連載小説
[TOP][目次]
(116)ワイバーン
ワイバーンが一体、空を飛んでいた。
首から鞄を一つぶら下げ、風を切りながら飛んでいる。
眼下の大地はめまぐるしく流れていき、彼女の羽ばたき一つで馬でも数分はかかる距離を稼ぐ。
やがて、彼女の前方、地平線の向こうから建物の屋根が現れた。
尖塔や物見櫓が最初にのぞき、遅れて大きな建物、家屋が彼女の視界に入る。
そして最後に、建物を囲む塀が現れ、彼女の眼前に町が一つ姿を現していた。
ワイバーンは両腕の翼を大きく打ち鳴らすと、高度を稼ぎつつ、町を囲む塀の上を飛び越えた。
体を傾け、町の上空を旋回しつつ、地上の一角にそびえる五階建ての建物に向けて彼女は接近していく。風の流れに対して翼を立て、速度を落とす。
最後に一度翼を羽ばたかせてから、ワイバーンは建物の屋上に降り立った。
「ふぃー・・・」
彼女は今日も無事着地できたことに一息つくと、屋上の片隅に設けられた跳ね上げ戸を開き、屋内に入っていった。
彼女を迎えるのは、紙が擦れる音とインクの匂いだ。廊下を進み、扉を開くと、吹き抜けの大きな部屋に入った。
壁には天井まで届きそうなほど背の高い棚が並んでおり、幾人もの人や魔物が封筒を手に棚の前をあちこち移動していた。
部屋の中央には大きなテーブルがあり、いくつもの封筒を数人が手分けして種類分けを行っている。そして仕分けされた封筒を別の数人がチェックし、スタンプを押していた。
大量の封書とインクの匂いは、ここが郵便局であるという証だった。
「あ、レムさんお帰りなさい」
手紙の詰まった箱を抱えていた青年が、ワイバーンの帰還に気がついたようだった。
「ん、ただいま」
「お疲れさまです。今日の分、持っていきましょうか?」
「いいの?じゃあお願い」
レムは青年の厚意に甘え、首から下げていた鞄を開いた。中からとりだしたのは、十通ほどの手紙だった。
「ここにどうぞ」
「ありがと」
レムは青年に礼を告げながら、彼の抱えた箱の中に手紙を入れた。
「毎日大変ですね、朝の配達であちこち回って、一緒に手紙を預かってくるなんて」
「ふふ、もう慣れたわ」
青年の言葉に、彼女は微笑んだ。
この郵便局は、この町を中心にあちこちの村落も受け持っており、村落から発送される手紙も、村落宛の手紙も一度この郵便局を通るのだ。
だが、村はあちこちに存在するため、レムのようなワイバーンがいなければ配達や郵便の回収には時間がかかる。
配属当初は、毎日ヘトヘトになりながら手紙を届けていた彼女だったが、もう慣れてしまっていた。
「そうだ、レムさん。最近友人が、近くの料理店で働いてるんですよ」
ふと思い出したように、彼は話を切りだした。
「お客さんに出す料理も任せられるようになったって張り切ってるんで、ちょっと一緒にいかがですか?」
「食事のお誘い?」
「まあ、一応・・・あ、僕がおごりますから」
「私、一応ドラゴン系の魔物だから・・・その、食べるわよ?」
「問題ありません。むしろわりと量の多い店なんで、ちょうどいいぐらいですよ」
「じゃあ・・・お言葉に甘えて・・・」
青年の誘いに、彼女は乗ることにした。
「ありがとうございます!」
「それはこっちの台詞よ。ありがとう」
頭を下げる青年に、レムはクスクス笑いながら軽く頭を下げた。
「それじゃあ、夕方に出口のところで待ち合わせで!」
「夕方に、出口ね?」
「はい!」
青年は一つ頷くと、箱を抱え直し、足早に彼女のそばを離れていった。
「・・・ふふ・・・」
あんなに急ぐなら、食事の誘いなどしなければよかったのに、とレムは苦笑する。
だが、そうやって時間を稼いでまで、食事に誘ってくれたことに、彼女は青年の抱く感情の一端を読みとった。
そこにあるのは厚意ではなく、好意だ。
人から慕われることに、レムの胸の奥にくすぐったさが生じる。
だが、彼女の胸の内には、彼に対する好意と申し訳なさが同居していた。
「・・・さ、今度は南ね・・・」
レムは気分を切り替えるためにそう口に出して言うと、担当地区への配達物をとるため、仕分け済みの棚へ向かっていった。
