chapter 7
風が頬を撫でる。風が髪をなぶる。風が衣服の裾をはためかせる。
燦々と日の降り注ぐ青空の下、何隻かの飛行船が空を飛んでいた。悠々とした空中散歩と言った風情だが、ゆっくりと、しかし着実に先頭の一隻が後続の飛行船から距離を離していた。
膨れ上がった皮袋の下、舵輪を握りしめているのは白髪の女だった。ドレスのスカートがはためくのもかまわず、歯を食いしばり、船首のその先をにらむようにしながら飛行船を操っている。
彼女は必死だった。だが、追っ手の飛行船との距離を設けているのは、彼女の努力だけではなかった。彼女の傍ら、ドレスに包まれた腰にしがみつく少年が、必死に意識を凝らしていた。
「イヴァン!限界なら休んでいいぞ!」
「もう少し…いける…!」
腰にしがみつく少年に向けてジェインが声をかけると、彼は絞り出すような声で応じた。飛行船を後押しする風を起こしているのは、少年の生まれ持った力によるものだ。だが、その力もそうそう連続して使い続けられるものではない。だが彼は、瞬間的な強風を吹き起こし、突風の勢いが殺されぬうちに次の風を起こすという、寸断した気象操作で連続的な加速を行っていたのだ。
だがもちろん、その負担は彼にのしかかっていた。
「う…」
「イヴァン!?」
少年が漏らしたうめき声に、ジェインが応じる。
「大丈夫か!?」
「だ…大丈夫…!」
少年は低い声で応じた。
「距離は十分稼いだ!ドゥナルまで余裕だ!」
彼女は少年を休ませようと、声を張り上げた。
「でも、ドゥナルに到着すればおしまい…じゃないでしょ?」
少年が、どこかぎこちない笑みを浮かべながら続ける。
「ドゥナルに入って、ギゼティアの家を探さないと…」
「ここでお前が倒れたら、ナムーフの外には出られないぞ1?」
浮遊都市ナムーフ。天空に浮遊するいくつもの人工の浮島の中で、最も高い位置に浮かぶドゥナル・ポト・ナムーフ。二人がそこを目指しているのは、この浮遊都市から脱出するためだった。
だが、ここで少年が倒れてしまったら、これまでの二人の行為に意味がなくなってしまう。なぜなら今、ジェインは少年のためだけに、ナムーフの外を目指しているからだった。
「大、丈夫…!」
少年は幾度目になるかわからない返答をした。実際のところ、すでに通常の限界は迎えている。だが、ジェインとの逃避行を成功させるためにも、少しだけでも距離を稼がなければならないからだ。
ジェインはこれまで、『仕事』のために少年をナムーフから連れ出そうとしていた。だが、彼女の仕事をする理由になっていた過去の罪が作りものだとわかった今、ジェインはただ少年のためだけにこうして飛行船を操っているのだ。物心ついてから、ずっと浮遊都市の一角に閉じこめられていた少年にとって、外、それも浮遊都市の外はあこがれであった。
だが今となっては、こうして少年のためだけに努力してくれるジェインの存在が嬉しかった。そして、ジェインの努力が実を結ぶよう、イヴァンも可能な限り助力することを決めていた。
「もうすぐだ…!」
不意にジェインが声を漏らした。
前方に目を向けると、遙か上空に浮いていたはずの巨大な浮島が、少し手を伸ばせば届くほどの距離に迫っていた。島の縁から覗く邸宅の屋根が近づいてくる。
「ジェインさん、もう止め…」
「止めるな!このままの勢いだ!」
連続する突風による加速を止めたイヴァンが、向かい風を起こして飛行船を減速させようとした瞬間、ジェインが吠えるような声を上げた。
「ゆっくり島に降りれば、即座に警備隊員に囲まれる!このままの勢いでつっこんで、どこで降りたか分からないようにする!」
「で、でも…」
「イヴァン!任せろ!」
風に紛れながらの声で、ジェインがどんな表情を浮かべているかも分からない。だが、少年にとってその一言は、十二分に彼を勇気づけるものだった。
「…分かった!」
これまでに何度も少年にかけられたその言葉には、幾度か形を変えたこともあったが、常に成功が付き従っていた。ジェインが任せろと言ったなら、少年は彼女にすべてを委ねる。それだけの力が、彼女の言葉にあった。
「行くぞ…!」
ジェインが舵輪を操ると、飛行船は勢いよく浮島の上空に飛び出し、旋回を始めた。眼下に広がるのは、広い庭を備えたいくつもの邸宅と、その間を走る通りだった。浮島の中央に巨大な城がそびえており、いくつもの住宅が軒を連ね、通りによって区切られていた下の島々とは異なる景色であった。だが、今は景色をぼんやりと眺めている場合ではない。
「ここ…だ…!」
ジェインは低く呻くように漏らすと、舵輪をつかむ腕に力を込めた。その瞬間、飛行船の船体がきしみをあげつつ、船首を下方へと傾ける。船首の先、左右に邸宅の生け垣や塀の並ぶ通りに着陸を試みるのだ。
見る見るうちに街の景色が大きくなり、ついに小型飛行船の船底が通りの石畳に接した。
「…!」
襲いかかる強烈な振動に、二人は歯を食いしばりつつも声を漏らした。ボートの竜骨が一見なめらかな石畳の凹凸を拾い上げ、飛行船全体を揺する。石畳の起伏に木材が削り取られ、ボートが悲鳴のような軋みを上げる。もはや舵は削り折れ、舵輪を回したところで船の方向を変えることはできない。
ジェインは風と振動に耐えながらも、舵輪を握りしめ船首の先を見つめていた。通りの左右に立ちはだかる塀や生け垣、邸宅の敷地から空に向けて伸びる木々。その一つ一つを視界の端に捉えつつ、彼女はタイミングを見計らっていた。
「…今だ…!」
通りの前方、薄汚れた塀から通りに向けて伸びる木の枝を捉えた瞬間、ジェインは低く声を上げた。直後、彼女は舵輪から手を離し自信の腰にしがみつく少年の体を抱いた。そして、スカートを翻しながら右足を振り上げ、一気に船底へ叩きつける。木板へと足が振り下ろされる間に、彼女の足は四本の触手に分離し、本来の脚力以上の衝撃を船底にもたらした。結果、ジェインとイヴァンの体はその反動により、小型飛行船の中から飛び出した。高速で横へと流れていく塀が眼前へと迫る間に、彼女は触手で自身と少年をきつく巻き、左手を壁面に向けて突き出した。彼女の左手はいつの間にか赤黒い鱗に覆われており、黒色の鉤爪が薄汚れた漆喰を引き裂き、石積の塀に食い込んでいく。壁面に四条の爪痕が刻まれ、急速にジェインたちの勢いが殺されていった。
「と、まれぇぇぇ…!」
ともすれば壁面からはじかれそうになりながらも、ジェインは指先に全身全霊の力を込め、ついに飛行船から飛び降りた勢いを殺していく。そして塀の上から突き出た樹木に近づいたところで、彼女は枝に向けて触手を伸ばし、絡めた。真横への運動が、ジェインの触手によって枝を中心とする円運動になり、二人の体が振り上げられる。彼女は壁に突き立てていた指を伸ばし、触手をたわめた。するとジェインとイヴァンの体は、塀の上へと軟着陸した。
「…はぁ…」
ため息とともに顔を横に向ければ、通りの石畳が深々と掘り返されて、通りに線が刻まれているのが目に入る。線は緩やかに右に左に揺れつつジェインたちの目の前まで伸びていた。そして反対側に顔を向けると、通りに沿って石畳を掘り返した線がしばらく続いており、その向こうに動きを止めた小型飛行船が横倒しになっていた。その船底は石畳に削られたためか妙に平たく、平底船のようであった。
「イヴァン、怪我はないか?」
小型飛行船の着陸がもたらした惨状に、ジェインは腰にしがみつく少年に問いかけていた。
「あ、うん…何とも…」
ジェインが触手をゆるめるのにあわせて、彼は姿勢を正しつつ応じた。
「とりあえず、ドゥナルへ侵入できたな」
かなり騒がしい潜入となったが、飛行船は下層の浮島を巡回するので出払っているらしく、集まってくる気配はなかった。だがそれも、ジェインたちを追跡していた飛行船がやってくるまでの話だ。
「行こう、ジェインさん」
「ああそうだな…ってイヴァン」
少年の声に応じた彼女が、不意に手を伸ばして彼の肩をつかんだ。塀から荒れ放題の通りへ飛び降りようとしていたからだ。
「お前、どこに行くつもりだ?」
「どこって、とりあえずここを離れようと…」
「だったら、こっちだろう」
ジェインはそう言いながら、塀の内側へと飛び降りた。
「え?そっち?」
「飛行船はいなくても、最低限の警備は残してるはずだ。のこのこ路地を進んでいたら、通りに向かってる警備と鉢合わせしてしまう」
イヴァンは納得した。確かに、屋敷の敷地の中をこっそり通り抜けていけば、家主に気が付かれない限り見つかることもないだろうからだ。
「それと、もう一つ用事があるんだけど…イヴァン、早く降りてくれ」
「あ、うん」
ジェインの言葉に、少年は軽く膝を屈めてから、屋敷の敷地へ飛び込んだ。
「それで、用事って?」
姿勢を立て直し、ジェインの傍らに立つと、少年は続きを促した。
「ああ、この屋敷に侵入して、いろいろ拝借する」
「侵入!?」
少年は思わずそう言葉を繰り返してから、あわてて敷地の中央に鎮座する建屋の様子を伺った。人目に付かないよう、通りから塀の内側に忍び込んだのに、家主に見つかっては元も子もないからだ。
「侵入って…」
「飛行船を奪うときに姿を見られたからな。もう一度変装する。オレもそうだが、イヴァンもいつまでもワンピースという訳には行かないだろ?」
「そ、そうだけど…」
内心ジェインの言葉に同調しそうになりつつも、彼は口でそう返した。
「でも、この屋敷の人に見つかったら…」
「それは大丈夫だ。見ろ」
ジェインは軽く庭や屋敷を示しながら続けた。
「敷地内の草木だが、特に手入れもされてないようだ。草は伸び放題だし、少しかき分けてみれば去年の枯れた芝生がそのままだ」
足下の芝生と言うには背の高すぎる草をつま先で軽くかき分けると、少年の目に半ば土に還った枯れ草のようなものが見えた。
「そして屋敷の壁面や塀も、周りの建物に比べて若干薄汚れている。以上から、この屋敷には人が住んでないか、住んでいても屋敷の維持管理に手を回せるほどの人数じゃないかだ」
「でも、塀とか壁はそういう色かもしれないし」
「これをみろ」
ジェインは左手を出すと、白い小石のようなものを少年に見せた。
「なにこれ?」
「塀の破片だ。オレの爪に残っていた」
制動をかけるため、塀に爪を立てたときの名残らしい。
「この破片、白いだろ?」
「うん」
「塀の中身がこんなに白いのに、表面は薄汚れている」
「ということは、手入れがされていない…」
「そうだ」
ジェインは塀の破片をそのあたりの草むらに向けて放ると、屋敷に向けて歩き始めた。
「行くぞイヴァン。早いうちにここを離れないと、飛行船もやってくるからな」
「ま、待ってよジェインさん…!」
少年は草むらに苦労しながら、いくらか遅れてジェインに続いた。
「ゆっくりしてると着替える時間がなくなるぞ?まあ、お前がその格好を気に入ってるなら問題は…」
「着替えるって!」
少年はスカートの裾を軽く持ち上げ、草むらをかき分けるようにジェインを追った。
屋敷の裏手に設けられた小さな戸を破ると、二人をほこりっぽい空気が迎えた。やはりジェインの見立て通り、無人の屋敷のようだった。
屋敷の中に家具が残されているのをみると、完全に持ち主もいないわけではないらしい。
「運が良かったな…」
衣装部屋と思しき一室に入り、チェストを開きながらジェインはつぶやいた。
チェストの中には男物のズボンやシャツが、大小さまざまなサイズで詰め込まれていた。
「これと、これを着て…ちょっと丈が余るかな?」
傍らに立つ少年の腰にズボンを当てながら、彼女はちょうど良さそうなものを見繕っていた。
「ちょっと長いぐらい大丈夫だよ」
「いや、割と重要だ。走ってるときに足に裾がまとわりついて、倒れるかもしれないからな」
「…スカートの時はそういうこと言わなかったよね?」
「ふんわりロングスカートだったからな。あれはちょっと摘んで裾を持ち上げておけば、足が動かしやすい」
かすかに恨みのこもった少年の言葉を軽く受け流しながら、ジェインは左手を軽く掲げた。
みしみしみし、と骨の軋む音が響き、見る見るうちに赤黒い鱗と黒い鉤爪が生え揃う。彼女はドラゴンのそれと化した人差し指の鉤爪をズボンの布地に当てると、軽くひっかいた。すると、ズボンの裾が断ち切られた。
「これでちょうどいいはずだ。ほら、あっちで着替えてこい」
「あ、ありがとう…」
少年はジェインからズボンとシャツを受け取りながら、そう応じた。
「それで…ジェインさんはどうするの?ここ、男の人の服しかないけど…」
「よそを探している暇はないからな。ここで適当な奴に着替える」
ジェインはチェストの中をかき回し、手頃なサイズのシャツとズボンを取り出した。
「最初が男物の服だったから、そこまで目新しさはないかも知れないけど…連中にはドレス姿の情報が伝わってるだろうから、多少は欺けるかもな」
すっくとその場に立つと、ジェインは背中に手を回してドレスの紐を解いた。そして袖から腕を抜き、スカートをその場に落として、下着姿になる。飾り気も何もない、胸や下腹を覆う白い布に少年は一瞬目を奪われるが、あわてて顔を背けた。
「うん、こんなものか?」
しばしの衣擦れを挟んでから、ジェインはそう声に出した。少年が顔を向けると、そこにはスラックスにシャツをまとったジェインの姿があった。細身の体を包むシャツのボタンは、上二つが外されており、布の下に押し込めきれなかった乳房が二割ほど覗いていた。
「どうだ?」
「あー…やっぱり、髪の毛が気になるかな…」
シャツの胸元から覗く谷間をちらちらと伺いつつも、イヴァンは全体的な印象を答えた。隠しきれない女性的なラインについては、外套で誤魔化すとしても、彼女の真っ白な髪の毛は帽子でも被らない限り目についてしまうだろう。だが、帽子の中に髪の毛をすべて隠すとなると、その大きさはかなり人目を引くだろう。
