連載小説
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chapter 3
 『ジル基礎展示室』は、そこそこ広かった。飛んだり跳ねたり、ちょっとした体操をするには十分すぎる広さだった。扉の向かい、部屋の奥の壁には小さな窓が設けてあった。よく見るとガラスを支えるための枠が金属製であったが、緩やかな曲線の装飾を施されているため、閉塞感はいくらか和らげられていた。
 部屋の中央にはテーブルが置かれ、本や木枠のケースに収められたジルのボトルが並べられている。部屋の壁には、ジルの効能や由来について解説しているのであろう、絵図入りのパネルがつり下げられていた。
「さーて…どれからいこうか…」
 ジェインは入り口からテーブルに向かうと、一番近くにあった木枠のケースに手を伸ばした。ケースは当たり前のように鍵がかけてあり、中に納められたジルのボトルを守っていた。
「蝶番は…お、はずせるな」
 ケースの後部をのぞくと、蝶番が二つネジを晒したまま並んでいた。ジェインは上着のポケットからナイフを取り出すと、刃先をネジ山に食い込ませて、くるくると回した。程なくして一本、また一本とネジが抜け落ち、ついに蝶番がはずれる。
「よ…」
 ジェインは木枠ケースのふたをつかむと、軽くひねりながら外した。そして傍らにケースのふたを置くと、彼女は中のボトルをつかむ。
「…ん?」
 ボトルを持ち上げた彼女を襲ったのは、妙な軽さだった。翼を広げる、どこか鋭角的なデザインのハーピーが装飾として施されたボトルを軽く振るが、何の手応えもなかった。
 空だ。
「空き瓶を並べてるのか…」
 ジェインはほかのケースに目を向け、色の濃いガラスを透かして内容物の影が見えないことを確かめると、少しだけ落胆したようにつぶやいた。
 どうやらここは、来客にジルが何かを説明するための部屋のようだ。
『ジルはトッド・ロック医学博士とレベッカ・リィド優生学博士の共同研究によって作り出されました』
 壁のパネルの文字と、小さな絵を見ながら彼女はそう判断した。
 いくべき場所はジルの保管倉庫だ。だが、ジェインにそのような部屋があるのかどうか、判断が付かなかった。
「とりあえず、ざっと見てみるか…」
 ジェインは壁際に歩み寄ると、並べて吊されたパネルを一枚一枚流し読みしながら、部屋を一周した。
『ジル!偉大なる生命がもたらした奇跡の一滴!』
『ジルによってナムーフの生活は一変!』
『生物の特徴を抽出!』
『優れた特質をジルで修得!』
 宣伝文句のような言葉が並ぶパネルをざっと見て、ジェインはジルについておおむね理解できたような気がした。ジルとは、生物から抽出した液体のことであり、そこに含まれる成分を接種することで、ほかの生物の特徴を取り込むことができるという。しかし、具体的にどうやってジルを抽出するのか、ジルがどのように肉体に作用するのかについてはさっぱりだった。
「でも、こっちの空き瓶は…まあ、収穫があったと見ていいかな」
 ジルのボトルは空であったが、効能の記された解説文がケースに貼られている。
『ハーピィ:あなたに翼をもたらし、風に乗って空を飛べます』
『リザードマン:堅い鱗で身を守りましょう』
『スキュラ:少し離れたあそこに、見えざるあなたの手が届きます』
 ジェインはボトルの形と共に、解説文の内容を頭に入れた。
 いずれこれらのジルが手の届きそうな距離に現れたとき、効能を覚えておけばためらいなく使える。
 ジェインは一通り飽きボトルを見て回ると、顔を上げて部屋をざっと見回した。ジルの空きボトルと、壁のパネル。展示室にふさわしく、それだけだった。やはりジルを手に入れるには、ちゃんとした研究室か、保管庫を目指さないといけないのだろう。
「『浮かべ』とか『もう少し下』とかで動かねえかなあ」
 行き先を告げるだけで移動してくれるチェア。自動的に高度を変えてくれる驚異の移動装置に対し、ジェインは若干の不満を抱いていた。チェアは便利だが、自由に移動できないのがつらい。すでに修得した『クラーケン』のジルを使って、内壁を移動した方がいいかもしれない。骨は折れるが、塔内部に他に移動するチェアの姿はほとんどなかったため、人目には付かないだろう。
「…ん?」
 そこまで考えたところで、ジェインはようやく違和感に思い至った。人が少なすぎるのだ。これだけの規模の研究施設ならば、相当の人数がいるはず。だというのに、ジェインが目にしたのは外の遊歩道にいた白衣の男女だけだ。あの二人の他には、人影はおろか人の気配すら感じられなかった。
 楽観的に考えれば、研究者たちは自信の研究に忙しく、それぞれの部屋に籠もりきりなのだろう。だが、実は姿を隠してジェインを監視しているとすれば、状況はかなり苦しい。
「…定期飛行船ターミナルに戻るか…?」
 ここまで何の接触もないということは、研究者たちはジェインがさらなるボロを出すのを待ちかまえているのかもしれない。おとなしく飛行船の発着場に戻り、じっとしていた方がいいだろう。
 ジェインは部屋に背を向けると、桟橋へでようと出入り口に向かった。だが、いつの間にか入ったときのように閉じかけになっていた扉の裏が目に入り、ジェインは足を止めてしまった。扉の裏には、この巨塔の見取り図が描かれたポスターが貼ってあったからだ。
 見取り図、とはいっても塔の断面に何カ所か線を引き、そこでなにをやっているかざっと記したものだ。おそらく、見学者向けの案内図といったところだろう。だがそこには、『ジル博物館』や『ジル実験室』などといった文言が踊っており、ジェインをとらえるには十分だった。
