連載小説
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丸い月が、夜空の高みに浮いていた。
既に日が沈んでからかなりの時が立ち、日付も変わろうかと言う頃だ。
酒場には灯が点り、未だ喧騒を風に乗せて町はずれまで伝えている。だが、町はずれともなればもはや灯の光より星月の明かりの方が眩いほどであった。
そして、星月の明かりの下に、いくつかの人影があった。
「隊長、包囲完了しました」
「ああ、ご苦労」
町はずれに建てられた大きな屋敷から少し離れた場所で、三つ並ぶ影の内の二つが、そんな会話を交わした。
影の一つは軽装鎧に身を包み、剣を腰に帯びた兵士。もう一つは馬に跨り、屋敷を見据える聖騎士だった。
「包囲は完成したが…本当に一人で?」
うまにまたった聖騎士が、傍らに立つもう一つの影、馬上の彼自身より一回り低いほどの高さの人物に向けてそう問いかけた。
「ええ、問題ありません。むしろ私一人の方が良いぐらいです」
プレートアーマーで全身をくるみ、マントとフード、そして鉄仮面を被った巨大な影が、馬上からの問いかけに穏やかな声で答えた。
「私が突入し、彼らを押さえる」
「そして俺たちが、逃走した者を捕える、と」
巨躯の聖騎士と馬にまたがる聖騎士が、そう互いの役割を確認した。するとその直後、馬上の聖騎士が僅かに顔をしかめた。
「しかし…見世物小屋の捜索に、こんな人数を駆り出す必要が…?」
彼が疑問とともに屋敷に視線を向けると、廃屋に片足を突っ込んだ屋敷と、その庭に停められた幾台もの馬車が目に入った。
馬車の荷台や幌には、見世物小屋の名前と戯画化された初老の男の顔が描かれている。
「あなたもチラシをご覧になったでしょう。蛇女に猿人間、そして大魔王ルシの占い。いずれも、魔物との何らかの関わりがあるはずです」
「そう、なのか…?」
馬上の聖騎士の脳裏に、明るいうち見せられた見世物小屋のチラシが浮かび上がった。街から街へ巡業する彼らの見世物は、怪奇や驚異などと銘打たれてはいるものの、怪力男に火吹き男、そして百貫でぶ男と、いずれも曲芸と冗談の合間程のように彼には思われた。
「間違いありません。それに、この見世物小屋の団長の瞬間移動魔術は、下手をすれば魔王直下の魔物の助力を得ている可能性があります」
鉄仮面の聖騎士の語気に、徐々に熱のようなものが宿っていく。
「それに、街の人々の声を聴きましたか?あんな妙なものが居てはまともに日々を送ることもできない。弱き信徒がそう訴えているのですよ」
「まあ、確かにそんな話も聞いたが…」
そんな訴えをしたのはごく一部の偏屈な老人だ、と馬にまたがる聖騎士は心の中で付け加えた。この場でこの鉄仮面に抗弁したところで、彼の興奮を煽るだけなのだから。
噂によると、数年前に自身の右腕と言ってもいい尼僧を異端審問官に引き渡したと言う。そしてこの数年間、レスカティエに帰還することもなくただ一人であちこちを彷徨い歩き、魔物を捕えて回っているようだ。下手に興奮させたら何が起こるか分かったものじゃない。
「それでは、そろそろ私は参ります。外に出てきた連中の確保、よろしくお願いしますよ」
「了解」
一番危険な役目に就くのはこの鉄仮面の聖騎士なのだから、大人しくしていよう。
そう判断しながら、彼は馬上から短く応じた。
「行ってまいります」
「ご武運を、聖騎士ウィルバー」
屋敷に向かって進むその幅広い、巨大な背中に向けて、彼は敬礼した。


同僚の敬礼と、彼の部下の包囲を背に、程なくしてウィルバーは屋敷の入り口にたどり着いた。
開け放たれた門をくぐると、馬車や屋台が並ぶ庭に入る。防水布が掛けられた屋台の間を通り抜け、彼は玄関の前に立った。
そして、正面玄関を拳で数度叩いた。
籠手と分厚い木材のぶつかり合う音が、屋敷のエントランスホールに響く。
たっぷりと間をおいて、玄関が細く開いた。
「……はいよ、今日はもう終わってるよ…」
「こんばんは、夜分遅くすみません」
眠そうに眼を擦りながら顔を出した若い男に、ウィルバーは鉄仮面越しに声を掛けた。