「うーん、いつもだったら、適当な塗料で色を付けるんだが…」
「塗料とかなさそうだよね…」
屋敷中をひっくり返せば出てくるかも知れないが、それほどの時間をかける利点はなさそうだった。
「仕方ない、切るか」
「切る?」
ジェインの漏らした言葉に、少年が反応した。
「ああ。このまま髪を隠せるような帽子は少ないからな。短くしてさっぱりすれば、男物の帽子でも楽に被れるだろう」
「いや、でも…」
「髪は女の命だろ…ってか?」
口ごもるイヴァンに向け、彼女はニイと笑って見せた。
「そんな考え、とっくに捨てちまったよ。変装のために髪を切って口元に貼り付けて、ジジイの振りするとかいつものことだ」
「…あれ?」
「どうした?」
不意に首を傾げたイヴァンに、ジェインは尋ねた。
「いや、何でも…それより、ほかにも方法があるんじゃ?」
「オレの白髪頭は大分知れ渡ってるだろうからな。ここらで男装と帽子の合わせ技でもしないと、警備隊の連中の目はごまかせない」
ジェインはシャツの左袖をめくり上げると、腕に意識を集中させた。するとみしみしと骨格の軋む音とともに、皮膚を突き破って鱗が生えそろい、鋭い鉤爪が指先に並んだ。
「よっと…」
ジェインは右手で、髪の毛をうなじ近辺でひとまとめにすると、束の頭皮側にドラゴンの爪を添えた。そして軽く頭髪の束を爪で引っかくにつれ、ブツブツブツと小さな音がいくつも響いた。そして、うなじの辺りでまとめられていた髪の毛が離れ、ジェインの髪型が変わった。
いくらか毛先が不揃いではあるものの、おおむね耳の下ほどでそろえられたショートカットだった。
「うん、軽くなったな」
右手で握った白い毛の束を目の前にかざしながら、彼女はそう呟いた。
「ほ、本当に切っちゃった…」
「なーに、これでかなり変装しやすくなった」
左手を元に戻すと、ジェインは髪の毛の束を軽く結んで散らばらないようにしながら、軽い口調で応じた。しかし彼女は浮かべていた笑みを消すと、手の中の髪束を見ながら続けた。
「だが、問題はこいつだ。ここに捨てていったら、警備隊の連中がここを調べたときに見つかるだろうし…」
「あー、僕が持とうか?」
悩むジェインに、イヴァンはそう声をかけた。
「そうか?助かる。火の中とか、浮島の下とか、警備隊の連中が拾えないような場所で捨てよう」
「う、うん…」
ほんの少し前まで自分の一部だった髪束の処分方法を、特にためらうこともなく口にする彼女に、少年は頷いた。そしてジェインから髪束を受け取ると、彼は軽く指先で撫でてみた。すべすべとした頭髪の感触が、指先に伝わる。
「……」
「これで…よし、待たせた」
袖口の広い外套を羽織り、若干よれた布製の帽子を頭に乗せると、ジェインは少年に言った。
「行くぞ」
「あ、うん」
少年は髪束を撫でていた指を止めると、ズボンのポケットにそれをねじ込みながら、彼女に続いて部屋を出た。
「次はギゼティアの屋敷だな」
「そうだけど…ジェインさん知ってるの?」
「知らない。だが、これを見ろ」
少年が声をかけると、ジェインは低く笑いながら外套の懐から何かを取り出した。彼女の手に収まっていたのは、文字や図版の連なる紙切れだ。どうやら、酒場の二階で入手した雑誌から、ページを破りとったらしい。
「ギゼティアの屋敷で公開実験をするという記事だ。こいつに、実験会場の住所が書いてあった」
「実験会場って…目的地の?」
「そうだ」
ジェインは頷くと、少年に紙切れの一角を指し示した。
「ご丁寧にも、略地図付きだ…これによると、どうやらここから通り何本か向こうの方みたいだな」
略地図を軽く指でなぞり、会場を示す丸印をつつく彼女に、少年は目を丸くした。
「分かるの?」
「飛行船を通りに下ろす直前、ある程度景色を覚えた。島の中央の城から規則正しく通りや路地が伸びているとかだったらお手上げだが、屋敷の並びはそこまで画一的じゃなかったな」
言われてみれば、確かに通りは城を中心としたものだったが、屋敷と屋敷の間の路地はある程度ばらついていたようだった。
「さ、出るぞ」
いつの間にか二人は使用人用の勝手口に近づいていた。ジェインが扉の取っ手を回し、何気ない様子でひょいと裏庭に足を踏み出す。
「あまりビクつくな。あくまで自然に…」
少年が余りに無造作な彼女の所作に声を上げようとしたところ、ジェインは低い声でそう遮った。
「上を見るな。もう飛行船が来ている」
彼女がそうささやくと同時に、裏庭を進む二人に不意に影が落ちた。影は即座に消えてしまい、イヴァンは二人に差していた日の光を飛行船が一時遮ったのだと悟った。
「自然に、自然に…上を見ろ」
「何で…!?」
見るなと言ったかと思ったら、今度は見ろ。朝礼暮改なジェインの言葉に、少年は低い声で抗議した。
「屋敷から出るなり空を見上げたら、飛行船を探してるみたいで怪しい。だけど影が落ちた後なら、空ぐらい見上げるだろ…」
「…」
イヴァンは納得すると、無言のままにヒョイと上空に顔を向けた。青空を背に、大小さまざまな飛行船が空を進んでいる。まるで、イーロ・ファクトなど下の島を警戒していた飛行船が、丸ごとやってきたかのようだ。
「どうしよう…」
「自然に、普通に歩け」
顔を下ろしながらのイヴァンの気弱な言葉に、ジェインはそう応じながら、塀にもうけられた通用門をくぐった。すると二人は、飛行船を荒々しく着陸させたのとは、屋敷を挟んで反対側の通りに出た。
「でも、ギゼティアの屋敷に入るとき、見つかっちゃうんじゃ」
「そのときは…飛行船がゆっくり降りてくる前に、飛行機械を動かせるよう祈るしかないな」
ジェインはそう言ってから、かすかに苦笑いを浮かべた。
「…ねえ、ジェインさん」
「何だ?」
「ジェインさんは、ナムーフの外に出たら何をしたい?」
「そうだな…」
少年の問いかけに、彼女はしばし考えてから答えた。
「とりあえず、あちこち回ってオレがどういう人間だったのか、思い出してみようと思う」
ジェインの体内をかき回す、あの街での記憶が作りものだったとわかった今、曖昧なこれまでの記憶を取り戻したいというのが希望だった。
「そう…」
「どうした?あ、安心しろ。その前にお前が落ち着くまで、一緒にあちこち回ってやるからな」
「いや、そういう訳じゃなくて…」
ナムーフを出た後のことまで面倒を見てくれるというジェインの言葉は嬉しかったが、イヴァンが言葉を濁したのはそのことではなかった。
「じゃあ、何を…いや、待て」
ジェインは少年に問いかけようとして、不意に言葉を断ち切った。
「…感づかれたかもしれない…」
「え?」
「飛行船が一隻、こっちの様子を伺っている。前を見ろ」
ジェインの言葉にイヴァンが目を向けると、確かに通りの前方に楕円形の影が落ちていた。ジェインたちの前方を、つかず離れずといった距離を保ちながら進んでいる。
「太陽がオレ達の後ろにある。だから飛行船が後ろにあれば、オレ達の前に影が落ちるんだ」
「気のせいじゃ…」
「いや、オレ達に合わせて速度を調整しているし…見ろ、影がはっきりしてきた」
ジェインたちの前方の影は、徐々に大きさこそ小さくなってはいるものの、その輪郭が明瞭になっていた。二人に向けてゆっくりと接近しているのだ。
『そこの二人!』
不意に頭上から、男の声が降り注いだ。
「来たぞ…」
ジェインは足を止めると、振り返りながら軽く頭上を仰いだ。イヴァンがそれに倣うと、太陽を背にした小型飛行船が一隻浮いているのが目に入った。
『止まれ!現在、浸食主義者がドゥナル・ポト・ナムーフに侵入した恐れがある!速やかに自宅に入り、浸食主義者が逮捕されるまで待機していなさい』
飛行船から二人に向けて、声が響いた。
「見つかった訳じゃないみたいだな…」
イヴァンにしか届かない程度の囁きを紡ぐと、ジェインは飛行船に向けて軽く会釈した。
「行くぞイヴァン。少しだけ早足で、屋敷に急いで帰るようにだ」
「う、うん…」
少年は歩幅を広げつつ歩調を早めながら、ジェインの後に続いた。
ジェインは前こそ向いていたが、その耳は背後からの音に集中していた。風が塀の合間を抜ける音。どこかの飛行船が風を切りながら前進する音。その中に紛れて、かすかに木材同士がこすれ、軋む音が響いた。ジェイン達の背後に浮いていた一隻が、旋回したのだ。
とりあえず、警備隊の注目から逃れることができた。ジェインは胸をなで下ろしつつ、ほっと息を吐いた。
その瞬間だった。
『そこの二人!』
旋回し、後は離れるだけのはずだった飛行船が、彼女と少年に向けて声をかけた。ジェインの心臓は、その呼びかけによって口から飛び出さんばかりに跳ね上がった。
『我々警備隊が、諸君等を自宅まで送り届ける!その場で待機せよ!』
「ど、どうしよう…」
イヴァンがジェインの外套をつかみ、震えた声で尋ねた。だが、そう言われても、ジェインの方にもこれと言った対策などないのだ。
飛行船に乗った瞬間、一暴れして奪い取る考えが、一瞬ジェインの脳裏をよぎる。だが、小型飛行船のそばには別の飛行船がいくらでも浮いていた。仮にイヴァンの力で加速しても、ろくに距離も稼げないだろう。
「…いや、待て…」
ジェインは意識の端をかすめたアイデアに、声を漏らした。
「イヴァン…一ついいか?」
「何?」
「お前が本気で嵐を作ったら…どのぐらいの大きさのものができる?」
「一応、セントラを包み込むぐらいのものなら…あ!」
ジェインの言わんとするところに、少年は思い至ったらしい。
「嵐を起こして、飛行船の目を逸らせば…!」
「そうだ。できるか?」
「まかせて…!」
イヴァンは小声ながらも、力強く応じると、目蓋をそっと下ろした。すると、ジェイン達の頬を、風が撫でた。二人の前方から背後へと吹き抜ける風は徐々に勢いを増し、湿り気を帯びていく。
『おい、どうした?』
飛行船から、警備隊員の声が響いた。
『風が強くなって、降下できない?そんなこと…』
同僚を叱咤激励しようとする警備隊員の声が不意に乱れる。横風によって飛行船が傾いたためだ。悲鳴のような声を響かせながら、飛行船は風に流されてジェインとイヴァンから徐々に離れていった。
「よし…行ったな…!」
帽子を風に飛ばされぬよう押さえながら、ジェインが言う。つい先ほどまで見えていた青空は、いつの間にか灰色の雲に遮られており、見る見るうちに渦を描きつつあった。そして渦を中心に、飛行船が大きく傾きながら風に流されていた。もはや飛行船は地上に目を向ける余裕はなく、建物や地面に、あるいはほかの飛行船に衝突しないように、イヴァンの作り出した嵐の中で必死になっていた。
「行くぞ!イヴァン!」
強風に加えて、ゴロゴロと音を立てる稲光さえも雲間に現れ始めたところで、ジェインは言った。
「今のうちに、少しだけでもギゼティアの屋敷に近づくぞ!」
「うん!」
嵐を作り出すことに集中しながらも、少年はジェインの言葉に応じた。もっともっと、可能な限り嵐を成長させるのだ。少年の力が限界を迎えても、しばらくは余韻が続くように、可能な限り嵐を育てるのだ。
すると、少年が一歩足を踏み出すと同時に、ジェインが少年に向けて手を伸ばした。嵐の中、少しでも自身が少年を支えられるようにと言うことだろうか。イヴァンは彼女の差し出した手を、ためらいもなく握った。冷たく感じる強風が吹き荒れる中でも、ジェインの手は温かかった。そして、風に向かって、二人は足を踏み出した。
すでに嵐は竜巻の域に近づきつつあり、頭上では幾隻もの飛行船が風の中で弄ばれていた。ほぼ横倒しになっているように見える飛行船があるところを見ると、落下したものもいるかもしれない。イヴァンは横目で嵐の様子を確かめ、かすかな罪悪感を覚えつつも、歩みを止めなかった。
そのときだった。雲間で走った稲光の中に、小さな影をイヴァンは見た。
「え…?」
再び稲光が走るが、影はイヴァンの視界から消えていた。見えるのは雲と、飛行船の影ばかりだ。小さな影など、どこにもない。
気のせいだったのか。少年がそう納得しようとしたところで、ジェインが口を開いた。
「イヴァン!嵐は後、どのぐらい保つ!?」
「えーと、あと二十秒ぐらい!でも、もっと強くできるよ!」
すでに限界は見えていたが、まだまだ育て上げる余裕はあった。うまく行けば、嵐の消滅と同時に無数の飛行船を墜落させられるかもしれない。
しかし少年の言葉に対し、ジェインはやや苦々しい表情を浮かべた。
「二十秒か…イヴァン!走るぞ!」
彼女はそう告げると、イヴァンの手を引きながら、一気に駆けだした。
「うわ…!」
数歩足が空回りするが、すぐにイヴァンはジェインのペースに合わせ、通りを走った。
「どうしたの!?」
「嵐の中に、何か飛んでる!飛行船よりずっと小さくて速い!」
イヴァンが稲光の中に見たものを、ジェインも見ていたのだ。それどころか、見間違いと納得しようとしていた少年と違い、彼女は視界から消えた理由まで見つけていた。
「考えてみりゃ、当たり前だ!ミノタウロスにワーウルフ!人間を魔物にして、力仕事や匂いの追跡に使ってんだ!空飛ぶ魔物ぐらい、用意してない方がおかしいんだ!」
その瞬間、少年の脳裏に垣間見た小さな影が浮かび上がった。それはジェインの言葉通り、翼を広げているようにも見えた。
「イヴァン、急げ!」
嵐の続く限り、少しでも距離を稼ごうとしているのか、彼女は少年の手を引く腕に力を込めた。
飛行船に目を付けられるまでと、この嵐の中でそれなりにギゼティアの屋敷には近づいている。嵐が収まれば『ハーピィ』に見つかるのは確実だが、飛行船や警備隊が体勢を立て直すまで時間はある。ハーピィぐらいならジェイン一人でどうにかなるはずだ。
「ジェインさん…もう…!」
走る少年が、苦しげな声音を漏らすと同時に、彼女は風が弱まりだしたのを感じた。目も開けていられぬほどの強風が見る見るうちに穏やかなものになり、地面に影を落としていた分厚い雲からは、早くも日の光が射し込んでいた。
