(115)ダンピール
(1)彼女のいない朝
ヴァニが丘の上の屋敷に戻ってから、数ヶ月が経った。
姉のペテラに、召使いのクリスと一つ屋根の下過ごしている。
あちこちを旅していたヴァニの体は、屋敷での日々に染まっていた。
朝早くに目を覚まし、鍛錬をかねて屋敷の外に出、汗を流してクリスの用意した朝食にありつく。
いつものように軽く汗の浮かんだ肌を拭い、着替えて厨房に入る。
「おはようございます、ヴァニ様」
壁際の調理台に向かっていた男、クリスが、ヴァニが声をかける前に振り返った。
「おはよう、クリス。今日のメニューは?」
「パンとサラダにスクランブルエッグ、ポタージュスープ。スープはお代わりがあります」
クリスは調理台の上の皿を手に取ると、厨房入り口近くのテーブルに運び、一つずつ並べていった。
「うん、言い香りだね」
湯気を立てるスープや炒り卵、軽く熱を通されて表面をぱりっとさせた丸パンに、ヴァニは表情をほころばせた。
「では、ご主人を起こして参ります。ごゆっくりどうぞ」
「ああ、うん」
クリスの一礼を適当に見送り、ヴァニは朝食に注意を向けた。
姉のペテラはヴァンパイアのため朝が弱く、こうして毎朝クリスが起こしに行っているのだ。
そして毎朝ぎゃあぎゃあわめきながら、クリスの手を借りてコルセットを腹に巻き付け、ようやく下に降りてくる。
もはやペテラの朝の一悶着は習慣を通り越し、東から日が昇るほど当たり前のことになっていた。
「いただきます」
ダンピールの鋭敏な聴覚から意識的に注意を逸らして、彼女はフォークを手に取る。
やがて、並ぶメニューを数口ずつ口にしたところで、厨房に足音が一つ入ってきた。
「ん・・・?あれ、姉さんは?」
いつもならば彼と一緒に降りてくるはずの姉の姿がないことに、ヴァニは思わず問いかけていた。
「それが、どうも体の調子がよろしくないようで・・・」
「珍しいな」
魔物、それもヴァンパイアが体調不良など、初めて聞いた気がする。
まあ、ペテラの場合美容体操をやって、翌日筋肉痛におそわれたこともあるので、ヴァニはそう驚かなかった。
「朝食はどうするの?」
「今から粥を用意して、三十分後に様子を見るついでに運ぶつもりです」
「医者は・・・」
「先ほど見た様子では、多少の熱とだるさぐらいでした。粥を運ぶ際にもう一度確認して、医者を呼ぶかどうか決めようと思います」
「うん、それがいい」
どうせただの風邪だろう。
ヴァニはクリス伝いに聞いたペテラの症状に、そう判断を下した。
「・・・そういえば、クリス」
「はい?」
用意してあったペテラの分の朝食を、テーブルから調理台の方へ運ぶクリスに、ヴァニはふと声をかけた。
「こうやって二人きりになるのって、珍しいね」
「言われてみれば、そうですね」
クリスが屋敷の用事を片づけているため、こうしてペテラのいない状況でヴァニと二人きりになるのは、初めてのような気がする。
「せっかくの機会だから、少し話をしないかい?」
「すみませんが、いろいろと用事があるので・・・」
「粥を作って、姉さんのところに運ぶぐらいだろ?粥を作っている間に、私とすこしおしゃべりするぐらい、いいじゃないか」
「・・・かしこまりました。ただし、粥の準備ができたら、それまでです」
「いいよ」
クリスは鍋に水を注ぎ、魔力で熱を生じさせる調理器具の上に置いた。
「さて・・・それじゃあ早速だけど、姉さんのことどう思ってる?」
「ずいぶんと単刀直入ですね」
特に声に動揺の色もにじませず、彼はそうヴァニに返した。
「ほら、見てるといつも姉さんの貴族らしからぬ部分を直してあげようとしてるみたいだけど、正直なところ手間ばっかりかかってるんじゃない?」
「確かに、いいえと言えば嘘になりますね」
彼は棚に向かうと、下段から袋を一つ取り出した。袋の表面には「押し麦」と書いてあった。
「ですが、それでもご主人は少しずつよくなっていると思いますよ」
「へえ、未だに朝に一人で起きられないのに?」
「ははは、これは手厳しい」
袋の口を開き、計量カップで掬いとりながら、彼は声だけで笑った。
「正直なところ、姉さんを矯正して立派な貴族にしようとしてるの、イヤになってるんじゃないの?」
「なぜそう思うのですか?」
「クリスは言葉遣いこそ丁寧だけど、実際のところ姉さんに対してあまり敬意を払ってないでしょ?普段の行動を見ればわかるよ」
そう、事あるごとにコルセットのことを持ち出したり、腹をつついたりと、どこか姉を茶化しているような態度が見受けられた。
ペテラによれば、どれもクリスが姉を思うが故の行動だと言うが、ヴァニにはそう思えなかった。
「確かに、無礼な態度が見受けられる振る舞いは、多々してきましたね」
「否定しないんだ」
多少の言い訳ぐらいはするだろうという予想を裏切られ、ヴァニはすこしだけ驚いた。
「ですが、ご主人は生活態度は貴族らしからぬものの、自尊心は貴族並ですので、自尊心をくすぐるような言動をすれば発奮するかと思いまして」
「うーん、そううまく行くかなあ・・・」
「実際、そううまくは行っていませんね」
鍋に押し麦をそそぎ入れながら、彼が応じた。
「じゃあさ、何でそんなに姉さんにこだわるの?」
粥の行程が進んだため、ヴァニは話題を変えることにした。
「クリスぐらい有能なら、この屋敷でなくても働き口はたくさんあるでしょ?」
「まあ、いろいろと仕事を経験してきたので、よそでも働けるとは思いますが、今のところ転職するつもりはありませんね」
「何で?もしかして、姉さんのことが好きだから?」
冗談めかしたヴァニの問いに、クリスは沈黙を返した。
「あれ?図星?」
「そこについては、ノーコメントと言うことで」
鍋の中身をお玉でかき回しながら、彼は言った。
「うーん、でも身内の私が言うのも難だけど、姉さんと四六時中一緒にいて辛くない?」
「辛い、というと?」
「手を伸ばせば届くところに美人がいるのに、手を出すことも許されない状況のこと」
以前、ヴァニがペテラから聞いたところによると、クリスはペテラの吸血には応じるものの、それ以上のことをしようとはしないらしい。
美人のヴァンパイアを前に、成人男性ならばあってしかるべき情欲を押さえ込むのは、さぞ辛いだろう。
「時折、衝動に駆られることはあります」
ヴァニの問いに、クリスは静かに答えた。
「ですが、後のことを考えると、自分から動こうという気にはなりませんね」
「へえ?」
大した精神力だ。ヴァニはクリスの言葉に、内心舌を巻いた。
「ただ、もしご主人が俺にそういうことを命じれば、喜んで引き受けます。ですが命じられていない今、俺から動くことはありません。俺は、ペテラ様の召使いですから」
「・・・ああ、そう。そうなんだ」
以前どこかで聞いたような彼の言葉に、ヴァニは彼の背中を見ながら応えた。
すると、彼は塩を手に取り、鍋に向けて数度振った。
小皿に粥を一滴だけ移し、口に含む。
一瞬の間をおいてうなづくと、彼は鍋を調理器具からおろした。
「さて、粥の用意もできたので、少し失礼します」
取り皿とスプーンを盆に乗せ、鍋と共に抱えながら、彼はヴァニに向けて言った。
「あまり楽しい会話にならず、すみませんでした」
「いや、そこそこおもしろかったよ。ありがとう」
「それならば幸いです。では」
彼はヴァニに向けて一礼すると、再び厨房を出ていった。
ヴァニは、クリスの足音が遠のいていくのを聞きながら、ため息を一つついた。
「『命じないけど、迫られたら受け入れる』・・・『迫らないけど、命じられたらそうする』・・・」
少し前の姉との会話と、今し方のクリスとの会話。その断片を口から紡いで、彼女は低い声で続けた。
「相思相愛じゃないの・・・」
誰にともなくはなった言葉は、厨房の中に拡散していった。
(2)昨日の晩ご飯
日がだいぶ傾いたものの、まだ赤くはない頃、ヴァニは屋敷がそびえる丘を登っていた。
昼間に、町に用事があって出かけていた帰りだ。
肩に袋を担ぎ、一歩一歩足を進めていく。
やがてヴァニは屋敷の敷地に入り、裏の勝手口から中に入った。
「ただいまー」
「お帰りなさいませ、ヴァニ様」
何か整理でもしていたのだろうか、倉庫からクリスが出てきて、ヴァニに一礼する。
「あ、クリス。ちょうどいいところに」
「何でしょう?」
「これ、町でもらってきたんだ」
肩に担いでいた布袋を、クリスに向けて差し出す。
「これは・・・」
「コッケ、って言う鳥らしい」
「コッケですか、懐かしい」
袋を受け取ったクリスは、そう言いながら袋を開いた。
「おや、もう捌いてありますね」
「うん。下拵えをすませてもらったからね」
首を落とし、血と内蔵を抜き、毛を毟ってある。
後は香草でも詰めてオーブンに入れるだけで、立派な丸焼きになりそうだった。
「そうですか・・・コッケは、キモもうまいのですが・・・まあ、生きたまま連れてくると暴れますからね」
クリスは語調に滲んでいた残念そうな様子を消すと、数度頷いた。
「かしこまりました。今夜はコッケ料理にしましょう」
「楽しみにしてるよ」
クリスの言葉に一瞬不安を覚えたものの、ヴァニは胸をなで下ろした。
「じゃあ、後はよろしく頼むよ」
「かしこまりました」
袋を手に一礼すると、クリスは厨房に向かって歩いていった。
「さて」
ヴァニは一つ呟きながら、足を進めた。
向かう先は、居間だ。この時間なら、姉のペテラはソファに腰掛けながら、本でも読んでいるだろう。
廊下を進み、扉を開くと、彼女の予想通り金髪の女が一人、ソファに腰を下ろしていた。
「ただいま姉さん」
「お帰りなさい」
チェスの本から一瞬目を離しながら、ペテラはそう挨拶を返した。
「今日は町で、鶏を丸ごともらってきたよ」
「クリスに渡したの?」
「うん。今日の夕食にするって」
「楽しみね」
そう言葉を交わしながら、ペテラの隣のソファに、ヴァニは腰を下ろした。
夕食まで時間はある。しばらく、ゆっくりさせてもらうとしよう。
「・・・ところで姉さん」
「なに?」
チェスの本から目を離し、ペテラはヴァニを見た。
「コッケ、って知ってる?」
「コッケ?コッケコッコー?」
「あ、知らないんだ」
首を傾げながら鶏の物まねを始めたペテラに、ヴァニはそう判断した。
「いや、今日もらってきた鶏が、コッケっていう珍しい種類らしくて」
「へえ、楽しみね。コッケコッコケッココッコ」
「コッケコッコはもういいんだ、姉さん。それより、クリスにコッケを渡したとき、懐かしいって言ったんだよ」
ソファの上で足を組み直しながら、彼女は続ける。
「私もあちこち回ってきたつもりだけど、コッケのことなんて聞いたことも無かった。それでクリスが知っていたのは、ここで調理したことがあるからじゃないかと思ったんだけど」
「鳥料理ならいろいろ食べたけど、コッケは無いわねえ。クリスは、珍しい食材を使うときはいつも説明してくれるし」
「そうだよね」
ヴァニは頷いた。この屋敷に戻っての数ヶ月、食事の時にクリスは材料などを簡単に説明してくれていた。
過去にコッケが食卓に上ったならば、クリスは説明してくれるだろう。
だが、ペテラはコッケのことを知らなかった。
「クリスは、どこでコッケのことを知ったんだろうね?」
「この屋敷に来る前じゃないかしら」
「そりゃそうだろうけど・・・私が知りたいのは、彼がコッケを知ったのは、なにをしていたかだよ」
「ああ、そう言うことね」
ペテラはヴァニの問いの真意に頷いた。
「でも私、クリスの昔のことは知らないわね」
「・・・一つ屋根の下で、二人きりで過ごしてたのに?」
姉の言葉に、ヴァニは内心驚きながら尋ねていた。
「秘密は秘密のままで、ってことで、互いに相手の過去は詮索しない約束をしたのよ。だからほら、あなたが帰ってきたとき、クリスは驚いてたでしょ?」
「そう言えば・・・」
確かにあの召使いは、ヴァニがそう名乗りペテラが説明するまで、二人が双子であることどころか、ペテラに妹がいることすら知らなかったようだった。
「でも、使用人の過去を知らないのは少し危ないんじゃないかな?クリスがそうだとは言わないけど、過去に悪いことを」
「今更知ったところで、クリスを追い出すことはできないわ」
ヴァニに、ペテラはそう首を振った。
「『朝に悔やんでも、昨夜の深酒は取り消せない』ってことよ」
「うーん・・・」
確かにその通りだが、とヴァニは胸中で呻いた。もはやペテラは、クリスという酒を浴びるほど飲んでしまった。
もうヴァニがどうこう言ってもしょうがないし、もはや二日酔いにならぬよう祈るだけだ。
「でも、単純な興味として、クリスがこれまでなにをしていたか気にならない?」
ヴァニは気持ちを切り替えると、そう話を切りだした。
「まあ、気にならないとは、言い切れないわね」
「でしょ?夕食までの時間つぶしに、推理してみない?」
ヴァニの一言に、ペテラはしばしの逡巡を挟んでから、チェスの本を閉ざした。
どうやら乗り気のようだ。
「さて、とりあえずクリスについてわかってることから並べてみようか」
「ええと、家事全般ができて、料理も上手くて、礼儀作法もしっかりしてるわね」
「礼儀作法については多少疑問は残るけど、おおむねそうだね」
主人であるペテラに対する、少々フランクすぎる態度を思い返しながら、ヴァニは頷いた。
「あと、珍しい料理も作れるし、いろんなお話も知ってるし」
「お話?」
「ええ、ジパングの方のおとぎ話とか、いろいろ。たまに聞かせてもらうけど、面白いわよ」
「初めて知ったよ・・・」
クリスの意外な一面を聞かされ、驚くペテラだったが、おとぎ話を聞かせるとはどういう場面なのだろう。
「私が怪我したときには手当してくれるでしょ。それに病気になったときは付きっきりで看病してくれるし・・・そして優しいし・・・」
「姉さん、最後のは特徴じゃないよ」
「え?あれ?ああ、そうね」
ペテラは、いつの間にか頬に浮かべていた薄笑いをあわてて消すと、大分主観の入った特徴を、頭から追い出した。
「後は・・・他にもお金の勘定も得意だし、装身具の目利きもできるし・・・ねえヴァニ、なんでクリスみたいな人間が私の下で働いてくれてるのかしら?」
「うん。私も尋ねようと思ってたところだよ、姉さん」
特徴を羅列するだけで、その常人とは思えぬ性能に、二人は改めてクリスのありがたさを理解した。
「でも、何となくクリスがどういう人物か、見えてきたよ」
「ええ、私もよヴァニ」
ヴァニの言葉に、ペテラは妙に自信に満ちた表情で頷いた。
「本当?」
まだ自分でも、おそらくレベルの推測しかできていないのに、とヴァニは内心舌を巻いた。
「ええ、自信を持って言えるわ。きっとクリスは、料理人だったのよ」
「・・・姉さん、もしかして料理が上手いから料理人だろう、って考えてない?」
「あら?何でわかるの・・・って、私たち双子だったわね」
思いも寄らぬところで血のつながりを感じた、とばかりにペテラは表情をほころばせた。
「いや、双子とかそう言う訳じゃなくて、単に・・・姉さんならそう考えるんじゃないかなあって」
少々ものをストレートに考えすぎるきらいのある姉に、ヴァニは多少軟らかい表現で説明した。
「でも、料理が得意なのは・・・」
「単純に料理が趣味だったから、かもしれないよ?それより考えないといけないのは、何でこんなに多方面に秀でているかだよ」
ヴァニはソファの背もたれに背中を預けながら、足を組んだ。
「たぶん、環境的に召使いの仕事をいろいろさせられるようなところで過ごしてたんじゃないかな。それも、ただこき使われるような召使いじゃなくて、それなりに裕福な主人の元で働いてたんだと思う」
「召使いかもしれないってのはわかったけど、何で裕福だと?」
「装身具の目利きができる、って姉さん言ってたでしょ?どの程度の目利きかはわからないけど、ある程度本物を見てないと目利きは難しいんだよ。だから、本物を目にする機会の多い裕福な主人の下で、本物を目にする時があるぐらいの忙しさで働いてたんだと思う」
「なるほど・・・」
「それに、その主人が美食家なら、厨房で働いていればいろんな食材や料理に触れられるでしょ?だから、あちこち回ってきた私でも知らなかった、コッケの料理ができるんだよ」
「うぅーん・・・」
ヴァニがそう推理を述べたところで、ペテラが腕を組んだ。
「何?何か腑に落ちない点でも?」
「確かにそういう環境ならいろいろ料理ができる説明にもなるけど・・・他の一切合切もこなせるのはなぜ?」
「それは・・・ええと・・・まだよく考えてないや」
ヴァニは正直に言った。
「でも、クリスがどこかで召使いの腕を磨いたのは事実だと思う。その後、何でその勤め先を辞めて姉さんのところに来たのかはわからないけど」
「そこなのよね。何でクリスはうちに来たのかしら?」
「・・・うん?」
ペテラの言葉に、ヴァニは首を傾げた。
「姉さん・・・クリスは姉さんが雇ってきたんじゃないの?」
「いえ?他の召使いがいたころに、麓の町に求人広告出して来たのがクリスだったのよ。それで私の身の回りの世話をさせてたら、だんだん召使いが辞めていって、私とクリスだけになっちゃったってわけよ」
「ああ、そういうことか」
ヴァニもそうだが、召使いたちはペテラとクリスのやりとりに耐えられなくなったのだろう。
「まあ、何もかも推測だから、本当のところはクリスにしかわからないのよね」
「ちゃんと調べればもう少しはっきりするんだろうけど、夕食前の暇つぶしだからね」
「いい頭の体操になったわね」
ペテラがそう口にしたところで、居間につながる扉が開いた。
「ご主人、ヴァニ様、夕飯の準備ができました」
「あら、もう?」
思っていたより話し込んでいたのか、クリスの言葉にペテラは驚いた。
「ヴァニ様から聞かれたと思いますが、今夜は鶏づくしです」
「いいわね。コッケだったかしら?」
「おいしい、って評判だからね。楽しみだな」
ペテラとヴァニはそう言いながらソファをたち、クリスの方に向かっていった。
「俺としても会心の仕上がりですので、楽しんでいただけるかと思います」
「ふふ、涎がでてきたわ・・・」
居間をでて、クリスの数歩後ろを、ペテラは足取りも軽く進んでいた。
「あ、そういえばクリス」
「はい、何でしょう」
「あなた、コッケ料理ってどこで覚えたの?ヴァニも初めてコッケのことを聞いたって言ってたわよ」
「っ!?」
今日のメニューは何だ、とでも言うかのような気軽さでのペテラの問いかけに、ヴァニは思わず息を詰まらせた。
「ええ、一応以前勤めていた屋敷で」
「素直に答えるのそこ!?」
すらすらと返答するクリスに、ヴァニはそう声を上げてしまった。
「何よ、ヴァニ。ちょうどいい機会だから尋ねようと思って・・・」
「いや、さっき『互いに相手の過去は詮索しない』とか・・・」
「答えたくない質問に対しては、答えなくていいってことですよ、ヴァニ様」
クリスはヴァニの方を振り返り、ペテラの言葉の真意をそう説明した。
「でも、姉さんはクリスの昔のことを知らないって・・・」
「今まで尋ねられませんでしたから」
「私も、何となく聞いてなかっただけだし」
クリスの過去に後ろぐらいものがある、と少々勘ぐっていたヴァニは、二人の返答に力が抜けていくのを感じた。
「それで、やっぱり昔から召使いやってたの?」
「はい子供の頃からいろいろとさせられていましたので、自然と」
「へえ。ほらヴァニ、やっぱりあなたの推理が正しかったわよ!」
「ああ、うん・・・」
ほんの少しの好奇心から始まった推理が、気まぐれの問いかけによって証明されていく様子は、ヴァニから力を奪っていった。
クリスの裏に何かがあると勘ぐっていた自分が、アホのように感じられるからだ。
「でも、何でその屋敷を辞めたの?」
「私の他にも同僚が結構いましたが、そのころの主人が結婚なされて、その際に解雇されました」
「結婚で解雇?」
「半分、俺たちを雇っていたのは趣味みたいなものだったらしいですからね。でも、結婚されて趣味から足を洗うために解雇したらしいです」
「趣味、ね・・・ちなみにその趣味って?」
「あまり答えたくありませんが、ヒントだけ差し上げます。その屋敷ではメイドしか雇っていませんでした」
「・・・ああ!あー、そう言うことね・・・」
ヴァニが内心で彼の過去を察する一方、ペテラはそう大きく頷いた。
「さあ、早くしないとコッケ料理が冷めてしまいますよ」
「はいはい。昔話はここまでね」
会話を打ち切ると、三人はやや急ぎ足で廊下を進んだ。
「ねえ、ヴァニ・・・」
ペテラがクリスの背中を見ながら、そうヴァニの耳元でささやいた。
「何、姉さん?」
「メイド、いいわよね?」
「・・・ノーコメントで」
前を進むクリスの腰のあたりを見ながらのペテラの問いに、ヴァニはそう応じた。
(3)晴の日は外で
「おはようございます、ヴァニ様」
朝、いつものように厨房にはいると、クリスがそうヴァニに向けて声をかけた。
ヴァニが朝の運動を終え、着替え、厨房に入る。
すると朝食の配膳と入れ替わりに、クリスがペテラを起こしに厨房を出ていく。
それが、この屋敷での毎朝の日常だった。
「おはよう、クリス」
「今朝は、パンケーキにコンソメスープと、サラダです」
壁際の調理台から、入り口近くのテーブルに皿を運びながら、クリスが説明する。
「いやあ、今日もおいしそうだね」
「恐縮です。パンケーキのお代わりはありますから、お気軽にお申し付けください。それでは・・・」
いすに座り、ナイフとフォークを手にとったヴァニにそう言い残すと、クリスは厨房を出ようとした。
だが、ペテラを起こしに行くはずだった彼の足が不意に止まる。
厨房の出入り口に、いまから起こしに行くつもりだったペテラが立っていたからだ。
「ご主人!?」
「おはようクリス、いい朝ね」
既に着替えをすませたペテラが、そう言いながらクリスの横を通り抜ける。
「え・・・姉さん・・・?」
厨房にでてこない朝はあっても、自分から先に降りてくることのなかった姉の姿に、ヴァニは西からのぼる太陽でも見るかのように目を見開いていた。
「あら?どうしたのかしら?鳩が豆食ってポゥみたいな顔して」
ペテラは入り口近くのテーブルにもうけられた自分の席に腰を下ろすと、ナイフとフォークを手に取った。
「いただきます」
「は、はぁ・・・パンケーキは、お代わりがありますので・・・」
早起きした主人に対する衝撃から未だ抜けきっていないのか、クリスは条件反射的にそう返した。
「さて、ヴァニ。今日は何か用事があるかしら?」
「ええと・・・いや、特に・・・」
ヴァニは思い返すが、何も思いつかなかった。
強いていうなら、町まで降りていって少しぶらつこうか、というぐらいだった。
「なら、悪いけど今日は留守番頼まれてくれないかしら?」
「うーん・・・まあ、問題ないけど・・・何で?」
どうせ日中は姉は外にでられないし、夜はみんな屋敷にいる。あえて留守番など用意する必要もないのに、なぜそのようなことを?
「今日は少し、クリスとお出かけするのよ」
ヴァニの疑問に、ペテラはそう答えた。
「え?そうなのクリス?」
「ええと、そんな・・・ああ、そうでしたね、確かそのような約束を前に」
何かを思い出したのか、クリスは頷いた。
「でも、お出かけといっても、食料の注文だとかの更新でご主人がサインをするだけです。それに、サインが必要な書類を持ってこさせることも」
「たまには町まで降りてもいいじゃない」
「しかし昼間ですし、今日は特に快晴ですよ」
「普段、昼夜逆転生活は許さない、みたいなことを言っているのに、こう言うときだけヴァンパイア扱いするのね」
「いや、姉さんヴァンパイアじゃない」
ヴァニが思わず横から口を挟むと、ペテラはやれやれとばかりに頭を振った。
「ヴァニ、今の時代のヴァンパイアは、日の下にでても灰にはならないわ」
「でも、弱体化するって・・・」
「体の性能が人間レベルになるだけよ。問題はないわ」
「うーん、しかし・・・」
「しかしもかかしも無いわ。今日はクリスと町まで行くの」
彼女の断言に、ヴァニとクリスは目を合わせた。
(そんなに楽しみだったのでしょうか?)とクリスが視線に問いを乗せると、
(そのようだね。通りで昨夜は妙にはしゃいでたわけだ)とヴァニは小さく肩をすくめて答えた。
「ほら、クリス!朝ご飯食べたら出発よ!」
「ご主人、急いでもまだ店が開いていないでしょうから、せめて皿の片づけをさせてください」
「わかったわ!お皿洗ったら出発ね!」
ペテラはそう、まだ朝食に手を付けていないうちから言った。
「とりあえず姉さん、食事にしようよ」
ナイフとフォークを握ったまま、弁舌を振るうペテラに、ヴァニはいつもより穏やかな口調で言った。
「ほら、姉さんが朝食をとらないと、いつまで経っても皿が片づかないじゃない」
「それもそうね・・・」
ヴァニの言葉に、ペテラは一転して静かな声音で頷いた。
「ごめんなさいね、クリス。私が遅くていつまでも片づけられなくて」
「いえ、まだそう遅くは・・・」
「すぐにいただくわ」
彼女はそう言うと、パンケーキにナイフとフォークを突き立てた。
まだ湯気が立ち上りそうなほど温かいパンケーキを、ざくざくと音がたてそうな勢いで一口大に切り取る。
そして、バターも蜂蜜もかけていないそれに、彼女は一口でかぶりついた。
そしてそのまま、もぐもぐと彼女は口を動かす。
「んーん、おいしいわ」
三回ほど咀嚼してからパンケーキを飲み下し、ペテラはそう口にした。だが、その間にも彼女の両手のナイフとフォークは、次の一口を切り取りつつある。
「うわあ」
貴族にあるまじき勢いで、パンケーキを切っては口に運び、飲み込んでいくペテラの姿に、ヴァニは思わず声を漏らしていた。
「んっ・・・!?んぐっ、んっ、んふっ・・・!」
すると不意に、ペテラが目を白黒させながら、そう口を閉じたまませき込んだ。
「ご主人!?」
「んっふ、んっ・・・!」
駆け寄ろうとする栗栖を彼女は手で制すると、フォークを放り出しながらミルクの注がれたコップを掴んだ。
赤い唇にコップの縁を当て、天井を仰ぎながら彼女はミルクを口中にそそぎ込む。
「・・・・・・・・・」
彼女の細いのどが数度上下したところで、ペテラは顔をおろした。
「ぷはぁ・・・はぁ、びっくりしたわ・・・」
「びっくりしたのはこっちです、ご主人」
のどの詰まりがとれて一息つくペテラに、クリスは少しだけ安堵しながらもそう言った。
「そうだよ姉さん。今日はどうしたの?さっきから変だよ」
「そうかしら?」
「いつもの姉さんならもっと遅くに起きてくるし、朝食を食べるときも大分のろのろだし・・・」
いつもの姉の姿を思い返しながら、ヴァニは首を傾げるペテラに言った。
「正直、本当に姉さんかって、怪しく思っちゃうよ」
「・・・・・・・・・ふふふ・・・」
ヴァニの一言に、ペテラはしばしの沈黙を挟んでから低く笑った。
「ふふふ、ふふ・・・ふふふ・・・」
「姉さん?」
彼女はそう姉を呼ぶが、ペテラは含み笑いを止めなかった。
テーブルを挟んだ向かい側の妹の姿を見ながら、ただ低く笑う。
いったいなぜ?理由不明の恐怖に、ヴァニは背筋を怖気が這い登ってくるのを感じた。
「ふふふふふ・・・」
「ご主人、スープが冷めてしまいます」
「はい」
低く笑うペテラにクリスがそう一言告げると、ペテラの笑みが掻き消えた。
そして、思い出したかのように並べてあったスプーンをとり、スープを口に運ぶ。
「あぁ・・・おいしいわ・・・」
スープを一口味わい、ペテラはそうため息混じりに言った。
「左様ですか・・・ありがとうございます」
どことなく釈然としない表情で、クリスが返答する。
普段ならば寝ぼけ眼をこすりつつ、朝食を平らげていくというのに、どうしたのだろうか。
それほどまでに、今日のクリスとのお出かけが楽しみなのだろうか。
「姉さん、今朝は眠くないの?」
姉の姿を注視するうち、彼女から眠気が全く感じられないことに、ヴァニは気がついた。
「ええ、全く」
「いつもなら眠い眠い言ってるのに・・・」
「それはね、いつもなら起きる直前まで寝てたからよ」
「うん・・・うん?」
ペテラの回答に、ヴァニは一拍遅れて首を傾げた。
「あんまり楽しみすぎて、実は昨夜から一睡もしてないの」
眠気どころか、疲れすら滲ませず、彼女はそう徹夜を告白した。
「ええと、その・・・大丈夫ですかご主人?」
「大丈夫よ。むしろ元気が有り余りすぎて、献血でもしたい気分よ」
若干主人の身を案ずる気配を滲ませたクリスに、ヴァンパイアのペテラがにっこりと返す。
「正直、昨日まで私は朝を無駄に使っていたわ。ほんの一晩眠らないだけで、こんなに楽しく、元気に朝を迎えられるなんて」
新たな発見の喜びを、ペテラは滔々と語った。
「私決めたわ。こんなにさわやかな朝を迎えられるなら、私もう眠らないわ」
「そう、ですか・・・」
若干困ったような表情で、クリスはちらりとヴァニを見た。
(どうしましょう?)
