リリムと心の傷跡
朝の空気が気持ちいい。
ほとんどの人が朝食を食べ終えて仕事へと出向く時間に、私は街を歩いていた。
向かうは知り合いが経営している店。
『狐の尻尾』と書かれた看板を掲げている店は扉に準備中となっていたが、お構いなしに店へと入ると、レナがせっせとカウンターで作業をしていた。
「あ、おはようございます、ミリアさん。朝から来るなんて珍しいですね」
「おはよう、レナ。一つお願いがあるのだけど、いいかしら?」
私の頼みは意外だったのか、レナは可愛らしく首をかしげる。
「お願いですか。なんです?」
「大したことじゃないわ。持ち帰りできる料理を二人分お願いしたいの」
「なんだ、そんなことですか。もちろんいいですよ。料理の希望はあります?」
律儀に訊いてくるが、この子の作る料理はなんだっておいしいのだから、希望なんてない。
「特にないわね。レナにお任せするわ」
「わかりました。じゃあ、さくっと作ってきますね」
身を翻し、レナは厨房へと向かう。
やはり料理が出来るのは羨ましい。
そんなことを思いながらレナを見送ると、すぐに別の考え事をする。
頭に浮かぶのは、つい最近できた新しい友達のこと。
レナに用意してもらっているのは、彼女と一緒に食べるための朝食。
別に私が作ってもいいのだが、今はまだ簡単なものしか作れないのでレナを頼ることにしたわけだ。
なにより、レナの料理ならあの子も文句は言わないと思うし。
心の中で言い訳していると、レナが戻ってきた。
「今ゆっくりと焼いてますから、少し待って下さい」
「焼き加減を傍で見ていなくていいの?」
「どれくらい待てばいい感じに焼けるかくらいは分かりますから」
「さすがね。ところでハンス君は?」
「あの人なら、食材の仕入れに行ってますよ。それよりミリアさん、なんで二人分なんですか?まさか旦那さんが出来たんですか!?」
勢い込んで訊いてくるレナに苦笑してしまう。
「夫が出来たら連れてきてるわ。今用意してもらっているのは…」
友達の分、と言おうとして私はしゃべるのをやめる。
私はもう友達だと思っているけど、ルカはそう思ってくれているのかしら?
自分が一方的に友達だと思っているだけなのでは?
急に頭に浮かんできた疑問のせいで、ちょっと自信がなくなる。
そのせいで、目の前にいたレナに呟いていた。
「レナ、私達って、友達よね?」
「え…」
一瞬戸惑ったような表情になるレナ。
直後、その目尻に涙が浮かぶ。
「えっと、私はミリアさんとは友達だと思ってたんですけど、ひょっとして私の勘違いでしたか?それとも、なにか嫌われるようなことしました…?」
ああ、いけない。かなり誤解を招く発言をしてしまった。
「ごめんなさい、レナ。違うのよ、それは誤解。私はあなたを友達だと思っているわ。ただ、それが私の一方的な勘違いだったらどうしようと思ったものだから」
「そうなんですか…?よかった、嫌われてたら、泣いちゃうところでした」
ほとんど涙目のレナは袖で目元を拭うと、とぼとぼと厨房に入って行く。
そしてすぐに湯気の立つ料理を持って出てきた。
「お待たせしました。とりあえず、ミックスピザです」
大きな皿に乗せられたピザが目の前に置かれた。
「さすがレナ。仕事が早いわね。で、とりあえずってどういうこと?」
「これだけじゃないですからね。今、特製サラダを持ってきます」
レナは再び厨房へ行き、宣言通りサラダを持ってきた。
色鮮やかな野菜とベーコンが綺麗に盛られたサラダは見た目からしておいしそうだ。
「はい、どうぞ。ドレッシングは特製のものをかけておきました」
「ありがとう。じゃあ、代金はいくら?今回は二人分だから払うわ」
いつもはタダで食べさせてもらっているが、今回は二人分。
いくらなんでも、これで支払わないのは気が引ける。
だが、レナは首を振って固辞した。
「代金はいりません。友達、ですから」
友達の部分を強調して言うレナに、思わず笑ってしまう。
本当にいい友達を持ったものだ。
「ありがとう、レナ。今度はその子も連れてくるから」
「はい、お待ちしています」
四本の尻尾をわさわさと揺らすレナに見送られながら、店を後にする。
「さて、行きましょうか」
ピザに保温魔法をかけて冷めないようにすると、私は少し心を躍らせながらルカの家へと向かった。
森の中にひっそりとある家。
こういう表現をするとその中には何かよからぬものがいそうな感じがするが、私の目の前にある家には可愛らしいサキュバスがいるのだから不思議なものだ。
それにしても、森の中は空気が澄んでいて気持ちがいい。
それが朝ともなれば、なおさらだ。
ひょっとしたら、ルカもそういうところを基準にここに住んでいるのかもしれない。
そんなことを思いながら、彼女の家の扉をノックする。
「…誰?」
少しの間を開けて扉が開かれ、怪訝そうな顔のルカが顔を出した。
「おはよう、ルカ。遊びに来たわ」
笑顔とともに挨拶したのだが、ルカは僅かに表情を曇らせ、こう言った。
「今忙しいの。帰って」
ものすごく素気ない言葉とともに、無情にも扉が閉められた。
…相変わらずな態度だ。
初めて会った時にこんな態度を取られたら、さすがに傷ついたかもしれない。
でも、今はそんなことはない。
ルカがどんな人物か、少しだけ知っているから。
実はいい子だから。
しかし、この対応は少し酷いと思う。
せっかく会いに来ているのだから、挨拶くらいはしてほしい。
やられたらやり返すわけじゃないが、少し茶化したくなってしまう。
だから、ちょっとした仕返しを思いついた私は再び扉をノックする。
そして、わざとらしい声で言った。
「ルー、カー、ちゃん。あー、そー、び」
ところが、全部言い切る前にすごい勢いで扉が開き、ルカの手が私の腕を掴むと、そのまま家の中に引っ張り込まれた。
直後、後ろで乱暴に扉が閉まる音がしたので、振り向くと顔を真っ赤にしたルカがこちらを睨んでいた。
「あんた、なに恥ずかしいこと言ってんのよ!」
「あら、遊ぼうって言っただけよ?」
「そこじゃないわよ!言い方よ、言い方!あんな恥ずかしい呼ばれ方をする方の身にもなってみなさいよ!!」
「だって、ルカが家に入れてくれないんだもの。寂しかったわ」
軽く首をかしげて微笑むと、ルカは呆れたようにため息をつく。
「まったく、アタシは忙しいのに…」
ぶつぶつと文句の言葉を吐いているが、顔はそう嫌そうでもない。
「それより、差し入れを持ってきたわ。朝食はもう食べた?」
「まだだけど。…それ、差し入れだったの?」
ルカの視線が私の持っている袋へと向けられる。
「ええ。二人で一緒に食べようと思って」
「あ、あんた、一緒にって…」
恥ずかしかったらしく、ルカの頬が赤くなる。
こういう反応がとても可愛いルカに、つい笑みが漏れてしまう。
「と、とりあえず、もうすぐ仕事が終わるから、それまで待って」
上ずった声でそう言うルカは、器具やら試験管をいじり始める。
「わかったわ。それで、ルカの仕事ってなにをするの?」
「まあ、主に薬の調合ってとこね。依頼を受けて薬を作る。これがアタシの仕事よ。で、依頼がない時は新しい薬の実験や研究」
口ではそう説明しながらもルカの手は止まらず、二つの試験管に入った液体を一つのフラスコに入れる。
本人は何をしているかきちんと分かっているのだろうが、横から見ている私にはさっぱり分からない。
手伝えることもなさそうなので見物することにしよう。
真剣な表情で調合しているルカを見ているのは悪くないし。
邪魔しないように話しかけもせず、ただ静かにルカの様子を眺めているとやがて調合は終わったらしい。
「ふう。お待たせ、終わったわ」
フラスコの中の液体が鮮やかな赤に変わると、ルカは机から立ち上がる。
「もういいの?」
「ええ、これで完成だから。じゃ、食事にしましょ」
ルカが調合用の机から移ってくると、私はピザが入った箱を取り出してふたを開ける。
途端に広がるチーズの香り。
それに混じって仄かに香るバジルも食欲をかき立てる。
「へー、意外とまともな差し入れじゃない」
ルカがそんな感想を漏らすが、意外と、の部分が引っかかる。
一体どんな差し入れだと思ったのだろう。
頭ではそんなことを考えながらも、まんざらでもないルカの様子を見ればどうでもいいかと思ってしまう。
「友達特製のピザだから、味は問題ないと思うわ。それと、これも」
続けてレナ特製サラダを取り出し、テーブルに置く。
「これもそうなの?」
「ええ。好き嫌いはあるかしら?」
なんとなくルカはありそうだなと思って訊いてみると、案の定、ルカは嫌そうな顔になる。
「なによ、その目は。言っとくけど、このサラダなら問題ないから」
「それはよかった。じゃあ、さっそく食べましょ」
ルカからナイフを借りて均等な大きさに切り分けると、その一つを取る。
ルカも同じように一切れ取ると、口に運んだ。
一口、二口と特に文句もなく食べているところを見ると、口に合ったらしい。
「どう?おいしい?」
「そうね、悪くないわ」
返ってきた返事はちょっと素気ないが、この悪くないはルカにとっての賛辞なはず。
そう思うことにして、私もピザを食べ始める。
レナ特製のピザは具もたくさんのっていて、口に入れると様々な味が広がる。
それでも、お互いの味を崩すことなく綺麗にまとまっているのだからすごい。
だからこそこれがタダというのはなんだか申し訳ない気がする。
「そういえば、例の勇者の血についてはどうだったの?」
「ああ、あれ。結論から言うと、なんの変哲もないただの血だったわ。加護を受けるヤツは血からして特別なんじゃないかと思ったけど、違ったみたい」
