chapter 8
拍手が鳴り響いていた。そこまで力のこもっていない、かすかに間を含んだ一人分の拍手だ。手を打ちならしながら、警備隊員の隊列の間を抜け、室内に入ってきたのはロプフェルと同じ衣装を纏った男だった。軍服を思わせる上等な生地の胸には、勲章がいくつもつり下げられている。しかし勲章の上、両肩の中間に乗っていたのは、眉間に深いしわの刻み込まれたロプフェルの顔ではなかった。
「お前…!」
「おめでとう。見事だった」
拍手をしながら賞賛の言葉を贈る男の顔に、ジェインは見覚えがあった。ジェインが『クラーケン』を獲得したあのとき、酒場の左席に腰を下ろしていた男。ジェインがセントラ研究島に不時着したとき、庭園の木々の世話をしていた男。ジェインとイヴァンがイーロ・ファクトに潜入していたとき、地下通路を案内してくれたあの男。
同じをした男たちと、ロプフェルの衣装に袖を通す人物は、完全に同一であった。
「え…?な、何で…?」
ジェインの側に駆け寄っていたイヴァンもまた、拍手をする男の姿に目を白黒させていた。なぜここに彼が。ロプフェルに変装していたのか?ではロプフェル本人はどこに?
疑問が二人の胸中に次から次へとわき起こる中、今度は二人の背後から高い声が響いた。
「とっさの判断、行動。そして推測のすべてが見事だった」
予想もしていなかった方角からの声にジェインとイヴァンが顔を向けると、そこにはいつの間にか身を起こしていたチャールズの姿があった。いや、チャールズではない。雷によって軽く焼けた衣服や、四肢の先端に残る『リザードマン』や『スキュラ』の特徴こそそのままだったが、顔が違っていた。酒場の店員でありながら、セントラ研究島で植木の手入れをしていた同じ顔の女が、そこにいた。
「リィドさん…!」
「状況の変化の適応能力もそうだが、与えられた情報から新たな結論を導き出し、目的を再設定するのは見事だった」
チャールズの格好をしていた女の平坦な言葉を引き継ぐように、今度はロプフェルの格好をしていた男がのっぺりとした声音でそう言った。
「私たちの設計もあるが、見事なまでの思考能力だ」
「お見事お見事」
「なにをごちゃごちゃ、わからねえことを…」
背後と前方、いつの間にか入れ替わっていた二人に注意を払いながら、ジェインはイヴァンをかばうように抱き寄せた。
「そもそも、お前たちは何だ?ロプフェルや、チャールズの奴は…」
「これは失礼」
「正式に名乗っていなかった」
ジェインの言葉に、二人は応じた。
「私はトッド・ロック」
「私はレベッカ・リィド」
ロプフェルの衣装を纏った男が名乗った直後、チャールズの格好をした女が続いた。
「私はセントラ研究島で、医学を中心とする研究を行っている」
「私はセントラ研究島で、優生学を中心とする研究を行っている」
「お前たちのことはわかった…今度は、ロプフェルとチャールズの奴がどこに行ったかだ」
いつから入れ替わっていたのかはわからないが、早いうちにあの二人を見つけなければならない。チャールズは新たなジルを手に入れてさらに強くなるかもしれないし、ロプフェルはこの一帯への砲撃や爆撃を命じかねない。
「焦る必要はない」
「ロプフェルはもう何もしない」
「何もできない」
「私と私が」
「何もさせないから」
「…?」
あらかじめ打ち合わせでもしていたかのように、なめらかな調子で交互に言葉を紡ぐ二人に対し、ジェインは妙なものを感じた。
「何も、させない…?どういうこと、リィドさん…?」
少年が女の方に呼びかけたところで、ジェインはイヴァンと顔見知りだという研究者のことを思いだした。
「言葉そのままの意味だ。ロプフェルにはもう何もさせない」
リィドは少年の問いかけに、そう返した。
「何もさせない、って…ロプフェルはナムーフの最高権力者で…」
「そうか、クーデターか」
ジェインは、少年の言葉を引き継ぐように、二人の研究者の言わんとしていることを察し、口にした。
「ロプフェルの奴がオレたちに気を取られて警備隊員を動かし回ってる隙に、セントラ研究島の研究者たちでナムーフを乗っ取ったんだろう」
ジェインは、今まで見聞きしてきたものが脳裏で組み上がっていくままに任せ、推理を口にした。
「ロプフェルが表にでる日に、記憶を適当に消したオレをけしかけてジルを使わせ、浸食主義者として奴の目に入れる。そしてロプフェルがオレを追っかけ回してる間に、セントラ研究島の連中がナムーフのあちこちを押さえていく。チャールズという実験材料がいたから、並の警備隊員十人ぐらいじゃ太刀打ちできないようなジルだって簡単に用意できただろう。そして今の今、護衛であるチャールズがロプフェルから完全に離れた瞬間をねらって、奴を取り押さえたんだ」
そう、ジェインが記憶を消され、あやふやな任務とともにナムーフに放たれたのは、クーデターのためだったのだ。
ジェインはそう結論づけたが、ロックとリィドの反応は違った。
「正解」
「不正解」
二人が同時に発したのは、正反対の言葉だった。
「チャールズ氏を使用して実験を行い、優秀なジルを生産したという点については正解だ」
「ただそのジルを用いてナムーフを掌握するというのは不正解」
「はぁ?」
ナムーフの掌握という、ジェインの推理のもっとも重要な柱を突き崩されてしまい、彼女は声を上げた。
「でも、お前たちはもうロプフェルには何もさせないって…」
「確かにチャールズ氏を使ってジルの生産は行ったが、それとナムーフの掌握は別の問題だ」
「すでに掌握は」
「成っているのだから」
リィドの声が半ばで途切れ、全く別の方向から続いた。
「っ!?」
無意識のうちにチャールズの代わりに床に座り込んでいたリィドに向けていた視線を、ジェインはロックの方に向けた。正確にはロックではなく、ロックの傍らに立つ警備隊員だった。
「ジルの研究を進めるうち、同一個体から得られたジルは、類似する形質を摂取したものにもたらすことがわかった」
ロプフェルの衣装に袖を通したロックの隣にいたのは、警備隊員の制服に身を包んだ、リィドだった。
「緑の地に黒い線の模様を備えたラミアのジルを摂取すれば、緑の地に黒い線の模様を備えたラミアになる。頬と首筋にほくろのあるサキュバスのジルを摂取すれば、頬と首筋にほくろが生じる」
リィドの言葉を引き継ぐように、トッドの声が続けて説明した。だが、警備隊員の格好をしたリィドの隣にたつトッドの口は微動だにしておらず、ジェインとイヴァンの背後から声が響いているようだった。
弾かれるように振り返ってみれば、床の上に身を起こしていたのはいつの間にかロックになっていた。
「ジルには種族としての特徴だけでなく、個々の個体が備えた特徴さえも記述されているのがわかった」
続くリィドの声は、半ば予想していたことだが、再び部屋の戸口の方から届いた。顔を向けてみると、ロプフェルの衣服にリィドがいつの間にか袖を通していた。
「技術ジルを飲んだ君ならわかると思うが、ジルには身体の特徴だけでなく、動かし方という精神的な特徴も伝達する性質がある」
「つまり成分を突き詰めていけば、体の動かし方だけでなく、記憶やものの考え方も伝えられるのではないか?」
「私と私はそう考え、自身のジルを抽出し、互いに摂取した」