「まだだ…!」
雲はまだ渦を描き、一度強風によって勢いの付いた飛行船は螺旋を描くように空を巡っている。まだ、地上に目を向ける余裕はないはずだ。
「はぁ、はぁ…!」
嵐を作り出した疲労と突然の走行により、いくらか乱れていた少年の呼吸が不意に途切れた。ふと空を見上げた彼の視界を、影が一つ横切っていったのだ。
徐々に薄まる灰色の雲を背に、飛行船の合間を縫うようにしてよぎったのは、確かに翼を広げるなにかだった。
「ジェインさん、もう…!」
「よそ見をするな!もうすぐだ!」
ジェインが吠えるように叫んだことで、少年は気が付いた。ジェインの足は、もはや空から身を隠せる路地などではなく、目的地に向かっているのだ。嵐と空を舞う影のせいで気がそれていたが、既に二人はギゼティアの屋敷にほど近いところまで来ていたのだ。
「あそこだ!」
辺りの屋敷の敷地に比べれば、かなり幅の狭い一角に向けて、ジェインが声を上げた。あそここそ、ギゼティアの屋敷のはずだ。
あそこに入れば、飛行機械が、ナムーフの外が。
「イヴァン、掴まれ!」
「うん!」
通りを進みながら、イヴァンは傍らを走るジェインに何のためらいもなくしがみついた。すると彼女は、少年の重みなど感じないかのように右足で力強く通りの石畳を踏み抜いた。その反動で彼女の体が浮かび上がる。もちろん、塀を飛び越えるには高さが足りない。だが、問題はなかった。
「はっ!」
気合いとともに、ジェインの左足が高々と振り上げられる。瞬間、彼女のズボンの裾から白い触手が四本溢れだし、塀の上部に並ぶ忍び返しの鉄棒に絡み付いた。触手の筋肉は一気に収縮し、主とその体にしがみつく少年の体重を軽々と引き上げた。二人の体は、一瞬のうちに塀を飛び越え、ギゼティア邸の敷地に入り込んだ。
同時に、忍び返しに巻き付いていた触手がほどけ、二人の体が虚空へと投げ出される。重力に囚われて落下する間、少年は幾度となく味わった浮遊感を覚えた。落下しているにも関わらず、少年の意識はふわりと虚空を漂うような気分を覚えていた。
そして、一秒にも満たぬ落下を経て、二人は敷地内の伸び放題の芝生の上に着地した。
「…ちっ…」
すると、ジェインが小さく舌打ちした。
イヴァンは彼女の舌打ちの理由が分かっていた。
あれだけ苦労したというのに。あれだけ飛び回り、走り回ったというのに。二人の前方、ギゼティアの屋敷を遮るように、一隻の飛行船が着地していたのだ。
「やはり、私の読み通りだったな!」
飛行船を背に並ぶ警備隊員達の前で、男が嬉しそうに声を上げた。
「ロプフェル…」
「巨大な飛行船でも、ナムーフの防壁は突破できない。ならば、突破できる方法を探し、ギゼティアのガラクタを知るはずだ」
ロプフェルはそう推測の経緯を口にすると、ニヤリと笑みを浮かべた。
「残念だったな!飛行機械での脱出は無理だ!」
「この野郎…」
「ああ、誤解するな。我々はまだ、ギゼティアの飛行機械に対してなにもしていない。それどころか、屋敷の中にすら立ち入っていない」
「…何のつもりだ…?」
ジェインは思いつく限りの可能性を脳裏に浮かべながら、問いかけた。
「なあに、ギゼティアとの協定の一つだ。奴がこのナムーフの浮遊基礎を作り上げる代わりに、私は奴に住居と研究所を作り、過剰に干渉しないと取り決めたのだ」
「こうやって敷地に入っているのは違反じゃないのか?」
「ナムーフの治安を乱す犯罪者を追って、敷地に短時間入り込んだだけだ。屋敷の中に入り込んだわけじゃあない」
ロプフェルはそう言うと、笑った。
「さて、浸食主義者よ。投降するがいい」
「へ、誰がするか…それにこっちにだって、事情があるんだよ」
「奇遇だな。私もだ。浸食主義者をこのナムーフに置いておくことはできないし、かといってナムーフを知るものを地上へ逃がすわけにも行かないからな」
「じゃあ何だ?殺すってのか?」
「最終的には、な。ただ、君の体質にセントラの研究者が興味を持っているらしく、そこの子供共々捕縛して引き渡すことにした。奴らのもたらす利益を考えれば安いものだ」
「利益…?」
「ギゼティアは飛行機械以外に興味がないらしくてな。これで、セントラの連中を完全に私の下につけることができる」
セントラの研究者。無人のセントラ研究島。ジルによって植え付けられたと思しき、作られた記憶。そして、ロプフェルと研究者の取引。
ジェインはその瞬間、それらが繋がるのを感じた。
「そう言うことか…」
ジェインは悟った。彼女に記憶を植え付けた『依頼主』の正体と、ロプフェルを影から操る者の正体が同一であることを。
この依頼は、ジェインに投与した記憶を操るジルの効能を探るための者だったのだ。研究者はジルを与えたジェインを放置し、ジルの効能だけでどこまで行動できるかを探っていたのだ。そして、後始末はロプフェルと彼の警備隊に任せるのだ。
「ナムーフの繁栄の礎になるがいい」
「それにしては、少々人数が足りないんじゃないか?」
「できるさ」
ロプフェルはそう口にした。その言葉には、ジェインを確実に取り押さえられるという自信に満ちていた。
「なら、勝負だ…!」
ジェインは左腕と右足に、同時に意識を集中させた。シャツと外套、ズボンを引き裂きながら、鱗に覆われた腕と白い触手が露わになる。
(相手は、八人か…)
ロプフェルの背後に控える警備隊員の人数を数え、ジェインは胸中で算段を立てた。このエイドの人数ならば、触手だけでもどうにかなるはず。しかし、わざわざロプフェルが背後に控えさせているところを考えると、何らかのジルを使用している可能性が高い。
「イヴァン、下がってろ」
あたりをざっと伺い、ほかに警備隊員が隠れられそうな場所が存在しないことを確かめると、ジェインは少年に向けて言った。
「ジェインさん、実は…」
「後で聞く。連中を叩きのめして、飛行機械に乗ってからな」
必ず勝つ。暗にそう約束しながら、彼女はイヴァンの言葉を遮った。
「さーて…」
イヴァンの嵐から飛行船が立ち直る前に、決着をつけねば。ジェインは右足の触手を一歩踏み出し、鱗と鉤爪の生えた左手で拳を作った。
だが、警備隊員たちはロプフェルの背後に控えたまま、動かない。実際に動いたのは、ロプフェルの方だった。
「チャアアアアアアアアァァァァァァァァルズゥゥゥゥゥゥゥ!!」
彼は大きく口を開き、言葉を紡ぎだした。間延びした一声が、人名であることにジェインは遅れながら気が付いた。
同時に、彼女の耳を音が打った。旗を勢いよく振ったときのような、空を打つ音だ。
「まさか…!」
ジェインが空を見上げると、青空が覗き始めている雲の合間を、影が一つ舞っているのが目に入った。嵐の中を悠々と舞っていた影だ。だが、影は空中散歩と言った様子ではなく、まっすぐにジェイン達の方に向けて突き進んでいた。
そして、数秒の後、ジェインとロプフェルの丁度中間に、影が舞い降りた。片方だけでも人の背丈ほどはありそうな大きな翼を二度、三度と打ち鳴らし、影は地面に足を着けた。
すっくと身を起こし、警備隊員の制服を改造したと思しき、袖のない上着と太腿半ばの丈しかないズボンを纏い、制帽を目深に被ったその姿は、おそらくハーピィであった。おそらくとつけたのは、右腕のみがハーピィの最大の特徴である翼になっていたからだ。左肩から生えているのは、人間のそれと代わりのない左腕だ。ただ、胸から腹にかけてを締め付けるコルセット背部から大きな翼が生えている。金属と思しき骨組みに布が張られており、左手がその取っ手を握っていた。
「これはチャールズ。私の優秀な護衛だ」
「……」
ロプフェルの言葉を背に、チャールズと呼ばれた。人物は無言でジェインを見つめていた。
「チャールズ?」
ロプフェルの言葉を、ジェインは思わず繰り返した。なぜなら彼女には、今し方舞い降りてきた人物の姿が、女にしか見えなかったからだ。線の細い整った顔立ちに、服の上からでもそれと分かるほどの胸元の膨らみ。そして腰回りのくびれから尻を通り、ズボンの裾から覗くむき出しの太腿へと続く曲線は、完全に女性のそれだった。
「元は男だ。だが、セントラの連中に預けて徹底的に強化させたところ、こうなったのだ」
ロプフェルがジェインに向けて説明する。
「セントラの連中の唯一すばらしいところは、こうして魔物どもを完全に制御できるところだ。特にチャールズは、白衣連中も舌を巻くほどの逸材で、こんな姿になっても私に仕えてくれる」
「へ…ごたいそうなこって…でも、ハーピィぐらいで、オレをどうにかできるとでも思ってるのか?」
空からの登場に驚いたものの、ジェインはチャールズの戦力をそう高くないと踏んだ。嵐の中でも風に乗っていた飛行技術には舌を巻くが、それだけではジェインを倒せないからだ。
「試してみるか?」
「勿論…!」
「よし…チャールズ、やれ」
ロプフェルの命令と同時に動いたのは、ジェインだった。姿勢を倒し、『ドラゴン』の左腕と『クラーケン』の右足で、思い切り地面を叩いた。反動で彼女の体が撃ち出され、一直線にチャールズに接近する。
「……」
迫るジェインに対し、チャールズは無言で両腕を動かした。右腕の翼と、左腕で操る人工の翼が同時に空を打ち、彼女の体を空中へと舞い上がらせた。一度の羽ばたきでチャールズの体はかなりの高度に達し、ジェインの突進が空振りになるどころか、彼女が思いきり地面を蹴っても届かぬほどになった。
だが、それもジェインの思惑通りだった。
「はぁっ!」
チャールズが立っていた場所に向け、ジェインはもう一度『ドラゴン』の左腕を繰り出した。むき出しの地面を黒い爪が大きく抉り、その反動でジェインの突進が加速する。彼女の突進の先にいるのは、ロプフェルだ。チャールズがどこへ逃れようと、ロプフェルを押さえてしまえば問題はない。
「な…!?」
護衛と浸食主義者の決闘を見物するつもりでいたロプフェルは、ジェインの突進に顔色を青くした。だが、ジェインがロプフェルに到達する遙か手前で、空中にいたチャールズが一つ羽ばたく。ばさり、と二種類の翼が同じような音を立てると、彼女の体は一つの砲弾のようにまっすぐに、ジェインに足を向けて突き進んだ。羽ばたきの勢いに落下の加速を加えたことで、ジェインがロプフェルに至るよりも早く、チャールズは主を狙う敵の元に達した。背中から首筋までをさらすジェインに向け、チャールズは勢いよく蹴りを繰り出した。
人一人分の体重に、落下と羽ばたきの勢いを加えた即死の一撃。
そのはずだった。
「へ…」
ジェインの顔が横を向き、肩越しに視線だけを送っていることに、チャールズは気が付いた。ジェインの攻撃を予測し、反応しようとしているのだろう。だが、なぜ笑う?秘策があるのだろうか?チャールズの胸中をいくつかの疑念が巡った瞬間、チャールズは折り畳んでいた翼を広げ、自身の勢いを殺そうとした。チャールズのとっさの行動は効を奏し、ジェインの背中に叩き込むはずだった蹴りが止まった。だが、ジェインの右足から伸びる触手から逃れるには、もう一つの羽ばたきが必要だった。
湿り気を帯びた白い触手が、チャールズの右足のつま先から膝までを絡めとる。膝から下を巻き付いた『クラーケン』の触手は、力を込めてチャールズの足を締め上げた。
「これで…!」
触手の力だけで、ジェインはチャールズの体を自身の前方へと叩き付けようと振った。ジェインの体が急制動し、代わりにチャールズが加速する。
「…!」
一気に迫る地面に向け、チャールズは再び翼を広げ、一息に空を打った。大きな二種類の翼が風をとらえ、大きな反動をチャールズにもたらした。結果、チャールズの足がジェインの触手の間から抜け、彼女は再び空中へと逃れることとなった。
「く…!?」
急に軽くなった触手の動きを止める。ジェインの白い表皮は土に触れる寸前で踏みとどまり、空振りに伴う衝突を回避した。そしてドラゴンの右手を地面に突き立てると、彼女はロプフェルへの突進の勢いを完全に殺した。
ジェインが自在に空中へ逃れることを見越し、ロプフェルを狙っているように見せかけ、さらにジェインへの攻撃に対して何らかの秘策を持っているかのように振る舞い、ようやく隙を作り出したのだ。その隙を突いての攻撃を回避されてしまった今、チャールズの裏をかくのは相当困難になるだろう。
だが、ジェインの胸中にあったのは悔しさはなかった。
「何だ、今の…?」
触手と化した右足の表皮に残る感覚に、彼女は思わずつぶやいていた。ジェインの触手からチャールズが逃れる瞬間、ぬるり、としか表現しようのない、奇妙な滑りを感じたのだ。まるで、ウナギが指の間からすり抜けるようであった。ジェインの脳裏をよぎったのは、あまりの締め付けにチャールズの足の骨が砕け、右足が軟体動物のように触手から逃れた可能性だった。
だが、ジェインの視線の先で羽ばたくチャールズの両足は、バランスをとるためか僅かに膝を折り曲げており、骨格に何の異常もないことを示していた。
「チャールズ!とっとと片づけろ!」
ジェインの突進に肝を冷やしたロプフェルが、チャールズに向けてそう命じた。するとイヴァンは、制帽の下から除く視線をちらりと主に向けてから、ばさりと翼を打ち鳴らした。空打ちの反動で彼女の体が一瞬上昇し、その勢いのままに再度ジェインに向けて下降する。今度は足ではなく、顔を向けている。
(顔面から突っ込むつもりか?)
ジェインは降下してくる相手の真意を探りつつも、左肩から延びる人造の翼の縁が、雲間から差し込む日の光を浴びて妙な輝きを帯びたのに気がついた。まるで濡れたような、微かな青みを帯びた冷たい輝き。
その輝きが、ジェインの脳裏でかつて見た物と結びつく。刃物だ。鋭く研がれた、刃のそれだ。
やはりハーピィの翼を補うためだけの道具ではなかったのだ。
(面白ぇ…!)