「あなた方の一座の出し物に、魔物が関わっている恐れがありますので捜査に参りました。ご協力いただけますか?」
見上げるほどの巨躯と、鉄仮面越しの有無を言わさないその言葉に、若い男の目が見開かれる。
「しょ、少々お待ちください…」
どうにか彼はそう紡ぎ出すと、扉の内側に顔を引っ込め、扉を閉ざした。
「……」
ウィルバーは扉の前で、少し耳に意識を傾けた。
すると彼の耳に、いくつもの音と声が届いた。
最初に聞こえたのは、床板を軋ませながら駆けていく若者の足音。
そして、助けを求める声に紛れ、彼の呼吸音と声が響く。
『聖騎士だ!鉄仮面の聖騎士がガサ入れに来た!』
屋敷の外に聞こえないように、それでいて仲間たちにはよく聞こえるように、彼が押し殺した声を上げている。
『聖騎士だと!?』
『鉄仮面だ!一人だけだ!』
老若男女の『助けて』という言葉に混ざり、男女の声が屋敷の内側からウィルバーの耳に届いた。
『きっとあの子のことがばれたんだ!団長は!?』
『今起こす!みんな、時間を稼ぐぞ!』
そこまで聞き届けたところで、ウィルバーの右足が跳ねあがった。
路傍の小石でも蹴り飛ばすような気軽さで、彼の爪先が屋敷のドアに突き刺さり、半ば錆びた蝶番を引き毟りながら吹き飛ばす。
分厚い木板が衝撃に折れ曲がりながら、エントランスホールの内側へ吹き飛んで行った。
「来たぞ!」
エントランスホールに椅子を並べて作られた、即席の劇場の奥から驚きを孕んだ声が響いた。
ウィルバーは鉄仮面を巡らせて劇場を一瞥すると、劇場の上手に続く舞台裏に向けて、椅子の間を歩き始めた。
そして即席の段を上り、舞台袖から裏側に入ろうとしたところで、奥から男が一人現れた。
「ああっとお客さん、ここから先は立ち入り禁止です。それに今日は遅いですし、また明日に…」
「すみませんね、捜査ですので」
道を遮りながら気さくに話しかけてきた男の肩を掴むと、ウィルバーは軽く押しやった。
すると、男の身体はたやすく壁に押し付けられ、彼の目が見開かれた。
「ご協力いただければすぐに済みますので」
「いや、ちょっと待ってくれ、そんないきなり…」
なおもウィルバーの足止めをしようと声を掛ける男に、聖騎士の籠手に覆われた右手がマントの内に消え、腰の裏にぶら下げられていたごく短い投げ槍を一本掴み取った。
そして、男が槍に気が付くよりも先に、ウィルバーの腕が鞭のようにしなり、男の肩口に槍を突き立てた。
「…え?あれ?」
衣服の肩の布を貫き、壁に自らを縫い止める槍の出現に、男は目を白黒させた。
「少しその場でじっとしていてください。次は当てます」
ウィルバーは男の方を振り返りもせずに告げると、舞台袖から裏に入っていった。
舞台裏は廊下をそのまま使用しているため、普通の劇場のそれよりかは広かった。
だが、出し物で使う小道具が置いているため、雑多な印象は拭いきれない。
「オイ待ちな」
小道具の並ぶ通路の角を曲がろうとしたところで、角の向こう側から男がまた一人現れた。
ウィルバーに劣らぬ身の丈の大男で、肌着越しでも分かるほど分厚い筋肉を纏っていた。
おそらく彼が、チラシに出ていた怪力男なのだろう。
「聞かなかったか?ここは立ち入り禁止だ。話があるなら、裏に回ってもらおうか」
ウィルバーの鉄仮面に向け、怪力男はニヤリ、と笑みを浮かべた。
「そうしたいのはやまやまですが、どうも魔物を隠したり逃がしたりする方が多いので、このように捜査させてもらっているのです。ご協力いただけますか?」
「だめだ」
ウィルバーの問いに、怪力男は首を振った。
「どうしてもと言うのならこの俺を、鉄腕巨人のザンダーをノしてから通るんだな」
男はそう言うと、積まれていた小道具の山から女性の手首程の太さの鉄棒を手に取ると、これ見よがしに曲げて見せた。
どうやら、よほど腕っぷしに自信があるらしい。
「…仕方ありません」
「お?力比べか?いいぜ」
ウィルバーがゆっくりと掲げた右手に、怪力男はどこか嬉しげにそういうと、自身の左手を聖騎士の右手に絡めた。
「俺は左手だが、負けても文句は」