眉根に皺を刻みながらのクリスの無言の問いに、ヴァニは軽く肩をすくめて続けた。
(体力の限界に来て、眠くなるまでの辛抱だよ)
徹夜明けとお出かけ前の興奮で、疲れを感じていないだけ。
魔物の体力といえども、いずれ限界は訪れる。
それまでの話だ。
「ほらヴァニ、さっきから食べてないじゃない。あなたの方こそ食欲がないんじゃないの?」
「ああ、いや・・・ちょっと休んでいただけだよ」
姉の注意に意識を引き戻すと、ヴァニはナイフとフォークを手に、パンケーキを切っていった。
そして、妙に饒舌なペテラが朝食をとり終え、クリスが皿を片づけ、出かける準備をすませた。
「忘れ物は?」
「ありません」
書類か何かが入っていると思しき鞄を手に、クリスは主の問いに頷いた。
「それで、姉さん。本当に歩いていくの?」
玄関の内、エントランスホールで、ヴァニは姉に向けてそう問いかけた。
「何なら、今から私が走っていって、馬車を呼んでもいいけど」
「その必要はないわ」
「でも・・・時間が」
太陽光やペテラ自身の体力など、いくつかいいわけとしばらく迷ってから、ヴァニはそう口にした。
「大丈夫よ。まだ朝の内だし・・・それに、歩きの方がほら」
ペテラは言葉半ばで、傍らにいるクリスの手を握った。
「こうやって二人で歩けるじゃない?」
「ご主人・・・」
突然の主の行動に、クリスは一瞬驚いたようだったが、すぐにため息をついた。
徹夜明けで妙に気分が興奮しているのだ。大人しく従っていた方がいい。
「では、ヴァニ様。留守の間、まことに申し訳ありませんが、よろしくお願いします」
「うん、大丈夫。むしろそっちこそ、姉さんの面倒頼むよ」
「はい」
ペテラを扱いなれているはずのクリスへの言葉に、彼は頭を下げた。
「じゃ、行ってくるわね、ヴァニ」
「行ってらっしゃい」
ペテラとクリスは、手をつないだまま扉に向き直り、玄関を開いた。
朝の陽光が扉の隙間からエントランスホールに差し込み、主と召使いの体に降り注ぐ。
「・・・!」
「大丈夫ですか、ご主人?」
「ええ、大丈夫・・・」
小さく体をふるわせた彼女への気遣いに、ペテラはそうクリスに向けて頷いた。
そして、二人は手をつないだまま屋敷の外へと歩みだしていった。
「はぁ・・・やっぱり太陽の光は辛いわねえ・・・」
「だから言ったでしょう。今からでも日傘を」
「クリス、もう少し私を支えて」
隣を歩く召使いと肩を触れ合わせながら、ペテラは足を進めた。
手をつなぎ、腕を絡ませ、肩同士を触れあわせる。どこからどうみても恋人同士の二人の後ろ姿に、ヴァニは小さく嘆息した。
呆れと、ほほえましさの混ざった嘆息だった。
「行ってらっしゃい・・・」
屋敷を離れていく二人の後ろ姿に向けてそう言うと、彼女は扉を閉ざした。
「さて・・・」
これで、あとは二人が帰ってくるまで、ヴァニは留守番をしていればいい。
「何しようかなあ・・・」
とりあえず書庫の本でも読もうか。姉と召使いの帰宅までの間、何をしようか考えながら、彼女はエントランスホールを出ようとした。
しかし、彼女が扉から十歩も離れない内に、玄関が再び開いた。
「もどりました」
「へっ?」
不意に響いた扉の音と、クリスの声に、ヴァニは振り返っていた。
彼の腕には、背中と膝裏を支えられるようにして、ペテラが収まっていた。
だが、いわゆるお姫様だっこという姿勢とは裏腹に、ペテラの表情は苦悶に満ちていた。
「どうしたの?」
「それが、庭の半ばほどで急に気分が悪くなったと」
「うーんうーん」
クリスの腕の中で、ペテラはそう呻いていた。
「いったいどうし・・・あ」
ペテラの突然の不調の理由に、ヴァニはすぐに思い至った。
「あれだ、太陽だ」
「太陽?しかし、今の時代のヴァンパイアは」
「そう、太陽の光を浴びたからって、灰になったりはしない。ただ、身体能力が人間並になるだけだ」
クリスの言葉を引き継ぎ、ヴァニはそう続けた。
「では一体・・・」
「たぶん、昨日の徹夜で体力を消耗していたところに太陽光を浴びて、体力が完全に底をついたんじゃないかな」
「なるほど。そう言うことでしたか」
合点が行ったかのように、クリスは頷いた。
「とりあえず、寝不足が原因だろうから、寝かせておけば元気になると思うよ」
「そうですか・・・ということは、今日のお出かけは延期ですね」
どこか残念そうに、クリスは言った。
「姉さんは私が面倒みておくから、用事を片づけに行ったら?」
「そうですね。では、ご主人をよろしくお願いします、ヴァニ様。本当にすみません」
「いいって、いつものお返しだよ」
クリスから姉を受け取りながら、ヴァニはなんと言うこともないように返答する。
「じゃ、クリス、今度こそ行ってらっしゃい」
「はい、行って参ります」
「うーんうーん」
クリスの礼に反応したかのように、ペテラが低く呻いた。
だが、クリスは彼女のうめきに一瞬動きを止めはしたものの、視線だけ残して玄関をでていった。
「うーんうーん」
エントランスホールに、ペテラのうめきと沈黙だけが取り残される。
「・・・惜しかったね、姉さん」
腕の中の姉に向け、ヴァニはそう呟いた。
(4)雨の日は家で
窓の外から、濡れた音が響いていた。
何かが石をたたく音や、木の葉を何かが打つ音が響いていた。
朝の内は小さな衝突音ばかりだったのが、昼を迎える頃には水音に変わっていた。
雨で水たまりが広がっているのだろう。
「全く・・・イヤな天気ね・・・」
居間の窓から、ほの暗い外を見ながら、ペテラはそう呟いた。
ソファに腰掛ける彼女の手には本が握られており、傍らのテーブルにも幾冊か積まれていた。
雨が降り続くため、暇つぶしにと書庫から引っ張りだしてきたのだ。
テーブルの上に乗っているのは、チェスに旅行記に物語にと様々だった。
「あーあ、早く晴れないかしら・・・」
晴れたところで、ペテラはヴァンパイアのためそう気軽に外にはでられないのだが、そう思わずにはいられないほど湿っぽかった。
「・・・・・・?」
ふと、ペテラは来ると予想していた言葉が発せられないことに、疑問符を浮かべた。
窓の方に向けていた顔を、隣のソファに向けると、ペテラの目にそこに腰を下ろす妹の姿が入った。
ヴァニは、一冊の本を開き、妙に前かがみの姿勢で読んでいた。
「ヴァニ?」
妹の名を呼ぶが、反応はない。
目がゆっくりと動いているのを見ると、どうやら本に集中しているだけのようだ。
「ヴァニ・・・ヴァニ・・・」
「・・・・・・」
ペテラの呼び声に、ヴァニは反応しなかった。
「もう、ヴァーニ!」
「うわっ!?」
やや大きな声を出したところで、ようやく彼女が反応した。
「な、なに姉さん?」
少々驚いた様子で、ヴァニは本に指を挟んで閉じながら、そうペテラに言った。
「いえ、妙に静かだったから、どうしたのかと思って」
「何だもう・・・びっくりしたじゃないの・・・」
どうでも言い理由で読書を中断されたことに、ヴァニは唇をとがらせた。
「ごめんなさい。そんなに集中していたとは」
「いや、いいよ姉さん。これからこっちも気をつけるから」
ヴァニはそう、ペテラのじゃまを水に流すと、本を開いた。
「ところで、何読んでるの?」
「んー?ああ、書庫においてあった小説だね」
「へえ、どんな?」
ペテラは興味を抱き、妹に尋ねた。
書庫には名作から、料理のレシピ集、はては誰が書いたかすらも定かでない予言書めいた詩集まで、様々な種類の書籍が詰め込まれている。
ペテラはヴァンパイアのため町の本屋まで行くことはできず、書庫の本の多くは代々受け継がれてきたものから、召使いがどこからか手に入れてきたものまで、多岐にわたっていた。
そのため、ペテラ自身も書庫に何が入っているか把握し切れておらず、ヴァニが没頭するような小説に興味を抱くのも無理はなかった。
「作者もタイトルも書いてないけど、恋愛小説みたいだね」
今読んでいる箇所に指を挟んだまま、ヴァニは本の冒頭をぺらぺらとめくった。
「ええと、貴族の少女のところに許婿の青年が来て、徐々に打ち解けていくって話だね」
その説明に、ペテラの表情がこわばった。
「今、そこそこ仲良くなってきたけど、久々に戻ってきた主人公の妹が、いろいろと小細工して嫌がらせをしているところだね」
「へ、へえー」
どこかうつろな口調で、ペテラは相槌を打った。
「どうしたの姉さん?」
「い、いや・・・何でもないわ・・・何でもないわ・・・」
姉の様子を気遣ってヴァニは問いかけるが、ペテラは何事もない風を装うばかりだった。
「そうよヴァニ、確かその小説最後の方が・・・」
「あーだめ!聞かない!先のことなんて聞かないよ姉さん!」
何かを思いついたようにペテラが口を開くが、ヴァニはそう遮った。
「いや、ネタバレとかじゃなくて、その小説はたぶん最後の方が尻切れトンボだから・・・」
「あーんもう、どうしてそういう事言うのさ!せっかく楽しみながら読んでたのに」
「私も・・・その、楽しんでたんだけど、最後の方があまりにアレだから・・・そうよ、私みたいな気持ちになってほしくないから、そこで止めてほしいのよ」
「なんで?今、意地の悪い妹の裏工作で、二人のすれ違いが始まってるところなのに。これからもっと不仲になるのか、やり直せるのか、気になってるんだよ!?」
「だから、そこで止めていた方がいいのよ!ほら、それをよこしなさい!私がもっといい本紹介してあげるから!」
「紹介してくれるのはいいけど、せめてこれを読み終えてからにしてよ!」
「だめよ!最後まで読んだら・・・がっかり!そう、がっかりするわ!私はかわいい妹にがっかりしてほしくないから」
「何がかわいい妹だよ!私が屋敷を飛び出すまで、ずっと私のこと嫌っていたくせに、今更優しいお姉さん面して!」
「はぁ!?何でいま昔のことを持ち出すのよ!」
「こっちだって持ち出したくなかったよ!でも、今になって優しいお姉さん面して、私を縛って何がしたいのよ!私のしたいようにさせてよ!」
「したいようにさせて?あなた屋敷を飛び出して、ずっとしたいようにしてきたじゃない!それが今になって、したいようにさせて?笑わせないでよ」
二人は言葉を切ると、互いに相手を睨み合った。
同じ色の瞳が、互いに視線で射抜き合う。二人の放つ怒気が、居間の空気を張りつめさせ、気温が下がっていくような錯覚をもたらす。
「ヴァニ・・・あなたはいいわね・・・何でもかんでも卒なくこなせて・・・」
「私も姉さんがうらやましいよ・・・自分の鬱憤を当たり散らせる相手がいて・・・」
言葉に殺気すら込めながら、二人はそう唇を動かした。
すると、居間の扉が音を立てて開いた。
「ご主人、ヴァニ様。お茶とお菓子をお持ちしまし・・・た・・・」
ティーセットにお菓子の盛られた皿を乗せたワゴンを押しながら、クリスが居間に入ってくるが、ヴァンパイアとダンピールの放つ険悪な雰囲気に言葉尻が小さくなっていった。
「ああクリス、いいところに来たわね。『お客様』はお帰りのようよ」
「へえ?妹が言うことを聞かないからって、癇癪起こして追い出すんだ。デキの悪い姉は大変だねえ」
「ええと・・・何が・・・」
クリスは二人の顔を見比べていたが、ふとヴァニが手に持ったままの本に目を留めた。
著者もタイトルも記されていない、一冊の本だ。
「おや、懐かしいものが」
「ん?これ?」
クリスの一言に、ヴァニがペテラから視線を離し、手に持ったままの本に目を向けた。
「ええ、非常に懐かしい一冊です。どこに行ったのか探していましたが・・・」
「書庫で見つけたんだ。でも、この本のこと知ってるの?」
「それはもちろん」
クリスがうなづくと、ペテラの顔色が変わった。
「その本は」
「く、クリス・・・!」
クリスを制するように、ペテラは彼の名を呼ぶが、彼はかまうことなく続けた。
「俺が昔書いたものです」
「っ・・・!?」
「クリスが?これを?」
ペテラが言葉を詰まらせ、ヴァニが召使いの男と手元の本を見比べた。
「はい。まだほかの召使いがこの屋敷にいた頃に、暇つぶしのつもりで仕事の合間に書いておりました」
「でも、本を出すって結構お金かかるんじゃ?」
「出版するなら相当かかりますが、俺の場合そこそこ枚数がたまったので、製本しただけです。つまり、その一冊しかこの世にありません」
「へえ」
この世に一冊だけしかない本。ヴァニはその一言に、急に手の中の本が重みを増したように感じた。
「この世に一冊と言っても、そう価値のあるものではありません」
「でも、わざわざ製本したんでしょ?手間分はかかってるんじゃ・・・」
「製本自体の作業は、紙と糸とノリがあれば簡単にできますよ。ご興味があるなら、後で白い紙を使って、日記に使える白い本を作りましょうか?」
「自分だけの本か・・・いいねえ・・・」
手の中の本の手触りを確認しながら、ヴァニはそうそう呟いた。
「じゃあ、これを読み終えたらということで」
「かしこまりました、と言いたいのですが・・・実は・・・」
クリスはしばし言葉を濁してから、続けた。
「ヴァニ様がお読みの本は、実はまだ完成していないのです」
「そうなの?」
「八割方書き上げたところで、徐々に忙しくなってしまいまして、最後まで書き上げることができなかったのです。本の形にしたのも、最後の方の白いページを見ることで、『完成させなければ』と自分をせかすためでした」
「そうだったんだ・・・」
ペテラの言っていた、尻切れトンボで終わるというのはそう意味だったのかと、ヴァニは納得した。
「ですので、今中断した場所までお読みになられてもどかしい思いをなさるより、今一度俺に預けて、完成を待たれてはいかがでしょうか?」
「ふむ・・・でも、続きが思い浮かばずそのまま、とかはごめんだよ?」
「大丈夫です。既に結末まで、俺の頭に入っています。必要とあらば、この場であらすじをお伝えしますが」
「いやいい!君が書き上げるのを待ってから読むよ」
クリスの言葉を中断させると、ヴァニは手に持った本に目を落とした。
「じゃあ、完成させて読ませてほしい」
「かしこまりました」
クリスは一礼とともにヴァニの差し出した本を受け取り、懐に納めた。
「では、少々遅れましたが、お茶の時間としましょう・・・と言いたいところですが・・・」
クリスはポットの蓋を取ると、少しだけ表情に苦いものをにじませた。
「まことに申し訳ありませんが、少々時間をおいたせいで、茶に渋みが出てしまったようです」
「そうかしら?いつもの香りに感じる・・・いえ、確かに少し渋くなったみたいね」
ペテラは一瞬、クリスの言葉に首を傾げたが、すぐに彼の意見に同意した。
「うーん、私はそうは感じないけど・・・」
ヴァニもあたりに漂う茶の香りに、いつもと変わらぬものを感じていた。
「少し冷めたというのもありますから、すぐに淹れ直して参ります」
「じゃあ、私もお茶の準備ができるまで、少し失礼しようかしら」
ペテラは本を傍らに置くと、すっとソファをたち、しずしずと居間を出ていった。
「ではヴァニ様、俺も失礼します」
「ああ、うん」
そして彼女の後を追うように、クリスはワゴンを押しながら扉に向かった。
「あ、そうだクリス」
「はい」
ヴァニの呼び声に、クリスは足を止めて振り返った。
「さっきの本、続き楽しみにしてるから」
「・・・かしこまりました」
クリスはもう一度だけ頭を下げ、居間を出た。
そして扉を閉め、ワゴンを静かに押しながら、彼は厨房を目指す。
すると、廊下の角に隠れるように、壁に背中を預けているペテラの姿が、クリスの目に入った。
「ご主人」
「クリス、さっきはありがとう」
居間のヴァニに聞こえないようにするためか、小声でペテラが囁いた。
「勝手に本にしていたのは許さないけど、クリスが書いたことにしてくれたのは感謝するわ」
「はてさて、何のことか俺にはわかりません」
「もう・・・とにかく、あの本を返しなさい」
ペテラはクリスに向けて手を差し出すが、彼の両手はワゴンの取っ手を握ったままだった。
「残念ですが、ヴァニ様と本を完成させて読ませる、と約束してしまいましたので」
「ちょっと、アレの作者は・・・」
「俺です。製本作業の合間に何度か読みましたからね。続きが頭に浮かぶほどに」
「・・・・・・!」
クリスが熟読した、という事実を改めて理解し、ペテラの顔が赤くなっていく。
「いや、その・・・アレはまだあなたが来る前に書いたものだから、あなたや私とアレには何の関係も」
「はい、存じてます。主人公は貴族の令嬢でご主人にそっくりですが、俺はただの召使いで、妹のヴァニ様もそう意地悪ではありません。あの物語と、俺たちが別物であることは、重々承知しています」
「あ・・・うん・・・それなら、いいのよ・・・」
クリスの口から改めて強く否定されたことで、ペテラは少しだけ語調を弱めた。
「ですが、幸せな結末に仕上げることは約束しますので、安心して俺に任せてください」
「そう・・・なら、いいわ」
ペテラはそう、クリスに自分の生み出した二人の未来を預けた。
一方そのころ、一人居間に取り残されたヴァニは、天井を見上げながらため息をついた。
「全く・・・姉さんはアレで、ばれてないとでも思ってるのかなあ」
あからさまな動揺と、何としても先を読ませまいとする無駄な努力。
その一つ一つが、ヴァニに誰が作者であるかを伝えていた。
「それにしても、姉さんはいつ書いたんだろう」
主人公の下にすてきな青年が現れ、恋に落ちる。
誰かさんの理想なのかもしれないが、果たしてそれはあの召使いが来る前なのか後なのか。
どちらにせよ、製本作業でクリスが一度目を通しているのは確実だった。
つまりは、ペテラの理想と願望が、クリスに伝わっているという事だ。
「あーあ、もうあの二人・・・くっつけばいいのに・・・」
屋敷に戻ってから数ヶ月、心の中で思いはするものの言葉には出さなかった文句を、ヴァニはついに口にしてしまった。
(5)どっちだ?
「これで・・・どうかな?」
ドレスに身を包んだ金髪の女が、大きな鏡を前に自分の体を見下ろす。
ドレスのウエストはきゅっとしまっており、胸元には乳房が多少余裕を持って詰め込まれていた。
「大丈夫じゃないかしら?」
動き易さを優先した装束に身を包んだ女が、ドレスの女に答える。
「それにしても・・・ちょっとキツいわよ、これ」
服の胸のあたりを軽く押さえながら、彼女はドレスの女を振り返った。
「そりゃそうだよ姉さん。だって、私の服着るために、いつもよりコルセット強めにしてるんだろ?」
「コルセットじゃなくて、胸の話よ」
「コルセットであふれた腹肉が胸に行ってるから、同じ事じゃないの?」
「だったらあなたもコルセット付けてみたら?そのスカスカの胸が多少増量されるかもよ?」
「コルセット日常着用者らしい意見だね、ははははは」
「うふふふふ」
二人は、ペテラとヴァニはそう笑いながら、目だけは笑わないままに視線を交錯させた。
互いの目に映っているのは、自分の衣服を身につけた相手の姿だった。
ドレスに袖を通すヴァニに、活動的な衣装をまとったペテラ。
二卵性の双子とはいえ、どこか雰囲気がにているためだろうか。二人の姿は、本当に入れ替わっているように見えた。
「まあ、さわられでもしない限り、ばれることはないよね」
「そうね。実際さわられなければ気づけないだろうし・・・」
若干胸が足りないせいで余裕のあるドレスの胸元と、コルセットのおかげでがちがちに固い腹を撫でながら、二人はそう言葉を交わした。
「でも・・・本当にクリスは気がつくかな?」
「どうかしら・・・」
ペテラは昨日からの思いつきに、今更ながら不安を抱き始めていた。
すべての始まりは、ペテラが入浴をすませた後だった。
肌や髪にまとわりつく水の滴をタオルで拭きながら浴室を出ると、脱衣所に人影がいたのだ。
「あら、ヴァニ?」
気配もなく、脱衣所に一糸纏わぬ姿で立っていた妹にむけ、ペテラは思わず声をかけた。
だが、よくよく見てみるとそれは妹などではなく、大きな鏡に映った自分の姿だった。
「・・・そういえば、鏡の場所を変えたって言ってたわね・・・」
聞き流していたクリスの言葉を思い返しながら、ヴァニは自身を妹と見間違えた驚きを、冷静に受け止めていた。
あまり似てないと彼女は自分では思っていたが、ペテラは一瞬自分を妹と見間違えてしまっていた。
つまり、ペテラとヴァニは想像以上に似ているのではないのだろうか?
ペテラの心に、そんな考えが浮かんでいた。
「でも、私と姉さんが似てるかどうか確かめるため、服を交換してクリスをためすだなんて・・・よく思いついたね」
姉の思いつきに、ヴァニは今更ながらため息をついた。
「まあ、一瞬見た感じだと大丈夫かもしれないけど、さすがに言葉を交わしたらわかるんじゃない?」
鏡に映る、姉のドレスを纏った自分の姿を見ながら、ヴァニはペテラに言った。
「私は数年一緒だから、ヴァニが出ていったらすぐばれるかも淹れないけど、ヴァニに化けた私なら大丈夫かもしれないわよ?」
「うーん、どうかなあ」
「『まあ、姉さんが不満に思うのも仕方ないけどね。でも、こうやって私らしく振る舞っていたら、大丈夫なんじゃないかな?』」
ペテラはそう、ヴァニの口調をまねて言った。
「あー・・・姉さん」
「『ん?なんだい姉さん?何か問題でも?』」
「率直に言うけど、あまり似てないよ」
「え?」
「外見は、まあ似てるとしても、口調がどうにも違う気がする」
「そうかしら?」
ペテラが首を傾げた。
「意外と自分の癖なんて、覚えてないんじゃないの?」
「そうかもしれないけど・・・わかった、今から姉さんのまねをしてみるから、どれだけ違うか体感してみてよ」
こほん、と咳払いを一つ挟んでから、ヴァニは腰に手を当てながら言った。
「『クリス、今日の晩ご飯はなにかしら?この間のコッケのスープにもも肉の炒め物はおいしかったわ。今日でなくていいから、また作ってね』」
「なによ完璧じゃない」
「はぁ!?」
適当なモノマネに対しての評価に、ヴァニは思わず素っ頓狂な声を上げていた。
「特にこの間のコッケの話のところなんて、一昨日私が言った内容そのままよ?もしかして聞いてたの?」
「い、いや・・・そういうわけじゃ・・・」
「どうやら、私のモノマネが下手だっただけみたいね」
ヴァニのモノマネがあまりにも見事だったためか、ペテラは悔しさを微塵も滲ませず、むしろ晴れ晴れとした表情で言った。
「これなら、私が出ていくより、ヴァニが私のフリしていた方が成功しそうね」
「うーん・・・どうかなあ・・・」
ヴァニは呻きながら首を傾げた。自分のモノマネが適当だったため、姉と似ているという確信が持てないからだ。
先ほどの演技が渾身のそれだったならば、ヴァニも自信を持ってクリスの前に立てただろう。
だが、今の彼女にあるのは、『似ていた』という姉の言葉だけだ。
「でも、やるだけやってみない?それにクリスの前にたつのはあなただから、誰よりも最前線でクリスの反応が見られるわよ?」
「それも、そうだね」
ヴァニの内側で、ペテラの提案を初めて聞いたときのような、いたずら心が少しだけ顔を出した。
クリスは掃除道具を片手に、ペテラの部屋の戸を叩いた。
「失礼します」
この時間帯、ペテラは居間にいる。
そのため、クリスは部屋の内からの返答も待たず、そう声を上げて入っていった。
だが、部屋の中には、ドレスを纏った金髪の女が一人、ベッドの上に寝転がっていた。
「おや、どうかされましたか?」
クリスが、ベッドの上に寝転がるヴァニに、目を丸くした。
「『ん・・・ちょっと、ね・・・』」
ヴァニは、ペテラの声色をまねながら、クリスの問いに応じた。
ベッドの上に寝転がっているのは、少しだけ体調が悪いのを装うことで、多少の声の違いをごまかすためだった。
ちなみにペテラ本人は、よそに隠れているのを見つかっても面倒なため、今はベッドの下に身を隠している。
「『のどの調子が少し・・・』」
「風邪の引きはじめかもしれません。どうかご自愛ください」
ヴァニに向け、心配した様子で彼はそう声をかけた。
「本格的に体調がよろしくないのであれば、今から休まれますか?準備しますが」
「『うん・・・たぶん、大丈夫だと思う・・・』」
クリスの、姉に対する気遣いの言葉に、ヴァニは少しだけ良心が痛んだ。
クリスが完全にヴァニをペテラだと思いこんでいるのは明らかだったが、彼の行動は主人の身を案じるものだったからだ。
彼の声に宿る心配そうな感情に、ヴァニはペテラの真似がうまく行っていることを喜ぶ気になれなかった。
「いえ、風邪は引きはじめが肝心、という言葉もあります。寝間着に着替え、今日は一日横になっていた方がいいでしょう」
「う・・・」
クリスの言葉に、ヴァニは声を詰まらせ、ベッドの下から動揺の気配が溢れた。
寝間着に着替える。それは、今ヴァニが纏っているドレスを脱ぐことだった。
確かに着替えた当初は、一瞬見間違えるほどヴァニの姿はペテラに似ていた。
しかし、それはあくまで着替えた後の話だった。
姉と違い、ヴァニはコルセットの力も借りずにドレスを纏っている。だからドレスを脱いでしまえば、引き締まった腹周りが露わになってしまう。
そうなれば、多少声真似をしたぐらいでは、クリスをごまかすことはできない。
「寝間着に着替え、温かい飲み物で体を温め、ぐっすり休んでください。そうすれば、明日にはよくなっているでしょう」
主人の風邪が悪化する前に、という気遣いの心を、クリスは発揮していた。
「『そ、そうね・・・じゃあ、着替えている間に飲み物を用意してくれないかしら・・・』」
「着替えている間に?」
不思議そうな声音で、クリスは繰り返した。
「コルセットも外さないとだめですから、飲み物を準備するのは着替えられてからです」
「『そのぐらい、一人で・・・』」
「今朝も俺と二人で相当締め上げたんですから、注意してほどかないと怪我されますよ」
クリスの言葉に、ヴァニは一瞬ベッドのマットレスに目を落とした。
(姉さん、そういうことは最初から言っていてよ・・・)
これでは、なりすましが明らかになるのは、時間の問題だ。
「『う、うぅん・・・』」
「どうされました?」
どうしたものか、とヴァニの思わず漏らしたうめき声に、クリスが声に緊迫感を帯びさせた。
「気分でも悪くなられましたか?」
どうやら、どうしたものかという苦し紛れのうめき声に、彼は本当に苦しさを嗅ぎとったようだった。
「そういえば、最近ご主人は血を飲まれていませんでした。たぶん、その影響が出ているのでしょう」
彼は掃除道具をそのままに部屋を横切り、ベッドの上のヴァニの肩に手を乗せた。
「あ・・・」
「血が不足で体調不良を起こしているのかもしれません。さあ、どうぞ」
意外と力強いクリスの手にヴァニが声を漏らすと、彼は彼女の瞳をのぞき込みながら続けた。
そういえば、前に聞いたことがある。クリスは皮膚の傷がただれやすいから、血を吸う際は唇か舌から吸うと。
ベッドに仰向けに押さえつけられ、ゆっくりと近づいてくるクリスの顔に、ヴァニは胸の奥が高鳴るのを感じた。
目の前にいるのは姉の召使いだというのに、彼は姉に血を捧げようとしているだけだというのに、ヴァニの心臓はキスでも迫られているかのように跳ね回っていた。
「さあ、どうぞ」
吐息どころか、声の震えすら肌で感じられそうなほど接近しながら、クリスが囁く。
だが、どうぞといわれても、ヴァニは動くことはできなかった。
どうすればいいのだろうか。
「ええと・・・ええと・・・」
「どうされました?血を吸われないのですか?」
演技も忘れ、ただ口を開閉させるばかりの彼女に、クリスは問いかける。
「それとも、ご主人のドレスを着ていることと、何か関係でも」
「だ、だめえええ!」
クリスの唇から、ヴァニの返送を見抜いていたような発言が紡がれた瞬間、べっどの下で息を潜めていたペテラが、声を上げながら転がり出た。
「やっぱりだめ!中止、中止よ!」
仰向けに横たわるヴァニに多い被さり、もう少しで唇が触れ合いそうなほど顔を接近させるクリスの背中に、ペテラがしがみつくようにして引きはがした。
「クリス!そこにいるのは私じゃなくてヴァニで、私がペテラで・・・」
「はいはい、わかっておりますよ、ご主人」
半泣きでしがみつき、回りくどい表現でペテラとヴァニの入れ替わりを説明する主人に、栗栖は穏やかな口調で話しかけた。
「何だ、気がついていたのか・・・」
ヴァニはクリスの顔が離れたことで、いくらかほっとしながら、べっどの上に身を起こした。
「まあ、自分でも完ぺきだとは思ってなかったけど・・・ちなみに、どこで気がついたの?」
「最初からです」
しがみついて嗚咽する主の背中を撫でながら、クリスは続けた。
「部屋に入った瞬間から、どう見てもヴァニ様でしたので」
「いや、私としてはどうしてわかったのかって聞きたかったんだけど」
「どうして、といわれましても・・・」
クリスはしばし首を傾げてから、続けた。
「まず髪の感じが違いますし、肌の色も少々違ってました。それとドレスの腹周りにもコルセットのラインが出てませんし、なにより目元がヴァニ様の目でしたので。正直なところ、俺がご主人の格好して寝転がっているのと、そう大差ない気がしました」