つまらなそうに語るルカの顔には、意味のない時間を過ごしたと大書してあった。
「それは残念ね。で、今は私が手伝えることはないの?」
「ないわね。そもそも、大概のことならアタシ一人で出来るし」
確かにそうかもしれない。
なにしろルカはバフォメットと同等の魔力を持っているのだ。
その気になれば大体のことは出来ておかしくない。
だからこそ、頭に一つの疑問が浮かぶ。
「大概のことは出来ると言うのなら、なんでこの間の依頼は自分でやらなかったの?あなた程の力があれば、自力で勇者の血を採ることも出来たはずだけど」
魅了が効かないことを調べたいのだとしても、それなら自分で魅了魔法なりなんなりを試せばいいはず。
むしろ、ルカの性格を考えるとまず先に自分で実行しそうだ。
それをわざわざ他人に任せる理由が分からない。
「勇者の相手なんかしたくないからよ」
私の問いに、ルカは短くそう返してきた。
その言葉に嘘があるようには思えない。
だが、それだけではない気がする。
「その理由はなぜ?」
「その質問は却下」
なんとなくそんな気はしてたが、やはりこの質問はダメらしい。
まあ、ほとんどダメ元で言ってみたから別にいいのだけどね。
諦めの色を含んだため息をつくと会話は一旦やめにして、今度はサラダを食べてみる。
瑞々しい野菜ももちろんだが、この特製ドレッシングがさっぱりとしていておいしい。
おいしいのだが、何をどうやったらこの味になるのか分からない。
「そのサラダ、おいしい?」
「ええ、とっても。ルカも食べてみて。きっと気に入るわ」
サラダの皿をルカの方へと押しやると、ルカは素直にサラダをつまむ。
そして口に入れた瞬間、ハッとしたように目を見開くがそこはルカ。すぐにいつもの澄まし顔に戻る。
「そうね。悪くないんじゃない?」
そんなことを言いつつ、手はきっちりと二口目を口に運んでいる。
はっきり言って微笑ましいのだが、ちょっと意地悪をしたくなってしまう。
だから、言ってあげた。
「あまり口に合わなかったみたいね。じゃあ、これは私が責任を持って処分するわ」
少し残念そうな口調とともに、サラダを自分の方へと引き寄せようとする。
だが、それは叶わなかった。
「ちょっと!食べないなんて言ってないでしょ!」
見れば、ルカもきっちりサラダを掴んでいた。
「あら、実は気に入ったのね」
「なっ!ち、違うわよ!せっかくあんたが持ってきたのに、食べなかったら悪いでしょ!だからよ!!」
素直じゃないルカは可愛らしい言い訳をする。
本当に傍にいて楽しい子だ。
だから、そんなルカとの食事はとても楽しい時間だった。
ピザとサラダを完食し、空になった箱を片付けていると、ルカがうとうとしていることに気づいた。
「どうしたの、ルカ?眠そうだけど」
「そうね、お腹いっぱいになったら眠くなってきたわ」
ルカはそう言って小さく欠伸をする。
「ふぁ…。うー、眠いから寝るわ。ゴミは捨てとくから、その辺に置いといて」
眠そうな顔で近くのソファに移動すると、そのままソファへと寝転がる。
「私が遊びに来てるのに寝るの?」
「あんたが勝手に押しかけてきただけでしょ。それに、アタシ寝てないのよ」
「寝てないって、どうして?」
眠そうな目でこちらを見ているルカへ顔を向けると、ルカは部屋の一か所を指差す。
そこにあるのは食事前に完成した薬。
「昨日から調合してたからよ」
「昨日から?」
「そ、昨日から。アタシの場合、調合や実験してたら次の日だったなんてザラだから」
薬の調合が時間と集中力を必要とするのは私も知っている。
ただ、次の日になるまで実験や調合をしていられるのはすごいんじゃないだろうか。
改めてルカのすごさに感心する私に、ルカは言葉を続ける。
「そんなわけだから、アタシは寝るわ。あんたも帰りなさい。鍵は気にしなくていいから」
言うだけ言うと、ルカは目を閉じて完全に寝入ってしまう。
程なくして定期的な寝息が聞こえてきたので、実は疲れていたらしい。
ただ、いくら眠いといってもソファで寝るのはどうかと思う。
「やれやれ…」
軽くため息をつくと、片付ける手を止めて、近くに脱ぎ捨ててあったルカのローブを拾いあげる。
そして、彼女の元まで歩み寄るとそっとローブをかけた。
これだけでもないよりはマシなはずだ。
眠るルカの傍から離れると、片付けを再開し、空になった箱や皿を袋に詰めて結ぶ。
「さてと」
片付けが終わったので、気の赴くままにこの部屋を眺めてみた。
あちこちに積み上がった本の山はいかにも研究者らしいが、片付けようとは思わないのだろうか?
代わりに片付けようかとも思ったが、下手にいじってルカの迷惑になるのも悪い。
そんなわけで片付けを諦めた私は、積み上がった本を一冊手に取ってみる。
題名は『古代魔術の効率的運用』となっていた。
いかにも難しそうな本をパラパラとめくってみると、やはりというか、その内容も同じだった。
興味深いのは間違いないが、もう少し読みやすくならないものだろうか。
こういう本を見ていると、城で勉強させられていた頃を思い出す。
母様が魔王だから、その娘である私達はあれこれと覚えさせられるのだ。
なんの役に立つのかさっぱり分からないことを勉強するのは、はっきり言ってつまらなかった。
昔を思い出しながら、本を閉じて戻そうとした時だ。
「―さん…」
何かを呼ぶような声が聞こえた気がした。
なにかしら?
不思議に思って振り向くも、いるのはソファで眠るルカだけ。
空耳だろうか?
なんとなく釈然としないまま、本を戻そうとすると再び声が聞こえた。
今度ははっきりと。
「お母さん…」
それはルカの声だった。
「ルカ?」
彼女の名前を呼ぶも、返事はない。
本を戻し、ルカの元に行くとその顔を覗きこむ。
そこにあったのは眠りながら涙を流す少女の姿だった。
「お母さん…」
悲しそうな声でうわ言のように呟くルカ。
なぜ泣いているのだろう?
不思議に思いながらも、その頬を伝う雫を指で拭うと、そっとその頭へと手を伸ばして撫でた。
母親が我が子にそうするように。
だが、そうしている間にも私の中の疑問は大きくなっていく。
この子の両親は一体なにをしているのだろう?
ルカがこの姿なままなのも知っているのだろうか?
「っ」
思わず撫でていた手を離していた。
頭が妙なことを思いついたのは、いくつもの疑問が有りすぎたせいかもしれない。
それは、単純にして最も効率的な方法。
気になるのなら、過去を覗いてしまえばいいというものだった。
だからこそ、自分の考えに呆れてしまう。
他人の過去を覗くなど、普通は許されない行為だ。
でも、それがその人のためになるのなら?
それが、この子のためになるのなら?
誰かのため、という言い訳は強い。
だから私は再びルカの頭へと手を伸ばしていた。
それがルカのためになると信じて。
「ごめんなさい。少しだけあなたの過去を見せて」
そして私は見た。
ルカの抱える過去を。
夕日に照らされる道を歩いている三人の姿があった。
一人はもちろんルカ。
残りは大人の男女だ。
男の方は気弱そうだが穏やかな顔で、幸せそうに隣りの女性と話していた。
その女性はというと、頭には赤い角、亜麻色の髪とルカ同様の容姿をしたサキュバスだ。違う点は瞳の色くらいで、この女性は淡い緑色の瞳だった。
そんな二人の少し先を歩いているルカは興味深そうに景色を見回している。
「やっぱり連れてきてよかったわ。あの子、あんなに喜んでる」
「ああ。なにしろ、初めての人の世界だしな。魔界とは違うものだらけだ」
夫婦の会話を聞くに、今は家族旅行の最中のようだ。
家族三人で幸せな時間を過ごしていると、ルカの前方から一人の男がやってきた。
腰に剣を差し、豪華な衣服を纏った男だ。
そんな男とルカが近づいた時だった。
男がふと足を止めた。
「ほう。まさか、討伐対象以外の魔物に会うとはな」
目の前にいるルカを見てそう呟くと、男は剣を抜いた。
「え?」
よそ見をしていたルカは目の前で剣を抜いた男に目を見開く。
「俺と会ったのが運の尽きだな。ここで死んでいけ」
男は剣を振り上げると、ためらうことなく振り下ろす。
凶刃がルカを切り裂かんと迫った時だった。
「だめ!!」
男とルカとの間にルカの母が体を滑り込ませた。
結果、ルカを切り裂くはずだった剣は彼女をかばった母の体を深々と切り裂く。
「え…?お母、さん…?」
目の前の光景を理解出来ないとばかりに瞬くルカ。
「ルカ…。逃げ、なさい…」
背中に致命傷を受けながらも、ルカの母は微笑みながら娘の顔へと手を伸ばす。
その手が頬を撫でるが、体が崩れ落ちると同時に頬に当てられた手も滑り落ちていく。
「お母さん?お母さん!」
ルカは涙を浮かべながら目の前に倒れた母を揺さぶり、何度もその名を呼ぶ。
「かばったか。まあいい、どちらにしろ殺すわけだったしな」
倒れた母には興味をなくしたのか、男は視線を別のところに向ける。
「次はお前だ」
そう言って血に濡れた剣を向けたのは、ルカの父親。
だが次の瞬間、彼は信じられない行動に出た。
「ひ、ひぃぃぃっ!!」
怯えたような悲鳴と共に脱兎の如く逃げ出したのだ。
母親の遺体の前で泣くルカを残して。
「お父、さん…?」
遠ざかっていく父親の後ろ姿を見て、ルカは茫然と呟く。
「子を置いて逃げ出すとは、とんだ腑抜けだな」
父親の予想外の行動に男も僅かに驚いていたが、すぐに冷徹な表情に戻るとそう吐き捨てた。
「まあいい。重要なのはお前だ」
ルカの方へと向き直ると、男は再び剣を振り上げる。