そんな彼女の左翼膜、骨格から生える爪の根本には、銀色の輪がはまっていた。



担当地区への配達と、郵便物の回収を終える頃には、既に日はだいぶ傾いていた。
回収した郵便物を担当者に預け、郵便局の出口に向かうと、既に青年は待っていた。
レムが遅れたことを謝罪し、青年がそう待ってはいないと落ち着かせ、二人は夕日の射す町を歩きだした。
しばし足を進め、青年が足を止めたのはそこそこ大きな料理店だった。
予想以上に立派な店に、レムは驚くものの、青年とともに玄関をくぐった。
席に着き、少々不安そうにしていたレムだったが、運ばれる料理に舌鼓を打ち、青年と言葉を交わす内に彼女の緊張は解けていった。
そして、後はデザートを待つばかりというところで、ふと彼女が口を開いた。
「ねえ、テス君・・・本当は、あなたのお友達とか、ここで働いてないんでしょう?」
「あれ?ばれちゃいました?」
突然の問いかけに青年、テスは特に驚きもせず返した。
「ふふ・・・あなた、ずっと私のこと見てばっかりで、厨房のこと気にしてないもの・・・分かるわよ」
「あー、そうか・・・」
「それでテス君・・・もしかして、私のこと好きなの?」
今度の質問には、テスも動きを止めた。
「普段からいつも、私に親切にしてくれるし、今日の料理だって決して安いものじゃないのに私を誘ってくれるし・・・もしかしたら、私が自意識過剰なだけかもしれないけど、私のこと・・・」
「はい、好きです」
レムの問いかけが完了する前に、テスは頷いた。
「僕は、レムさんのことが、好きです」
「・・・・・・そう・・・・・・」
まっすぐに彼女を見つめながらの返答に、レムは視線を逸らした。
「ねえ、あなた気がついてたかしら・・・?」
左の翼膜を掲げながら、彼女はテスに尋ねる。
「この、爪の根本の指輪」
「ええ、普段からつけてますよね」
翼膜を支える骨格の、半ばほどから生えた三本の爪。その一本の根本にはまった銀色の指輪を見ながら、テスはそう言った。
「この爪・・・人間だと薬指にあたるのよ」
爪の根本にはまる指輪を、右翼膜の爪で軽くなでながら、彼女は続けた。
「左手の薬指の指輪・・・意味、分かるわよね?」
「はい・・・」
「だから、あなたの気持ちはうれしいけど、私は・・・」
「レムさん」
レムが言い終える前に、彼は口を挟んだ。
「旦那さん、亡くなってるんですよね」
「・・・・・・そうね」
彼女は小さく頷く。
「元々軍人で、なにがあったかは知りませんが、旦那さんが亡くなった後レムさんは退役して、郵便局で働いている」
「その通りよ」
「僕は、旦那さんのことをよく知りませんし、旦那さんのことを今も想っているのは素敵だと思います。でも、いつまでも旦那さんのことを」
「そうね。夫も、『いつまでも俺のことにとらわれず、幸せに鳴ってくれ』って言うと思うわ」
「だったら」
「でも、私は他の人と一緒に幸せになることはできないの」
一瞬テスの顔が輝くが、続いたレムの言葉に輝きはかき消えた。
「だから、ごめんなさい。デートのお誘いだったかもしれないけど、おつきあいはできないの。明日、今日のお料理の代金は返すから」
彼女はそう謝罪の言葉を紡ぐと、申し訳なさそうに微笑んだ。
「そうですか・・・」
テスが肩を落としたところに、給仕が皿を手にやってきた。
「デザートの、フルーツのゼラチン固めでございます」
二人の前に皿が置かれ、給仕が一礼して去っていく。
「でも・・・あなたとはおつきあいはできないけど、今まで通り同僚として仲良くしていきたいとは思ってるわ。だから・・・よろしくね、テス君」
「そう、ですね」
いいお友達でいたい。告白に対する、もっとも辛い返答だったが、テスは気丈に笑みを浮かべた。
「これからもよろしくお願いしますね、レムさん」
「ええ、よろしく」
二人は互いにそう言葉を交わすと、デザート用のスプーンをとり、透明なゼリーに浮かぶ果物を口に運んだ。
テスの口に収まったそれは甘かったが、彼の胸の奥には穴があいたような感覚が残っていた。



料理店を出て別れの挨拶を交わし、レムは一人家に戻った。
独身者向けの狭い集合住宅の一室に戻ると、彼女は入浴を済ませてベッドに入った。
