連載小説
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chapter 9
 ふと自分がなにも考えていないことに気がつき、遅れて五感がゆっくりと蘇っていく。自身が眠っていたことに気がついたのは、柔らかなベッドの感触や、天井の木目がおぼろげに感じ取れるようになってからだった。
 前はどこで目覚めたのだろう。少しだけ考え、ふと思い出した。燃え上がる飛行船の傍らで目覚めた時が、ちょうどこんな様子だった。
「う…」
 うめきながら手足に力を込めると、少しだけ動いた。姿勢のためか、まだ寝ぼけているためか、思うように力が入らない。それでも指を曲げ、伸ばしする内に、おぼろげだった指先の感触がはっきりしてきた。
「うぅぅ…はぁ…」
 ジェインはベッドの上に身を起こし、軽く伸びをして声を漏らした。そしてそこで彼女は、自身がなぜここにいるのか、と自問した。とりあえず、最初に脳裏に浮かび上がった燃え上がる飛行船を足がかりに、彼女は思いだしていった。
 飛行船、任務、ジル、逃走、セントラ研究島。そこまで思い出したところで、彼女は一人の少年の顔を思い出した。
 イヴァンだ。セントラ研究島の一角に囚われていた、気象を操る少年。ジェインは彼とともに外に出ることを約束したのだ。
「…っ!イヴァン!?」
 ジェインははたと少年がいないことに気がつき、彼の名を呼びながら辺りを見回した。しかし目にはいるのは、ベッドの他は何も置かれていない殺風景な部屋の景色ばかりだ。
 イヴァンはどこに?
「イヴァンは…ええと、確か…」
 ジェインは目蓋をおろし、再び記憶を探り始めた。イヴァンと出会い、外に出る約束をした後、風の防壁を突破するためいくつかの方法を探り、ついにギゼティアの飛行機械に至ったのだった。
 だが、そこから先がどうも曖昧だった。何かあったような気もするが、いまいちはっきりと思い出せないのだ。
 だが、そこで何かがあったのは確実で、その結果ジェインはこの部屋で目を覚ましたのだ。
「確か前にもこんな…え?」
 ジェインは訳の分からない状況で目を覚ましたときのことを思い出そうとして、気がついた。思い出せないのだ。明確な景色はおろか、おぼろげな印象さえも脳裏に浮かんでこない。
 思い出せるのは、この浮遊都市の一角で目を覚ました以降のことばかりだ。まるでジェインに、それ以前の過去がないかのように。
「そんな…」
 ジェインは再び、脳裏でナムーフに来てからのことを思い出した。
 燃え盛る飛行船の側で目をさました後、仕事のためにとりあえず人に紛れようとした。だが、そのとき何を思い出して、自分が仕事を抱えていることに気がついたのか、ジェインにはわからなかった。
 ナムーフ十周年の祭りの会場に紛れ、耳と目に意識を集中させ情報の断片をかき集めた。だがその技術はどこで身につけたのか、ジェインには思い出せなかった。
 イヴァンを塔から連れ出し、飛行船を一隻乗っ取った後、少年の漏らした一言にジェインは過剰に反応した。名前を思い出すだけで吐き気を催させた街で何が起こったのか、ジェインには思い出せない。だが、レスカティエという地名だけは、残っていた。
「あ…?」
 ジェインはそこで気がついた。名前を思い出すだけで胸の奥が蠢くような感覚に襲われていたのに、ジェインは何の抵抗もなく脳裏に文字列を浮かべることができたからだ。
「レスカティエ…」
 何も起こらない。吐き気はおろか、何の感慨も浮かばない。
「レスカティエ…」
 思い出せるのは、イヴァンが無邪気な様子で口にしたあの一瞬と、話題に直接出さないよう言葉を選んでいたときのことだけだ。
 気を失わせ、悪夢さえみさせたはずの街の名は、ジェインに何ももたらさなかった。
「な、何で…」
 自身はレスカティエと何か関係があるはず。イヴァンとたどり着いた結論を否定しかねない、自身の内側の変化に彼女は動揺した。
 心理の変質に、思い出せていたはずの過去の欠如。それらはジェインに、まるで飛行船の傍らで目をさました瞬間から、彼女の人生が始まったかのような印象をもたらしていた。
 いや、事実そうだ。自分は作られたのだ。
「え…?」
 ジェインはふとした思いつきに、妙に自信を抱いていることに気がついた。
 思い出せないだけで、ジェインは知っているのだ。
「あ…いやだ…いやだ…」
 ジェインは頭に手をやり、そうつぶやきながらゆっくりと動き始めた思考を止めようとした。だが、彼女の言葉や動作と裏腹に、ジェインの意識は自動的に思考を紡いでいく。
 自分の過去が継ぎ接ぎだったのはなぜか?バラバラな記憶の方が、過去を組み立てて一人納得して都合がいいからだ。
 自分がレスカティエという言葉に過剰反応していたのはなぜか?一つぐらいなぞめいた反応を残しておけば、そこに意識が向かって多少の記憶の食い違いに気がつかなくなるからだ。
 ならば自分の髪が、リリムのように白いのはなぜか?何種類ものジルを混合することで、魔物が共通して持っている魔王の成分が濃厚になり、それがリリムの特徴として出現するからだ。チャールズのように。
「あ、あ、あ…」
 それ以上考えてはいけない。そう思えども、彼女の思考は止まらず、ついに決定的な結論にたどり着いてしまった。
 この身体は、ジルになじむように作られたもの名のだ。ロックとリィドの人造人格ジル『ジェイン』の実験のために。
「ああああああ…」
 ジェインは思い出してしまった。ギゼティアの屋敷、飛行機械の側で、ロックとリィドにより自身の内側からジルを奪われてしまったことを。『ジェイン』を形作っていた断片的な過去や性格、思考方法は、赤い液体の形で彼女の目からこぼれ落ちて言ってしまったのだ。
 だからここには、誰もいない。



「進捗は?」
「成分解析は完了。これから要素考察に入る」
 等間隔に机が並べられた広い部屋で、一組の男と女が言葉を交わした。白衣に袖を通した二人の視線の先では、それぞれ同じ顔をした男女が忙しげに動き回っていた。フラスコを振り、試験管を火にかざし、赤い液体を調べている。
「ふむ…記憶の構造化はどうなのだろうな」
 忙しげに働く自分自身を眺めていた男、ロックがそう呟いた。
「現時点では、初期記憶に基づく構造化は予測通りだけど、自己矛盾の回避のための再構造化についてはかなり高度に成されているみたい」
 ロックの呟きに、女は分身たちの思考を統合して、そう口に出した。
「この再構造化手法が解析できれば、多少の自己矛盾も許容できる高度な記憶統合が可能になる」
「うーむ、また脳構造ジルか…そろそろ肉体構成要素ジルの開発も行いたいのだが」
 女、リィドの発言に対して、ロックは困ったような声音で答えた。
「心配は不要、私と私には時間も人手も有り余るほどある」
 そう、ロックとリィドの二人は、いくらでもいるのだ。この一室にいる数十人だけでなく、セントラ研究島、ナムーフ全体のすべての人間が、ロックでありリィドであるのだ。その結束は志を同じくする別人同士のそれとは比較にならない。
「そうか…」
 ロックはリィドの言葉に、改めて感慨深げに呟いた。
「とうとう、二人だけになったのか」
「そう、私たち二人だけ」
 人造人格『ジェイン』の研究が終わった今、もはやナムーフの住民たちの人格を維持する必要もない。浮遊都市ナムーフは、完全に二人だけのものになったのだ。
「…ん?」
 ふと、ロックとリィドが同時に怪訝な表情を浮かべた。フラスコを握ったり、ジルの成分解析を続けていた他のロックとリィドたちも、一瞬手を止める。
 セントラ研究島より上空に浮かぶ、研究には無用の浮島、ドゥナル・ポト・ナムーフにいるロックとリィドが、浮島の一角から何かが飛び出したのを目撃したのだ。
「これは…」
「飛行機械が発射したようだ」
 分身の視界を共有した二人は、空に描かれる白い尾を『見』ながら呟いた。
「風の防壁の解除は?」
「不要だ。突破できるなら問題ないし、自力で中和することもできる」
 リィドの問いかけにロックがそう返答する。そう、あの飛行機械を操っている人物は、そういった心配をしなくていい。
 そのはずだった。
「…飛行機械が…?」
「失速…いや、方向転換だ」
 緩やかに尾を引きながら飛んでいく棒状の飛行機械が、視界の中で不意に進行方向を変えたことに二人は気がついた。防壁に弾かれたわけではない。風の防壁にはまだ距離がある。では、なぜ?