「お前はやがて大人となって子を産み、その数を増やすだろう。だから、ここで消えろ。母親の元へ送ってやる」
言葉とともに血に濡れた剣が振り下ろされようとする。
しかし、それよりも一瞬早く、風を切る轟音とともに、二人の間に禍々しく巨大な鎌が突き刺さった。
「勇者が近くに来ていると聞いて、様子を見に来たんじゃが…」
続けて聞こえてくる少女の声。
だが、声とは裏腹にその言葉には老獪な匂いが含まれている。
突然の出来事にルカがそちらへと目をやれば、一人の少女が立っていた。
鈍い銀色の角に紺色の髪。
そして、髪と同じように紺の毛で覆われた手足を持つバフォメットだ。
そんな彼女はルカと男とを交互に見た後、最後に倒れているルカの母親に目を移す。
「…どうやら、我が同族が世話になったようじゃの」
バフォメットは目を細めて男を見つめる。
「これはこれは。まさか、討伐対象が自分から来てくれるとはな」
男、改め勇者は狂気にも似た笑みを浮かべると、突き刺さったままの鎌を抜いて背後へと投げ捨てる。
「自慢の鎌を放り投げたのは失敗だな。覚悟しろ」
そう言って勇者はバフォメットへと走り寄り、素早く剣を振り下ろす。
それに合わせて右手を突き出すバフォメット。
直後、バフォメットの突き出した手に薄い幕のようなものが現れ、剣を防いでいた。
「鎌がなければ勝てるとでも?浅はかじゃの」
「防御壁とは、小癪な」
忌々しそうに睨む勇者を、バフォメットは冷めた目で見つめる。
「前方にだけ意識を集中するのはよくないの。背後にも充分気を配ることじゃ」
「なに…?」
訝しみながら勇者が振り向くと、すぐ目の前まで回転する鎌が迫っていた。
「なっ!?」
反射的に横っ跳びをして勇者はなんとか鎌を回避し、バフォメットは戻ってきた鎌を受け止める。
「なにを驚いた顔をしておる?ワシはバフォメットじゃぞ?遠隔操作の魔法くらい扱えるに決まっておるじゃろう」
「小賢しい真似を…!」
勇者は立ち上がると、怒りの形相でバフォメットを睨む。
「ほう、小賢しいとな。ならば、お主に合わせてやろう」
どこか余裕を含んだ言い回しとともに、バフォメットは勇者に切りかかった。
少女の体で軽々と大鎌を振り回すバフォメットに、勇者はどんどん押されていく。
「なんじゃ、この程度か?大口を叩いた割に大したことないのう」
反撃も出来ず防御の構えをとった勇者を、バフォメットの一撃が弾き飛ばす。
「くっ!」
見た目以上に重い一撃を受け、後ずさる勇者。
そんな勇者に向けて、バフォメットは左手を突き出す。
直後、勇者の体が大勢の人に突き飛ばされたかのように吹き飛んだ。
勢いよく地面を転がった後、なんとか勇者は剣を支えに立ち上がるが、その膝はがくがくと震えている。どうやら今の一撃が足に来ているらしい。
「ぐっ!貴様、一体なにをした…!」
勇者の服は腹部が破けて、露出した腹は赤く腫れあがっていた。
片手を腹に当てながら、勇者はなんとかバフォメットを睨む。
「圧縮した風をぶつけただけじゃ。痛いじゃろう?なにしろ、攻城兵器と大して変わらぬ威力を持つ魔法じゃからな。じゃが、お主に殺されたあの者はもっと痛かったはず」
バフォメットはゆっくりと勇者に歩み寄りながら、言葉を続ける。
「さて、仕置きはこれくらいにして罰を与えようかの」
「罰、だと…」
呟く勇者に、バフォメットは再び左手を突き出す。
「そうじゃ。我が同族を殺め、子から親を奪った罪は重い。相応の報いを受けるがよい」
無慈悲に言い放つと、バフォメットは数語、呪文を唱え始める。
「審判の時来たれり。かの者に裁きを」
言葉と同時に、虚空から赤い光を纏った四本の剣が出現する。
「断罪の剣」
バフォメットが静かに呟くと、四本の剣が矢の如く勇者に飛んでいき、その四肢に突き刺さった。
「ぐあああああっ!!」
まるで空中に縫い止められたかのように、勇者は立ち尽くしたまま悲鳴を上げる。
だが、この魔法は体を傷つける類のものではないらしく、剣が突き刺さっている箇所から血が出るということはなかった。
やがて剣が煙のように消滅し、その場に倒れ込む勇者。
それでも意識は失っていないらしく、うつ伏せに倒れたままバフォメットを睨む。
「き、貴様、今度は何を―」
「手足の感覚がないじゃろう?それこそが断罪の剣の効果じゃ」
勇者の発言を遮るようにバフォメットは言葉を被せる。
「断罪の剣は貫いた部分の神経を破壊する魔法じゃ。よって、もうお主の手足が動くことはない。死罰など生ぬるい。一人では何も出来ぬ体で残りの人生を過ごすがよい。それがお主の罪に対する罰じゃ」
残酷な発言に勇者は涙を流しながら、それでもなお憎悪の目でバフォメットを睨んだ。
「貴様、よくも、よくも…!!」
バフォメットはもはや首しか動かなくなった勇者の元へと歩み寄ると、鎌の柄で勇者を容赦なく殴りつけて気絶させる。
「勇者ともあろう者が泣くでない。見苦しい」
意識を失った勇者にそう言い捨てると、バフォメットは鎌を虚空へと消してルカの傍へとやってきた。
「怪我はないかの?」
さっきまでとはまるで別人のように穏やかな顔と声で、バフォメットはルカに声をかける。
それに対して遅れながらも素直に頷くルカ。
ルカが無事なのを確認すると、バフォメットは視線をルカの母親へと移す。
「すまぬ。ワシがもう少し早く来ておれば、お主の母親を助けられたかもしれん…。本当にすまぬ…」
まるでルカの母親の死は自分のせいだとでも言うかのように顔を俯かせるバフォメットに、ルカはそれは違うと首を振る。
「…お主、父親はいるのかの?」
その問いに、ルカは父親が逃げ去っていった方向を見たが、すぐに再び首を振る。
もう父親はいない、と言うように。
「そうか…。それは、残念じゃの…」
バフォメットは悲しそうに呟くが、すぐにルカを見た。
「…行く当てがないのなら、ワシのとこに来んか?」
「…え?」
未だに涙を流すルカに、バフォメットは少しだけ微笑む。
「こうして出会ったのも何かの縁じゃ。ワシはお主の母親の代わりにはなってやれぬが、お主が一人前の大人になるまでの面倒くらいなら見てやれる。もちろん、お主が望むのならの話じゃが。どうじゃ?」
小首をかしげて尋ねてくるバフォメットに、ルカは少しの間を置いて静かに頷く。
「決まりじゃな。で、お主、名は?」
「…ルカ」
「ルカ、か。ワシはフランじゃ。これからよろしくの」
差し出されたフランの右手を、ルカはゆっくりと握り返す。
握手を交わすと、フランはルカの母親を抱き上げた。
「では行こう。まずはお主の母親を弔ってやらねばの」
歩き出すフランの後ろをルカは歩いていく。
ここまでを見て、過去を覗くことをやめた。
「これが、この子の…」
ルカの頭から手を放した私は思わず呟いていた。
覗いている私でさえ心が痛む過去だったのだ。
これを直接体験したルカがどれだけ辛かったかは想像も出来ない。
「だからあなたは自分のことを話したがらなかったのね…」
言えば思い出してしまうから。
記憶の奥底に封じ込めたままでいたいから。
だから語ろうとしない。
それと同時に、なぜサキュバスなのに男を嫌うのかも理解できてしまった。
最愛の母を目の前で『男』の勇者に殺されているのだ。
これだけでも嫌う理由としては充分なのに、ある意味最も信頼していた『男』である父親に見捨てられた。
これだけ条件が揃えば、いくらサキュバスでも男に対する価値観が変わっておかしくない。
男なんて大嫌い、精なんていらない、勇者の相手なんてしたくない。
ルカがそう言うのも全部納得できる話だ。
男が嫌いだからその精なんて欲しいわけがないし、例え別の勇者でも母親を殺した者と同じ存在の相手をしたいわけがない。
ルカの発言の意味をようやく理解し、複雑な思いとともにその顔を見下ろしていると、閉じられていた目がゆっくりと開いた。
その目がこちらを捉えると、ルカは体を起こす。
「…なに、まだいたの?」
寝起きだからか、どこかとろんとした目のルカは無防備な少女そのもの。
こんな様子を見ていると、本当にあんな過去を体験したのかと疑いたくなる。
「ええ。あなたの寝顔に見惚れていたから」
「…なにバカなこと言ってんのよ」
大して照れた様子もなく、ルカは頭をかくとゆっくりと立ち上がる。
「どうしたの?ゆっくり眠れなかった?」
「……別に。ちょっと嫌な夢を見ただけよ」
素気なく言うルカは一見していつも通りに見える。
だが、眠りながら泣いていたことを考えると、ルカが見たのはきっとあの日の夢なはず。
だとしたら、ちょっと嫌な夢では済まないはずだ。
それなのに、ルカは何事もなかったかのような顔で先程作った薬を観察している。
私にはそれが不思議でならない。
「ねえルカ。少し真面目な話をしてもいいかしら?」
「なによ、急に真面目な顔して」
「あなたも魔物である以上、魔力を回復するために精は必要なはず。でも、あなたは精なんていらないと言ったわね。じゃあ、どうやって魔力を回復しているの?」
「なんだ、そんなこと」
振り返ったルカは壁際にある棚を指差す。
そこには濃い青の液体が入った試験管が何本もあった。
「あれは?」
「アタシ特製の魔力を回復する薬よ。アレ一本でけっこうな魔力を回復できるわ。だから、アタシには精なんて必要ないのよ」
話はこれで終わりとばかりに手をひらひらさせながら、ルカは使い終わった器具を片付け始める。
そんなルカの言葉に、ある疑問が浮かぶ。
これからも、ずっとそうやって生きていくのだろうか?
魔力は薬で回復させ、男とは関わらずに?