「その結果が」
「これだ」
ロックとリィドの二人がそう言うと同時に、両者の顔が溶けるように滲んだ。輪郭や目鼻が曖昧になり、直後位置を整えて顔を形作っていく。
するとそこには、ロプフェルの衣装に袖を通すロックと、チャールズの衣服を纏ったリィドがいた。
「私と私は記憶の共有を果たし、二人で一人となった」
「それどころか、君がジルによって得た器官を自在に出し入れできるように、私たちは私と私を自在に切り替えられるようになった」
「なるほど…それでロプフェルとチャールズの二人に、お前たち二人分のジルを飲ませて、完全に支配したってわけか…」
チャールズは実験の一環で、ロプフェルはチャールズと化した二人を使って、ジルを飲まされたのだろう。しかし、ロックとリィドの返答は彼女の予想外のものだった。
「二人だけではない」
「ナムーフの全住民が」
「喜んで」
「先を争って」
「飲んだ」
「はぁ…?」
一体なぜ、ジェインの胸中の疑問に対し、イヴァンがあっと声を上げた。
「ジルの副作用を治療する、治癒ジルだ…!」
治癒ジル。ジルの摂取しすぎで魔物化した人間に投与することで、副作用を治療する特効薬だ。
「治癒ジルは私と私の予想を上回る勢いで、ナムーフ中に広まった」
「ジルの副作用による魔物化の治癒だけでなく、予防薬目的で摂取するものさえいたからな」
「おかげで私と私がナムーフを満たすまで、そう時間はかからなかった」
すると、ロックの左右に立っていた警備隊員たちの顔が溶けるように滲み、新たな顔を作りだした。
「私、」
「トッド・ロックと」
「私、」
「レベッカ・リィドが」
「ナムーフを」
「満たした」
並ぶロックとトッドが、交互に一人ずつ口を開いて、そう名乗った。
双子でもないのに全く同じ顔が並ぶ様子に、ジェインは彼らが完全に同一人物であることを悟った。
そして、酒場で出会った二人や、セントラ研究島の庭園で遭遇した二人が、元は別の人間だったとしてもこの二人であることを理解した。
「お前たちは…何をするつもりだ…?」
ジェインは声の震えを押さえ込みながら、低い声音で問いかけた。ロプフェルなら、地上の魔物と人間の管理という分かりやすい目的があった。だがロックとリィドの二人の目的が、ジェインには予想もつかなかった。
ジルを使って自分を増やして、一体何になるのだろう?
そして二人の言葉が事実だとするなら、ナムーフを二人で満たしてしまった今、その先に何があるのだろう?
「私と私の目的は一つ」
「ジルの研究を、より効率的に行うことだ」
警備隊員たちの顔が一度ロックのものに変わってから、言葉を引き継ぐようにリィドに入れ替わる。
「二人で始めたジルの研究だったが、セントラの研究者たちも一応は手を貸してくれた」
「だがそれも、ほんの少し成分をいじって新たな効果を得るという表層的なものだった」
「ジルがなぜ生命に作用するのか」
「ジルの何が生命に作用するのか」
「そのような研究をするものはおらず」
「私と私の二人だけでは足りなかった」
ロックとリィド、入れ替わりながらの二人の言葉に、ジェインは目が回るようだった。
「あ、ああ…分かった、だいたい分かった…つまり、もっと効率的に研究したいから、ナムーフと住民を乗っ取ったわけか?」
「その通り」
ロックが頷き、直後リィドに顔が変わる。
「だが、いくつか継続中の研究もあったから、しばらくは住民たちの意識を自由にさせていた」
「イヴァン、君も継続中だった研究の一つだ」
「え?僕?」
突然話題の矛先を向けられて、少年は目を丸くした。
「君の気象操作能力が、ジルのどのような成分でもって構成されているのかの研究が残っていた」
「だがそれももう完成した」
「イヴァン。ナムーフを包み込む風の防壁は、君の協力によるものだ。」
「私と私は感謝する」
「ええと…」
「つまり、何だ?用済みになったから、オレたちを始末するって言うのか?」
ジルを飲ませて二人の仲間に引き入れるか、単純に命を奪うか。どうするかは分からないが、ジェインはイヴァンをかばうように立ちふさがった。
「始末?そんなことはしない」
「君たちがお望みなら、そのようにしてもいいが」
「むしろ、君たちは自由だ」
「その飛行機械を用いて、どこにでも行くといい」
「…何だと?」
自由。改めて言い渡されたその一言に、ジェインは疑念を抱いた。
「もはやイヴァンの能力とジルは完全に研究し尽くした」
「このままナムーフに残ってもいいし、地上へ降りてもいい」
「その飛行機械は、ナムーフを浮遊させるよりも簡単な技術で飛行する」
「飛行機械と、イヴァンの能力があれば地上を目指すのも容易だろう」
話がうますぎる。ジェインの心中に警戒心がわき起こった。
「…なかなか親切だな…」
「研究の大部分は終了した」
「これから私と私はようやく本格的な研究ができるのだ」
「イヴァンに用はない」
「どこにでも、自由に行くといい」
「…くそ…」
ジェインは吐き捨てるように言った。今までさんざ閉じこめておいて、用が済んだら捨て去る二人の態度が気に食わなかったのだ。あちこち駆け回り、飛び回った末の自由だが、ジェインはうれしくなかった。できることなら、この場で一人二人ぐらい血祭りに上げてやりたかった。
「ジェインさん…」
ジェインの漏らす殺気に、イヴァンが不安げな声を漏らした。
「ああ、大丈夫だ。行くぞイヴァン…」
そう、この場で大暴れして、ようやくつかんだ脱出のチャンスを逃す必要はないのだ。
ジェインには次の目的があった。イヴァンと共に地上を巡り、曖昧になった自分の過去を取り戻すという目的が。
「全く、実験のためなら、何でも許されるんだな?他人の記憶をゆがめて操縦する実験が大成功で気分がいいだろう?ご崇高すぎて涙が出そうだ」
ジェインは最後に、その皮肉を言い渡してから飛行機械に向かおうとした。記憶を返してもらうつもりはなかった。もはやロックとリィドに関わることさえ、嫌になっていたからだ。
「記憶歪曲による行動操作」
「その実験は一昨年に完了している」
「現在進行中の最後の実験は」
「人造人格の実験だ」
ロックかリィドか。どちらかが言い放った一言をジェインが理解する前に、男と女の二人分の声が、全く同時に言葉を紡いだ。
「『黄色の法典』」
その一言と同時に、ジェインはぴたりと動きを止めた。その言葉に聞き覚えがあったからではない。むしろ、初めて耳にするようであったが、その人ことは妙に彼女の心に染み込んでいった。そしてジェイン気がついた。彼女の全身が指一本どころか、痙攣一つできないほどにこわばっていることに。
「ジェインさん!?」
「最初は、ジルを用いた器官補助機能の開発だった」
ジェインの異常を察したイヴァンが声を上げるのをよそに、ロックが言葉を紡ぐ。
「曖昧な思考に対し、自動的に最適な筋運動をもたらし、多量の触手や腕を操る方法を模索していた」
「その後幾度かのつまづきはあったものの、私と私は自動的に動く三本目の腕を作り出すことに成功した」
「そこが、すべての始まりだった」
ロックとリィド。いつの間にか入れ替わることをやめ、警備隊員に定着した二人が、交互に言った。
「そこで私と私はふと思いついた」
