連載小説
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妖刀霞斬り
お華が弥彦の妻となって以来、弥彦の生活は徐々にだか向上していた。お華の助言で傘張りだけでなく、剣術道場紛いのものを時々行って町の子供や農夫などに教えているのだ。参加した町人たちは各々金子やら米、野菜、魚などを謝礼として持ち寄っている。そのため、弥彦とお華は手元にある金子の割りに、それなりの生活が出来ている。
もともと倹約家なお華であったが、ある程度纏まった額になったある日、調度品などの細々とした物を買いに行くと言った。弥彦は荷物を持つくらいはすべきだろうと考えたが、折り悪く、その日は剣術を教えに行く日でもあった。その事をお華に話すと

「私のために時間を割いていただけるのは嬉しゅうございますが、勤めは果たさねばなりませんよ」

と、言われる始末であった。なまじ理解のある妻であるがためにあまり我儘を言わぬお華であったが、その実、二人だけの時間に固執していることを弥彦は知っていた。弥彦は、今度稲荷亭で二人のんびりと飯でも食べるとしようと言って、自ら削り出した樫の木刀を腰に差すと部屋を出た。お華はにこにこと微笑みながら手を振って弥彦を見送った。



稽古が終わり、町人の好意で貸してもらっている井戸の水で身を清めた弥彦は、帰りの道すがら剣呑な光景を目の当たりにした。傍目に見れば線の細い武士風の男に、昼間から酔っているのか赤ら顔の浪人二人が食って掛かっていた。どうやらこの浪人たち、当初は武士風の男にちょっかいをかけ、手を出してきたら返り討ちにして金銭を巻き上げてやろうと考えていたらしい。しかし、武士風の男の、浪人たちを道端の石くれか何かの様に扱う態度が余程腹に据えかねたのか、こうして喧嘩沙汰となった訳である。
道行く人のほとんどはやっかいごとは御免とばかりに見てみぬ振りであったが、生来から人の良い弥彦は仲裁に入ろうと近付いた。しかし、弥彦がその一歩を踏み出そうとした時、浪人たちの怒りは頂点に達したらしかった。

「いけ好かねえ態度をとりやがって!」
「ふん、下らん輩だ」
「女みたいになよっちいなりをしてるくせに、意気がるなよ!」
「…なんだと」

武士風の男から凄まじい怒気が迸った。そして、その怒気に当てられたらしい浪人の一人が太刀を抜こうとするのに先んじて武士風の男が小太刀の鯉口を切ろうとしたその瞬間、放たれた矢の如く飛来した礫が浪人の手を強かに打った。浪人は柄から手を放すと、その場に踞った。
礫を投げたのは正に弥彦であり、浪人たちと武士風の男の間に割って入った。弥彦は木刀の柄に手を掛けると、浪人を見据えたまま言った。

「義によって助太刀いたす」
「……」

武士風の男は無言で弥彦を窺ってうるようだったが、弥彦にとってそれは些末なことだった。

「畜生めぇ…これでも喰らいやがれ!」

礫に手を打たれた男が痛みを堪えながら弥彦に殴りかかろうとするが、弥彦の方が一枚も二枚も上手であった。殴りに来た拳を反らすと勢いをそのままに男を投げて、背中から地面に叩き付けた。余りの痛みに男はもんどりを打って転げ回った。片割れの様に少しばかり躊躇したもう一人の浪人であったが、太刀を抜くと大上段に振りかぶった。しかし、それさえも物ともしない弥彦は、やっ!、と裂帛の気合いと共に木刀を引き抜き浪人の腹を打つと、浪人は声も無く崩れ落ちた。

「実にお見事」

武士風の男が手を叩きながら弥彦を誉めた。男の声色とは違うそれに違和感を覚えた弥彦であったが、向かいの茶屋から先程の浪人たちの仲間と思われる奴らが五人程雪崩出て来たため、その考えは止めざるを得なかった。

「これはさすがに不味いか…」

弥彦は武士風の男の手を取ると、一目散に駆け出した。背後に男たちの怒声が聞こえる。そして、その怒声も遠ざかった頃、弥彦たちは茶屋に駆け込んだ。乱れた呼吸を整えつつ外の気配を窺うも、あの浪人たちが追ってくる気配はなかった。