料理店で口にしたワインの力もあってか、彼女の意識は眠りの国にたやすく落ちていく。
なんの制御もなく、脳裏に浮かび上がる記憶と思考の断片が、彼女に夢をもたらした。
夢の中で、彼女は空を舞っていた。
身に纏っているのは郵便局の制服ではなく軍服で、手紙の詰まった鞄ではなく背嚢を背負っていた。
夢の中で、彼女は郵便物の配達回収係ではなかった。前線部隊への消耗品の配達、伝令書の運搬、偵察、監視、空からの強襲。そう言った任務に従事していた。
夢の中で、彼女は快く基地を目指していた。
今日も任務がなんの問題もなく遂行されたからだ。
なんの任務だったかはどうでもいい。基地への帰還が重要だった。
防壁に囲まれた高い塔。その屋上の、ワイバーンのための離着陸台で、誰かが手を振っている。
その姿を目にした瞬間、彼女の胸の中に抑えようのない熱が生じた。
彼女は大きく羽ばたくと、台の上に向けて一気に加速した。
現実ならば、台が壊れるか彼女が怪我しかねないほどの勢いで、離着陸台の上に降り立つ。
「お帰り、レム」
台の上で手を振っていた男が、立ち上がる彼女に向けて歩み寄ってきた。
「ただいま戻りました、あなた」
歩み寄ってくる男の胸に、レムは勢いよく飛び込んでいった。
彼の広い胸板が、レムの体を受け止めた。
だが、ワイバーンの脚力で加速された彼女の体を押しとどめるには及ばず、二人は台の上に転げてしまった。
一瞬衝撃が彼女を襲うが、男の体が台に叩きつけられるのを防いでくれたため、痛みは全くなかった。
「ご、ごめんなさい・・・」
勢い余っての転倒に、レムは謝罪の言葉を口にした。
だが、男は彼女の体当たりに、全く怒っていないようだった。
怒りの言葉や、痛みによる悲鳴もない。
ただ、無言だった。
「・・・あなた・・・?」
レムはなんの反応もしない男に、そう呼びかけた。
返答はない。
おそるおそる顔を上げて、彼の顔を見てみる。
すると、彼は目を開いたまま空を見上げていた。その瞳はただうつろに青空を映しているばかりで、彼はなにも見ていなかった。
「あなた・・・?」
再び呼びかけるが、彼は応えない。
そのかわり、彼女を抱きしめる両腕が、力を失って解けた。
そしてレムが飛び込んだ彼の胸板から、徐々に熱が失われていく。
温かで固さと柔らかさの同居していた彼の胸板が、どんどん冷たくなっていく。
「あなた・・・あなた・・・!」
レムはよく膜から伸びる爪で、彼を傷つけない程度に肩をつかみ、呼びかけながら揺すった。
男はレムにされるがまま体を揺らすばかりだった。
「あなた、あなた、あなた!」
彼女は冷たくなっていく男を揺すりながら、そう呼び続けた。
だが、もう彼女は気がついていた。
既に男の心臓が止まっていることに。



「・・・っ!」
レムが目を開くと、彼女は床の上にうつ伏せになっていることに気がついた。
どうやらベッドからゆっくりと落ち、そのまま眠ってしまっていたらしい。
固く、冷たい床板から身を起こすと、彼女は床板に引っかいたような傷が幾条も刻まれているのに気がついた。
夢を見ながら引っかいてしまったらしい。
「・・・弁償ね・・・」
いつになるかは分からないが、この集合住宅を出るときの出費に、彼女はため息をついた。
彼女は床の上に寝転がっていたせいで、少しだけ痛む体を起こすと、伸びを一つした。
節々にたまっていた凝りが、体から抜けていく。
「ふぅ・・・」
今日も一日がんばろう。
夢の中の出来事を、頭の中から追い出しながら、彼女は胸中でつぶやいた。
身だしなみを整え、買い置きのパンと簡単な料理を朝食に取り、彼女は部屋を出た。
郵便局までの道を歩みながら、彼女は昨夜のことを思い返していた。
部署はちがえど、親しくしてくれてる同僚のテス。
彼の告白に対し、レムはやんわりとした拒絶で返した。
テスは、これまで通り同僚として、友達としていい関係を築いていきたいというレムの申し出に、とりあえず頷いてくれた。
だが、あの場では笑顔でいたが、きっと後で彼は悲しんだだろう。
もう彼とは、これまでのようなやりとりはできないかもしれない。