怪力男がそこまで口にしたところで、ウィルバーはひょいと右手を横に動かした。
すると、彼の右手に指を絡める左手と、そこに続く腕、肩、胴体、両脚が続けて動き、廊下の角に怪力男の全身が叩き付けられた。
薄汚れた壁紙ごと老朽化した板壁が、怪力男の激突によって突き破られる。
そしてそのまま、怪力男は口を閉ざしてしまった。
「先に進みますよ」
力の緩んだ怪力男の左手から指を解くと、ウィルバーは通路の奥へと進んでいく。
『ザンダーがやられた!』
『スケールは?』
『今叩き起こした、厨房の裏口から逃がすぞ!』
ウィルバーの耳に、風に乗っていくつかの声が届いた。
「厨房ですか…」
ウィルバーは聞こえた声の一部を復唱すると、やや歩幅を広げ、屋敷の奥、食堂を目指した。
そして、通路と並ぶ扉を抜け、厨房に続く食堂へ彼は足を踏み入れた。
食堂には長テーブルが並べられ、つい先ほどまで見世物小屋の団員が使っていたためか、火のともった蝋燭と燭台が一つ長テーブルの上に残されており、食事の後特有のいくつもの料理の混ざった匂いが残っていた。
「ふん…」
鉄仮面の覗き穴越しに食堂を一瞥すると、聖騎士はその奥、厨房へ続く扉に向けて長テーブルの合間を抜けようとした。
すると、長テーブルの影から、不意に人影が飛び出した。
ズボンだけを履いた、上半身裸のやや小柄な男だ。男の頭には頭髪が一本もなく、それどころか眉もひげも生えていなかった。
見事なまでの禿頭と、毛のないその妙な出で立ちに、ウィルバーの意識が一瞬絡め取られる。
すると禿頭の男は、テーブルの上で光を放つ燭台を手に取り、蝋燭の火を顔の前にかざした。
「あなたは…!」
その動きに、禿頭の男の正体に思いが至った瞬間、炎に照らされる男の唇がニヤリと吊り上った。
直後、彼の唇が窄められ、ウィルバーに向けて炎が迸った。
「…!」
押し寄せる火吹き男の炎に、鉄仮面の奥からくぐもった声が響いた。
だが、火吹き男の噴出した油は、容赦なくウィルバーに浴びせかけられ、蝋燭の炎を存分に聖騎士のマントへ絡み付かせた。
コップ一杯分ほどもない、口に含める程度の油ではあったが、聖騎士の全身を燃え上がらせるには十分な量だ。
「うお…おお…!」
炎の内側から聖騎士の声が響き、その足がよろめく。
だが、その身体が倒れ伏すかと思えた瞬間、彼は踏みとどまった。
「…ふん!」
腕を振り上げ、足を持ち上げると、裂帛の気合とともに彼は足を踏み下ろし、腕を力強く振るった。
すると、マントに絡み付き炎を上げていた油が、水でも切るかのような勢いで彼のマントから離れ、四方に飛び散った。
「そんな…!」
周囲の床や長テーブルはもちろん、壁や天井にまき散らされた油と炎に、火吹き男が驚きの声を漏らす。
そして、床板や壁を焦がす炎から正面に視線を戻すと、焦げ跡ひとつない聖騎士の巨躯が、彼の眼前に立っていた。
「クソ…!」
火吹き男の口から声が漏れた瞬間、ウィルバーの右手が翻り、彼の頬を平手で打ちすえた。
籠手越しに、顎の骨が損壊する感触が、聖騎士の右手に伝わり、衝撃が火吹き男の身体を拭き飛ばし、床へ倒れさせた。
「さて…」
火吹き男から意識を離すと、ウィルバーは厨房の扉に視線を向けた。
『ほら、ここから出て行くんだよ…』
『だいじょぶだ。ここはおれが守る。蛇女とお前は逃げて』
女の声と、やや舌足らずな男の声が、扉の向こうからウィルバーの耳に届いた。
ウィルバーは足早に扉の前に詰め寄ると、右手の指を揃え、木板に向けて貫き手を突き立てた。
それなりの厚みの木材が裂き割られ、ウィルバーの右手が扉の向こうに貫通する。
そして、肘までを扉の向こうに貫き通すと、聖騎士は腕を折り曲げ、扉の内側に身を預ける何者かを掴んだ。
「うげ、え…!」
扉の向こうから湿った声が溢れ出し、ウィルバーの指がぶよぶよと柔らかいものに食い込んだ。
彼は構うことなく、マントの下から出した左手を扉に添え、力に任せて一歩退いた。
ウィルバーの力に蝶番が割れ、扉の向こうの何者かが厨房から食堂に引きずり出される。
そして、扉ごと食堂の床に、彼は掴んでいた者を叩き付けた。