 それどころか、ジルなどよりももっと重要かもしれない文字を彼女は見つけた。
『気象操作技術研究所』
 塔の上方、ほぼ天辺を丸く囲む円から延びる線には、そう文字が続いていた。多少の誇張はあるかもしれないが、案内図上の『気象操作研究所』は塔の上端部をすっぽり覆うほどの大きさだった。それだけの広さがあるのならば、何らかの資料があってもおかしくはない。
「よし…」
 ジェインは覚悟を決めた。すでにジルのボトルが収められたケースを一つ壊しているのだ。それにそもそも、彼女自身不法侵入状態であちこち回っているようなものだ。ここに後一つ二つ罪状が追加されるぐらい、どうということはない。
 彼女は扉を開いて桟橋に出ると、チェアに腰を下ろした。ベルトを締めて肘掛けを握り、どこからか聞いているであろう何かに向けて告げた。
「『気象操作技術研究所』」
 三度目になる、ジェインとチェアを中心とする渦状の風が生じ、桟橋からチェアが浮かんだ。チェアは桟橋を離れて吹き抜けへと出ると、上方へ上方へと向かっていった。
「あれ…?」
 ジェインは次第に迫る、塔の吹き抜けの最上端を見上げながら、そこが青空につながっているのではないことに気がついた。最上端はガラスか何か、透明な板に覆われており、その向こうで発光する何かが蠢いていた。小さな木の葉が無数に集まって波のようなうねりを紡ぎ出すように、明るさの濃淡を変えながら、何かが吹き抜けを覆う板の向こうで光っていた。
「何だあれ…」
 ジェインはまばゆさに目をすぼめながら、どうにかして発光する何かの正体を見極めようとした。しかし、それを成し遂げられる前に、不意にチェアの浮上が止まった。チェアはジェインを乗せたまま、塔の内壁に穿たれた外へと続く穴の一つに迫っていく。そして、一瞬の暗さを経て、ジェインは塔の外へと出た。
 塔のほぼ上端に近いためか、チェアからの眺めはとてもよかった。眼下に広がる庭園は、木々一本一本の区別が付きにくいほど小さく、島の縁の向こうに見えるいくつかの浮島に至っては、わずかに青みがかって見えた。
 ジェインが遠くに見える島や、研究島に向けてゆっくりと向かってくる大型飛行船を眺めるうち、チェアは再度浮上を始めた。塔の壁面に沿って上昇を続け、ついに塔の天辺に出る。塔の天辺には塔自体の直径からすれば小さな、飛行船が二三隻は楽に着陸できそうなくぼみがあった。チェアはそのくぼみにすい寄せられるように近づき、四本の足を着けて停止した。
 ここが『気象操作技術研究所』なのだ。
「…」
 ジェインは無言のまま辺りを見回してから、ベルトをゆるめてチェアを立った。そしてくぼみの壁面に設けられた扉に向け、彼女は歩いていった。荷物を運び込むためだろうか、かなり幅の広い扉だ。だが施錠されていないらしく、ジェインが取っ手に手をかけて軽く押すだけで、扉が開いた。
「…よし」
 扉の奥に続く通路をさっと眺めてから、ジェインは扉から身を滑り込ませた。誰もいない。進入するならば今のうち、だ。
 足音を忍ばせながら、板張りの廊下を進んでいく。耳を澄ませば、バチバチという何かがはぜるような音や、ぽちゃんぽちゃんと液体が滴り落ちる音が聞こえる。おそらく実験か何かをしているのだろう。
 彼女は気配を悟られぬよう、呼吸さえも押さえ込みながら通路を進んでいった。すると、彼女の前方、やや薄暗い廊下に向けて、通路の壁面から四角く切り取られた光が射し込んでいた。開け放たれた扉から光がれだしているのだ。
 ジェインはあたりの気配を伺ってから、右足に力を込め、『クラーケン』のジルを発動させた。右足が四本の触手になり、先端に靴をひっかけた一本以外を廊下の天井にのばす。ジェインは天井板に触手三本分の吸盤をべったりと張り付かせて固定すると、伸びきったそれを縮めた。結果、彼女の体は天井へと持ち上げられた。
「…」
 天井の暗がりに身を潜め、気配を殺しながら、彼女はそっと開け放たれた扉から室内をのぞき込んだ。
 そこにあったのは、テーブルの上に並べられた幾つもの実験器具だった。フラスコやガラス瓶など見覚えのあるものから、複雑に曲げられた金属製の管に水を満たした盥のようなかろうじて何か分かるもの、そしてどう使用するのかよくわからない器具までが並べてあった。
 しかしジェインの視線をとらえたのは、無数の実験器具などではなく、その中で異常な挙動を示すいくつかのガラス瓶だった。
 金属製の台の上にガラス瓶が置いてある。ガラス瓶は針金を巻き付けてあり、いずれも赤い液体が満たしてあった。
 すると、針金を巻き付けられたガラス瓶一つを満たす液体が、不意に発光を始めたのだ。最初は液体と同じく赤い光だったが、徐々に赤みがオレンジから黄色へと変わり、ついにはまばゆし白い光になった。ガラス瓶の中で液体が揺れているためか、かすかに光が揺らいでいるように見える。ちょうど、吹き抜けの天井から降り注ぐ光のようだ。
 そしてその隣の、木箱と針金で結びつけられているガラス瓶は、不意にかたかたと揺れだした。ガラス瓶はしばし振動を繰り返すと、下の木箱ごと机の天板から浮かび上がった。ジェインは一瞬驚きに目を見開くが、すぐに机の上で埃が渦を巻くように舞ってるのに気がついた。小瓶と木箱を中心に、風が渦巻いているのだ。ちょうどチェアが宙に浮かぶように、小瓶と小箱も浮いているにすぎない。おそらく、チェアのどこかにもああいう小瓶のような仕掛けが施されているのかもしれない。
