夜哭き峠、鬼火の怪
弥彦は実に食欲を掻き立てる香りに目を覚ました。勝手場で弥彦の妻であるお華が煮炊きをしている。どうやら味噌汁の匂いで目覚めたらしい。弥彦は昨夜の情事で気だるさを訴える体に喝を入れると、布団を畳み、押し入れに突っ込んだ。そして、一つ伸びをした後、勝手場で働く妻の下へ向かった。
「お華、何か手伝うことはあるかい?」
「いえいえ、気持ちだけでも充分ですよ弥彦様。ゆるりとお待ちください」
勝手場を仕切る者にそう言われてしまうといかんともしがたく、弥彦はしぶしぶ卓に着いた。しかし、妻が甲斐甲斐しく働く傍らで何もしないというのは憚られるせいか、箪笥から比較的に綺麗な手拭いを引っ張り出すと長屋裏の井戸へ行った。
長屋の井戸は共用の物であるため、誰かしらと出会うことも多々ある。弥彦が汲み取った水で濡らした手拭いを絞っていると、隣の部屋の夫婦がやって来た。はだけた着物に手桶、手拭いのいでたちのため、情事の後の体を拭いに来たと見られた。奥方の妖狐、尾の数は2本と少ない、が弥彦の隣に立つと言った。
「昨夜は当てられてしまいましたわ」
その一言で全てを察した弥彦は、照れ隠しに咳払いをすると強く手拭いを絞り、そそくさと自分の部屋へ逃げ帰った。
「弥彦様、どちらへ行かれていたですか?」
「何もかも任せきりなのも悪いので、卓ぐらい拭こうと手拭いを濡らしてきた所だ」
「ありがとうございます。ですが、今度からは一言、お華に言ってくださいませ」
「すまんな、そうしよう」
弥彦が部屋へ入ろうとした所、ちょうどお華が長屋から顔を出して、少しだけ不機嫌そうに言った。弥彦はお華に一言謝った後、彼女の頭をくしゃりと撫でると部屋へ入った。お華はこそばゆそうに撫でられた後、手櫛で手早く癖を直すと弥彦を追った。
朝食は椀に山と盛られた白飯、大振りに切られた根深の汁、大根の香の物であった。二人は卓に着くと、朝食をとった。汁は熱かったが、根深の甘さと味噌の塩気の塩梅が良く、非常に旨いものだった。弥彦は根深の汁で白飯を二杯、香の物で一杯平らげると満足気に息を吐いた。すると奥からお華が盆に湯呑みをのせてやってくる。渋いお茶であった。お華もお茶を飲むと一心地着いたのかほうと息を吐いた。暫く二人静かにだらりと過ごしていると、弥彦がおもむろに話しだした。
「ここの所、何やら夜哭き峠で鬼火を見たというのが何人もいるらしい」
「そうでごさいますか。狐火ならば魔物娘におりますが、鬼火は聞いたことがございませんね」
夜哭き峠とは、弥彦たちの住む町と隣町を繋ぐ峠である。なんでも、昔、想い人に裏切られた女が泣きに泣いたのちに非業の死を遂げ、鬼へと変じ、夜な夜な慟哭の声が聞こえたという逸話からそう呼ばれているのだとか。しかしながら、弥彦は今の今まで慟哭など聞いた試しは無かった。魔物娘が現れても、人の世の世迷い言は変わらないものであった。
「間近に見た者は居ないそうだが、丑三つ時になると赤い火の玉が現れ、峠を越える者の後を憑けて行き、峠を越えた辺りでふっと消えてしまうらしい」
「まこと面妖な話ですこと」
「魔物娘の類いであれば、まず危害を加えることは無いと思うが、物取りかもしれん。お華も気を付けておくれ」
「そのようにいたします。ですが、このお華、弥彦様さえいれば怖い物などありませんよ」
弥彦は赤面して身動ぎをすると、お茶のお代わりを催促した。お華は分かりましたと、ころころと笑いながら言うと、弥彦の湯呑みを取って勝手場へ行った。
その夜、夜哭き峠に鬼火が現れた。暗闇をぼんやりと照らす火影がうっすらと人影を映し出す。まるで風に揺れる行灯の火のような儚いそれは、一陣の風に煽られて掻き消された。後には少女の寂しさを訴える声が残ったが、聞く相手のいない怨み節は月の無い夜空に溶けて消えた。