「ぐ、うぅぅ…!」
叩きつけられた衝撃で床板を打ち破り、目を回していたのは異常に肥満した、おそらく男だった。
自分の足で立てるかどうか、というその姿からすると、百貫でぶ男なのだろう。
ウィルバーは視線を正面に向けると、じわじわと壁にまき散らされた火が広がっていく食堂から、厨房に足を踏み入れた。
「ひっ…!」
食堂の薄闇の中、調理台の向こうから女の甲高い悲鳴が響いた。
ウィルバーは床板を蹴ると、調理台に手を掛け、軽々とひっくり返して道を開けながら、一直線に声を漏らした女の下へ向かった。
そして、薄闇の中蹲る女が逃げる暇も刃向う暇も与えず、その細首に右手を伸ばし、花束でも手に持つかのように軽々と持ち上げた。
「あが…!」
「ふむ…?」
食堂から差し込む火の光に照らされた女の顔に、ウィルバーは怪訝な呻きを漏らした。
「てっきり、蛇女がいるかと思いましたが…違いましたか?」
揺れる炎に照らされていたのは、唇の薄い細面の女だった。蛇女、という字面から予測される、ラミアやメデューサといった魔物ではない。
「あ、あたしが…蛇女、スケールだよ…」
首に指を食い込まされながらも、女はそう紡ぎ出し、唇から舌を出して見せた。
太さや長さこそ人とあまり変わりがないものの、その舌先は二つに割れている。どうやら、それが蛇女の名の由来らしい。
「なるほど、てっきり本物の魔物かと思っていましたが…」
「へ…!あたしらは、全部…まがい物さ…本物なんて…」
苦しげながらも自嘲気味に、蛇女がそう紡ぐと、ウィルバーは右手の指を緩め、厨房の床に蛇女を下ろした。
「がは、げほ…!」
「詳しい話は異端審問官が伺います。裏口を出て、この屋敷を包囲している兵に保護を求めなさい」
どこか静かな口調で、聖騎士は急き込む蛇女に告げた。
「私は、団長さんと話を付けて参ります。ちなみに団長さんは?」
「さあ、ね…二階じゃないの…?」
「ありがとうございます」
やや苦しげに呻く蛇女に礼を述べると、マントに覆われた巨躯が身を翻し、徐々に炎の広がる食堂を足早に抜けて行った。
そして、壁にうずもれる怪力男と壁に縫い止められた男の脇を通り抜け、エントランスホールまで戻ると、階段を駆け上った。
「団長さん!」
部屋の並ぶ廊下を、声を上げながらウィルバーが歩いて行く。
「お話があります!どこに…!」
「こっちだ」
ふと彼の耳を、初老の男の声が打った。
ウィルバーは越えの導くまま廊下を抜け、部屋の一つに入った。
「おう、騒がしかったな」
そう言いながら彼を迎えたのは、タキシードに身を包んだ初老の男だった。
部屋には、何やら文字の書かれた樽が一つ置いてあり、その上に火のともった蝋燭と燭台が乗っていた。
「お騒がせ失礼しました。私は、聖騎士のウィルバー…」
「ああ、いい、いい。要件は大体わかっている。我々を捕まえて、魔物とのつながりを見つけ出すつもりだったのだろう?」
ウィルバーの名乗りを遮り、団長はそう聖騎士の目的を推測した。
「まがい物ばかりの見世物小屋だが、叩けば埃の一つでも出るだろう。そう踏んだのではないかね?」
「いえ、私は…」
「ああ、そうだ。魔王や魔物に手も出せないが、信徒の不安を拭い去る為、我々のような見世物小屋を虐めてスカッとする。まったく、教団の聖騎士様はご立派だなあ」
自嘲と揶揄の入り交ざった言葉に、ウィルバーの内に微かな怒りが芽生えた。
「もっとも、わしは仲間が拷問で痛めつけられるのは嫌だし、わしも痛めつけられるのは我慢出来ん。だから、この場で『白状』するから、下の連中は見逃してやってくれんか?」
「なるほど…しかし、見世物小屋の皆さんの身の潔白の証明には…」
「問題ない」
団長はウィルバーに短く告げると、樽の影から紐を束ねた物を取出し、思い切り引いた。
すると、部屋の天井付近で何かが爆発する音が響き、天井がたわんだ。
「っ!」
建物が崩れる。
ウィルバーの身に緊張が宿った瞬間、屋敷の外に面する壁が音を立てて外向きに崩れていった。
すると、ちょうどウィルバーと団長のいる部屋が、外に対して吹き抜けになった。