 そこまで考えたところで、ジェインはふと胸中に改めて疑問が浮かぶのを感じた。小瓶やチェアがつむじ風で宙に浮かび、飛行船がマストにくくりつけられた袋で空を飛ぶ。では、この浮遊都市はどうやって浮いているのだろう。ジェインは、他の浮島を遠目に見たときに、浮島の基礎部にいくつか袋がくくりつけられているのを思い出した。だが、飛行船と袋の大きさから考えると、幾つもの建造物が並ぶ浮島には足りない気がする。風とは異なる何かがあるのだろうか。
「その辺も、探せば分かるんだろうな…」
 彼女は完全に人の気配がないことを確認してから、そう呟いた。そして彼女は天井にへばりついたまま扉をくぐり、室内に入り込んだ。あるのは模型ばかりだが、それでもサンプルにはなるだろう。特に、風を纏って浮かぶ小箱と小瓶など、天候操作の基礎中の基礎を解明する手がかりになるかもしれない。
 ジェインは天井を這いながら机の真上に移動すると、上体を床へと向けておろした。纏められた髪が重力に従って垂れ下がりそうになり、頭日が上ってくる感覚が彼女を襲う。ジェインは少しだけぼんやりとする意識をどうにかはっきりさせると、自信の真下で浮遊を続ける箱と小瓶に向けて手を伸ばした。小瓶に向けて指が近づくにつれ、彼女は指先を撫でる風が徐々に強まるのを感じていた。だが、指先が小瓶や木箱にふれる遙か手前で、ジェインの指先が見えない何かに弾かれた。
「っ!?」
 目には見えない手で思い切り指先を叩かれたかのような感触に、彼女は思わず手を引っ込めた。どうやら小瓶と木箱が纏ってた風は、彼女が想像していたものより遙かに強いらしい。そして、そんな強風の中どうにか安定していた小瓶と木箱も、ジェインの指先の接触の反動にゆらゆらと揺れ始めていた。揺れは徐々に大きくなり、ついに箱が横転する。小瓶と木箱は、机の上に直接ふれることなく横倒しになり、しばしごろごろと転がってから床へと落ちていった。一瞬の間を挟んで、ガラス瓶の割れる音が響く。さすがの風も、瓶と木箱の重みと落下の勢いには耐えられなかったようだ。
「いや、んなこと考えてる暇じゃ…」
 ジェインは大きな音を立ててしまったことに舌打ちしつつ、この部屋を逃れようとした。だが、彼女が他の小瓶を持ち帰ろうか一瞬考え、視線を机に向けた瞬間、ジェインの目が釘付けになった。机、正確に言えばその向こうの床で、割れた小瓶から流れ出した液体が、ゆっくりと動いていたからだ。床の傾きに応じて流れていくような動きではない。飛び散った飛沫の一つ一つさえもが、互いに互いを求めるようにより集まっていたのだ。そしてついに、床の木板の上に手のひらほどの大きさの赤い水たまりができた。水たまりはしばし表面を波打たせてから、床板の隙間から床下へと流れていった。
「…逃げた…?」
 水たまりの動きに、ジェインは思わずそう漏らしていた。だが、直後彼女は首を振ってその考えを打ち消した。ただの赤い液体が逃げるわけがない。液体がレッドスライムのような魔物だったとしても、あの大きさでは逃げるような知恵は備えられない。
 ジェインは今し方見た現象を、脳内で床のわずかな傾きによるものだと結論付け、再度机の上に手を伸ばした。そして、針金を巻き付けられ、発光する小瓶を手に取った。小瓶はジェインの指にひんやりとした感触をもたらしながら、机を離れて彼女の顔の前まで持ち上げられる。どうやら火とは違い、熱を発しない光のようだ。ジェインはしばし小瓶を見聞してから、衣服のポケットにねじ込んだ。さあ、この場所を離れなければ。
 彼女は触手を操って向きを変えると、再び廊下の天井へと這い出た。そして天井に体を押しつけるようにしながら、呼吸を極限まで抑えた。先ほど小瓶を取り落とした際の物音で、誰かがやってくるかもしれない。そして小瓶が一つ割れ、一つ消えていることに気がつくだろう。そうなれば、研究者たちが手分けして犯人を探し回るはずだ。数多くの研究者たちの目から逃れるのは難しいが、研究者の誰かがすでに捜索を終え、何ともないと判断された通路を通るのは簡単だ。あとは、壁面を伝うかどうにかして、チェアのところまで逃れられればいい。
「……」
 ジェインは呼吸を抑えたまま、誰かが来るのをじっと待っていた。だが、待てども待てども足音はおろか、気配一つすら感じられなかった。
「…誰も、いないのか…?」
 天井の暗がりに身を潜めたジェインが、ふと呟く。思い返してみれば、塔を囲む庭園で出会った男女の研究者の他、ジェインは人影一つ見ていなかった。ジェインをひっそり監視しているためかとも思ったが、それにしては静かすぎる。
 まるで、彼女の他に誰もいないかのようにだ。
「……」
 ジェインは胸中に浮かんだ可能性を否定しきれず、天井を這いながら移動し始めた。ジェインが入ってきた、チェアの置いてある場所に向けてではなく、『気象操作研究所』の奥へ奥へと向けてだ。奥に向かうのは誰もいないという可能性を確かめるためで、天井に張り付いたままなのは誰かいるかもしれないという可能性があるからだった。
 ジェインは普通に歩くときの倍以上の時間をかけて通路の奥へと進んだ。『クラーケン』のジルによってもたらされた彼女の右足の触手は、長時間天井にへばりついていても疲労を感じさせることはなかった。しかし、慣れない姿勢での移動は彼女に疲労以上の辛さをもたらした。
 すると、彼女は自信の前方に、天井板が微妙に浮いている箇所があることに気がついた。触手を伸ばして軽くふれてみると、天井板は彼女の力によって容易に外れた。あの場所から天井裏に入れそうだ。むしろ、板が浮いているのに気がつかず、普通に触手を吸着させていたら、天井板が外れて落下していたかもしれない。