それから幾日かたった日のこと。お華を連れて隣町まで傘を売りに出かけた弥彦は、隣町で夕食を済ませ、夜哭き峠に差し掛かっていた。お華との夕食に時間を忘れたせいか、飯屋を出た時は既に辺りが暗く、夜哭き峠の手前で丑三つ時に差し掛かっていた。
「まさかこんな時間になってしまうとは…うん?」
「楽しい時間はあっという間なのですね…あれは…」
峠を半ばほど過ぎた頃だろうか、二人は後ろを着いてくる灯りに気付いた。ゆらゆらと揺れるそれは、付かず離れずの距離を保っているように思えた。
「お華、某の後ろに」
「ですが弥彦様、あの灯りは…」
弥彦はお華を自分の後ろに隠すと、無手のままで身構えた。二人が足を止めたため動きを止めていた灯りであったが、今はゆっくりとだが近付いている。薄ぼんやりとした灯りであったが、近付いていくにつれ、その灯りの主を映し出した。三つ巴の模様のある袂に腕を通し、丈の短い履き物に脚を通した姿をした少女であった。ただ、その少女の腹の所には小さな火が灯っており、ふわりと浮いていることから人ならざる者と分かった。彼女は怨めしいとも羨ましいともとれる目付きで二人を見ると動きを止めた。
「提灯おばけ…ですね」
「鬼火の正体は彼女だったのか…して、彼女も魔物娘なのか?」
「はい、私と同じ付喪神でございます」
二人が話している間も提灯おばけの彼女は、二人を見るともなしに見ているだけであった。このなんとも言えぬ雰囲気に息を詰まらせた弥彦が話しかけようとしたその時、提灯おばけの彼女はお華に視線を向けると問いかけた。
「唐傘おばけの姉さん、姉さんの主様は姉さんを良く使ってくれてますか?」
お華はその問いかけに首肯で返した。
「そうですか…手前語りですけれど、あたしは元は隣町のそこそこ大きな旅籠の名の入った提灯だったんですよぅ…」
曰く、彼女はただの提灯だった頃、ある夜に旅籠の客に買われた。その夜は月に厚い雲のかかった暗い夜だった。旅籠を出た男は提灯の蝋燭に火を灯すと、足早に歩きだした。その時はまだ、一時であっても自分は主の役に立てていると思っていた彼女であったが、夜哭き峠でことが起きた。男が峠の半ばに差し掛かった辺りで強く吹き上げる風が提灯を煽った。そして、提灯の蝋燭が倒れると瞬く間に火が回り、驚いた男は袴の裾を絡げると提灯の火を踏み消したそうだ。未練を残した提灯は提灯おばけに変じ、主が再びこの峠を通るのを待っていたが、それらしい人が通ったことはなく、ついに鬼火の噂話だけが独り歩きして、人の 往来は更に少なくなってしまった。
「ああなってしまったら、ただの提灯だったあたしに出来る事なんて無いけれどもね、主様を家に送り届けるくらいはしたかったなぁ…」
彼女に灯る灯りは彼女の気持ちと繋がっているせいか、弱々しく揺れていた。さすがにこれは哀れに過ぎると感じた二人は互いに一つ頷き合うと提灯おばけの彼女に言った。
「貴女さえ良ければ、その男を探す助力をいたそう」
「え、本当に?」
「はい。同じ付喪神のよしみではないですか」
「ああ、嬉しいよぅ。なんだか元気が湧いてきたよ」
先程までは弱々しかった彼女の灯りも、今や一回り程には強くなり辺りを照らすほどになった。
「して、その男の人相は…分からんか」
「あぃ…ですが、旅籠の方からあまり良く思われていなかったようですねぇ」
「ううむ、その辺で当たりを付けいくしかないか」
「さようですね」
雲を掴むような話であったが、弥彦とお華は一つの案を示した。
「某とお華は隣町に戻り一晩を明かした後、その男について調べてみるつもりだ」
「貴女も一緒に来ますか?」
「行くよぅ。行って、今度こそあたしを使ってもらうんだ」
そして、弥彦とお華、提灯おばけの彼女は今しがた通ってきた道を戻ると適当に宿を見繕い、夜を明かした。