「そ、そうなんだ・・・」
ヴァニは、完全にクリスに見抜かれていた事に舌を巻いていた。
だが同時に、いつものペテラと違うから気がついた、のではなく、ヴァニの特徴があったからヴァニだと気がついたということに、彼女は少しだけ嬉しく思った。
自分のことを、彼もちゃんと見ていてくれたのだ。
「クリスぅ・・・ヴァニにだまされちゃだめええ・・・」
「はいはいご主人。あれは演技でしたが、不安にさせてすみませんでした」
主をなだめながら、クリスはそう説明した。
つまりはヴァニの方が、クリスにおちょくられていたわけだ。
ベッドに押さえつけられ、姉がいつもしているように血を吸うよう促された瞬間、ヴァニの心臓は高鳴った。
それだけに、クリスの一言は彼女の心に突き刺さるようだった。
「・・・・・・」
ベッドの上から、ペテラとクリスの姿を、ヴァニは見ていた。
(6)いい加減にしなさい
食堂のテーブルに、ペテラとヴァニは腰を下ろしていた。
テーブルには清潔なクロスが敷かれ、二人の前には皿と、ナイフやフォークが整然と並んでいた。
まるで、会食のようだ。
「何というか、このスプーン使うの久しぶりだね」
磨き上げられた銀のスプーンを手に取りながら、ヴァニが口を開いた。
「この間使ったのが、あなたが帰ってきた頃だから・・・半年ぶりかしら?」
普段は厨房におかれたテーブルで、朝昼夕を取っているため、この屋敷の主のはずのペテラでさえ食堂や食器からある種の懐かしさを感じていた。
「でも、何で急に?」
「コッケが三羽ほど手に入ったかららしいわ。だからコッケを主軸にコース料理を仕立てるって、張り切ってるみたい」
「へえ・・・」
ヴァニは、普段は少しだけ冷めたような様子の召使いが、どう張り切っているのか気になった。
すると、食堂の扉が開き、ワゴンを押しながらクリスが入ってきた。
「お待たせしました」
主とその妹に遅れをわびつつ、彼はテーブルの傍らでワゴンを止めた。
「前菜の、『コッケのササミのサラダ』でございます」
ワゴンの上の皿を手に取り、ペテラとヴァニの前に置いていく。
「へぇ・・・美味しそうね・・・」
さっと湯をくぐらせた、透明感のあるササミを適度にほぐし、野菜とともに皿に盛りつけた一品に、ペテラは言葉を漏らした。
野菜やササミにかけられたドレッシングが、さわやかな柑橘の香りを放ち、二人の食欲をそそらせた。
「なお、肉料理には赤ワインがあいますが、本日は鶏料理がメインですので、俺が個人的に合うと思っているウオクオイ酒を用意しました」
「ウオクオイ?」
聞きなれぬ酒の銘柄に、ヴァニは首を傾げた。
「はい、大陸東部で飲まれている酒で、興奮を招く、という意味があります。コッケが手に入った後、個人的に町の商人に頼んで入手しました」
ワゴンに乗せてあった酒瓶を取ると、彼はコルク栓を抜いた。
部屋の中に酒精とともに独特の香りが、ふわりと広がっていくのをヴァンパイアとダンピールの鋭敏な嗅覚が感じ取った。
「どうぞ」
とりあえずで用意していたワイングラスに、クリスは瓶を傾けた。
瓶の口から、こんこんと音を立てながら、やや黒みを帯びた赤い液体が注がれていく。
「ヴァニ様もどうぞ」
主のグラスを満たすと、クリスはヴァニに向けてグラスを傾けた。
やがて二人のグラスが満たされ、クリスは酒瓶をテーブルの上にそっと置いた。
「それでは、次の料理を用意して参りますので、ごゆっくりお楽しみください」
クリスは二人に向けて一礼すると、ワゴンを押しながら食堂をでていった。
「それじゃあ、食べようか」
「そうね」
ヴァニの申し出に、ペテラは軽く指をくみ、この料理を作ったクリスと、材料になったコッケに感謝を捧げた。
「いただきます」
「いただきます」
二人の声が食堂に響き、二人の指が並べられたフォークの一番外、前菜用のそれを取る。
そして、皿に盛られた野菜に、四つに分かれたフォークの先端が埋まっていった。
「ん・・・おいしい・・・」
一口大にちぎられたレタスを口に運び、ヴァニが声を漏らした。
ドレッシングの酸味と油がまろやかな味わいを作り出し、そこに含まれている柑橘の香りが風味を豊かにしている。
「へえ、コッケのササミもなかなか美味しいよ」
ほぐされ、繊維状になったコッケの身にドレッシングを絡めて口に運んだヴァニが、姉にそう報告した。
ペテラは妹の皿を見て、その真似をしてみた。フォークの先端にササミの一切れを刺し、ドレッシングに軽く浸して口に運ぶ。
最初に感じたのは、ドレッシングの柑橘の香りだった。だが、ササミに残る肉汁が口中に溢れだし、味と香りの共演を奏でた。
「本当・・・こんなに肉って感じなのに、さっぱりしていて・・・」
脂身のないササミという部位とドレッシングの香りせいか、食べれば食べるほど腹が空くようだった。
「そういえば・・・このお酒がコッケに合う、って言ってたわね」
ペテラはふと、皿のそばにおかれたワイングラスに目を向けた。
半分存在を忘れていたが、クリスのおすすめなら外れはないだろう。
ペテラの細い指がワイングラスの足をつかみ、その赤い唇へと運ぶ。
そして薄く開いた彼女の口に、赤い酒が入っていった。
「・・・ん・・・」
最初に感じたのは、本の少しの酸味だ。
だが直後、口腔から鼻腔へ酒精とともに香りが立ち上っていく。口内で酒を転がすと、その酸味が口の中に残っていたドレッシングの油を洗い流していく。
ササミのあっさりとした味わいと、柑橘の香りでそこまで気になってはいなかったが、いくらか口がさっぱりした。
「・・・へえ・・・おいしい・・・」
喉を酒がすべりおり、胃袋でほのかに熱を発するのを感じながら、ペテラはそうつぶやいた。
「合うの?」
「合うと言うより、口の中がすっきりして、また味を楽しめるって感じかしら」
ペテラはそう言うとフォークを手に、サラダをもう一口運んだ。
赤い酒のほのかな風味が口に残っているものの、油分が洗い流されたおかげで、まるで最初の一口のように酸味を帯びた野菜とササミの破片を楽しむことができた。
「うん・・・少し食べて少し飲んで、を繰り返すとちょうどいいわね」
「へえ、じゃあ私も」
ヴァニもグラスを手に取り、唇を付ける。
「あ、本当だ」
さっぱりとした口内に、彼女もまたそう目を丸くした。
「これなら、この間の炒め物ももっと楽しめそうね」
ヴァニが初めてコッケを手に入れた日、その日の夕食を思い返しながら、ペテラが言う。
「うん。でも私としては、もっとほかのコッケ料理を楽しみたいな」
コッケ尽くし、というクリスの言葉に期待を抱きながら、ヴァニはサラダを平らげていく。
やがて、二人の皿に野菜のかけらと、薄く広がるドレッシングだけが残された頃、再びクリスがワゴンを押しながら食堂に入ってきた。
「お待たせしました。肉料理、コッケの腿の丸焼き、温ソース添えでございます」
湯気をホカホカと立てるコッケの腿肉と、小皿に盛られたソースを、クリスは配膳していった。
「クリス。これは?」
「はい、腿肉を軽く塩胡椒で焼いたものです。そのままでも楽しめますが、添えてあるソースをかけるとより楽しめます」
ペテラの問いに、彼はそう食べ方を説明した。
「では、サラダの皿をお下げします」
ワゴンの上に、空になった皿をおくと、彼は二人のワイングラスにウオクオイ酒を注ぎ足してから、部屋を後にした。
「うーん、どう見てもただの丸焼きだけど・・・」
ヴァニは皿の上の、コッケの腿を見ながら、そう呟いた。だが、言葉と裏腹に彼女の声には、どこか期待するような色が含まれていた。
「まずはそのまま。次はソースをかけて、の順で楽しみましょう」
ナイフとフォークを手に、ペテラはそう言った。
腿の丸焼きにスープ、揚げ物と、コッケ料理が続いた。
全体的に、調理には油がやや多めに使われてあったが、クリスの腕のおかげかしつこさはほとんどなく、ウオクオイ酒を時折口に含むことで、いくらでも美味しく食べることができた。
皿が進むにつれ、ペテラとヴァニの杯もすすみ、ウオクオイ酒も二本目に突入する。
酒精が胃袋から頭に回り、二人の感覚と思考をすこしだけ鈍らせる。
だが、前後不覚になるほどのものではなく、あくまで楽しいほろ酔いといった程度だった。
「ぷはぁ・・・あー、美味しかった・・・」
コッケの身の素揚げに野菜炒めを絡め、とろみを帯びたソースをかけたものを平らげると、ヴァニはそう声を漏らした。
程良い満足感が彼女の胃の腑を満たしているが、まだデザートを楽しむ余裕はあった。
「ほんと、美味しかったわね」
白い頬を桜色に染めながら、ペテラはナイフとフォークを置いた。
ウオクオイ酒のもたらす心地よい酩酊が、満腹のもたらす幸福感を強める。
「ところでさあ、姉さん」
グラスのウオクオイ酒をあおったヴァニが、ふと思いついたように口を開いた。
「なに?」
「いつになったらクリスとくっつくのさ」
「っおあっ!?」
突然のヴァニの問いかけに、ペテラは妙に裏返った声を上げた。
「ほら、こないだ聞いたときは、『好きだし命令すれば応じてくれるだろうけど、彼の気持ちにゆだねたい』とか何とか言ってたけどさあ、実際のところ姉さんは迫って拒絶されるのが怖いだけじゃん」
「いや、いやいやそんなこと・・・」
「あるよ。だって本気だったらとっくの昔にクリスの血を吸い尽くして、貴族の仲間入りと婿入りさせてるんじゃないの?でも、召使いとしてならクリスも命令聞いてくれるけど、対等な貴族になったら後はクリスの自由じゃない?そうなったとき、クリスが姉さんを抱いてくれるかどうか確信が持てないから怖いんでしょ」
ペテラは手を伸ばすと、ウオクオイ酒のボトルをとり、手酌でグラスに注いだ。
そして、ドンと音を立ててテーブルの上に置くと、彼女はグラスを唇につけた。
「ぷはあ・・・ほら、正直どうなのさ姉さん」
「いやそのええと・・・ヴァニ、あなた飲み過ぎじゃ」
「話を逸らさない!質問に答えてよ」
ヴァニの矛先を逸らそうとしたペテラの意図は即座に見抜かれ、ヴァニの言葉を荒げることとなった。
「怖いの、怖くないの、どっちなの?」
「そ、それは・・・」
「毎日毎日イチャイチャイチャイチャしてるのを見せつけられる私の身にもなってよ。姉さんたちが夫婦なら、まあ我慢できるけど、主人と召使いで互いに遠慮しながらもイチャイチャイチャイチャされたらいい加減もどかしいよ」
「いや私としてはイチャイチャしてるつもりは・・・って、互いに遠慮?」
ヴァニの口からこぼれた言葉に、ペテラは遅まきながら気がついた。
「互いに遠慮、ってどういうこと?私も、まあ遠慮してるところはあるけど、もしかしてクリスも」
「話を逸らさない!」
ペテラの質問を、再びヴァニは遮った。
「もうさあ、こっちとしてはひっつくかはっつくかどっちかはっきりしてほしいの。夫婦になるか、今のままの関係をずっと続けるか。ほら、どっち!?」
「そ、それは・・・」
ペテラは膝の上で両手の指をくみ、しばしもじもじとしてから、ゆっくり答えを紡いだ。
「もちろん・・・クリスとはもっと・・・その、仲良くというか・・・深い関係になりたいけど・・・でも、クリスは少し一線引いているところがあるから、私の気持ちが一方的だとイヤだし・・・」
「ハイ来ました姉さんの気弱発言!」
酒瓶を傾け、グラスを満たしながら、ヴァニが声を上げる。
「そこでさあ、もっと自信持てないの?『クリスが私のこと好きかどうかわからないから、好きになるよう努力する』とか」
「そ、そんなこと・・・ほら、私、クリスから言われてるみたいにその、お腹とか・・・」
「そこでやせようと言う努力しないわけ?そうでなくても、豊満な体つきだと自信を持って、アタックしかけるぐらいはできるでしょ?」
ヴァニはグラスをつかむと、唇に押し当てて一気に呷った。
「結局のところ、姉さんはクリスの本心知るのが怖いんだよ。姉さんの臆病者!根性なし!チキン!ニワトリ!コッケ!コッケコッコケココッコー!」
「うぅぅ・・・」
妹の口から怒濤の勢いで放たれる、勇気のないものをこき下ろす文句に、ペテラは涙目でうめいた。
ヴァニの言うことはペテラの核心を突いており、反論のしようがないからだ。
「ほら、言いたいことがあるなら言いなよ。私はチキンじゃない!って反論して、とっととクリスにアタックしなよ」
ヴァニはペテラを煽るが、ペテラはテーブルの上でうなだれ、肩を小さくふるわせるばかりだった。
「はーあ!全く、ここまで言われても立ち上がりもしないだなんて!こりゃとんだ根性なしを姉に持ったなあ!」
「う、うぅぅ・・・」
実の妹からの罵倒めいた言葉に、ペテラの頬を熱いものが伝った。
嗚咽とともに溢れるそれは、自信の情けなさを改めて認識したが故の涙だった。
「ほら姉さん。泣いてても何にもならないよ?とっとと告白しないと、わた」
「失礼します」
かちゃり、と食堂の扉が開き、クリスが姿を現した。
「デザートをお持ち・・・どうしました?」
二つの器が乗ったお盆を手にしたクリスが、食堂の雰囲気に困惑した。
無理もない。うなだれて涙を流す主人に、酒瓶を手にした主人の妹。二人の醸し出す雰囲気に、彼はどうしたものかと逡巡した。
「あ、いいところに」
ヴァニは座った目で召使いの姿をとらえると、テーブルの一角を指さした。
「クリス、座って」
「しかし、洗い物が・・・」
「座って」
「はい」
ヴァニの言葉に混じる妙な威圧感に、クリスは二度目の命令に従った。
デザートの乗ったお盆をテーブルに置き、空席に腰を下ろす。
「それで、一体何が・・・」
「実はねえ、姉さんが根性なしだという話をしていたの」
これまでの経過を説明しようと言うヴァニの言葉に、うつむいていたペテラの肩が震えた。
「毎朝毎夕、コルセットがどうの生活態度がどうの指導する振りしてイチャイチャイチャイチャ。片方が体調崩したらあからさまに動揺して心配して必死に看病して。ねえ、あんたらなに?夫婦?」
「俺としてはただの主従」
「今私が話してるんだけど」
「はい」
クリスは唇を閉ざした。
「正直さあ、こっちとしては主従以上夫婦未満恋人以下みたいなやりとり交わされるの見せつけられて、限界なのどっちかはっきりしろって言いたい」
ぐわし、と酒瓶を鷲掴みにすると、ヴァニはついにその口に唇を押し当て、瓶の底を天井に向けた。
重力によって、半ばほど残っていた酒が彼女の口に流れ込み、細い喉を上下に動かしながら、体内へ入り込んでいった。
「あ、あ、あ・・・ヴァニ様・・・!」
見る見るうちに減っていくウオクオイ酒に、クリスがイスから腰を浮かしながら声を漏らした。
だが、ヴァニは彼の言葉に止まるどころか、ますます瓶を傾け、ついに瓶底と天井を平行にした。
「ぶはぁ・・・あ、何よ?」
酒瓶を空にしたヴァニが、げっぷを一つ挟んでそうクリスに問いかけた。
「いえ・・・もう、結構です」
「何?お酒飲み干されて残念だ、っていいたいの?全く、酒がなくなったぐらいでピーチクパーチク・・・男らしくないねえ」
やれやれと頭を振りながら、ヴァニはため息をついた。
「男らしくないといったらあなたもねえ、クリス。あれ、ええと・・・何だっけ・・・ええと・・・」
天井を見上げ、妙にろれつの回らない様子で思い返しながら、ヴァニはそう繰り返した。
「ええと、そのあれ・・・あの・・・何だっけ・・・」
思い出せそうで思い出せない、という様子を繰り返してから、彼女はため息をついた。
「あー、何言うか忘れた。もー、言いたいことはいくらでもあるけど、もういい」
彼女はそう言ってから、テーブルの皿を押し退けてから突っ伏した。
「疲れたから寝るわ」
「ちょっと、ヴァニ」
「ご主人」
ペテラは早くもいびきをかき始めた妹に声をかけようとするが、クリスが押しとどめた。
「今目を覚まさせては、面倒です」
「そ、そうね・・・」
先ほどまでのヴァニの言動を思い返し、ペテラは無意識のうちに浮かしていた尻を、イスにおろした。
「でも、急にどうしたのかしら?」
「ウオクオイ酒は少し強いですからね・・・最後の一気が効いたのでしょう」
クリスはイスをたつと、ヴァニのそばに歩み寄り、その呼吸を確かめた。
「とりあえず、部屋にお運びして寝かせましょう」
「わかったわ。じゃあ私が扉開けたりするから、クリスが運んで」
「かしこまりました」
眠るヴァニを抱え揚げ、クリスはゆっくりと歩きだした。
「・・・ところで、クリス」
「何でしょう?」
「もしかして・・・聞こえていた?」
「・・・・・・さあ、何のことやら」
ペテラの問いに、クリスは曖昧に答えた。
「そう・・・」
彼女は召使いの返答に少し胸をなで下ろしながらも、きっかけを逃したような思いに捕らわれた。
もし、クリスがすべてを聞いていたなら。
もし、ヴァニが先ほどクリスに問いを続けていたなら。
自分は、クリスに想いを告げられたかもしれない。
「ペテラ様」
「ひゃっ・・・!?」
もし、を考えていたペテラが、クリスの声に驚く。
「俺は何のことだかよくわかりませんが、俺は待ってますよ」
「・・・そう・・・」
もしかしたら、知っているのかも。
クリスの胸の内に、そんな推測が浮かぶ。
「じゃあ、私も待ってるから」
ペテラは、彼が一体何を意図しているのかわからなかったが、それでも自分の決意を口にした。
「・・・そうですか」
クリスは彼女の返答に、少しだけ、ほんの少しだけ唇の端を上げながら、そう応じた。
(7)祝おう
屋敷の厨房に、いい香りが立ちこめていた。
鍋の中で野菜と肉が踊り、煮汁の味と香りを取り込んでいく。
フライパンにやや多めに注がれた油の中で、衣をつけた肉が音を立てながらキツネ色に揚がっていく。
「・・・・・・」
クリスは、静かに料理が仕上がっていく様子を見ていた。
だが、彼の手は動いておらず、厨房に置かれたテーブルに座っており、調理台の前にすら立っていなかった。
なぜなら、ペテラから今日は座っているように、と言い渡されたからだ。
「姉さん、ドレッシングできたよ」
調理台の一角で、油と酢と塩胡椒を混ぜ合わせていたヴァニが、姉の方を振り返る。
「じゃあ、サラダにかけて満遍なくいきわたるように混ぜておいて」
「はーい」
ボウルに盛られていた、一口大に刻まれた数種の野菜に、ヴァニは器の中のドレッシングを回しいれ、底の方からひっくり返すようにしてかき混ぜた。
そうしている間にも、ペテラはスープをかき混ぜ、フライパンで肉を揚げ、小鍋でソースを作っている。
「さて・・・」
ヴァニはボウルから皿にサラダを移し、テーブルへと運んできた。
「はい、サラダお待たせ」
「ありがとうございます、ヴァニ様」
「いいよ。私は適当に野菜刻んで、ドレッシングと和えただけだから」
クリスの感謝の言葉に、ヴァニは小さく手を振った。
「それより、姉さんのほうがよっぽどがんばってるよ。揚げ物にスープに、同時に作って」
言葉とともに調理台の方を見ると、いつものドレスにエプロンをつけたペテラが、スープの味見をしていた。
フライパンの火は消えており、厚手の紙をしかれた皿の上で、揚げられた肉が静かに油を落としている。
「正直、姉さんって料理できないと思ってたよ」
「確かに普段作られていませんから、そう思われるのも仕方ありませんね」
姉を見直したヴァニに、クリスが頷く。
「もっとも、俺がこの屋敷で勤めだした頃は、料理のりの字もわかっていなかったほどでしたが」
「そうなの?」
「ええ、張り切って厨房に立ったはいいけど、鍋を焦がす、包丁で指を切る、卵を落として割るなど、基本的な失敗はほとんどされましたね」
当時のことを思い出しながら、クリスは続けた。
「でも、それでも俺のために料理を作りたい、とおっしゃられたので、俺が教えることにしました。一品ずつ順番に作ることから初めて、あいた時間に次の料理の準備をする。ご主人の上達は目を見張る早さでしたよ」
「そうなんだ」
普段の姉からは想像もできないが、こうして厨房に立つペテラの背中を見ていると、ヴァニはクリスの言葉に信憑性を感じた。
「おかげでこうして、ご主人の手料理を味わえるようになって・・・感無量、です」
「はーい、できたわよ」
クリスが言葉を切ったところで、タイミング良くペテラが振り返った。
スープの皿とカツレツの皿を手に、彼女は厨房入り口のテーブルに向かう。
「待たせてごめんなさいね」
「おかげでよりおいしくいただけそうです」
香りばかり嗅がされていたおかげで、クリスの空腹感は頂点に達しそうだった。
「はい、お好みでソースをかけてね」
カツレツに、小皿に盛られたソースを添えながら、ペテラは配膳を終えた。
サラダにスープに、叩いて柔らかくした肉のカツレツ。
品数としては少な目だが、ペテラとヴァニの手料理には変わりない。
「それじゃあ、クリス。今日まで働いてきてくれてありがとう」
エプロンを脱ぎ、イスに腰を下ろしたペテラが、にっこりと微笑みながらクリスに向けて口を開いた。
「これからも、よろしくお願いね」
「こちらこそ、ご不満や至らぬところがあるかもしれませんが、よろしくお願いします」
召使いとしての勤労への感謝と、今日まで雇ってくれていたことに対する礼。
ペテラとクリスは、主従の間柄を確かめながら、そう感謝を交わしていた。
「さ、冷める前に食べるわよ」
「はい、いただきます」
ナイフとフォークを手に、クリスはそう言った。
カツレツの端をフォークで押さえ、ナイフを入れる。
キツネ色の衣がサクと音を立てて砕け、肉が一口大に切り取られる。
クリスはフォークに刺したそれを口に運ぶと、ゆっくりと味わった。
「ん・・・下味の塩もスパイスもよく効いていて、火の通りも完璧です」
「そう?よかったわ」
クリスの感想に、ペテラはにこにこと微笑んだ。
「うん、本当。サクサクした食感が楽しいね」
ヴァニも姉のカツレツを楽しみながら、クリスの意見に同意した。
そして今度は、カツレツに手作りソースを一匙掛け、もう一切れ口に運んだ。
ソースが衣に染みいり、さっくりとした食感は弱まってしまったが、ほのかな酸味を帯びたソースが味に深みを出している。
カツレツとソースは、以前にクリスが作ってくれたこともあったが、それとはまた違う味わいだった。
「本当に、上達されましたね」
クリスがスープを味わってから、ペテラに向けてそう言った。
「あなたのおかげよ、クリス。あなたが付きっきりでいろいろ教えてくれたから、色々できるようになったのよ」
「でも、ご主人が自ら身につけようとしなければ、ここまで上達はできませんよ」
「そうかしら?私としては、先生がよかったからだと思うけど」
「先生がいいのなら、ご主人はとっくに完璧な貴族になっているでしょうね」
「うぐ」
朝寝坊はする、間食してしまう、体型に油断したところがあるなど、貴族らしからぬ欠点を抱えたペテラは言葉を詰まらせた。
「冗談です。ですが、この料理はご主人が自ら身につけたものだ、と言いたかったのです」
「そ、そうよね・・・ふふ・・・そうよね」
「ではこの調子で、今度は早起きを身につけましょうか」
「うぐぐ」
クリスの一言に、ペテラは言葉を途切れさせた。
表情はこわばっていたが、ヴァニには姉の表情の奥底に、新妻めいた幸せそうなものが宿っているのを、わずかに感じ取っていた。
「・・・・・・」
姉と召使い。二人のやりとりを聞き流しながら、ヴァニはサラダを口に運んでいた。
(8)無くなってわかるもの
ベッドに寝転がり、天井をにらみながら、ヴァニはじっとしていた。
窓の外は薄暗かったが、単に曇天なだけで、時刻的にはまだ昼だ。
ダンピールの鋭敏な聴覚に意識を傾けると、屋敷中の音が聞こえるようだった。
足音や、屋敷自体のたてる軋みに、風が壁をなでる音。そして、屋敷内に響く話し声が聞こえる。
『ご主人、この服は?』
『試してみたら、ちょっと入らなくて・・・』
『またですか?』
『お、お腹は問題ないのよ!?胸よ、胸がきつくて・・・』
『コルセットで腹の肉を胸に持ち上げているからですよ』
『うぐぐ・・・でも、入らないのは事実だし・・・』
『そうであっても、痩せなければならないということには変わりありませんよ』
『そんなこと言ったって・・・』
『ほらご主人、このドレスお似合いでしたよ』
『・・・わ、わかったわ・・・やるわ、痩せるわよ・・・』
『かしこまりました。では本日より食事に制限を掛け、明日から運動を追加しましょう』
『ぐえー』
屋敷のどこかで交わされている、ペテラとクリスのやりとり。
ヴァニは、イヤになるほどそれを聞いていた。
主従と言うには少々なれなれしく、夫婦と言うには少々よそよそしく、ぎりぎり恋人ではないやりとり。
どっちつかずのもどかしい言葉に、ヴァニは胸の奥がくすぶるのを感じた。
二人の態度が、非常に、もどかしい。
先日酔った勢いで、そのことについてヴァニはぶちまけてしまったが、二人の態度に変わりはなかった。
あれだけ言って、互いに好意を抱いているのは明らかだというのに、どうしてああしていられるのだろうか。
旅をしている間、ヴァニは『ジパング人は愛しているとか言う代わりに、月や星がきれいだと言う』と聞いた。
なんでも、直接言わずとも想いは通じあうらしい。
「実は私が気がついてないだけで・・・あのやりとりがそうなのかなあ・・・」
天井を見上げながら、ヴァニはつぶやいた。
クリスが起こしに来るまで惰眠をむさぼり、コルセットで腹を締めあげられながらペテラの体重増加を指摘し、つまみ食いを見咎め、運動中に倒れ込み部屋まで連れ帰られる。そんな日常を送る間に交わされる言葉のすべてが、暗号化された愛のささやきなのだ。
そう思えば幾分気は楽に・・・
「なるわけない」
ヴァニは声に出して、自分の考えを否定した。
仮にその通りであったとしても、主従の関係を装っていることは変わらないのだ。
ヴァニとしては、とっととペテラとクリスがくっつき、夫婦という間柄になってほしい。
そうなれば、三文恋愛小説のような面倒くさい敬語もつかず離れずの態度も気にならなくなる。
だが、どうすればいいのだろうか。
「・・・・・・・・・私がけしかけてみようか・・・」
ふと、彼女の脳裏に、一つの考えが浮かんだ。
しばしの後、ヴァニが屋敷を回っていると、衣装室にクリスの姿があった。
礼服やパーティドレスなど、あまり着ない衣装を保管するための部屋だ。
どうやら、先ほど聞こえてきた会話からすると、ペテラの衣装の整理をしているらしい。
「クリス?」
「これはヴァニ様」
吊されたドレスを並び変えていたクリスが、ヴァニの呼びかけに手を止めて向き直った。
「何かご用でも?」
「いえ、少し話があって、ね」
衣装室に足を踏み入れながら、彼女は答えた。
「失礼ですが、ご主人のドレスの整理中ですので、手を動かしながらとなりますがよろしいですか?」
「いいわよ」
必要なのは、言葉だけ。ヴァニはクリスの条件付けに、うなづいた。
「では、少し失礼します」
彼は並べられたドレスに向かうと、ドレスの一枚を取り、サイズを確かめ始めた。
「それで、ヴァニ様。お話とは?」
「私はあなたのことを好き」
「・・・」
「って言ったら・・・どうする?」
「・・・すこし、びっくりしました・・・」
一瞬手を止めたものの、クリスは続いたヴァニの言葉に、ほっと息をつきながら袖の長さを確かめた。
「ふふ、ごめんね」
「光栄だとは思いますが、少々突然で驚きましたよ・・・」
ドレスの襟首から手を差し入れ、袖の太さを確かめながら、彼はそう言った。
「でも、仮にそう言われたとき、あなただったらどうする?」
「それは・・・まず、困りますね」
記憶にあるペテラの腕の太さとドレスを比べると、彼はドレスを棚に戻した。
「確かに、ヴァニ様から愛の告白があるのは光栄だと思いますが、俺はペテラ様の召使いです。ご主人に伺いを立てなければ・・・」
「姉さんには内緒で、恋人になってほしいって言われたら?」
「・・・俺は、そんな大きな秘密をご主人に隠しきれる自信がありません」
次のドレスを手に取りながら、彼は応じる。
「なら、私から姉さんに言っておくから、つき合わない?」
「しかし、ヴァニ様はご主人の妹君で、俺はただの人間の召使い・・・」
「私だって一度はこの屋敷を飛び出した身よ。いざというときは、メイドとして働くぐらいの覚悟はあるわ」
「ヴァニ様、ご冗談でもそのようなことは」
「本気よ」
少しだけ低くなったヴァニの言葉には、真剣さが宿っていた。
「身分の違いが問題なら、私が貴族をやめてあなたと一緒に働くわ。姉さんが絶対に許さないのなら、またこの屋敷を飛び出すまでよ」
静かに、一歩一歩足を進めながら、ヴァニはクリスに近づいていく。
「私は、姉さんに秘密にしても、メイドになっても、全部捨て去ってもいいってぐらいあなたのことが好き。恋人・・・いや、夫になってほしいってぐらい、好き」
クリスのすぐそば、手の届く距離で、ヴァニは足を止めた。
「そういわれたら、どうするか・・・ですか?」
手にしていたドレスを、どこか上の空の手つきでなでながら、彼はヴァニの言葉を引き継ぐように言った。
「参りましたね・・・そんな、愛の告白を受けるとは、夢にも」
「今度は『どうする?』じゃないわ」