 自身の幸運に感謝しながら、彼女は人一人が通れるほどの隙間に身を滑り込ませた。そして、天井板を支える梁の一本に腹ばいになると、触手の先端にへばりつかせたままだった天井板を元の場所にはめ込んだ。 暗闇が彼女を包み込む。しかし闇に塗りつぶされた視界には、いくつもの光が筋のように射し込んでいた。天井板の隙間や、節穴からの光だ。ジェインはか細い光を頼りに、そろそろと闇の中を這い進んでいった。梁に抱きつくように、木材が軋みを立てぬように、そろそろと進んでいく。
 だが、闇の中に聞こえるのは、ジェインのかすかな吐息と衣擦れの音だけだった。どこまで続いているのか、天井裏の闇は限りなく見えるほど広がっていたが、彼女の立てる音の他、物音はほとんどしない。
 まるで、誰もいないかのように。
「…んなことあるか…」
 ジェインは一瞬脳裏に浮かんだ可能性を打ち消そうと、そう呟いた。そうだ、湯気の立つ夕食を残して一人残らず消え去った村の噂話のようなことが起こってたまるか。そもそも、村から人が消えたあの話には、ごくつまらない真実が裏話としてついていたはずだ。
「ええと、確か…」
 ジェインは噂話の真実を思い出そうとしたが、とうとう思い出せなかった。ただ彼女の胸中に、あまりおもしろくなかったという感想だけが残っていた。それほどつまらない真実だったのだろうか。ジェインは胸の中にもやもやとしたものを抱きつつ、とりあえず納得しようとした。
 今現在、彼女は天井裏に身を潜める身なのだ。仮に彼女の妄想が事実で、この天井裏の潜行が一人相撲だったとしても、いるかもしれない敵に気配を悟られてはならないのだ。ジェインは霧散し欠けていた集中力をかき集め、闇の中に神経を張り巡らせた。
「ん…?」
 不意に、ジェインの耳を小さな音が打ったような気がした。足音だ。足音が聞こえた。
 ほんの一瞬、耳を打った微かな音は、ジェインに緊張を走らせた。だが、足音の主は天井裏に潜むかの序のことなど露知らず、のんきに木板の床の上を歩いていった。
 みしりみしり、と木がこすれる音が響く。音と音の間は短く、軋みも軽く感じられた。どうやら足音の主は、かなり小柄のようだ。そう、おそらくは子供。
 だが、なぜこんな浮遊都市の研究施設に子供が?ジェインの胸中に疑問がわいた。
 可能性として考えられるのは、研究者の家族だ。だが、こんな最上階、しかも『気象操作技術研究所』として塔の直径とほぼ同じ広さの設備を与えられている場所に、家族を住まわせるだろうか。
 続いて考えられるのは、足音の主である子供、あるいは子供のように小柄な成人が、とんでもない天才である場合だ。呼吸するようにジルだとか天候操作、そしてこの浮遊都市を浮かばせる技術を思いつくような天才ならば、これほどの設備を与えられていても不思議ではない。
 そして最後に考えられるのが、足音の主が実験対象である場合だ。何の実験かはジェインに想像もつかないが、おそらくジルの投与実験だろう。あるいは、『気象操作技術研究所』の名前の通り、気象を操作する訓練を受けているのかもしれない。
「…確かめてみるか…」
 ジェインは闇の中で囁くと、足音のした方に向けてゆっくりと這い進んでいった。音を潜めながら、ゆっくり歩くよりもさらに遅い速度で移動を続け、彼女は天井板の節穴からある一室をのぞき込んだ。
 そこはどうやら図書室のようだった。ジェインの見える範囲、壁には本棚が並べられ、本が詰め込まれていた。そして部屋の中央にはイスと机が置かれ、何冊かの本が積まれていた。するとジェインの見下ろす床の上を、小さな人影が一つ通り過ぎていった。
 子供だ。短い黒髪の少年が、本棚に向けて歩いていったのだ。
「♪〜」
 少年は鼻歌を歌いながら本棚に歩み寄ると、軽く首をそらしながら上の方を見上げた。どうやら、上の段に並んでいる本を読みたいらしい。しかし、彼の身長では本に手は届かないだろう。ジェインは節穴から見える範囲に視線を巡らせたが、脚立や本棚用の梯子のようなものは見えなかった。どこかの物置にでもしまってあるのだろうか。
 ジェインがそう思いながら見守る中、少年は無造作に手を掲げた。そうすれば、本に手が届くというようにだ。その瞬間、ジェインは頬を何かが撫でるのを感じた。
 風だ。風が天井裏の空間に吹いているのだ。ジェインののぞき込む節穴はもちろん、天井板の隙間や微かなひび割れから、風が室内へと吸い込まれているのだ。だが、ジェインが屋内を撫でる風に驚く間もなく、さらなる驚きが彼女を襲った。なんと、少年のかざした手の先で、並ぶ本の一冊が本棚から引き抜かれたのだ。表紙と裏表紙が開き、ページがふるえてばたばたと音を立てながら、少年の手に収まった。まるで小鳥が彼のかざした手へと舞い降りたかのような動きだ。
「何だ今の…」
 ジェインは口の中でそう呟いた。ジェイン自身の耳にも届かぬほどの囁きに気がつく様子もなく、少年は手に取った本をめくりながら歩きだした。彼の姿が節穴で切り取られたジェインの視界を横断し、木板の影に隠れそうになる。ジェインは彼の姿を追おうと、身を乗り出した。

 ぎしり

 その瞬間、ジェインのしがみつく梁から小さな音が響いた。だがその軋みは、ジェインの心臓を大きく跳ねさせるには十分すぎるものだった。
「しま…!」
 音を立ててしまった。自らの失敗に、ジェインは思わず声を漏らしてしまった。一瞬の後、後悔が彼女を襲うが彼女はすぐに打ち消した。物音を立ててしまった時点で、少年にその気配を悟られてしまったからだ。