興奮と集中により、妙にゆっくりになった中、ジェインは口の端を獰猛につり上げた。そして瞬時に、どう行動すべきか算段を立てる。
屈んだり、後ろや横に逃れるぐらいでは、翼の刃から逃れることはできないだろう。幅があるため、左に飛んで翼の範囲からでることも難しい。ならば、顔はどうだ?構造上、チャールズの人造の翼より頭は前にでている。『ドラゴン』の左手を使えば、最悪でも相打ちに持ち込めるだろう。
そこまでの思考を一瞬で組み上げてから、ジェインは左足を軽く引いて半身になった。チャールズとの衝突の瞬間、踏み込みとともに左腕を繰り出すためだ。だが、狙うのは頭ではない。左の翼だ。
斬られるよりも先に、『ドラゴン』の鱗に覆われた左拳でもって、刃ごと翼を叩き折ってやるのだ。
「…」
ジェインの構えに、チャールズの制帽の下の瞳に一瞬光が走る。そして彼女はジェインの首筋に狙いを定め、微かに姿勢を傾けた。
ジェインとチャールズ。互いに翼と首筋を狙い合いながら、二者の距離が縮まっていく。
相手の表情が伺える距離だったのが、相手の視線をたどれる距離になる。
相手の視線をたどれる距離だったのが、相手の吐息さえも聞こえるほどの距離になる。
そして、相手の瞳に映る自身の姿さえもが見えるほどの距離になった。日の光を照り返す刃が、ジェインの腕の届く間合いから、金属の冷たさを肌で感じられるまでに縮まった瞬間、ジェインは弾かれたように動いた。左足を踏み込みつつ、腰だめに構えていた拳を、一気に翼の骨組みめがけて突き上げたのだ。
ジェインの首筋とチャールズの刃が急接近し、彼女の皮膚に刃が浅く食い込むかというその一瞬、ジェインの右腕を衝撃が貫き、チャールズの急降下が止まった。
ジェインの拳が、当たったのだ。
だが、チャールズの左背部から生えた金属の骨組みは、ジェインの拳によってひしゃげるどころか、ヒビ一つ入っていなかった。いつの間にか左翼の取っ手からチャールズは指を離しており、自由になった左手でジェインの拳を受け止めたのだ。
「オレの拳を…!?」
分厚い鱗越しに感じるおぼろげな手の感触に、ジェインはそう判断を下す。だが同時に、ジェインはその判断を信じきれなかった。チャールズの急降下の勢いに、ジェインの体重を乗せた拳の一撃。その二つの衝撃を受けたはずの両者の左手に、負傷の気配が全くなかったからだ。
『ドラゴン』のジルにより、強靱な鱗と骨格を手に入れたジェインはまだしも、人間のそれそのものであるはずのチャールズの左手さえもが無事なのだ。首筋に浅く食い込む刃と翼の下で、いったいなにが起きているのか。ジェインが疑問を浮かべた瞬間、チャールズの左背部から生えた人工の翼が、軽やかな金属音をたてながら折り畳まれていった。ピンと張られていた布を畳みながら骨組みが折れ曲がり、チャールズの背中に甲羅のように張り付く。格納と同時に翼の下から現れたのは、鱗に覆われた左腕だった。
分厚く赤黒い鱗に覆われたジェインの腕と、肌に張り付くような緑色の鱗に覆われたチャールズの腕の、二つだ。
「な…!?」
ジェインが驚きに声を漏らした瞬間、チャールズは肩口まで鱗に覆われた右手を折り曲げ、右腕を抱き寄せるようにして、ジェインの体に組み付いた。
警備隊員の制服越しに、チャールズの胸部の膨らみがジェインの左手に押し当てられる。チャールズの右腕はいつの間にか人間のそれに戻っており、拳をつかむ右手とともに、完全にジェインの右手を拘束した。そして、チャールズの両足が俊敏にくねり、ジェインの首筋を前後から締めあげようとする。本来なら地面に転がって行うべき組技を、スピードだけで立ったままかけようとしているのだ。
「させるか…!」
ジェインは意図的にバランスを崩し、左手から地面に倒れ込もうとした。だが、チャールズの頭が地面に達するよりも早く、彼女の右足がジェインの首筋に巻き付いた。膝を折り曲げ、太腿とふくらはぎで挟み込んでいるのではない。文字通り、右足がぬるりとジェインの首に纏わり付いているのだ。
「っ!?」
ジェインは自身の首筋の感触に驚くあまり、転倒しつつあったのを踏みとどまった。
首に巻き付く右足が、本格的に力を込める直前、ジェインはとっさに自身の右手を首と足の間に滑り込ませた。彼女の指に触れたのは、手首ほどの太さの柔らかで温かな棒状の何かが、数本束ねられたものだった。
直後、ジェインの首筋をチャールズの右足だった物が締め上げる。
「か…!」
右手ごと首を絞められ、彼女が口から吐息を漏らすと同時に、左手をつかんでいたチャールズの手が離れる。そしてチャールズは右足でジェインの首を締め上げたまま、ちょうど肩車でもするかのように姿勢を変えた。急なバランスの変化と呼吸困難により、ついにジェインはうつ伏せに組み伏せられてしまう。
「…っ…!」
呼吸を絶たれ、急速に不鮮明になっていく意識の中、ジェインは自由になった左腕でもって地面を打ち、首の裏にまたがるチャールズごと仰向けになろうとした。だが彼女の腕が地面に爪痕を残す寸前、チャールズは腰を浮かして触手をゆるめた。結果、ジェインのみが空転し、再度締め技を受けることになる。
「…っは…!」
それでも一回分の呼吸を辛うじて稼いだジェインは、今度は右足の触手を動かした。四本の触手が、チャールズの右手、左手、背中に頭部を狙って接近する。だが、チャールズは軽く身をひねると、緑の鱗に覆われた左手を一閃させた。
打撃音が三つ鳴り響き、ジェインの触手に痛みが三つ走る。とりあえずチャールズに触れようとしていた触手の内三本が、チャールズの拳を受けて逸れたのだ。では残る一本は?残る一本は、ジェインの狙い通り、チャールズの頭部に触れていた。触手づたいの柔らかな感触に、彼女はその正体を確かめる前に、思い切り吸盤を吸い付かせた。すると、大した抵抗もなく、チャールズの被っていた制帽が、ジェインの触手によってはぎ取られた。もう少し落ち着いていれば、帽子ではなく直接頭を狙えたはずだというのに。しかし、ジェインの胸中にあったのは後悔ではなく、驚愕だった。
チャールズの制帽の下から溢れたのが、まばゆいばかりに日の光を照り返す、銀色の髪だったからだ。
緑の鱗に覆われた『リザードマン』の左腕。
幾本もの触手が寄り集まった『スキュラ』の右足。
そして、ジェインと同じ銀色の髪。
余りに多すぎる相似に、ジェインは混乱と驚愕に心中を支配されていた。
「どうだ、驚いたか!?」
ロプフェルの声が、ジェインの耳に届いた。
「ジルが開発されてからというものの、私は白衣連中にチャールズを預け、徹底して強化させたのだ!結果、姿こそ変わってしまったものの、魔物の肉体に人の精神を備えた、私に忠誠を誓う最強の護衛が生まれたのだ!」
そしてそこに、徹底した戦闘訓練の技術が組み込まれている。ジェインは胸中でそう付け加えた。
「貴様を見たところ、白衣連中もチャールズを参考に、それなりのものは作り出せるようになっているようだな」
確かに、ジルでもって記憶を植え付けることができるなら、肉体を改造するジルで、チャールズに匹敵する素養を植え付けることもできるだろう。自身の容姿さえもが作りものかもしれないという可能性に、ジェインは小さくはない衝撃を受けていた。
「が…所詮はまがい物だなあ?」
ロプフェルはどこか楽しげにそう言うと、急に語気を鋭く命じた。
「チャールズ!そのまま上がれ!」
ロプフェルの指示に、ジェインにまたがるチャールズが両腕を広げた。左背部から生える人造の翼が展開し、まっすぐにのばした右手が音を立てながら伸び、翼を形作っていく。そして、人造翼の取っ手を左手で握り、右腕に羽根が生えそろったところで、チャールズは大きく両翼を上下させた。
風が巻き起こり、ジェインとチャールズの二人の体が持ち上がる。
「んぐ…!?」
首筋に巻き付く触手に首を絞められそうになり、思わずジェインは両腕でチャールズの腰にしがみついた。その間にもチャールズは淡々と羽ばたき続け、ついには屋敷の屋根よりも高い位置へと上っていた。
「ははははは!チャールズ!お前が何年もかけて築き上げてきた、『本物』を見せてやれ!お前の努力の上澄みをすするだけの白衣連中や、まがい物の浸食主義者を叩きのめしてやれ!」
ロプフェルの言葉に、チャールズは小さく頷いた。そして一際強く翼を打ち鳴らすと、彼女はまっすぐに屋敷に向けて突っ込んでいった。
壁面や屋根にたたきつけるつもりなのだ。
「…!」
ジェインは首筋の触手をほどこうとするが、いまいち力が入らない。『ドラゴン』の鉤爪で触手を切ることも考えたが、それでは直接地面に落下してしまう。
(ぎりぎりのところで、切ってやれば…!)
壁面にたたきつけられるよりも前、地面に落下しても無傷ですみそうなところを狙えば。ジェインはそう算段をたてた。
だが、ジェインが微かに目の端に映る地面を頼りにタイミングを見計ろうとする一方で、チャールズが不意に進路を変えたのだ。降下しつつあった体を、上空へと持ち上げる。
「な…!?」
姿勢が変わる一瞬、ジェインの目に空が映る。そこにあったのは、順調に散り消えつつある雲と青空などではなく、妙に黒い雲空だった。しかも、ちょうどこの屋敷を中心に渦状の筋が描かれている。
「イヴァン…!?」
「ジェインさん!!」
のどに触手が食い込むせいで、掠れた囁きのようなジェインの声に応じるように、イヴァンは彼女を呼んだ。
「チャールズの髪が白いのは、魔王に近づいてるからだよ!」
渦巻く雲を作り上げながら、イヴァンは声を張り上げる。
「魔物のジルをたくさん使えば、魔物が少しずつ持ってる魔王のジルが蓄積して、魔王に近づくんだ!だけど、いつか魔王に近い魔物を調べないといけないって、リィドさんから聞いたんだ!」
窒息寸前で、薄く霞み始めたジェインの思考に、イヴァンの言葉は深く染み込んでいった。
「ジェインさん!魔王の娘の髪の毛は、みんな真っ白なんだ!」
その一言に、ジェインの胸中にある考えが浮かんだ。
「今まで言えなかったけど、ジェインさんは、まがい物なんかじゃない!ジェインさんが、オリジナルなんだ!ジェインさんは…!」
瞬間、上空の雲から響く雷の音や頬をなでる風に紛れて、イヴァンの言葉は彼女に届かなかった。だが、ジェインにはイヴァンの言わんとしていることが、よくわかった。
なぜ自分の記憶がジルによっていじられていたのか。
なぜ自分の体にジルがよく馴染み、チャールズのように部分的な変化が起こっているのか。
なぜチャールズが時折、自分の白い髪の毛を見ていたのか。
すべてが分かった。
ジェイン自身が、魔王の娘だったのだ。
「おい、そのガキを取り押さえろ!」
ロプフェルが遅れながら、控える警備隊員たちに命じた。
「チャールズ!もっと上空から、そのまがい物をたたき落とせ!」
続くロプフェルの命令にチャールズは頷くと、力強く翼を羽ばたかせ、上空へと舞っていった。
「うぐ…!」
ジェインはうめきながらも、必死に脳裏の残る意識の断片をかき集め、体を動かそうともがいた。だが、チャールズの右足から生えるスキュラの触手は、彼女の首に食い込み離そうとする気配がなかった。イヴァンの起こす嵐は徐々に強まりつつあるが、チャールズが風に翻弄される可能性は低い。
このままでは、嵐の中に放り出され、下手すれば遙か下方の浮島まで墜落するかもしれない。
せめて、チャールズだけでも相打ちに持ち込まなければ。
「うぅ…!」
ジェインはチャールズの顔に向けて、右腕を伸ばしていた。具体的になにをどうしようと言う考えはない。ただ手をかざしただけにすぎない。徐々に強まっていく風に指先が震え、チャールズの制服の胸の当たりに触れる。だが、力はこもらず、つかむことすらできなかった。
「……」
チャールズはちらりとジェインを見下ろすと、何の影響もないと言った様子で大きく羽ばたいた。嵐の中心、渦巻く雲の目を目指し、チャールズは高みへ、高みへとジェインを導いていく。
『ドラゴン』の左腕ではチャールズの触手を切断するぐらいのことしかできず、『クラーケン』の触手ではチャールズをとらえる前に空に放り出されてしまう。何か、チャールズを相打ちに持ち込めるような方法があれば。
ジェインが必死に頭を働かせる中、雲間に稲光が走った。雷が辺りに満ちている。その瞬間、彼女の中で何かがつながった。同時に、ジェインは右腕の皮膚が粟立ち、皮膚の表面を痺れが走るのを感じた。遅れて、ジェインの腕の表面で産毛が逆立つのを、彼女は皮膚越しに覚えていた。
(産毛…?)
ジェインの腕の肌はつるりとしており、産毛など生えていないはずだった。だが、確かに袖の下では、皮膚表面が淡く揺れるような感覚が合った。
直後、ジェインの腕がみしみしと音を立てて伸び始めた。二の腕、前腕、指。それらの骨が伸張し。形を変えていく。同時に、袖口からのぞく皮膚の毛穴を押し広げ、太い針のようなものがのぞき始めた。いや、針ではない。針状の鞘の下から顔を出したのは、青みを帯びた羽だった。ジェインの右腕が、チャールズのようにハーピィの翼に変化しつつあった。
ジルも飲んでいないのに、なぜ?
彼女の胸中に疑問が湧くが、戸惑っている暇はない。ジェインはこの翼がハーピィのものでないことと、どうやって使えばいいかを同時に悟っていたからだ。
青い羽根を生え揃わせた翼を、ジェインはチャールズの顔に向けて伸ばした。同時に、ジェインの青い翼の表面を、かすかな痺れとともに火花が走った。
「…!」
チャールズの目が見開き、彼女はスキュラの触手をゆるめてジェインから離れようとした。だが、彼女の触手が動く前、それこそ『触手をゆるめよう』と言う考えが四肢に伝わるよりも先に、ジェインからチャールズに向けて、雷が落ちていた。
サンダーバードの翼が生み出した雷は、チャールズの体を貫き、渦巻く雲へと複雑に折れ曲がりながら達する。そして雲間で輝く稲光を束ね、増幅し、ドゥナル・ポト・ナムーフのあちこちへと降り注いでいった。
黒雲から仮初めの地面へ、合間に浮かぶ飛行船を経由しながら、雷が辺りを白く染め上げていった。
そして後には、余りに大きな雷音に聾した耳だけが残った。
「……」
キィーン…という耳鳴りだけが響く中、チャールズはジェインを触手でとらえ、翼を広げたまま虚空に浮いていた。そして数瞬の後、チャールズの備えていた二種類の羽根が生み出していた風を失い、二人は落下を始めた。
「うぉ…!く、離せ…!」
目を開けたまま気を失っているらしいチャールズに、ジェインはそう言いながらスキュラの触手を引き剥がそうとした。しかし、彼女の触手は首筋に食い込みこそしていないものの、がっちりと巻き付いており、簡単には引き剥がせなかった。
ジェインの眼下、いつの間にか小さくなっていたギゼティアの屋敷が、見る見る内に大きくなっていく。このままでは、二人まとめて屋根に叩きつけられてしまう。