幾ばくかの気まずさを胸に、彼女は重い足取りで郵便局の従業員出入り口をくぐった。
「おはようございます」
意識的に大きな声を出して同僚たちに挨拶して、気持ちを切り替える。
彼女は更衣室で制服に袖を通すと、仕分け室に入った。
すでに数人の同僚たちが、郵便の仕分けを始めている。レムは割り当てられた配達待ちの封書を受け取ると、首から提げた鞄にそれを詰めていった。
「おはようございます、レムさん」
不意にかけられた言葉に、レムはびくんと体を跳ねさせた。
「あ・・・おはよう、テス君・・・」
幾ばくかの気まずさを覚えながらも、彼女はそう挨拶を返した。
「今日も結構多いですね。頑張ってください」
「そ、そうね・・・ありがとう」
「では、おじゃましました」
テスはにっこり微笑みながら頭を下げると、レムのそばを離れていった。
そこに、昨日の告白が失敗したことに対する感情はいっさいなく、いつもの彼と変わらぬ様子だった。
どうやら彼自身も、昨日のことは昨日のこととして片を付けたらしい。
なんのことはない。昨日のことをずるずる引きずっていたのは、レムの方だけだったのだ。
「・・・忘れなきゃ・・・」
レムはそう呟いた。
昨日のことを引きずって気まずそうにするよりも、同僚同士として割り切ったつき合いにした方が気が楽だ。
引きずってしまう性質を、彼女は改めようと決心した。
「それで、ええと・・・」
レムは鞄の中の手紙をチェックし、どの村に配達物があるかを確認した。
彼女の脳裏から、テスのことは一時的に追い出されていた。



そして日が傾く頃、彼女は郵便局に向けて飛んでいた。
彼女の顔には、少しだけ疲労の色が滲んでいた。
「はぁ・・・」
今日は特別忙しかった。
待ちから西の方に飛んだ村で、待ちに出稼ぎにでている男に、出産の知らせを届けてほしいと頼まれたのだ。
めでたい知らせなので、彼女は一時配達の業務を止め、郵便局までその知らせを届けに戻った。
そして午前の分の配達を終え、一度郵便局に戻ると、町内担当の局員がその男からの返事をレムに任せたのだ。
おそらく、出産に対する男の喜びであろう封書を手に、彼女はろくに休憩もとらず午後の配達をかねて西の村へと急いだ。
受取人は喜んでいたが、いつもより長距離を急いだせいで彼女の疲労は頂点に達していた。

「はぁ、はぁ・・・」
郵便局の屋上までが、異常に遠く感じられる。
いつもより長距離を飛んだせいもあるが、今朝方ベッドから落ちたまま眠っていたせいで、昨日の疲れが抜け切れていないのかもしれない。
一度地面に降りたって休憩したいという欲望が彼女の内に芽生えるが、同時に一度休憩したらしばらく動けないという確信もあった。
「もう・・・少し・・・!」
レムはそう声に出して翼を羽ばたかせ、一新に郵便局の屋上を目指した。
やがて、大陸の端から端まで飛んだような距離間を経て、彼女はようやく郵便局にたどり着いた。
離着陸台に着地と同時に膝を付き、両腕と翼を休める。
「はぁ・・・はぁ・・・」
火照った両腕を、夕方の冷え始めた風が撫で、心地よい涼しさをもたらした。
彼女はしばし休憩すると、離着陸台の上に立ち上がって、ゆっくり歩き始めた。
今のはほんの少し呼吸を整えただけ。本格的な休憩は、預かった郵便物を仕分け係に任せ、今日の報告をしてからだ。
屋上の跳ね上げ戸を両腕で開き、屋内に入る。そして両足を引きずりながら、彼女は仕分け室に入った。
「ただ・・・いま・・・」
声を振り絞って挨拶するが、返事をするものはいない。
彼女は、ゆっくりと仕分け係のところを目指した。
「レムさん?」
「あ・・・テス君・・・」
ふとかけられた声に、彼女は声の主を呼んだ。
「どうしたんですか?妙にお疲れのようですけど・・・」
「うん、ちょっと今日は忙しくて・・・それより・・・」
テスは仕分け係のため、預かった郵便物を任せられる。彼女は昨日のように、彼に鞄の中身を頼もうとした。
だが、そう言葉を紡ぐ直前、彼女はふと気が付いた。
これまで何度か郵便物を彼に任せたことがあったが、どれも彼からの申し出によるものだ。