「使用者の思考を読みとり、最適な筋運動を算出するこのジルは、使用者とは別の思考をしているのではないか」
「私と私は、未熟ながらも人格を作り出したのではないか」
「そう考えた」
身動き一つできなくなったジェインの胸が、徐々に脈動を早めていく。
「成分の調整と追加を繰り返し、私と私は思考ジルをより洗練されたものにしていった」
「与える情報の量を増やし、回答もより詳細にするよう思考ジルを改良していった」
「ある日、思考ジルに視覚を与え、ものが見えるようにした」
「ある日、思考ジルに筋繊維を与え、自ら動けるようにした」
「そしてある日、私と私は思考ジルに肉体と記憶を与えた」
「結果、思考ジルは自ら思考して立ち上がり、私と私を見た」
「だがそれまでだった」
「自分が誰、いや何なのかを思考し始め、動きを止めたのだ」
「な、何の話なの…?」
ロックとリィド、二人の紡ぐ言葉に、イヴァンはジェインの衣服にしがみついていた。
「今度は生まれた瞬間から連綿と続く記憶を与えてみた」
「今度は動きを止めることはなかった。しかし、自身の過去に触れる度、ちょっとした阻誤を見出して、いつしか自己崩壊した」
「矛盾がないように私と私は過去を綿密に作り上げた」
「しかしそれでも、私と私では思いも至らなかった部分から矛盾を見つけだしてしまい、自己崩壊までの時間が引き延ばされるばかりだった」
「思考ジルを作り出すことはできても、人格を作り出すことはできないのか」
「私と私はそう思っていた」
「だが、答えは私と私の目指していたところと反対の方角にあった」
「必要なのは矛盾のない、連綿と続く記憶ではなかった」
「人間の記憶のように、断片的な記憶でよかったのだ」
「私と私はざっくりとした過去を作り出し」
「いくつかのシーンについて、綿密なものを構成して与えた」
「結果、人造人格は私と私の予想を上回り、あたかも人間のように振る舞ってくれた」
「う、うぅぅ…」
ジェインは大声を上げ、二人の声をそれ以上聞くまいとした。しかし、ジェインの口からはうめき声ばかりが溢れ、指先は微動だにしなかった。
「一度は大きな記憶の矛盾に衝突したものの、新たに得た情報を基に折り合いをつけ、見事に自己崩壊を回避した」
「それでいて、私と私が非常用に組み込んだ身体拘束暗示は完全に稼働した」
「君は完全な人造人格だ」
「誇りに思うよ」
「ジェイン」
「イルジチオ」
「そんな…」
イヴァンが声を漏らし、勢いよく顔を左右に振った。
「そんな、そんなはずない!だってジェインさんは、いろんなことを…」
「変装の仕方や地上での記憶か?」
リィドが問いかける。
「格闘術や、監視の目がある中での移動方法か?」
ロックが問いかける。
「どれも、私と私が基礎技術として組み込んだものだ」
「で、でも…地上の町の名前とか…」
「しかし、具体的な記憶はなかった」
「知識としての町の名前はあっても、記憶は作ってなかったからだ」
イヴァンの目が揺れる。
「でも、レスカティエの名前で、ジェインさんは…」
「『黄色の法典』での身体硬直反応と同様に、彼女には『レスカティエ』に対して嘔吐するよう暗示を組み込んでおいた」
「ある言葉に対し過剰な反応を示せば、そこを中心に断片的な記憶の統合を図ろうとするはずだ」
二人の言葉は、ジェインにとって図星だった。
レスカティエという街の名前や、おぼろげに思い出せる記憶を勝手に結びつけ、自分の過去を作り出していたのだ。そして、レスカティエでは自分が想像していたようなことが起こっていないと聞くなり、ジルによって植え付けられた記憶だと納得する。
何もかもが、ロックとリィドの思い通りだった。
「さて、実験はほぼ完了した」
「あとは君のジルに蓄積された情報を解析するだけだ」
ロックとリィド。二人がそう言葉を紡ぐと、警備隊員たちがジェインに向けて歩きだした。
「く、くるな!」
身動きのできないジェインをかばおうと、イヴァンが立ちふさがる。それどころか、彼の手の中に小さな風の渦が生じていた。
「近づくと、ぶつける!」
「一体何をしている、イヴァン」
「君は自由だ。私と私が必要としているのは、ジェインだけだ」
「約束したんだ。ジェインさんと、一緒に地上に行くって…」
イヴァンはロックたちとリィドたちに向け、震える声を紡いだ。
「だから、ジェインさんは絶対に渡さない!」
「そういうことか」
「しかし問題はない」
イヴァンの決心の言葉に対し、警備隊員に扮したロックとリィドのうちの二人が、手を掲げた。
「風よ」
「今ここに」
二人の流れるような台詞の直後、イヴァンの体を重い衝撃が打ち据えた。小柄な彼の体は宙に浮かび、壁面に叩きつけられてから床へと崩れ落ちた。
「…!」
「う、うぅぅ…今の…?」
ジェインが言葉にならぬ声を上げると、イヴァンはゆっくりと身を起こそうとしながらうめき声を漏らした。今し方の、全身を打ち据える衝撃はまるで、突風を叩きつけられたかのようだった。
「君の予想通りだ」
「君の能力を解析して得られた、小規模気象操作だ」
ロックとリィドが、少年の胸中を見抜いたかのように応じた。
「ナムーフを包む風の防壁」
「その維持と制御に用いているジルの余力を」
「ほんの少しだけこちらに呼び寄せた」
「痛かっただろうが、心配はない」
「医者としてのロックの見立てでは軽傷だ」
「すぐに動けるようになる」
交互にそう言葉を紡ぐと、警備隊員たちも含めた何人ものロックとリィドは、改めてジェインに向き直った。
「さて、まずはジルの回収を行おう」
そういいながら、ロプフェルの衣装をまとっていたロックが、懐から小箱を取り出した。ふたを開けると、その中には無色透明の液体が詰まった注射器が納められていた。
「これは、ジルを回収するためのジルだ」
「君に投与した人造人格ジルを回収し、体外へと出ていく便利な代物だ」
警備隊員たちの手がジェインをつかみ、衣服の襟を大きく開く。
そして、歩み寄ってきたロックが、注射器の針を露わになったジェインのうなじへと突き刺した。
皮膚が破れる痛みの直後、妙に冷たいものが彼女の中に入ってくる。「…っ!?」
うなじから体内に入り込んだ液体は、すぐに皮膚の下で熱を帯び、彼女の体内で動き回った。血管の中を這い回る液体の確かな感触に、ジェインは声を上げそうになった。しかし、不快感に根ざした彼女の反応は、直後一変した。
皮膚の下、血管の内側を動き回っていた液体が、彼女の首筋のさらに中心部へと潜り込んだのだ。
骨の内側。筋繊維の奥の奥。そうとしか表現できない、普段意識することもない場所への浸入に、ジェインの手足がぶるぶると痙攣を始めた。
「反応が過敏に」
「負傷しないよう取り押さえる」
ジェインの四肢を押さえていた警備隊員たちが、すべてロックの顔になる。そしてふるえる彼女の手足を力でもって押さえつけた。
しかしその間にも、ジェインの体の震えは徐々に強まっていった。首の内側に入り込んだ液体が、首の中心を伝って頭部へと這い上っていくからだ。ジェインの痙攣はいつしか全身へと波及し、心臓の鼓動にあわせて首の中を液体が上がっていく感触に、ジェインは背筋を反らせながら、突き上げるように体を跳ねさせた。
「っ!っ!」