「…仕方ねえ…!」
ジェインは呻くように呟くと、『サンダーバード』の翼を大きく広げた。片翼のため、風をとらえて空を舞うことはできないが、それでも落下の勢いはいくらか殺せる。加えて、空中で姿勢を整え、ジェインは地面と自分の間に、チャールズを据えた。
「…!」
落下の寸前、広げていた『サンダーバード』の翼を折り畳み、代わりに『ドラゴン』の拳をチャールズの脇から突き出す。落下の勢いよりも早く打ち出された拳は、屋敷の屋根を打ち据え、ジェインとチャールズに反動をもたらした。しかし拳の一撃で罅の走った屋根は二人分の体重と衝撃を受け止めきれず、屋敷の中へと二人を迎え入れた。
衝撃と落下と衝撃。屋根はおろか、屋根裏の床、天井、床と交互に建材を打ち砕きながら、二人は落下を続けていく。
そして最後に、一際強く床に叩きつけられてから、二人の落下は止まった。
「…ごほっ…げほ…!」
舞う埃と、立て続けの衝撃による横隔膜のけいれんに、ジェインはせき込んだ。いくらかあちこちが痛むが、問題はない。
「げほ…!」
ジェインは『スキュラ』の触手に指を添えると、力に任せてそれをほどいた。そして、仰向けになったまま微動だにしないチャールズをそのままに、よろめきつつも立ち上がった。
「こ、こは…」
薄暗い室内を見回していると、ジェインに向けて光が降り注いだ。天井を仰ぐと、今し方ジェインたちが作り出した天井の穴から、日の光が降り注いでいた。
チャールズの力が再び限界を迎え、雲が途切れていったのだ。そして射し込む光は、ジェインたちが落下した部屋の様子を照らしていた。
ジェインたちのすぐそばに鎮座していたのは、金属でできた巨大な樽のようなものだった。
「こいつが、飛行機械…?」
辺りに転がる工具や、壁に貼られた設計図のようなものから、ジェインはそう推測していた。
「…!イヴァン!」
チャールズとの対決と、落下、そして飛行機械の発見に紛れていたが、ジェインは不意に少年のことを思いだしていた。飛行機械を見つけても、彼がいなければ意味はないからだ。ジェインが最後に覚えているのは、チャールズを捕らえようとする警備隊員の声だ。
「今、助けるからな!」
倒れたままのチャールズをそのままに、ジェインは部屋の中をぐるりと見回し、扉に向けて駆け寄った。
だが、ジェインが達する遙か手前で、扉が開いた。
「この、放せ…!」
「イヴァン!」
警備隊員に腕を背中の方へ捻られる少年の姿に、ジェインは彼の名を呼んだ。
「貴様ら…!」
ジェインは扉の向こうの警備隊員たちをにらみながら、両手と右足に意識を集中させた。『クラーケン』の触手、『ドラゴン』の左腕、『サンダーバード』の右翼。ジェインは疲労困憊していたが、それでも連中に負ける気はしなかった。
しかし、彼女が躍り掛かる前に、警備隊員の向こうから拍手の音がした。
「へ…?」
「おめでとう」
突然の拍手に動きを止めるジェインの耳を打ったのは、聞き覚えのある声だった。
すると警備隊員が、半ば突き飛ばすようにイヴァンを解放し、左右に分かれて道を作った。
「お前…!」
人垣の向こうに立っていた人物の顔に、ジェインは目を見開いた。
燦々と日の降り注ぐ青空の下、何隻かの飛行船が空を飛んでいた。悠々とした空中散歩と言った風情だが、ゆっくりと、しかし着実に先頭の一隻が後続の飛行船から距離を離していた。
膨れ上がった皮袋の下、舵輪を握りしめているのは白髪の女だった。ドレスのスカートがはためくのもかまわず、歯を食いしばり、船首のその先をにらむようにしながら飛行船を操っている。
彼女は必死だった。だが、追っ手の飛行船との距離を設けているのは、彼女の努力だけではなかった。彼女の傍ら、ドレスに包まれた腰にしがみつく少年が、必死に意識を凝らしていた。
「イヴァン!限界なら休んでいいぞ!」
「もう少し…いける…!」
腰にしがみつく少年に向けてジェインが声をかけると、彼は絞り出すような声で応じた。飛行船を後押しする風を起こしているのは、少年の生まれ持った力によるものだ。だが、その力もそうそう連続して使い続けられるものではない。だが彼は、瞬間的な強風を吹き起こし、突風の勢いが殺されぬうちに次の風を起こすという、寸断した気象操作で連続的な加速を行っていたのだ。
だがもちろん、その負担は彼にのしかかっていた。
「う…」
「イヴァン!?」
少年が漏らしたうめき声に、ジェインが応じる。
「大丈夫か!?」
「だ…大丈夫…!」
少年は低い声で応じた。
「距離は十分稼いだ!ドゥナルまで余裕だ!」
彼女は少年を休ませようと、声を張り上げた。
「でも、ドゥナルに到着すればおしまい…じゃないでしょ?」
少年が、どこかぎこちない笑みを浮かべながら続ける。
「ドゥナルに入って、ギゼティアの家を探さないと…」
「ここでお前が倒れたら、ナムーフの外には出られないぞ1?」
浮遊都市ナムーフ。天空に浮遊するいくつもの人工の浮島の中で、最も高い位置に浮かぶドゥナル・ポト・ナムーフ。二人がそこを目指しているのは、この浮遊都市から脱出するためだった。
だが、ここで少年が倒れてしまったら、これまでの二人の行為に意味がなくなってしまう。なぜなら今、ジェインは少年のためだけに、ナムーフの外を目指しているからだった。
「大、丈夫…!」
少年は幾度目になるかわからない返答をした。実際のところ、すでに通常の限界は迎えている。だが、ジェインとの逃避行を成功させるためにも、少しだけでも距離を稼がなければならないからだ。
ジェインはこれまで、『仕事』のために少年をナムーフから連れ出そうとしていた。だが、彼女の仕事をする理由になっていた過去の罪が作りものだとわかった今、ジェインはただ少年のためだけにこうして飛行船を操っているのだ。物心ついてから、ずっと浮遊都市の一角に閉じこめられていた少年にとって、外、それも浮遊都市の外はあこがれであった。
だが今となっては、こうして少年のためだけに努力してくれるジェインの存在が嬉しかった。そして、ジェインの努力が実を結ぶよう、イヴァンも可能な限り助力することを決めていた。
「もうすぐだ…!」
不意にジェインが声を漏らした。
前方に目を向けると、遙か上空に浮いていたはずの巨大な浮島が、少し手を伸ばせば届くほどの距離に迫っていた。島の縁から覗く邸宅の屋根が近づいてくる。
「ジェインさん、もう止め…」
「止めるな!このままの勢いだ!」
連続する突風による加速を止めたイヴァンが、向かい風を起こして飛行船を減速させようとした瞬間、ジェインが吠えるような声を上げた。
「ゆっくり島に降りれば、即座に警備隊員に囲まれる!このままの勢いでつっこんで、どこで降りたか分からないようにする!」
「で、でも…」
「イヴァン!任せろ!」
風に紛れながらの声で、ジェインがどんな表情を浮かべているかも分からない。だが、少年にとってその一言は、十二分に彼を勇気づけるものだった。
「…分かった!」
これまでに何度も少年にかけられたその言葉には、幾度か形を変えたこともあったが、常に成功が付き従っていた。ジェインが任せろと言ったなら、少年は彼女にすべてを委ねる。それだけの力が、彼女の言葉にあった。
「行くぞ…!」
ジェインが舵輪を操ると、飛行船は勢いよく浮島の上空に飛び出し、旋回を始めた。眼下に広がるのは、広い庭を備えたいくつもの邸宅と、その間を走る通りだった。浮島の中央に巨大な城がそびえており、いくつもの住宅が軒を連ね、通りによって区切られていた下の島々とは異なる景色であった。だが、今は景色をぼんやりと眺めている場合ではない。
「ここ…だ…!」
ジェインは低く呻くように漏らすと、舵輪をつかむ腕に力を込めた。その瞬間、飛行船の船体がきしみをあげつつ、船首を下方へと傾ける。船首の先、左右に邸宅の生け垣や塀の並ぶ通りに着陸を試みるのだ。
見る見るうちに街の景色が大きくなり、ついに小型飛行船の船底が通りの石畳に接した。
「…!」
襲いかかる強烈な振動に、二人は歯を食いしばりつつも声を漏らした。ボートの竜骨が一見なめらかな石畳の凹凸を拾い上げ、飛行船全体を揺する。石畳の起伏に木材が削り取られ、ボートが悲鳴のような軋みを上げる。もはや舵は削り折れ、舵輪を回したところで船の方向を変えることはできない。
ジェインは風と振動に耐えながらも、舵輪を握りしめ船首の先を見つめていた。通りの左右に立ちはだかる塀や生け垣、邸宅の敷地から空に向けて伸びる木々。その一つ一つを視界の端に捉えつつ、彼女はタイミングを見計らっていた。
「…今だ…!」
通りの前方、薄汚れた塀から通りに向けて伸びる木の枝を捉えた瞬間、ジェインは低く声を上げた。直後、彼女は舵輪から手を離し自信の腰にしがみつく少年の体を抱いた。そして、スカートを翻しながら右足を振り上げ、一気に船底へ叩きつける。木板へと足が振り下ろされる間に、彼女の足は四本の触手に分離し、本来の脚力以上の衝撃を船底にもたらした。結果、ジェインとイヴァンの体はその反動により、小型飛行船の中から飛び出した。高速で横へと流れていく塀が眼前へと迫る間に、彼女は触手で自身と少年をきつく巻き、左手を壁面に向けて突き出した。彼女の左手はいつの間にか赤黒い鱗に覆われており、黒色の鉤爪が薄汚れた漆喰を引き裂き、石積の塀に食い込んでいく。壁面に四条の爪痕が刻まれ、急速にジェインたちの勢いが殺されていった。
「と、まれぇぇぇ…!」
ともすれば壁面からはじかれそうになりながらも、ジェインは指先に全身全霊の力を込め、ついに飛行船から飛び降りた勢いを殺していく。そして塀の上から突き出た樹木に近づいたところで、彼女は枝に向けて触手を伸ばし、絡めた。真横への運動が、ジェインの触手によって枝を中心とする円運動になり、二人の体が振り上げられる。彼女は壁に突き立てていた指を伸ばし、触手をたわめた。するとジェインとイヴァンの体は、塀の上へと軟着陸した。
「…はぁ…」
ため息とともに顔を横に向ければ、通りの石畳が深々と掘り返されて、通りに線が刻まれているのが目に入る。線は緩やかに右に左に揺れつつジェインたちの目の前まで伸びていた。そして反対側に顔を向けると、通りに沿って石畳を掘り返した線がしばらく続いており、その向こうに動きを止めた小型飛行船が横倒しになっていた。その船底は石畳に削られたためか妙に平たく、平底船のようであった。
「イヴァン、怪我はないか?」
小型飛行船の着陸がもたらした惨状に、ジェインは腰にしがみつく少年に問いかけていた。
「あ、うん…何とも…」
ジェインが触手をゆるめるのにあわせて、彼は姿勢を正しつつ応じた。
「とりあえず、ドゥナルへ侵入できたな」
かなり騒がしい潜入となったが、飛行船は下層の浮島を巡回するので出払っているらしく、集まってくる気配はなかった。だがそれも、ジェインたちを追跡していた飛行船がやってくるまでの話だ。
「行こう、ジェインさん」
「ああそうだな…ってイヴァン」
少年の声に応じた彼女が、不意に手を伸ばして彼の肩をつかんだ。塀から荒れ放題の通りへ飛び降りようとしていたからだ。
「お前、どこに行くつもりだ?」
「どこって、とりあえずここを離れようと…」
「だったら、こっちだろう」
ジェインはそう言いながら、塀の内側へと飛び降りた。
「え?そっち?」
「飛行船はいなくても、最低限の警備は残してるはずだ。のこのこ路地を進んでいたら、通りに向かってる警備と鉢合わせしてしまう」
イヴァンは納得した。確かに、屋敷の敷地の中をこっそり通り抜けていけば、家主に気が付かれない限り見つかることもないだろうからだ。
「それと、もう一つ用事があるんだけど…イヴァン、早く降りてくれ」
「あ、うん」
ジェインの言葉に、少年は軽く膝を屈めてから、屋敷の敷地へ飛び込んだ。
「それで、用事って?」
姿勢を立て直し、ジェインの傍らに立つと、少年は続きを促した。
「ああ、この屋敷に侵入して、いろいろ拝借する」
「侵入!?」
少年は思わずそう言葉を繰り返してから、あわてて敷地の中央に鎮座する建屋の様子を伺った。人目に付かないよう、通りから塀の内側に忍び込んだのに、家主に見つかっては元も子もないからだ。
「侵入って…」
「飛行船を奪うときに姿を見られたからな。もう一度変装する。オレもそうだが、イヴァンもいつまでもワンピースという訳には行かないだろ?」
「そ、そうだけど…」
内心ジェインの言葉に同調しそうになりつつも、彼は口でそう返した。
「でも、この屋敷の人に見つかったら…」
「それは大丈夫だ。見ろ」
ジェインは軽く庭や屋敷を示しながら続けた。
「敷地内の草木だが、特に手入れもされてないようだ。草は伸び放題だし、少しかき分けてみれば去年の枯れた芝生がそのままだ」
足下の芝生と言うには背の高すぎる草をつま先で軽くかき分けると、少年の目に半ば土に還った枯れ草のようなものが見えた。
「そして屋敷の壁面や塀も、周りの建物に比べて若干薄汚れている。以上から、この屋敷には人が住んでないか、住んでいても屋敷の維持管理に手を回せるほどの人数じゃないかだ」
「でも、塀とか壁はそういう色かもしれないし」
「これをみろ」
ジェインは左手を出すと、白い小石のようなものを少年に見せた。
「なにこれ?」
「塀の破片だ。オレの爪に残っていた」
制動をかけるため、塀に爪を立てたときの名残らしい。
「この破片、白いだろ?」
「うん」
「塀の中身がこんなに白いのに、表面は薄汚れている」
「ということは、手入れがされていない…」
「そうだ」
ジェインは塀の破片をそのあたりの草むらに向けて放ると、屋敷に向けて歩き始めた。
「行くぞイヴァン。早いうちにここを離れないと、飛行船もやってくるからな」
「ま、待ってよジェインさん…!」
少年は草むらに苦労しながら、いくらか遅れてジェインに続いた。
「ゆっくりしてると着替える時間がなくなるぞ?まあ、お前がその格好を気に入ってるなら問題は…」
「着替えるって!」
少年はスカートの裾を軽く持ち上げ、草むらをかき分けるようにジェインを追った。
屋敷の裏手に設けられた小さな戸を破ると、二人をほこりっぽい空気が迎えた。やはりジェインの見立て通り、無人の屋敷のようだった。
屋敷の中に家具が残されているのをみると、完全に持ち主もいないわけではないらしい。
「運が良かったな…」
衣装部屋と思しき一室に入り、チェストを開きながらジェインはつぶやいた。
チェストの中には男物のズボンやシャツが、大小さまざまなサイズで詰め込まれていた。
「これと、これを着て…ちょっと丈が余るかな?」
傍らに立つ少年の腰にズボンを当てながら、彼女はちょうど良さそうなものを見繕っていた。
「ちょっと長いぐらい大丈夫だよ」
「いや、割と重要だ。走ってるときに足に裾がまとわりついて、倒れるかもしれないからな」
「…スカートの時はそういうこと言わなかったよね?」