「…待避だ!」
「気象制御!セントラ研究島中心、方角2ー2ー1に距離15、半径12で防壁展開!」
 ロックが呟き、リィドが声を上げた直後、セントラ研究島にいた全員を、いや何人もの二人を大きな震動が襲った。



「ごほ…げほ…!」
 少年はせき込みながら狭い通路を這うようにして進み、突き当たりの取っ手にしがみついて回した。ぶしゅう、と空気の抜ける音が響いて、扉が開く。
 少年はようやく一人が通り抜けられる程度の戸口から、転がり落ちるように外に出た。
「はぁ、はぁ…」
 彼は辺りを見回した。目に入ってくるのは、崩れた壁面や崩落した天井、横倒しや天地逆転など好き放題に転がる机やイスに戸棚。完全に崩壊しきった建物の中にいた。まるで、イヴァンが屋内で嵐を作ったときのようだ。だが今回、彼は嵐など作っていない。
 振り返ってみれば、外壁から斜めに突き刺さった金属製の柱が、今し方少年の這い出てきた穴を黒々と開けていた。ギゼティアの飛行機械だ。大砲の砲弾のように機体を発射するという基本構造は、多少調べるだけでも簡単にわかった。備蓄されている燃料を注ぎ、着火すれば飛び立てる。実に簡単な構造だった。
 しかし少年は、燃料をろくに注がず、発射方向や角度の調整もほとんどしないままに飛び立った。多少の方向なら彼の風で制御できるし、彼の目指す場所はすぐ側だったからだ。
 セントラ研究島。ジェインが何人もの二人に連れ去られた、浮島だ。
「ジェインさん!」
 少年は飛行機械が激突した衝撃にいくらか足をふらつかせながらも、ジェインを探して進んだ。しかし彼の足は、部屋の戸口をくぐったところで止まった。少年を迎えたのは通路などではなく、見上げるような高さの吹き抜けだったからだ。
「そんな…」
 塔の最上階に住んでいた少年は、自身の足下にこんな空洞が広がっていることを半ば忘れていた。隣の部屋に行くにも、かなりの跳躍力か飛ぶ力が必要なのだ。
「うぅ…!」
 少年は低く呻くと、隣の部屋から突き出した足場に向き直り、一気に駆けだした。そしてわずか五歩、助走も十分につけられぬままに、彼は空中に身を躍らせた。瞬間、塔の下方から強い風が吹き上げ、少年が落下するのを阻む。そして、そのまま彼は吹き抜けに向けて張り出す足場に転がるように着地した。
「はぁ…はぁ…!」
 落下への恐怖から解放され、少年は空気を貪るようにあえいだ。だが、一見すると疲労困憊したような様子とは裏腹に、イヴァンの内心は落ち着いていた。
 こんなものか。
 一度の跳躍で、彼はもはや落下の恐怖を克服していた。
「はぁはぁ…」
 吐息を整えながら、少年は次の足場を見据えた。今度は隣ではなく、一つ上の階層の足場だ。このまま真横に進んでいては、ただ塔をぐるりと一周するだけだ。イヴァンが目指すべきは、この塔の最上階だ。
「よし…」
「待ち」「たまえ」
 少年の真横、部屋の中から声が二つ響いた。
「っ!?」
 少年は一瞬驚愕し、その声の主に思い至り、直後敵意を燃え上がらせた。そして声の主の姿を確認するために部屋の内を向きながら、彼は突風を放っていた。
 窓から差し込む日の光を背に立つ二つの人影が、少年の放った風によって吹き飛ばされ、壁に叩きつけられた。
「少しは話を聞いてみてはどうかね」
 床に崩れ落ちる白衣の男女とは別の方向から、また声が響いた。
 顔を向けると、イヴァンの視線の先、隣室から張り出した足場の上に白衣の男女の姿があった。
「リィド…とロック…!」
 顔見知りの女研究者を、イヴァンはついに呼び捨てにした。
「ふむ、呼称が変化したな」
「彼にとって見れば、私と私はそれだけのことをしたのだろう」
「うるさい!」
 イヴァンをよそに、顔を見合わせる男女に向けて、少年は手を突き出しながら風を放った。突風を受け、二人の研究者は吹き抜けに向けて体を躍らせた。だが今度は、室内にいた二人とは違い、受け止めてくれる壁はない。二人の体は一瞬のうちに、イヴァンの視界から消えてしまった。だが、イヴァンに後悔はなかった。ジェインを連れ去られた怒りと、飛行機械で塔に突っ込み高所を跳んで恐怖が麻痺していたからだ。
「これで四人か…」
「全く、命を軽く扱ってくれる」
 降り注いだ声に、少年は顔を上げた。だが、再度突風を放とうとしていた彼は、目を見開いて身をこわばらせることとなった。
 吹き抜けに向けて突き出す足場の大部分に、ロックとリィドの姿があったからだ。二人そろっている足場もあれば、片方しかいない足場や、無人のものもある。だがこうして、何十人ものロックとリィドから見られているというのは圧巻だった。
「く…」
 少年は迷った。塔の内側に嵐や氷雨を巻き起こすべきか、いったん踵を返してこの場を離れるべきか、判断しかねていた。
「イヴァン、君の狙いは把握している」
「ジェイン・イルジチオの回収だな?」
「自ら脱出の手段を捨ててまでやってくるとは」
「それほど君にとって重要だと思わなかった」
 二人の言葉には、ある種の感嘆が含まれているようだった。
「しかし、君も見ただろう」
「人造人格のジルはあの場で抽出した」
「肉体的には生きているかもしれないが」
「それはただの『ジェイン』の抜け殻だ」
「う…」
 イヴァンは返答に詰まった。ジェインを連れ出すことだけを考えていて、ジェインの人格ジルをどうするかというのは全く抜け落ちていたからだ。これまでの例からするに、人造人格ジルを奪ってジェインに飲ませてやれば、以前の彼女に戻れるだろう。しかし、人造人格ジルを手に入れるにはどうすればよいのか。イヴァンには想像すらつかなかった。
「『ジェイン』のジルを回収するため一暴れしよう」
「そう考えているか?」
 彼の心中を見抜いたかのように、ロックとリィドは言った。
「う…」
「私と私に心を読む力はない」
「『ジェイン』と行動していたのなら、彼女に影響されるという予測はつく」
 種明かしをしてみると、実に簡単なことだった。
「だが、我々としてもこれ以上、君に暴れてもらいたくない」
「施設の破壊もそうだが、人員を失うのはとても痛いことなのだ」
「何を…お前たちには、いくらでも代わりがいるじゃないか…」
 ナムーフの住民すべてを変化させておいて、今更人命の大切さを説くだなんて。イヴァンは出来の悪い冗談でも聞かされたかのように、失笑した。