「誰!?」
 節穴の縁ぎりぎりの場所で、少年が足を止めて天井を仰いでいた。
「誰か…いるの…?」
 姿の見えぬ何かにおびえているのか、少年の高い声は小さく震えていた。どうやら、ジェインの存在に気がついているというよりはむしろ、耳慣れぬ物音に対する警戒や不安の方が大きいようだ。
 このまま息を潜めていれば、気のせいだったと思うかもしれない。
「誰か…いるんでしょ…?」
 少年の声にはますますおびえが宿っていた。
「…誰かを呼んで…」
「ま、待て!いる!だけど人は呼ぶな!」
 ジェインは、少年が部屋の戸口に目を向けてそう呟いた瞬間、天井裏から声を上げた。誰かに気配を悟られるのはやっかいだったが、それ以上に少年が人を呼び、『天井裏に誰かいるかもしれない』と知れ渡る方が面倒くさいからだ。
「誰…!?」
「オレは…ええと天井裏のメンテナンスを…」
「誰か!」
「訳あって隠れてる!人を呼ばないでくれ!」
 ジェインは適当にごまかすことをあきらめた。
「…何でそんなところに?」
「その……け、研究を盗みに…」
 一瞬考えてから、ジェインは事実の一部分だけを答えた。
「研究を盗む…もしかして、セントラの外の人?ロプフェル行政長の手下?」
「そんなところ…だな」
 この浮島はおろか、ナムーフの外の者であるが、ジェインは頷いた。後半の質問については、天井板のせいでよく聞こえなかったことにして、彼女は明快な回答を避けた。
「ねえ、話し辛いから、ちょっとこっちに降りてきてよ」
 少年は緊張が和らいだためか、彼女を招いた。
「それに、セントラの研究を盗もうとしてるなら、とっておきの研究があるんだ」
「いや、そう言われても…」
 ジェインは迷った。『とっておき』の研究とやらも気になるが、彼のような子供がそんなものを知っているとは思えない。仮に、彼が天才少年だとしたら、研究とやらにも信憑性が出てくる。それに、先ほど本を取りだした何かについても気になる。
 迷うジェインに向けて、少年は続けた。
「誰か…」
「分かった、降りる」
 ジェインは節穴から顔を離した。そもそも彼女に選択肢などなかったのだ。梁に巻き付かせていた触手の一本を天井板に吸着させ、力を込める。すると木板は容易に外れた。彼女は天井裏に木板を置くと、梁に絡み付かせた三本の触手をのばして室内へと降りていった。
「よ…っと」
 左足を伸ばし、つま先を薄い絨毯の敷かれた床に着けると、彼女は右足の触手を梁から離し、縮めた。そして一本の触手の先端にひっかけていた靴に、他の三本の先端をねじ込むと、ジェインは触手を右足に戻した。
「わぁ…」
 目の前に降り立った女の右足の変化に、少年が目を丸くした。
「お姉さんはスキュラ…じゃなくてクラーケンなの?初めて見た」
「いや、違う」
「え?でもお姉さん銀髪だし、真っ白な触手で…」
「オレは人間だ。この足はジルを飲んで身につけたんだ」
「ジル!?」
 少年が再び驚きに目を見開く。
「そんなになるまでジル飲んだ人、初めて見た!」
「え…そうなのか?」
 少年の言葉にジェインは一抹の不安を覚えつつ、聞き返した。
「うん、だってジル…お姉さんと同じ『クラーケン』のジルを使う人を見たことあるけど、遠くのものを引き寄せたりとかで、足が触手になるところなんて見たことないよ。ジルを飲み過ぎるとその魔物になるって聞いたことはあるから、お姉さんよほどたくさん飲んだんだね!」
「そ、そうなのか…」
 ジェインは酒場での出来事を思い出した。確かあのときは、ボトル半分を飲み干したんだった。半分であのぐらいだったのだから、一本のみ干していたらクラーケンそのものになっていたかもしれない。魔物と化した自分の姿を思い浮かべ、ジェインはそうならなかったことに胸をなで下ろした。
「…そうだ、そう言えば降りてくれば、とっておきの研究を教えてやる、って話だったな」
 ジェインはふと、少年の提示した条件を思い出し、彼にそう尋ねた。
「ああ、そうだったね」
「とっておきの研究とは何のことだ?」
「ふふふ、よくぞ聞いてくれました…このセントラのとっておきの研究とは…僕!」
 少年は低く笑ってから、両手を高々と掲げた。
「…?」
「あ、信じてないね!」
 ジェインの発した無言の気配に、少年が声を上げた。
「いやー、だってお前ただの子供だろ?この…研究所?に住んでるだけの子供だろ?」
「いやいやいや、さっき見たでしょ?僕が本棚から本を取るところ!」
「あー、あれか」
 ジェインは一瞬だけ驚きを覚えた、あの光景を思い返した。
「あれってジルだろ?ジル使うだけなら、他の島のその辺のおっさんも使ってたぞ」
「違う!僕がやってるの!」
「だからジルだろ?」
「ちーがーうー!もーほら!」
 少年はジェインに向けて両手を突き出すと、手のひらを向かい合わせにした。すると、彼の手のひらの間の空気が、ゆっくりと渦巻き始めた。あたりの空気が少年の手の間にすい寄せられ、上下に吹き抜けていく。彼の手の中に小規模の竜巻が生じているのは、明らかだった。
 気象操作。
 この浮島に鎮座する巨塔の最上階の一室、研究所の名と同じ力を、少年はジェインに見せていた。
「え…?これどうやって…」
「生まれつき、風を吹かせたりとかできるんだ」
 少年は手の中の竜巻の勢いを弱め、両手をぱちんと打ち合わせて完全に消しながら続けた。
「最初のうちはそよ風を吹かせるぐらいだったけど、大きくなるうちに雨雲を呼んだりとか、さっきみたいに小さなつむじ風を起こしたりできるようになったんだ」
「なるほど…」