それはあまりにも悲しい生き方に思える。
だから、それを言ってあげたい。
それが、ルカの心の傷跡に触れる言葉だったとしても。
本当なら他人の生き方に口出しなどするべきではない。
でも、これだけは言おう。
最悪、絶縁かしらね…。
それも覚悟した上で、私はルカに言った。
「必要ないのではなく、意地を張っているだけでしょう?あなたにとって男は、母親を殺した勇者や、自分を見捨てた父親と同じ存在だから」
言った瞬間、ルカがピクリと反応する。
「あんた、なんでそれを…」
振り向いたルカは少し驚いたような顔でこちらを見たが、すぐに頷いた。
「そう。アタシの過去を覗いたんだ。それとも、夢の内容を見たの?」
「…前者よ」
「そんなのどっちだっていいわよ。一体なんの権利があってそんなことするわけ?友達だなんて言ってたヤツのすることじゃないわ」
全くその通りだ。
それに関しては反論のしようもないので、私は口をつぐむしかない。
黙り込んでしまった私へと、ルカは言葉を続ける。
「あんた、そういうヤツだったんだ。見損なったわ」
呆れるような声で、最後に言い放った。
「出てって。あんたなんか、もう見たくもないわ」
冷たい口調で言われた言葉は絶縁を意味するもの。
わかってはいた。
だからこそ、このまま引き下がるわけにはいかない。
この状況を作ったのは私なのだから。
「出て行けと言われれば出て行くわ。ここはあなたの家なのだから。でも、私の話はまだ終わっていない」
「あんたと話すことなんてない!さっさと出てけって言ってんのよ!」
口応えされたのが気にいらなかったのか、ルカはとうとう怒鳴り出した。
でも、怒鳴られたくらいでひるむ私じゃない。
「話してもらえないなら、私だけ話すわ」
「言ってるでしょ!あんたと話すことなんてない!」
「さっきまで見ていたのは、あの日の夢?」
一歩、前へと出る。
「あんたには関係ない!」
「眠りながら泣いていたわ。それくらい悲しいんでしょう?」
「泣いてなんかない!」
「そうやって悲しみを意地で抑え込みながら、これからも生きていくの?」
「黙りなさいよ!」
言葉とともに、一歩一歩とルカに近づいて行く。
まるで、ルカの心に近づくように。
そしてルカの前に立つと、その瞳を真っ直ぐに見つめる。
「あなたは本当にそんな生き方でいいの?」
「黙れって言ってんのよ!!」
とうとう我慢の限界に達したのだろう。
ルカは手を振り上げると、即座に払ってきた。
しかし、頬を張ろうと振られたルカの手は、私に掴まれる。
「ッ!」
右手を掴まれたまま、今度は左手を振ろうとするルカ。
でも、それはさせなかった。
ルカが手を振るより先に、私は掴んでいたルカの右手を放してその体を抱きしめる。
「なっ」
私の行動は予想外だったのだろう、ルカの口から驚きの声が漏れた。
「本当は、思い出す度に悲しいんでしょう?」
そう言って、抱きしめる腕に力を込める。
そして感じられるルカのぬくもり。
仄かに香る花のような匂いは、やはりルカもサキュバスなのだと知らしめる。
だが、そんなことを思っていたせいで、ルカは暴れるように体をひねって私の腕から逃れてしまう。
「あんたに、アタシのなにがわかるのよ!」
「そうね、過去を覗いただけであなたの全てをわかったとは思わないわ。でも、今のあなたが悲しんでいることくらいはわかる」
「知ったようなこと言わないで!人の過去を覗いて、好き勝手なこと言って、あんた、なにがしたいのよ!?アタシになにを望むわけ!?」
私がルカに望むことなんて一つしかない。
だから、ルカの目を真っ直ぐに見つめる。
「幸せになってほしい」
「幸せに?」
「そう」
その言葉に、ルカの怒り方が変わった。
烈火のような怒り方から、絶対零度のような怒り方に。
「とんだ偽善者ね。いいわ、そこまで言うならあんたに全部教えてあげる」
「どういうこと?」
「あんたはアタシのことを色々と知りたがってたでしょ。それを全部教えてあげるって言ってんのよ。そうすれば、もうアタシに関わろうなんて思わなくなるから」
そう言って、ルカは大きく一息つくと言葉を続ける。
「アタシがずっとこの体な理由、なんでだと思う?」
ルカは私を冷めた目で見ながら問いかけてくる。
「それは、アタシの体の成長が15歳で止まっているからよ」
「体の成長が止まっている?それは…」
言われたのはあまりにも単純な事実。
「アタシの過去を見たんでしょ。だったらわかるはずよ。あの日の出来事はアタシの体にも影響を与えた。その結果、成長が止まってしまった。師匠はそう言っていたわ」
ルカの説明に、私は顔を少し俯かせてしまう。
母親を目の前で殺され、父親に見捨てられた。
その現実は、少女だったルカの心に大きな傷跡を残し、体にまで影響を与えたらしい。
だからこそ、それ以上先は聞きたくないとばかりに話題を変える。
「師匠?」
「バフォメットのフラン」
ああ、ルカを助けた彼女ね。
「じゃあ、あなたの魔力がバフォメット並みにあるのも彼女が関係してるの?」
私の問いにルカはつまらなそうに頷く。
「そうよ。体が大人になれないなら、せめてその魔力は大人以上にしてやろうって言ってね。十年以上も研究して、アタシのためだけに作ってくれた特別な薬のおかげ」
確かにフランは一人前になるまでは面倒をみると言っていた。
その結果、今のルカがあるということか。
「理解できた?アタシは体が成長しないことを除けば、薬のおかげで強大な魔力を手に入れただけのサキュバスにすぎないわ。でも、それはアタシから見た場合の話」
そこまで話すとルカは一旦話すのをやめて、何かを思い出すように目を閉じる。
そしてその目が再び開かれた時、その瞳は呆れるような、または軽蔑するような色を宿していた。
「他の連中から見ると、アタシは異常なのよ。魔女やバフォメットでもないのに体は少女のままで成長しない。それだけでも不思議なのに、その魔力は上位の魔物と遜色ない。これだけ条件が揃えば、他の魔物の目にアタシがどう映るか、想像できるでしょ?」
その問いには嫌でも頷くしかない。
「アタシがこんな所に住んでいるのも、それが理由。昔はローハスに住んでたけど、街の連中の目がうっとうしくなって引っ越したわ。分かる?まるで腫れ物でも見るような目よ。基本的に他人にどう思われようと気にしないけど、毎日そんな目で見られたら、いくらアタシでもいらつくわ。だから、実験で迷惑をかけたくないって理由で、アタシは街の外れに住むことにした」
人は自分とは違う存在を嫌悪する。
それは魔物も同じらしい。
「あなたはそれでよかったの?」
「アタシが望んで出てったんだもの。良いも悪いもないわ。それに、追い出されたわけじゃないから、たまには街に行って買い物だってする。アタシを見る目は相変わらずだけど、それでも邪見に扱われるわけじゃない。まあ、必要以上に関わろうとはしてこないけどね」
語り終えたルカは目を細めて、私の目を見てくる。
「話はこれだけ。わかったでしょ。アタシといると、あんたも同じような目で見られるわ。アタシは別にいいけど、あんたは嫌でしょ。見かけによらず、繊細そうだし」
最後の一言は少しバカにするような言い方だが、ルカの言葉は嫌な思いをするから関わるなと言っているようなものだ。
やっぱり、なんだかんだ言ってルカは優しい。
それを再確認し、ルカにバレないように顔を俯かせて声なく笑う。
そんな私の様子を見て誤解したのだろう、ルカは呆れたような声でこんなことを言ってきた。
「だから言ったでしょ。関わる気なんてなくなるって。わかったら、さっさと帰りなさいよ。ここにいたって、あんたは嫌な思いをするだけなんだから」
ルカの言葉に、私は顔を上げると穏やかに微笑む。
「私が、それくらいであなたを諦めると思う?」
ルカは一瞬呆けたような顔になった後、怪訝そうに訊き返してきた。
「…あんた、アタシの話聞いてた?」
「もちろん」
質問に頷くと、ルカはキッと睨んできた。
「なにがもちろんよ!いい!?アタシといると、あんたも変人扱いされるの!だから関わるなって言ってんのよ!なんでそれがわからないの!?アタシに関わったってロクなことにならな―」
「それでも私は、あなたと友達でありたい」
遮るように被せた言葉は、嘘偽りのない私の本心。
だからこそ、ルカの顔は驚いたものに変わる。
「…なんでそこまでアタシにこだわるのよ?」
「あなたが好きだから」
「ッ!!」
言葉にならない声を漏らすルカ。
同時にその頬が急激に赤く染まっていく。
ルカはからかわれたと思うかもしれないが、今言った言葉は嘘じゃない。
辛い過去を持ちながら、それでも前を向いているルカを好ましく思っているのだから。
その真っ直ぐな姿勢に惹かれていると言ってもいいかもしれない。
「ルカは、私のこと嫌いかしら?」
「な、なによ、その質問は!?」
「どうなの?」
一歩前へと出てルカに問いかける。
「ねえ、ルカ。答えて―」
そっとルカへと手を伸ばしたのだが、私の手は当のルカによって掴まれた。
ルカは私の手首を掴んだまま、家の入り口へと私を引っ張っていく。
「もう帰って!アタシは忙しいの!」
外へと追い出され、振り向いた私へルカはそんな言葉を投げてきた。
「それは…私のことは嫌いだという意味かしら?」
「言ってるでしょ!アタシは忙しいの!だから…続きはまた今度にして!!」
ルカはそう怒鳴るが、私はその言葉に自然と笑顔になってしまう。
また今度。
それはつまり、また来ていいということ。
友達でいてくれるということ。
それが嬉しくないはずがない。
でも、そのせいでルカの大事な一言を聞き逃したことに、私は気づかなかった。
扉の向こう側で、それこそ聞き取れないような声でルカは呟くように言ったのだ。
「…嫌いじゃないわよ」
「え?なにか言った?」
「なにも言ってないわよ!それより、さっさと帰りなさい!」
そう言い捨てて、ルカは乱暴に扉を閉める。
あまりの勢いで生じた風に前髪が揺れるが、やがてそれが落ち着くと私は静かに微笑む。
ルカの態度は、きっと照れ隠しだから。
それが分かるからこそ、閉められた扉に手を当てると、その向こうにいるであろうルカに語りかける。
「また来るわ。じゃあね、ルカ」
返事はないが、それでも構わない。
散歩に行ったわけでもないのに、不思議と満たされている。
それはなぜかと問われたら、たぶんルカと仲良くなれたからだろう。
だから、今日は充分に満足だ。
口の端で軽く笑いながら、私はルカの家を後にすると空へと羽ばたく。
散歩の他に、出かける先が一つ増えた。
それを心地よく思いながら、私は家へと帰ったのだった。
ミリアが立ち去り、森にある家の中では複雑な表情で扉に寄りかかるルカがいた。
その顔には腹立たしさとは別に、喜びの色が僅かに見え隠れしている。
そして一言、顔を俯かせながら呟いた。
「…ありがとう」
本人には決して言わなかった言葉は、静かな部屋の中に消えていく。
二人の絆が少し深まった一日だった。
ほとんどの人が朝食を食べ終えて仕事へと出向く時間に、私は街を歩いていた。
向かうは知り合いが経営している店。
『狐の尻尾』と書かれた看板を掲げている店は扉に準備中となっていたが、お構いなしに店へと入ると、レナがせっせとカウンターで作業をしていた。
「あ、おはようございます、ミリアさん。朝から来るなんて珍しいですね」
「おはよう、レナ。一つお願いがあるのだけど、いいかしら?」
私の頼みは意外だったのか、レナは可愛らしく首をかしげる。
「お願いですか。なんです?」
「大したことじゃないわ。持ち帰りできる料理を二人分お願いしたいの」
「なんだ、そんなことですか。もちろんいいですよ。料理の希望はあります?」
律儀に訊いてくるが、この子の作る料理はなんだっておいしいのだから、希望なんてない。
「特にないわね。レナにお任せするわ」
「わかりました。じゃあ、さくっと作ってきますね」
身を翻し、レナは厨房へと向かう。
やはり料理が出来るのは羨ましい。
そんなことを思いながらレナを見送ると、すぐに別の考え事をする。
頭に浮かぶのは、つい最近できた新しい友達のこと。
レナに用意してもらっているのは、彼女と一緒に食べるための朝食。
別に私が作ってもいいのだが、今はまだ簡単なものしか作れないのでレナを頼ることにしたわけだ。
なにより、レナの料理ならあの子も文句は言わないと思うし。
心の中で言い訳していると、レナが戻ってきた。
「今ゆっくりと焼いてますから、少し待って下さい」
「焼き加減を傍で見ていなくていいの?」
「どれくらい待てばいい感じに焼けるかくらいは分かりますから」
「さすがね。ところでハンス君は?」
「あの人なら、食材の仕入れに行ってますよ。それよりミリアさん、なんで二人分なんですか?まさか旦那さんが出来たんですか!?」
勢い込んで訊いてくるレナに苦笑してしまう。
「夫が出来たら連れてきてるわ。今用意してもらっているのは…」
友達の分、と言おうとして私はしゃべるのをやめる。
私はもう友達だと思っているけど、ルカはそう思ってくれているのかしら?
