやしないさ!」

椿は自分の頬を強く噛んだ。口の中にじわじわと血が溜まっていく。

「太平、あんたはこんなになってもやっぱり良い男だ。だからよお、あたしだって最後くらいは良い思いをしても構わねえよな?」

椿が舌舐めずりをすると、唇は紅を差したかのように赤く濡れた。そして、その唇を強くあてがうと、舌を捩じ込んで太平の口内を犯した。息つく時間も惜しいとばかりに貪り、淫猥な水音を立てる椿の口の端からは血と唾液の混じりあった物が零れ、椿と太平の胸を濡らす。
口内の血が無くなって尚、椿は太平を求めて太平の口内を、舌を、歯の一本一本に至るまでを犯し続けた。そして、交わいの如き接吻は椿の意識が朦朧とするまで行われた。

「へへ、これ以上は抑えが効かなくなりそうで駄目だ…後は太平が目を覚ますのを願うばかりよ…」

椿はそう呟くと、少しだけ強く太平を抱き締めた。



太平は息苦しさに目を覚ました。目の前には椿の寝顔が見える。まったく状況の掴めぬ太平は顎に手を当てると悩みだした。

「はて、俺は自分の家で寝込んでいたはずなんだがなあ…。それにしても口中が鉄臭えな。寝てる間に血でも吐いたのかね?」

何にせよ目の前の椿を起こさない事には始まるまいと考えた太平は、ぺちぺちと椿の頬を叩いた。始めはぼんやりと見開かれていた瞳であったが、太平の姿をはっきり見るとくわっと見開かれた。

「太平!目を覚ましたんだな!ああ、あたしは今まででこれ程嬉しい事はない!…そうだ!どこか痛んだり、苦しかったりしないか!?」
「寝たきりで体が鈍っちまったが、それ以外は何ともないね」
「そうかそうか!それなら良い」

椿は頷くと、太平をゆっくり床に降ろした。そして、噛んで含めるように言い聞かせる。

「太平、今からあたしは町の者を呼んでくる。それまで大人しく待っていろよ?いいな?…そしたら、あんたとあたしはおさらばさ」

振り向いて駆けようたした椿の手を太平は握った。力の萎えたその手を振り払うのは簡単なはずだが、椿はそれが出来なかった。

「なあ、手を放しちゃもらえないか…折角の決心が鈍るからよ」
「いいや、放さねえ。おさらばってお前さん、いったい何処に行こうってんだ」
「…あんたの居ない所さ」
「だったら尚の事、放さねえ。好いた女を手放すんなら、いっそ目なんざ覚まさない方が良かったさ」

椿は肩を震わせると先程よりも速く振り向いて、太平に掴み掛かった。その眦には涙が溜まっている。

「そんなの嘘っぱちだ!だってあんたは…あたしの顔なんざ見たくない程に…嫌いなんだろ?」
「そんな訳があるか!あの時は頭に血が昇って思ってもない事を言っちまったが、そんな事は一度も思ったことは無い!…だからよお、椿。こんな俺だが許してくれねえか?」

それを聞いた椿は太平から手を放すと、わんわんと泣きだした。太平は慌てて童をあやす様に頭を撫でたり背を撫でたりしたが、一向に泣き止む様子はなかった。

「悪いのはあたしなんだ!あんな酷いことをしてごめんよお…」
「ちゃんと謝ってくれたんだ、俺はもう気にしちゃいないさ。ほら、これでお互い様だ!だから泣き止んでおくれ…お前さんが泣いてると、俺まで悲しくなっちまう」

暫く二人して泣きじゃくっていたが、落ち着いたのか椿は太平の顔を真剣に見ながら聞いた。

「太平、あんたはあたしを本当に好いているんだな?」
「おうとも」
「あたしはがさつで乱暴者だ。それでもいいんだな?」
「俺はお前さんがいいんだ」

それを聞いた椿は瞳を再びぎらつかせ、ウシオニらしい凶暴さを感じさせる笑みを浮かべた。最早、あの気弱な面影は微塵も残ってはいない。

「そうとなったらやることは一つだ!太平はそこで大人しく寝ていろよ?あたしがうんと精の付く物を獲って来てやるからな!!先ずはそれからだ!」

やる気に満ちた椿を見送った太平は、床に寝転がると大欠伸をかいた。のんびり待っているその様は、この洞穴が昔からの家であるかのようであった。

「鹿が来るか、猪が来るか…。町の奴等に手紙でも書きたいところだが、椿の為にも体を休めるか。さて、一眠り一眠りと」

今夜は眠れぬ夜になるだろうなあ、と思う太平であった。
16/06/11 01:20更新 / PLUTO
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■作者メッセージ
私はウシオニが一番好きです。
それは傘張り浪人異聞録らしからぬ文字数から分かっていただけると勝手に思っています。
ウシオニが好きなら、悲しい思いをさせるなダボハゼが!という話でありますが、どうか許してください。
私はこういった辛い状況からのハッピーエンドが好きなんです…
パロディ元は新平さと牛鬼という話です。

今回は長い台詞が多く、読みずらかったかもしれませんが、楽しんでいただけたでしょうか?

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