 ジェインは頷いた。おそらく、少年の能力は生まれつきのもので、この研究所は彼の力を成長させるためのものだろう。彼を地上に連れ帰れば、ジル以上に役に立つかもしれない。
「…なあ、お前はここに来る前は、どこに住んでたんだ?」
 ジェインは話を変えるようにそう訪ねた。少年の故郷を聞き出し、そこへ連れ帰ってやると申し出るためだ。
「…分からない」
 少年は一瞬考え、そう返した。
「分からない?」
「うん。小さい頃からここ…ナムーフに住んでいて、地上での思い出とか全くないんだ」
「…じゃあ両親は?」
「知らない。研究員の人が親切にしてくれるけど…」
「…そうか」
 どうやら少年は、相当複雑な境遇のようだった。
 先ほどの祭りの会場の文言によれば、今日はナムーフができてから十年だという。ナムーフでの記憶しかないということは、おそらくこの浮遊都市が空に浮いた頃から研究者に捕まっていたのだろう。片手で数えられるほどの年齢の頃から、両親の顔も知らぬまま、研究者の中で育てられてきた。彼の特殊な境遇に、ジェインは哀れみを覚えつつも、連れ出すに十分な口実の糸口をつかめたと確信した。
「…外に出たくないか?」
 ジェインは少しだけ暗い表情の少年に向けて訪ねた。
「え?」
「外だ、外。正確に言えば…この街の『下』だな」
 薄い絨毯に覆われた床に、ジェインは指先を向けた。
「ここを抜け出して、ナムーフを出て、お前が本でしか読んだことのない下の世界、地上に行ってみたくないか?」
「……で、でも…」
 少年の瞳が揺れた。
「なあに、ナムーフを出る方法に心当たりはある」
 そう、セントラ研究島に来る直前、ジェインは飛行船の奪取に成功していた。落雷さえなければ、浮遊都市を離れられるところまできていたのだ。
「オレに任せておけ。だが、必要なものがある。お前の協力だ。お前が、『ここを出たい』と思わなければ、オレはなにもできない」
「………僕は…」
 少年はしばし沈黙してから、口を開いた。
「僕は…ここを出てみたい…ナムーフ、いやセントラを出て、見たことのない場所を見てみたい…」
 彼はそこまで言ってから、ジェインの目を見つめた。
「お姉さん、僕をここから出して」
「よし、引き受けた」
 ジェインはにっこりとほほえみつつ、胸のあたりを軽く叩いた。
「まずはここから出るが、暗いところは平気か?」
「うん、大丈夫」
 ジェインの問いかけに、少年は頷いた。天井裏を進むのに問題はないようだ。彼女は少年の返答を確かめると、つい先ほど自分が降りてきた天井板の隙間を見上げ、ふと思い出したように少年を振り返った。
「あーそうだ、その前に一つ言っておきたいがある」
「なに?」
「お姉さんは…ちょっとこそばゆいからやめてくれ」
 これまでに何度か、名を呼ばれる度に感じていたむずがゆさを、ジェインは白状した。
「じゃあなんて呼べばいいの?」
「ジェインでいい。ジェイン・イルジチオ」
「…変わった名字だね」
「そうか?」
 ジェインは記憶を探るが、変わった名字だという評価を受けた覚えはなかった。
「それで、お前は?いつまでもお前呼ばわりはいやだろ?」
「そう言えば、名前言ってなかったね。僕はイヴァン。名字はない。ただのイヴァン」
「イヴァンか」
 ジェインは何度か口の中で彼の名、イヴァンを繰り返した。彼女の名と韻を踏んでいるためか、彼の名前はジェインの舌に馴染んだ。
「じゃあ、改めてよろしくな、イヴァン」
「よろしくね、ジェインさん」
 ジェインとイヴァン。二人はどちらからともなく手を出すと、軽く握りあわせた。少年の手は、温かかった。
「さて…ここを出るぞイヴァン。しっかりオレに捕まれ」
 ジェインは彼の手から指を離すと、自身の左半身にジェインを抱き寄せ、しっかりと腰に手を回した。そして天井板がずれてできた穴に向けて、彼女は右足を振りあげた。
 瞬間、ジェインの右足がほどけ、四本の触手となる。触手は天井裏の暗がりに飛び込むと、梁に吸盤を押し当てた。
「ふん…!」
 自分とイヴァン、二人分の体重を支えるため、ジェインは触手に力を込めた。するとジェインの右足とイヴァンの両足が床を離れた。
「うわ!?わ!」
「騒ぐな。捕まってろ」
 浮遊感のためか騒ぐイヴァンを抱きしめて黙らせながら、ジェインは天井裏に飛び込んだ。そして梁にしがみつきながら、彼女は天井裏に放り出されていた天井板を拾い上げ、元の場所にはめ込んだ。
「これでよし」
 後はとっとと天井裏を出て、この浮遊島から離れるだけだ。
「ほら、大丈夫か?梁にしがみついてないと、落ちるぞ?」
 ジェインは腕の中で、妙に呆然としているイヴァンに語りかけた。すると彼ははたと正気に返り、ジェインの腕の中から逃げるようにして離れた。
「何だ?そんな急に…」
 イヴァンの逃走にもにた身動きに、ジェインは思わず漏らした。
「オレの足が変化するのは、さっきも見てただろ?オレがイヴァンを襲ったりはしないよ」
 ジェインは自身の変化に、少年が恐怖を覚えたのかと思い、そう言った。だが、少年は薄闇の中で首を左右に振った。
「…足を見てなかったのか?」
「いや、その…急に抱きしめられて…」
 言葉を濁しながらのイヴァンの返答に、ジェインは納得した。どうやら彼ほどの年齢の少年にとって、ジェインと密着するのは毒だったらしい。
「それは悪かったな。だけど、恥ずかしがってる場合じゃないときもあるから、なるべく我慢してくれ」
「う、うん…」
 気恥ずかしさが残っているためか、少年は闇の中で頷いた。
「さて…イヴァン」
「なに?」
「お前、この近くにジルが置いてある部屋を知らないか?」