レムの方から頼んだことは一度もない。
昨日のこともあって、レムの方から頼むのは、少々気が引けた。
「なんです?」
「・・・いえ、なんでもないわ」
今日は疲れているが、自分で仕分け係のところまで持っていこう。
彼女は、紡ぎかけていた言葉を引っ込めた。
「レムさん、本当に大丈夫ですか?少し顔色が悪いですよ?」
だが、テスは彼女の言葉を濁す様子に、そう心配した。
「大丈夫よ、なんでもないから・・・」
「いえ、そう言ってもかなり・・・」
「大丈夫、大丈夫だから」
心配そうに迫るテスに、彼女はそう翼膜の爪を振った。だが、彼女の爪の先端は、翼を酷使したせいかぶるぶる震えていた。
「レムさん、病院まで連れていきましょうか?」
「少し疲れてるだけだから・・・」
「でも、顔色も悪いし、そんなに震えて・・・」
「大丈夫よ、一人でいけるから」
テスをそうなだめながら、彼女は距離をとるように一歩退いた。
「もう夕方でだいぶ寒くなってます。僕が付き添いますから」
「大丈夫、大丈夫よ」
「でも、こんなに手が・・・」
ぶるぶる震える翼膜に彼が手を伸ばした瞬間、レムは声をあげた。
「さわらないで!!」
「っ・・・」
レムの口から出た予想以上に大きな声に、テスは手を引っ込めた。
そして、仕分け室に残る局員たちの視線を浴びていることに、レムは気が付いた。
「ご、ごめんなさい・・・でも、大丈夫だから・・・ね?」
「そうですね・・・僕も、少々お節介がすぎました。ごめんなさい」
テスはどこか寂しそうに笑みを浮かべてから、そう謝罪の言葉とともにに頭を下げた。
「いい同僚って言葉を勘違いして、なれなれしくし過ぎてしまいました・・・」
「あ・・・いや、そう言う意味じゃなくて・・・」
「もうしばらく残っているので、何か用事があったら声をかけてください。じゃあ」
テスはそう頭を下げると、レムから離れていった。
両腕の疲労や全身のけだるさより辛い痛みが、彼女の胸の奥に生じた。
「・・・ごめんなさい」
遠ざかっていくテスの背中に向け、レムはそう呟いていた。



体に鞭を打ちながら、レムは郵便物を仕分け係に預け、今日の報告を行ってから、郵便局を後にした。
だが、彼女はまっすぐ帰宅するわけでもなく、少し寄り道をしていた。
彼女が門戸をくぐったのは、クリニックと掲げられた建物だった。
だが、そこは一般的な病院ではなかった。
「ということがあったんです・・・」
長いすに横たわりながら、レムは昨日からの出来事を一通り説明していた。
すると、長いすの傍らの机に向かい、メモを取っていたナイトメアが彼女の方をみた。
「そんなことがあったの・・・辛かったわね・・・」
白衣を羽織った彼女は、レムに向けてそう頷いた。
「どうしたらいいんでしょう、先生・・・」
「意図しない発言で、相手を傷つけてしまうことはよくあるわ。でも、そのまま放置していてもいいことはなにもない」
レムに向け、ナイトメアはそう語りかける。
「その男性に謝って、理由を説明して、誤解を解かないと」
「でも・・・」
「夜中にうなされて飛び起きることはなくなったんでしょ?あのときの治療に比べれば、簡単じゃない」
レムを勇気づけるように、ナイトメアは言った。
「それに、ちゃんと謝ればきっと誤解は解けるから」
「でも先生、今日のことは・・・」
「きっと大丈夫よ、その男性ってあんまり引きずらないタイプみたいだから」
ナイトメアの言葉に、レムは少しだけ背中を押されたような気がした。
「それに、これを機にその男性と、同僚から一歩先に進んでもいいんじゃないかしら」
「それは・・・」
「引きずりすぎるのはよくない。『彼』もあなたには幸せになってほしいんじゃないの?」
「そうですけど・・・」
レムはイスの上で、顔をうつむかせた。
「今のままじゃ、いずれあなたは限界を迎えるわ。その前に、あなたを理解してくれる人を見つけないと」
「でも・・・」
「『彼』もきっと許してくれるわ。だから、勇気を持って他人と触れ合ってみなさい」
そう言いながら、ナイトメアはレムに向けて手を伸ばした。
指をまっすぐに伸ばし、彼女にふれる寸前で止める。