「代わりなどいない」
「私と私は全て私と私なのだ」
 ロックとリィドは、イヴァンの言葉にそう返した。
「このナムーフにいる私と私の全ては、それぞれ役割を担っている」
「私と私が滞りなく研究できるよう環境を整えたり、研究の分担を割り振ったりと様々だ」
「代わりが利くほど人員が余っているように見えるかもしれない」
「しかし実際のところ、足りないぐらいだ」
「そうなの…?」
 イヴァンは思わず尋ねていた。このセントラ研究島ほどの設備と、ジルの研究を極めた二人の頭脳があれば、足りないなんてことはないように思えたからだ。
「足りない」
 ロックが言った。
「世界は未知でできている」
 リィドが続けた。
「私と私はジルの研究を行い、人造人格の開発さえも成し遂げた」
「しかし、ジルが効果を及ぼすのは生物だけ」
「だというのに、魔物たちには死体や無機物など、生きていないはずのものさえいる」
「魔力が土や水に形を与え、魔力が死体を動かしているという」
「魔力とは何だ?ジルとは違うのか?」
「ただ魔物のことだけでもこれほど分からないことがあるのだ」
「人体や生物の体の成り立ち」
「大気を流れや雨粒の成形のしくみ」
「まだ、私と私が挑むべきことはいくらでもあるのだ」
「だから、君が暴れるがままに任せて、貴重な設備や人員を失うわけにはいかないのだ」
 ロックとリィドの交互の説明に、イヴァンは納得がいった。確かに、世界の全てを解き明かそうとするのならば、人員は足りないだろう。
「そこで、私と私は君に取引を持ちかけることにした」
「これが、何か分かるか?」
 吹き抜けに張り出した足場の一つに立つロックが、懐から小瓶を取り出し、イヴァンに向けて掲げて見せた。
「それは…!」
 ギゼティアの屋敷で、ジェインの両目からあふれだした赤い液体を受け止めた小瓶だった。
「すでに成分の分析は完了している」
「現在は各成分の解析に入っているところのため、もはやこの人造人格ジルのサンプルは必要ない」
「よって、君がおとなしく『ジェイン』を受け取り、ナムーフを立ち去ると約束するのならば」
「この人造人格ジルも進呈しよう」
 人造人格ジル。ジェインの意識を構成していた液体。今現在、ジルを奪われたジェインがどういう状況かは、イヴァンには分からない。だが、あの赤い液体さえあれば、少なくとも以前のジェインに戻れるかもしれない。
「うぅ…」
「時間はある」
「ゆっくり考えるといい」
 ロックとリィドは、呻く少年に向けてそう告げた。



 殺風景な部屋の中、彼女は部屋の隅に座り込み、ぶつぶつと言葉を連ねていた。
「オレはいる、オレはいる、オレはいる…」
 言葉を連ねる自分が、今ここに存在することを確実なものとするため、彼女は自ら確かめるように繰り返していた。過去が全くの作りもので、その過去さえも奪われてしまった彼女にとって、こうして自身で考えて発する言葉にしがみつくしか、自身の実在を実感する方法はなかった。
「オレはいる、オレはいる、オレはいる…」
 膝を抱えるように座り込むことで、腕と足の実在が感じられる。
 思考をそのまま口にすることで、口と舌の動きや、自身の声を聞く耳が存在することを感じられる。
 こうしていないと、次の瞬間にも自分が消え失せてしまいそうな間隔に、彼女は囚われていた。
 すると不意に、彼女の耳を音が打った。金属の擦れるような音が、扉からしたのだ。
「…!」
「ジェインさん!」
 突然の物音に身をこわばらせる彼女の耳を、聞き覚えのある声が打った。イヴァンだ。
「イ、イヴァン…!」
「ジェインさん!何で…いや、よかった…!」
 少年はジェインの様子に一瞬戸惑いを覚えたようだったが、躊躇を消し去りながら彼女に駆け寄り、抱きついた。ジェインが床に座り込み、イヴァンは膝立ちになっているため、彼女の体は少年の腕の中にすっぽり収まることとなった。これまで年長者として振る舞い、少年を守る側に回っていた彼女であったが、今は彼の温もりがただただ嬉しかった。
「イヴァン…イヴァン…!」
 ジルを奪われてしまってからというもの、少年はおろか自身の存在さえも揺らぎ始めていた彼女にとって、イヴァンの抱擁は心が安まるようであった。
「再会の喜びを分かちあっているところ悪いが」
「もうすぐ君たちを送り出す飛行船が到着する」
 ジェインは、不意に耳に届いた声に目を見開いた。男と女の、妙にかみ合った二人分の言葉。ジェインが部屋の戸口に目を向けると、イヴァンが開け放ったままのそこには、白衣の男女が立っていた。
 ロックとリィドの二人だ。
「お前等…!」
「ジェインさん、違うんだ!」
 自己を奪われたことへの恐怖よりも、敵意と怒りが胸中に芽生えたジェインを、少年はあわてながら押し止めた。
「この二人と、取り引きしたんだ!ジェインさんを連れてナムーフを出ていく代わりに、大人しくするって!」
「イヴァン、お前…」
 そこまで口にしたところで、ジェインははたと思い出した。自身の存在を確かめている間、床が揺れたような気がする。あの震動を起こしたのがイヴァンだとすれば、十分脅しにもなるだろう。
「…もうすぐだ」
「出発の準備を」
 ロックの言葉に、リィドが二人に向けて促すように言った。
「待って、ジェインさんがもう少し落ち着いてから」
 イヴァンが首を二人に向けながら応じると、ロックとリィドは視線を交わした。
「飛行船の待機なら問題ない」
「ならば十分間の猶予を認める」
「ありがとう…あ、あともう一つ」
 少年は礼を告げつつも、さらに要求を重ねた。
「ジェインさんのジル、今持ってる?」
「ここにはない。だが」
「私と私が所持しいる」
「だったら、また後でここに来るときに、どっちかが持って来てくれない?ああ、渡すのは飛行船に乗ってからでいいから」
「……」
「……」
 ロックとリィドは、再度目を合わせた。視線が交錯し、言葉もなく意思が交わされる。それがジルによるものか、何年もつき合ってきたが故によるものかは分からないが、二人は合意に至った。
「了承した」
「十分後に」
 二人はそういうと、部屋の扉を閉めた。木板の向こうから、みしりみしりと廊下を進んでいく二人分の足音が響いた。
「…ジェインさん!」