「やあやあ、紳士淑女に坊ちゃん嬢ちゃん、聖騎士と異端審問官の皆さま!」
星月に照らされる、屋敷を囲む聖騎士と兵士に向け、団長がその体のどこから出しているのかと言うような声量で呼びかけた。
「今宵は私、大魔術師ディーン・ハーリフの捕縛に来られ、誠に歓迎いたします。ですが私、根からの興行師ゆえ、お縄を頂戴して牢に入れられるのは御免こうむりたいところであります。そこで今宵は、大魔術師ディーン・ハーリフ、最大の魔術をもって、この人間界での興行の最後を飾りたいと思います」
彼は樽の傍らに立つと、燭台を手に取った。
「今宵の演目は瞬間移動魔術!誰の目にも止まることなく、我が一座の団員も知らぬ所へ一息に移動してみましょう!」
団長の手が樽の蓋にかかり、開いた。すると、樽の内側から鋭い臭いが溢れ出した。
「それは…!」
「それでは皆様、ごきげんよう!」
樽の中身にウィルバーが思い至った瞬間、団長の手が動いた。
「アバヨ・サラーバ!」
おまじないめいた言葉を紡ぐと同時に、燭台を掴む団長の手が、樽の中に突き込まれた。
その瞬間、樽の中から光が溢れ、直後破裂した。



光が目を焼くと同時に、衝撃がウィルバーを打ち据え、彼の巨躯を軽々と吹き飛ばした。
轟音が耳を聾し、閃光が目を眩ます。そして、彼の目が焦点を結ぶと、星と月が目に入った。
「うぅ…!」
全身の痛みにうめき声を上げ、彼はゆっくりと身を起こす。爆風でプレートアーマーが歪み、いくらか身体が動かしづらい。だが、負傷はないようだった。
「う、う…」
ギシギシと鎧を鳴らしながら立ち上がると、ウィルバーは周囲に目を向けた。
屋敷の二階は大きく吹き飛んでおり、樽が置いてあった部屋は一階と吹き抜けになっていた。
もちろん、団長の姿は影も形もなくなっている。
「……」
食堂の炎が広がったのか、屋敷のあ地ことから煙が上がっており、建物を包囲する兵士達は消火作業に奔走していた。
恐らく、建物の内部にいた者の中にも、犠牲者が出ているかもしれない。
信徒の不安をぬぐうため、ほんの少し疑わしい者を調べるだけだったのに、なぜこんなことに。
「……うぅ…」
ウィルバーの鉄仮面の奥から、低い呻き声が溢れた。
同時に、爆音によってマヒしていた耳が、音を拾い始める。
『今の爆発は!?』
『助けて…』
『死傷者が出ている!』
『消火を!』
『助けて!』
『住民の避難はどうなっている!?』
『助けて!』
『助けて!』
『助けて!』
『助けて!』『助けて!』
『助けて!』『助けて!』
『助けて!』『助けて!』
『助けて!』『助けて!』
『助けて!』『助けて!』
『助けて!』『助けて!』
兵士達の声や、近くの住民の声に混ざり、助けを求める声が耳に聞こえてくる。
昼も夜も、どこにいても聞こえる、男や女、子供から老人までの声。
声に突き動かされるように魔物を大人しくさせ、盗賊団を捕えても、決して減ることも弱まることもない声。
声が、ウィルバーの耳で響いている。
『助けて!』『助けて!』
『助けて!』『助けて!』
『魔王や魔物に手も出せないが』
『助けて!』『助けて!』
『助けて!』『助けて!』
『信徒の不安を拭い去る為』
『助けて!』『助けて!』
『助けて!』『助けて!』
『我々のような見世物小屋を虐めてスカッとする』
『助けて!』『助けて!』
『助けて!』『助けて!』
『教団の聖騎士様はご立派だ』
「…うぅ…!」
助けを求める声にまぎれて響く、見世物小屋団長の声に、ウィルバーは頭を抱えるように耳を塞いだ。
しかし、助けを求める声は変わらず、彼の頭の中で響いていた。
「うぅぅ…!」
『助けて!』『助けて!』
『助けて!』『助けて!』
『助けて!』『助けて!』
『助けて!』『助けて!』
耳元で響く声に応えて来たというのに。
部下を危険にさらさないよう、自分だけが常に動き続け、魔物や盗賊を相手し続けたのに。
主神の御加護の恩恵を存分に受けた負傷も即座に癒え、眠らずとも疲れず体で戦い続けたのに。
それが、何になっただろう。
「うぅぅ…ぁ、ぁ、ぁああああああああ!」