自分が一方的に友達だと思っているだけなのでは?
急に頭に浮かんできた疑問のせいで、ちょっと自信がなくなる。
そのせいで、目の前にいたレナに呟いていた。
「レナ、私達って、友達よね?」
「え…」
一瞬戸惑ったような表情になるレナ。
直後、その目尻に涙が浮かぶ。
「えっと、私はミリアさんとは友達だと思ってたんですけど、ひょっとして私の勘違いでしたか?それとも、なにか嫌われるようなことしました…?」
ああ、いけない。かなり誤解を招く発言をしてしまった。
「ごめんなさい、レナ。違うのよ、それは誤解。私はあなたを友達だと思っているわ。ただ、それが私の一方的な勘違いだったらどうしようと思ったものだから」
「そうなんですか…?よかった、嫌われてたら、泣いちゃうところでした」
ほとんど涙目のレナは袖で目元を拭うと、とぼとぼと厨房に入って行く。
そしてすぐに湯気の立つ料理を持って出てきた。
「お待たせしました。とりあえず、ミックスピザです」
大きな皿に乗せられたピザが目の前に置かれた。
「さすがレナ。仕事が早いわね。で、とりあえずってどういうこと?」
「これだけじゃないですからね。今、特製サラダを持ってきます」
レナは再び厨房へ行き、宣言通りサラダを持ってきた。
色鮮やかな野菜とベーコンが綺麗に盛られたサラダは見た目からしておいしそうだ。
「はい、どうぞ。ドレッシングは特製のものをかけておきました」
「ありがとう。じゃあ、代金はいくら?今回は二人分だから払うわ」
いつもはタダで食べさせてもらっているが、今回は二人分。
いくらなんでも、これで支払わないのは気が引ける。
だが、レナは首を振って固辞した。
「代金はいりません。友達、ですから」
友達の部分を強調して言うレナに、思わず笑ってしまう。
本当にいい友達を持ったものだ。
「ありがとう、レナ。今度はその子も連れてくるから」
「はい、お待ちしています」
四本の尻尾をわさわさと揺らすレナに見送られながら、店を後にする。
「さて、行きましょうか」
ピザに保温魔法をかけて冷めないようにすると、私は少し心を躍らせながらルカの家へと向かった。
森の中にひっそりとある家。
こういう表現をするとその中には何かよからぬものがいそうな感じがするが、私の目の前にある家には可愛らしいサキュバスがいるのだから不思議なものだ。
それにしても、森の中は空気が澄んでいて気持ちがいい。
それが朝ともなれば、なおさらだ。
ひょっとしたら、ルカもそういうところを基準にここに住んでいるのかもしれない。
そんなことを思いながら、彼女の家の扉をノックする。
「…誰?」
少しの間を開けて扉が開かれ、怪訝そうな顔のルカが顔を出した。
「おはよう、ルカ。遊びに来たわ」
笑顔とともに挨拶したのだが、ルカは僅かに表情を曇らせ、こう言った。
「今忙しいの。帰って」
ものすごく素気ない言葉とともに、無情にも扉が閉められた。
…相変わらずな態度だ。
初めて会った時にこんな態度を取られたら、さすがに傷ついたかもしれない。
でも、今はそんなことはない。
ルカがどんな人物か、少しだけ知っているから。
実はいい子だから。
しかし、この対応は少し酷いと思う。
せっかく会いに来ているのだから、挨拶くらいはしてほしい。
やられたらやり返すわけじゃないが、少し茶化したくなってしまう。
だから、ちょっとした仕返しを思いついた私は再び扉をノックする。
そして、わざとらしい声で言った。
「ルー、カー、ちゃん。あー、そー、び」
ところが、全部言い切る前にすごい勢いで扉が開き、ルカの手が私の腕を掴むと、そのまま家の中に引っ張り込まれた。
直後、後ろで乱暴に扉が閉まる音がしたので、振り向くと顔を真っ赤にしたルカがこちらを睨んでいた。
「あんた、なに恥ずかしいこと言ってんのよ!」
「あら、遊ぼうって言っただけよ?」
「そこじゃないわよ!言い方よ、言い方!あんな恥ずかしい呼ばれ方をする方の身にもなってみなさいよ!!」
「だって、ルカが家に入れてくれないんだもの。寂しかったわ」
軽く首をかしげて微笑むと、ルカは呆れたようにため息をつく。
「まったく、アタシは忙しいのに…」
ぶつぶつと文句の言葉を吐いているが、顔はそう嫌そうでもない。
「それより、差し入れを持ってきたわ。朝食はもう食べた?」
「まだだけど。…それ、差し入れだったの?」
ルカの視線が私の持っている袋へと向けられる。
「ええ。二人で一緒に食べようと思って」
「あ、あんた、一緒にって…」
恥ずかしかったらしく、ルカの頬が赤くなる。
こういう反応がとても可愛いルカに、つい笑みが漏れてしまう。
「と、とりあえず、もうすぐ仕事が終わるから、それまで待って」
上ずった声でそう言うルカは、器具やら試験管をいじり始める。
「わかったわ。それで、ルカの仕事ってなにをするの?」
「まあ、主に薬の調合ってとこね。依頼を受けて薬を作る。これがアタシの仕事よ。で、依頼がない時は新しい薬の実験や研究」
口ではそう説明しながらもルカの手は止まらず、二つの試験管に入った液体を一つのフラスコに入れる。
本人は何をしているかきちんと分かっているのだろうが、横から見ている私にはさっぱり分からない。
手伝えることもなさそうなので見物することにしよう。
真剣な表情で調合しているルカを見ているのは悪くないし。
邪魔しないように話しかけもせず、ただ静かにルカの様子を眺めているとやがて調合は終わったらしい。
「ふう。お待たせ、終わったわ」
フラスコの中の液体が鮮やかな赤に変わると、ルカは机から立ち上がる。
「もういいの?」
「ええ、これで完成だから。じゃ、食事にしましょ」
ルカが調合用の机から移ってくると、私はピザが入った箱を取り出してふたを開ける。
途端に広がるチーズの香り。
それに混じって仄かに香るバジルも食欲をかき立てる。
「へー、意外とまともな差し入れじゃない」
ルカがそんな感想を漏らすが、意外と、の部分が引っかかる。
一体どんな差し入れだと思ったのだろう。
頭ではそんなことを考えながらも、まんざらでもないルカの様子を見ればどうでもいいかと思ってしまう。
「友達特製のピザだから、味は問題ないと思うわ。それと、これも」
続けてレナ特製サラダを取り出し、テーブルに置く。
「これもそうなの?」
「ええ。好き嫌いはあるかしら?」
なんとなくルカはありそうだなと思って訊いてみると、案の定、ルカは嫌そうな顔になる。
「なによ、その目は。言っとくけど、このサラダなら問題ないから」
「それはよかった。じゃあ、さっそく食べましょ」
ルカからナイフを借りて均等な大きさに切り分けると、その一つを取る。
ルカも同じように一切れ取ると、口に運んだ。
一口、二口と特に文句もなく食べているところを見ると、口に合ったらしい。
「どう?おいしい?」
「そうね、悪くないわ」
返ってきた返事はちょっと素気ないが、この悪くないはルカにとっての賛辞なはず。
そう思うことにして、私もピザを食べ始める。
レナ特製のピザは具もたくさんのっていて、口に入れると様々な味が広がる。
それでも、お互いの味を崩すことなく綺麗にまとまっているのだからすごい。
だからこそこれがタダというのはなんだか申し訳ない気がする。
「そういえば、例の勇者の血についてはどうだったの?」
「ああ、あれ。結論から言うと、なんの変哲もないただの血だったわ。加護を受けるヤツは血からして特別なんじゃないかと思ったけど、違ったみたい」
つまらなそうに語るルカの顔には、意味のない時間を過ごしたと大書してあった。
「それは残念ね。で、今は私が手伝えることはないの?」
「ないわね。そもそも、大概のことならアタシ一人で出来るし」
確かにそうかもしれない。
なにしろルカはバフォメットと同等の魔力を持っているのだ。
その気になれば大体のことは出来ておかしくない。
だからこそ、頭に一つの疑問が浮かぶ。
「大概のことは出来ると言うのなら、なんでこの間の依頼は自分でやらなかったの?あなた程の力があれば、自力で勇者の血を採ることも出来たはずだけど」
魅了が効かないことを調べたいのだとしても、それなら自分で魅了魔法なりなんなりを試せばいいはず。
むしろ、ルカの性格を考えるとまず先に自分で実行しそうだ。
それをわざわざ他人に任せる理由が分からない。
「勇者の相手なんかしたくないからよ」
私の問いに、ルカは短くそう返してきた。
その言葉に嘘があるようには思えない。
だが、それだけではない気がする。
「その理由はなぜ?」
「その質問は却下」
なんとなくそんな気はしてたが、やはりこの質問はダメらしい。
まあ、ほとんどダメ元で言ってみたから別にいいのだけどね。
諦めの色を含んだため息をつくと会話は一旦やめにして、今度はサラダを食べてみる。
瑞々しい野菜ももちろんだが、この特製ドレッシングがさっぱりとしていておいしい。