 ロックとリィドの気配が十分に離れてから、少年はジェインにがっしりと抱きついた。ただ腕を回すような抱擁ではなく、全身でジェインの存在を感じようとするかのようにしがみついていた。
「イヴァン、イヴァン…!」
 ジェインも少年の温もりを感じながら、いっそうその存在を味わおうとするかのように、彼の背中に手を回した。最初に抱擁されたときは、驚くほど立派な腕をしてるように感じたが、今彼女の腕に収まる背中はまだまだ小さかった。
「ジェインさん、よかった…!僕のこと、覚えてて…!」
 少年はいくらか言葉を濁らせながら、絞り出すように言った。
「あの二人が、ジェインさんは空っぽだからって言ってて…ただ寝てるだけじゃないかって…」
「オレも…!」
 少年の言葉に、ジェインも声を震わせながら言った。
「ナムーフで目を覚ましてからのこと、思い出したけど…それより前が思い出せなくて、お前のことも全部、作りものだったんじゃないかって…」
 相手の無事と、相手の実在。その証を全身で確かめあいながら、二人は嗚咽した。
「ジェインさん…」
「イヴァン…」
 二人は顔を見合わせ、涙に濡れる視線を絡め合わせると、どちらからともなく顔を寄せていった。



 廊下を進み、一枚の扉の前で白衣をまとった男女が足を止めた。白衣に袖を通したその二人はロックとリィドであったが、白衣の皺の寄り方やそのほかの着衣が先ほどと違っていた。当たり前だ。さっきこの部屋にイヴァンをつれてきたのとは、別のロックとリィドだからだ。
「…」
 ロックは白衣のポケットの重みを確かめると、拳を固めて扉をたたいた。ノックの音が響き、しばしの間をおいてから口を開く。
「十分経過した」
「扉を開く」
 リィドの言葉を挟んでから、ロックは扉の取っ手を握り、回した。
 ゆっくりと扉が開き、室内の様子が二人の視界に入ってくる。扉の奥からあふれだした、幾ばくかの温もりと湿り気を帯びた空気の向こうには、イヴァンとジェインがいた。
 ただ、二人とも扉の方に視線は向けず、着衣の乱れを直しているようだった。
「落ち着いたようだな」
「錯乱したままでは連れて行けない」
 ロックとリィドは、イヴァンがどうやってジェインを落ち着かせたのかおおむね理解したつもりだった。生命の危機を幾度も共に潜り抜けた男女が、しばしの別離を経てからすることは決まっているからだ。
「じゃ、じゃあそろそろ案内を…」
「了解した」
 いくらか早口なイヴァンの問いかけに、ロックは頷いた。
「ロックが先導し、諸君等がそれに続く。そして私がその後に…」
「あ、それもそうだけど、ジェインさんのジルは?」
 移動の並びを説明していたリィドを遮り、イヴァンが問いかける。
「ここに」
 ロックは白衣のポケットから赤い液体の詰まった小瓶を取り出した。
「本当に持ってきたんだ…」
「騙すような真似をして、君に暴れられても困る」
「それに、ここにあるのは人造人格ジルのみだ。『ジェイン』が移動中に取得したジルについては、別の私が所有している」
 ロックが襲われた時のための、一応の安全策だ。仮に人格の復元ができても、『クラーケン』や『ドラゴン』、『サンダーバード』といったジルがなければ、『ジェイン』は戦力とはなり得ない。それに、ロックが持つジルには、二つの暗示成分が残されているため、むしろイヴァンの足手まといになるだろう。
「それでは、船着き場へ」
「うん…」
 イヴァンは頷くと、自然にジェインの手を取り、並んでロックの後に続いた。そして部屋の戸口をくぐったところで、二人の後ろにリィドがついた。ジェインの部屋を出てしばし進むと、一行はすぐに塔の吹き抜けへと張り出す足場にでた。
「…っ…」
 いまいる位置からわずか数階ほど上に、かすかに揺れる光源があった。塔の最上階の床下と、吹き抜けの天井裏に封入された何かが光っているのだ。吹き抜け全体を照らす光に、ジェインは小さく声を漏らした。
「『ボートをここに』」
 ロックが短くつぶやくと、かすかな風が頬を撫でた。吹き抜けの中心から底へと吸い込まれていく、風の流れだった。
「…ねえ」
 ふと、ロックが口を開いた。
「リィド…さん…」
「何か?」
 一度は呼び捨てにしようとしながらも、かつての呼称に戻ったイヴァンの呼びかけに、リィドは応じた。
「その、最後に聞いておきたいんだけど、二人はなにを目指していたの?」
「何を、とは?」
「質問の意図が分からない」
「ええと、二人とも最初から、ジルの研究をするためにナムーフにきた訳じゃないんでしょ?最初は何のために研究をしようとしていたのかってこと」
 イヴァンの問いかけに、二人はふと過去を振り返った。ジルの影響により、ロックとリィドは渾然一体となり、表にでている方の記憶はもちろん、もう片方の過去も把握していた。
「レベッカ・リィドは…優生学を研究していた」
 ロックが、自分の中にあるリィドの記憶を、客観的に見つめて口にした。
「家畜を掛け合わせる際に、いったい何が親から子へ伝わり、形質を決めているのかを見つけだそうとしていた」
「トッド・ロックは、医学を研究していた」
 続けてリィドが、ロックの記憶を紡いだ。
「爪や髪の毛は伸び、軽い傷ならふさがる。なのに切り落とした腕はなぜ生えてこないのか。なぜトカゲの尾はまた生えてくるのに、人の手足は生えてこないのかを理解しようとしていた」
 二人が出会う前、バラバラだった頃の記憶が、いつしか一つになっていく。
「私と私は出会い、生き物の形や形質を決める何かを探しているという共通点に気がついた」
「優生学者と医者、二つの立場から生物を見つめ、ついに私と私は見つけだした」
「それが、ジル…」
 イヴァンが、二人の言葉を引き継ぐようにつぶやいた。
「ジルの発見に、ロプフェル行政長は大いに興味を抱き」
「ジルの研究を大いに推奨した。しかし、物珍しいジルの開発や、新しい魔物のジルを抽出する研究ばかりで」
「ジルの何が生物に作用するかの研究は進まなかった。私と私だけでは、人手が足りなかった」
「が、ジルが肉体の形質以外も伝達可能だと発見した」
「それで、研究のためにナムーフの連中を…」
 ようやく口を開いたジェインに、ロックとリィドは首を振った。
「おもちゃのようなジルを開発する無駄を省いたのだ」
「それにあのままでは、増長したロプフェル…いや、ナムーフは地上に攻撃していただろう」