ヴァニは、クリスの言葉を遮った。
「本当にあなたの答えを聞きたいの」
「・・・・・・少し、待ってください・・・」
「待って?どれだけ待てばいいの?私は待てるけど、あなたの方が待てないんじゃないの?」
ヴァニは、そうクリスの考える時間を求める言葉に問いかけた。
「私たち魔物は歳を取るのが遅いけど、人間はあっと言う間に老け込むわよ。姉さんと今のまま、ヴァンパイアと人間の関係でいたら、どうなると思う?後十年もすれば、外見的には父親と娘ぐらいの差がでてくるわ。さらに三十年たてば、おじいちゃんと孫よ。そしてその先は・・・」
「ヴァニ様、俺もそのぐらい承知してます」
「なら、今のままずるずる続けていたら、姉さんが取り残されちゃうのも承知なのね?」
クリスの制止に、ヴァニは問いを叩きつけた。
「でも、私だったらすぐに・・・そう、この場でもあなたを私たちの仲間にして、ずっと若いままでいさせてあげる。姉さんは根性なしだから、あなたと最後の一線を踏み越えることはないわ。でも、私は違う。あなたに永遠をプレゼントして、ずっと姉さんと一緒に過ごせるようにしてあげる。その代わり・・・」
ヴァニは、一瞬間を空けてから、続けた。
「あなたの側にいさせてほしいの、クリス」
「ヴァニさ・・・っ!?」
クリスが彼女の名を呼びながら向き直ろうとした瞬間、彼の肩をヴァニはつかんだ。
そして、人間離れしたダンピールの力で、クリスの体は易々と壁に押しつけられた。
「根性なしの姉さんが告白してくるのを待っておじいちゃんになるのと、今この場で私と一緒になって、ずっと姉さんの側にいられるの・・・どっちがいい?」
後少し背伸びすれば、唇を重ねられる。
そんな距離まで顔を近づけて、ペテラは囁くように問いかけた。
「ヴァニ様・・・俺は、ご主人に・・・」
「そう、それは残念ね・・・」
ヴァニはクリスの返答の断片に、小さくため息をついた。
「無理矢理はあまりしたくなかったけど」
その一言にクリスの表情に緊張が走る。瞬間、ヴァニの顔がクリスに近付き、赤い唇が触れた。
「ん・・・」
クリスは唇に触れる感触に、小さく声を漏らしてから、顔を離した。
「・・・逃げたわね?」
「失礼しました」
ヴァニの不意のキスに対し、クリスはとっさに顔を背けて対抗していたのだ。
「女のキスから逃げるなんて、男じゃないわね」
「何とでもおっしゃってください。ですが、俺はご主人のものです。ご主人を悲しませるようなことは、したくありません。ですからヴァニ様、離してください」
「へえ、今のまま老け込んで、姉さんを一人にするのは」
「ヴァニ様、離してください」
クリスは、そう重い声音で繰り返した。
「・・・そう・・・そこまで言うのなら・・・」
「クリスー」
ヴァニがクリスの肩から手を離そうとした瞬間、ペテラの声が響いた。
「とりあえず、部屋の明らかに入らないドレスと入りそうなドレスを・・・ヴァニ・・・?」
衣装室をのぞき込んだペテラが、ヴァニとクリスの姿に言葉を切った。
「なに、してるの・・・?」
「やあ姉さん。実はついさっき、クリスから熱烈な告白を」
「ヴァニ、黙りなさい」
いつになく鋭い口調で、ペテラが命じた。
「クリス、なにがあったの?」
「それが・・・」
「正直に答えて」
「・・・・・・ヴァニ様から、愛の告白を受けていました」
クリスは端的に、状況を説明した。
「そう・・・」
ペテラの声が、急に冷えていった。
だが、彼女の瞳に宿る炎は、むしろ勢いを増していた。
「クリスには快く受け入れてもらったよ。姉さんさえよければ、私がメイドとして屋敷で勤めてあげるけど?」
「嘘はやめなさい、ヴァニ」
「へえ?何で?信じたくないのはわかるけど、クリスの気持ちを・・・」
「受け入れてもらったのなら、何であなたはそんなに泣きそうになってるの」
「・・・・・・」
ペテラの指摘に、ヴァニはようやく自分の視界が、涙に滲んでいることに気がついた。
知らぬうちに目頭が熱を帯びており、涙があふれそうになっている。
「・・・これは・・・」
ヴァニは自分の涙に動揺しながらも、どうにか答えを紡いだ。
「これは、哀れみの涙よ。クリスってば、人間のまま老けていくことを選んで・・・馬鹿みたいだって・・・」
ヴァニの言葉はいつしか言い訳に変わり、声も徐々に不明瞭になっていく。
涙を自覚した瞬間、急に呼吸が詰まり始めたからだ。
「姉さん、クリス・・・さようなら」
最後にそう言い捨てると、彼女はクリスから離れ、駆けだした。
衣装室の入り口にたっていたペテラを突き飛ばすように押し退け、ヴァニは廊下に飛び出す。
「ヴァ、ヴァニ!」
ペテラがそう彼女を呼ぶが、ヴァニは振り返らなかった。
廊下を駆け抜け、玄関を出て、彼女は走り続けた。
灰色の空の下、ヴァニは屋敷に背を向け、麓の町に向けて走っていた。
(9)さよならは言わない
空が灰色だった。
分厚い雲が空を覆い、上空の風がうねりを描く。
よくよく目を凝らせば、幾重にも筋やうねりの織り重ねられた雲の下に、町があった。
頂に屋敷が構えられた丘の側、そこそこの広さの町の通りの一本に、一人の女の姿があった。
金髪に、整った顔立ちの若い女だ。
彼女は特になにをするでもなく、路地の壁に背中を預け、ぼんやりとしていた。
「・・・・・・」
小さく腹が鳴り、彼女は声もなくため息をついた。
食事をしたいが、財布は丘の上の屋敷においたままだ。今から屋敷に戻ることもできないため、無一文である。
あのときは思わず飛び出してしまったが、もう少しものを考えるべきだった。
ヴァニは、昨日の自分に対し、呆れを覚えていた。
いつまでも中途半端な関係を続ける姉と召使いを進展させるため、ヴァニはクリスに言い寄った。
クリスが少し自分に傾いていると姉に知らせることで、ペテラのクリスに対する独占欲を強めようとしたのだ。
「あーあ、こんなはずじゃなかったのに・・・」
ヴァニがクリスに言い寄り、クリスが若干困っているところにペテラが出現。
妹と召使いがくっつきそうなところにペテラの嫉妬心が爆発し、『だめー!』などと言いながら本心を吐露。
晴れてペテラとクリスが両想いであることが判明し、二人は自分の気持ちに正直に。そしてヴァニは気持ちよく屋敷を後にする。
そのはずだった。
だが、実際は違った。
クリスは言葉こそ丁重であったが、ヴァニを完全に拒絶していた。
ペテラはヴァニの姿に一瞬驚きはしたものの、鋭く冷静にヴァニを問いただした。
そしてヴァニ自身も、偽りの告白であったはずなのに、クリスの拒絶が胸に深く深く突き刺さっていた。
何もかもが、ヴァニの予想と違っていた。
クリスは予想以上にペテラに一途だった。
ペテラは予想以上にクリスを信頼していた。
そしてヴァニは予想以上に、クリスに対して強い感情を抱いていた。
姉と召使いをくっつけるため、と自分自身にも偽りながら告白し、失敗前提だと予防線を張っていたにも関わらずぼろぼろ泣いて、着の身着のままで屋敷を飛び出した。
三文恋愛小説でもそうそうない、頭の悪い行動だ。
「さて、どうしようかなあ・・・」
今のままの関係では、ろくな未来にならないと言い捨てて飛び出したため、もう屋敷に戻ることはできない。
だが無一文のため宿はもちろん、食事をすることもできなかった。おかげで飲まず食わずで一睡もせず、夜を過ごすこととなった。
そろそろ何らかの手段で金を手に入れて体を休めさせなければ。
多少腕には自信があるため、この町を離れる商人の護衛でもしようか。
前金をもらえば食事ができるし、この町からも離れられる。
ペテラとクリスに別れを言うことはできないが、今更顔を合わせることもできない。
「とりあえず、仕事を探そう」
彼女は路地の壁から背中を離すと、通りに出た。
灰色の空の下、行き交う人々はどこか急ぎ足で、それぞれの目的地を目指していた。
ヴァニは人の間を縫うように通り抜け、大きな宿屋に入った。
そして一階の食堂の壁に歩み寄り、張り出された求人票をざっと眺める。
『急募:調理師 経験者優遇』
『荷物の積み卸し作業員求む』
『短期契約 事務職』
『歌手、ダンサー募集中 審査あり』
求人は様々だったが、いずれも給与は後払いで、ヴァニの求める条件に合うものはなかった。
「飲食店の店員なら、まかないが出るかなあ・・・」
とりあえず食事にはありつけるかもしれないが、住む場所をどうしようか。
食事にありつけても無一文のため、木賃宿に泊まることすらできない。
条件をゆるめながら、仕事を探していると、宿屋の従業員の男が紙を手にやってきた。
「ちょっとごめんよ、新しいのが入ったからね」
男はヴァニの横から手を伸ばし、壁に新たな求人票を貼り付ける。
ヴァニはその内容をざっと読み、目を見開いた。
『護衛求む 腕に覚えのある者歓迎 前金二割』
ヴァニが捜し求めていた条件がそのまま、そこに書いてあった。
「ちょ、ちょっと!」
ヴァニは立ち去ろうとする男の肩をつかみ、求人票を指した。
「この仕事したいんだけど、大丈夫!?」
「ん、やるのか」
彼は今し方貼ったばかりの求人票とヴァニを見比べ、少し肩をすくめた。
「悪いが、お嬢ちゃんにはちょっと」
「大丈夫だって、こう見えてあっちこっち旅してきたから」
今は無一文で荷物もないが、腕には覚えがある。それに前金で装備を調えれば問題はない。
「まあ、自信があるのはいいが・・・審査あるらしいぞ?」
「いいからお願い」
いい加減空腹でたまらないのだ。早いところ仕事を手に入れ、前金で食事をしたい。
「じゃあ、こいつを持ってこの場所にな」
男は求人票をはがすと、受付場所を軽く指した。
「これ持っていけば大丈夫だが、念のためウチからの紹介だって言っておいてくれ」
「ありがとう」
ヴァニは求人票を受け取ると、彼に礼を告げ、宿屋から飛び出していった。
求人票に記されていたのは、町の中心近くの貸し広間だった。
大きなパーティや講演など、様々な用途に用いられる場所だ。
ヴァニは急ぎ足で通りを抜け、あたりに注意を払いながらも町の中心を目指した。
まずないだろうが、ヴァニを探すペテラやクリスに見つかると、面倒だからだ。
このまま二人に会うこともなく、町を離れたい。
すると、彼女の注意もあってか、ヴァニは二人はもちろん、彼女を捜す者にも出会うことなく、貸し広間に着いた。
開かれた玄関をくぐり、静かに求人票に記された一室に向かう。
扉には部屋番号以外に何の掲示もなかったが、彼女は手元の求人票と部屋番号を見比べ、ドアノブに手をかけた。
軽くノブを回し、扉を開く。
すると、薄い照明と並べられたいすが彼女を迎えた。
「すいません、失礼します」
そう声を出しながら部屋にはいるが、何の反応もなかった。
見れば部屋は無人だった。早く着きすぎたのだろうか。
「・・・ちょっと待つか・・・」
いすが並べられているところを見ると、少なくとも何か行われる予定ではあるらしい。
ヴァニは後ろ手に扉を閉め、イスの一つに腰を下ろした。
屋敷のソファに比べれば堅いが、それでも柔らかなクッションが彼女の尻を受け止めた。
「ふぅ・・・」
ようやく人心地がつき、彼女は静かにため息をついた。
あとは、以来主か代理人が来るのを待ち、その眼鏡にかなうことを証明すれば前金がもらえる。
そう考えていると、今し方閉じた扉が、かちゃりと音を立てた。
「待たせたわね」
「すみません、勝手に・・・」
響いた女の声に、ヴァニは扉の方に顔を向け、表情をこわばらせた。
戸口にたっていたのが、ペテラだったからだ。
「ね、姉さん・・・」
「多少待つかと思ったけど・・・こう早いとは思わなかったわ」
ペテラは扉を閉め、イスの一つを手に取ると、ヴァニの向かいに腰を下ろした。
「な、何で姉さんが・・・」
「私が・・・いえ、クリスが求人を出したからよ」
「でも、依頼主は・・・そうか、偽名・・・」
求人票には、姉やクリスとは全く関係のない名前が書いてあったが、額面通りに信じたヴァニの方が間抜けだった。
「あなたが飛び出していった後、クリスが追いかけていったのよ。それから少し探したらしいけど、見つからなくて」
「それもそうだね」
町に着いた後、ヴァニは路地に身を隠していた。クリス一人で見つけられるはずもない。
「人手を使うことも考えたけど、あなたを確実に見つけられる自信はなかったわ。それでクリスが、あなたが着の身着のままで出ていったから、前金付きの仕事を探すはずだって」
「それで、ニセの仕事を作って、あっちこっちの酒場に出したわけだね」
クリスの策に面白いようにはまったことに、ヴァニは苦笑した。
「それで、何?私を捕まえて、何をしたいの?私が無理矢理クリスにキスしたことを聞いて、頭に来たの?」
「違うわ」
ペテラは軽く頭を左右に振ると、続けた。
「謝りたいの。ごめんなさい」
「・・・・・・何で?」
突然のペテラの謝罪に、ヴァニはしばし放心してからそう紡いだ。
「あの後・・・いえ、一度クリスが戻ってきてからいろいろ話し合ったの。それで、前々からあなたをいらだたせていたのが、やっとわかったの」
「・・・・・・それで?」
「・・・私たち、結婚することにしたわ」
ペテラは、一瞬間を挟んでから答えた。
「あなたの言うとおり、私たちは中途半端で・・・いずれ、別れる運命だったわ。人とヴァンパイアでは、過ごせる時間が違うもの」
昨日のヴァニの言葉を思い返しながらだろうか、彼女は続ける。
「私もクリスも、今までの関係が心地よかったの。いえ、心地いいと思いこんでいたの。自分の想いを露わにして、今までが崩れてしまうよりも、今のままでいた方がいいと思いこんでいたの」
「・・・・・・」
ヴァニは、無言のまま姉の言葉を聞いていた。
「でも、それじゃだめなんだって、やっと昨日あなたの言葉でわかったのよ。だから・・・私たちは気持ちを確かめあったの」
「それで、結婚というわけ・・・」
「・・・」
ペテラは口を閉じたまま、しかし表情を少しだけ和らげて頷いた。
「そう・・・おめでとう」
ヴァニの口から、ごくごく自然に祝いの言葉が紡がれた。
昨日、クリスに拒絶されたときのような胸の痛みも、言葉の詰まりもなかった。
ペテラとクリスが、やっと一歩を踏み出す。
そのことに対する安堵感と祝福の方が大きかった。
「姉さん・・・」
「なに?」
「ほんとはね・・・私もクリスのこと、少し好きだったんだよ」
「・・・知ってるわ」
昨日あれだけ泣いたのだ。姉が察しないはずがない。ヴァニは苦笑した。
「でも、あなたには謝らないわよ?」
「うん。姉さんが先だったし、クリスが選んだのも姉さんだし、何も言わない」
子供の頃から、ペテラとヴァニはよく比べられていた。
多くのことについて、ヴァニの方がペテラより勝っていた。
ペテラが完敗したのは、チェスに続いて二度目だった。
「でも、屋敷は出て行かせてもらうよ」
「え?どうして・・・」
「姉さん、横恋慕とはいえ、恋敗れた私とその想い人を同じ屋根の下にすませていいと思ってるの?」
「あ・・・」
ヴァニの指摘に、ペテラはようやく二人の関係が少し変わったことを悟ったらしい。
だがそういうところが、クリスの好みなのだろう。
「それに、新婚さんの夫婦水入らずに首突っ込むほど、私も図太くないしね・・・」
「新婚さんって・・・結婚はまだよ」
「うん?でも、さっき・・・」
「ああ、あれね」
怪訝に首を傾げるヴァニに、ペテラは苦笑いしながら答えた。
「結婚は決めたけど、それは私がクリスにふさわしい女になってから、よ」
「ええと、つまり・・・」
「もうしばらく、今の関係が続くわね」
ペテラの言葉に、ヴァニは全身を疲労感が襲うのを感じた。
「ちょっと、ヴァニ・・・どうしたの?」
「いや、ちょっとね・・・」
せっかく、二人のもどかしいやりとりに区切りがつくと思ったのに。
ヴァニは心配する姉に向けて軽く手を振りながら、胸中で呟いた。
(X)おめでた(い)
朝、ヴァニは厨房の入り口近くのテーブルについていた。
ポタージュスープをパンに浸しながら食べていると、厨房の入り口に、ペテラがのっそりと姿を現した。
「おはようー」
「おはようございます、ご主人」
姉の分の朝食を準備していたクリスが、手を止めてそう口を開く。
「おはよう、姉さん」
「んー、おはよー・・・」
ペテラは生返事をすると、眠たげに目をこすりながら、ゆっくりと自分の席に腰を下ろした。
「ご主人。お目覚めになられたら、もう少し身だしなみを整えてから降りてきてください」
「んー?いいわよー、しゃんと目が覚めたらやるからー」
本格的に眠気が残っているのだろう。若干寝癖の残る髪を、彼女は適当に手櫛で整える素振りを見せた。
「それより、一人で起きてきたことをほめてよー」
ペテラは、そうクリスに賞賛をねだった。
事実、ここ最近ペテラは一人で起きるようになった。
以前の、毎朝クリスに起こしてもらい、身だしなみを彼の手を借りながら整えていた頃とは大違いだ。
しかしクリスの手を煩わせなくなった一方で、彼女は朝、身だしなみを気にしなくなった。
朝食を終えたころには目が覚め、一人で整えられるというのは彼女の弁であったが。
「確かに、早起きに関してはよくやられてます」
「えへへー」
クリスの賞賛に、ペテラが目を細める。
「ですが、それは身だしなみをおろそかにしていいという意味ではありません。お客様が宿泊されたとき、そんな格好でお客様に会えますか?」
「んー?そんなの大丈夫よー」
「大丈夫じゃないです。お客様にだらしないところを見られては、ご主人の威厳も台無しで、結婚後も『あそこの嫁はだらしない』と噂されますよ」
「・・・わかったわ。改めるわ」
ペテラはイスに腰掛け直すと、軽く両手で頬を打った。
「考えてみればそうよね。私が謗られるのは当たり前だけど、私を通じてあなたまでけなされるかもしれないわ」
「俺は別に構いませんが」
「私が構うのよ。私はともかく、あなたが私のことで中傷されるのはいやなの」
「そうですか。ならば、行動で示していただきたいですね」
「そうするわ」
ペテラは頷くと、スープの器に口を付けた。
ヴァニは無言のまま、ただ二人の会話を聞いていただけだった。
そして翌朝から、ペテラは一人で身だしなみを整えてから、一階に降りてくるようになった。
何でも起きる時間を少し早め、身だしなみを整えながら眠気を追い出す時間を作ったらしい。
ヴァニは、姉の態度の改め具合に、内心舌を巻いていた。
以前ならば、改めると口で言いながら何もしなかったり、多少変化してもずるずると元に戻ったりしていたのに。
『私が立派な貴族になったら、クリスが私の側からいなくなりそうだ』というのは姉の言葉だった。
だが、二人が婚約を交わした今、ペテラにはクリスがいなくなる心配はなかった。
彼女の行く先にそびえるのは、結婚というゴールで、ペテラはそこに向かって着実に足を進めていた。
以前よりも、甘い空気をあたりに振りまきながら。
「クリス!やった!コルセットつけずにドレスが着れた!」
居間で、ヴァニが本を読む傍ら、クリスが暖炉の掃除をしているところに、ペテラはそう大声を上げながら駆け寄った。
ヴァニが本のページから目を離し、ペテラの方を見てみると、確かに彼女のドレスの腹周りのラインが変化していた。
コルセットの作り出す直線的なラインではなく、布地の内に肉を詰め込んだ、曲線的なラインにだ。
「それはおめでとうございます」
暖炉を掃除する手を止め、クリスはペテラに向けて振り返った。
「ほら、クリス触って触って!」
コルセットの固い感触ではなく、自身の柔らかい腹肉を確かめさせようと、ペテラがクリスの側に歩み寄った。
「いまは手が汚れていますから・・・」
「じゃあ肘でつつくだけでもいいから」
「触らずともわかります。それに、むやみに異性に腹を触らせようとするのは・・・」
「クリスだから触らせるのよ。旦那様なら、もっといろんなところに触れるでしょ?」
「そう言われましても・・・」
クリスはやれやれとばかりにため息をついた。
だが、ため息をつきたいのはヴァニの方だった。
二人が婚約してからと言うものの、二人のやりとりは悪化するばかりだった。
ヴァニの目を気にすることなくペテラが甘え、クリスもまんざらではない様子でそれに応じる。
二人としては楽しいのかもしれないが、ヴァニからすれば正直うるさいことこの上ないのだった。
二人の中途半端に甘いやりとりを聞く内、ヴァニは眉間にしわが寄り、口がへの字に湾曲していくのを感じていた。
正直なところとっととこの屋敷を離れたいのは山々だが、先立つものが足りないのだ。
旅をするには金がかかるが、ヴァニが個人的に持っている金では少し心細い。
時折町まで降りて簡単な仕事をして貯金しているが、目標金額までもう一月はかかりそうだった。
それまで、ヴァニの正気が保てばいいのだが。
「ほらクリス、柔らかいわよ」
「柔らかいのはわかりましたから、今度は引き締めるように努力しましょうね」
「ええ?でも男の人って、ガリガリのやせ細った女より、少し肉感的な方がいいって・・・」
「それは少し、の話です」
「そんな・・・」
「・・・・・・」
聞くに耐えないやりとりを聞き流しながら、ヴァニが本のページをめくろうとした瞬間だった。
「わた・・・しっ・・・っ・・・!?」
不意に、ペテラが言葉を詰まらせ、しゃっくりでもするときのように全身をひくつかせはじめた。
「っ・・・!・・・っ・・・!?」
「ご主人?どうされました?」
クリスの声に宿った心配そうな様子に、ヴァニが目を本からはずすと、口元を手で押さえるペテラの姿が目に入った。
目は苦しげにゆがみ、一つ肩が上下する度に彼女の背中が丸くなっていく。そして少しずつ、彼女のけいれんの感覚が狭まっていた。
「っ・・・!・・・っ!っ!」
「ご主人・・・これを・・・!」
彼女のひざが曲がり、前屈のような姿勢になっていく間に、クリスは暖炉の傍らに置いていたバケツを手にとった。
暖炉の埃や灰を入れておくためのそれをペテラに差し出すと、彼女は両手でそれをつかんだ。
「・・・げえ・・・」
両手でバケツを抱え込み、顔を押しつけるようにしながら、彼女の口から苦しげな声が漏れた。
「げえ・・・うええ・・・うえ・・・」
「ご主人、大丈夫です・・・ほら、我慢なさらず・・・」
バケツを支え、ペテラの背中をなでながら、クリスはそう彼女を落ち着かせるように声をかけた。
「ね、姉さん?」
不意に嘔吐を始めた姉に、ヴァニは心配そうにソファから腰を浮かした。
「ヴァニ様、ご気分はいかがですか?吐き気や腹痛は?」
「いや、全く・・・」
「昨日から今朝までの間に、ご主人だけが何か召し上がっているのをごらんには?」
「ええと・・・少なくとも私は見てない・・・」
突然の問答に、ヴァニはと戸惑いながら答え、遅れてそれがペテラの嘔吐の原因を探っていることに気がついた。
「げえ・・・うええ・・・うえ・・・はあ、はあ、はあ・・・」
ペテラがバケツから顔を上げ、目に涙を浮かべながら呼吸を整え始めた。
「ご主人、お口を」
粘つく液体の張り付く赤い唇に、クリスが自分のハンカチを軽く当てた。
「大丈夫ですか?」
「ちょっと・・・すわ、らせて・・・」
呼吸を乱れさせたまま、ペテラはそうクリスに求めた。
「では、こちらへ・・・」
クリスは彼女の肩を抱くようにしながら、居間のソファにまでペテラを導き、座らせた。
柔らかなクッションが彼女の尻を受け止めた。
「はぁ・・・はぁ・・・」
ペテラは背もたれに体重を預け、ほぼ仰向けの姿勢になった。
「ヴァニ様。俺はこれからいくらか準備をしてきますので、ご主人をしばらく見てください」
「わ、わかった」
クリスの求めに、彼女は頷いた。
「替えのバケツをとってきますので、いざというときはこれで」
彼は今し方までペテラの使っていたそれを示すと、足早に居間を飛び出していった。
「はぁ・・・はぁ・・・」
「ええと・・・姉さん、大丈夫?」
とりあえず、何をすればいいのかわからないため、ペテラはそう声をかけた。
「あ、無理に返事はしなくていいから」
「はぁ・・・はぁ・・・」
ペテラは小さく頷いた。
どうやら、意識がもうろうとするほどではないようだ。
「ちょっと、熱を計るね」
ヴァニはペテラの額に手を触れさせた。少し熱く感じる。微熱といったところだろうか。
「ふん・・・姉さん、寒くない?」
風邪か何かの引きはじめで、胃が弱っているのかもしれない。だとすれば微熱に伴う寒気もあるはずだと踏んで、ヴァニはそう問いかけた。
「寒くは・・・ないわ・・・でも、ちょっと飲み物が・・・」
「喉が渇いたの?」
「ん・・・」
ペテラは小さく頷いた。
「もうすぐクリスが、いろいろ持ってきてくれるからね。水もあるはずだから・・・」
「水、じゃないの・・・」
ペテラは首を小さく左右に振った。
「レモン・・・食べたい・・・」
「レモン?」
その一言に、ヴァニは口の中に酸味がわき起こるのを感じた。
「え・・・?なんで・・・」
「レモンじゃなくても、ライムとかグレープフルーツとか・・・」
柑橘系の、酸っぱい果物の名前ばかりが並んでいく。
つまり、酸っぱいものが食べたいということだ。
嘔吐、微熱、酸っぱいものをほしがる。
「ええと」
姉の症状に、ヴァニは一つの可能性を脳裏に思い浮かべた。
「お待たせしました!」
居間の扉が音を立てて開き、両手に荷物を抱えながらクリスが入ってきた。
新しいバケツに、タオルが数枚に、毛布に水差しに洗面器にコップ。
とりあえず必要そうなものがそろっていた。
「ご主人、まずはうがいをしましょう。さあ、お口を」
「ああ、クリス・・・」
ペテラの口に水を含ませ、洗面器を差し出すクリスに、ペテラが問いかけた。
「何ですか、ヴァニ様?」
「吐き気と微熱と酸っぱいものをほしがると聞いて、何を思い浮かべる?」
「それは・・・やっぱり妊娠の初期症状では。さ、ご主人、吐いて」
うがいを終えた水を洗面器で受け止めながら、クリスが答える。
「しかし、なぜ突然・・・」
「いやね、姉さんが・・・」
「・・・・・・・・・ご主人が?」
ペテラの口元をタオルで拭いながら、クリスが言った。
「ご主人が?微熱?」
「うん」
「酸っぱいものを?」
「うん」
「・・・・・・・・・・・・・・・ご主人、吐き気は?」
クリスの問いかけに、ヴァニは頷いた。
「そう、ですか・・・いや、ええと・・・・・・」
「身に覚えが?」
「いや・・・その・・・ああ、あのときか」
クリスはしばし逡巡してから、頷いた。
「ご主人・・・いや、ペテラ」
クリスは洗面器とタオルを置いて、ペテラのそばにひざまづくと、彼女の手をとった。
「順番がちょっと入れ替わったけど、結婚しよう」
「・・・・・・」
彼の求めに、ペテラは言葉もなく顔を上下させた。彼女の目元には、嘔吐の時とは違う涙が滲んでいた。
「ああ、ええと・・・ちょっと、町までお医者さん呼んでくるね」
ヴァニは、見つめ会う二人を残して、そう居間から出ていった。
あの場にいられるほど、ヴァニも図太くはないのだ。
「ははははは、それで実はただの食中りだったのか、わははははは」
町から医者を連れてきて、ペテラを診察させた後、判明した結果にヴァニは笑った。
爆笑とは少し違う、乾いた笑い声だった。
「全く・・・ダイエットなさっていたのは結構ですけど、我慢できず夜中に厨房からチーズをくすねるだなんて・・・」
「ごめんなさい・・・反省してます・・・」
クリスの言葉に、ペテラはソファに腰掛けたままうなだれた。
「処分する予定だったものを放置していた俺も悪いですが、臭いとかでわかりませんか」
「いやあ、そういうチーズだと思って・・・」
「ははははは、あるよね、そういうチーズ、わははははは」
「やはり、食事制限だけのダイエットは無理があるのですよ」
クリスはため息をつきながら続けた。
「やはり、運動メニューも込みのダイエットスケジュールを組みませんと」
「うう、運動は勘弁して・・・それにほら、コルセット外せるぐらいにはやせたし・・・!」
「それは一時的に体重が落ちているだけです。運動もしないと、ぶり返しますよ」
「ううう・・・」
ペテラは低い声でうめいた。
「あははは、でもよかったじゃない姉さん。これでお腹の子を器にすることなく、運動もダイエットもできるじゃない、あはははは」
「そうです。ヴァニ様のおっしゃるとおりです」
クリスはヴァニに頷くと、ペテラに向けて続けた。
「今度は健康な体で子を育めるよう、二人でがんばりましょう」
「・・・うん・・・」
「あはははは・・・あーお腹痛くなってきた・・・ちょっと失礼・・・あはははは」
ヴァニは立ち上がると、笑いながら二人を残して居間を出ていった。
後ろ手に扉を閉め、笑いながら廊下を進む。
そして、程々に居間から離れたところで、彼女は笑うのを止めた。
「はぁ・・・びっくりした・・・」
本当に姉が子を宿したのではないか、という驚きを、ヴァニは改めて味わった。
「でも・・・あの二人、そこまで驚いてなかったよね・・・」
特にクリスなど、途中で身に覚えがあると言い出していた。
つまりは、そういうことなのだろう。
「・・・・・・・・・もうやだ・・・」