おいしいのだが、何をどうやったらこの味になるのか分からない。
「そのサラダ、おいしい?」
「ええ、とっても。ルカも食べてみて。きっと気に入るわ」
サラダの皿をルカの方へと押しやると、ルカは素直にサラダをつまむ。
そして口に入れた瞬間、ハッとしたように目を見開くがそこはルカ。すぐにいつもの澄まし顔に戻る。
「そうね。悪くないんじゃない?」
そんなことを言いつつ、手はきっちりと二口目を口に運んでいる。
はっきり言って微笑ましいのだが、ちょっと意地悪をしたくなってしまう。
だから、言ってあげた。
「あまり口に合わなかったみたいね。じゃあ、これは私が責任を持って処分するわ」
少し残念そうな口調とともに、サラダを自分の方へと引き寄せようとする。
だが、それは叶わなかった。
「ちょっと!食べないなんて言ってないでしょ!」
見れば、ルカもきっちりサラダを掴んでいた。
「あら、実は気に入ったのね」
「なっ!ち、違うわよ!せっかくあんたが持ってきたのに、食べなかったら悪いでしょ!だからよ!!」
素直じゃないルカは可愛らしい言い訳をする。
本当に傍にいて楽しい子だ。
だから、そんなルカとの食事はとても楽しい時間だった。
ピザとサラダを完食し、空になった箱を片付けていると、ルカがうとうとしていることに気づいた。
「どうしたの、ルカ?眠そうだけど」
「そうね、お腹いっぱいになったら眠くなってきたわ」
ルカはそう言って小さく欠伸をする。
「ふぁ…。うー、眠いから寝るわ。ゴミは捨てとくから、その辺に置いといて」
眠そうな顔で近くのソファに移動すると、そのままソファへと寝転がる。
「私が遊びに来てるのに寝るの?」
「あんたが勝手に押しかけてきただけでしょ。それに、アタシ寝てないのよ」
「寝てないって、どうして?」
眠そうな目でこちらを見ているルカへ顔を向けると、ルカは部屋の一か所を指差す。
そこにあるのは食事前に完成した薬。
「昨日から調合してたからよ」
「昨日から?」
「そ、昨日から。アタシの場合、調合や実験してたら次の日だったなんてザラだから」
薬の調合が時間と集中力を必要とするのは私も知っている。
ただ、次の日になるまで実験や調合をしていられるのはすごいんじゃないだろうか。
改めてルカのすごさに感心する私に、ルカは言葉を続ける。
「そんなわけだから、アタシは寝るわ。あんたも帰りなさい。鍵は気にしなくていいから」
言うだけ言うと、ルカは目を閉じて完全に寝入ってしまう。
程なくして定期的な寝息が聞こえてきたので、実は疲れていたらしい。
ただ、いくら眠いといってもソファで寝るのはどうかと思う。
「やれやれ…」
軽くため息をつくと、片付ける手を止めて、近くに脱ぎ捨ててあったルカのローブを拾いあげる。
そして、彼女の元まで歩み寄るとそっとローブをかけた。
これだけでもないよりはマシなはずだ。
眠るルカの傍から離れると、片付けを再開し、空になった箱や皿を袋に詰めて結ぶ。
「さてと」
片付けが終わったので、気の赴くままにこの部屋を眺めてみた。
あちこちに積み上がった本の山はいかにも研究者らしいが、片付けようとは思わないのだろうか?
代わりに片付けようかとも思ったが、下手にいじってルカの迷惑になるのも悪い。
そんなわけで片付けを諦めた私は、積み上がった本を一冊手に取ってみる。
題名は『古代魔術の効率的運用』となっていた。
いかにも難しそうな本をパラパラとめくってみると、やはりというか、その内容も同じだった。
興味深いのは間違いないが、もう少し読みやすくならないものだろうか。
こういう本を見ていると、城で勉強させられていた頃を思い出す。
母様が魔王だから、その娘である私達はあれこれと覚えさせられるのだ。
なんの役に立つのかさっぱり分からないことを勉強するのは、はっきり言ってつまらなかった。
昔を思い出しながら、本を閉じて戻そうとした時だ。
「―さん…」
何かを呼ぶような声が聞こえた気がした。
なにかしら?
不思議に思って振り向くも、いるのはソファで眠るルカだけ。
空耳だろうか?
なんとなく釈然としないまま、本を戻そうとすると再び声が聞こえた。
今度ははっきりと。
「お母さん…」
それはルカの声だった。
「ルカ?」
彼女の名前を呼ぶも、返事はない。
本を戻し、ルカの元に行くとその顔を覗きこむ。
そこにあったのは眠りながら涙を流す少女の姿だった。
「お母さん…」
悲しそうな声でうわ言のように呟くルカ。
なぜ泣いているのだろう?
不思議に思いながらも、その頬を伝う雫を指で拭うと、そっとその頭へと手を伸ばして撫でた。
母親が我が子にそうするように。
だが、そうしている間にも私の中の疑問は大きくなっていく。
この子の両親は一体なにをしているのだろう?
ルカがこの姿なままなのも知っているのだろうか?
「っ」
思わず撫でていた手を離していた。
頭が妙なことを思いついたのは、いくつもの疑問が有りすぎたせいかもしれない。
それは、単純にして最も効率的な方法。
気になるのなら、過去を覗いてしまえばいいというものだった。
だからこそ、自分の考えに呆れてしまう。
他人の過去を覗くなど、普通は許されない行為だ。
でも、それがその人のためになるのなら?
それが、この子のためになるのなら?
誰かのため、という言い訳は強い。
だから私は再びルカの頭へと手を伸ばしていた。
それがルカのためになると信じて。
「ごめんなさい。少しだけあなたの過去を見せて」
そして私は見た。
ルカの抱える過去を。
夕日に照らされる道を歩いている三人の姿があった。
一人はもちろんルカ。
残りは大人の男女だ。
男の方は気弱そうだが穏やかな顔で、幸せそうに隣りの女性と話していた。
その女性はというと、頭には赤い角、亜麻色の髪とルカ同様の容姿をしたサキュバスだ。違う点は瞳の色くらいで、この女性は淡い緑色の瞳だった。
そんな二人の少し先を歩いているルカは興味深そうに景色を見回している。
「やっぱり連れてきてよかったわ。あの子、あんなに喜んでる」
「ああ。なにしろ、初めての人の世界だしな。魔界とは違うものだらけだ」
夫婦の会話を聞くに、今は家族旅行の最中のようだ。
家族三人で幸せな時間を過ごしていると、ルカの前方から一人の男がやってきた。
腰に剣を差し、豪華な衣服を纏った男だ。
そんな男とルカが近づいた時だった。
男がふと足を止めた。
「ほう。まさか、討伐対象以外の魔物に会うとはな」
目の前にいるルカを見てそう呟くと、男は剣を抜いた。
「え?」
よそ見をしていたルカは目の前で剣を抜いた男に目を見開く。
「俺と会ったのが運の尽きだな。ここで死んでいけ」
男は剣を振り上げると、ためらうことなく振り下ろす。
凶刃がルカを切り裂かんと迫った時だった。
「だめ!!」
男とルカとの間にルカの母が体を滑り込ませた。
結果、ルカを切り裂くはずだった剣は彼女をかばった母の体を深々と切り裂く。
「え…?お母、さん…?」
目の前の光景を理解出来ないとばかりに瞬くルカ。
「ルカ…。逃げ、なさい…」
背中に致命傷を受けながらも、ルカの母は微笑みながら娘の顔へと手を伸ばす。
その手が頬を撫でるが、体が崩れ落ちると同時に頬に当てられた手も滑り落ちていく。
「お母さん?お母さん!」
ルカは涙を浮かべながら目の前に倒れた母を揺さぶり、何度もその名を呼ぶ。
「かばったか。まあいい、どちらにしろ殺すわけだったしな」
倒れた母には興味をなくしたのか、男は視線を別のところに向ける。
「次はお前だ」
そう言って血に濡れた剣を向けたのは、ルカの父親。
だが次の瞬間、彼は信じられない行動に出た。
「ひ、ひぃぃぃっ!!」
怯えたような悲鳴と共に脱兎の如く逃げ出したのだ。
母親の遺体の前で泣くルカを残して。
「お父、さん…?」
遠ざかっていく父親の後ろ姿を見て、ルカは茫然と呟く。
「子を置いて逃げ出すとは、とんだ腑抜けだな」
父親の予想外の行動に男も僅かに驚いていたが、すぐに冷徹な表情に戻るとそう吐き捨てた。
「まあいい。重要なのはお前だ」
ルカの方へと向き直ると、男は再び剣を振り上げる。
「お前はやがて大人となって子を産み、その数を増やすだろう。だから、ここで消えろ。母親の元へ送ってやる」
言葉とともに血に濡れた剣が振り下ろされようとする。
しかし、それよりも一瞬早く、風を切る轟音とともに、二人の間に禍々しく巨大な鎌が突き刺さった。
「勇者が近くに来ていると聞いて、様子を見に来たんじゃが…」
続けて聞こえてくる少女の声。
だが、声とは裏腹にその言葉には老獪な匂いが含まれている。
突然の出来事にルカがそちらへと目をやれば、一人の少女が立っていた。
鈍い銀色の角に紺色の髪。
そして、髪と同じように紺の毛で覆われた手足を持つバフォメットだ。