一夜明けて宿屋で朝食を済ませた三人は宿屋を出た後、商店に赴くと笠に杖、手甲、脚絆を買い揃えた。そして、一度自分たちの住む長屋のある町に戻ると、改めて旅籠に向かった。何の支度も無い者が突然旅籠を訪ね、客の事を聞き出そうとしたとなれば、いらぬ誤解を招くであろうというお華の提案であった。
たしかにその旅籠は門構えも立派な羽振りの良さそうな旅籠だった。少しばかり気負いした弥彦であったが、気合いを入れると戸を開けて中に入った。暫くすると、いらっしゃいませという声とともに小太りな男がやって来た。どうやらこの旅籠の番頭らしい。
「はいはい、いらっしゃいませ。お三方ともお泊まりでしょうか」
「いや、今日は脚を休めるために寄らせてもらったのだ。部屋は借りるが泊まらないつもりでいる」
「さようでございますか。では、そのようにいたします。桶に湯をはって持たせて来ましょう」
「よろしく頼む」
番頭は立ち上がると腹を揺らしながら奥へと行ってしまった。暫くすると、女中が桶と手拭いを持って来た。二人は湯に浸して絞った手拭いで足を拭くと、女中の案内で部屋に入った。
「お泊まりにならないそうですが、何か召し上がっていかれますか?」
「お華は何か食べたい物などあるか?」
「では、何か甘い物などを」
「では何か甘い物を二つと茶を三つ頼む」
「かしこまりました」
女中の持って来た物は落雁だった。牡丹を象られた薄桃色のそれは、見て良し食べて良しの一級品であった。上品な甘さに顔を綻ばせるお華達を見て、弥彦は懐からなけなしの金子を取り出すと、代金と心付けを渡した。
「ところで女中、最近の夜半にここを出た者はいるか?いたのであれば先に発たれてしまったが、あれは私の知人でな、峠をこえた町で落ち合うことになっているのだ」
「ええ、たしかにいらっしゃいましたが…」
そう答えた女中はなんとも渋い顔をしていた。これは一悶着あったに違いないと考えた茶を一口飲むと言った。
「たしかにあれは荒っぽい所がある奴ではあるな…」
この一言が呼び水となったのか、女中は立て板に水とばかりに語りだした。金の払いは良いが酒癖が悪く、調度品をいくつか壊したらしい。そして、話が番頭に対する愚痴になったころ、女中ははっと思い出したかのように辺りを見回すと口元に手を当て、誤魔化すように笑った。
「どうも失礼しました。なにぶん話し出すと止まらない性分でして」
「いいや、気にしていないとも。それに知人が狼藉を働いてしまったのだ、愚痴一つ二つを聞くことは当然だろう」
そして、時折お華達を交えて聞き出したことを纏めると、かの男は弥彦の住む町に住んでおり、自分の家に帰ったとのことだった。女中がいなくなり、静かになった部屋で三人は額を寄せて話し合っていた。
「さて、件の男の素性は分かった」
「ええ、次は本人を見付けなければなりませんね」
「だが同じ町に住んでいるとはいえ、なかなかに骨の折れることになるな」
弥彦とお華がどうしたものかと頭を捻っていると、提灯おばけが割って入った。
「お二人にはたいへんお世話になりました。ここからは一人でなんとかするよぅ」
「本当に大丈夫なのかい?」
弥彦は彼女のことを心配した。峠で寂しそうに主が通るのをひたすらに待ち続けていた姿を思えば当然といえば当然であった。しかし、彼女の意思は梃子でも動かないらしく、頑なであった。
「弥彦様、彼女もそう言っている事ですし、ここは任せることにいたしましょう」
「ううむ、しかしな…」
「現に私が弥彦様の下へと帰り着いたではありませんか。彼女とて付喪神です。主の下へ辿り着くことは出来るでしょう」
「ならば、そうしよう」
かくして、弥彦とお華は提灯おばけと別れることとなった。二人は彼女が無事に主の下へ辿り着くことができるよう祈りながら、家路についた。