ロックとリィドの施したジルの暗示によるものか、声は出ない。しかし、大きく開いた口と、突き出される舌は、まさに絶叫しているようだった。事実、ジェインは絶叫していた。痛みによるものではない。痛みも含めた、痒みや擽ったさ、熱や痺れといった感触がごちゃ混ぜになり、ジェインの意識にそそぎ込まれているのだ。
腕を切り落とされるような痛みが走ったかと思えば、指先を温もりが包み込み、直後両足に無数の針が突き立てられる。連続性も関連性もない、ランダムな感覚の切り替えが容赦なくジェインに襲いかかり、彼女の意識に食い込んでいた。
そして、首筋に入り込んでいた液体の感触は、いつしかジェインの頭の中に浸入を果たしていた。頭蓋骨の内側に液体がしみこみ、内部にゆっくり広がっていく。
一点に定まることなくぶるぶると震えていたジェインの目が、一瞬大きく見開かれた直後、ぐるりと上を向いて白目を剥いた。
「…っ…!」
ジェインの口からあえぐような呼気が出入りし、全身の震えが止まる。しかし、彼女の手足を押さえ込むロックたちには、ジェインの四肢の筋肉が完全に硬直しているのを感じられた。
筋肉の硬直が極まり、微動だにしなくなっただけなのだ。
「…!…!」
「ジェ、ジェインさん…!」
いくらか痛みが引いてきたイヴァンが、硬直するジェインに向けてそう呼びかけた。すると同時に、ジェインの全身から力が抜け、糸の切れた操り人形のようにロックたちの手に体を任せた。
「もうすぐ出てくる」
「回収準備を行う」
ロックとリィドたちは、ジェインの反応をあらかじめ知っていたかのように動き、リィドの一人がどこから取り出したのか空の小瓶を、ジェインの顔の下ほどに差し出した。
すると、いつの間にか閉じられていたジェインの目蓋の間から、液体が滲みだし、頬を伝って小瓶へと滴り落ちていった。
ジェインが流す涙は、赤かった。
「…!…!」
ジェインが呼吸を乱し、指先を小さく震わせる。それは、目から溢れ出す赤い滴への驚きや、自身を拘束するロックたちへの抵抗と言うよりは、無意識のうちの痙攣に近かった。ジェインの頭蓋の内で、注射されたジルが動き回り、彼女の人格を構成しているジルをかき集めているからだ。
そして、小瓶の八割ほどを赤い液体が満たしたところで、ジェインの赤い落涙は止まり、同時に彼女の痙攣も収まった。
「ジェイン…さん…?」
イヴァンが呼びかけるが、ジェインは指先一つ動かす気配がなかった。まるで、人形のように全身を脱力させていた。
「人造人格ジル『ジェイン・イルジチオ』回収完了」
小瓶をジェインの顔の下に差し出していたリィドの一言が、すべてを物語っていた。
「ジェ、ジェインさん!ねえ、ジェインさん!」
「引き続き肉体の回収を行い、一号軟禁室に安置する」
「ジェインさん!ねえ、ジェインさんってば!」
何人ものロックやリィドたちの事務的な会話に紛れぬよう、少年は声を張り上げた。しかし、少年の言葉はジェインには届いておらず、彼女が微動だにする事はなかった。無理もない。ジェインの意識はもう、彼女の頭の中ではなく、リィドが手にする小瓶の中に…
「ジェインさん!ジェインさん!」
少年は事実を認めまいと必死に呼びかけ、痛みのせいで思うように動かない手足を操り、どうにか彼女の下に這い寄ろうとした。しかし、少年が自身の半歩ほどの距離を進む前に、ロックとリィドたちはジェインを両脇から抱えあげた。
「約束通り君は自由だ、イヴァン」
「このドゥナル・ポト・ナムーフにとどまるも、飛行機械で地上を目指すも、自由だ」
ジェインの身体を運び出しながら、ロックとリィドは這い蹲るイヴァンに向けて言った。
「ジェインさん…!必ず、必ず助けるから…!」
ジェインの身体が廊下へと運び出され、扉が閉められる直前、少年はそう言った。そして、なんの躊躇いもなく、少年とジェインを隔てるように扉が閉ざされた。
「この…あいたた…!」
少年は打ち身による痛みを堪えながら、無理矢理立ち上がった。少なくとも骨折はしてないようだが、それでも足を引きずりながらでしか進むことしかできない。
「ジェインさん…!ジェインさん…!」
扉までゆっくりと歩み寄り、取っ手に手をかけ、体重をかけて押し開く。そして廊下にでると、イヴァンはジェインの名を呼びながら、屋敷の出入り口へ向かった。
「ジェインさん…!」
廊下の突き当たり、広間の床へ日の光を差し込ませる玄関をくぐると、少年を青空が迎えた。少年が作り出した嵐の余韻は消え去り、穏やかな風が吹いている。彼は辺りを見回すと、一隻の飛行船がゆっくりと空へと浮かび上がっていくのに気がついた。
「あそこだ…!」
少年は手の中で風を作り出し、飛行船をたぐり寄せようとした。しかしすぐに、イヴァンの手は止まった。ここで飛行船を引きずり落として、ジェインは果たして無事だろうか?死人のように何の抵抗もできない彼女が、落下の際の簡単な衝撃で命を落とすかもしれない。それに、彼女の意識は今、あの小瓶に入っているのだ。文字通り、ガラスのようにもろい小瓶に。
「…ぐぅぅ…!」
少年は手の中で渦巻いていた風を握りつぶしながら、低くうめいた。無力な自分がただひたすら情けなかった。多少風を起こせるぐらいで、何の意味があったのだろうか。ジェインに頼りきりで、彼女を助けることすらできないではないか。
「くそ…くそぉ…くそぉぉ…!」
少年は全身の痛みと無力感に、そのままその場に崩れ落ち、嗚咽した。
少年の頭上、青空に舞う飛行船は、ゆっくりと島の縁を目指していた。
何とかして、ジェインを追わねば。
遠ざかっていく船影に、少年は無力感の内から焦燥感をひねりだした。
早く追いつかなければ、ジェインに危機が迫る。具体的にどんな、という考えがあるわけではないが、イヴァンは自らを追い込むことで妙案を引き出そうとしていた。
「考えろ…考えろ…考えろ…!」
凧は使い方がわからない。
飛行船も、操縦方法はもちろんのこと、ジェインのように鮮やかに奪い取る手段がない。
ほんの少し、このドゥナルからセントラに降りることができればいいというのに。
「く…うぅぅ…!」
イヴァンはうめきながら、膝の下の地面を殴りつけた。このまま島の縁から飛び降り、うまい具合に係留気流に身を任せてしまおうか。
そんな考えさえ浮かんできたところで、少年はふと手を止めた。
「そうか…」
一つだけ、たった一つだけロックとリィドの二人は、少年に移動手段を残していてくれた。
「よ…うぅ…!」
少年は全身に残る痛みにうめきながらも身を起こし、よろよろと来た道を引き返し始めた。向かう先は、もはや住む者のいない屋敷だった。
「お前…!」
「おめでとう。見事だった」
拍手をしながら賞賛の言葉を贈る男の顔に、ジェインは見覚えがあった。ジェインが『クラーケン』を獲得したあのとき、酒場の左席に腰を下ろしていた男。ジェインがセントラ研究島に不時着したとき、庭園の木々の世話をしていた男。ジェインとイヴァンがイーロ・ファクトに潜入していたとき、地下通路を案内してくれたあの男。
同じをした男たちと、ロプフェルの衣装に袖を通す人物は、完全に同一であった。
「え…?な、何で…?」
ジェインの側に駆け寄っていたイヴァンもまた、拍手をする男の姿に目を白黒させていた。なぜここに彼が。ロプフェルに変装していたのか?ではロプフェル本人はどこに?