「ジル?」
「ああ」
 ジェインは頷いた。
「お前の能力も重要だが、ジルのサンプルも欲しいんだ」
「うーん、一応心当たりがないこともないけど…」
「助かる、場所を教えてくれ」
「いいよ。確か、部屋を出て…」
 少年は天井裏の空間に、自身が歩き慣れた部屋の構造を重ね合わせながら、ジェインに道を教えた。
「まっすぐ進んで、右に曲がって…三つ目の部屋だった」
「よし…付いてきてくれ」
 ジェインは少年の言葉に頷くと、天井裏を這い進み始めた。少年の指し示した場所までの距離はそうなかったが、立ち上がるどころか中腰になることもできぬ天井裏では、二人は思うように進めなかった。ゆっくりゆっくり、慣れぬ姿勢で這わねばならない。
「ところでジェインさん…」
 道半ばと言うところで、ふとイヴァンが口を開いた。
「何だ?」
「その…ジルとか取りに行ってる時間あるの?」
 少年の問いには、微かに不安の震えが宿っていた。
「僕がいなくなったことに気が付いて探し出したりするかもしれないし…」
「そのことなんだが…どうもこの研究所、いやこの島全体にほとんど人がいないみたいだ」
「いない?」
「ああ。オレもこの島に着いたときに会った木の世話をしている二人とお前の他、誰も見かけなかった」
「…そんな…あ…」
「どうした?」
 少年の漏らした、何かに気が付いたかのような言葉にジェインは首をひねり、彼の方に向けた。
「そう言えば、僕もここ最近あんまり研究員の人と会ってない気がする」
「そうなのか?」
「うん。リィドさん…研究員の人がご飯持ってきてくれる他は、誰とも会ってないんだ。前までは、部屋を連れ出されてその…実験とか研究とかしてたのに…」
「人手不足か…?」
 ジェインは人手不足の理由について考えたが、全く思いつかなかった。
「最近実験がないことについて一度訪ねたことがあるけど、『大きな研究で人が必要だから、そっちを手伝ってもらってる』って」
「大きな研究か」
 他の部署の人員をかき集めてまで行う研究とは。ジェインは木材にしがみつきながら考え、一つの可能性に思い至った。
「天候操作か…?」
「え?」
「実はこの島に来る前、ええと…ロプフェルだ。ロプフェルの命令でオレの乗っている船に雷が落とされたんだ。何でも、今日お披露目する予定の技術だったらしい」
 その準備やらで人がかき集められていたのかもしれない。
「そうかな…あ、でも今日のお披露目が終わったんだから、もう研究員が自分の持ち場に戻って…」
「どうだろうな。ロプフェルの奴、『連続で雷を落とせないのか!』とか相当ご立腹だったからな。ああ言う男は、自分の気の済むまで部下とかを怒鳴り散らすから、それに巻き込まれてるかもしれない」
 ジェインは口先でそう言ったが、内心そこまで楽観的な予測はしていなかった。ロプフェルが気の済むまで怒鳴り散らすと言っても、相手は直属の部下程度だろう。研究者全員を前に怒鳴るようなまねはしないはずだ。だとすれば次の瞬間、施設一杯の研究者が戻ってきてもおかしくない。しかし、今更心配したところでどうにかなるだろうか。
 二人分のチェアを探す手間を考えると、確実に手に入るジル一つの方をジェインは優先した。
「ここか?」
 やがてジェインとイヴァンは、ある部屋の天井板の上に達した。ジェインの触手が梁から天井板へと移り、木板に吸い付いて持ち上げる。
「…誰もいないな」
 部屋の気配を伺うが、声一つどころか物音さえも聞こえなかった。
「入るぞ。しっかりしがみついて…って、そうか」
 ジェインは少年に呼びかけようとして、先ほどのやりとりを思い出した。
「どうする?降りるか?」
「ううん、やめとく」
 イヴァンは彼女の問いかけに、小さく頭を左右に振った。まだ気恥ずかしさの方が勝っているようだ。
「じゃあ、オレだけ降りるから待ってろ」
 ジェインは少年にそう言い残すと、梁に絡み付かせた触手を伸ばし、室内へと降りていった。音を立てぬよう気をつけながら、タイルで覆われた床の上におり立つ。
「…何だここは」
 ジェインは触手を足に戻しながら室内を一別し、そう呟いた。室内は壁面の胸ほどの高さから床までがタイルに覆われており、浴室を思わせる造りになっていた。だが、外に面した壁面には鉄格子のはまった窓が設けてあり、部屋の壁際には棚がいくつか並べられ、中央にはイスとサイドテーブルが鎮座していた。
「いや…イスかこれ?」
 ジェインは金属製の、一見するとイスのように見えないこともない器具を見ながら首を傾げた。座面があり、肘掛けと背もたれが付いている点ではイスのように見える。しかし肘掛けには手かせのようなベルトが付いており、背もたれは異常に反り返っていた。背もたれの上端からも延びているベルトを見ると、どうやら座った者を思い切り仰け反らせる構造になっているようだ。
「…何だろうな」
 ジェインは脳裏に浮かびかけた、『イス』の使用方法をかき消すと、目を壁沿いの棚に向けた。するとそこには、替えのベルトや注射器、よくわからない薬瓶に混ざって特徴的な形をした瓶が収まっていた。三角形のボトルに、両手両足を分厚い鱗で覆った少女が抱きつくような意匠を施されている。
「ええと…『ドラゴン』?」
 ジェインはラベルの文字に目を見開いた。
 ドラゴン。知らぬ者はいないといえるほど、幅広くその強さを知られている魔物だ。そんな魔物のジルがなぜここに。
「とりあえず、持っていくか…」