自身の知らぬところで、身近な二人がそういう行為にまで及んでいたことを悟り、ヴァニはそう呻いた。
おめでたい二人を残して、遠くへ行きたかった。
そして自分もすてきな旦那を見つけてやるのだ。姉と召使いのように。
彼女はそう、心の奥底で決心していた。
ヴァニが丘の上の屋敷に戻ってから、数ヶ月が経った。
姉のペテラに、召使いのクリスと一つ屋根の下過ごしている。
あちこちを旅していたヴァニの体は、屋敷での日々に染まっていた。
朝早くに目を覚まし、鍛錬をかねて屋敷の外に出、汗を流してクリスの用意した朝食にありつく。
いつものように軽く汗の浮かんだ肌を拭い、着替えて厨房に入る。
「おはようございます、ヴァニ様」
壁際の調理台に向かっていた男、クリスが、ヴァニが声をかける前に振り返った。
「おはよう、クリス。今日のメニューは?」
「パンとサラダにスクランブルエッグ、ポタージュスープ。スープはお代わりがあります」
クリスは調理台の上の皿を手に取ると、厨房入り口近くのテーブルに運び、一つずつ並べていった。
「うん、言い香りだね」
湯気を立てるスープや炒り卵、軽く熱を通されて表面をぱりっとさせた丸パンに、ヴァニは表情をほころばせた。
「では、ご主人を起こして参ります。ごゆっくりどうぞ」
「ああ、うん」
クリスの一礼を適当に見送り、ヴァニは朝食に注意を向けた。
姉のペテラはヴァンパイアのため朝が弱く、こうして毎朝クリスが起こしに行っているのだ。
そして毎朝ぎゃあぎゃあわめきながら、クリスの手を借りてコルセットを腹に巻き付け、ようやく下に降りてくる。
もはやペテラの朝の一悶着は習慣を通り越し、東から日が昇るほど当たり前のことになっていた。
「いただきます」
ダンピールの鋭敏な聴覚から意識的に注意を逸らして、彼女はフォークを手に取る。
やがて、並ぶメニューを数口ずつ口にしたところで、厨房に足音が一つ入ってきた。
「ん・・・?あれ、姉さんは?」
いつもならば彼と一緒に降りてくるはずの姉の姿がないことに、ヴァニは思わず問いかけていた。
「それが、どうも体の調子がよろしくないようで・・・」
「珍しいな」
魔物、それもヴァンパイアが体調不良など、初めて聞いた気がする。
まあ、ペテラの場合美容体操をやって、翌日筋肉痛におそわれたこともあるので、ヴァニはそう驚かなかった。
「朝食はどうするの?」
「今から粥を用意して、三十分後に様子を見るついでに運ぶつもりです」
「医者は・・・」
「先ほど見た様子では、多少の熱とだるさぐらいでした。粥を運ぶ際にもう一度確認して、医者を呼ぶかどうか決めようと思います」
「うん、それがいい」
どうせただの風邪だろう。
ヴァニはクリス伝いに聞いたペテラの症状に、そう判断を下した。
「・・・そういえば、クリス」
「はい?」
用意してあったペテラの分の朝食を、テーブルから調理台の方へ運ぶクリスに、ヴァニはふと声をかけた。
「こうやって二人きりになるのって、珍しいね」
「言われてみれば、そうですね」
クリスが屋敷の用事を片づけているため、こうしてペテラのいない状況でヴァニと二人きりになるのは、初めてのような気がする。
「せっかくの機会だから、少し話をしないかい?」
「すみませんが、いろいろと用事があるので・・・」
「粥を作って、姉さんのところに運ぶぐらいだろ?粥を作っている間に、私とすこしおしゃべりするぐらい、いいじゃないか」
「・・・かしこまりました。ただし、粥の準備ができたら、それまでです」
「いいよ」
クリスは鍋に水を注ぎ、魔力で熱を生じさせる調理器具の上に置いた。
「さて・・・それじゃあ早速だけど、姉さんのことどう思ってる?」
「ずいぶんと単刀直入ですね」
特に声に動揺の色もにじませず、彼はそうヴァニに返した。
「ほら、見てるといつも姉さんの貴族らしからぬ部分を直してあげようとしてるみたいだけど、正直なところ手間ばっかりかかってるんじゃない?」
「確かに、いいえと言えば嘘になりますね」
彼は棚に向かうと、下段から袋を一つ取り出した。袋の表面には「押し麦」と書いてあった。
「ですが、それでもご主人は少しずつよくなっていると思いますよ」
「へえ、未だに朝に一人で起きられないのに?」
「ははは、これは手厳しい」
袋の口を開き、計量カップで掬いとりながら、彼は声だけで笑った。
「正直なところ、姉さんを矯正して立派な貴族にしようとしてるの、イヤになってるんじゃないの?」
「なぜそう思うのですか?」
「クリスは言葉遣いこそ丁寧だけど、実際のところ姉さんに対してあまり敬意を払ってないでしょ?普段の行動を見ればわかるよ」
そう、事あるごとにコルセットのことを持ち出したり、腹をつついたりと、どこか姉を茶化しているような態度が見受けられた。
ペテラによれば、どれもクリスが姉を思うが故の行動だと言うが、ヴァニにはそう思えなかった。
「確かに、無礼な態度が見受けられる振る舞いは、多々してきましたね」
「否定しないんだ」
多少の言い訳ぐらいはするだろうという予想を裏切られ、ヴァニはすこしだけ驚いた。
「ですが、ご主人は生活態度は貴族らしからぬものの、自尊心は貴族並ですので、自尊心をくすぐるような言動をすれば発奮するかと思いまして」
「うーん、そううまく行くかなあ・・・」
「実際、そううまくは行っていませんね」
鍋に押し麦をそそぎ入れながら、彼が応じた。
「じゃあさ、何でそんなに姉さんにこだわるの?」
粥の行程が進んだため、ヴァニは話題を変えることにした。
「クリスぐらい有能なら、この屋敷でなくても働き口はたくさんあるでしょ?」
「まあ、いろいろと仕事を経験してきたので、よそでも働けるとは思いますが、今のところ転職するつもりはありませんね」
「何で?もしかして、姉さんのことが好きだから?」
冗談めかしたヴァニの問いに、クリスは沈黙を返した。
「あれ?図星?」
「そこについては、ノーコメントと言うことで」
鍋の中身をお玉でかき回しながら、彼は言った。
「うーん、でも身内の私が言うのも難だけど、姉さんと四六時中一緒にいて辛くない?」
「辛い、というと?」
「手を伸ばせば届くところに美人がいるのに、手を出すことも許されない状況のこと」
以前、ヴァニがペテラから聞いたところによると、クリスはペテラの吸血には応じるものの、それ以上のことをしようとはしないらしい。
美人のヴァンパイアを前に、成人男性ならばあってしかるべき情欲を押さえ込むのは、さぞ辛いだろう。
「時折、衝動に駆られることはあります」
ヴァニの問いに、クリスは静かに答えた。
「ですが、後のことを考えると、自分から動こうという気にはなりませんね」
「へえ?」
大した精神力だ。ヴァニはクリスの言葉に、内心舌を巻いた。
「ただ、もしご主人が俺にそういうことを命じれば、喜んで引き受けます。ですが命じられていない今、俺から動くことはありません。俺は、ペテラ様の召使いですから」
「・・・ああ、そう。そうなんだ」
以前どこかで聞いたような彼の言葉に、ヴァニは彼の背中を見ながら応えた。
すると、彼は塩を手に取り、鍋に向けて数度振った。
小皿に粥を一滴だけ移し、口に含む。
一瞬の間をおいてうなづくと、彼は鍋を調理器具からおろした。
「さて、粥の用意もできたので、少し失礼します」
取り皿とスプーンを盆に乗せ、鍋と共に抱えながら、彼はヴァニに向けて言った。
「あまり楽しい会話にならず、すみませんでした」
「いや、そこそこおもしろかったよ。ありがとう」
「それならば幸いです。では」
彼はヴァニに向けて一礼すると、再び厨房を出ていった。
ヴァニは、クリスの足音が遠のいていくのを聞きながら、ため息を一つついた。
「『命じないけど、迫られたら受け入れる』・・・『迫らないけど、命じられたらそうする』・・・」
少し前の姉との会話と、今し方のクリスとの会話。その断片を口から紡いで、彼女は低い声で続けた。
「相思相愛じゃないの・・・」
誰にともなくはなった言葉は、厨房の中に拡散していった。
(2)昨日の晩ご飯
日がだいぶ傾いたものの、まだ赤くはない頃、ヴァニは屋敷がそびえる丘を登っていた。
昼間に、町に用事があって出かけていた帰りだ。
肩に袋を担ぎ、一歩一歩足を進めていく。
やがてヴァニは屋敷の敷地に入り、裏の勝手口から中に入った。
「ただいまー」
「お帰りなさいませ、ヴァニ様」
何か整理でもしていたのだろうか、倉庫からクリスが出てきて、ヴァニに一礼する。
「あ、クリス。ちょうどいいところに」
「何でしょう?」
「これ、町でもらってきたんだ」
肩に担いでいた布袋を、クリスに向けて差し出す。
「これは・・・」
「コッケ、って言う鳥らしい」
「コッケですか、懐かしい」
袋を受け取ったクリスは、そう言いながら袋を開いた。
「おや、もう捌いてありますね」
「うん。下拵えをすませてもらったからね」
首を落とし、血と内蔵を抜き、毛を毟ってある。
後は香草でも詰めてオーブンに入れるだけで、立派な丸焼きになりそうだった。
「そうですか・・・コッケは、キモもうまいのですが・・・まあ、生きたまま連れてくると暴れますからね」
クリスは語調に滲んでいた残念そうな様子を消すと、数度頷いた。
「かしこまりました。今夜はコッケ料理にしましょう」
「楽しみにしてるよ」
クリスの言葉に一瞬不安を覚えたものの、ヴァニは胸をなで下ろした。
「じゃあ、後はよろしく頼むよ」
「かしこまりました」
袋を手に一礼すると、クリスは厨房に向かって歩いていった。
「さて」
ヴァニは一つ呟きながら、足を進めた。
向かう先は、居間だ。この時間なら、姉のペテラはソファに腰掛けながら、本でも読んでいるだろう。
廊下を進み、扉を開くと、彼女の予想通り金髪の女が一人、ソファに腰を下ろしていた。
「ただいま姉さん」
「お帰りなさい」
チェスの本から一瞬目を離しながら、ペテラはそう挨拶を返した。
「今日は町で、鶏を丸ごともらってきたよ」
「クリスに渡したの?」
「うん。今日の夕食にするって」
「楽しみね」
そう言葉を交わしながら、ペテラの隣のソファに、ヴァニは腰を下ろした。
夕食まで時間はある。しばらく、ゆっくりさせてもらうとしよう。
「・・・ところで姉さん」
「なに?」
チェスの本から目を離し、ペテラはヴァニを見た。
「コッケ、って知ってる?」
「コッケ?コッケコッコー?」
「あ、知らないんだ」
首を傾げながら鶏の物まねを始めたペテラに、ヴァニはそう判断した。
「いや、今日もらってきた鶏が、コッケっていう珍しい種類らしくて」
「へえ、楽しみね。コッケコッコケッココッコ」
「コッケコッコはもういいんだ、姉さん。それより、クリスにコッケを渡したとき、懐かしいって言ったんだよ」
ソファの上で足を組み直しながら、彼女は続ける。
「私もあちこち回ってきたつもりだけど、コッケのことなんて聞いたことも無かった。それでクリスが知っていたのは、ここで調理したことがあるからじゃないかと思ったんだけど」
「鳥料理ならいろいろ食べたけど、コッケは無いわねえ。クリスは、珍しい食材を使うときはいつも説明してくれるし」
「そうだよね」
ヴァニは頷いた。この屋敷に戻っての数ヶ月、食事の時にクリスは材料などを簡単に説明してくれていた。
過去にコッケが食卓に上ったならば、クリスは説明してくれるだろう。
だが、ペテラはコッケのことを知らなかった。
「クリスは、どこでコッケのことを知ったんだろうね?」
「この屋敷に来る前じゃないかしら」
「そりゃそうだろうけど・・・私が知りたいのは、彼がコッケを知ったのは、なにをしていたかだよ」
「ああ、そう言うことね」
ペテラはヴァニの問いの真意に頷いた。
「でも私、クリスの昔のことは知らないわね」
「・・・一つ屋根の下で、二人きりで過ごしてたのに?」
姉の言葉に、ヴァニは内心驚きながら尋ねていた。
「秘密は秘密のままで、ってことで、互いに相手の過去は詮索しない約束をしたのよ。だからほら、あなたが帰ってきたとき、クリスは驚いてたでしょ?」
「そう言えば・・・」
確かにあの召使いは、ヴァニがそう名乗りペテラが説明するまで、二人が双子であることどころか、ペテラに妹がいることすら知らなかったようだった。
「でも、使用人の過去を知らないのは少し危ないんじゃないかな?クリスがそうだとは言わないけど、過去に悪いことを」
「今更知ったところで、クリスを追い出すことはできないわ」
ヴァニに、ペテラはそう首を振った。
「『朝に悔やんでも、昨夜の深酒は取り消せない』ってことよ」
「うーん・・・」
確かにその通りだが、とヴァニは胸中で呻いた。もはやペテラは、クリスという酒を浴びるほど飲んでしまった。
もうヴァニがどうこう言ってもしょうがないし、もはや二日酔いにならぬよう祈るだけだ。
「でも、単純な興味として、クリスがこれまでなにをしていたか気にならない?」
ヴァニは気持ちを切り替えると、そう話を切りだした。
「まあ、気にならないとは、言い切れないわね」
「でしょ?夕食までの時間つぶしに、推理してみない?」
ヴァニの一言に、ペテラはしばしの逡巡を挟んでから、チェスの本を閉ざした。
どうやら乗り気のようだ。
「さて、とりあえずクリスについてわかってることから並べてみようか」
「ええと、家事全般ができて、料理も上手くて、礼儀作法もしっかりしてるわね」
「礼儀作法については多少疑問は残るけど、おおむねそうだね」
主人であるペテラに対する、少々フランクすぎる態度を思い返しながら、ヴァニは頷いた。
「あと、珍しい料理も作れるし、いろんなお話も知ってるし」
「お話?」
「ええ、ジパングの方のおとぎ話とか、いろいろ。たまに聞かせてもらうけど、面白いわよ」
「初めて知ったよ・・・」
クリスの意外な一面を聞かされ、驚くペテラだったが、おとぎ話を聞かせるとはどういう場面なのだろう。
「私が怪我したときには手当してくれるでしょ。それに病気になったときは付きっきりで看病してくれるし・・・そして優しいし・・・」
「姉さん、最後のは特徴じゃないよ」
「え?あれ?ああ、そうね」
ペテラは、いつの間にか頬に浮かべていた薄笑いをあわてて消すと、大分主観の入った特徴を、頭から追い出した。
「後は・・・他にもお金の勘定も得意だし、装身具の目利きもできるし・・・ねえヴァニ、なんでクリスみたいな人間が私の下で働いてくれてるのかしら?」
「うん。私も尋ねようと思ってたところだよ、姉さん」
特徴を羅列するだけで、その常人とは思えぬ性能に、二人は改めてクリスのありがたさを理解した。
「でも、何となくクリスがどういう人物か、見えてきたよ」
「ええ、私もよヴァニ」
ヴァニの言葉に、ペテラは妙に自信に満ちた表情で頷いた。
「本当?」
まだ自分でも、おそらくレベルの推測しかできていないのに、とヴァニは内心舌を巻いた。
「ええ、自信を持って言えるわ。きっとクリスは、料理人だったのよ」
「・・・姉さん、もしかして料理が上手いから料理人だろう、って考えてない?」
「あら?何でわかるの・・・って、私たち双子だったわね」
思いも寄らぬところで血のつながりを感じた、とばかりにペテラは表情をほころばせた。
「いや、双子とかそう言う訳じゃなくて、単に・・・姉さんならそう考えるんじゃないかなあって」
少々ものをストレートに考えすぎるきらいのある姉に、ヴァニは多少軟らかい表現で説明した。
「でも、料理が得意なのは・・・」
「単純に料理が趣味だったから、かもしれないよ?それより考えないといけないのは、何でこんなに多方面に秀でているかだよ」
ヴァニはソファの背もたれに背中を預けながら、足を組んだ。
「たぶん、環境的に召使いの仕事をいろいろさせられるようなところで過ごしてたんじゃないかな。それも、ただこき使われるような召使いじゃなくて、それなりに裕福な主人の元で働いてたんだと思う」
「召使いかもしれないってのはわかったけど、何で裕福だと?」
「装身具の目利きができる、って姉さん言ってたでしょ?どの程度の目利きかはわからないけど、ある程度本物を見てないと目利きは難しいんだよ。だから、本物を目にする機会の多い裕福な主人の下で、本物を目にする時があるぐらいの忙しさで働いてたんだと思う」
「なるほど・・・」
「それに、その主人が美食家なら、厨房で働いていればいろんな食材や料理に触れられるでしょ?だから、あちこち回ってきた私でも知らなかった、コッケの料理ができるんだよ」
「うぅーん・・・」
ヴァニがそう推理を述べたところで、ペテラが腕を組んだ。
「何?何か腑に落ちない点でも?」
「確かにそういう環境ならいろいろ料理ができる説明にもなるけど・・・他の一切合切もこなせるのはなぜ?」
「それは・・・ええと・・・まだよく考えてないや」
ヴァニは正直に言った。
「でも、クリスがどこかで召使いの腕を磨いたのは事実だと思う。その後、何でその勤め先を辞めて姉さんのところに来たのかはわからないけど」
「そこなのよね。何でクリスはうちに来たのかしら?」
「・・・うん?」
ペテラの言葉に、ヴァニは首を傾げた。
「姉さん・・・クリスは姉さんが雇ってきたんじゃないの?」
「いえ?他の召使いがいたころに、麓の町に求人広告出して来たのがクリスだったのよ。それで私の身の回りの世話をさせてたら、だんだん召使いが辞めていって、私とクリスだけになっちゃったってわけよ」
「ああ、そういうことか」
ヴァニもそうだが、召使いたちはペテラとクリスのやりとりに耐えられなくなったのだろう。
「まあ、何もかも推測だから、本当のところはクリスにしかわからないのよね」
「ちゃんと調べればもう少しはっきりするんだろうけど、夕食前の暇つぶしだからね」
「いい頭の体操になったわね」
ペテラがそう口にしたところで、居間につながる扉が開いた。
「ご主人、ヴァニ様、夕飯の準備ができました」
「あら、もう?」
思っていたより話し込んでいたのか、クリスの言葉にペテラは驚いた。
「ヴァニ様から聞かれたと思いますが、今夜は鶏づくしです」
「いいわね。コッケだったかしら?」
「おいしい、って評判だからね。楽しみだな」
ペテラとヴァニはそう言いながらソファをたち、クリスの方に向かっていった。
「俺としても会心の仕上がりですので、楽しんでいただけるかと思います」
「ふふ、涎がでてきたわ・・・」
居間をでて、クリスの数歩後ろを、ペテラは足取りも軽く進んでいた。
「あ、そういえばクリス」
「はい、何でしょう」
「あなた、コッケ料理ってどこで覚えたの?ヴァニも初めてコッケのことを聞いたって言ってたわよ」
「っ!?」
今日のメニューは何だ、とでも言うかのような気軽さでのペテラの問いかけに、ヴァニは思わず息を詰まらせた。
「ええ、一応以前勤めていた屋敷で」
「素直に答えるのそこ!?」
すらすらと返答するクリスに、ヴァニはそう声を上げてしまった。
「何よ、ヴァニ。ちょうどいい機会だから尋ねようと思って・・・」
「いや、さっき『互いに相手の過去は詮索しない』とか・・・」
「答えたくない質問に対しては、答えなくていいってことですよ、ヴァニ様」
クリスはヴァニの方を振り返り、ペテラの言葉の真意をそう説明した。
「でも、姉さんはクリスの昔のことを知らないって・・・」
「今まで尋ねられませんでしたから」
「私も、何となく聞いてなかっただけだし」
クリスの過去に後ろぐらいものがある、と少々勘ぐっていたヴァニは、二人の返答に力が抜けていくのを感じた。
「それで、やっぱり昔から召使いやってたの?」
「はい子供の頃からいろいろとさせられていましたので、自然と」
「へえ。ほらヴァニ、やっぱりあなたの推理が正しかったわよ!」
「ああ、うん・・・」
ほんの少しの好奇心から始まった推理が、気まぐれの問いかけによって証明されていく様子は、ヴァニから力を奪っていった。
クリスの裏に何かがあると勘ぐっていた自分が、アホのように感じられるからだ。
「でも、何でその屋敷を辞めたの?」
「私の他にも同僚が結構いましたが、そのころの主人が結婚なされて、その際に解雇されました」
「結婚で解雇?」
「半分、俺たちを雇っていたのは趣味みたいなものだったらしいですからね。でも、結婚されて趣味から足を洗うために解雇したらしいです」
「趣味、ね・・・ちなみにその趣味って?」
「あまり答えたくありませんが、ヒントだけ差し上げます。その屋敷ではメイドしか雇っていませんでした」
「・・・ああ!あー、そう言うことね・・・」
ヴァニが内心で彼の過去を察する一方、ペテラはそう大きく頷いた。
「さあ、早くしないとコッケ料理が冷めてしまいますよ」
「はいはい。昔話はここまでね」
会話を打ち切ると、三人はやや急ぎ足で廊下を進んだ。
「ねえ、ヴァニ・・・」
ペテラがクリスの背中を見ながら、そうヴァニの耳元でささやいた。
「何、姉さん?」
「メイド、いいわよね?」
「・・・ノーコメントで」
前を進むクリスの腰のあたりを見ながらのペテラの問いに、ヴァニはそう応じた。
(3)晴の日は外で
「おはようございます、ヴァニ様」
朝、いつものように厨房にはいると、クリスがそうヴァニに向けて声をかけた。
ヴァニが朝の運動を終え、着替え、厨房に入る。
すると朝食の配膳と入れ替わりに、クリスがペテラを起こしに厨房を出ていく。
それが、この屋敷での毎朝の日常だった。
「おはよう、クリス」
「今朝は、パンケーキにコンソメスープと、サラダです」
壁際の調理台から、入り口近くのテーブルに皿を運びながら、クリスが説明する。
「いやあ、今日もおいしそうだね」
「恐縮です。パンケーキのお代わりはありますから、お気軽にお申し付けください。それでは・・・」
いすに座り、ナイフとフォークを手にとったヴァニにそう言い残すと、クリスは厨房を出ようとした。
だが、ペテラを起こしに行くはずだった彼の足が不意に止まる。
厨房の出入り口に、いまから起こしに行くつもりだったペテラが立っていたからだ。
「ご主人!?」
「おはようクリス、いい朝ね」
既に着替えをすませたペテラが、そう言いながらクリスの横を通り抜ける。
「え・・・姉さん・・・?」
厨房にでてこない朝はあっても、自分から先に降りてくることのなかった姉の姿に、ヴァニは西からのぼる太陽でも見るかのように目を見開いていた。
「あら?どうしたのかしら?鳩が豆食ってポゥみたいな顔して」
ペテラは入り口近くのテーブルにもうけられた自分の席に腰を下ろすと、ナイフとフォークを手に取った。
「いただきます」
「は、はぁ・・・パンケーキは、お代わりがありますので・・・」
早起きした主人に対する衝撃から未だ抜けきっていないのか、クリスは条件反射的にそう返した。
「さて、ヴァニ。今日は何か用事があるかしら?」
「ええと・・・いや、特に・・・」
ヴァニは思い返すが、何も思いつかなかった。
強いていうなら、町まで降りていって少しぶらつこうか、というぐらいだった。
「なら、悪いけど今日は留守番頼まれてくれないかしら?」
「うーん・・・まあ、問題ないけど・・・何で?」
どうせ日中は姉は外にでられないし、夜はみんな屋敷にいる。あえて留守番など用意する必要もないのに、なぜそのようなことを?
「今日は少し、クリスとお出かけするのよ」
ヴァニの疑問に、ペテラはそう答えた。
「え?そうなのクリス?」
「ええと、そんな・・・ああ、そうでしたね、確かそのような約束を前に」
何かを思い出したのか、クリスは頷いた。
「でも、お出かけといっても、食料の注文だとかの更新でご主人がサインをするだけです。それに、サインが必要な書類を持ってこさせることも」
「たまには町まで降りてもいいじゃない」
「しかし昼間ですし、今日は特に快晴ですよ」
「普段、昼夜逆転生活は許さない、みたいなことを言っているのに、こう言うときだけヴァンパイア扱いするのね」
「いや、姉さんヴァンパイアじゃない」
ヴァニが思わず横から口を挟むと、ペテラはやれやれとばかりに頭を振った。
「ヴァニ、今の時代のヴァンパイアは、日の下にでても灰にはならないわ」
「でも、弱体化するって・・・」
「体の性能が人間レベルになるだけよ。問題はないわ」
「うーん、しかし・・・」
「しかしもかかしも無いわ。今日はクリスと町まで行くの」
彼女の断言に、ヴァニとクリスは目を合わせた。
(そんなに楽しみだったのでしょうか?)とクリスが視線に問いを乗せると、
(そのようだね。通りで昨夜は妙にはしゃいでたわけだ)とヴァニは小さく肩をすくめて答えた。
「ほら、クリス!朝ご飯食べたら出発よ!」
「ご主人、急いでもまだ店が開いていないでしょうから、せめて皿の片づけをさせてください」
「わかったわ!お皿洗ったら出発ね!」
ペテラはそう、まだ朝食に手を付けていないうちから言った。
「とりあえず姉さん、食事にしようよ」
ナイフとフォークを握ったまま、弁舌を振るうペテラに、ヴァニはいつもより穏やかな口調で言った。
「ほら、姉さんが朝食をとらないと、いつまで経っても皿が片づかないじゃない」
「それもそうね・・・」
ヴァニの言葉に、ペテラは一転して静かな声音で頷いた。
「ごめんなさいね、クリス。私が遅くていつまでも片づけられなくて」
「いえ、まだそう遅くは・・・」
「すぐにいただくわ」
彼女はそう言うと、パンケーキにナイフとフォークを突き立てた。
まだ湯気が立ち上りそうなほど温かいパンケーキを、ざくざくと音がたてそうな勢いで一口大に切り取る。
そして、バターも蜂蜜もかけていないそれに、彼女は一口でかぶりついた。
そしてそのまま、もぐもぐと彼女は口を動かす。
「んーん、おいしいわ」
三回ほど咀嚼してからパンケーキを飲み下し、ペテラはそう口にした。だが、その間にも彼女の両手のナイフとフォークは、次の一口を切り取りつつある。
「うわあ」
貴族にあるまじき勢いで、パンケーキを切っては口に運び、飲み込んでいくペテラの姿に、ヴァニは思わず声を漏らしていた。
「んっ・・・!?んぐっ、んっ、んふっ・・・!」
すると不意に、ペテラが目を白黒させながら、そう口を閉じたまませき込んだ。
「ご主人!?」
「んっふ、んっ・・・!」
駆け寄ろうとする栗栖を彼女は手で制すると、フォークを放り出しながらミルクの注がれたコップを掴んだ。
赤い唇にコップの縁を当て、天井を仰ぎながら彼女はミルクを口中にそそぎ込む。
「・・・・・・・・・」
彼女の細いのどが数度上下したところで、ペテラは顔をおろした。
「ぷはぁ・・・はぁ、びっくりしたわ・・・」
「びっくりしたのはこっちです、ご主人」
のどの詰まりがとれて一息つくペテラに、クリスは少しだけ安堵しながらもそう言った。
「そうだよ姉さん。今日はどうしたの?さっきから変だよ」
「そうかしら?」
「いつもの姉さんならもっと遅くに起きてくるし、朝食を食べるときも大分のろのろだし・・・」
いつもの姉の姿を思い返しながら、ヴァニは首を傾げるペテラに言った。
「正直、本当に姉さんかって、怪しく思っちゃうよ」
「・・・・・・・・・ふふふ・・・」
ヴァニの一言に、ペテラはしばしの沈黙を挟んでから低く笑った。
「ふふふ、ふふ・・・ふふふ・・・」
「姉さん?」
彼女はそう姉を呼ぶが、ペテラは含み笑いを止めなかった。
テーブルを挟んだ向かい側の妹の姿を見ながら、ただ低く笑う。
いったいなぜ?理由不明の恐怖に、ヴァニは背筋を怖気が這い登ってくるのを感じた。
「ふふふふふ・・・」
「ご主人、スープが冷めてしまいます」
「はい」
低く笑うペテラにクリスがそう一言告げると、ペテラの笑みが掻き消えた。
そして、思い出したかのように並べてあったスプーンをとり、スープを口に運ぶ。
「あぁ・・・おいしいわ・・・」
スープを一口味わい、ペテラはそうため息混じりに言った。
「左様ですか・・・ありがとうございます」
どことなく釈然としない表情で、クリスが返答する。
普段ならば寝ぼけ眼をこすりつつ、朝食を平らげていくというのに、どうしたのだろうか。
それほどまでに、今日のクリスとのお出かけが楽しみなのだろうか。
「姉さん、今朝は眠くないの?」
姉の姿を注視するうち、彼女から眠気が全く感じられないことに、ヴァニは気がついた。
「ええ、全く」
「いつもなら眠い眠い言ってるのに・・・」
「それはね、いつもなら起きる直前まで寝てたからよ」
「うん・・・うん?」
ペテラの回答に、ヴァニは一拍遅れて首を傾げた。
「あんまり楽しみすぎて、実は昨夜から一睡もしてないの」
眠気どころか、疲れすら滲ませず、彼女はそう徹夜を告白した。
「ええと、その・・・大丈夫ですかご主人?」
「大丈夫よ。むしろ元気が有り余りすぎて、献血でもしたい気分よ」
若干主人の身を案ずる気配を滲ませたクリスに、ヴァンパイアのペテラがにっこりと返す。
「正直、昨日まで私は朝を無駄に使っていたわ。ほんの一晩眠らないだけで、こんなに楽しく、元気に朝を迎えられるなんて」
新たな発見の喜びを、ペテラは滔々と語った。
「私決めたわ。こんなにさわやかな朝を迎えられるなら、私もう眠らないわ」
「そう、ですか・・・」
若干困ったような表情で、クリスはちらりとヴァニを見た。
(どうしましょう?)