そんな彼女はルカと男とを交互に見た後、最後に倒れているルカの母親に目を移す。
「…どうやら、我が同族が世話になったようじゃの」
バフォメットは目を細めて男を見つめる。
「これはこれは。まさか、討伐対象が自分から来てくれるとはな」
男、改め勇者は狂気にも似た笑みを浮かべると、突き刺さったままの鎌を抜いて背後へと投げ捨てる。
「自慢の鎌を放り投げたのは失敗だな。覚悟しろ」
そう言って勇者はバフォメットへと走り寄り、素早く剣を振り下ろす。
それに合わせて右手を突き出すバフォメット。
直後、バフォメットの突き出した手に薄い幕のようなものが現れ、剣を防いでいた。
「鎌がなければ勝てるとでも?浅はかじゃの」
「防御壁とは、小癪な」
忌々しそうに睨む勇者を、バフォメットは冷めた目で見つめる。
「前方にだけ意識を集中するのはよくないの。背後にも充分気を配ることじゃ」
「なに…?」
訝しみながら勇者が振り向くと、すぐ目の前まで回転する鎌が迫っていた。
「なっ!?」
反射的に横っ跳びをして勇者はなんとか鎌を回避し、バフォメットは戻ってきた鎌を受け止める。
「なにを驚いた顔をしておる?ワシはバフォメットじゃぞ?遠隔操作の魔法くらい扱えるに決まっておるじゃろう」
「小賢しい真似を…!」
勇者は立ち上がると、怒りの形相でバフォメットを睨む。
「ほう、小賢しいとな。ならば、お主に合わせてやろう」
どこか余裕を含んだ言い回しとともに、バフォメットは勇者に切りかかった。
少女の体で軽々と大鎌を振り回すバフォメットに、勇者はどんどん押されていく。
「なんじゃ、この程度か?大口を叩いた割に大したことないのう」
反撃も出来ず防御の構えをとった勇者を、バフォメットの一撃が弾き飛ばす。
「くっ!」
見た目以上に重い一撃を受け、後ずさる勇者。
そんな勇者に向けて、バフォメットは左手を突き出す。
直後、勇者の体が大勢の人に突き飛ばされたかのように吹き飛んだ。
勢いよく地面を転がった後、なんとか勇者は剣を支えに立ち上がるが、その膝はがくがくと震えている。どうやら今の一撃が足に来ているらしい。
「ぐっ!貴様、一体なにをした…!」
勇者の服は腹部が破けて、露出した腹は赤く腫れあがっていた。
片手を腹に当てながら、勇者はなんとかバフォメットを睨む。
「圧縮した風をぶつけただけじゃ。痛いじゃろう?なにしろ、攻城兵器と大して変わらぬ威力を持つ魔法じゃからな。じゃが、お主に殺されたあの者はもっと痛かったはず」
バフォメットはゆっくりと勇者に歩み寄りながら、言葉を続ける。
「さて、仕置きはこれくらいにして罰を与えようかの」
「罰、だと…」
呟く勇者に、バフォメットは再び左手を突き出す。
「そうじゃ。我が同族を殺め、子から親を奪った罪は重い。相応の報いを受けるがよい」
無慈悲に言い放つと、バフォメットは数語、呪文を唱え始める。
「審判の時来たれり。かの者に裁きを」
言葉と同時に、虚空から赤い光を纏った四本の剣が出現する。
「断罪の剣」
バフォメットが静かに呟くと、四本の剣が矢の如く勇者に飛んでいき、その四肢に突き刺さった。
「ぐあああああっ!!」
まるで空中に縫い止められたかのように、勇者は立ち尽くしたまま悲鳴を上げる。
だが、この魔法は体を傷つける類のものではないらしく、剣が突き刺さっている箇所から血が出るということはなかった。
やがて剣が煙のように消滅し、その場に倒れ込む勇者。
それでも意識は失っていないらしく、うつ伏せに倒れたままバフォメットを睨む。
「き、貴様、今度は何を―」
「手足の感覚がないじゃろう?それこそが断罪の剣の効果じゃ」
勇者の発言を遮るようにバフォメットは言葉を被せる。
「断罪の剣は貫いた部分の神経を破壊する魔法じゃ。よって、もうお主の手足が動くことはない。死罰など生ぬるい。一人では何も出来ぬ体で残りの人生を過ごすがよい。それがお主の罪に対する罰じゃ」
残酷な発言に勇者は涙を流しながら、それでもなお憎悪の目でバフォメットを睨んだ。
「貴様、よくも、よくも…!!」
バフォメットはもはや首しか動かなくなった勇者の元へと歩み寄ると、鎌の柄で勇者を容赦なく殴りつけて気絶させる。
「勇者ともあろう者が泣くでない。見苦しい」
意識を失った勇者にそう言い捨てると、バフォメットは鎌を虚空へと消してルカの傍へとやってきた。
「怪我はないかの?」
さっきまでとはまるで別人のように穏やかな顔と声で、バフォメットはルカに声をかける。
それに対して遅れながらも素直に頷くルカ。
ルカが無事なのを確認すると、バフォメットは視線をルカの母親へと移す。
「すまぬ。ワシがもう少し早く来ておれば、お主の母親を助けられたかもしれん…。本当にすまぬ…」
まるでルカの母親の死は自分のせいだとでも言うかのように顔を俯かせるバフォメットに、ルカはそれは違うと首を振る。
「…お主、父親はいるのかの?」
その問いに、ルカは父親が逃げ去っていった方向を見たが、すぐに再び首を振る。
もう父親はいない、と言うように。
「そうか…。それは、残念じゃの…」
バフォメットは悲しそうに呟くが、すぐにルカを見た。
「…行く当てがないのなら、ワシのとこに来んか?」
「…え?」
未だに涙を流すルカに、バフォメットは少しだけ微笑む。
「こうして出会ったのも何かの縁じゃ。ワシはお主の母親の代わりにはなってやれぬが、お主が一人前の大人になるまでの面倒くらいなら見てやれる。もちろん、お主が望むのならの話じゃが。どうじゃ?」
小首をかしげて尋ねてくるバフォメットに、ルカは少しの間を置いて静かに頷く。
「決まりじゃな。で、お主、名は?」
「…ルカ」
「ルカ、か。ワシはフランじゃ。これからよろしくの」
差し出されたフランの右手を、ルカはゆっくりと握り返す。
握手を交わすと、フランはルカの母親を抱き上げた。
「では行こう。まずはお主の母親を弔ってやらねばの」
歩き出すフランの後ろをルカは歩いていく。
ここまでを見て、過去を覗くことをやめた。
「これが、この子の…」
ルカの頭から手を放した私は思わず呟いていた。
覗いている私でさえ心が痛む過去だったのだ。
これを直接体験したルカがどれだけ辛かったかは想像も出来ない。
「だからあなたは自分のことを話したがらなかったのね…」
言えば思い出してしまうから。
記憶の奥底に封じ込めたままでいたいから。
だから語ろうとしない。
それと同時に、なぜサキュバスなのに男を嫌うのかも理解できてしまった。
最愛の母を目の前で『男』の勇者に殺されているのだ。
これだけでも嫌う理由としては充分なのに、ある意味最も信頼していた『男』である父親に見捨てられた。
これだけ条件が揃えば、いくらサキュバスでも男に対する価値観が変わっておかしくない。
男なんて大嫌い、精なんていらない、勇者の相手なんてしたくない。
ルカがそう言うのも全部納得できる話だ。
男が嫌いだからその精なんて欲しいわけがないし、例え別の勇者でも母親を殺した者と同じ存在の相手をしたいわけがない。
ルカの発言の意味をようやく理解し、複雑な思いとともにその顔を見下ろしていると、閉じられていた目がゆっくりと開いた。
その目がこちらを捉えると、ルカは体を起こす。
「…なに、まだいたの?」
寝起きだからか、どこかとろんとした目のルカは無防備な少女そのもの。
こんな様子を見ていると、本当にあんな過去を体験したのかと疑いたくなる。
「ええ。あなたの寝顔に見惚れていたから」
「…なにバカなこと言ってんのよ」
大して照れた様子もなく、ルカは頭をかくとゆっくりと立ち上がる。
「どうしたの?ゆっくり眠れなかった?」
「……別に。ちょっと嫌な夢を見ただけよ」
素気なく言うルカは一見していつも通りに見える。
だが、眠りながら泣いていたことを考えると、ルカが見たのはきっとあの日の夢なはず。
だとしたら、ちょっと嫌な夢では済まないはずだ。
それなのに、ルカは何事もなかったかのような顔で先程作った薬を観察している。
私にはそれが不思議でならない。
「ねえルカ。少し真面目な話をしてもいいかしら?」
「なによ、急に真面目な顔して」
「あなたも魔物である以上、魔力を回復するために精は必要なはず。でも、あなたは精なんていらないと言ったわね。じゃあ、どうやって魔力を回復しているの?」
「なんだ、そんなこと」
振り返ったルカは壁際にある棚を指差す。
そこには濃い青の液体が入った試験管が何本もあった。
「あれは?」
「アタシ特製の魔力を回復する薬よ。アレ一本でけっこうな魔力を回復できるわ。だから、アタシには精なんて必要ないのよ」
話はこれで終わりとばかりに手をひらひらさせながら、ルカは使い終わった器具を片付け始める。
そんなルカの言葉に、ある疑問が浮かぶ。
これからも、ずっとそうやって生きていくのだろうか?
魔力は薬で回復させ、男とは関わらずに?