「どうやら巻いたらしい。…成り行きで茶屋に入ったが、軽く腹拵えとしよう。一緒にいかがか」

弥彦の提案に一瞬驚いた様子の武士風の男であったが、意味深長な笑みを浮かべて快諾した。
二人は店の奥まった所にある卓に着くと、各々菓子やら茶やらを頼んだ。

「まさか会って早々にこのような店に連れ込むとは、貴殿は相当な好色漢らしい」

武士風の男がくつくつとわらいながら言うと、弥彦はその真意を問いた。すると、武士風の男はいっそうに笑みを深くして答えた。

「ふふ、どうやら貴殿は私以上に世間に疎いと見た。周りを見渡してみるといい」

弥彦は店の中をぐるりと見渡した。男女連れ立った客と男一人らしい客がほとんどである。そして、どの客も連れ添いの相手か店の者と懇ろな雰囲気になると二階へと上がって行った。さしもの弥彦もここが逢い引き茶屋であることに気付いたのか、慌てて否定した。

「火急であったとは言え申し訳ない。それと、某に男色の気は無いゆえ」
「ふふ、分かっていたさ。からかってみただけ」
「悪い人だ」
「そうかもしれないね。悪い人ついでと言う訳ではないが、私はこんな成りをしているけれど、女なのさ。騙すつもりはなかったのだが、訳ありでね」

弥彦はこの男装の麗人の言葉に得心した。腰に大小の物を差しているが、声色は男のそれではなく、取った手は豆が出来ていたものの女性的な柔らかみのあるものだった。また、さらしを巻いているためかやや控えめであるが、着物の胸元は布地の余りとは違う膨らみをしている。

「やはりそうであったか」
「おや、これにはあまり驚かないようだね」
「確信こそなかったが、そのような気はしていたのだ」
「隠していても分かる人は分かってしまうらしい」
「隠し事とは得てしてそのような物であろう」
「然り。貴殿は鋭いな」
「それほどの事では…」

弥彦はふと、疑問に思っていたことを聞こうと思った。それは、彼女の剣の腕前に関してであった。浪人に絡まれていた時に迸ったあの怒気は常人のそれではなく、弥彦は浪人を守るためにも礫を投げたのだ。その事を問い質すと、思いの外あっさりと返事は返ってきた。

「なにもあやつの手首から先を切り落とそうなどと思ってなどいないよ。それに、これは刃引きゆえ斬れないのさ」

彼女は小柄をぽんぽんと叩きながら、加減をした上で精々が打ち身程度だろうといった。物騒な話ではあるが、これも彼女なりの身の振り方なのだろうと弥彦は納得することにしたのだった。

「しかし、貴殿はその身のこなしからして相当に使うようだね」
「某などまだまだ…」

それから二人は辺りが薄暗くなるまで剣術に関して語った。注文もせず、上の階を利用する素振りさえない客に呆れていた店員であったが、好みの客が来たのか目の色を変えるとその客の所へ向かった。



二人は流れの緩やかな大河に掛かった橋を渡っている。橋を半ばほど渡った辺りで彼女は足を止めると、弥彦に語りかけた。

「この時間を薄暮というそうだ。古事では顔立ちのはっきりしなくなる時間ゆえ、誰そ彼、つまり黄昏と言ったそうだ」
「ふむ、それは知らなんだ」

弥彦は彼女の後ろでしきりに感心するばかりであった。

「そして、最近、この時間になると辻斬りが出るらしいね」
「物騒極まりない話だ。某も気を付けるとしよう」
「ふふふ、その必要はないよ」
「…それは一体…むっ!」

瞬間、彼女の腰元から弥彦目掛けて一条の煌めきが走った。彼女が振り向きざまに一歩踏み出すと逆袈裟に太刀を抜き打ったのだ。紫電の如き一閃は無惨にも弥彦を切り捨てるかと思われたが、弥彦は三間も後ろに飛び退ってかわしてみせた。続けざま、弥彦は木刀を抜くと正眼に構え、油断無く彼女を見据えた。突然の凶行に走った彼女は何とも蠱惑的な表情を浮かべて弥彦を見ていた。

「まさか私の初太刀をかわすとは…ますます惚れてしまったよ」
「そのような事より、何故…」
「そのような事とは心外じゃないか。…強いて言うならば、この刀がそれを望んでいるのやもしれないね」