時は丑三つ時。場所は閑散とした田園地帯。そこに一軒の家が建っていた。窓には板が打ち付けられ、隙間という隙間には目張りが施されているため灯り一つ漏れていない。ここにかの男は住んでいる。そして、この家は夜な夜な所の無頼漢どもが集まって賭博をする場であった。この男、辺りの香具師の元締めである。そのため、羽振りはいいが人が悪いのだった。
「三吾の野郎、まだ来やがらねえ。今日は良いかもが捕まったっつうによ。これじゃあいかさまの準備もままならねぇ」
そう溢しながら戸口の隙間から外を睨め付けていると、提灯の灯りが近付いて来るのが見えた。おそらく、三吾なる男がかも達を連れてきたのかもしれない。元締めの男は行灯の灯りを消すと、気配を消して一行の到着を待った。しかし、待てども三吾なる男がやって来ることはなかった。痺れを切らした男が再び戸口の隙間から外を窺おうとしたその時、部屋の中にぼうっと灯りが灯った。突然のことに瞠目した男であったが、懐から匕首を取り出すと切っ先を灯りに突き付けた。
「手前ぇ、なにもんだ。さては化生の類いか」
灯りに慣れ始めた目は人ならざる姿を映していた。見た目こそ少女然としていても、締め切られた建物に音もなく忍び込むのだ。男は警戒心を顕にしていた。しかし、そんな男とは裏腹に、少女はにんまりと口角を吊り上げた。
「やっと見つけたよぅ、主様。今度こそあたしをちゃぁんと使ってもらうよぅ」
少女はそう言うと、男を押し倒すと着物を剥ぎだした。男も反抗を試みたが、その度に尋常ならざる膂力で押さえ付けられ、ついには少女の好きなように犯されるままとなった。
三吾は焦っていた。金勘定と時間に煩い元締めを待たせてしまっているからだ。三吾は戸の前に立つと、中の気配を窺って声をかけた。
「元締め、三吾でございやす。客人をお連れしやした」
しかし、元締めからの返事はなく、不審に思った三吾が戸を開けると、部屋の中は噎せ返るような男女の汗の臭いが立ち込めるだけで、後はもぬけの殻だった。
「お華、何か手伝うことはあるかい?」
「いえいえ、気持ちだけでも充分ですよ弥彦様。ゆるりとお待ちください」
勝手場を仕切る者にそう言われてしまうといかんともしがたく、弥彦はしぶしぶ卓に着いた。しかし、妻が甲斐甲斐しく働く傍らで何もしないというのは憚られるせいか、箪笥から比較的に綺麗な手拭いを引っ張り出すと長屋裏の井戸へ行った。
長屋の井戸は共用の物であるため、誰かしらと出会うことも多々ある。弥彦が汲み取った水で濡らした手拭いを絞っていると、隣の部屋の夫婦がやって来た。はだけた着物に手桶、手拭いのいでたちのため、情事の後の体を拭いに来たと見られた。奥方の妖狐、尾の数は2本と少ない、が弥彦の隣に立つと言った。
「昨夜は当てられてしまいましたわ」
その一言で全てを察した弥彦は、照れ隠しに咳払いをすると強く手拭いを絞り、そそくさと自分の部屋へ逃げ帰った。
「弥彦様、どちらへ行かれていたですか?」
「何もかも任せきりなのも悪いので、卓ぐらい拭こうと手拭いを濡らしてきた所だ」
「ありがとうございます。ですが、今度からは一言、お華に言ってくださいませ」
「すまんな、そうしよう」
弥彦が部屋へ入ろうとした所、ちょうどお華が長屋から顔を出して、少しだけ不機嫌そうに言った。弥彦はお華に一言謝った後、彼女の頭をくしゃりと撫でると部屋へ入った。お華はこそばゆそうに撫でられた後、手櫛で手早く癖を直すと弥彦を追った。
朝食は椀に山と盛られた白飯、大振りに切られた根深の汁、大根の香の物であった。二人は卓に着くと、朝食をとった。汁は熱かったが、根深の甘さと味噌の塩気の塩梅が良く、非常に旨いものだった。弥彦は根深の汁で白飯を二杯、香の物で一杯平らげると満足気に息を吐いた。すると奥からお華が盆に湯呑みをのせてやってくる。渋いお茶であった。お華もお茶を飲むと一心地着いたのかほうと息を吐いた。暫く二人静かにだらりと過ごしていると、弥彦がおもむろに話しだした。