「地上の全てをナムーフが統べる。そんな途方もない夢のために」
 ロックとリィドは、そこで言葉を一度断った。
「私と私の目的は、あくまでジルの本質の探究」
「ジルと生命の繋がりを見極めることだけだ」
 最後にそう付け加えたところで、ロックは足場の下方に視線を向けた。
「『ボート』が見えてきた」
「このまま、屋上の船まで送ろう」
 ロックとリィド、二人の言葉に合わせるように、塔の吹き抜けの下方から、帆の代わりに大きな傘を広げた小舟が浮かび上がってきた。頬を撫でる風は、小舟を中心に空気の渦が生じていることを示していた。
「ロックさん」
「何か?」
 イヴァンの不意の呼びかけに、ロックは応じた。
「僕、今の話を聞いて、思ったんだ」
 小舟は足場の先に浮かび、一行が乗り込むのを待っていたが、少年は続けた。
「ロプフェル行政長の考えは間違っていたと思うけど…それで、ロックさんとリィドさんが正しいってことにはならないよ」
「何を言いたい?」
 イヴァンの言葉から微かに漂う批判の意図に、ロックはその真意を問いただそうとした。だが、少年は返答の前に、ロックに向けて手のひらを掲げて見せた。
「ナムーフの人たちが間違っていたからといって、みんなを二人にしてしまうのはやりすぎだよ」
 その瞬間、ロックの目には少年の手のひらが渦を描くように歪むのが見えた。直後、ロックの腹を衝撃が打ち、肉体に宿っていた彼の意識が消失した。
「っ!?」
 ロックの身体が足場から吹き飛ぶ様子に、リィドは目を見開き声を漏らしそうになった。しかし、彼女の驚きをよそに、ロックの身体はイヴァンの起こした小規模な竜巻の勢いのままに舞いあげられ、ついに吹き抜けの天井に叩きつけられた。ゆらゆらと揺れる光源を隔てていたガラスにひびが入る。
「イヴァン、君は何を」
 リィドが問いただそうとした瞬間、彼女の顔が揺らいでロックのものに変わる。
「正気か、イヴァン。私は『ジェイン』のジルを持っていたのに」
「ジルはいらねえ…」
 背後のロックを振り返りながら、ジェインが口を開いた。
「イヴァンが言ってくれたんだ。オレは作られた『ジェイン』じゃない。ここにいる、オレこそがジェインなんだってな!」
「『風を、ここ…」
 ロックが何かを唱えようとした瞬間、その身体を風が軽く撫でた。自身を中心に、空気の渦が生じていると悟った瞬間、ロックの身体はもう一人の彼のように真上に向けて打ち上げられた。竜巻に突風。同時に二つの強力な気象操作が行われていた。
なぜ?
 ロックの中で、リィドが疑問を投げかける。
 気象操作の能力を持っているのは、イヴァンだけではないのか?。
 だが一つの肉体で二人が答えにたどり着く前に、ロックの身体は再び吹き抜けの天井に叩きつけられていた。



 二人目のロックを天井に叩きつけたところで、ついにガラスが割れた。ロックとリィドの二人だったものと共に、分厚いガラスの破片が吹き抜けを落下していき、同時に輝く液体が流れ落ちていく。
「ジェインさん、どう!?」
「完璧だ!」
 初めて使ったにしては、イヴァンに引けを取らなかった風の操作に、ジェインはそう評価を下した。
 イヴァンと再会し、落ち着かせるという名目で二人きりになったとき、少年はジェインを抱きしめてこう言った。
『過去は作りものかもしれないけど、僕を助けてくれたジェインさんは本物だった。だからここにいるのは、作りものなんかじゃない、本物のジェインさんだ』
 その言葉だけで、ジェインは自らが消えてしまうのではないかという恐怖が和らぐのを感じた。そして、少年の体温を感じながら、安堵感にしばし身を任せたのだった。
 そして、ジェインがようやく落ち着きを取り戻したところで、少年は口にしたのだ。ロックとリィドの、ナムーフを変えてしまったことに対する意識と、二人の毒牙が地上に向かないかという危惧について。
『もう、あの二人は地上の魔物を何度もさらっているみたい』
 ジェインの手となり足となり、時には敵にもなった数々のジルの由来を思えば、それは明らかだった。
『もし、あの二人がナムーフでの研究で満足できなくなったら…?』
『次は、地上か…?』
『まだ分からない。でも、そうだったときのために、保険をかけておきたいんだ』
『保険って…オレにはもう、ジルの力なんて…』
『ジェインさん。ジェインさんの身体は、ジルがとても馴染みやすいんだ。そして…』
 イヴァンは少しだけ視線をさまよわせてから、続けた。
『ジルは、生き物の体液から作られるんだ』
「…」
 ジェインは傍らの少年に視線を向けながら、口の中に残る少年の味を感じた。理論としてはそうかもしれないが、まさかあの程度で少年と同じく気象を操作する技術が身に付くとは思わなかった。
「ジェインさん!」
 不意に、イヴァンがジェインの顔を見上げ、声を上げた。突然の少年の呼びかけに、ジェインは胸の奥で心臓が跳ねるのを感じた。
「次!急ごう!」
「お、おう!」
 イヴァンに見とれていた、という事実をごまかすように、ジェインは力強く応じて踵を返した。そして勢いよく、つい先ほどでてきた部屋に飛び込み、ざっと内装を見回した。
「シーツと…ひもが…あった!」
「モップ、あったぞ!」
 室内に転がっている、ありふれた品物を拾い上げると、二人は部屋の中央で収穫物を広げた。モップが二本に、シーツが二枚、そしてひもが一巻き。
「ジェインさん!これで大丈夫!?」
 広げた品物を検分するジェインに、イヴァンが尋ねる。
「ああ、これで凧が作れる」
 二本のモップにシーツを結わえ付け、ひもで手首と足首をモップに固定する。これで、二人の身体さえも骨組みとした凧ができあがる。
「イヴァン、お前左足を結べ!オレが右足だ!」
「う、うん!」
 シーツの上下に張ったモップに、二人は自身の足首と手首を片方ずつ結びつけていった。
「いいか!?」
「大丈夫!」
 軽く手足を揺すり、ひもがモップと自身を完全に固定してることを確認すると、ジェインとイヴァンは目を見合わせた。
「いくぞ!」
「せーの!」
 かけ声と共に二人は立ち上がる。ジェインの方が背があるせいで、いくらかいびつな形にはなったが、それでも凧といえるような構造にはなっていた。
「外側の足からいくぞ…いち、に…」
「いち…に…」