「触って」
「・・・・・・」
レムは、ナイトメアの言葉に、ゆっくりと翼を掲げた。
翼膜を支える骨格から生えた爪が、ナイトメアの指先にちょんと触れた。
「大丈夫みたいね」
ワイバーンの爪の、硬い感触を指先に感じながら、ナイトメアは頷いた。
「少し前まで、こうやって触るだけでも戻していたのに、だいぶよくなったじゃない」
そう、夫を失ってから、レムは他人と触れ合うことができなくなっていたのだ。
ほんの少し指先が触れ合うどころか、他人の体温を感じるだけで、吐き気に襲われるのだった。
「でも・・・今日はだいぶぶり返していたみたいで・・・」
テスが彼女の身を案じ、彼女を支えようとした瞬間、レムは自分の内に吐き気の予兆が芽生えるのを感じた。
確固たる吐き気があったわけではない。ただ予兆を感じただけだ。
だが、それでも彼女は反射的に、嘔吐を避けるために彼を拒絶してしまったのだった。
「少し疲れていただけよ。一日ゆっくり休んで落ち着いたら、明日、彼に謝りなさい」
「・・・はい・・・」
レムはナイトメアの指示を受け入れた。
「じゃ、今日はこのぐらいでいいかしら?」
「はい・・・だいぶ気が楽になりました」
レムは長いすから身を起こすと、身だしなみを整えながら立ち上がった。
「辛いことがあったら、また来なさい。ため込んでちゃだめよ?」
「はい、今日はありがとうございました」
レムはナイトメアに頭を下げると、診察室を出た。
そして受付の、眠そうな目をしたワーシープに診察料を支払って、彼女はクリニックを出た。
既に日は沈んでおり、星が空で瞬いていた。
今日はまっすぐ帰って、明日に備えよう。
「さ、帰ろう」
声に出して言うと、彼女は集合住宅の一室目指して歩き始めた。
夜の町を、彼女は黙々と進んでいく。
やがて彼女は郵便局に近づいていった。ナイトメアのクリニックが、ちょうど集合住宅と反対側の方角にあるためだ。
「・・・・・・」
テスが今日は残業する、と言っていたのを思い出し、彼女の足取りが少しだけ重くなった。
もしかしたら、残業を終えたテスと出くわすかもしれないからだ。
だが、郵便局の従業員出入り口の前を通っても、彼と会うことはなかった。
これで、彼に謝るのは明日のことになる。
ほっと胸をなで下ろしながら、彼女は郵便局から離れていった。
本当なら、ほっとしてはいけないのだろう。
しかし今日の一件から、そう時間がたっていないため、テスと顔をあわせづらいのだ。
一晩休んで気持ちを切り替えれば、きっと謝れる。
そう信じて、彼女が自宅向けて足を進めるうち、裏路地へと続くわき道から喧噪が響いてきた。
「おっら、っすっぞおっら!」
「ざっけんな、素直に財布出せおっら!」
中途半端の省略された発音から成る、脅しと要求の文句。
二つの声の合間に、何かが殴りつけられるような音が混ざっていた。
「おっら、もう一発だおっら!」
どす、と重い音が響き、うめき声が続いた。
「・・・!」
レムは、裏路地から聞こえてきた小さなうめき声に、目を見開いた。
あの声は、テスのものだ。
郵便局員は配達中の金品を狙われると言うが、テスが襲われているのだろうか。
だが、彼女の胸中で声がささやいた。
うめき声など、誰も彼も似たようなものだ。きっと襲われてるのはテスではないだろうし、よけいなことに首を突っ込む必要はない。
全身の疲れが、彼女にとっとと部屋に戻って休もうと訴える。
「・・・・・・・・・」
「おっら、まだか!これでもか!」
「うぐ、ぐぅ・・・!」
重い音が立て続けに響き、うめき声が紡がれる。
苦しげな声音に、レムの脳裏にぼろぼろになったテスの姿が浮かんだ。
「・・・!」
レムは足早にわき道にはいると、裏路地に飛び出した。
「なにしてるの!?」
そう声をあげながら、彼女は三つの人影を視界に収めた。
建物の壁近くに立つ若い男が二人に、壁と二人に挟まれるようにしながら、立たせられている男が一人。
顔に拳を受け、口元から血を溢れさせてるのは、テスだった。
「魔物!?」
「ヤッベ、魔物マジヤッベ!」
レムの姿に二人の男は目を見開き、テスから離れて駆けだした。