「ここの所、何やら夜哭き峠で鬼火を見たというのが何人もいるらしい」
「そうでごさいますか。狐火ならば魔物娘におりますが、鬼火は聞いたことがございませんね」
夜哭き峠とは、弥彦たちの住む町と隣町を繋ぐ峠である。なんでも、昔、想い人に裏切られた女が泣きに泣いたのちに非業の死を遂げ、鬼へと変じ、夜な夜な慟哭の声が聞こえたという逸話からそう呼ばれているのだとか。しかしながら、弥彦は今の今まで慟哭など聞いた試しは無かった。魔物娘が現れても、人の世の世迷い言は変わらないものであった。
「間近に見た者は居ないそうだが、丑三つ時になると赤い火の玉が現れ、峠を越える者の後を憑けて行き、峠を越えた辺りでふっと消えてしまうらしい」
「まこと面妖な話ですこと」
「魔物娘の類いであれば、まず危害を加えることは無いと思うが、物取りかもしれん。お華も気を付けておくれ」
「そのようにいたします。ですが、このお華、弥彦様さえいれば怖い物などありませんよ」
弥彦は赤面して身動ぎをすると、お茶のお代わりを催促した。お華は分かりましたと、ころころと笑いながら言うと、弥彦の湯呑みを取って勝手場へ行った。
その夜、夜哭き峠に鬼火が現れた。暗闇をぼんやりと照らす火影がうっすらと人影を映し出す。まるで風に揺れる行灯の火のような儚いそれは、一陣の風に煽られて掻き消された。後には少女の寂しさを訴える声が残ったが、聞く相手のいない怨み節は月の無い夜空に溶けて消えた。
それから幾日かたった日のこと。お華を連れて隣町まで傘を売りに出かけた弥彦は、隣町で夕食を済ませ、夜哭き峠に差し掛かっていた。お華との夕食に時間を忘れたせいか、飯屋を出た時は既に辺りが暗く、夜哭き峠の手前で丑三つ時に差し掛かっていた。
「まさかこんな時間になってしまうとは…うん?」
「楽しい時間はあっという間なのですね…あれは…」
峠を半ばほど過ぎた頃だろうか、二人は後ろを着いてくる灯りに気付いた。ゆらゆらと揺れるそれは、付かず離れずの距離を保っているように思えた。
「お華、某の後ろに」
「ですが弥彦様、あの灯りは…」
弥彦はお華を自分の後ろに隠すと、無手のままで身構えた。二人が足を止めたため動きを止めていた灯りであったが、今はゆっくりとだが近付いている。薄ぼんやりとした灯りであったが、近付いていくにつれ、その灯りの主を映し出した。三つ巴の模様のある袂に腕を通し、丈の短い履き物に脚を通した姿をした少女であった。ただ、その少女の腹の所には小さな火が灯っており、ふわりと浮いていることから人ならざる者と分かった。彼女は怨めしいとも羨ましいともとれる目付きで二人を見ると動きを止めた。
「提灯おばけ…ですね」
「鬼火の正体は彼女だったのか…して、彼女も魔物娘なのか?」
「はい、私と同じ付喪神でございます」
二人が話している間も提灯おばけの彼女は、二人を見るともなしに見ているだけであった。このなんとも言えぬ雰囲気に息を詰まらせた弥彦が話しかけようとしたその時、提灯おばけの彼女はお華に視線を向けると問いかけた。
「唐傘おばけの姉さん、姉さんの主様は姉さんを良く使ってくれてますか?」
お華はその問いかけに首肯で返した。
「そうですか…手前語りですけれど、あたしは元は隣町のそこそこ大きな旅籠の名の入った提灯だったんですよぅ…」