弥彦は一層怪訝な顔つきで彼女を見た。

「この刀は生きているのさ。手に取った日からどうやら私は取り憑かれてしまったらしい」

その証拠に、目を凝らして見ると、真紅と漆黒の瘴気が刀から立ち上ぼり、彼女の右半身を呑み込みつつあり、右の瞳は紅く輝いている。

「もしや妖刀の類いか」
「ふふ、そのまさかさ。今となっては私の身体の一部とも言えよう…いや、私が刀の一部になってしまったのやもしれない」

最早、狂気とも呼べよう感情の篭った声でくつくつと笑いながら、彼女は続けた。

「斬ると念じて振るえば、霞を斬るかの如く物を通り抜け、傷一つ着けることのない刀さ。しかしね、この刀は目に見えぬ何かを確かに斬っている」
「世迷い言を…」
「世迷い言ではないよ。断言出来る」
「まさか!」
「商人、岡っ引き、町娘…両の手で数えきれぬ程に斬ったよ。そして、斬る度に刃の如く鋭い快楽が私の中を駆け巡るのさ。最早、手離すことは叶わないよ」

彼女は恍惚とした表情で刀身を眺めながら、切っ先に向けて指を這わせた。そうかと思えば切なく物憂げな表情を見せ、熱の篭った視線を弥彦に投げ掛けた。

「けれども、最近は満たされないのさ。斬れば斬るだけ渇きが増すのだよ」

彼女はゆらりと刀を下段に構えた。

「でも、確信したよ。貴殿を斬ればこの渇きは癒されると…ゆえに、貴殿を斬らせてもらう!」

彼女は下駄から脇構えに素早く転じると弥彦へと駆けた。三間の間を物ともしない踏み込みから放たれた斬り上げを、弥彦は右へ捌く。かわしざまに放たれた木刀による薙ぎ払いは、意識を刈り取るのは確実な威力を有している。真剣の如き一閃を彼女は屈んでやり過ごすと、弥彦の頭部を突き上げた。虚を突かれる形となった弥彦は首を捻ってこれをかわそうとするも、顎から頬へと切っ先が滑り込む。

「ぬっ!?」

弥彦は横に飛び、転がりながら距離を取ると直ぐ様立ち上がろうとした。だが、それは叶わず力無く膝を着いた。斬られた頬がじくじくと疼き、熱が身体を冒す。
彼女はそれを身悶えながらも一心に見つめている。

「ふふふ、斬った…斬った斬った斬った!ああ、身悶える程の愉悦を貴殿も感じるかい?私は今にも果ててしまいそうな程だよ……しかしね、まだまだ足りない!」

彼女は弥彦の胸を深々と斬ると、勢いをそのままに押し倒し、馬乗りになった。
刀から瘴気が溢れ、彼女の身体に渦を巻くかの様にまとわりつく。次第にその渦は彼女に
取り込まれた。快楽により濡れた瞳が弥彦を見下ろしている。

「はははは!どうやら、ついに私はこの刀その物になってしまったよ!」

彼女は弥彦の耳に吐息がかかる程に口元を寄せると艶やかな声で呟いた。

「刀には鞘が必要でしょう?私の鞘になって下さいまし」

男性的な話し方から女性的な話し方に変わり、淑やかさを感じさせた彼女に弥彦は不覚にも胸の高鳴りを覚えた。そして、互いの唇が触れ合おうとしたその時、彼方からお華の声が届いた。

「弥彦様!いずこにいらっしゃるのですか!?」

妖刀の女は切なげに弥彦の胸元の傷に指を這わせた。その様はさながら別れを惜しみ、次の逢瀬を待ち望むかのようであった。

「あら、弥彦様にはもう奥方様がいらっしゃったのですか…ですが、私は妾でも構いません。いつの日かこの千春を打ち倒し、娶ってくださいまし」

千春と名乗った女は弥彦から身を離すと橋の欄干にふわりと飛び乗った。そして、刀を鞘に納めると、弥彦を横目で捉えながら言った。

「では弥彦殿、またいずれ相見えましょうぞ」

その一言を残し、千春は大河に身を投じた。飛沫を上げて波打つ水面であったが、その波はやがて緩やかな流れに溶けると闇夜の濃紺と一つになった。

「弥彦様!どうかなされたのですか!?」

余程慌てていたためか、駆け寄るお華の息は酷く荒れ、その身体はしっとりと汗ばんでいた。

「どうやら辻斬りにあったらしい」
「も、もしやお怪我を!?」
「案ずるな、怪我は無い」

慌てふためくお華を宥める弥彦であったが、その心の内は穏やかならざるものであった。
かの女剣客、千春と再び出会うだろうという確信が僅かなささくれとして残っているからだ。
16/04/24 20:42更新 / PLUTO
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■作者メッセージ
私にとって一夫一妻が最良ではありますが、千春という人物の存在感を強く感じ、このような話となりました。

また、終わり方は歯切れの悪いように感じられますが、千春はいずれ再登場するためこうなりました。

楽しんでいただけたでしょうか?

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