眉根に皺を刻みながらのクリスの無言の問いに、ヴァニは軽く肩をすくめて続けた。
(体力の限界に来て、眠くなるまでの辛抱だよ)
徹夜明けとお出かけ前の興奮で、疲れを感じていないだけ。
魔物の体力といえども、いずれ限界は訪れる。
それまでの話だ。
「ほらヴァニ、さっきから食べてないじゃない。あなたの方こそ食欲がないんじゃないの?」
「ああ、いや・・・ちょっと休んでいただけだよ」
姉の注意に意識を引き戻すと、ヴァニはナイフとフォークを手に、パンケーキを切っていった。
そして、妙に饒舌なペテラが朝食をとり終え、クリスが皿を片づけ、出かける準備をすませた。
「忘れ物は?」
「ありません」
書類か何かが入っていると思しき鞄を手に、クリスは主の問いに頷いた。
「それで、姉さん。本当に歩いていくの?」
玄関の内、エントランスホールで、ヴァニは姉に向けてそう問いかけた。
「何なら、今から私が走っていって、馬車を呼んでもいいけど」
「その必要はないわ」
「でも・・・時間が」
太陽光やペテラ自身の体力など、いくつかいいわけとしばらく迷ってから、ヴァニはそう口にした。
「大丈夫よ。まだ朝の内だし・・・それに、歩きの方がほら」
ペテラは言葉半ばで、傍らにいるクリスの手を握った。
「こうやって二人で歩けるじゃない?」
「ご主人・・・」
突然の主の行動に、クリスは一瞬驚いたようだったが、すぐにため息をついた。
徹夜明けで妙に気分が興奮しているのだ。大人しく従っていた方がいい。
「では、ヴァニ様。留守の間、まことに申し訳ありませんが、よろしくお願いします」
「うん、大丈夫。むしろそっちこそ、姉さんの面倒頼むよ」
「はい」
ペテラを扱いなれているはずのクリスへの言葉に、彼は頭を下げた。
「じゃ、行ってくるわね、ヴァニ」
「行ってらっしゃい」
ペテラとクリスは、手をつないだまま扉に向き直り、玄関を開いた。
朝の陽光が扉の隙間からエントランスホールに差し込み、主と召使いの体に降り注ぐ。
「・・・!」
「大丈夫ですか、ご主人?」
「ええ、大丈夫・・・」
小さく体をふるわせた彼女への気遣いに、ペテラはそうクリスに向けて頷いた。
そして、二人は手をつないだまま屋敷の外へと歩みだしていった。
「はぁ・・・やっぱり太陽の光は辛いわねえ・・・」
「だから言ったでしょう。今からでも日傘を」
「クリス、もう少し私を支えて」
隣を歩く召使いと肩を触れ合わせながら、ペテラは足を進めた。
手をつなぎ、腕を絡ませ、肩同士を触れあわせる。どこからどうみても恋人同士の二人の後ろ姿に、ヴァニは小さく嘆息した。
呆れと、ほほえましさの混ざった嘆息だった。
「行ってらっしゃい・・・」
屋敷を離れていく二人の後ろ姿に向けてそう言うと、彼女は扉を閉ざした。
「さて・・・」
これで、あとは二人が帰ってくるまで、ヴァニは留守番をしていればいい。
「何しようかなあ・・・」
とりあえず書庫の本でも読もうか。姉と召使いの帰宅までの間、何をしようか考えながら、彼女はエントランスホールを出ようとした。
しかし、彼女が扉から十歩も離れない内に、玄関が再び開いた。
「もどりました」
「へっ?」
不意に響いた扉の音と、クリスの声に、ヴァニは振り返っていた。
彼の腕には、背中と膝裏を支えられるようにして、ペテラが収まっていた。
だが、いわゆるお姫様だっこという姿勢とは裏腹に、ペテラの表情は苦悶に満ちていた。
「どうしたの?」
「それが、庭の半ばほどで急に気分が悪くなったと」
「うーんうーん」
クリスの腕の中で、ペテラはそう呻いていた。
「いったいどうし・・・あ」
ペテラの突然の不調の理由に、ヴァニはすぐに思い至った。
「あれだ、太陽だ」
「太陽?しかし、今の時代のヴァンパイアは」
「そう、太陽の光を浴びたからって、灰になったりはしない。ただ、身体能力が人間並になるだけだ」
クリスの言葉を引き継ぎ、ヴァニはそう続けた。
「では一体・・・」
「たぶん、昨日の徹夜で体力を消耗していたところに太陽光を浴びて、体力が完全に底をついたんじゃないかな」
「なるほど。そう言うことでしたか」
合点が行ったかのように、クリスは頷いた。
「とりあえず、寝不足が原因だろうから、寝かせておけば元気になると思うよ」
「そうですか・・・ということは、今日のお出かけは延期ですね」
どこか残念そうに、クリスは言った。
「姉さんは私が面倒みておくから、用事を片づけに行ったら?」
「そうですね。では、ご主人をよろしくお願いします、ヴァニ様。本当にすみません」
「いいって、いつものお返しだよ」
クリスから姉を受け取りながら、ヴァニはなんと言うこともないように返答する。
「じゃ、クリス、今度こそ行ってらっしゃい」
「はい、行って参ります」
「うーんうーん」
クリスの礼に反応したかのように、ペテラが低く呻いた。
だが、クリスは彼女のうめきに一瞬動きを止めはしたものの、視線だけ残して玄関をでていった。
「うーんうーん」
エントランスホールに、ペテラのうめきと沈黙だけが取り残される。
「・・・惜しかったね、姉さん」
腕の中の姉に向け、ヴァニはそう呟いた。
(4)雨の日は家で
窓の外から、濡れた音が響いていた。
何かが石をたたく音や、木の葉を何かが打つ音が響いていた。
朝の内は小さな衝突音ばかりだったのが、昼を迎える頃には水音に変わっていた。
雨で水たまりが広がっているのだろう。
「全く・・・イヤな天気ね・・・」
居間の窓から、ほの暗い外を見ながら、ペテラはそう呟いた。
ソファに腰掛ける彼女の手には本が握られており、傍らのテーブルにも幾冊か積まれていた。
雨が降り続くため、暇つぶしにと書庫から引っ張りだしてきたのだ。
テーブルの上に乗っているのは、チェスに旅行記に物語にと様々だった。
「あーあ、早く晴れないかしら・・・」
晴れたところで、ペテラはヴァンパイアのためそう気軽に外にはでられないのだが、そう思わずにはいられないほど湿っぽかった。
「・・・・・・?」
ふと、ペテラは来ると予想していた言葉が発せられないことに、疑問符を浮かべた。
窓の方に向けていた顔を、隣のソファに向けると、ペテラの目にそこに腰を下ろす妹の姿が入った。
ヴァニは、一冊の本を開き、妙に前かがみの姿勢で読んでいた。
「ヴァニ?」
妹の名を呼ぶが、反応はない。
目がゆっくりと動いているのを見ると、どうやら本に集中しているだけのようだ。
「ヴァニ・・・ヴァニ・・・」
「・・・・・・」
ペテラの呼び声に、ヴァニは反応しなかった。
「もう、ヴァーニ!」
「うわっ!?」
やや大きな声を出したところで、ようやく彼女が反応した。
「な、なに姉さん?」
少々驚いた様子で、ヴァニは本に指を挟んで閉じながら、そうペテラに言った。
「いえ、妙に静かだったから、どうしたのかと思って」
「何だもう・・・びっくりしたじゃないの・・・」
どうでも言い理由で読書を中断されたことに、ヴァニは唇をとがらせた。
「ごめんなさい。そんなに集中していたとは」
「いや、いいよ姉さん。これからこっちも気をつけるから」
ヴァニはそう、ペテラのじゃまを水に流すと、本を開いた。
「ところで、何読んでるの?」
「んー?ああ、書庫においてあった小説だね」
「へえ、どんな?」
ペテラは興味を抱き、妹に尋ねた。
書庫には名作から、料理のレシピ集、はては誰が書いたかすらも定かでない予言書めいた詩集まで、様々な種類の書籍が詰め込まれている。
ペテラはヴァンパイアのため町の本屋まで行くことはできず、書庫の本の多くは代々受け継がれてきたものから、召使いがどこからか手に入れてきたものまで、多岐にわたっていた。
そのため、ペテラ自身も書庫に何が入っているか把握し切れておらず、ヴァニが没頭するような小説に興味を抱くのも無理はなかった。
「作者もタイトルも書いてないけど、恋愛小説みたいだね」
今読んでいる箇所に指を挟んだまま、ヴァニは本の冒頭をぺらぺらとめくった。
「ええと、貴族の少女のところに許婿の青年が来て、徐々に打ち解けていくって話だね」
その説明に、ペテラの表情がこわばった。
「今、そこそこ仲良くなってきたけど、久々に戻ってきた主人公の妹が、いろいろと小細工して嫌がらせをしているところだね」
「へ、へえー」
どこかうつろな口調で、ペテラは相槌を打った。
「どうしたの姉さん?」
「い、いや・・・何でもないわ・・・何でもないわ・・・」
姉の様子を気遣ってヴァニは問いかけるが、ペテラは何事もない風を装うばかりだった。
「そうよヴァニ、確かその小説最後の方が・・・」
「あーだめ!聞かない!先のことなんて聞かないよ姉さん!」
何かを思いついたようにペテラが口を開くが、ヴァニはそう遮った。
「いや、ネタバレとかじゃなくて、その小説はたぶん最後の方が尻切れトンボだから・・・」
「あーんもう、どうしてそういう事言うのさ!せっかく楽しみながら読んでたのに」
「私も・・・その、楽しんでたんだけど、最後の方があまりにアレだから・・・そうよ、私みたいな気持ちになってほしくないから、そこで止めてほしいのよ」
「なんで?今、意地の悪い妹の裏工作で、二人のすれ違いが始まってるところなのに。これからもっと不仲になるのか、やり直せるのか、気になってるんだよ!?」
「だから、そこで止めていた方がいいのよ!ほら、それをよこしなさい!私がもっといい本紹介してあげるから!」
「紹介してくれるのはいいけど、せめてこれを読み終えてからにしてよ!」
「だめよ!最後まで読んだら・・・がっかり!そう、がっかりするわ!私はかわいい妹にがっかりしてほしくないから」
「何がかわいい妹だよ!私が屋敷を飛び出すまで、ずっと私のこと嫌っていたくせに、今更優しいお姉さん面して!」
「はぁ!?何でいま昔のことを持ち出すのよ!」
「こっちだって持ち出したくなかったよ!でも、今になって優しいお姉さん面して、私を縛って何がしたいのよ!私のしたいようにさせてよ!」
「したいようにさせて?あなた屋敷を飛び出して、ずっとしたいようにしてきたじゃない!それが今になって、したいようにさせて?笑わせないでよ」
二人は言葉を切ると、互いに相手を睨み合った。
同じ色の瞳が、互いに視線で射抜き合う。二人の放つ怒気が、居間の空気を張りつめさせ、気温が下がっていくような錯覚をもたらす。
「ヴァニ・・・あなたはいいわね・・・何でもかんでも卒なくこなせて・・・」
「私も姉さんがうらやましいよ・・・自分の鬱憤を当たり散らせる相手がいて・・・」
言葉に殺気すら込めながら、二人はそう唇を動かした。
すると、居間の扉が音を立てて開いた。
「ご主人、ヴァニ様。お茶とお菓子をお持ちしまし・・・た・・・」
ティーセットにお菓子の盛られた皿を乗せたワゴンを押しながら、クリスが居間に入ってくるが、ヴァンパイアとダンピールの放つ険悪な雰囲気に言葉尻が小さくなっていった。
「ああクリス、いいところに来たわね。『お客様』はお帰りのようよ」
「へえ?妹が言うことを聞かないからって、癇癪起こして追い出すんだ。デキの悪い姉は大変だねえ」
「ええと・・・何が・・・」
クリスは二人の顔を見比べていたが、ふとヴァニが手に持ったままの本に目を留めた。
著者もタイトルも記されていない、一冊の本だ。
「おや、懐かしいものが」
「ん?これ?」
クリスの一言に、ヴァニがペテラから視線を離し、手に持ったままの本に目を向けた。
「ええ、非常に懐かしい一冊です。どこに行ったのか探していましたが・・・」
「書庫で見つけたんだ。でも、この本のこと知ってるの?」
「それはもちろん」
クリスがうなづくと、ペテラの顔色が変わった。
「その本は」
「く、クリス・・・!」
クリスを制するように、ペテラは彼の名を呼ぶが、彼はかまうことなく続けた。
「俺が昔書いたものです」
「っ・・・!?」
「クリスが?これを?」
ペテラが言葉を詰まらせ、ヴァニが召使いの男と手元の本を見比べた。
「はい。まだほかの召使いがこの屋敷にいた頃に、暇つぶしのつもりで仕事の合間に書いておりました」
「でも、本を出すって結構お金かかるんじゃ?」
「出版するなら相当かかりますが、俺の場合そこそこ枚数がたまったので、製本しただけです。つまり、その一冊しかこの世にありません」
「へえ」
この世に一冊だけしかない本。ヴァニはその一言に、急に手の中の本が重みを増したように感じた。
「この世に一冊と言っても、そう価値のあるものではありません」
「でも、わざわざ製本したんでしょ?手間分はかかってるんじゃ・・・」
「製本自体の作業は、紙と糸とノリがあれば簡単にできますよ。ご興味があるなら、後で白い紙を使って、日記に使える白い本を作りましょうか?」
「自分だけの本か・・・いいねえ・・・」
手の中の本の手触りを確認しながら、ヴァニはそうそう呟いた。
「じゃあ、これを読み終えたらということで」
「かしこまりました、と言いたいのですが・・・実は・・・」
クリスはしばし言葉を濁してから、続けた。
「ヴァニ様がお読みの本は、実はまだ完成していないのです」
「そうなの?」
「八割方書き上げたところで、徐々に忙しくなってしまいまして、最後まで書き上げることができなかったのです。本の形にしたのも、最後の方の白いページを見ることで、『完成させなければ』と自分をせかすためでした」
「そうだったんだ・・・」
ペテラの言っていた、尻切れトンボで終わるというのはそう意味だったのかと、ヴァニは納得した。
「ですので、今中断した場所までお読みになられてもどかしい思いをなさるより、今一度俺に預けて、完成を待たれてはいかがでしょうか?」
「ふむ・・・でも、続きが思い浮かばずそのまま、とかはごめんだよ?」
「大丈夫です。既に結末まで、俺の頭に入っています。必要とあらば、この場であらすじをお伝えしますが」
「いやいい!君が書き上げるのを待ってから読むよ」
クリスの言葉を中断させると、ヴァニは手に持った本に目を落とした。
「じゃあ、完成させて読ませてほしい」
「かしこまりました」
クリスは一礼とともにヴァニの差し出した本を受け取り、懐に納めた。
「では、少々遅れましたが、お茶の時間としましょう・・・と言いたいところですが・・・」
クリスはポットの蓋を取ると、少しだけ表情に苦いものをにじませた。
「まことに申し訳ありませんが、少々時間をおいたせいで、茶に渋みが出てしまったようです」
「そうかしら?いつもの香りに感じる・・・いえ、確かに少し渋くなったみたいね」
ペテラは一瞬、クリスの言葉に首を傾げたが、すぐに彼の意見に同意した。
「うーん、私はそうは感じないけど・・・」
ヴァニもあたりに漂う茶の香りに、いつもと変わらぬものを感じていた。
「少し冷めたというのもありますから、すぐに淹れ直して参ります」
「じゃあ、私もお茶の準備ができるまで、少し失礼しようかしら」
ペテラは本を傍らに置くと、すっとソファをたち、しずしずと居間を出ていった。
「ではヴァニ様、俺も失礼します」
「ああ、うん」
そして彼女の後を追うように、クリスはワゴンを押しながら扉に向かった。
「あ、そうだクリス」
「はい」
ヴァニの呼び声に、クリスは足を止めて振り返った。
「さっきの本、続き楽しみにしてるから」
「・・・かしこまりました」
クリスはもう一度だけ頭を下げ、居間を出た。
そして扉を閉め、ワゴンを静かに押しながら、彼は厨房を目指す。
すると、廊下の角に隠れるように、壁に背中を預けているペテラの姿が、クリスの目に入った。
「ご主人」
「クリス、さっきはありがとう」
居間のヴァニに聞こえないようにするためか、小声でペテラが囁いた。
「勝手に本にしていたのは許さないけど、クリスが書いたことにしてくれたのは感謝するわ」
「はてさて、何のことか俺にはわかりません」
「もう・・・とにかく、あの本を返しなさい」
ペテラはクリスに向けて手を差し出すが、彼の両手はワゴンの取っ手を握ったままだった。
「残念ですが、ヴァニ様と本を完成させて読ませる、と約束してしまいましたので」
「ちょっと、アレの作者は・・・」
「俺です。製本作業の合間に何度か読みましたからね。続きが頭に浮かぶほどに」
「・・・・・・!」
クリスが熟読した、という事実を改めて理解し、ペテラの顔が赤くなっていく。
「いや、その・・・アレはまだあなたが来る前に書いたものだから、あなたや私とアレには何の関係も」
「はい、存じてます。主人公は貴族の令嬢でご主人にそっくりですが、俺はただの召使いで、妹のヴァニ様もそう意地悪ではありません。あの物語と、俺たちが別物であることは、重々承知しています」
「あ・・・うん・・・それなら、いいのよ・・・」
クリスの口から改めて強く否定されたことで、ペテラは少しだけ語調を弱めた。
「ですが、幸せな結末に仕上げることは約束しますので、安心して俺に任せてください」
「そう・・・なら、いいわ」
ペテラはそう、クリスに自分の生み出した二人の未来を預けた。
一方そのころ、一人居間に取り残されたヴァニは、天井を見上げながらため息をついた。
「全く・・・姉さんはアレで、ばれてないとでも思ってるのかなあ」
あからさまな動揺と、何としても先を読ませまいとする無駄な努力。
その一つ一つが、ヴァニに誰が作者であるかを伝えていた。
「それにしても、姉さんはいつ書いたんだろう」
主人公の下にすてきな青年が現れ、恋に落ちる。
誰かさんの理想なのかもしれないが、果たしてそれはあの召使いが来る前なのか後なのか。
どちらにせよ、製本作業でクリスが一度目を通しているのは確実だった。
つまりは、ペテラの理想と願望が、クリスに伝わっているという事だ。
「あーあ、もうあの二人・・・くっつけばいいのに・・・」
屋敷に戻ってから数ヶ月、心の中で思いはするものの言葉には出さなかった文句を、ヴァニはついに口にしてしまった。
(5)どっちだ?
「これで・・・どうかな?」
ドレスに身を包んだ金髪の女が、大きな鏡を前に自分の体を見下ろす。
ドレスのウエストはきゅっとしまっており、胸元には乳房が多少余裕を持って詰め込まれていた。
「大丈夫じゃないかしら?」
動き易さを優先した装束に身を包んだ女が、ドレスの女に答える。
「それにしても・・・ちょっとキツいわよ、これ」
服の胸のあたりを軽く押さえながら、彼女はドレスの女を振り返った。
「そりゃそうだよ姉さん。だって、私の服着るために、いつもよりコルセット強めにしてるんだろ?」
「コルセットじゃなくて、胸の話よ」
「コルセットであふれた腹肉が胸に行ってるから、同じ事じゃないの?」
「だったらあなたもコルセット付けてみたら?そのスカスカの胸が多少増量されるかもよ?」
「コルセット日常着用者らしい意見だね、ははははは」
「うふふふふ」
二人は、ペテラとヴァニはそう笑いながら、目だけは笑わないままに視線を交錯させた。
互いの目に映っているのは、自分の衣服を身につけた相手の姿だった。
ドレスに袖を通すヴァニに、活動的な衣装をまとったペテラ。
二卵性の双子とはいえ、どこか雰囲気がにているためだろうか。二人の姿は、本当に入れ替わっているように見えた。
「まあ、さわられでもしない限り、ばれることはないよね」
「そうね。実際さわられなければ気づけないだろうし・・・」
若干胸が足りないせいで余裕のあるドレスの胸元と、コルセットのおかげでがちがちに固い腹を撫でながら、二人はそう言葉を交わした。
「でも・・・本当にクリスは気がつくかな?」
「どうかしら・・・」
ペテラは昨日からの思いつきに、今更ながら不安を抱き始めていた。
すべての始まりは、ペテラが入浴をすませた後だった。
肌や髪にまとわりつく水の滴をタオルで拭きながら浴室を出ると、脱衣所に人影がいたのだ。
「あら、ヴァニ?」
気配もなく、脱衣所に一糸纏わぬ姿で立っていた妹にむけ、ペテラは思わず声をかけた。
だが、よくよく見てみるとそれは妹などではなく、大きな鏡に映った自分の姿だった。
「・・・そういえば、鏡の場所を変えたって言ってたわね・・・」
聞き流していたクリスの言葉を思い返しながら、ヴァニは自身を妹と見間違えた驚きを、冷静に受け止めていた。
あまり似てないと彼女は自分では思っていたが、ペテラは一瞬自分を妹と見間違えてしまっていた。
つまり、ペテラとヴァニは想像以上に似ているのではないのだろうか?
ペテラの心に、そんな考えが浮かんでいた。
「でも、私と姉さんが似てるかどうか確かめるため、服を交換してクリスをためすだなんて・・・よく思いついたね」
姉の思いつきに、ヴァニは今更ながらため息をついた。
「まあ、一瞬見た感じだと大丈夫かもしれないけど、さすがに言葉を交わしたらわかるんじゃない?」
鏡に映る、姉のドレスを纏った自分の姿を見ながら、ヴァニはペテラに言った。
「私は数年一緒だから、ヴァニが出ていったらすぐばれるかも淹れないけど、ヴァニに化けた私なら大丈夫かもしれないわよ?」
「うーん、どうかなあ」
「『まあ、姉さんが不満に思うのも仕方ないけどね。でも、こうやって私らしく振る舞っていたら、大丈夫なんじゃないかな?』」
ペテラはそう、ヴァニの口調をまねて言った。
「あー・・・姉さん」
「『ん?なんだい姉さん?何か問題でも?』」
「率直に言うけど、あまり似てないよ」
「え?」
「外見は、まあ似てるとしても、口調がどうにも違う気がする」
「そうかしら?」
ペテラが首を傾げた。
「意外と自分の癖なんて、覚えてないんじゃないの?」
「そうかもしれないけど・・・わかった、今から姉さんのまねをしてみるから、どれだけ違うか体感してみてよ」
こほん、と咳払いを一つ挟んでから、ヴァニは腰に手を当てながら言った。
「『クリス、今日の晩ご飯はなにかしら?この間のコッケのスープにもも肉の炒め物はおいしかったわ。今日でなくていいから、また作ってね』」
「なによ完璧じゃない」
「はぁ!?」
適当なモノマネに対しての評価に、ヴァニは思わず素っ頓狂な声を上げていた。
「特にこの間のコッケの話のところなんて、一昨日私が言った内容そのままよ?もしかして聞いてたの?」
「い、いや・・・そういうわけじゃ・・・」
「どうやら、私のモノマネが下手だっただけみたいね」
ヴァニのモノマネがあまりにも見事だったためか、ペテラは悔しさを微塵も滲ませず、むしろ晴れ晴れとした表情で言った。
「これなら、私が出ていくより、ヴァニが私のフリしていた方が成功しそうね」
「うーん・・・どうかなあ・・・」
ヴァニは呻きながら首を傾げた。自分のモノマネが適当だったため、姉と似ているという確信が持てないからだ。
先ほどの演技が渾身のそれだったならば、ヴァニも自信を持ってクリスの前に立てただろう。
だが、今の彼女にあるのは、『似ていた』という姉の言葉だけだ。
「でも、やるだけやってみない?それにクリスの前にたつのはあなただから、誰よりも最前線でクリスの反応が見られるわよ?」
「それも、そうだね」
ヴァニの内側で、ペテラの提案を初めて聞いたときのような、いたずら心が少しだけ顔を出した。
クリスは掃除道具を片手に、ペテラの部屋の戸を叩いた。
「失礼します」
この時間帯、ペテラは居間にいる。
そのため、クリスは部屋の内からの返答も待たず、そう声を上げて入っていった。
だが、部屋の中には、ドレスを纏った金髪の女が一人、ベッドの上に寝転がっていた。
「おや、どうかされましたか?」
クリスが、ベッドの上に寝転がるヴァニに、目を丸くした。
「『ん・・・ちょっと、ね・・・』」
ヴァニは、ペテラの声色をまねながら、クリスの問いに応じた。
ベッドの上に寝転がっているのは、少しだけ体調が悪いのを装うことで、多少の声の違いをごまかすためだった。
ちなみにペテラ本人は、よそに隠れているのを見つかっても面倒なため、今はベッドの下に身を隠している。
「『のどの調子が少し・・・』」
「風邪の引きはじめかもしれません。どうかご自愛ください」
ヴァニに向け、心配した様子で彼はそう声をかけた。
「本格的に体調がよろしくないのであれば、今から休まれますか?準備しますが」
「『うん・・・たぶん、大丈夫だと思う・・・』」
クリスの、姉に対する気遣いの言葉に、ヴァニは少しだけ良心が痛んだ。
クリスが完全にヴァニをペテラだと思いこんでいるのは明らかだったが、彼の行動は主人の身を案じるものだったからだ。
彼の声に宿る心配そうな感情に、ヴァニはペテラの真似がうまく行っていることを喜ぶ気になれなかった。
「いえ、風邪は引きはじめが肝心、という言葉もあります。寝間着に着替え、今日は一日横になっていた方がいいでしょう」
「う・・・」
クリスの言葉に、ヴァニは声を詰まらせ、ベッドの下から動揺の気配が溢れた。
寝間着に着替える。それは、今ヴァニが纏っているドレスを脱ぐことだった。
確かに着替えた当初は、一瞬見間違えるほどヴァニの姿はペテラに似ていた。
しかし、それはあくまで着替えた後の話だった。
姉と違い、ヴァニはコルセットの力も借りずにドレスを纏っている。だからドレスを脱いでしまえば、引き締まった腹周りが露わになってしまう。
そうなれば、多少声真似をしたぐらいでは、クリスをごまかすことはできない。
「寝間着に着替え、温かい飲み物で体を温め、ぐっすり休んでください。そうすれば、明日にはよくなっているでしょう」
主人の風邪が悪化する前に、という気遣いの心を、クリスは発揮していた。
「『そ、そうね・・・じゃあ、着替えている間に飲み物を用意してくれないかしら・・・』」
「着替えている間に?」
不思議そうな声音で、クリスは繰り返した。
「コルセットも外さないとだめですから、飲み物を準備するのは着替えられてからです」
「『そのぐらい、一人で・・・』」
「今朝も俺と二人で相当締め上げたんですから、注意してほどかないと怪我されますよ」
クリスの言葉に、ヴァニは一瞬ベッドのマットレスに目を落とした。
(姉さん、そういうことは最初から言っていてよ・・・)
これでは、なりすましが明らかになるのは、時間の問題だ。
「『う、うぅん・・・』」
「どうされました?」
どうしたものか、とヴァニの思わず漏らしたうめき声に、クリスが声に緊迫感を帯びさせた。
「気分でも悪くなられましたか?」
どうやら、どうしたものかという苦し紛れのうめき声に、彼は本当に苦しさを嗅ぎとったようだった。
「そういえば、最近ご主人は血を飲まれていませんでした。たぶん、その影響が出ているのでしょう」
彼は掃除道具をそのままに部屋を横切り、ベッドの上のヴァニの肩に手を乗せた。
「あ・・・」
「血が不足で体調不良を起こしているのかもしれません。さあ、どうぞ」
意外と力強いクリスの手にヴァニが声を漏らすと、彼は彼女の瞳をのぞき込みながら続けた。
そういえば、前に聞いたことがある。クリスは皮膚の傷がただれやすいから、血を吸う際は唇か舌から吸うと。
ベッドに仰向けに押さえつけられ、ゆっくりと近づいてくるクリスの顔に、ヴァニは胸の奥が高鳴るのを感じた。
目の前にいるのは姉の召使いだというのに、彼は姉に血を捧げようとしているだけだというのに、ヴァニの心臓はキスでも迫られているかのように跳ね回っていた。
「さあ、どうぞ」
吐息どころか、声の震えすら肌で感じられそうなほど接近しながら、クリスが囁く。
だが、どうぞといわれても、ヴァニは動くことはできなかった。
どうすればいいのだろうか。
「ええと・・・ええと・・・」
「どうされました?血を吸われないのですか?」
演技も忘れ、ただ口を開閉させるばかりの彼女に、クリスは問いかける。
「それとも、ご主人のドレスを着ていることと、何か関係でも」
「だ、だめえええ!」
クリスの唇から、ヴァニの返送を見抜いていたような発言が紡がれた瞬間、べっどの下で息を潜めていたペテラが、声を上げながら転がり出た。
「やっぱりだめ!中止、中止よ!」
仰向けに横たわるヴァニに多い被さり、もう少しで唇が触れ合いそうなほど顔を接近させるクリスの背中に、ペテラがしがみつくようにして引きはがした。
「クリス!そこにいるのは私じゃなくてヴァニで、私がペテラで・・・」
「はいはい、わかっておりますよ、ご主人」
半泣きでしがみつき、回りくどい表現でペテラとヴァニの入れ替わりを説明する主人に、栗栖は穏やかな口調で話しかけた。
「何だ、気がついていたのか・・・」
ヴァニはクリスの顔が離れたことで、いくらかほっとしながら、べっどの上に身を起こした。
「まあ、自分でも完ぺきだとは思ってなかったけど・・・ちなみに、どこで気がついたの?」
「最初からです」
しがみついて嗚咽する主の背中を撫でながら、クリスは続けた。
「部屋に入った瞬間から、どう見てもヴァニ様でしたので」
「いや、私としてはどうしてわかったのかって聞きたかったんだけど」
「どうして、といわれましても・・・」
クリスはしばし首を傾げてから、続けた。
「まず髪の感じが違いますし、肌の色も少々違ってました。それとドレスの腹周りにもコルセットのラインが出てませんし、なにより目元がヴァニ様の目でしたので。正直なところ、俺がご主人の格好して寝転がっているのと、そう大差ない気がしました」
「そ、そうなんだ・・・」