曰く、彼女はただの提灯だった頃、ある夜に旅籠の客に買われた。その夜は月に厚い雲のかかった暗い夜だった。旅籠を出た男は提灯の蝋燭に火を灯すと、足早に歩きだした。その時はまだ、一時であっても自分は主の役に立てていると思っていた彼女であったが、夜哭き峠でことが起きた。男が峠の半ばに差し掛かった辺りで強く吹き上げる風が提灯を煽った。そして、提灯の蝋燭が倒れると瞬く間に火が回り、驚いた男は袴の裾を絡げると提灯の火を踏み消したそうだ。未練を残した提灯は提灯おばけに変じ、主が再びこの峠を通るのを待っていたが、それらしい人が通ったことはなく、ついに鬼火の噂話だけが独り歩きして、人の 往来は更に少なくなってしまった。
「ああなってしまったら、ただの提灯だったあたしに出来る事なんて無いけれどもね、主様を家に送り届けるくらいはしたかったなぁ…」
彼女に灯る灯りは彼女の気持ちと繋がっているせいか、弱々しく揺れていた。さすがにこれは哀れに過ぎると感じた二人は互いに一つ頷き合うと提灯おばけの彼女に言った。
「貴女さえ良ければ、その男を探す助力をいたそう」
「え、本当に?」
「はい。同じ付喪神のよしみではないですか」
「ああ、嬉しいよぅ。なんだか元気が湧いてきたよ」
先程までは弱々しかった彼女の灯りも、今や一回り程には強くなり辺りを照らすほどになった。
「して、その男の人相は…分からんか」
「あぃ…ですが、旅籠の方からあまり良く思われていなかったようですねぇ」
「ううむ、その辺で当たりを付けいくしかないか」
「さようですね」
雲を掴むような話であったが、弥彦とお華は一つの案を示した。
「某とお華は隣町に戻り一晩を明かした後、その男について調べてみるつもりだ」
「貴女も一緒に来ますか?」
「行くよぅ。行って、今度こそあたしを使ってもらうんだ」
そして、弥彦とお華、提灯おばけの彼女は今しがた通ってきた道を戻ると適当に宿を見繕い、夜を明かした。
一夜明けて宿屋で朝食を済ませた三人は宿屋を出た後、商店に赴くと笠に杖、手甲、脚絆を買い揃えた。そして、一度自分たちの住む長屋のある町に戻ると、改めて旅籠に向かった。何の支度も無い者が突然旅籠を訪ね、客の事を聞き出そうとしたとなれば、いらぬ誤解を招くであろうというお華の提案であった。
たしかにその旅籠は門構えも立派な羽振りの良さそうな旅籠だった。少しばかり気負いした弥彦であったが、気合いを入れると戸を開けて中に入った。暫くすると、いらっしゃいませという声とともに小太りな男がやって来た。どうやらこの旅籠の番頭らしい。
「はいはい、いらっしゃいませ。お三方ともお泊まりでしょうか」
「いや、今日は脚を休めるために寄らせてもらったのだ。部屋は借りるが泊まらないつもりでいる」
「さようでございますか。では、そのようにいたします。桶に湯をはって持たせて来ましょう」
「よろしく頼む」
番頭は立ち上がると腹を揺らしながら奥へと行ってしまった。暫くすると、女中が桶と手拭いを持って来た。二人は湯に浸して絞った手拭いで足を拭くと、女中の案内で部屋に入った。
「お泊まりにならないそうですが、何か召し上がっていかれますか?」
「お華は何か食べたい物などあるか?」
「では、何か甘い物などを」
「では何か甘い物を二つと茶を三つ頼む」
「かしこまりました」
女中の持って来た物は落雁だった。牡丹を象られた薄桃色のそれは、見て良し食べて良しの一級品であった。上品な甘さに顔を綻ばせるお華達を見て、弥彦は懐からなけなしの金子を取り出すと、代金と心付けを渡した。
「ところで女中、最近の夜半にここを出た者はいるか?いたのであれば先に発たれてしまったが、あれは私の知人でな、峠をこえた町で落ち合うことになっているのだ」
「ええ、たしかにいらっしゃいましたが…」
そう答えた女中はなんとも渋い顔をしていた。これは一悶着あったに違いないと考えた茶を一口飲むと言った。
「たしかにあれは荒っぽい所がある奴ではあるな…」
この一言が呼び水となったのか、女中は立て板に水とばかりに語りだした。金の払いは良いが酒癖が悪く、調度品をいくつか壊したらしい。そして、話が番頭に対する愚痴になったころ、女中ははっと思い出したかのように辺りを見回すと口元に手を当て、誤魔化すように笑った。