「ふんわりロングスカートだったからな。あれはちょっと摘んで裾を持ち上げておけば、足が動かしやすい」
かすかに恨みのこもった少年の言葉を軽く受け流しながら、ジェインは左手を軽く掲げた。
みしみしみし、と骨の軋む音が響き、見る見るうちに赤黒い鱗と黒い鉤爪が生え揃う。彼女はドラゴンのそれと化した人差し指の鉤爪をズボンの布地に当てると、軽くひっかいた。すると、ズボンの裾が断ち切られた。
「これでちょうどいいはずだ。ほら、あっちで着替えてこい」
「あ、ありがとう…」
少年はジェインからズボンとシャツを受け取りながら、そう応じた。
「それで…ジェインさんはどうするの?ここ、男の人の服しかないけど…」
「よそを探している暇はないからな。ここで適当な奴に着替える」
ジェインはチェストの中をかき回し、手頃なサイズのシャツとズボンを取り出した。
「最初が男物の服だったから、そこまで目新しさはないかも知れないけど…連中にはドレス姿の情報が伝わってるだろうから、多少は欺けるかもな」
すっくとその場に立つと、ジェインは背中に手を回してドレスの紐を解いた。そして袖から腕を抜き、スカートをその場に落として、下着姿になる。飾り気も何もない、胸や下腹を覆う白い布に少年は一瞬目を奪われるが、あわてて顔を背けた。
「うん、こんなものか?」
しばしの衣擦れを挟んでから、ジェインはそう声に出した。少年が顔を向けると、そこにはスラックスにシャツをまとったジェインの姿があった。細身の体を包むシャツのボタンは、上二つが外されており、布の下に押し込めきれなかった乳房が二割ほど覗いていた。
「どうだ?」
「あー…やっぱり、髪の毛が気になるかな…」
シャツの胸元から覗く谷間をちらちらと伺いつつも、イヴァンは全体的な印象を答えた。隠しきれない女性的なラインについては、外套で誤魔化すとしても、彼女の真っ白な髪の毛は帽子でも被らない限り目についてしまうだろう。だが、帽子の中に髪の毛をすべて隠すとなると、その大きさはかなり人目を引くだろう。
「うーん、いつもだったら、適当な塗料で色を付けるんだが…」
「塗料とかなさそうだよね…」
屋敷中をひっくり返せば出てくるかも知れないが、それほどの時間をかける利点はなさそうだった。
「仕方ない、切るか」
「切る?」
ジェインの漏らした言葉に、少年が反応した。
「ああ。このまま髪を隠せるような帽子は少ないからな。短くしてさっぱりすれば、男物の帽子でも楽に被れるだろう」
「いや、でも…」
「髪は女の命だろ…ってか?」
口ごもるイヴァンに向け、彼女はニイと笑って見せた。
「そんな考え、とっくに捨てちまったよ。変装のために髪を切って口元に貼り付けて、ジジイの振りするとかいつものことだ」
「…あれ?」
「どうした?」
不意に首を傾げたイヴァンに、ジェインは尋ねた。
「いや、何でも…それより、ほかにも方法があるんじゃ?」
「オレの白髪頭は大分知れ渡ってるだろうからな。ここらで男装と帽子の合わせ技でもしないと、警備隊の連中の目はごまかせない」
ジェインはシャツの左袖をめくり上げると、腕に意識を集中させた。するとみしみしと骨格の軋む音とともに、皮膚を突き破って鱗が生えそろい、鋭い鉤爪が指先に並んだ。
「よっと…」
ジェインは右手で、髪の毛をうなじ近辺でひとまとめにすると、束の頭皮側にドラゴンの爪を添えた。そして軽く頭髪の束を爪で引っかくにつれ、ブツブツブツと小さな音がいくつも響いた。そして、うなじの辺りでまとめられていた髪の毛が離れ、ジェインの髪型が変わった。
いくらか毛先が不揃いではあるものの、おおむね耳の下ほどでそろえられたショートカットだった。
「うん、軽くなったな」
右手で握った白い毛の束を目の前にかざしながら、彼女はそう呟いた。
「ほ、本当に切っちゃった…」
「なーに、これでかなり変装しやすくなった」
左手を元に戻すと、ジェインは髪の毛の束を軽く結んで散らばらないようにしながら、軽い口調で応じた。しかし彼女は浮かべていた笑みを消すと、手の中の髪束を見ながら続けた。
「だが、問題はこいつだ。ここに捨てていったら、警備隊の連中がここを調べたときに見つかるだろうし…」
「あー、僕が持とうか?」
悩むジェインに、イヴァンはそう声をかけた。
「そうか?助かる。火の中とか、浮島の下とか、警備隊の連中が拾えないような場所で捨てよう」
「う、うん…」
ほんの少し前まで自分の一部だった髪束の処分方法を、特にためらうこともなく口にする彼女に、少年は頷いた。そしてジェインから髪束を受け取ると、彼は軽く指先で撫でてみた。すべすべとした頭髪の感触が、指先に伝わる。
「……」
「これで…よし、待たせた」
袖口の広い外套を羽織り、若干よれた布製の帽子を頭に乗せると、ジェインは少年に言った。
「行くぞ」
「あ、うん」
少年は髪束を撫でていた指を止めると、ズボンのポケットにそれをねじ込みながら、彼女に続いて部屋を出た。
「次はギゼティアの屋敷だな」
「そうだけど…ジェインさん知ってるの?」
「知らない。だが、これを見ろ」
少年が声をかけると、ジェインは低く笑いながら外套の懐から何かを取り出した。彼女の手に収まっていたのは、文字や図版の連なる紙切れだ。どうやら、酒場の二階で入手した雑誌から、ページを破りとったらしい。
「ギゼティアの屋敷で公開実験をするという記事だ。こいつに、実験会場の住所が書いてあった」
「実験会場って…目的地の?」
「そうだ」
ジェインは頷くと、少年に紙切れの一角を指し示した。
「ご丁寧にも、略地図付きだ…これによると、どうやらここから通り何本か向こうの方みたいだな」
略地図を軽く指でなぞり、会場を示す丸印をつつく彼女に、少年は目を丸くした。
「分かるの?」
「飛行船を通りに下ろす直前、ある程度景色を覚えた。島の中央の城から規則正しく通りや路地が伸びているとかだったらお手上げだが、屋敷の並びはそこまで画一的じゃなかったな」
言われてみれば、確かに通りは城を中心としたものだったが、屋敷と屋敷の間の路地はある程度ばらついていたようだった。
「さ、出るぞ」
いつの間にか二人は使用人用の勝手口に近づいていた。ジェインが扉の取っ手を回し、何気ない様子でひょいと裏庭に足を踏み出す。
「あまりビクつくな。あくまで自然に…」
少年が余りに無造作な彼女の所作に声を上げようとしたところ、ジェインは低い声でそう遮った。
「上を見るな。もう飛行船が来ている」
彼女がそうささやくと同時に、裏庭を進む二人に不意に影が落ちた。影は即座に消えてしまい、イヴァンは二人に差していた日の光を飛行船が一時遮ったのだと悟った。
「自然に、自然に…上を見ろ」
「何で…!?」
見るなと言ったかと思ったら、今度は見ろ。朝礼暮改なジェインの言葉に、少年は低い声で抗議した。
「屋敷から出るなり空を見上げたら、飛行船を探してるみたいで怪しい。だけど影が落ちた後なら、空ぐらい見上げるだろ…」
「…」
イヴァンは納得すると、無言のままにヒョイと上空に顔を向けた。青空を背に、大小さまざまな飛行船が空を進んでいる。まるで、イーロ・ファクトなど下の島を警戒していた飛行船が、丸ごとやってきたかのようだ。
「どうしよう…」
「自然に、普通に歩け」
顔を下ろしながらのイヴァンの気弱な言葉に、ジェインはそう応じながら、塀にもうけられた通用門をくぐった。すると二人は、飛行船を荒々しく着陸させたのとは、屋敷を挟んで反対側の通りに出た。
「でも、ギゼティアの屋敷に入るとき、見つかっちゃうんじゃ」
「そのときは…飛行船がゆっくり降りてくる前に、飛行機械を動かせるよう祈るしかないな」
ジェインはそう言ってから、かすかに苦笑いを浮かべた。
「…ねえ、ジェインさん」
「何だ?」
「ジェインさんは、ナムーフの外に出たら何をしたい?」
「そうだな…」
少年の問いかけに、彼女はしばし考えてから答えた。
「とりあえず、あちこち回ってオレがどういう人間だったのか、思い出してみようと思う」
ジェインの体内をかき回す、あの街での記憶が作りものだったとわかった今、曖昧なこれまでの記憶を取り戻したいというのが希望だった。
「そう…」
「どうした?あ、安心しろ。その前にお前が落ち着くまで、一緒にあちこち回ってやるからな」
「いや、そういう訳じゃなくて…」
ナムーフを出た後のことまで面倒を見てくれるというジェインの言葉は嬉しかったが、イヴァンが言葉を濁したのはそのことではなかった。
「じゃあ、何を…いや、待て」
ジェインは少年に問いかけようとして、不意に言葉を断ち切った。
「…感づかれたかもしれない…」
「え?」
「飛行船が一隻、こっちの様子を伺っている。前を見ろ」
ジェインの言葉にイヴァンが目を向けると、確かに通りの前方に楕円形の影が落ちていた。ジェインたちの前方を、つかず離れずといった距離を保ちながら進んでいる。
「太陽がオレ達の後ろにある。だから飛行船が後ろにあれば、オレ達の前に影が落ちるんだ」
「気のせいじゃ…」
「いや、オレ達に合わせて速度を調整しているし…見ろ、影がはっきりしてきた」
ジェインたちの前方の影は、徐々に大きさこそ小さくなってはいるものの、その輪郭が明瞭になっていた。二人に向けてゆっくりと接近しているのだ。
『そこの二人!』
不意に頭上から、男の声が降り注いだ。
「来たぞ…」
ジェインは足を止めると、振り返りながら軽く頭上を仰いだ。イヴァンがそれに倣うと、太陽を背にした小型飛行船が一隻浮いているのが目に入った。
『止まれ!現在、浸食主義者がドゥナル・ポト・ナムーフに侵入した恐れがある!速やかに自宅に入り、浸食主義者が逮捕されるまで待機していなさい』
飛行船から二人に向けて、声が響いた。
「見つかった訳じゃないみたいだな…」
イヴァンにしか届かない程度の囁きを紡ぐと、ジェインは飛行船に向けて軽く会釈した。
「行くぞイヴァン。少しだけ早足で、屋敷に急いで帰るようにだ」
「う、うん…」
少年は歩幅を広げつつ歩調を早めながら、ジェインの後に続いた。
ジェインは前こそ向いていたが、その耳は背後からの音に集中していた。風が塀の合間を抜ける音。どこかの飛行船が風を切りながら前進する音。その中に紛れて、かすかに木材同士がこすれ、軋む音が響いた。ジェイン達の背後に浮いていた一隻が、旋回したのだ。
とりあえず、警備隊の注目から逃れることができた。ジェインは胸をなで下ろしつつ、ほっと息を吐いた。
その瞬間だった。
『そこの二人!』
旋回し、後は離れるだけのはずだった飛行船が、彼女と少年に向けて声をかけた。ジェインの心臓は、その呼びかけによって口から飛び出さんばかりに跳ね上がった。
『我々警備隊が、諸君等を自宅まで送り届ける!その場で待機せよ!』
「ど、どうしよう…」
イヴァンがジェインの外套をつかみ、震えた声で尋ねた。だが、そう言われても、ジェインの方にもこれと言った対策などないのだ。
飛行船に乗った瞬間、一暴れして奪い取る考えが、一瞬ジェインの脳裏をよぎる。だが、小型飛行船のそばには別の飛行船がいくらでも浮いていた。仮にイヴァンの力で加速しても、ろくに距離も稼げないだろう。
「…いや、待て…」
ジェインは意識の端をかすめたアイデアに、声を漏らした。
「イヴァン…一ついいか?」
「何?」
「お前が本気で嵐を作ったら…どのぐらいの大きさのものができる?」
「一応、セントラを包み込むぐらいのものなら…あ!」
ジェインの言わんとするところに、少年は思い至ったらしい。
「嵐を起こして、飛行船の目を逸らせば…!」
「そうだ。できるか?」
「まかせて…!」
イヴァンは小声ながらも、力強く応じると、目蓋をそっと下ろした。すると、ジェイン達の頬を、風が撫でた。二人の前方から背後へと吹き抜ける風は徐々に勢いを増し、湿り気を帯びていく。
『おい、どうした?』
飛行船から、警備隊員の声が響いた。
『風が強くなって、降下できない?そんなこと…』
同僚を叱咤激励しようとする警備隊員の声が不意に乱れる。横風によって飛行船が傾いたためだ。悲鳴のような声を響かせながら、飛行船は風に流されてジェインとイヴァンから徐々に離れていった。
「よし…行ったな…!」
帽子を風に飛ばされぬよう押さえながら、ジェインが言う。つい先ほどまで見えていた青空は、いつの間にか灰色の雲に遮られており、見る見るうちに渦を描きつつあった。そして渦を中心に、飛行船が大きく傾きながら風に流されていた。もはや飛行船は地上に目を向ける余裕はなく、建物や地面に、あるいはほかの飛行船に衝突しないように、イヴァンの作り出した嵐の中で必死になっていた。
「行くぞ!イヴァン!」
強風に加えて、ゴロゴロと音を立てる稲光さえも雲間に現れ始めたところで、ジェインは言った。
「今のうちに、少しだけでもギゼティアの屋敷に近づくぞ!」
「うん!」
嵐を作り出すことに集中しながらも、少年はジェインの言葉に応じた。もっともっと、可能な限り嵐を成長させるのだ。少年の力が限界を迎えても、しばらくは余韻が続くように、可能な限り嵐を育てるのだ。
すると、少年が一歩足を踏み出すと同時に、ジェインが少年に向けて手を伸ばした。嵐の中、少しでも自身が少年を支えられるようにと言うことだろうか。イヴァンは彼女の差し出した手を、ためらいもなく握った。冷たく感じる強風が吹き荒れる中でも、ジェインの手は温かかった。そして、風に向かって、二人は足を踏み出した。
すでに嵐は竜巻の域に近づきつつあり、頭上では幾隻もの飛行船が風の中で弄ばれていた。ほぼ横倒しになっているように見える飛行船があるところを見ると、落下したものもいるかもしれない。イヴァンは横目で嵐の様子を確かめ、かすかな罪悪感を覚えつつも、歩みを止めなかった。
そのときだった。雲間で走った稲光の中に、小さな影をイヴァンは見た。
「え…?」
再び稲光が走るが、影はイヴァンの視界から消えていた。見えるのは雲と、飛行船の影ばかりだ。小さな影など、どこにもない。
気のせいだったのか。少年がそう納得しようとしたところで、ジェインが口を開いた。
「イヴァン!嵐は後、どのぐらい保つ!?」
「えーと、あと二十秒ぐらい!でも、もっと強くできるよ!」
すでに限界は見えていたが、まだまだ育て上げる余裕はあった。うまく行けば、嵐の消滅と同時に無数の飛行船を墜落させられるかもしれない。
しかし少年の言葉に対し、ジェインはやや苦々しい表情を浮かべた。
「二十秒か…イヴァン!走るぞ!」
彼女はそう告げると、イヴァンの手を引きながら、一気に駆けだした。
「うわ…!」
数歩足が空回りするが、すぐにイヴァンはジェインのペースに合わせ、通りを走った。
「どうしたの!?」
「嵐の中に、何か飛んでる!飛行船よりずっと小さくて速い!」
イヴァンが稲光の中に見たものを、ジェインも見ていたのだ。それどころか、見間違いと納得しようとしていた少年と違い、彼女は視界から消えた理由まで見つけていた。