「く・・・」
レムは遠ざかっていく二人を追おうとしたが、済んでのところで踏みとどまった。
今は、テスの方が重要だ。
「テス君!?」
壁に背中を預けるように、地面に座り込んだ彼の元に駆け寄りながら、彼女は声をかけた。
「レム・・・さ・・・」
「しゃべらないで」
血の臭いのする呼気とともに、言葉を紡ごうとする彼を制し、彼女は翼膜の爪を彼の衣服にひっかけた。
力を込め、シャツを裂く。すると、いくつもの青黒い痣の浮かぶ、彼の胸や腹が露わになった。
「う・・・」
ナイフによる刺し傷はないようだが、レムはその痛々しい姿に、思わず声を漏らしていた。
「レム、さ・・・」
「大丈夫、今病院に連れていくから」
言葉を紡ごうとするテスに言い聞かせ、彼女は彼に触れようとした。
しかし、翼膜の爪が触れる寸前、彼女の動きが止まった。
彼女の脳裏に浮かんだのは、徐々に冷たくなっていく肉体だった。
今朝方の夢や、先週の夢、その前も、もっと前も、幾度となく彼女を襲ってきた感覚が、今も彼女の脳裏によみがえっていた。
だんだん冷たくなっていく。
だんだん温もりが消えていく。
触れなくてもわかる。テスも・・・
「・・・っ!」
彼女は首を左右に振って、脳裏の感覚を追い出すと。彼を抱えるようにしながら運んでいった。
まずは、表通りまで。
彼をどの病院に連れていくかは、飛びながら考えよう。



テスが目を開くと、白い天井が目に入った。
遅れて腹や胸を、鋭い痛みが襲った。
「・・・っ・・・!」
「テス君!?」
思わず漏らしたうめき声に、テスにとって聞き覚えのある声が彼を呼んだ。
「え・・・レムさん・・・?」
「気が付いたのね、よかった・・・」
レムは、テスの様子にほっとしたようだった。
「本当に・・・よかった・・・うぅ・・・」
彼女はぐすぐすと言葉に嗚咽を混じらせ、とうとう泣き始めた。
そして、彼の手に小さな痛みが走る。
「い・・・!」
「ぅ・・・あ、ごめんなさい・・・!」
レムが目元を拭いながら、握っていたテスの手をゆるめた。食い込んでいた爪の先端による痛みが消える。
「一晩付きっきりだったから、ちょっと安心しちゃって・・・そうだテス君、どこまで覚えてる?」
「ええと・・・」
テスは、レムに手を握ってもらっているという事実にいくらか混乱しながらも、昨夜のことを思い出した。
「ええと、仕事場からの帰りに、チンピラに捕まって裏路地に連れ込まれて・・・後は、何発か殴られたところまでしか・・・」
「その後、通りがかった私がチンピラを追い払って、あなたを病院まで運んだの」
「そうだったんですか・・・ありがとうございます」
テスは、レムのしてくれたことに、素直に頭を下げた。
「でもレムさん、どうして僕を?レムさんは、その・・・僕のことを・・・」
嫌っているんじゃないか。ここ数日、特に昨日の彼女の言動を思い返しながら、テスは問いかけた。
「・・・あなたのことを嫌っていたわけじゃないの」
テスの言わんとしているところを察し、レムはそう自ら切り出した。
「昨日の・・・あのときは、あなたに触られそうになったから、思わず声を出してしまったの」
「でもそれって、僕のことを」
「嫌っているから声を出しそうになったんじゃないの。私は、他の人と触れ合うのが、苦手だったの」
レムは、間を置いてからぽつりぽつりと話し始めた。
「昔・・・まだ軍属だった頃、夫と出かけたの。一緒に酒場に行って、ギターの陽気な音楽を聴きながら、二人でお酒を飲んでたの。出世したらどうしたいとか、お金が貯まったらどこに住もうとか、そんな話をながら・・・」
彼女の翼が動き、爪の先端が軽くテスの手を擦った。
「お酒で頭がぼんやりして・・・それでもおしゃべりが楽しくて・・・ずっと、こんな時間が続けばいいと思ってたわ。でも・・・突然夫がテーブルに突っ伏したの。最初は冗談かと思ったわ。でも、夫は全く動かなくて・・・声をかけて揺すっても、指一本動かなかったのよ・・・う・・・」
「レムさん?」
不意に言葉を詰まらせた彼女に、テスは声をかけた。
「大丈夫・・・ちょっと、思い出しただけだから・・・」