ヴァニは、完全にクリスに見抜かれていた事に舌を巻いていた。
だが同時に、いつものペテラと違うから気がついた、のではなく、ヴァニの特徴があったからヴァニだと気がついたということに、彼女は少しだけ嬉しく思った。
自分のことを、彼もちゃんと見ていてくれたのだ。
「クリスぅ・・・ヴァニにだまされちゃだめええ・・・」
「はいはいご主人。あれは演技でしたが、不安にさせてすみませんでした」
主をなだめながら、クリスはそう説明した。
つまりはヴァニの方が、クリスにおちょくられていたわけだ。
ベッドに押さえつけられ、姉がいつもしているように血を吸うよう促された瞬間、ヴァニの心臓は高鳴った。
それだけに、クリスの一言は彼女の心に突き刺さるようだった。
「・・・・・・」
ベッドの上から、ペテラとクリスの姿を、ヴァニは見ていた。
(6)いい加減にしなさい
食堂のテーブルに、ペテラとヴァニは腰を下ろしていた。
テーブルには清潔なクロスが敷かれ、二人の前には皿と、ナイフやフォークが整然と並んでいた。
まるで、会食のようだ。
「何というか、このスプーン使うの久しぶりだね」
磨き上げられた銀のスプーンを手に取りながら、ヴァニが口を開いた。
「この間使ったのが、あなたが帰ってきた頃だから・・・半年ぶりかしら?」
普段は厨房におかれたテーブルで、朝昼夕を取っているため、この屋敷の主のはずのペテラでさえ食堂や食器からある種の懐かしさを感じていた。
「でも、何で急に?」
「コッケが三羽ほど手に入ったかららしいわ。だからコッケを主軸にコース料理を仕立てるって、張り切ってるみたい」
「へえ・・・」
ヴァニは、普段は少しだけ冷めたような様子の召使いが、どう張り切っているのか気になった。
すると、食堂の扉が開き、ワゴンを押しながらクリスが入ってきた。
「お待たせしました」
主とその妹に遅れをわびつつ、彼はテーブルの傍らでワゴンを止めた。
「前菜の、『コッケのササミのサラダ』でございます」
ワゴンの上の皿を手に取り、ペテラとヴァニの前に置いていく。
「へぇ・・・美味しそうね・・・」
さっと湯をくぐらせた、透明感のあるササミを適度にほぐし、野菜とともに皿に盛りつけた一品に、ペテラは言葉を漏らした。
野菜やササミにかけられたドレッシングが、さわやかな柑橘の香りを放ち、二人の食欲をそそらせた。
「なお、肉料理には赤ワインがあいますが、本日は鶏料理がメインですので、俺が個人的に合うと思っているウオクオイ酒を用意しました」
「ウオクオイ?」
聞きなれぬ酒の銘柄に、ヴァニは首を傾げた。
「はい、大陸東部で飲まれている酒で、興奮を招く、という意味があります。コッケが手に入った後、個人的に町の商人に頼んで入手しました」
ワゴンに乗せてあった酒瓶を取ると、彼はコルク栓を抜いた。
部屋の中に酒精とともに独特の香りが、ふわりと広がっていくのをヴァンパイアとダンピールの鋭敏な嗅覚が感じ取った。
「どうぞ」
とりあえずで用意していたワイングラスに、クリスは瓶を傾けた。
瓶の口から、こんこんと音を立てながら、やや黒みを帯びた赤い液体が注がれていく。
「ヴァニ様もどうぞ」
主のグラスを満たすと、クリスはヴァニに向けてグラスを傾けた。
やがて二人のグラスが満たされ、クリスは酒瓶をテーブルの上にそっと置いた。
「それでは、次の料理を用意して参りますので、ごゆっくりお楽しみください」
クリスは二人に向けて一礼すると、ワゴンを押しながら食堂をでていった。
「それじゃあ、食べようか」
「そうね」
ヴァニの申し出に、ペテラは軽く指をくみ、この料理を作ったクリスと、材料になったコッケに感謝を捧げた。
「いただきます」
「いただきます」
二人の声が食堂に響き、二人の指が並べられたフォークの一番外、前菜用のそれを取る。
そして、皿に盛られた野菜に、四つに分かれたフォークの先端が埋まっていった。
「ん・・・おいしい・・・」
一口大にちぎられたレタスを口に運び、ヴァニが声を漏らした。
ドレッシングの酸味と油がまろやかな味わいを作り出し、そこに含まれている柑橘の香りが風味を豊かにしている。
「へえ、コッケのササミもなかなか美味しいよ」
ほぐされ、繊維状になったコッケの身にドレッシングを絡めて口に運んだヴァニが、姉にそう報告した。
ペテラは妹の皿を見て、その真似をしてみた。フォークの先端にササミの一切れを刺し、ドレッシングに軽く浸して口に運ぶ。
最初に感じたのは、ドレッシングの柑橘の香りだった。だが、ササミに残る肉汁が口中に溢れだし、味と香りの共演を奏でた。
「本当・・・こんなに肉って感じなのに、さっぱりしていて・・・」
脂身のないササミという部位とドレッシングの香りせいか、食べれば食べるほど腹が空くようだった。
「そういえば・・・このお酒がコッケに合う、って言ってたわね」
ペテラはふと、皿のそばにおかれたワイングラスに目を向けた。
半分存在を忘れていたが、クリスのおすすめなら外れはないだろう。
ペテラの細い指がワイングラスの足をつかみ、その赤い唇へと運ぶ。
そして薄く開いた彼女の口に、赤い酒が入っていった。
「・・・ん・・・」
最初に感じたのは、本の少しの酸味だ。
だが直後、口腔から鼻腔へ酒精とともに香りが立ち上っていく。口内で酒を転がすと、その酸味が口の中に残っていたドレッシングの油を洗い流していく。
ササミのあっさりとした味わいと、柑橘の香りでそこまで気になってはいなかったが、いくらか口がさっぱりした。
「・・・へえ・・・おいしい・・・」
喉を酒がすべりおり、胃袋でほのかに熱を発するのを感じながら、ペテラはそうつぶやいた。
「合うの?」
「合うと言うより、口の中がすっきりして、また味を楽しめるって感じかしら」
ペテラはそう言うとフォークを手に、サラダをもう一口運んだ。
赤い酒のほのかな風味が口に残っているものの、油分が洗い流されたおかげで、まるで最初の一口のように酸味を帯びた野菜とササミの破片を楽しむことができた。
「うん・・・少し食べて少し飲んで、を繰り返すとちょうどいいわね」
「へえ、じゃあ私も」
ヴァニもグラスを手に取り、唇を付ける。
「あ、本当だ」
さっぱりとした口内に、彼女もまたそう目を丸くした。
「これなら、この間の炒め物ももっと楽しめそうね」
ヴァニが初めてコッケを手に入れた日、その日の夕食を思い返しながら、ペテラが言う。
「うん。でも私としては、もっとほかのコッケ料理を楽しみたいな」
コッケ尽くし、というクリスの言葉に期待を抱きながら、ヴァニはサラダを平らげていく。
やがて、二人の皿に野菜のかけらと、薄く広がるドレッシングだけが残された頃、再びクリスがワゴンを押しながら食堂に入ってきた。
「お待たせしました。肉料理、コッケの腿の丸焼き、温ソース添えでございます」
湯気をホカホカと立てるコッケの腿肉と、小皿に盛られたソースを、クリスは配膳していった。
「クリス。これは?」
「はい、腿肉を軽く塩胡椒で焼いたものです。そのままでも楽しめますが、添えてあるソースをかけるとより楽しめます」
ペテラの問いに、彼はそう食べ方を説明した。
「では、サラダの皿をお下げします」
ワゴンの上に、空になった皿をおくと、彼は二人のワイングラスにウオクオイ酒を注ぎ足してから、部屋を後にした。
「うーん、どう見てもただの丸焼きだけど・・・」
ヴァニは皿の上の、コッケの腿を見ながら、そう呟いた。だが、言葉と裏腹に彼女の声には、どこか期待するような色が含まれていた。
「まずはそのまま。次はソースをかけて、の順で楽しみましょう」
ナイフとフォークを手に、ペテラはそう言った。
腿の丸焼きにスープ、揚げ物と、コッケ料理が続いた。
全体的に、調理には油がやや多めに使われてあったが、クリスの腕のおかげかしつこさはほとんどなく、ウオクオイ酒を時折口に含むことで、いくらでも美味しく食べることができた。
皿が進むにつれ、ペテラとヴァニの杯もすすみ、ウオクオイ酒も二本目に突入する。
酒精が胃袋から頭に回り、二人の感覚と思考をすこしだけ鈍らせる。
だが、前後不覚になるほどのものではなく、あくまで楽しいほろ酔いといった程度だった。
「ぷはぁ・・・あー、美味しかった・・・」
コッケの身の素揚げに野菜炒めを絡め、とろみを帯びたソースをかけたものを平らげると、ヴァニはそう声を漏らした。
程良い満足感が彼女の胃の腑を満たしているが、まだデザートを楽しむ余裕はあった。
「ほんと、美味しかったわね」
白い頬を桜色に染めながら、ペテラはナイフとフォークを置いた。
ウオクオイ酒のもたらす心地よい酩酊が、満腹のもたらす幸福感を強める。
「ところでさあ、姉さん」
グラスのウオクオイ酒をあおったヴァニが、ふと思いついたように口を開いた。
「なに?」
「いつになったらクリスとくっつくのさ」
「っおあっ!?」
突然のヴァニの問いかけに、ペテラは妙に裏返った声を上げた。
「ほら、こないだ聞いたときは、『好きだし命令すれば応じてくれるだろうけど、彼の気持ちにゆだねたい』とか何とか言ってたけどさあ、実際のところ姉さんは迫って拒絶されるのが怖いだけじゃん」
「いや、いやいやそんなこと・・・」
「あるよ。だって本気だったらとっくの昔にクリスの血を吸い尽くして、貴族の仲間入りと婿入りさせてるんじゃないの?でも、召使いとしてならクリスも命令聞いてくれるけど、対等な貴族になったら後はクリスの自由じゃない?そうなったとき、クリスが姉さんを抱いてくれるかどうか確信が持てないから怖いんでしょ」
ペテラは手を伸ばすと、ウオクオイ酒のボトルをとり、手酌でグラスに注いだ。
そして、ドンと音を立ててテーブルの上に置くと、彼女はグラスを唇につけた。
「ぷはあ・・・ほら、正直どうなのさ姉さん」
「いやそのええと・・・ヴァニ、あなた飲み過ぎじゃ」
「話を逸らさない!質問に答えてよ」
ヴァニの矛先を逸らそうとしたペテラの意図は即座に見抜かれ、ヴァニの言葉を荒げることとなった。
「怖いの、怖くないの、どっちなの?」
「そ、それは・・・」
「毎日毎日イチャイチャイチャイチャしてるのを見せつけられる私の身にもなってよ。姉さんたちが夫婦なら、まあ我慢できるけど、主人と召使いで互いに遠慮しながらもイチャイチャイチャイチャされたらいい加減もどかしいよ」
「いや私としてはイチャイチャしてるつもりは・・・って、互いに遠慮?」
ヴァニの口からこぼれた言葉に、ペテラは遅まきながら気がついた。
「互いに遠慮、ってどういうこと?私も、まあ遠慮してるところはあるけど、もしかしてクリスも」
「話を逸らさない!」
ペテラの質問を、再びヴァニは遮った。
「もうさあ、こっちとしてはひっつくかはっつくかどっちかはっきりしてほしいの。夫婦になるか、今のままの関係をずっと続けるか。ほら、どっち!?」
「そ、それは・・・」
ペテラは膝の上で両手の指をくみ、しばしもじもじとしてから、ゆっくり答えを紡いだ。
「もちろん・・・クリスとはもっと・・・その、仲良くというか・・・深い関係になりたいけど・・・でも、クリスは少し一線引いているところがあるから、私の気持ちが一方的だとイヤだし・・・」
「ハイ来ました姉さんの気弱発言!」
酒瓶を傾け、グラスを満たしながら、ヴァニが声を上げる。
「そこでさあ、もっと自信持てないの?『クリスが私のこと好きかどうかわからないから、好きになるよう努力する』とか」
「そ、そんなこと・・・ほら、私、クリスから言われてるみたいにその、お腹とか・・・」
「そこでやせようと言う努力しないわけ?そうでなくても、豊満な体つきだと自信を持って、アタックしかけるぐらいはできるでしょ?」
ヴァニはグラスをつかむと、唇に押し当てて一気に呷った。
「結局のところ、姉さんはクリスの本心知るのが怖いんだよ。姉さんの臆病者!根性なし!チキン!ニワトリ!コッケ!コッケコッコケココッコー!」
「うぅぅ・・・」
妹の口から怒濤の勢いで放たれる、勇気のないものをこき下ろす文句に、ペテラは涙目でうめいた。
ヴァニの言うことはペテラの核心を突いており、反論のしようがないからだ。
「ほら、言いたいことがあるなら言いなよ。私はチキンじゃない!って反論して、とっととクリスにアタックしなよ」
ヴァニはペテラを煽るが、ペテラはテーブルの上でうなだれ、肩を小さくふるわせるばかりだった。
「はーあ!全く、ここまで言われても立ち上がりもしないだなんて!こりゃとんだ根性なしを姉に持ったなあ!」
「う、うぅぅ・・・」
実の妹からの罵倒めいた言葉に、ペテラの頬を熱いものが伝った。
嗚咽とともに溢れるそれは、自信の情けなさを改めて認識したが故の涙だった。
「ほら姉さん。泣いてても何にもならないよ?とっとと告白しないと、わた」
「失礼します」
かちゃり、と食堂の扉が開き、クリスが姿を現した。
「デザートをお持ち・・・どうしました?」
二つの器が乗ったお盆を手にしたクリスが、食堂の雰囲気に困惑した。
無理もない。うなだれて涙を流す主人に、酒瓶を手にした主人の妹。二人の醸し出す雰囲気に、彼はどうしたものかと逡巡した。
「あ、いいところに」
ヴァニは座った目で召使いの姿をとらえると、テーブルの一角を指さした。
「クリス、座って」
「しかし、洗い物が・・・」
「座って」
「はい」
ヴァニの言葉に混じる妙な威圧感に、クリスは二度目の命令に従った。
デザートの乗ったお盆をテーブルに置き、空席に腰を下ろす。
「それで、一体何が・・・」
「実はねえ、姉さんが根性なしだという話をしていたの」
これまでの経過を説明しようと言うヴァニの言葉に、うつむいていたペテラの肩が震えた。
「毎朝毎夕、コルセットがどうの生活態度がどうの指導する振りしてイチャイチャイチャイチャ。片方が体調崩したらあからさまに動揺して心配して必死に看病して。ねえ、あんたらなに?夫婦?」
「俺としてはただの主従」
「今私が話してるんだけど」
「はい」
クリスは唇を閉ざした。
「正直さあ、こっちとしては主従以上夫婦未満恋人以下みたいなやりとり交わされるの見せつけられて、限界なのどっちかはっきりしろって言いたい」
ぐわし、と酒瓶を鷲掴みにすると、ヴァニはついにその口に唇を押し当て、瓶の底を天井に向けた。
重力によって、半ばほど残っていた酒が彼女の口に流れ込み、細い喉を上下に動かしながら、体内へ入り込んでいった。
「あ、あ、あ・・・ヴァニ様・・・!」
見る見るうちに減っていくウオクオイ酒に、クリスがイスから腰を浮かしながら声を漏らした。
だが、ヴァニは彼の言葉に止まるどころか、ますます瓶を傾け、ついに瓶底と天井を平行にした。
「ぶはぁ・・・あ、何よ?」
酒瓶を空にしたヴァニが、げっぷを一つ挟んでそうクリスに問いかけた。
「いえ・・・もう、結構です」
「何?お酒飲み干されて残念だ、っていいたいの?全く、酒がなくなったぐらいでピーチクパーチク・・・男らしくないねえ」
やれやれと頭を振りながら、ヴァニはため息をついた。
「男らしくないといったらあなたもねえ、クリス。あれ、ええと・・・何だっけ・・・ええと・・・」
天井を見上げ、妙にろれつの回らない様子で思い返しながら、ヴァニはそう繰り返した。
「ええと、そのあれ・・・あの・・・何だっけ・・・」
思い出せそうで思い出せない、という様子を繰り返してから、彼女はため息をついた。
「あー、何言うか忘れた。もー、言いたいことはいくらでもあるけど、もういい」
彼女はそう言ってから、テーブルの皿を押し退けてから突っ伏した。
「疲れたから寝るわ」
「ちょっと、ヴァニ」
「ご主人」
ペテラは早くもいびきをかき始めた妹に声をかけようとするが、クリスが押しとどめた。
「今目を覚まさせては、面倒です」
「そ、そうね・・・」
先ほどまでのヴァニの言動を思い返し、ペテラは無意識のうちに浮かしていた尻を、イスにおろした。
「でも、急にどうしたのかしら?」
「ウオクオイ酒は少し強いですからね・・・最後の一気が効いたのでしょう」
クリスはイスをたつと、ヴァニのそばに歩み寄り、その呼吸を確かめた。
「とりあえず、部屋にお運びして寝かせましょう」
「わかったわ。じゃあ私が扉開けたりするから、クリスが運んで」
「かしこまりました」
眠るヴァニを抱え揚げ、クリスはゆっくりと歩きだした。
「・・・ところで、クリス」
「何でしょう?」
「もしかして・・・聞こえていた?」
「・・・・・・さあ、何のことやら」
ペテラの問いに、クリスは曖昧に答えた。
「そう・・・」
彼女は召使いの返答に少し胸をなで下ろしながらも、きっかけを逃したような思いに捕らわれた。
もし、クリスがすべてを聞いていたなら。
もし、ヴァニが先ほどクリスに問いを続けていたなら。
自分は、クリスに想いを告げられたかもしれない。
「ペテラ様」
「ひゃっ・・・!?」
もし、を考えていたペテラが、クリスの声に驚く。
「俺は何のことだかよくわかりませんが、俺は待ってますよ」
「・・・そう・・・」
もしかしたら、知っているのかも。
クリスの胸の内に、そんな推測が浮かぶ。
「じゃあ、私も待ってるから」
ペテラは、彼が一体何を意図しているのかわからなかったが、それでも自分の決意を口にした。
「・・・そうですか」
クリスは彼女の返答に、少しだけ、ほんの少しだけ唇の端を上げながら、そう応じた。
(7)祝おう
屋敷の厨房に、いい香りが立ちこめていた。
鍋の中で野菜と肉が踊り、煮汁の味と香りを取り込んでいく。
フライパンにやや多めに注がれた油の中で、衣をつけた肉が音を立てながらキツネ色に揚がっていく。
「・・・・・・」
クリスは、静かに料理が仕上がっていく様子を見ていた。
だが、彼の手は動いておらず、厨房に置かれたテーブルに座っており、調理台の前にすら立っていなかった。
なぜなら、ペテラから今日は座っているように、と言い渡されたからだ。
「姉さん、ドレッシングできたよ」
調理台の一角で、油と酢と塩胡椒を混ぜ合わせていたヴァニが、姉の方を振り返る。
「じゃあ、サラダにかけて満遍なくいきわたるように混ぜておいて」
「はーい」
ボウルに盛られていた、一口大に刻まれた数種の野菜に、ヴァニは器の中のドレッシングを回しいれ、底の方からひっくり返すようにしてかき混ぜた。
そうしている間にも、ペテラはスープをかき混ぜ、フライパンで肉を揚げ、小鍋でソースを作っている。
「さて・・・」
ヴァニはボウルから皿にサラダを移し、テーブルへと運んできた。
「はい、サラダお待たせ」
「ありがとうございます、ヴァニ様」
「いいよ。私は適当に野菜刻んで、ドレッシングと和えただけだから」
クリスの感謝の言葉に、ヴァニは小さく手を振った。
「それより、姉さんのほうがよっぽどがんばってるよ。揚げ物にスープに、同時に作って」
言葉とともに調理台の方を見ると、いつものドレスにエプロンをつけたペテラが、スープの味見をしていた。
フライパンの火は消えており、厚手の紙をしかれた皿の上で、揚げられた肉が静かに油を落としている。
「正直、姉さんって料理できないと思ってたよ」
「確かに普段作られていませんから、そう思われるのも仕方ありませんね」
姉を見直したヴァニに、クリスが頷く。
「もっとも、俺がこの屋敷で勤めだした頃は、料理のりの字もわかっていなかったほどでしたが」
「そうなの?」
「ええ、張り切って厨房に立ったはいいけど、鍋を焦がす、包丁で指を切る、卵を落として割るなど、基本的な失敗はほとんどされましたね」
当時のことを思い出しながら、クリスは続けた。
「でも、それでも俺のために料理を作りたい、とおっしゃられたので、俺が教えることにしました。一品ずつ順番に作ることから初めて、あいた時間に次の料理の準備をする。ご主人の上達は目を見張る早さでしたよ」
「そうなんだ」
普段の姉からは想像もできないが、こうして厨房に立つペテラの背中を見ていると、ヴァニはクリスの言葉に信憑性を感じた。
「おかげでこうして、ご主人の手料理を味わえるようになって・・・感無量、です」
「はーい、できたわよ」
クリスが言葉を切ったところで、タイミング良くペテラが振り返った。
スープの皿とカツレツの皿を手に、彼女は厨房入り口のテーブルに向かう。
「待たせてごめんなさいね」
「おかげでよりおいしくいただけそうです」
香りばかり嗅がされていたおかげで、クリスの空腹感は頂点に達しそうだった。
「はい、お好みでソースをかけてね」
カツレツに、小皿に盛られたソースを添えながら、ペテラは配膳を終えた。
サラダにスープに、叩いて柔らかくした肉のカツレツ。
品数としては少な目だが、ペテラとヴァニの手料理には変わりない。
「それじゃあ、クリス。今日まで働いてきてくれてありがとう」
エプロンを脱ぎ、イスに腰を下ろしたペテラが、にっこりと微笑みながらクリスに向けて口を開いた。
「これからも、よろしくお願いね」
「こちらこそ、ご不満や至らぬところがあるかもしれませんが、よろしくお願いします」
召使いとしての勤労への感謝と、今日まで雇ってくれていたことに対する礼。
ペテラとクリスは、主従の間柄を確かめながら、そう感謝を交わしていた。
「さ、冷める前に食べるわよ」
「はい、いただきます」
ナイフとフォークを手に、クリスはそう言った。
カツレツの端をフォークで押さえ、ナイフを入れる。
キツネ色の衣がサクと音を立てて砕け、肉が一口大に切り取られる。
クリスはフォークに刺したそれを口に運ぶと、ゆっくりと味わった。
「ん・・・下味の塩もスパイスもよく効いていて、火の通りも完璧です」
「そう?よかったわ」
クリスの感想に、ペテラはにこにこと微笑んだ。
「うん、本当。サクサクした食感が楽しいね」
ヴァニも姉のカツレツを楽しみながら、クリスの意見に同意した。
そして今度は、カツレツに手作りソースを一匙掛け、もう一切れ口に運んだ。
ソースが衣に染みいり、さっくりとした食感は弱まってしまったが、ほのかな酸味を帯びたソースが味に深みを出している。
カツレツとソースは、以前にクリスが作ってくれたこともあったが、それとはまた違う味わいだった。
「本当に、上達されましたね」
クリスがスープを味わってから、ペテラに向けてそう言った。
「あなたのおかげよ、クリス。あなたが付きっきりでいろいろ教えてくれたから、色々できるようになったのよ」
「でも、ご主人が自ら身につけようとしなければ、ここまで上達はできませんよ」
「そうかしら?私としては、先生がよかったからだと思うけど」
「先生がいいのなら、ご主人はとっくに完璧な貴族になっているでしょうね」
「うぐ」
朝寝坊はする、間食してしまう、体型に油断したところがあるなど、貴族らしからぬ欠点を抱えたペテラは言葉を詰まらせた。
「冗談です。ですが、この料理はご主人が自ら身につけたものだ、と言いたかったのです」
「そ、そうよね・・・ふふ・・・そうよね」
「ではこの調子で、今度は早起きを身につけましょうか」
「うぐぐ」
クリスの一言に、ペテラは言葉を途切れさせた。
表情はこわばっていたが、ヴァニには姉の表情の奥底に、新妻めいた幸せそうなものが宿っているのを、わずかに感じ取っていた。
「・・・・・・」
姉と召使い。二人のやりとりを聞き流しながら、ヴァニはサラダを口に運んでいた。
(8)無くなってわかるもの
ベッドに寝転がり、天井をにらみながら、ヴァニはじっとしていた。
窓の外は薄暗かったが、単に曇天なだけで、時刻的にはまだ昼だ。
ダンピールの鋭敏な聴覚に意識を傾けると、屋敷中の音が聞こえるようだった。
足音や、屋敷自体のたてる軋みに、風が壁をなでる音。そして、屋敷内に響く話し声が聞こえる。
『ご主人、この服は?』
『試してみたら、ちょっと入らなくて・・・』
『またですか?』
『お、お腹は問題ないのよ!?胸よ、胸がきつくて・・・』
『コルセットで腹の肉を胸に持ち上げているからですよ』
『うぐぐ・・・でも、入らないのは事実だし・・・』
『そうであっても、痩せなければならないということには変わりありませんよ』
『そんなこと言ったって・・・』
『ほらご主人、このドレスお似合いでしたよ』
『・・・わ、わかったわ・・・やるわ、痩せるわよ・・・』
『かしこまりました。では本日より食事に制限を掛け、明日から運動を追加しましょう』
『ぐえー』
屋敷のどこかで交わされている、ペテラとクリスのやりとり。
ヴァニは、イヤになるほどそれを聞いていた。
主従と言うには少々なれなれしく、夫婦と言うには少々よそよそしく、ぎりぎり恋人ではないやりとり。
どっちつかずのもどかしい言葉に、ヴァニは胸の奥がくすぶるのを感じた。
二人の態度が、非常に、もどかしい。
先日酔った勢いで、そのことについてヴァニはぶちまけてしまったが、二人の態度に変わりはなかった。
あれだけ言って、互いに好意を抱いているのは明らかだというのに、どうしてああしていられるのだろうか。
旅をしている間、ヴァニは『ジパング人は愛しているとか言う代わりに、月や星がきれいだと言う』と聞いた。
なんでも、直接言わずとも想いは通じあうらしい。
「実は私が気がついてないだけで・・・あのやりとりがそうなのかなあ・・・」
天井を見上げながら、ヴァニはつぶやいた。
クリスが起こしに来るまで惰眠をむさぼり、コルセットで腹を締めあげられながらペテラの体重増加を指摘し、つまみ食いを見咎め、運動中に倒れ込み部屋まで連れ帰られる。そんな日常を送る間に交わされる言葉のすべてが、暗号化された愛のささやきなのだ。
そう思えば幾分気は楽に・・・
「なるわけない」
ヴァニは声に出して、自分の考えを否定した。
仮にその通りであったとしても、主従の関係を装っていることは変わらないのだ。
ヴァニとしては、とっととペテラとクリスがくっつき、夫婦という間柄になってほしい。
そうなれば、三文恋愛小説のような面倒くさい敬語もつかず離れずの態度も気にならなくなる。
だが、どうすればいいのだろうか。
「・・・・・・・・・私がけしかけてみようか・・・」
ふと、彼女の脳裏に、一つの考えが浮かんだ。
しばしの後、ヴァニが屋敷を回っていると、衣装室にクリスの姿があった。
礼服やパーティドレスなど、あまり着ない衣装を保管するための部屋だ。
どうやら、先ほど聞こえてきた会話からすると、ペテラの衣装の整理をしているらしい。
「クリス?」
「これはヴァニ様」
吊されたドレスを並び変えていたクリスが、ヴァニの呼びかけに手を止めて向き直った。
「何かご用でも?」
「いえ、少し話があって、ね」
衣装室に足を踏み入れながら、彼女は答えた。
「失礼ですが、ご主人のドレスの整理中ですので、手を動かしながらとなりますがよろしいですか?」
「いいわよ」
必要なのは、言葉だけ。ヴァニはクリスの条件付けに、うなづいた。
「では、少し失礼します」
彼は並べられたドレスに向かうと、ドレスの一枚を取り、サイズを確かめ始めた。
「それで、ヴァニ様。お話とは?」
「私はあなたのことを好き」
「・・・」
「って言ったら・・・どうする?」
「・・・すこし、びっくりしました・・・」
一瞬手を止めたものの、クリスは続いたヴァニの言葉に、ほっと息をつきながら袖の長さを確かめた。
「ふふ、ごめんね」
「光栄だとは思いますが、少々突然で驚きましたよ・・・」
ドレスの襟首から手を差し入れ、袖の太さを確かめながら、彼はそう言った。
「でも、仮にそう言われたとき、あなただったらどうする?」
「それは・・・まず、困りますね」
記憶にあるペテラの腕の太さとドレスを比べると、彼はドレスを棚に戻した。
「確かに、ヴァニ様から愛の告白があるのは光栄だと思いますが、俺はペテラ様の召使いです。ご主人に伺いを立てなければ・・・」
「姉さんには内緒で、恋人になってほしいって言われたら?」
「・・・俺は、そんな大きな秘密をご主人に隠しきれる自信がありません」
次のドレスを手に取りながら、彼は応じる。
「なら、私から姉さんに言っておくから、つき合わない?」
「しかし、ヴァニ様はご主人の妹君で、俺はただの人間の召使い・・・」
「私だって一度はこの屋敷を飛び出した身よ。いざというときは、メイドとして働くぐらいの覚悟はあるわ」
「ヴァニ様、ご冗談でもそのようなことは」
「本気よ」
少しだけ低くなったヴァニの言葉には、真剣さが宿っていた。
「身分の違いが問題なら、私が貴族をやめてあなたと一緒に働くわ。姉さんが絶対に許さないのなら、またこの屋敷を飛び出すまでよ」
静かに、一歩一歩足を進めながら、ヴァニはクリスに近づいていく。
「私は、姉さんに秘密にしても、メイドになっても、全部捨て去ってもいいってぐらいあなたのことが好き。恋人・・・いや、夫になってほしいってぐらい、好き」
クリスのすぐそば、手の届く距離で、ヴァニは足を止めた。
「そういわれたら、どうするか・・・ですか?」
手にしていたドレスを、どこか上の空の手つきでなでながら、彼はヴァニの言葉を引き継ぐように言った。
「参りましたね・・・そんな、愛の告白を受けるとは、夢にも」
「今度は『どうする?』じゃないわ」
ヴァニは、クリスの言葉を遮った。
「本当にあなたの答えを聞きたいの」