 声を合わせ、不格好な二人三脚で、二人は再び吹き抜けに突き出す足場へと足を踏み出した。そして、目もくらむような吹き抜けの底、天井のガラスの割れ目から流れ落ちる赤い液体を見下ろしてから、二人は目を合わせた。
「いいか?」
「うん!」
モップに固定されていない方の手を伸ばし、指を絡め合わせ、がっちりと握りしめると、二人は同時に足場を蹴った。
「っ!」
 浮遊感と風が二人を襲った。つま先から背筋を抜け、頭頂までを怖気が走り抜ける。一瞬、後悔がジェインを襲うが、すぐに消え去った。イヴァンの手が、力強く彼女の手を握っていてくれたからだ。
「…今だ!」
 落下による風で目を細めながらも、少年が声を上げる。その瞬間、二人の背後から強い風が吹いた。塔の吹き抜けの中に吹いた風は、ジェインとイヴァンの凧を大きく膨らませ、そのまま壁面にうがたれた穴を抜けて、塔の外へと二人を連れ出した。
「…!」
 二人の前方、ほぼ真正面から指す日の光に二人は目を細めた。ナムーフの高度のせいもあるが、夕暮れが近いのだろう。
「交代だイヴァン!ちょっと向きを変える!」
 ジェインは少年に向けて声を上げると、風が収まるのを待った。そして、遅れて自身の練り上げた風を、やや斜めの方向から吹かせた。
 二人の凧は少しだけ向きを変え、風に乗りながら進んでいった。眼下に目を向ければ、セントラ研究島の庭園の木々が、勢いよく流れていくのが見えた。
「ジェインさん!」
 眩しさが目に残っているのか、ぱちぱちと瞬きを繰り返しながらイヴァンが口を開いた。
「これで、風の防壁は消えたんだよね!?」
「ああ!多分な!」
 ジェインは語気に自信を込めながら応じた。
「多分!?」
「だが、可能性はかなり高いはずだ!ナムーフでは、ジルを生き物に注入しないままでも、力を取り出す方法がある!」
 イヴァンと出会う前、セントラ研究島の塔の一室で見た、ひとりでに輝く小瓶や、風を纏って浮かぶ小瓶。その情景がジェインの脳裏をよぎった。
「そして、吹き抜けのてっぺんで光ってたのはジルだけど、ただ光るだけにしては量が多い!」
「つまり…」
「あのジルにイヴァンの能力のジルを混ぜて、ナムーフ全体に防壁を張るようにしていたんだ!」
「そして、その余りでチェアを飛ばしたり、突風を起こしたり…!」
「そうだ!」
 ジェインは頷いた。イヴァンと共にナムーフを移動し、見て回ったことから積み上げた推論だった。もちろん推論にすぎない。だが、限りなく確実に近いだろう。
「急ぐぞ!風の防壁が消えても、飛行船はまだ飛べる!」
 そう、風の力を利用するチェアとは違い、飛行船はそれだけで飛べるのだ。二人で交互に風を起こしながらの凧に追いつくことはできないかもしれないが、待ち伏せぐらいはできるだろう。
「…ジェインさん!」
 すると、イヴァンが前方に目を向けて声を上げた。
「飛行船が!」
 セントラ研究島の縁の向こう、飛行船と思しき小さな影がいくつか、浮遊しているのが見えた。どうやら、ロックとリィドの動きは二人の想像を上回っていたらしい。
「…」
 ジェインは、徐々に迫りつつある島の縁と、遠くに待ちかまえる飛行船の列を見比べた。
(この距離なら…)
 そう踏んだところで、ジェインはふと風がかき乱されるのを感じた。ジェインでもイヴァンでもない何かが、空気の流れを作り出しているのだ。
「…っ!そんな…!」
「どうした!?」
 首をひねりながらのイヴァンの声に、ジェインは鋭く問いかけた。
「ジェインさん、後ろ…!」
「何が…」
 そう言いながら振り返ったジェインの目に入ったのは、翼を広げる大きな影だった。右肩から腕の代わりに生えた翼に、左肩から延びる人造の翼を握りしめ、ジェインとイヴァンの背後に肉薄していたのは、リィドだった。
「先ほどは驚いた」
 リィドがそう口にすると同時に、その顔が揺らいでロックのものに変わる。
「君が気象操作能力を獲得している可能性は、十分考えられた」
「君の肉体は、ジルの寄せ集めから精製されたとはいえ、リリムに限りなく近い」
「リリムの男性の体液に対する親和性と、君の肉体のジルの吸収効率を考慮すれば、十分あり得ることだった」
 ロック、リィド、ロックと交互に顔を変えながら、二人はそうつぶやいた。
「はん、今更気がついたって遅いな」
「それに、僕たち二人をどうやって止めようっていうの?もう風の防壁はないから、僕たちの好きなようにここを出ていけるよ!」
「風の」「防壁?」
 ロックとリィドは、イヴァンの言葉を繰り返した。
「ああ、イヴァンのジルを解析した奴を、自動的に使えるようにと塔に仕込んでいた奴だ」
「もうジルは流れ出たから、気象操作はもう使えない…」
 イヴァンは断言しようとしていた。しかし、交互に入れ替わるロックとリィドの表情に、彼の内側から自信が喪失していくのが感じられた。
「その通り」
「セントラ研究島の塔のジルこそ」
「ナムーフの風の防壁の要」
「だが、それほど重要なものをただ放置しておくとでも?」
「ま、まさか…」
 イヴァンは、今まで意識のどこかで考えながらも、無意識のうちに目をそらしていた可能性を脳裏に浮かべていた。ロックとリィドはもちろん、セントラ研究島のかつての研究者たちは、数多くの魔物を地上からさらって、ジルの抽出を行ってきた。しかしイヴァンは、書物の中でありふれた魔物の一つとされていながらも、今まで見たことのない魔物が存在することに気がついていた。
「なんだ、イヴァン…何が…」
 ジェインは少年の表情の変化に不安を覚えるが、その言葉が不意に途切れた。ロックとリィドを見ようと振り向いていた彼女の視界に、凧の端から覗く何かが映ったからだ。
「まさか…イヴァン!向きを変える!」
 自分の見たものが見間違いであってほしいと願いながら、彼女は風の無期を操り、凧を前後反転させた。
「…そんな…!」
 ジェインの目が見開かれ、口から言葉が漏れる。ハーピィの翼と人造の翼を広げるロックとリィドの向こう、セントラ研究島の中央にそそり立つ塔の表面が、赤い液体に塗れていたからだ。ロックの身体を吹き抜けの天井に叩きつけ、ガラスを割って流出させた大量の赤い液体。それが、塔の表面を這い上っていた。
「スライム」
「生きている液体が、ジル自体に自律性を備えさせる」
 ロックとリィドが、顔を切り替えながらいった。