レムは彼の心配にそう返すと、話を続けた。
「抱き寄せて、名前を呼んでも、揺らしてもぜんぜん反応がなくて・・・ただ、私の翼の中で、夫の体がだんだん冷たくなっていくのを感じることしかできなかったわ・・・それなのに私ったら、呼べば夫が動くと思いこんで・・・」
レムの言葉の合間に、小さな嗚咽が混じる。しかし彼女は、言葉を途絶えさせることなく、続けた。
「救命士が来たころには、完全に夫は冷たくなってたわ。それから、他人と触れ合うことができなくなったの・・・他人の温もりを感じた瞬間、夫みたいに突然冷たくなっていきそうで・・・」
「そんな・・・ことがあったんですね・・・」
テスは、レムの告白に、昨日の一際強い拒絶の理由を悟った。
テスとしては気遣い故の行動だったが、彼女にしてみれば恐怖以外の何物でもなかっただろう。
「でも・・・テス君のおかげで克服できたわ」
翼膜の爪で、テスの手を撫でながら、彼女は少しだけ明るい語調で言った。
「昨日、あなたがチンピラに襲われているのをみたとき、あなたが死んじゃうって思ったのよ・・・触った体も少し冷たくて、夫の時みたいにだんだん冷えていきそうで、怖かったわ」
「じゃあ・・・何で僕を」
「夫の時みたいに、あなたに冷たくなってほしくなかったからよ」
彼の手を撫でながら、彼女はそう言った。
「まだあなたは温かくて、もしかしたら助かるかもしれない。でも、私が怖がってあなたに触らなければ、またあなたも・・・そう思って、あなたを運んだの」
「そうだったんですか・・・ありがとうございます」
夫が冷たくなっていくのを肌で感じていたという過去を乗り越え、自信を助けてくれたことに対し、テスはそうレムに頭を下げた。
「お礼を言うのは私の方よ、テス君」
しかしレムもまた、彼に向けて頭を下げながら言った。
「助かってくれて、ありがとう」
「レムさん・・・」
「昨日・・・いえ、一昨日ね・・・告白してくれたでしょう?あれ、うれしかったわ」
レムは顔を上げると、不意に話を変えるように言った。
「あなたみたいな人となら、一緒に楽しく過ごせそうだと思ったの。でも、突然あなたを失うようなことがあったらって・・・」
そう、彼女が過去に抱えている恐怖と不安は、まだあるのだ。
「今はまだ、あなたと一緒に過ごすのが怖いけど・・・きっと、きっと克服してみせるから・・・そのときは、私と一緒に過ごしてくれるかしら?」
「・・・はい、もちろん」
彼が頷くとと、レムはほっとしたように息を吐いた。
「一度、断ったのに・・・受け入れてくれて、ありがとう・・・」
彼女は、胸の内に抱えていた不安の一つが解けたことで、目元に涙を滲ませていた。
「レムさん・・・僕、待ってますから。待って、きっと旦那さんの分まで、幸せにしますから」
「テス、君・・・」
レムは、彼の手から翼膜の爪をはなすと、翼を広げて彼の体に覆い被さっていった。
「ありがとう・・・あり、がとう・・・!」
彼女が自身の手で救った男の温もりは、確かに彼女の翼の内にあった。
数年ぶりに安心して感じることのできた人の温もりに、彼女の嗚咽はしばし続いた。
13/05/07 18:58更新 / 十二屋月蝕
戻る 次へ

■作者メッセージ
未亡人いいよね。
特に今は亡き夫への愛が深すぎる未亡人いいよね。
頭ではいつまでも夫のこと引きずってちゃいけないってわかってるけど、体が他人を受け付けないとかいい。
そして夫が幸せの絶頂の中で死んだものだから、深層心理に『幸せになる=死ぬ』が刷り込まれてたりすると、なおいい。
それで未亡人に想いを寄せるけど、彼女の夫に対する深すぎる愛も理解しているから、いまいち足を踏み出せずにいる男がいるといい。
未亡人の方も彼の好意には気が付いていて、時折心が揺れそうになるけど、夫のことを思いだして踏みとどまってくれるとかいい。
そんな、夫への愛と男への恋慕に心を引き裂かれそうになる未亡人の夢枕に立って、夫の幽霊のフリして『したいようにしなさい』って吹き込みたい。

TOP | 感想 | RSS | メール登録

まろやか投稿小説ぐれーと Ver2.33