 ジェインはガラス戸に手をかけると力を込めた。するといくらかの引っかかりはあったものの、棚は開いた。手を伸ばしガラス瓶に触れると、彼女はそれが空き瓶でないことを悟った。ジルのボトルには確かな重みがあり、持ち上げるのにあわせて揺れる感触があった。中身がジルかどうかという確信は持てないが、少なくとも空き瓶ではない。
「ええと…」
 ジェインは上着の内側に瓶をねじ込みながら、次の行動について考えた。もう少しジルを漁ろうか、それとも屋上のチェアまで戻ろうか。
 だが、彼女が結論を出すより先に、ジェインは窓から射し込む光が、陰りを帯びるのに気がついた。
 外に何かいる。
「っ!」
 ジェインは『イス』の側に置かれていたサイドテーブルの上のお盆を手に取ると、窓が設けられた壁に背中をぴったりとくっつけた。そして銀色の、顔が映り込みそうなほど磨きあげられたお盆をかざすと、外の様子をうかがった。
 すると窓とお盆によって小さく切り抜かれた視界に、一隻の飛行船が飛んでいた。大きく膨れる袋に船がつり下げられている構造は、ジェインが一度乗っ取った飛行船と同じだが、今外を飛んでいるものが大きく、装飾も施されていた。袋や船体の側面に『ロプフェル』の文字を踊らせ、船首に薄く笑みを浮かべる巨大な中年男の顔を掲げているのを、『装飾』ととらえたらの話ではあるが。
 『ロプフェル』の文字と(恐らく)ロプフェル本人の顔を掲げた飛行船は、浮島に広がる庭園に影を落としながら、ゆっくりと塔を中心に旋回しているようだった。
『セントラ研究島諸君!』
 不意に飛行船から、割れ鐘のように響く大きな声が轟いた。
『貴様等のリーダーのギゼティアもそうだが、再三の通告を無視するとは何事だ!?』
 祭りの会場や、落雷によって燃え上がる飛行船で聞いたのと同じ声が、怒りのこもった口調で訪ねた。
『ただ、セントラ研究島に紛れ込んだ浸食主義者を引き渡せと言っているだけだ!貴様ら研究者の自治や、自由な研究活動を妨げるつもりはない!たった一人の女を寄越すだけでいいのだ!』
「…オレのことか…」
 ビリビリと、窓ガラスを細かく震わせる飛行船からの声に、ジェインは呟いた。
『貴様等、白衣野郎どもがなおも無視を決め込むつもりなら、我々の方でセントラを捜索させてもらう!それが気に食わないと言うのなら、今から五分以内に返答をしろ!いいか研究員諸君!五分だ、五分だけ待ってやる!』
 五分。ジェインはお盆を窓から離しつつ考えた。五分経過すれば、研究者たちの意志に関わらず警備隊がこの浮島に降下してくる。仮にこの塔がほぼ無人だとすれば、警備隊がジェイン達のところに達するまでそう掛からないだろう。研究者達がどこかに隠れてジェインを観察していたとしても、彼らが警備隊をどうこうしてくれることに期待しない方がいい。
 自力でどうにかする方法を考えなければ。
「何か…方法は…」
 ジェインが最初に思い浮かべたのはチェアだった。だが、このどこまでも抜けるような青空の中、塔を離れていくチェアの影など一瞬で見つかってしまうだろう。そしてほとんど身を守るもののないチェアに雷が直撃すればどうなるか。
 あまり想像はしたくなかった。
「…イヴァン」
「なに?」
 ジェインの呼びかけに、天井裏に隠れていた少年が声だけで答えた。
「一つ聞きたいけど、蜃気楼とか作れるか?」
「一応、作れないこともないけど…」
「けど?」
 含みのある返答に、ジェインは問い返した。
「あんまり長い時間は無理だよ」
「長いって…どれぐらいだ?」
「五十数える間くらいかな…」
「五十かぁ…」
 五十数える間。蜃気楼をまとって敵の目を逃れることは可能だが、逃げるにしても近づくにしても、五十では足りない。
「でも、その間なら本物の嵐だって作れるよ!」
 自身の弱点をかばうつもりか、彼はそう付け加えた。
「嵐を三つも四つも作ったりとか、ちょっと遅れるけど快晴なのに雹を降らせたりとか、風雨じゃ絶対に起きないようなことができるよ!」
 確かに、本物の嵐や不意の雹を作り出せば、窓の外の飛行船ぐらいどうにかなるだろう。しかし、その後は?チェアを使って逃げ回り、ナムーフを脱出できるのだろうか?やはり飛行船が必要だ。だが、飛行船を乗っ取ろうにも、飛行船にまで接近する方法がない。
「…いや、ある…」
 ジェインの脳裏に一つの方法が浮かんだ
「イヴァン」
「なに?」
「蜃気楼は作れるんだよな?」
「う、うん…」
 イヴァンは天井裏からそう答えた。
13/12/04 20:12更新 / 十二屋月蝕
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■作者メッセージ

 ジルの研究は好調だ。成分の再現により、数種類のジルを人工的に生産することに成功した。だがその一方で、一つの問題にいき当たった。それは、ジルの大量接種による副作用だ。
 ジルを大量に接種することにより、被験者自身のジルが変質し、魔物になってしまうのだ。これまでは魔物から抽出したジルを、少量ずつ薄めて使用していたため副作用に気がつかなかったのだ。
 男性被験者にハーピィのジルを『一人分』投与した結果判明した。幸い彼を、いや彼女を人間に戻す方法についてはいくつか心当たりがある。
 しかし、ロプフェル行政長に彼女を見せたところ、非常に興味を抱いたらしい。ロプフェル行政長は、副作用についての研究を続けるよう私たちに命じた。
 言われずとも私たちは研究するつもりだったが、正々堂々と研究させてもらおう。

ナムーフ歴5年
レベッカ・リィド

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