「あのジルには、私と私のすべてが込められている」
「気象操作能力も、自律性も、記憶の伝達も」
「大気の流れに耳をそばだて、発光し、ある程度の形を保って動く」
「人格以外のすべてが、あのジルをなしているのだ」
「器から外に出したところで」
「あれを停止させることはできない」
 すると、ロックとリィドは右足を凧に向けてかざした。次の瞬間、右足がほどけて何本もの触手になり、ジェインとイヴァンを縛り付ける凧の骨組みに絡みついた。
「な…?」
「事情が変わった。君たちをナムーフの外へ送り出す約束はなしだ」
「君たちが明らかな害意を持って、私と私を攻撃したからだ」
 イヴァンが風を起こすが、スキュラの触手は凧の骨組みをがっちりととらえており、逃がす気配はなかった。
「オレ達を、どうするつもりだ…?」
 ジェインは抵抗しようと風を紡ぐイヴァンの手を握りながら、そう問いかけた。
「手始めに、君の肉体のジルの吸収性能を探らせてもらう」
「そしてイヴァンには…そう、せっかくの生身の人間なのだから、肉体改造ジルの投与実験に使おう」
 どうということもないかのように、ロックとリィドは顔を切り替えながら、そう応じた。
「そうか…」
 ジェインは一つ息をつくと、下を見た。いつの間にか凧はセントラ研究島の縁を飛び出しており、眼下にはいくつもの小島やイール・ファクトの姿が見えた。そして彼女は傍らのイヴァンに顔を向けた。
「イヴァン」
「うん」
 ジェインとイヴァンは言葉を交わし、視線を見合わせると、凧の骨組みに結わえ付けられていない方の手を、二種の翼を広げる異形に向けてかざした。
「何を…」
 ロックが言葉を紡ごうとした瞬間、ジェインとイヴァンの手の中に小規模の竜巻が生じた。竜巻は二人の手のひらから伸び上がり、目を見開くロックの胸に、深く食い込んだ。
「…!」
 ロックの口が開き、息とともに声が漏れ、その身体が上空に向けて打ち上げられる。もちろん、右腿から分岐して凧の骨組に絡みつく触手にも力は伝わり、ただのモップでしかなかった木棒はへし折れた。そしてスキュラの触手という支えと、十分に風を受けるだけの張りを失った凧は、ジェインとイヴァンの二人とともに落下を始めた。
「何を…!」
 ロックの顔が揺らぎ、リィドのそれに変化する。彼女は右の翼と、左腕でつかんだ人造の翼を大きく羽ばたかせ、落下していく二人に向けて追いすがろうとした。リィドの視界の中、ジェインとイヴァンは互いに手を伸ばし、指を絡めてしっかりとつなぎあわせた。そして今度は、手首に折れたモップが結わえ付けられた反対の手を、追跡者に向けて掲げた。
「今度は食らわない…!」
 リィドが呟き、風の防壁を構築するための囁きを紡いだ。
「『ここに、風の壁を』」
 ナムーフの全域に耳をそばだて、ロックとリィドの囁きに応じて風を起こす、セントラ研究島の塔を器代わりにしていたジル。それが、今湖の場に壁を作り出すはずだった。
 だが、ロックとリィドの意識が宿った身体を守るはずの壁は、一瞬にしてかき消された。
「「レスカティエ!」」
 ジェインとイヴァンの発した、たった一つの言葉に、リィドはあたりの空気が変質したのを感じ取った。
「何が…」
 彼女の顔が揺らぎ、ロックのそれに入れ替わる。
「風の防壁が消失した…!?」
「そんな、なぜ…!」
 浮かび上がってきたロックの意識を押し退けるようにして、リィドが声を上げる。しかし彼女の脳裏には、セントラ研究島で今まさに何が起こっているかが映っていた。塔の吹き抜けの底から、壁面を這い上り、外壁にまで流出した大量のジルが、びくびくと痙攣しているのだ。そして形状が維持できないとでもいうかのように、ジルの一部が噴出するように放たれ、またそこで痙攣を始めていた。
「そんな…」
「いったい何が…」
「賭は、オレ達の勝ちだったな…」
 入れ替わりながら戸惑うロックとリィドの表情を目にしたジェインが、ニヤリと笑みを浮かべた。
「ロックの奴ごと、オレのジルを天井に叩きつけて、混ぜてやったかいがあったな」
 落下により耳元でごうごうと風が鳴り響く中、ジェインの言葉はロックとリィドの元になぜか届いた。
「ジル…」
「『ジェイン』のジル…!」
 人造人格を構成していたジルには、いくつかの成分が含まれていた。そしてその中に、『レスカティエ』という言葉に対し過剰な反応を催す暗示成分があった。強烈な吐き気とともに、痙攣と意識の混濁が襲いかかり、嘔吐のほか何もできなくなるのだ。
「それじゃあ、今度こそさよならだ」
 ジェインの言葉を引き継ぐように、イヴァンが続いた。
「ロックに、リィド……」
 イヴァンは最後に敬称をつけるべきか悩んでから、言葉を切った。そして再び、ジェインとイヴァンの手の中に竜巻が生じ、まっすぐに上方へと伸び上がった。下から襲い来る二条の竜巻と落下の勢いが一体となり、ロックとリィド、いやチャールズだった者の胴を貫いた。
「……!」
 瞬間的に、ロックとリィドの顔が入れ替わり、どちらの者ともとれぬ悲鳴を上げながら、チャールズだった者は回転しながら上空へ舞い上がっていった。
「イヴァン!仕上げだ!」
「う、うん!」
 ジェインとイヴァンは言葉を交わし、浮遊する島々の横を突っ切りながら落下していった。そしていくつもの群島を通り抜け、イール・ファクトの横をかすめてから、二人は上方へと向き直った。青空を背に、島が浮いている。いくつもの島が、二人に底をさらしていた。
「イヴァン…!ここを、片づけるぞ…!」
「うん…!」
 ジェインとイヴァンは、言葉を交わした。ナムーフはもはや、人間のためのものでも、いずれ魔物の支配に屈するものでもなかった。たった二人に毒された、呪いの土地なのだ。ジルという毒が地上に降り注ぐ前に、二人にはやるべきことがあった。
「…!」
 イヴァンが手をかざし、嵐を作り出した。昨日まで、自室で者をとるために作っていた竜巻よりも、ドゥナル・ポト・ナムーフでジェインを手助けするために作った嵐よりも、もっともっと巨大な嵐だった。セントラ研究島を中心に、ナムーフの全てを軽々と包み込めるような嵐だった。黒雲が風とともに渦を描き、稲妻が鳴り響く。青空と浮島が雲の影に隠れ、ジェインとイヴァンの顔を雨粒がたたいた。
「まだだ…!」