それはあまりにも悲しい生き方に思える。
だから、それを言ってあげたい。
それが、ルカの心の傷跡に触れる言葉だったとしても。
本当なら他人の生き方に口出しなどするべきではない。
でも、これだけは言おう。
最悪、絶縁かしらね…。
それも覚悟した上で、私はルカに言った。
「必要ないのではなく、意地を張っているだけでしょう?あなたにとって男は、母親を殺した勇者や、自分を見捨てた父親と同じ存在だから」
言った瞬間、ルカがピクリと反応する。
「あんた、なんでそれを…」
振り向いたルカは少し驚いたような顔でこちらを見たが、すぐに頷いた。
「そう。アタシの過去を覗いたんだ。それとも、夢の内容を見たの?」
「…前者よ」
「そんなのどっちだっていいわよ。一体なんの権利があってそんなことするわけ?友達だなんて言ってたヤツのすることじゃないわ」
全くその通りだ。
それに関しては反論のしようもないので、私は口をつぐむしかない。
黙り込んでしまった私へと、ルカは言葉を続ける。
「あんた、そういうヤツだったんだ。見損なったわ」
呆れるような声で、最後に言い放った。
「出てって。あんたなんか、もう見たくもないわ」
冷たい口調で言われた言葉は絶縁を意味するもの。
わかってはいた。
だからこそ、このまま引き下がるわけにはいかない。
この状況を作ったのは私なのだから。
「出て行けと言われれば出て行くわ。ここはあなたの家なのだから。でも、私の話はまだ終わっていない」
「あんたと話すことなんてない!さっさと出てけって言ってんのよ!」
口応えされたのが気にいらなかったのか、ルカはとうとう怒鳴り出した。
でも、怒鳴られたくらいでひるむ私じゃない。
「話してもらえないなら、私だけ話すわ」
「言ってるでしょ!あんたと話すことなんてない!」
「さっきまで見ていたのは、あの日の夢?」
一歩、前へと出る。
「あんたには関係ない!」
「眠りながら泣いていたわ。それくらい悲しいんでしょう?」
「泣いてなんかない!」
「そうやって悲しみを意地で抑え込みながら、これからも生きていくの?」
「黙りなさいよ!」
言葉とともに、一歩一歩とルカに近づいて行く。
まるで、ルカの心に近づくように。
そしてルカの前に立つと、その瞳を真っ直ぐに見つめる。
「あなたは本当にそんな生き方でいいの?」
「黙れって言ってんのよ!!」
とうとう我慢の限界に達したのだろう。
ルカは手を振り上げると、即座に払ってきた。
しかし、頬を張ろうと振られたルカの手は、私に掴まれる。
「ッ!」
右手を掴まれたまま、今度は左手を振ろうとするルカ。
でも、それはさせなかった。
ルカが手を振るより先に、私は掴んでいたルカの右手を放してその体を抱きしめる。
「なっ」
私の行動は予想外だったのだろう、ルカの口から驚きの声が漏れた。
「本当は、思い出す度に悲しいんでしょう?」
そう言って、抱きしめる腕に力を込める。
そして感じられるルカのぬくもり。
仄かに香る花のような匂いは、やはりルカもサキュバスなのだと知らしめる。
だが、そんなことを思っていたせいで、ルカは暴れるように体をひねって私の腕から逃れてしまう。
「あんたに、アタシのなにがわかるのよ!」
「そうね、過去を覗いただけであなたの全てをわかったとは思わないわ。でも、今のあなたが悲しんでいることくらいはわかる」
「知ったようなこと言わないで!人の過去を覗いて、好き勝手なこと言って、あんた、なにがしたいのよ!?アタシになにを望むわけ!?」
私がルカに望むことなんて一つしかない。
だから、ルカの目を真っ直ぐに見つめる。
「幸せになってほしい」
「幸せに?」
「そう」
その言葉に、ルカの怒り方が変わった。
烈火のような怒り方から、絶対零度のような怒り方に。
「とんだ偽善者ね。いいわ、そこまで言うならあんたに全部教えてあげる」
「どういうこと?」
「あんたはアタシのことを色々と知りたがってたでしょ。それを全部教えてあげるって言ってんのよ。そうすれば、もうアタシに関わろうなんて思わなくなるから」
そう言って、ルカは大きく一息つくと言葉を続ける。
「アタシがずっとこの体な理由、なんでだと思う?」
ルカは私を冷めた目で見ながら問いかけてくる。
「それは、アタシの体の成長が15歳で止まっているからよ」
「体の成長が止まっている?それは…」
言われたのはあまりにも単純な事実。
「アタシの過去を見たんでしょ。だったらわかるはずよ。あの日の出来事はアタシの体にも影響を与えた。その結果、成長が止まってしまった。師匠はそう言っていたわ」
ルカの説明に、私は顔を少し俯かせてしまう。
母親を目の前で殺され、父親に見捨てられた。
その現実は、少女だったルカの心に大きな傷跡を残し、体にまで影響を与えたらしい。
だからこそ、それ以上先は聞きたくないとばかりに話題を変える。
「師匠?」
「バフォメットのフラン」
ああ、ルカを助けた彼女ね。
「じゃあ、あなたの魔力がバフォメット並みにあるのも彼女が関係してるの?」
私の問いにルカはつまらなそうに頷く。
「そうよ。体が大人になれないなら、せめてその魔力は大人以上にしてやろうって言ってね。十年以上も研究して、アタシのためだけに作ってくれた特別な薬のおかげ」
確かにフランは一人前になるまでは面倒をみると言っていた。
その結果、今のルカがあるということか。
「理解できた?アタシは体が成長しないことを除けば、薬のおかげで強大な魔力を手に入れただけのサキュバスにすぎないわ。でも、それはアタシから見た場合の話」
そこまで話すとルカは一旦話すのをやめて、何かを思い出すように目を閉じる。
そしてその目が再び開かれた時、その瞳は呆れるような、または軽蔑するような色を宿していた。
「他の連中から見ると、アタシは異常なのよ。魔女やバフォメットでもないのに体は少女のままで成長しない。それだけでも不思議なのに、その魔力は上位の魔物と遜色ない。これだけ条件が揃えば、他の魔物の目にアタシがどう映るか、想像できるでしょ?」
その問いには嫌でも頷くしかない。
「アタシがこんな所に住んでいるのも、それが理由。昔はローハスに住んでたけど、街の連中の目がうっとうしくなって引っ越したわ。分かる?まるで腫れ物でも見るような目よ。基本的に他人にどう思われようと気にしないけど、毎日そんな目で見られたら、いくらアタシでもいらつくわ。だから、実験で迷惑をかけたくないって理由で、アタシは街の外れに住むことにした」
人は自分とは違う存在を嫌悪する。
それは魔物も同じらしい。
「あなたはそれでよかったの?」
「アタシが望んで出てったんだもの。良いも悪いもないわ。それに、追い出されたわけじゃないから、たまには街に行って買い物だってする。アタシを見る目は相変わらずだけど、それでも邪見に扱われるわけじゃない。まあ、必要以上に関わろうとはしてこないけどね」
語り終えたルカは目を細めて、私の目を見てくる。
「話はこれだけ。わかったでしょ。アタシといると、あんたも同じような目で見られるわ。アタシは別にいいけど、あんたは嫌でしょ。見かけによらず、繊細そうだし」
最後の一言は少しバカにするような言い方だが、ルカの言葉は嫌な思いをするから関わるなと言っているようなものだ。
やっぱり、なんだかんだ言ってルカは優しい。
それを再確認し、ルカにバレないように顔を俯かせて声なく笑う。
そんな私の様子を見て誤解したのだろう、ルカは呆れたような声でこんなことを言ってきた。
「だから言ったでしょ。関わる気なんてなくなるって。わかったら、さっさと帰りなさいよ。ここにいたって、あんたは嫌な思いをするだけなんだから」
ルカの言葉に、私は顔を上げると穏やかに微笑む。
「私が、それくらいであなたを諦めると思う?」
ルカは一瞬呆けたような顔になった後、怪訝そうに訊き返してきた。
「…あんた、アタシの話聞いてた?」
「もちろん」
質問に頷くと、ルカはキッと睨んできた。
「なにがもちろんよ!いい!?アタシといると、あんたも変人扱いされるの!だから関わるなって言ってんのよ!なんでそれがわからないの!?アタシに関わったってロクなことにならな―」
「それでも私は、あなたと友達でありたい」
遮るように被せた言葉は、嘘偽りのない私の本心。
だからこそ、ルカの顔は驚いたものに変わる。
「…なんでそこまでアタシにこだわるのよ?」
「あなたが好きだから」
「ッ!!」
言葉にならない声を漏らすルカ。
同時にその頬が急激に赤く染まっていく。
ルカはからかわれたと思うかもしれないが、今言った言葉は嘘じゃない。
辛い過去を持ちながら、それでも前を向いているルカを好ましく思っているのだから。
その真っ直ぐな姿勢に惹かれていると言ってもいいかもしれない。
「ルカは、私のこと嫌いかしら?」
「な、なによ、その質問は!?」
「どうなの?」
一歩前へと出てルカに問いかける。
「ねえ、ルカ。答えて―」
そっとルカへと手を伸ばしたのだが、私の手は当のルカによって掴まれた。
ルカは私の手首を掴んだまま、家の入り口へと私を引っ張っていく。
「もう帰って!アタシは忙しいの!」
外へと追い出され、振り向いた私へルカはそんな言葉を投げてきた。
「それは…私のことは嫌いだという意味かしら?」
「言ってるでしょ!アタシは忙しいの!だから…続きはまた今度にして!!」
ルカはそう怒鳴るが、私はその言葉に自然と笑顔になってしまう。
また今度。
それはつまり、また来ていいということ。
友達でいてくれるということ。
それが嬉しくないはずがない。
でも、そのせいでルカの大事な一言を聞き逃したことに、私は気づかなかった。
扉の向こう側で、それこそ聞き取れないような声でルカは呟くように言ったのだ。
「…嫌いじゃないわよ」
「え?なにか言った?」
「なにも言ってないわよ!それより、さっさと帰りなさい!」
そう言い捨てて、ルカは乱暴に扉を閉める。
あまりの勢いで生じた風に前髪が揺れるが、やがてそれが落ち着くと私は静かに微笑む。
ルカの態度は、きっと照れ隠しだから。
それが分かるからこそ、閉められた扉に手を当てると、その向こうにいるであろうルカに語りかける。
「また来るわ。じゃあね、ルカ」
返事はないが、それでも構わない。
散歩に行ったわけでもないのに、不思議と満たされている。
それはなぜかと問われたら、たぶんルカと仲良くなれたからだろう。
だから、今日は充分に満足だ。
口の端で軽く笑いながら、私はルカの家を後にすると空へと羽ばたく。
散歩の他に、出かける先が一つ増えた。
それを心地よく思いながら、私は家へと帰ったのだった。
ミリアが立ち去り、森にある家の中では複雑な表情で扉に寄りかかるルカがいた。
その顔には腹立たしさとは別に、喜びの色が僅かに見え隠れしている。
そして一言、顔を俯かせながら呟いた。
「…ありがとう」
本人には決して言わなかった言葉は、静かな部屋の中に消えていく。
二人の絆が少し深まった一日だった。
11/10/24 16:44更新 / エンプティ
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