ウィルバーがフードに指を食いこませ、引きずり下ろして鉄仮面のベルトが喰い込む頭を露わにした。
そして、両耳を鷲掴みにすると、力任せにむしり取った。
「がぁぁあああっ!!」
『助けて!』『助けて!』『助けて!』『助けて!』
『助けて!』『助けて!』『助けて!』『助けて!』
『助けて!』『助けて!』『助けて!』『助けて!』
『助けて!』『助けて!』『助けて!』『助けて!』
『助けて!』『助けて!』『助けて!』『助けて!』
『助けて!』『助けて!』『助けて!』『助けて!』
激痛が側頭部に走るが、助けを求める声は消えるどころか、多くなった気がする。
そして、響く声の中に、見世物小屋の団長や蛇女、怪力男達の声が混ざる。助けを求めるその声は、もはやウィルバーを責め立てているようだった。
いや、責めているのだろう。彼が余計なことをしなければ、怪我をすることも命を落とすこともなく、『助け』られたかも知れないのに。
指を緩め、むしり取った耳を落とすと、ウィルバーは両手で耳のあった場所を押さえた。
だが、穴を塞いでも助けを求める声は高々と彼の耳で響いていた。
『助けて!』『助けて!』『助けて!』『助けて!』
『助けて!』『助けて!』『助けて!』『助けて!』
『助けて!』『助けて!』『助けて!』『助けて!』
『助けて!』『助けて!』『助けて!』『助けて!』
『助けて!』『助けて!』『助けて!』『助けて!』
『助けて!』『助けて!』『助けて!』『助けて!』
「主神よ…」
『助けて!』『助けて!』『助けて!』『助けて!』
『助けて!』『助けて!』『助けて!』『助けて!』
『助けて!』『助けて!』『助けて!』『助けて!』
『助けて!』『助けて!』『助けて!』『助けて!』
『助けて!』『助けて!』『助けて!』『助けて!』
『助けて!』『助けて!』『助けて!』『助けて!』
「私は…」
『助けて!』『助けて!』『助けて!』『助けて!』
『助けて!』『助けて!』『助けて!』『助けて!』
『助けて!』『助けて!』『助けて!』『助けて!』
『助けて!』『助けて!』『助けて!』『助けて!』
『助けて!』『助けて!』『助けて!』『助けて!』
『助けて!』『助けて!』『助けて!』『助けて!』
「どうすれば…?」
『助けて!』『助けて!』『助けて!』『助けて!』
『助けて!』『助けて!』『助けて!』『助けて!』
『助けて!』『助けて!』『助けて!』『助けて!』
『助けて!』『助けて!』『助けて!』『助けて!』
『助けて!』『助けて!』『助けて!』『助けて!』
『助けて!』『助けて!』『助けて!』『助けて!』
無数の声に掻き消されそうになりながら、ウィルバーはそう声を漏らした。
その声に応える声はなかったが、代わりに彼の掌を押す物があった。
「…?」
耳を押さえる手を離すと、彼は指先で掌を押していた物に触れてみた。果たしてそれは、新たに生えた耳だった。
いつの間にか耳の痛みは消えており、違和感なく側頭部に生えていた。
「そうか…そういうことですか…」
毟った耳、切り落とされた腕、身体に突き立てられた無数の矢、炎に爆風、そして不眠不休で過ごしてきたこの数年。
その全てが、ウィルバーの内側で一つにつながった。
「主神よ…ようやく分かりました…かような小物ばかりを相手にしていても、何にもならないのですね…」
この数年、身を粉にして働き続けて得られたものを思い返し、ウィルバーは続けた。
「やっと、やるべきことが分かりました、主神よ…!」
その声には静かな熱が籠っていた。
「さあ、まずはレスカティエに戻らねば…!」
やるべきことはたくさんある。
ウィルバーは先ほどちぎり取った自身の耳をそのままに、すっくとその場に立ちあがった。
12/08/22 16:19更新 / 十二屋月蝕
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その晩、化物が産声を上げた

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