疑問が二人の胸中に次から次へとわき起こる中、今度は二人の背後から高い声が響いた。
「とっさの判断、行動。そして推測のすべてが見事だった」
予想もしていなかった方角からの声にジェインとイヴァンが顔を向けると、そこにはいつの間にか身を起こしていたチャールズの姿があった。いや、チャールズではない。雷によって軽く焼けた衣服や、四肢の先端に残る『リザードマン』や『スキュラ』の特徴こそそのままだったが、顔が違っていた。酒場の店員でありながら、セントラ研究島で植木の手入れをしていた同じ顔の女が、そこにいた。
「リィドさん…!」
「状況の変化の適応能力もそうだが、与えられた情報から新たな結論を導き出し、目的を再設定するのは見事だった」
チャールズの格好をしていた女の平坦な言葉を引き継ぐように、今度はロプフェルの格好をしていた男がのっぺりとした声音でそう言った。
「私たちの設計もあるが、見事なまでの思考能力だ」
「お見事お見事」
「なにをごちゃごちゃ、わからねえことを…」
背後と前方、いつの間にか入れ替わっていた二人に注意を払いながら、ジェインはイヴァンをかばうように抱き寄せた。
「そもそも、お前たちは何だ?ロプフェルや、チャールズの奴は…」
「これは失礼」
「正式に名乗っていなかった」
ジェインの言葉に、二人は応じた。
「私はトッド・ロック」
「私はレベッカ・リィド」
ロプフェルの衣装を纏った男が名乗った直後、チャールズの格好をした女が続いた。
「私はセントラ研究島で、医学を中心とする研究を行っている」
「私はセントラ研究島で、優生学を中心とする研究を行っている」
「お前たちのことはわかった…今度は、ロプフェルとチャールズの奴がどこに行ったかだ」
いつから入れ替わっていたのかはわからないが、早いうちにあの二人を見つけなければならない。チャールズは新たなジルを手に入れてさらに強くなるかもしれないし、ロプフェルはこの一帯への砲撃や爆撃を命じかねない。
「焦る必要はない」
「ロプフェルはもう何もしない」
「何もできない」
「私と私が」
「何もさせないから」
「…?」
あらかじめ打ち合わせでもしていたかのように、なめらかな調子で交互に言葉を紡ぐ二人に対し、ジェインは妙なものを感じた。
「何も、させない…?どういうこと、リィドさん…?」
少年が女の方に呼びかけたところで、ジェインはイヴァンと顔見知りだという研究者のことを思いだした。
「言葉そのままの意味だ。ロプフェルにはもう何もさせない」
リィドは少年の問いかけに、そう返した。
「何もさせない、って…ロプフェルはナムーフの最高権力者で…」
「そうか、クーデターか」
ジェインは、少年の言葉を引き継ぐように、二人の研究者の言わんとしていることを察し、口にした。
「ロプフェルの奴がオレたちに気を取られて警備隊員を動かし回ってる隙に、セントラ研究島の研究者たちでナムーフを乗っ取ったんだろう」
ジェインは、今まで見聞きしてきたものが脳裏で組み上がっていくままに任せ、推理を口にした。
「ロプフェルが表にでる日に、記憶を適当に消したオレをけしかけてジルを使わせ、浸食主義者として奴の目に入れる。そしてロプフェルがオレを追っかけ回してる間に、セントラ研究島の連中がナムーフのあちこちを押さえていく。チャールズという実験材料がいたから、並の警備隊員十人ぐらいじゃ太刀打ちできないようなジルだって簡単に用意できただろう。そして今の今、護衛であるチャールズがロプフェルから完全に離れた瞬間をねらって、奴を取り押さえたんだ」
そう、ジェインが記憶を消され、あやふやな任務とともにナムーフに放たれたのは、クーデターのためだったのだ。
ジェインはそう結論づけたが、ロックとリィドの反応は違った。
「正解」
「不正解」
二人が同時に発したのは、正反対の言葉だった。
「チャールズ氏を使用して実験を行い、優秀なジルを生産したという点については正解だ」
「ただそのジルを用いてナムーフを掌握するというのは不正解」
「はぁ?」
ナムーフの掌握という、ジェインの推理のもっとも重要な柱を突き崩されてしまい、彼女は声を上げた。
「でも、お前たちはもうロプフェルには何もさせないって…」
「確かにチャールズ氏を使ってジルの生産は行ったが、それとナムーフの掌握は別の問題だ」
「すでに掌握は」
「成っているのだから」
リィドの声が半ばで途切れ、全く別の方向から続いた。
「っ!?」
無意識のうちにチャールズの代わりに床に座り込んでいたリィドに向けていた視線を、ジェインはロックの方に向けた。正確にはロックではなく、ロックの傍らに立つ警備隊員だった。
「ジルの研究を進めるうち、同一個体から得られたジルは、類似する形質を摂取したものにもたらすことがわかった」
ロプフェルの衣装に袖を通したロックの隣にいたのは、警備隊員の制服に身を包んだ、リィドだった。
「緑の地に黒い線の模様を備えたラミアのジルを摂取すれば、緑の地に黒い線の模様を備えたラミアになる。頬と首筋にほくろのあるサキュバスのジルを摂取すれば、頬と首筋にほくろが生じる」
リィドの言葉を引き継ぐように、トッドの声が続けて説明した。だが、警備隊員の格好をしたリィドの隣にたつトッドの口は微動だにしておらず、ジェインとイヴァンの背後から声が響いているようだった。
弾かれるように振り返ってみれば、床の上に身を起こしていたのはいつの間にかロックになっていた。
「ジルには種族としての特徴だけでなく、個々の個体が備えた特徴さえも記述されているのがわかった」
続くリィドの声は、半ば予想していたことだが、再び部屋の戸口の方から届いた。顔を向けてみると、ロプフェルの衣服にリィドがいつの間にか袖を通していた。
「技術ジルを飲んだ君ならわかると思うが、ジルには身体の特徴だけでなく、動かし方という精神的な特徴も伝達する性質がある」
「つまり成分を突き詰めていけば、体の動かし方だけでなく、記憶やものの考え方も伝えられるのではないか?」
「私と私はそう考え、自身のジルを抽出し、互いに摂取した」
「その結果が」
「これだ」
ロックとリィドの二人がそう言うと同時に、両者の顔が溶けるように滲んだ。輪郭や目鼻が曖昧になり、直後位置を整えて顔を形作っていく。
するとそこには、ロプフェルの衣装に袖を通すロックと、チャールズの衣服を纏ったリィドがいた。
「私と私は記憶の共有を果たし、二人で一人となった」
「それどころか、君がジルによって得た器官を自在に出し入れできるように、私たちは私と私を自在に切り替えられるようになった」
「なるほど…それでロプフェルとチャールズの二人に、お前たち二人分のジルを飲ませて、完全に支配したってわけか…」
チャールズは実験の一環で、ロプフェルはチャールズと化した二人を使って、ジルを飲まされたのだろう。しかし、ロックとリィドの返答は彼女の予想外のものだった。