「どうも失礼しました。なにぶん話し出すと止まらない性分でして」
「いいや、気にしていないとも。それに知人が狼藉を働いてしまったのだ、愚痴一つ二つを聞くことは当然だろう」
そして、時折お華達を交えて聞き出したことを纏めると、かの男は弥彦の住む町に住んでおり、自分の家に帰ったとのことだった。女中がいなくなり、静かになった部屋で三人は額を寄せて話し合っていた。
「さて、件の男の素性は分かった」
「ええ、次は本人を見付けなければなりませんね」
「だが同じ町に住んでいるとはいえ、なかなかに骨の折れることになるな」
弥彦とお華がどうしたものかと頭を捻っていると、提灯おばけが割って入った。
「お二人にはたいへんお世話になりました。ここからは一人でなんとかするよぅ」
「本当に大丈夫なのかい?」
弥彦は彼女のことを心配した。峠で寂しそうに主が通るのをひたすらに待ち続けていた姿を思えば当然といえば当然であった。しかし、彼女の意思は梃子でも動かないらしく、頑なであった。
「弥彦様、彼女もそう言っている事ですし、ここは任せることにいたしましょう」
「ううむ、しかしな…」
「現に私が弥彦様の下へと帰り着いたではありませんか。彼女とて付喪神です。主の下へ辿り着くことは出来るでしょう」
「ならば、そうしよう」
かくして、弥彦とお華は提灯おばけと別れることとなった。二人は彼女が無事に主の下へ辿り着くことができるよう祈りながら、家路についた。
時は丑三つ時。場所は閑散とした田園地帯。そこに一軒の家が建っていた。窓には板が打ち付けられ、隙間という隙間には目張りが施されているため灯り一つ漏れていない。ここにかの男は住んでいる。そして、この家は夜な夜な所の無頼漢どもが集まって賭博をする場であった。この男、辺りの香具師の元締めである。そのため、羽振りはいいが人が悪いのだった。
「三吾の野郎、まだ来やがらねえ。今日は良いかもが捕まったっつうによ。これじゃあいかさまの準備もままならねぇ」
そう溢しながら戸口の隙間から外を睨め付けていると、提灯の灯りが近付いて来るのが見えた。おそらく、三吾なる男がかも達を連れてきたのかもしれない。元締めの男は行灯の灯りを消すと、気配を消して一行の到着を待った。しかし、待てども三吾なる男がやって来ることはなかった。痺れを切らした男が再び戸口の隙間から外を窺おうとしたその時、部屋の中にぼうっと灯りが灯った。突然のことに瞠目した男であったが、懐から匕首を取り出すと切っ先を灯りに突き付けた。
「手前ぇ、なにもんだ。さては化生の類いか」
灯りに慣れ始めた目は人ならざる姿を映していた。見た目こそ少女然としていても、締め切られた建物に音もなく忍び込むのだ。男は警戒心を顕にしていた。しかし、そんな男とは裏腹に、少女はにんまりと口角を吊り上げた。
「やっと見つけたよぅ、主様。今度こそあたしをちゃぁんと使ってもらうよぅ」
少女はそう言うと、男を押し倒すと着物を剥ぎだした。男も反抗を試みたが、その度に尋常ならざる膂力で押さえ付けられ、ついには少女の好きなように犯されるままとなった。
三吾は焦っていた。金勘定と時間に煩い元締めを待たせてしまっているからだ。三吾は戸の前に立つと、中の気配を窺って声をかけた。
「元締め、三吾でございやす。客人をお連れしやした」
しかし、元締めからの返事はなく、不審に思った三吾が戸を開けると、部屋の中は噎せ返るような男女の汗の臭いが立ち込めるだけで、後はもぬけの殻だった。
16/04/17 21:27更新 / PLUTO
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