「考えてみりゃ、当たり前だ!ミノタウロスにワーウルフ!人間を魔物にして、力仕事や匂いの追跡に使ってんだ!空飛ぶ魔物ぐらい、用意してない方がおかしいんだ!」
その瞬間、少年の脳裏に垣間見た小さな影が浮かび上がった。それはジェインの言葉通り、翼を広げているようにも見えた。
「イヴァン、急げ!」
嵐の続く限り、少しでも距離を稼ごうとしているのか、彼女は少年の手を引く腕に力を込めた。
飛行船に目を付けられるまでと、この嵐の中でそれなりにギゼティアの屋敷には近づいている。嵐が収まれば『ハーピィ』に見つかるのは確実だが、飛行船や警備隊が体勢を立て直すまで時間はある。ハーピィぐらいならジェイン一人でどうにかなるはずだ。
「ジェインさん…もう…!」
走る少年が、苦しげな声音を漏らすと同時に、彼女は風が弱まりだしたのを感じた。目も開けていられぬほどの強風が見る見るうちに穏やかなものになり、地面に影を落としていた分厚い雲からは、早くも日の光が射し込んでいた。
「まだだ…!」
雲はまだ渦を描き、一度強風によって勢いの付いた飛行船は螺旋を描くように空を巡っている。まだ、地上に目を向ける余裕はないはずだ。
「はぁ、はぁ…!」
嵐を作り出した疲労と突然の走行により、いくらか乱れていた少年の呼吸が不意に途切れた。ふと空を見上げた彼の視界を、影が一つ横切っていったのだ。
徐々に薄まる灰色の雲を背に、飛行船の合間を縫うようにしてよぎったのは、確かに翼を広げるなにかだった。
「ジェインさん、もう…!」
「よそ見をするな!もうすぐだ!」
ジェインが吠えるように叫んだことで、少年は気が付いた。ジェインの足は、もはや空から身を隠せる路地などではなく、目的地に向かっているのだ。嵐と空を舞う影のせいで気がそれていたが、既に二人はギゼティアの屋敷にほど近いところまで来ていたのだ。
「あそこだ!」
辺りの屋敷の敷地に比べれば、かなり幅の狭い一角に向けて、ジェインが声を上げた。あそここそ、ギゼティアの屋敷のはずだ。
あそこに入れば、飛行機械が、ナムーフの外が。
「イヴァン、掴まれ!」
「うん!」
通りを進みながら、イヴァンは傍らを走るジェインに何のためらいもなくしがみついた。すると彼女は、少年の重みなど感じないかのように右足で力強く通りの石畳を踏み抜いた。その反動で彼女の体が浮かび上がる。もちろん、塀を飛び越えるには高さが足りない。だが、問題はなかった。
「はっ!」
気合いとともに、ジェインの左足が高々と振り上げられる。瞬間、彼女のズボンの裾から白い触手が四本溢れだし、塀の上部に並ぶ忍び返しの鉄棒に絡み付いた。触手の筋肉は一気に収縮し、主とその体にしがみつく少年の体重を軽々と引き上げた。二人の体は、一瞬のうちに塀を飛び越え、ギゼティア邸の敷地に入り込んだ。
同時に、忍び返しに巻き付いていた触手がほどけ、二人の体が虚空へと投げ出される。重力に囚われて落下する間、少年は幾度となく味わった浮遊感を覚えた。落下しているにも関わらず、少年の意識はふわりと虚空を漂うような気分を覚えていた。
そして、一秒にも満たぬ落下を経て、二人は敷地内の伸び放題の芝生の上に着地した。
「…ちっ…」
すると、ジェインが小さく舌打ちした。
イヴァンは彼女の舌打ちの理由が分かっていた。
あれだけ苦労したというのに。あれだけ飛び回り、走り回ったというのに。二人の前方、ギゼティアの屋敷を遮るように、一隻の飛行船が着地していたのだ。
「やはり、私の読み通りだったな!」
飛行船を背に並ぶ警備隊員達の前で、男が嬉しそうに声を上げた。
「ロプフェル…」
「巨大な飛行船でも、ナムーフの防壁は突破できない。ならば、突破できる方法を探し、ギゼティアのガラクタを知るはずだ」
ロプフェルはそう推測の経緯を口にすると、ニヤリと笑みを浮かべた。
「残念だったな!飛行機械での脱出は無理だ!」
「この野郎…」
「ああ、誤解するな。我々はまだ、ギゼティアの飛行機械に対してなにもしていない。それどころか、屋敷の中にすら立ち入っていない」
「…何のつもりだ…?」
ジェインは思いつく限りの可能性を脳裏に浮かべながら、問いかけた。
「なあに、ギゼティアとの協定の一つだ。奴がこのナムーフの浮遊基礎を作り上げる代わりに、私は奴に住居と研究所を作り、過剰に干渉しないと取り決めたのだ」
「こうやって敷地に入っているのは違反じゃないのか?」
「ナムーフの治安を乱す犯罪者を追って、敷地に短時間入り込んだだけだ。屋敷の中に入り込んだわけじゃあない」
ロプフェルはそう言うと、笑った。
「さて、浸食主義者よ。投降するがいい」
「へ、誰がするか…それにこっちにだって、事情があるんだよ」
「奇遇だな。私もだ。浸食主義者をこのナムーフに置いておくことはできないし、かといってナムーフを知るものを地上へ逃がすわけにも行かないからな」
「じゃあ何だ?殺すってのか?」
「最終的には、な。ただ、君の体質にセントラの研究者が興味を持っているらしく、そこの子供共々捕縛して引き渡すことにした。奴らのもたらす利益を考えれば安いものだ」
「利益…?」
「ギゼティアは飛行機械以外に興味がないらしくてな。これで、セントラの連中を完全に私の下につけることができる」
セントラの研究者。無人のセントラ研究島。ジルによって植え付けられたと思しき、作られた記憶。そして、ロプフェルと研究者の取引。
ジェインはその瞬間、それらが繋がるのを感じた。
「そう言うことか…」
ジェインは悟った。彼女に記憶を植え付けた『依頼主』の正体と、ロプフェルを影から操る者の正体が同一であることを。
この依頼は、ジェインに投与した記憶を操るジルの効能を探るための者だったのだ。研究者はジルを与えたジェインを放置し、ジルの効能だけでどこまで行動できるかを探っていたのだ。そして、後始末はロプフェルと彼の警備隊に任せるのだ。
「ナムーフの繁栄の礎になるがいい」
「それにしては、少々人数が足りないんじゃないか?」
「できるさ」
ロプフェルはそう口にした。その言葉には、ジェインを確実に取り押さえられるという自信に満ちていた。
「なら、勝負だ…!」
ジェインは左腕と右足に、同時に意識を集中させた。シャツと外套、ズボンを引き裂きながら、鱗に覆われた腕と白い触手が露わになる。
(相手は、八人か…)
ロプフェルの背後に控える警備隊員の人数を数え、ジェインは胸中で算段を立てた。このエイドの人数ならば、触手だけでもどうにかなるはず。しかし、わざわざロプフェルが背後に控えさせているところを考えると、何らかのジルを使用している可能性が高い。
「イヴァン、下がってろ」
あたりをざっと伺い、ほかに警備隊員が隠れられそうな場所が存在しないことを確かめると、ジェインは少年に向けて言った。
「ジェインさん、実は…」
「後で聞く。連中を叩きのめして、飛行機械に乗ってからな」
必ず勝つ。暗にそう約束しながら、彼女はイヴァンの言葉を遮った。
「さーて…」
イヴァンの嵐から飛行船が立ち直る前に、決着をつけねば。ジェインは右足の触手を一歩踏み出し、鱗と鉤爪の生えた左手で拳を作った。
だが、警備隊員たちはロプフェルの背後に控えたまま、動かない。実際に動いたのは、ロプフェルの方だった。
「チャアアアアアアアアァァァァァァァァルズゥゥゥゥゥゥゥ!!」
彼は大きく口を開き、言葉を紡ぎだした。間延びした一声が、人名であることにジェインは遅れながら気が付いた。
同時に、彼女の耳を音が打った。旗を勢いよく振ったときのような、空を打つ音だ。
「まさか…!」
ジェインが空を見上げると、青空が覗き始めている雲の合間を、影が一つ舞っているのが目に入った。嵐の中を悠々と舞っていた影だ。だが、影は空中散歩と言った様子ではなく、まっすぐにジェイン達の方に向けて突き進んでいた。
そして、数秒の後、ジェインとロプフェルの丁度中間に、影が舞い降りた。片方だけでも人の背丈ほどはありそうな大きな翼を二度、三度と打ち鳴らし、影は地面に足を着けた。
すっくと身を起こし、警備隊員の制服を改造したと思しき、袖のない上着と太腿半ばの丈しかないズボンを纏い、制帽を目深に被ったその姿は、おそらくハーピィであった。おそらくとつけたのは、右腕のみがハーピィの最大の特徴である翼になっていたからだ。左肩から生えているのは、人間のそれと代わりのない左腕だ。ただ、胸から腹にかけてを締め付けるコルセット背部から大きな翼が生えている。金属と思しき骨組みに布が張られており、左手がその取っ手を握っていた。
「これはチャールズ。私の優秀な護衛だ」
「……」
ロプフェルの言葉を背に、チャールズと呼ばれた。人物は無言でジェインを見つめていた。
「チャールズ?」
ロプフェルの言葉を、ジェインは思わず繰り返した。なぜなら彼女には、今し方舞い降りてきた人物の姿が、女にしか見えなかったからだ。線の細い整った顔立ちに、服の上からでもそれと分かるほどの胸元の膨らみ。そして腰回りのくびれから尻を通り、ズボンの裾から覗くむき出しの太腿へと続く曲線は、完全に女性のそれだった。
「元は男だ。だが、セントラの連中に預けて徹底的に強化させたところ、こうなったのだ」
ロプフェルがジェインに向けて説明する。
「セントラの連中の唯一すばらしいところは、こうして魔物どもを完全に制御できるところだ。特にチャールズは、白衣連中も舌を巻くほどの逸材で、こんな姿になっても私に仕えてくれる」
「へ…ごたいそうなこって…でも、ハーピィぐらいで、オレをどうにかできるとでも思ってるのか?」
空からの登場に驚いたものの、ジェインはチャールズの戦力をそう高くないと踏んだ。嵐の中でも風に乗っていた飛行技術には舌を巻くが、それだけではジェインを倒せないからだ。
「試してみるか?」
「勿論…!」
「よし…チャールズ、やれ」
ロプフェルの命令と同時に動いたのは、ジェインだった。姿勢を倒し、『ドラゴン』の左腕と『クラーケン』の右足で、思い切り地面を叩いた。反動で彼女の体が撃ち出され、一直線にチャールズに接近する。
「……」
迫るジェインに対し、チャールズは無言で両腕を動かした。右腕の翼と、左腕で操る人工の翼が同時に空を打ち、彼女の体を空中へと舞い上がらせた。一度の羽ばたきでチャールズの体はかなりの高度に達し、ジェインの突進が空振りになるどころか、彼女が思いきり地面を蹴っても届かぬほどになった。
だが、それもジェインの思惑通りだった。
「はぁっ!」
チャールズが立っていた場所に向け、ジェインはもう一度『ドラゴン』の左腕を繰り出した。むき出しの地面を黒い爪が大きく抉り、その反動でジェインの突進が加速する。彼女の突進の先にいるのは、ロプフェルだ。チャールズがどこへ逃れようと、ロプフェルを押さえてしまえば問題はない。
「な…!?」
護衛と浸食主義者の決闘を見物するつもりでいたロプフェルは、ジェインの突進に顔色を青くした。だが、ジェインがロプフェルに到達する遙か手前で、空中にいたチャールズが一つ羽ばたく。ばさり、と二種類の翼が同じような音を立てると、彼女の体は一つの砲弾のようにまっすぐに、ジェインに足を向けて突き進んだ。羽ばたきの勢いに落下の加速を加えたことで、ジェインがロプフェルに至るよりも早く、チャールズは主を狙う敵の元に達した。背中から首筋までをさらすジェインに向け、チャールズは勢いよく蹴りを繰り出した。
人一人分の体重に、落下と羽ばたきの勢いを加えた即死の一撃。
そのはずだった。
「へ…」
ジェインの顔が横を向き、肩越しに視線だけを送っていることに、チャールズは気が付いた。ジェインの攻撃を予測し、反応しようとしているのだろう。だが、なぜ笑う?秘策があるのだろうか?チャールズの胸中をいくつかの疑念が巡った瞬間、チャールズは折り畳んでいた翼を広げ、自身の勢いを殺そうとした。チャールズのとっさの行動は効を奏し、ジェインの背中に叩き込むはずだった蹴りが止まった。だが、ジェインの右足から伸びる触手から逃れるには、もう一つの羽ばたきが必要だった。
湿り気を帯びた白い触手が、チャールズの右足のつま先から膝までを絡めとる。膝から下を巻き付いた『クラーケン』の触手は、力を込めてチャールズの足を締め上げた。
「これで…!」
触手の力だけで、ジェインはチャールズの体を自身の前方へと叩き付けようと振った。ジェインの体が急制動し、代わりにチャールズが加速する。
「…!」
一気に迫る地面に向け、チャールズは再び翼を広げ、一息に空を打った。大きな二種類の翼が風をとらえ、大きな反動をチャールズにもたらした。結果、チャールズの足がジェインの触手の間から抜け、彼女は再び空中へと逃れることとなった。
「く…!?」
急に軽くなった触手の動きを止める。ジェインの白い表皮は土に触れる寸前で踏みとどまり、空振りに伴う衝突を回避した。そしてドラゴンの右手を地面に突き立てると、彼女はロプフェルへの突進の勢いを完全に殺した。
ジェインが自在に空中へ逃れることを見越し、ロプフェルを狙っているように見せかけ、さらにジェインへの攻撃に対して何らかの秘策を持っているかのように振る舞い、ようやく隙を作り出したのだ。その隙を突いての攻撃を回避されてしまった今、チャールズの裏をかくのは相当困難になるだろう。
だが、ジェインの胸中にあったのは悔しさはなかった。
「何だ、今の…?」
触手と化した右足の表皮に残る感覚に、彼女は思わずつぶやいていた。ジェインの触手からチャールズが逃れる瞬間、ぬるり、としか表現しようのない、奇妙な滑りを感じたのだ。まるで、ウナギが指の間からすり抜けるようであった。ジェインの脳裏をよぎったのは、あまりの締め付けにチャールズの足の骨が砕け、右足が軟体動物のように触手から逃れた可能性だった。
だが、ジェインの視線の先で羽ばたくチャールズの両足は、バランスをとるためか僅かに膝を折り曲げており、骨格に何の異常もないことを示していた。
「チャールズ!とっとと片づけろ!」
ジェインの突進に肝を冷やしたロプフェルが、チャールズに向けてそう命じた。するとイヴァンは、制帽の下から除く視線をちらりと主に向けてから、ばさりと翼を打ち鳴らした。空打ちの反動で彼女の体が一瞬上昇し、その勢いのままに再度ジェインに向けて下降する。今度は足ではなく、顔を向けている。
(顔面から突っ込むつもりか?)
ジェインは降下してくる相手の真意を探りつつも、左肩から延びる人造の翼の縁が、雲間から差し込む日の光を浴びて妙な輝きを帯びたのに気がついた。まるで濡れたような、微かな青みを帯びた冷たい輝き。
その輝きが、ジェインの脳裏でかつて見た物と結びつく。刃物だ。鋭く研がれた、刃のそれだ。
やはりハーピィの翼を補うためだけの道具ではなかったのだ。
(面白ぇ…!)