「二人だけではない」
「ナムーフの全住民が」
「喜んで」
「先を争って」
「飲んだ」
「はぁ…?」
一体なぜ、ジェインの胸中の疑問に対し、イヴァンがあっと声を上げた。
「ジルの副作用を治療する、治癒ジルだ…!」
治癒ジル。ジルの摂取しすぎで魔物化した人間に投与することで、副作用を治療する特効薬だ。
「治癒ジルは私と私の予想を上回る勢いで、ナムーフ中に広まった」
「ジルの副作用による魔物化の治癒だけでなく、予防薬目的で摂取するものさえいたからな」
「おかげで私と私がナムーフを満たすまで、そう時間はかからなかった」
すると、ロックの左右に立っていた警備隊員たちの顔が溶けるように滲み、新たな顔を作りだした。
「私、」
「トッド・ロックと」
「私、」
「レベッカ・リィドが」
「ナムーフを」
「満たした」
並ぶロックとトッドが、交互に一人ずつ口を開いて、そう名乗った。
双子でもないのに全く同じ顔が並ぶ様子に、ジェインは彼らが完全に同一人物であることを悟った。
そして、酒場で出会った二人や、セントラ研究島の庭園で遭遇した二人が、元は別の人間だったとしてもこの二人であることを理解した。
「お前たちは…何をするつもりだ…?」
ジェインは声の震えを押さえ込みながら、低い声音で問いかけた。ロプフェルなら、地上の魔物と人間の管理という分かりやすい目的があった。だがロックとリィドの二人の目的が、ジェインには予想もつかなかった。
ジルを使って自分を増やして、一体何になるのだろう?
そして二人の言葉が事実だとするなら、ナムーフを二人で満たしてしまった今、その先に何があるのだろう?
「私と私の目的は一つ」
「ジルの研究を、より効率的に行うことだ」
警備隊員たちの顔が一度ロックのものに変わってから、言葉を引き継ぐようにリィドに入れ替わる。
「二人で始めたジルの研究だったが、セントラの研究者たちも一応は手を貸してくれた」
「だがそれも、ほんの少し成分をいじって新たな効果を得るという表層的なものだった」
「ジルがなぜ生命に作用するのか」
「ジルの何が生命に作用するのか」
「そのような研究をするものはおらず」
「私と私の二人だけでは足りなかった」
ロックとリィド、入れ替わりながらの二人の言葉に、ジェインは目が回るようだった。
「あ、ああ…分かった、だいたい分かった…つまり、もっと効率的に研究したいから、ナムーフと住民を乗っ取ったわけか?」
「その通り」
ロックが頷き、直後リィドに顔が変わる。
「だが、いくつか継続中の研究もあったから、しばらくは住民たちの意識を自由にさせていた」
「イヴァン、君も継続中だった研究の一つだ」
「え?僕?」
突然話題の矛先を向けられて、少年は目を丸くした。
「君の気象操作能力が、ジルのどのような成分でもって構成されているのかの研究が残っていた」
「だがそれももう完成した」
「イヴァン。ナムーフを包み込む風の防壁は、君の協力によるものだ。」
「私と私は感謝する」
「ええと…」
「つまり、何だ?用済みになったから、オレたちを始末するって言うのか?」
ジルを飲ませて二人の仲間に引き入れるか、単純に命を奪うか。どうするかは分からないが、ジェインはイヴァンをかばうように立ちふさがった。
「始末?そんなことはしない」
「君たちがお望みなら、そのようにしてもいいが」
「むしろ、君たちは自由だ」
「その飛行機械を用いて、どこにでも行くといい」
「…何だと?」
自由。改めて言い渡されたその一言に、ジェインは疑念を抱いた。
「もはやイヴァンの能力とジルは完全に研究し尽くした」
「このままナムーフに残ってもいいし、地上へ降りてもいい」
「その飛行機械は、ナムーフを浮遊させるよりも簡単な技術で飛行する」
「飛行機械と、イヴァンの能力があれば地上を目指すのも容易だろう」
話がうますぎる。ジェインの心中に警戒心がわき起こった。
「…なかなか親切だな…」
「研究の大部分は終了した」
「これから私と私はようやく本格的な研究ができるのだ」
「イヴァンに用はない」
「どこにでも、自由に行くといい」
「…くそ…」
ジェインは吐き捨てるように言った。今までさんざ閉じこめておいて、用が済んだら捨て去る二人の態度が気に食わなかったのだ。あちこち駆け回り、飛び回った末の自由だが、ジェインはうれしくなかった。できることなら、この場で一人二人ぐらい血祭りに上げてやりたかった。
「ジェインさん…」
ジェインの漏らす殺気に、イヴァンが不安げな声を漏らした。
「ああ、大丈夫だ。行くぞイヴァン…」
そう、この場で大暴れして、ようやくつかんだ脱出のチャンスを逃す必要はないのだ。
ジェインには次の目的があった。イヴァンと共に地上を巡り、曖昧になった自分の過去を取り戻すという目的が。
「全く、実験のためなら、何でも許されるんだな?他人の記憶をゆがめて操縦する実験が大成功で気分がいいだろう?ご崇高すぎて涙が出そうだ」
ジェインは最後に、その皮肉を言い渡してから飛行機械に向かおうとした。記憶を返してもらうつもりはなかった。もはやロックとリィドに関わることさえ、嫌になっていたからだ。
「記憶歪曲による行動操作」
「その実験は一昨年に完了している」
「現在進行中の最後の実験は」
「人造人格の実験だ」
ロックかリィドか。どちらかが言い放った一言をジェインが理解する前に、男と女の二人分の声が、全く同時に言葉を紡いだ。
「『黄色の法典』」
その一言と同時に、ジェインはぴたりと動きを止めた。その言葉に聞き覚えがあったからではない。むしろ、初めて耳にするようであったが、その人ことは妙に彼女の心に染み込んでいった。そしてジェイン気がついた。彼女の全身が指一本どころか、痙攣一つできないほどにこわばっていることに。
「ジェインさん!?」
「最初は、ジルを用いた器官補助機能の開発だった」
ジェインの異常を察したイヴァンが声を上げるのをよそに、ロックが言葉を紡ぐ。
「曖昧な思考に対し、自動的に最適な筋運動をもたらし、多量の触手や腕を操る方法を模索していた」
「その後幾度かのつまづきはあったものの、私と私は自動的に動く三本目の腕を作り出すことに成功した」
「そこが、すべての始まりだった」
ロックとリィド。いつの間にか入れ替わることをやめ、警備隊員に定着した二人が、交互に言った。
「そこで私と私はふと思いついた」
「使用者の思考を読みとり、最適な筋運動を算出するこのジルは、使用者とは別の思考をしているのではないか」
「私と私は、未熟ながらも人格を作り出したのではないか」
「そう考えた」
身動き一つできなくなったジェインの胸が、徐々に脈動を早めていく。
「成分の調整と追加を繰り返し、私と私は思考ジルをより洗練されたものにしていった」