 かざしたイヴァンの手に、ジェインが手を重ねる。そして、イヴァンの作り出した嵐を包み込むように、風の渦が生じた。嵐そのものを包み込み、圧縮し、一つの固まりに仕上げようとしているのだ。おそらく、嵐の中では風に捕らわれた浮島が、互いにぶつかりながら中心へと寄せ集められているに違いない。ドゥナルの底がセントラ研究島の塔を折るかもしれない。イール・ファクトの煙突が、無数の群島を貫くかもしれない。だが、イヴァンとジェインには止めようとする意志はなかった。
 そして、風と黒雲が作り出す嵐の玉が極限まで収束したところで、二人は同時に風を紡ぐのを止めた。
「「凍れ!」」
 直後の叫びに呼応するように、嵐全体が一瞬のうちに凍結する。
「飛んでいけ!」
「どこまでも!」
 そしてジェインとイヴァンは、仕上げとばかりに突風を起こした。どこまでも広がる青い海から、凍り付いた嵐の球体の向こうの青空に向けて、二人の力の限り、風を紡いだのだ。地上から吹き上げる強烈な上昇気流は、ただでさえナムーフ自体の浮力により重さの失われていた岩と氷の球体を、ジェインとイヴァンの二人とともに、空のかなたへと吹き上げていった。骨組みは折れたものの、かろうじて足の方のモップに結わえ付けられていたシーツが風に負けて引き裂かれ、完全に凧としての用を果たさなくなる。
 だが、二人は止めなかった。氷の球が、ナムーフを包み込んだ氷が、二度と地上に戻ることのないよう、星の海へと沈むよう、風を起こし続けた。
 やがて、ジェインとイヴァンの意識が疲弊しきって、風が完全に消えた。二人を押し上げていた気流がかき消えたことで、ジェインとイヴァンの体は落下を始めた。だが、ジェインの胸の中にあったのは、恐怖ではなかった。彼女の視線の先、もはや昼の空に浮かぶ月のようにおぼろなナムーフの影が、空の彼方に消えつつあったからだ。視界の大部分を覆っていた球は、もはや芥子粒のようにしか見えなかった。あれなら、もう落ちてくることはないだろう。
 落下の浮遊感に包まれながら、ジェインは腕を伸ばして、イヴァンを抱き寄せた。すると少年も、彼女の抱擁に応じるように腕を彼女の背中へと回す。風に当たりすぎたせいか、二人の体は冷えていた。だが、こうして抱き合い、わずかな温もりを分かちあうだけで、ジェインはとても温かく感じた。
「イヴァン…」
 落下による風が耳元でごうごうと鳴る中、ジェインは腕の中の少年に向けて声をかけた。
「もう、終わりだな」
 ナムーフから飛び出し、二人の研究者に毒された浮遊する土地を空の彼方へと追いやった。
「うん、終わりだね」
 そして、凧を失い、気象を操る力も使い果たしたまま、眼下に広がる海の青に向けて落下している。
 一切合切の意味を込めて、二人は言葉を交わした。
「こんな時にいうのもあれだが、オレは楽しかった…」
「うん、僕も楽しかった」
「地上をあちこち見て回ろう、って約束…守れなくてごめんな」
「ううん。僕をあそこから連れ出してくれたじゃない。ありがとう」
 互いに抱き合ったまま、二人は視線を合わせた。
「…」
「…」
 そして言葉もなく、二人は互いに顔を寄せあうと、そっと唇を重ねた。冷えきった唇だったが、二人には温かく感じられた。




 空の青から、海の青へと、ジェインとイヴァンは落ちていった。
 白いものが、翼を広げるように、大きく広がった。

13/12/10 21:04更新 / 十二屋月蝕
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■作者メッセージ
「……」
 薄暗い、どこかの建物の一室に、一人の男がいた。軍服のような衣装に袖を通し、やや火の弱いランプを前に床に腰を下ろしていた。男の周囲には、ベッドや棚が散乱していた。まるで、部屋をひっくり返したかのような散らかりようだが、ランプの薄明に目を凝らしてみれば、それが文字通りの意味であることが分かるだろう。男が座り込む床は漆喰に覆われており、左右の壁は木板だった。天井に目を向けてみれば、扉がはめ込まれており、部屋全体がかすかにひずんでいた。
「……いないか…」
 男、ロックが目を開くと同時に、その顔立ちが揺らいで変形した。
「もう、私と私…いえ、私しかいない」
 ロックの顔と入れ替わったリィドが、彼の言葉を引き継ぐように言う。すると再び、リィドの顔が揺らいだ。
「ほかに生存者はなく、ジルも全て凍結している」
 状況を分析すると、ロックはリィドと入れ替わった。
「ここが、どこなのかもわからない」
 リィドのため息とともに、ロックが顔を表した。
「とうとう、二人だけになったのか」
「そう、私たち、二人だけ」
 自分のほかに聞く者もいないというのに、ロックとリィドは入れ替わりながら言葉を交わした。
「それでも運がいい。ロプフェル行政長の部屋の強度がなければ、こうして言葉を交わすこともできなかったのだから」
「むしろ、こんな気分になるぐらいなら…ほかの私たちのように凍結してしまっていればよかった」
 ロックの言葉に、リィドは弱気に応じた。
「そんなことを言うな。可能性はある」
「この浮遊都市ナムーフが運良く地上に落ちて、誰かが私と私のジルを口にする可能性が?」
「ああ」
 ロックの言葉は、自信にも言い聞かせるかのようだった。
「そろそろ余裕がなくなってきたな…」
 ロックは手を伸ばすと、本格的に消え入りつつあるランプの火を消した。あたりが暗闇に包まれ、身を刺すような冷たさだけが感じられる。
「なあ…」
「なに?」
 闇の中で、ロックとリィドは口を交わした。
「後悔はないか?」
「…少しだけ」
「何だ?」
「こんなことなら、『ゆきおんな』のジルをもっと研究しておけばよかった」
「ふふ」
 闇の中に短い笑い声が響き、それも止まった。
「そろそろか」
 沈黙を破ったのは、短い言葉だった。
「最後になるが、声に出しておきたい。楽しかった」
「私も」
「それでは、お休み」
「さようなら」
 最後に響いた声は、誰に届くわけでもなく、虚空に消えていった。
 誰から誰へ、向けられたものかは、もはやどうでもよかった。
 ここには一人しかいないのだから。

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