興奮と集中により、妙にゆっくりになった中、ジェインは口の端を獰猛につり上げた。そして瞬時に、どう行動すべきか算段を立てる。
屈んだり、後ろや横に逃れるぐらいでは、翼の刃から逃れることはできないだろう。幅があるため、左に飛んで翼の範囲からでることも難しい。ならば、顔はどうだ?構造上、チャールズの人造の翼より頭は前にでている。『ドラゴン』の左手を使えば、最悪でも相打ちに持ち込めるだろう。
そこまでの思考を一瞬で組み上げてから、ジェインは左足を軽く引いて半身になった。チャールズとの衝突の瞬間、踏み込みとともに左腕を繰り出すためだ。だが、狙うのは頭ではない。左の翼だ。
斬られるよりも先に、『ドラゴン』の鱗に覆われた左拳でもって、刃ごと翼を叩き折ってやるのだ。
「…」
ジェインの構えに、チャールズの制帽の下の瞳に一瞬光が走る。そして彼女はジェインの首筋に狙いを定め、微かに姿勢を傾けた。
ジェインとチャールズ。互いに翼と首筋を狙い合いながら、二者の距離が縮まっていく。
相手の表情が伺える距離だったのが、相手の視線をたどれる距離になる。
相手の視線をたどれる距離だったのが、相手の吐息さえも聞こえるほどの距離になる。
そして、相手の瞳に映る自身の姿さえもが見えるほどの距離になった。日の光を照り返す刃が、ジェインの腕の届く間合いから、金属の冷たさを肌で感じられるまでに縮まった瞬間、ジェインは弾かれたように動いた。左足を踏み込みつつ、腰だめに構えていた拳を、一気に翼の骨組みめがけて突き上げたのだ。
ジェインの首筋とチャールズの刃が急接近し、彼女の皮膚に刃が浅く食い込むかというその一瞬、ジェインの右腕を衝撃が貫き、チャールズの急降下が止まった。
ジェインの拳が、当たったのだ。
だが、チャールズの左背部から生えた金属の骨組みは、ジェインの拳によってひしゃげるどころか、ヒビ一つ入っていなかった。いつの間にか左翼の取っ手からチャールズは指を離しており、自由になった左手でジェインの拳を受け止めたのだ。
「オレの拳を…!?」
分厚い鱗越しに感じるおぼろげな手の感触に、ジェインはそう判断を下す。だが同時に、ジェインはその判断を信じきれなかった。チャールズの急降下の勢いに、ジェインの体重を乗せた拳の一撃。その二つの衝撃を受けたはずの両者の左手に、負傷の気配が全くなかったからだ。
『ドラゴン』のジルにより、強靱な鱗と骨格を手に入れたジェインはまだしも、人間のそれそのものであるはずのチャールズの左手さえもが無事なのだ。首筋に浅く食い込む刃と翼の下で、いったいなにが起きているのか。ジェインが疑問を浮かべた瞬間、チャールズの左背部から生えた人工の翼が、軽やかな金属音をたてながら折り畳まれていった。ピンと張られていた布を畳みながら骨組みが折れ曲がり、チャールズの背中に甲羅のように張り付く。格納と同時に翼の下から現れたのは、鱗に覆われた左腕だった。
分厚く赤黒い鱗に覆われたジェインの腕と、肌に張り付くような緑色の鱗に覆われたチャールズの腕の、二つだ。
「な…!?」
ジェインが驚きに声を漏らした瞬間、チャールズは肩口まで鱗に覆われた右手を折り曲げ、右腕を抱き寄せるようにして、ジェインの体に組み付いた。
警備隊員の制服越しに、チャールズの胸部の膨らみがジェインの左手に押し当てられる。チャールズの右腕はいつの間にか人間のそれに戻っており、拳をつかむ右手とともに、完全にジェインの右手を拘束した。そして、チャールズの両足が俊敏にくねり、ジェインの首筋を前後から締めあげようとする。本来なら地面に転がって行うべき組技を、スピードだけで立ったままかけようとしているのだ。
「させるか…!」
ジェインは意図的にバランスを崩し、左手から地面に倒れ込もうとした。だが、チャールズの頭が地面に達するよりも早く、彼女の右足がジェインの首筋に巻き付いた。膝を折り曲げ、太腿とふくらはぎで挟み込んでいるのではない。文字通り、右足がぬるりとジェインの首に纏わり付いているのだ。
「っ!?」
ジェインは自身の首筋の感触に驚くあまり、転倒しつつあったのを踏みとどまった。
首に巻き付く右足が、本格的に力を込める直前、ジェインはとっさに自身の右手を首と足の間に滑り込ませた。彼女の指に触れたのは、手首ほどの太さの柔らかで温かな棒状の何かが、数本束ねられたものだった。
直後、ジェインの首筋をチャールズの右足だった物が締め上げる。
「か…!」
右手ごと首を絞められ、彼女が口から吐息を漏らすと同時に、左手をつかんでいたチャールズの手が離れる。そしてチャールズは右足でジェインの首を締め上げたまま、ちょうど肩車でもするかのように姿勢を変えた。急なバランスの変化と呼吸困難により、ついにジェインはうつ伏せに組み伏せられてしまう。
「…っ…!」
呼吸を絶たれ、急速に不鮮明になっていく意識の中、ジェインは自由になった左腕でもって地面を打ち、首の裏にまたがるチャールズごと仰向けになろうとした。だが彼女の腕が地面に爪痕を残す寸前、チャールズは腰を浮かして触手をゆるめた。結果、ジェインのみが空転し、再度締め技を受けることになる。
「…っは…!」
それでも一回分の呼吸を辛うじて稼いだジェインは、今度は右足の触手を動かした。四本の触手が、チャールズの右手、左手、背中に頭部を狙って接近する。だが、チャールズは軽く身をひねると、緑の鱗に覆われた左手を一閃させた。
打撃音が三つ鳴り響き、ジェインの触手に痛みが三つ走る。とりあえずチャールズに触れようとしていた触手の内三本が、チャールズの拳を受けて逸れたのだ。では残る一本は?残る一本は、ジェインの狙い通り、チャールズの頭部に触れていた。触手づたいの柔らかな感触に、彼女はその正体を確かめる前に、思い切り吸盤を吸い付かせた。すると、大した抵抗もなく、チャールズの被っていた制帽が、ジェインの触手によってはぎ取られた。もう少し落ち着いていれば、帽子ではなく直接頭を狙えたはずだというのに。しかし、ジェインの胸中にあったのは後悔ではなく、驚愕だった。
チャールズの制帽の下から溢れたのが、まばゆいばかりに日の光を照り返す、銀色の髪だったからだ。
緑の鱗に覆われた『リザードマン』の左腕。
幾本もの触手が寄り集まった『スキュラ』の右足。
そして、ジェインと同じ銀色の髪。
余りに多すぎる相似に、ジェインは混乱と驚愕に心中を支配されていた。
「どうだ、驚いたか!?」
ロプフェルの声が、ジェインの耳に届いた。
「ジルが開発されてからというものの、私は白衣連中にチャールズを預け、徹底して強化させたのだ!結果、姿こそ変わってしまったものの、魔物の肉体に人の精神を備えた、私に忠誠を誓う最強の護衛が生まれたのだ!」
そしてそこに、徹底した戦闘訓練の技術が組み込まれている。ジェインは胸中でそう付け加えた。
「貴様を見たところ、白衣連中もチャールズを参考に、それなりのものは作り出せるようになっているようだな」
確かに、ジルでもって記憶を植え付けることができるなら、肉体を改造するジルで、チャールズに匹敵する素養を植え付けることもできるだろう。自身の容姿さえもが作りものかもしれないという可能性に、ジェインは小さくはない衝撃を受けていた。
「が…所詮はまがい物だなあ?」
ロプフェルはどこか楽しげにそう言うと、急に語気を鋭く命じた。
「チャールズ!そのまま上がれ!」
ロプフェルの指示に、ジェインにまたがるチャールズが両腕を広げた。左背部から生える人造の翼が展開し、まっすぐにのばした右手が音を立てながら伸び、翼を形作っていく。そして、人造翼の取っ手を左手で握り、右腕に羽根が生えそろったところで、チャールズは大きく両翼を上下させた。
風が巻き起こり、ジェインとチャールズの二人の体が持ち上がる。
「んぐ…!?」
首筋に巻き付く触手に首を絞められそうになり、思わずジェインは両腕でチャールズの腰にしがみついた。その間にもチャールズは淡々と羽ばたき続け、ついには屋敷の屋根よりも高い位置へと上っていた。
「ははははは!チャールズ!お前が何年もかけて築き上げてきた、『本物』を見せてやれ!お前の努力の上澄みをすするだけの白衣連中や、まがい物の浸食主義者を叩きのめしてやれ!」
ロプフェルの言葉に、チャールズは小さく頷いた。そして一際強く翼を打ち鳴らすと、彼女はまっすぐに屋敷に向けて突っ込んでいった。
壁面や屋根にたたきつけるつもりなのだ。
「…!」
ジェインは首筋の触手をほどこうとするが、いまいち力が入らない。『ドラゴン』の鉤爪で触手を切ることも考えたが、それでは直接地面に落下してしまう。
(ぎりぎりのところで、切ってやれば…!)
壁面にたたきつけられるよりも前、地面に落下しても無傷ですみそうなところを狙えば。ジェインはそう算段をたてた。
だが、ジェインが微かに目の端に映る地面を頼りにタイミングを見計ろうとする一方で、チャールズが不意に進路を変えたのだ。降下しつつあった体を、上空へと持ち上げる。
「な…!?」
姿勢が変わる一瞬、ジェインの目に空が映る。そこにあったのは、順調に散り消えつつある雲と青空などではなく、妙に黒い雲空だった。しかも、ちょうどこの屋敷を中心に渦状の筋が描かれている。
「イヴァン…!?」
「ジェインさん!!」
のどに触手が食い込むせいで、掠れた囁きのようなジェインの声に応じるように、イヴァンは彼女を呼んだ。
「チャールズの髪が白いのは、魔王に近づいてるからだよ!」
渦巻く雲を作り上げながら、イヴァンは声を張り上げる。
「魔物のジルをたくさん使えば、魔物が少しずつ持ってる魔王のジルが蓄積して、魔王に近づくんだ!だけど、いつか魔王に近い魔物を調べないといけないって、リィドさんから聞いたんだ!」
窒息寸前で、薄く霞み始めたジェインの思考に、イヴァンの言葉は深く染み込んでいった。
「ジェインさん!魔王の娘の髪の毛は、みんな真っ白なんだ!」
その一言に、ジェインの胸中にある考えが浮かんだ。
「今まで言えなかったけど、ジェインさんは、まがい物なんかじゃない!ジェインさんが、オリジナルなんだ!ジェインさんは…!」
瞬間、上空の雲から響く雷の音や頬をなでる風に紛れて、イヴァンの言葉は彼女に届かなかった。だが、ジェインにはイヴァンの言わんとしていることが、よくわかった。
なぜ自分の記憶がジルによっていじられていたのか。
なぜ自分の体にジルがよく馴染み、チャールズのように部分的な変化が起こっているのか。
なぜチャールズが時折、自分の白い髪の毛を見ていたのか。
すべてが分かった。
ジェイン自身が、魔王の娘だったのだ。
「おい、そのガキを取り押さえろ!」
ロプフェルが遅れながら、控える警備隊員たちに命じた。
「チャールズ!もっと上空から、そのまがい物をたたき落とせ!」
続くロプフェルの命令にチャールズは頷くと、力強く翼を羽ばたかせ、上空へと舞っていった。
「うぐ…!」
ジェインはうめきながらも、必死に脳裏の残る意識の断片をかき集め、体を動かそうともがいた。だが、チャールズの右足から生えるスキュラの触手は、彼女の首に食い込み離そうとする気配がなかった。イヴァンの起こす嵐は徐々に強まりつつあるが、チャールズが風に翻弄される可能性は低い。
このままでは、嵐の中に放り出され、下手すれば遙か下方の浮島まで墜落するかもしれない。
せめて、チャールズだけでも相打ちに持ち込まなければ。
「うぅ…!」
ジェインはチャールズの顔に向けて、右腕を伸ばしていた。具体的になにをどうしようと言う考えはない。ただ手をかざしただけにすぎない。徐々に強まっていく風に指先が震え、チャールズの制服の胸の当たりに触れる。だが、力はこもらず、つかむことすらできなかった。
「……」
チャールズはちらりとジェインを見下ろすと、何の影響もないと言った様子で大きく羽ばたいた。嵐の中心、渦巻く雲の目を目指し、チャールズは高みへ、高みへとジェインを導いていく。
『ドラゴン』の左腕ではチャールズの触手を切断するぐらいのことしかできず、『クラーケン』の触手ではチャールズをとらえる前に空に放り出されてしまう。何か、チャールズを相打ちに持ち込めるような方法があれば。
ジェインが必死に頭を働かせる中、雲間に稲光が走った。雷が辺りに満ちている。その瞬間、彼女の中で何かがつながった。同時に、ジェインは右腕の皮膚が粟立ち、皮膚の表面を痺れが走るのを感じた。遅れて、ジェインの腕の表面で産毛が逆立つのを、彼女は皮膚越しに覚えていた。
(産毛…?)
ジェインの腕の肌はつるりとしており、産毛など生えていないはずだった。だが、確かに袖の下では、皮膚表面が淡く揺れるような感覚が合った。
直後、ジェインの腕がみしみしと音を立てて伸び始めた。二の腕、前腕、指。それらの骨が伸張し。形を変えていく。同時に、袖口からのぞく皮膚の毛穴を押し広げ、太い針のようなものがのぞき始めた。いや、針ではない。針状の鞘の下から顔を出したのは、青みを帯びた羽だった。ジェインの右腕が、チャールズのようにハーピィの翼に変化しつつあった。
ジルも飲んでいないのに、なぜ?
彼女の胸中に疑問が湧くが、戸惑っている暇はない。ジェインはこの翼がハーピィのものでないことと、どうやって使えばいいかを同時に悟っていたからだ。
青い羽根を生え揃わせた翼を、ジェインはチャールズの顔に向けて伸ばした。同時に、ジェインの青い翼の表面を、かすかな痺れとともに火花が走った。
「…!」
チャールズの目が見開き、彼女はスキュラの触手をゆるめてジェインから離れようとした。だが、彼女の触手が動く前、それこそ『触手をゆるめよう』と言う考えが四肢に伝わるよりも先に、ジェインからチャールズに向けて、雷が落ちていた。
サンダーバードの翼が生み出した雷は、チャールズの体を貫き、渦巻く雲へと複雑に折れ曲がりながら達する。そして雲間で輝く稲光を束ね、増幅し、ドゥナル・ポト・ナムーフのあちこちへと降り注いでいった。
黒雲から仮初めの地面へ、合間に浮かぶ飛行船を経由しながら、雷が辺りを白く染め上げていった。
そして後には、余りに大きな雷音に聾した耳だけが残った。
「……」
キィーン…という耳鳴りだけが響く中、チャールズはジェインを触手でとらえ、翼を広げたまま虚空に浮いていた。そして数瞬の後、チャールズの備えていた二種類の羽根が生み出していた風を失い、二人は落下を始めた。
「うぉ…!く、離せ…!」
目を開けたまま気を失っているらしいチャールズに、ジェインはそう言いながらスキュラの触手を引き剥がそうとした。しかし、彼女の触手は首筋に食い込みこそしていないものの、がっちりと巻き付いており、簡単には引き剥がせなかった。
ジェインの眼下、いつの間にか小さくなっていたギゼティアの屋敷が、見る見る内に大きくなっていく。このままでは、二人まとめて屋根に叩きつけられてしまう。
「…仕方ねえ…!」
ジェインは呻くように呟くと、『サンダーバード』の翼を大きく広げた。片翼のため、風をとらえて空を舞うことはできないが、それでも落下の勢いはいくらか殺せる。加えて、空中で姿勢を整え、ジェインは地面と自分の間に、チャールズを据えた。
「…!」
落下の寸前、広げていた『サンダーバード』の翼を折り畳み、代わりに『ドラゴン』の拳をチャールズの脇から突き出す。落下の勢いよりも早く打ち出された拳は、屋敷の屋根を打ち据え、ジェインとチャールズに反動をもたらした。しかし拳の一撃で罅の走った屋根は二人分の体重と衝撃を受け止めきれず、屋敷の中へと二人を迎え入れた。
衝撃と落下と衝撃。屋根はおろか、屋根裏の床、天井、床と交互に建材を打ち砕きながら、二人は落下を続けていく。
そして最後に、一際強く床に叩きつけられてから、二人の落下は止まった。
「…ごほっ…げほ…!」
舞う埃と、立て続けの衝撃による横隔膜のけいれんに、ジェインはせき込んだ。いくらかあちこちが痛むが、問題はない。
「げほ…!」
ジェインは『スキュラ』の触手に指を添えると、力に任せてそれをほどいた。そして、仰向けになったまま微動だにしないチャールズをそのままに、よろめきつつも立ち上がった。
「こ、こは…」
薄暗い室内を見回していると、ジェインに向けて光が降り注いだ。天井を仰ぐと、今し方ジェインたちが作り出した天井の穴から、日の光が降り注いでいた。
チャールズの力が再び限界を迎え、雲が途切れていったのだ。そして射し込む光は、ジェインたちが落下した部屋の様子を照らしていた。
ジェインたちのすぐそばに鎮座していたのは、金属でできた巨大な樽のようなものだった。
「こいつが、飛行機械…?」
辺りに転がる工具や、壁に貼られた設計図のようなものから、ジェインはそう推測していた。
「…!イヴァン!」
チャールズとの対決と、落下、そして飛行機械の発見に紛れていたが、ジェインは不意に少年のことを思いだしていた。飛行機械を見つけても、彼がいなければ意味はないからだ。ジェインが最後に覚えているのは、チャールズを捕らえようとする警備隊員の声だ。
「今、助けるからな!」
倒れたままのチャールズをそのままに、ジェインは部屋の中をぐるりと見回し、扉に向けて駆け寄った。
だが、ジェインが達する遙か手前で、扉が開いた。
「この、放せ…!」
「イヴァン!」
警備隊員に腕を背中の方へ捻られる少年の姿に、ジェインは彼の名を呼んだ。
「貴様ら…!」
ジェインは扉の向こうの警備隊員たちをにらみながら、両手と右足に意識を集中させた。『クラーケン』の触手、『ドラゴン』の左腕、『サンダーバード』の右翼。ジェインは疲労困憊していたが、それでも連中に負ける気はしなかった。
しかし、彼女が躍り掛かる前に、警備隊員の向こうから拍手の音がした。
「へ…?」
「おめでとう」
突然の拍手に動きを止めるジェインの耳を打ったのは、聞き覚えのある声だった。
すると警備隊員が、半ば突き飛ばすようにイヴァンを解放し、左右に分かれて道を作った。
「お前…!」
人垣の向こうに立っていた人物の顔に、ジェインは目を見開いた。
13/12/08 21:03更新 / 十二屋月蝕
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