「与える情報の量を増やし、回答もより詳細にするよう思考ジルを改良していった」
「ある日、思考ジルに視覚を与え、ものが見えるようにした」
「ある日、思考ジルに筋繊維を与え、自ら動けるようにした」
「そしてある日、私と私は思考ジルに肉体と記憶を与えた」
「結果、思考ジルは自ら思考して立ち上がり、私と私を見た」
「だがそれまでだった」
「自分が誰、いや何なのかを思考し始め、動きを止めたのだ」
「な、何の話なの…?」
ロックとリィド、二人の紡ぐ言葉に、イヴァンはジェインの衣服にしがみついていた。
「今度は生まれた瞬間から連綿と続く記憶を与えてみた」
「今度は動きを止めることはなかった。しかし、自身の過去に触れる度、ちょっとした阻誤を見出して、いつしか自己崩壊した」
「矛盾がないように私と私は過去を綿密に作り上げた」
「しかしそれでも、私と私では思いも至らなかった部分から矛盾を見つけだしてしまい、自己崩壊までの時間が引き延ばされるばかりだった」
「思考ジルを作り出すことはできても、人格を作り出すことはできないのか」
「私と私はそう思っていた」
「だが、答えは私と私の目指していたところと反対の方角にあった」
「必要なのは矛盾のない、連綿と続く記憶ではなかった」
「人間の記憶のように、断片的な記憶でよかったのだ」
「私と私はざっくりとした過去を作り出し」
「いくつかのシーンについて、綿密なものを構成して与えた」
「結果、人造人格は私と私の予想を上回り、あたかも人間のように振る舞ってくれた」
「う、うぅぅ…」
ジェインは大声を上げ、二人の声をそれ以上聞くまいとした。しかし、ジェインの口からはうめき声ばかりが溢れ、指先は微動だにしなかった。
「一度は大きな記憶の矛盾に衝突したものの、新たに得た情報を基に折り合いをつけ、見事に自己崩壊を回避した」
「それでいて、私と私が非常用に組み込んだ身体拘束暗示は完全に稼働した」
「君は完全な人造人格だ」
「誇りに思うよ」
「ジェイン」
「イルジチオ」
「そんな…」
イヴァンが声を漏らし、勢いよく顔を左右に振った。
「そんな、そんなはずない!だってジェインさんは、いろんなことを…」
「変装の仕方や地上での記憶か?」
リィドが問いかける。
「格闘術や、監視の目がある中での移動方法か?」
ロックが問いかける。
「どれも、私と私が基礎技術として組み込んだものだ」
「で、でも…地上の町の名前とか…」
「しかし、具体的な記憶はなかった」
「知識としての町の名前はあっても、記憶は作ってなかったからだ」
イヴァンの目が揺れる。
「でも、レスカティエの名前で、ジェインさんは…」
「『黄色の法典』での身体硬直反応と同様に、彼女には『レスカティエ』に対して嘔吐するよう暗示を組み込んでおいた」
「ある言葉に対し過剰な反応を示せば、そこを中心に断片的な記憶の統合を図ろうとするはずだ」
二人の言葉は、ジェインにとって図星だった。
レスカティエという街の名前や、おぼろげに思い出せる記憶を勝手に結びつけ、自分の過去を作り出していたのだ。そして、レスカティエでは自分が想像していたようなことが起こっていないと聞くなり、ジルによって植え付けられた記憶だと納得する。
何もかもが、ロックとリィドの思い通りだった。
「さて、実験はほぼ完了した」
「あとは君のジルに蓄積された情報を解析するだけだ」
ロックとリィド。二人がそう言葉を紡ぐと、警備隊員たちがジェインに向けて歩きだした。
「く、くるな!」
身動きのできないジェインをかばおうと、イヴァンが立ちふさがる。それどころか、彼の手の中に小さな風の渦が生じていた。
「近づくと、ぶつける!」
「一体何をしている、イヴァン」
「君は自由だ。私と私が必要としているのは、ジェインだけだ」
「約束したんだ。ジェインさんと、一緒に地上に行くって…」
イヴァンはロックたちとリィドたちに向け、震える声を紡いだ。
「だから、ジェインさんは絶対に渡さない!」
「そういうことか」
「しかし問題はない」
イヴァンの決心の言葉に対し、警備隊員に扮したロックとリィドのうちの二人が、手を掲げた。
「風よ」
「今ここに」
二人の流れるような台詞の直後、イヴァンの体を重い衝撃が打ち据えた。小柄な彼の体は宙に浮かび、壁面に叩きつけられてから床へと崩れ落ちた。
「…!」
「う、うぅぅ…今の…?」
ジェインが言葉にならぬ声を上げると、イヴァンはゆっくりと身を起こそうとしながらうめき声を漏らした。今し方の、全身を打ち据える衝撃はまるで、突風を叩きつけられたかのようだった。
「君の予想通りだ」
「君の能力を解析して得られた、小規模気象操作だ」
ロックとリィドが、少年の胸中を見抜いたかのように応じた。
「ナムーフを包む風の防壁」
「その維持と制御に用いているジルの余力を」
「ほんの少しだけこちらに呼び寄せた」
「痛かっただろうが、心配はない」
「医者としてのロックの見立てでは軽傷だ」
「すぐに動けるようになる」
交互にそう言葉を紡ぐと、警備隊員たちも含めた何人ものロックとリィドは、改めてジェインに向き直った。
「さて、まずはジルの回収を行おう」
そういいながら、ロプフェルの衣装をまとっていたロックが、懐から小箱を取り出した。ふたを開けると、その中には無色透明の液体が詰まった注射器が納められていた。
「これは、ジルを回収するためのジルだ」
「君に投与した人造人格ジルを回収し、体外へと出ていく便利な代物だ」
警備隊員たちの手がジェインをつかみ、衣服の襟を大きく開く。
そして、歩み寄ってきたロックが、注射器の針を露わになったジェインのうなじへと突き刺した。
皮膚が破れる痛みの直後、妙に冷たいものが彼女の中に入ってくる。「…っ!?」
うなじから体内に入り込んだ液体は、すぐに皮膚の下で熱を帯び、彼女の体内で動き回った。血管の中を這い回る液体の確かな感触に、ジェインは声を上げそうになった。しかし、不快感に根ざした彼女の反応は、直後一変した。
皮膚の下、血管の内側を動き回っていた液体が、彼女の首筋のさらに中心部へと潜り込んだのだ。
骨の内側。筋繊維の奥の奥。そうとしか表現できない、普段意識することもない場所への浸入に、ジェインの手足がぶるぶると痙攣を始めた。
「反応が過敏に」
「負傷しないよう取り押さえる」
ジェインの四肢を押さえていた警備隊員たちが、すべてロックの顔になる。そしてふるえる彼女の手足を力でもって押さえつけた。
しかしその間にも、ジェインの体の震えは徐々に強まっていった。首の内側に入り込んだ液体が、首の中心を伝って頭部へと這い上っていくからだ。ジェインの痙攣はいつしか全身へと波及し、心臓の鼓動にあわせて首の中を液体が上がっていく感触に、ジェインは背筋を反らせながら、突き上げるように体を跳ねさせた。
「っ!っ!」
ロックとリィドの施したジルの暗示によるものか、声は出ない。しかし、大きく開いた口と、突き出される舌は、まさに絶叫しているようだった。事実、ジェインは絶叫していた。痛みによるものではない。痛みも含めた、痒みや擽ったさ、熱や痺れといった感触がごちゃ混ぜになり、ジェインの意識にそそぎ込まれているのだ。
腕を切り落とされるような痛みが走ったかと思えば、指先を温もりが包み込み、直後両足に無数の針が突き立てられる。連続性も関連性もない、ランダムな感覚の切り替えが容赦なくジェインに襲いかかり、彼女の意識に食い込んでいた。
そして、首筋に入り込んでいた液体の感触は、いつしかジェインの頭の中に浸入を果たしていた。頭蓋骨の内側に液体がしみこみ、内部にゆっくり広がっていく。
一点に定まることなくぶるぶると震えていたジェインの目が、一瞬大きく見開かれた直後、ぐるりと上を向いて白目を剥いた。
「…っ…!」
ジェインの口からあえぐような呼気が出入りし、全身の震えが止まる。しかし、彼女の手足を押さえ込むロックたちには、ジェインの四肢の筋肉が完全に硬直しているのを感じられた。
筋肉の硬直が極まり、微動だにしなくなっただけなのだ。
「…!…!」
「ジェ、ジェインさん…!」
いくらか痛みが引いてきたイヴァンが、硬直するジェインに向けてそう呼びかけた。すると同時に、ジェインの全身から力が抜け、糸の切れた操り人形のようにロックたちの手に体を任せた。
「もうすぐ出てくる」
「回収準備を行う」
ロックとリィドたちは、ジェインの反応をあらかじめ知っていたかのように動き、リィドの一人がどこから取り出したのか空の小瓶を、ジェインの顔の下ほどに差し出した。
すると、いつの間にか閉じられていたジェインの目蓋の間から、液体が滲みだし、頬を伝って小瓶へと滴り落ちていった。
ジェインが流す涙は、赤かった。
「…!…!」
ジェインが呼吸を乱し、指先を小さく震わせる。それは、目から溢れ出す赤い滴への驚きや、自身を拘束するロックたちへの抵抗と言うよりは、無意識のうちの痙攣に近かった。ジェインの頭蓋の内で、注射されたジルが動き回り、彼女の人格を構成しているジルをかき集めているからだ。
そして、小瓶の八割ほどを赤い液体が満たしたところで、ジェインの赤い落涙は止まり、同時に彼女の痙攣も収まった。
「ジェイン…さん…?」
イヴァンが呼びかけるが、ジェインは指先一つ動かす気配がなかった。まるで、人形のように全身を脱力させていた。
「人造人格ジル『ジェイン・イルジチオ』回収完了」
小瓶をジェインの顔の下に差し出していたリィドの一言が、すべてを物語っていた。
「ジェ、ジェインさん!ねえ、ジェインさん!」
「引き続き肉体の回収を行い、一号軟禁室に安置する」
「ジェインさん!ねえ、ジェインさんってば!」
何人ものロックやリィドたちの事務的な会話に紛れぬよう、少年は声を張り上げた。しかし、少年の言葉はジェインには届いておらず、彼女が微動だにする事はなかった。無理もない。ジェインの意識はもう、彼女の頭の中ではなく、リィドが手にする小瓶の中に…
「ジェインさん!ジェインさん!」
少年は事実を認めまいと必死に呼びかけ、痛みのせいで思うように動かない手足を操り、どうにか彼女の下に這い寄ろうとした。しかし、少年が自身の半歩ほどの距離を進む前に、ロックとリィドたちはジェインを両脇から抱えあげた。
「約束通り君は自由だ、イヴァン」
「このドゥナル・ポト・ナムーフにとどまるも、飛行機械で地上を目指すも、自由だ」
ジェインの身体を運び出しながら、ロックとリィドは這い蹲るイヴァンに向けて言った。
「ジェインさん…!必ず、必ず助けるから…!」
ジェインの身体が廊下へと運び出され、扉が閉められる直前、少年はそう言った。そして、なんの躊躇いもなく、少年とジェインを隔てるように扉が閉ざされた。
「この…あいたた…!」
少年は打ち身による痛みを堪えながら、無理矢理立ち上がった。少なくとも骨折はしてないようだが、それでも足を引きずりながらでしか進むことしかできない。
「ジェインさん…!ジェインさん…!」
扉までゆっくりと歩み寄り、取っ手に手をかけ、体重をかけて押し開く。そして廊下にでると、イヴァンはジェインの名を呼びながら、屋敷の出入り口へ向かった。
「ジェインさん…!」
廊下の突き当たり、広間の床へ日の光を差し込ませる玄関をくぐると、少年を青空が迎えた。少年が作り出した嵐の余韻は消え去り、穏やかな風が吹いている。彼は辺りを見回すと、一隻の飛行船がゆっくりと空へと浮かび上がっていくのに気がついた。
「あそこだ…!」
少年は手の中で風を作り出し、飛行船をたぐり寄せようとした。しかしすぐに、イヴァンの手は止まった。ここで飛行船を引きずり落として、ジェインは果たして無事だろうか?死人のように何の抵抗もできない彼女が、落下の際の簡単な衝撃で命を落とすかもしれない。それに、彼女の意識は今、あの小瓶に入っているのだ。文字通り、ガラスのようにもろい小瓶に。
「…ぐぅぅ…!」
少年は手の中で渦巻いていた風を握りつぶしながら、低くうめいた。無力な自分がただひたすら情けなかった。多少風を起こせるぐらいで、何の意味があったのだろうか。ジェインに頼りきりで、彼女を助けることすらできないではないか。
「くそ…くそぉ…くそぉぉ…!」
少年は全身の痛みと無力感に、そのままその場に崩れ落ち、嗚咽した。
少年の頭上、青空に舞う飛行船は、ゆっくりと島の縁を目指していた。
何とかして、ジェインを追わねば。
遠ざかっていく船影に、少年は無力感の内から焦燥感をひねりだした。
早く追いつかなければ、ジェインに危機が迫る。具体的にどんな、という考えがあるわけではないが、イヴァンは自らを追い込むことで妙案を引き出そうとしていた。
「考えろ…考えろ…考えろ…!」
凧は使い方がわからない。
飛行船も、操縦方法はもちろんのこと、ジェインのように鮮やかに奪い取る手段がない。
ほんの少し、このドゥナルからセントラに降りることができればいいというのに。
「く…うぅぅ…!」
イヴァンはうめきながら、膝の下の地面を殴りつけた。このまま島の縁から飛び降り、うまい具合に係留気流に身を任せてしまおうか。
そんな考えさえ浮かんできたところで、少年はふと手を止めた。
「そうか…」
一つだけ、たった一つだけロックとリィドの二人は、少年に移動手段を残していてくれた。
「よ…うぅ…!」
少年は全身に残る痛みにうめきながらも身を起こし、よろよろと来た道を引き返し始めた。向かう先は、もはや住む者のいない屋敷だった。
13/12/09 21:17更新 / 十二屋月蝕
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