「・・・・・・少し、待ってください・・・」
「待って?どれだけ待てばいいの?私は待てるけど、あなたの方が待てないんじゃないの?」
ヴァニは、そうクリスの考える時間を求める言葉に問いかけた。
「私たち魔物は歳を取るのが遅いけど、人間はあっと言う間に老け込むわよ。姉さんと今のまま、ヴァンパイアと人間の関係でいたら、どうなると思う?後十年もすれば、外見的には父親と娘ぐらいの差がでてくるわ。さらに三十年たてば、おじいちゃんと孫よ。そしてその先は・・・」
「ヴァニ様、俺もそのぐらい承知してます」
「なら、今のままずるずる続けていたら、姉さんが取り残されちゃうのも承知なのね?」
クリスの制止に、ヴァニは問いを叩きつけた。
「でも、私だったらすぐに・・・そう、この場でもあなたを私たちの仲間にして、ずっと若いままでいさせてあげる。姉さんは根性なしだから、あなたと最後の一線を踏み越えることはないわ。でも、私は違う。あなたに永遠をプレゼントして、ずっと姉さんと一緒に過ごせるようにしてあげる。その代わり・・・」
ヴァニは、一瞬間を空けてから、続けた。
「あなたの側にいさせてほしいの、クリス」
「ヴァニさ・・・っ!?」
クリスが彼女の名を呼びながら向き直ろうとした瞬間、彼の肩をヴァニはつかんだ。
そして、人間離れしたダンピールの力で、クリスの体は易々と壁に押しつけられた。
「根性なしの姉さんが告白してくるのを待っておじいちゃんになるのと、今この場で私と一緒になって、ずっと姉さんの側にいられるの・・・どっちがいい?」
後少し背伸びすれば、唇を重ねられる。
そんな距離まで顔を近づけて、ペテラは囁くように問いかけた。
「ヴァニ様・・・俺は、ご主人に・・・」
「そう、それは残念ね・・・」
ヴァニはクリスの返答の断片に、小さくため息をついた。
「無理矢理はあまりしたくなかったけど」
その一言にクリスの表情に緊張が走る。瞬間、ヴァニの顔がクリスに近付き、赤い唇が触れた。
「ん・・・」
クリスは唇に触れる感触に、小さく声を漏らしてから、顔を離した。
「・・・逃げたわね?」
「失礼しました」
ヴァニの不意のキスに対し、クリスはとっさに顔を背けて対抗していたのだ。
「女のキスから逃げるなんて、男じゃないわね」
「何とでもおっしゃってください。ですが、俺はご主人のものです。ご主人を悲しませるようなことは、したくありません。ですからヴァニ様、離してください」
「へえ、今のまま老け込んで、姉さんを一人にするのは」
「ヴァニ様、離してください」
クリスは、そう重い声音で繰り返した。
「・・・そう・・・そこまで言うのなら・・・」
「クリスー」
ヴァニがクリスの肩から手を離そうとした瞬間、ペテラの声が響いた。
「とりあえず、部屋の明らかに入らないドレスと入りそうなドレスを・・・ヴァニ・・・?」
衣装室をのぞき込んだペテラが、ヴァニとクリスの姿に言葉を切った。
「なに、してるの・・・?」
「やあ姉さん。実はついさっき、クリスから熱烈な告白を」
「ヴァニ、黙りなさい」
いつになく鋭い口調で、ペテラが命じた。
「クリス、なにがあったの?」
「それが・・・」
「正直に答えて」
「・・・・・・ヴァニ様から、愛の告白を受けていました」
クリスは端的に、状況を説明した。
「そう・・・」
ペテラの声が、急に冷えていった。
だが、彼女の瞳に宿る炎は、むしろ勢いを増していた。
「クリスには快く受け入れてもらったよ。姉さんさえよければ、私がメイドとして屋敷で勤めてあげるけど?」
「嘘はやめなさい、ヴァニ」
「へえ?何で?信じたくないのはわかるけど、クリスの気持ちを・・・」
「受け入れてもらったのなら、何であなたはそんなに泣きそうになってるの」
「・・・・・・」
ペテラの指摘に、ヴァニはようやく自分の視界が、涙に滲んでいることに気がついた。
知らぬうちに目頭が熱を帯びており、涙があふれそうになっている。
「・・・これは・・・」
ヴァニは自分の涙に動揺しながらも、どうにか答えを紡いだ。
「これは、哀れみの涙よ。クリスってば、人間のまま老けていくことを選んで・・・馬鹿みたいだって・・・」
ヴァニの言葉はいつしか言い訳に変わり、声も徐々に不明瞭になっていく。
涙を自覚した瞬間、急に呼吸が詰まり始めたからだ。
「姉さん、クリス・・・さようなら」
最後にそう言い捨てると、彼女はクリスから離れ、駆けだした。
衣装室の入り口にたっていたペテラを突き飛ばすように押し退け、ヴァニは廊下に飛び出す。
「ヴァ、ヴァニ!」
ペテラがそう彼女を呼ぶが、ヴァニは振り返らなかった。
廊下を駆け抜け、玄関を出て、彼女は走り続けた。
灰色の空の下、ヴァニは屋敷に背を向け、麓の町に向けて走っていた。
(9)さよならは言わない
空が灰色だった。
分厚い雲が空を覆い、上空の風がうねりを描く。
よくよく目を凝らせば、幾重にも筋やうねりの織り重ねられた雲の下に、町があった。
頂に屋敷が構えられた丘の側、そこそこの広さの町の通りの一本に、一人の女の姿があった。
金髪に、整った顔立ちの若い女だ。
彼女は特になにをするでもなく、路地の壁に背中を預け、ぼんやりとしていた。
「・・・・・・」
小さく腹が鳴り、彼女は声もなくため息をついた。
食事をしたいが、財布は丘の上の屋敷においたままだ。今から屋敷に戻ることもできないため、無一文である。
あのときは思わず飛び出してしまったが、もう少しものを考えるべきだった。
ヴァニは、昨日の自分に対し、呆れを覚えていた。
いつまでも中途半端な関係を続ける姉と召使いを進展させるため、ヴァニはクリスに言い寄った。
クリスが少し自分に傾いていると姉に知らせることで、ペテラのクリスに対する独占欲を強めようとしたのだ。
「あーあ、こんなはずじゃなかったのに・・・」
ヴァニがクリスに言い寄り、クリスが若干困っているところにペテラが出現。
妹と召使いがくっつきそうなところにペテラの嫉妬心が爆発し、『だめー!』などと言いながら本心を吐露。
晴れてペテラとクリスが両想いであることが判明し、二人は自分の気持ちに正直に。そしてヴァニは気持ちよく屋敷を後にする。
そのはずだった。
だが、実際は違った。
クリスは言葉こそ丁重であったが、ヴァニを完全に拒絶していた。
ペテラはヴァニの姿に一瞬驚きはしたものの、鋭く冷静にヴァニを問いただした。
そしてヴァニ自身も、偽りの告白であったはずなのに、クリスの拒絶が胸に深く深く突き刺さっていた。
何もかもが、ヴァニの予想と違っていた。
クリスは予想以上にペテラに一途だった。
ペテラは予想以上にクリスを信頼していた。
そしてヴァニは予想以上に、クリスに対して強い感情を抱いていた。
姉と召使いをくっつけるため、と自分自身にも偽りながら告白し、失敗前提だと予防線を張っていたにも関わらずぼろぼろ泣いて、着の身着のままで屋敷を飛び出した。
三文恋愛小説でもそうそうない、頭の悪い行動だ。
「さて、どうしようかなあ・・・」
今のままの関係では、ろくな未来にならないと言い捨てて飛び出したため、もう屋敷に戻ることはできない。
だが無一文のため宿はもちろん、食事をすることもできなかった。おかげで飲まず食わずで一睡もせず、夜を過ごすこととなった。
そろそろ何らかの手段で金を手に入れて体を休めさせなければ。
多少腕には自信があるため、この町を離れる商人の護衛でもしようか。
前金をもらえば食事ができるし、この町からも離れられる。
ペテラとクリスに別れを言うことはできないが、今更顔を合わせることもできない。
「とりあえず、仕事を探そう」
彼女は路地の壁から背中を離すと、通りに出た。
灰色の空の下、行き交う人々はどこか急ぎ足で、それぞれの目的地を目指していた。
ヴァニは人の間を縫うように通り抜け、大きな宿屋に入った。
そして一階の食堂の壁に歩み寄り、張り出された求人票をざっと眺める。
『急募:調理師 経験者優遇』
『荷物の積み卸し作業員求む』
『短期契約 事務職』
『歌手、ダンサー募集中 審査あり』
求人は様々だったが、いずれも給与は後払いで、ヴァニの求める条件に合うものはなかった。
「飲食店の店員なら、まかないが出るかなあ・・・」
とりあえず食事にはありつけるかもしれないが、住む場所をどうしようか。
食事にありつけても無一文のため、木賃宿に泊まることすらできない。
条件をゆるめながら、仕事を探していると、宿屋の従業員の男が紙を手にやってきた。
「ちょっとごめんよ、新しいのが入ったからね」
男はヴァニの横から手を伸ばし、壁に新たな求人票を貼り付ける。
ヴァニはその内容をざっと読み、目を見開いた。
『護衛求む 腕に覚えのある者歓迎 前金二割』
ヴァニが捜し求めていた条件がそのまま、そこに書いてあった。
「ちょ、ちょっと!」
ヴァニは立ち去ろうとする男の肩をつかみ、求人票を指した。
「この仕事したいんだけど、大丈夫!?」
「ん、やるのか」
彼は今し方貼ったばかりの求人票とヴァニを見比べ、少し肩をすくめた。
「悪いが、お嬢ちゃんにはちょっと」
「大丈夫だって、こう見えてあっちこっち旅してきたから」
今は無一文で荷物もないが、腕には覚えがある。それに前金で装備を調えれば問題はない。
「まあ、自信があるのはいいが・・・審査あるらしいぞ?」
「いいからお願い」
いい加減空腹でたまらないのだ。早いところ仕事を手に入れ、前金で食事をしたい。
「じゃあ、こいつを持ってこの場所にな」
男は求人票をはがすと、受付場所を軽く指した。
「これ持っていけば大丈夫だが、念のためウチからの紹介だって言っておいてくれ」
「ありがとう」
ヴァニは求人票を受け取ると、彼に礼を告げ、宿屋から飛び出していった。
求人票に記されていたのは、町の中心近くの貸し広間だった。
大きなパーティや講演など、様々な用途に用いられる場所だ。
ヴァニは急ぎ足で通りを抜け、あたりに注意を払いながらも町の中心を目指した。
まずないだろうが、ヴァニを探すペテラやクリスに見つかると、面倒だからだ。
このまま二人に会うこともなく、町を離れたい。
すると、彼女の注意もあってか、ヴァニは二人はもちろん、彼女を捜す者にも出会うことなく、貸し広間に着いた。
開かれた玄関をくぐり、静かに求人票に記された一室に向かう。
扉には部屋番号以外に何の掲示もなかったが、彼女は手元の求人票と部屋番号を見比べ、ドアノブに手をかけた。
軽くノブを回し、扉を開く。
すると、薄い照明と並べられたいすが彼女を迎えた。
「すいません、失礼します」
そう声を出しながら部屋にはいるが、何の反応もなかった。
見れば部屋は無人だった。早く着きすぎたのだろうか。
「・・・ちょっと待つか・・・」
いすが並べられているところを見ると、少なくとも何か行われる予定ではあるらしい。
ヴァニは後ろ手に扉を閉め、イスの一つに腰を下ろした。
屋敷のソファに比べれば堅いが、それでも柔らかなクッションが彼女の尻を受け止めた。
「ふぅ・・・」
ようやく人心地がつき、彼女は静かにため息をついた。
あとは、以来主か代理人が来るのを待ち、その眼鏡にかなうことを証明すれば前金がもらえる。
そう考えていると、今し方閉じた扉が、かちゃりと音を立てた。
「待たせたわね」
「すみません、勝手に・・・」
響いた女の声に、ヴァニは扉の方に顔を向け、表情をこわばらせた。
戸口にたっていたのが、ペテラだったからだ。
「ね、姉さん・・・」
「多少待つかと思ったけど・・・こう早いとは思わなかったわ」
ペテラは扉を閉め、イスの一つを手に取ると、ヴァニの向かいに腰を下ろした。
「な、何で姉さんが・・・」
「私が・・・いえ、クリスが求人を出したからよ」
「でも、依頼主は・・・そうか、偽名・・・」
求人票には、姉やクリスとは全く関係のない名前が書いてあったが、額面通りに信じたヴァニの方が間抜けだった。
「あなたが飛び出していった後、クリスが追いかけていったのよ。それから少し探したらしいけど、見つからなくて」
「それもそうだね」
町に着いた後、ヴァニは路地に身を隠していた。クリス一人で見つけられるはずもない。
「人手を使うことも考えたけど、あなたを確実に見つけられる自信はなかったわ。それでクリスが、あなたが着の身着のままで出ていったから、前金付きの仕事を探すはずだって」
「それで、ニセの仕事を作って、あっちこっちの酒場に出したわけだね」
クリスの策に面白いようにはまったことに、ヴァニは苦笑した。
「それで、何?私を捕まえて、何をしたいの?私が無理矢理クリスにキスしたことを聞いて、頭に来たの?」
「違うわ」
ペテラは軽く頭を左右に振ると、続けた。
「謝りたいの。ごめんなさい」
「・・・・・・何で?」
突然のペテラの謝罪に、ヴァニはしばし放心してからそう紡いだ。
「あの後・・・いえ、一度クリスが戻ってきてからいろいろ話し合ったの。それで、前々からあなたをいらだたせていたのが、やっとわかったの」
「・・・・・・それで?」
「・・・私たち、結婚することにしたわ」
ペテラは、一瞬間を挟んでから答えた。
「あなたの言うとおり、私たちは中途半端で・・・いずれ、別れる運命だったわ。人とヴァンパイアでは、過ごせる時間が違うもの」
昨日のヴァニの言葉を思い返しながらだろうか、彼女は続ける。
「私もクリスも、今までの関係が心地よかったの。いえ、心地いいと思いこんでいたの。自分の想いを露わにして、今までが崩れてしまうよりも、今のままでいた方がいいと思いこんでいたの」
「・・・・・・」
ヴァニは、無言のまま姉の言葉を聞いていた。
「でも、それじゃだめなんだって、やっと昨日あなたの言葉でわかったのよ。だから・・・私たちは気持ちを確かめあったの」
「それで、結婚というわけ・・・」
「・・・」
ペテラは口を閉じたまま、しかし表情を少しだけ和らげて頷いた。
「そう・・・おめでとう」
ヴァニの口から、ごくごく自然に祝いの言葉が紡がれた。
昨日、クリスに拒絶されたときのような胸の痛みも、言葉の詰まりもなかった。
ペテラとクリスが、やっと一歩を踏み出す。
そのことに対する安堵感と祝福の方が大きかった。
「姉さん・・・」
「なに?」
「ほんとはね・・・私もクリスのこと、少し好きだったんだよ」
「・・・知ってるわ」
昨日あれだけ泣いたのだ。姉が察しないはずがない。ヴァニは苦笑した。
「でも、あなたには謝らないわよ?」
「うん。姉さんが先だったし、クリスが選んだのも姉さんだし、何も言わない」
子供の頃から、ペテラとヴァニはよく比べられていた。
多くのことについて、ヴァニの方がペテラより勝っていた。
ペテラが完敗したのは、チェスに続いて二度目だった。
「でも、屋敷は出て行かせてもらうよ」
「え?どうして・・・」
「姉さん、横恋慕とはいえ、恋敗れた私とその想い人を同じ屋根の下にすませていいと思ってるの?」
「あ・・・」
ヴァニの指摘に、ペテラはようやく二人の関係が少し変わったことを悟ったらしい。
だがそういうところが、クリスの好みなのだろう。
「それに、新婚さんの夫婦水入らずに首突っ込むほど、私も図太くないしね・・・」
「新婚さんって・・・結婚はまだよ」
「うん?でも、さっき・・・」
「ああ、あれね」
怪訝に首を傾げるヴァニに、ペテラは苦笑いしながら答えた。
「結婚は決めたけど、それは私がクリスにふさわしい女になってから、よ」
「ええと、つまり・・・」
「もうしばらく、今の関係が続くわね」
ペテラの言葉に、ヴァニは全身を疲労感が襲うのを感じた。
「ちょっと、ヴァニ・・・どうしたの?」
「いや、ちょっとね・・・」
せっかく、二人のもどかしいやりとりに区切りがつくと思ったのに。
ヴァニは心配する姉に向けて軽く手を振りながら、胸中で呟いた。
(X)おめでた(い)
朝、ヴァニは厨房の入り口近くのテーブルについていた。
ポタージュスープをパンに浸しながら食べていると、厨房の入り口に、ペテラがのっそりと姿を現した。
「おはようー」
「おはようございます、ご主人」
姉の分の朝食を準備していたクリスが、手を止めてそう口を開く。
「おはよう、姉さん」
「んー、おはよー・・・」
ペテラは生返事をすると、眠たげに目をこすりながら、ゆっくりと自分の席に腰を下ろした。
「ご主人。お目覚めになられたら、もう少し身だしなみを整えてから降りてきてください」
「んー?いいわよー、しゃんと目が覚めたらやるからー」
本格的に眠気が残っているのだろう。若干寝癖の残る髪を、彼女は適当に手櫛で整える素振りを見せた。
「それより、一人で起きてきたことをほめてよー」
ペテラは、そうクリスに賞賛をねだった。
事実、ここ最近ペテラは一人で起きるようになった。
以前の、毎朝クリスに起こしてもらい、身だしなみを彼の手を借りながら整えていた頃とは大違いだ。
しかしクリスの手を煩わせなくなった一方で、彼女は朝、身だしなみを気にしなくなった。
朝食を終えたころには目が覚め、一人で整えられるというのは彼女の弁であったが。
「確かに、早起きに関してはよくやられてます」
「えへへー」
クリスの賞賛に、ペテラが目を細める。
「ですが、それは身だしなみをおろそかにしていいという意味ではありません。お客様が宿泊されたとき、そんな格好でお客様に会えますか?」
「んー?そんなの大丈夫よー」
「大丈夫じゃないです。お客様にだらしないところを見られては、ご主人の威厳も台無しで、結婚後も『あそこの嫁はだらしない』と噂されますよ」
「・・・わかったわ。改めるわ」
ペテラはイスに腰掛け直すと、軽く両手で頬を打った。
「考えてみればそうよね。私が謗られるのは当たり前だけど、私を通じてあなたまでけなされるかもしれないわ」
「俺は別に構いませんが」
「私が構うのよ。私はともかく、あなたが私のことで中傷されるのはいやなの」
「そうですか。ならば、行動で示していただきたいですね」
「そうするわ」
ペテラは頷くと、スープの器に口を付けた。
ヴァニは無言のまま、ただ二人の会話を聞いていただけだった。
そして翌朝から、ペテラは一人で身だしなみを整えてから、一階に降りてくるようになった。
何でも起きる時間を少し早め、身だしなみを整えながら眠気を追い出す時間を作ったらしい。
ヴァニは、姉の態度の改め具合に、内心舌を巻いていた。
以前ならば、改めると口で言いながら何もしなかったり、多少変化してもずるずると元に戻ったりしていたのに。
『私が立派な貴族になったら、クリスが私の側からいなくなりそうだ』というのは姉の言葉だった。
だが、二人が婚約を交わした今、ペテラにはクリスがいなくなる心配はなかった。
彼女の行く先にそびえるのは、結婚というゴールで、ペテラはそこに向かって着実に足を進めていた。
以前よりも、甘い空気をあたりに振りまきながら。
「クリス!やった!コルセットつけずにドレスが着れた!」
居間で、ヴァニが本を読む傍ら、クリスが暖炉の掃除をしているところに、ペテラはそう大声を上げながら駆け寄った。
ヴァニが本のページから目を離し、ペテラの方を見てみると、確かに彼女のドレスの腹周りのラインが変化していた。
コルセットの作り出す直線的なラインではなく、布地の内に肉を詰め込んだ、曲線的なラインにだ。
「それはおめでとうございます」
暖炉を掃除する手を止め、クリスはペテラに向けて振り返った。
「ほら、クリス触って触って!」
コルセットの固い感触ではなく、自身の柔らかい腹肉を確かめさせようと、ペテラがクリスの側に歩み寄った。
「いまは手が汚れていますから・・・」
「じゃあ肘でつつくだけでもいいから」
「触らずともわかります。それに、むやみに異性に腹を触らせようとするのは・・・」
「クリスだから触らせるのよ。旦那様なら、もっといろんなところに触れるでしょ?」
「そう言われましても・・・」
クリスはやれやれとばかりにため息をついた。
だが、ため息をつきたいのはヴァニの方だった。
二人が婚約してからと言うものの、二人のやりとりは悪化するばかりだった。
ヴァニの目を気にすることなくペテラが甘え、クリスもまんざらではない様子でそれに応じる。
二人としては楽しいのかもしれないが、ヴァニからすれば正直うるさいことこの上ないのだった。
二人の中途半端に甘いやりとりを聞く内、ヴァニは眉間にしわが寄り、口がへの字に湾曲していくのを感じていた。
正直なところとっととこの屋敷を離れたいのは山々だが、先立つものが足りないのだ。
旅をするには金がかかるが、ヴァニが個人的に持っている金では少し心細い。
時折町まで降りて簡単な仕事をして貯金しているが、目標金額までもう一月はかかりそうだった。
それまで、ヴァニの正気が保てばいいのだが。
「ほらクリス、柔らかいわよ」
「柔らかいのはわかりましたから、今度は引き締めるように努力しましょうね」
「ええ?でも男の人って、ガリガリのやせ細った女より、少し肉感的な方がいいって・・・」
「それは少し、の話です」
「そんな・・・」
「・・・・・・」
聞くに耐えないやりとりを聞き流しながら、ヴァニが本のページをめくろうとした瞬間だった。
「わた・・・しっ・・・っ・・・!?」
不意に、ペテラが言葉を詰まらせ、しゃっくりでもするときのように全身をひくつかせはじめた。
「っ・・・!・・・っ・・・!?」
「ご主人?どうされました?」
クリスの声に宿った心配そうな様子に、ヴァニが目を本からはずすと、口元を手で押さえるペテラの姿が目に入った。
目は苦しげにゆがみ、一つ肩が上下する度に彼女の背中が丸くなっていく。そして少しずつ、彼女のけいれんの感覚が狭まっていた。
「っ・・・!・・・っ!っ!」
「ご主人・・・これを・・・!」
彼女のひざが曲がり、前屈のような姿勢になっていく間に、クリスは暖炉の傍らに置いていたバケツを手にとった。
暖炉の埃や灰を入れておくためのそれをペテラに差し出すと、彼女は両手でそれをつかんだ。
「・・・げえ・・・」
両手でバケツを抱え込み、顔を押しつけるようにしながら、彼女の口から苦しげな声が漏れた。
「げえ・・・うええ・・・うえ・・・」
「ご主人、大丈夫です・・・ほら、我慢なさらず・・・」
バケツを支え、ペテラの背中をなでながら、クリスはそう彼女を落ち着かせるように声をかけた。
「ね、姉さん?」
不意に嘔吐を始めた姉に、ヴァニは心配そうにソファから腰を浮かした。
「ヴァニ様、ご気分はいかがですか?吐き気や腹痛は?」
「いや、全く・・・」
「昨日から今朝までの間に、ご主人だけが何か召し上がっているのをごらんには?」
「ええと・・・少なくとも私は見てない・・・」
突然の問答に、ヴァニはと戸惑いながら答え、遅れてそれがペテラの嘔吐の原因を探っていることに気がついた。
「げえ・・・うええ・・・うえ・・・はあ、はあ、はあ・・・」
ペテラがバケツから顔を上げ、目に涙を浮かべながら呼吸を整え始めた。
「ご主人、お口を」
粘つく液体の張り付く赤い唇に、クリスが自分のハンカチを軽く当てた。
「大丈夫ですか?」
「ちょっと・・・すわ、らせて・・・」
呼吸を乱れさせたまま、ペテラはそうクリスに求めた。
「では、こちらへ・・・」
クリスは彼女の肩を抱くようにしながら、居間のソファにまでペテラを導き、座らせた。
柔らかなクッションが彼女の尻を受け止めた。
「はぁ・・・はぁ・・・」
ペテラは背もたれに体重を預け、ほぼ仰向けの姿勢になった。
「ヴァニ様。俺はこれからいくらか準備をしてきますので、ご主人をしばらく見てください」
「わ、わかった」
クリスの求めに、彼女は頷いた。
「替えのバケツをとってきますので、いざというときはこれで」
彼は今し方までペテラの使っていたそれを示すと、足早に居間を飛び出していった。
「はぁ・・・はぁ・・・」
「ええと・・・姉さん、大丈夫?」
とりあえず、何をすればいいのかわからないため、ペテラはそう声をかけた。
「あ、無理に返事はしなくていいから」
「はぁ・・・はぁ・・・」
ペテラは小さく頷いた。
どうやら、意識がもうろうとするほどではないようだ。
「ちょっと、熱を計るね」
ヴァニはペテラの額に手を触れさせた。少し熱く感じる。微熱といったところだろうか。
「ふん・・・姉さん、寒くない?」
風邪か何かの引きはじめで、胃が弱っているのかもしれない。だとすれば微熱に伴う寒気もあるはずだと踏んで、ヴァニはそう問いかけた。
「寒くは・・・ないわ・・・でも、ちょっと飲み物が・・・」
「喉が渇いたの?」
「ん・・・」
ペテラは小さく頷いた。
「もうすぐクリスが、いろいろ持ってきてくれるからね。水もあるはずだから・・・」
「水、じゃないの・・・」
ペテラは首を小さく左右に振った。
「レモン・・・食べたい・・・」
「レモン?」
その一言に、ヴァニは口の中に酸味がわき起こるのを感じた。
「え・・・?なんで・・・」
「レモンじゃなくても、ライムとかグレープフルーツとか・・・」
柑橘系の、酸っぱい果物の名前ばかりが並んでいく。
つまり、酸っぱいものが食べたいということだ。
嘔吐、微熱、酸っぱいものをほしがる。
「ええと」
姉の症状に、ヴァニは一つの可能性を脳裏に思い浮かべた。
「お待たせしました!」
居間の扉が音を立てて開き、両手に荷物を抱えながらクリスが入ってきた。
新しいバケツに、タオルが数枚に、毛布に水差しに洗面器にコップ。
とりあえず必要そうなものがそろっていた。
「ご主人、まずはうがいをしましょう。さあ、お口を」
「ああ、クリス・・・」
ペテラの口に水を含ませ、洗面器を差し出すクリスに、ペテラが問いかけた。
「何ですか、ヴァニ様?」
「吐き気と微熱と酸っぱいものをほしがると聞いて、何を思い浮かべる?」
「それは・・・やっぱり妊娠の初期症状では。さ、ご主人、吐いて」
うがいを終えた水を洗面器で受け止めながら、クリスが答える。
「しかし、なぜ突然・・・」
「いやね、姉さんが・・・」
「・・・・・・・・・ご主人が?」
ペテラの口元をタオルで拭いながら、クリスが言った。
「ご主人が?微熱?」
「うん」
「酸っぱいものを?」
「うん」
「・・・・・・・・・・・・・・・ご主人、吐き気は?」
クリスの問いかけに、ヴァニは頷いた。
「そう、ですか・・・いや、ええと・・・・・・」
「身に覚えが?」
「いや・・・その・・・ああ、あのときか」
クリスはしばし逡巡してから、頷いた。
「ご主人・・・いや、ペテラ」
クリスは洗面器とタオルを置いて、ペテラのそばにひざまづくと、彼女の手をとった。
「順番がちょっと入れ替わったけど、結婚しよう」
「・・・・・・」
彼の求めに、ペテラは言葉もなく顔を上下させた。彼女の目元には、嘔吐の時とは違う涙が滲んでいた。
「ああ、ええと・・・ちょっと、町までお医者さん呼んでくるね」
ヴァニは、見つめ会う二人を残して、そう居間から出ていった。
あの場にいられるほど、ヴァニも図太くはないのだ。
「ははははは、それで実はただの食中りだったのか、わははははは」
町から医者を連れてきて、ペテラを診察させた後、判明した結果にヴァニは笑った。
爆笑とは少し違う、乾いた笑い声だった。
「全く・・・ダイエットなさっていたのは結構ですけど、我慢できず夜中に厨房からチーズをくすねるだなんて・・・」
「ごめんなさい・・・反省してます・・・」
クリスの言葉に、ペテラはソファに腰掛けたままうなだれた。
「処分する予定だったものを放置していた俺も悪いですが、臭いとかでわかりませんか」
「いやあ、そういうチーズだと思って・・・」
「ははははは、あるよね、そういうチーズ、わははははは」
「やはり、食事制限だけのダイエットは無理があるのですよ」
クリスはため息をつきながら続けた。
「やはり、運動メニューも込みのダイエットスケジュールを組みませんと」
「うう、運動は勘弁して・・・それにほら、コルセット外せるぐらいにはやせたし・・・!」
「それは一時的に体重が落ちているだけです。運動もしないと、ぶり返しますよ」
「ううう・・・」
ペテラは低い声でうめいた。
「あははは、でもよかったじゃない姉さん。これでお腹の子を器にすることなく、運動もダイエットもできるじゃない、あはははは」
「そうです。ヴァニ様のおっしゃるとおりです」
クリスはヴァニに頷くと、ペテラに向けて続けた。
「今度は健康な体で子を育めるよう、二人でがんばりましょう」
「・・・うん・・・」
「あはははは・・・あーお腹痛くなってきた・・・ちょっと失礼・・・あはははは」
ヴァニは立ち上がると、笑いながら二人を残して居間を出ていった。
後ろ手に扉を閉め、笑いながら廊下を進む。
そして、程々に居間から離れたところで、彼女は笑うのを止めた。
「はぁ・・・びっくりした・・・」
本当に姉が子を宿したのではないか、という驚きを、ヴァニは改めて味わった。
「でも・・・あの二人、そこまで驚いてなかったよね・・・」
特にクリスなど、途中で身に覚えがあると言い出していた。
つまりは、そういうことなのだろう。
「・・・・・・・・・もうやだ・・・」
自身の知らぬところで、身近な二人がそういう行為にまで及んでいたことを悟り、ヴァニはそう呻いた。
おめでたい二人を残して、遠くへ行きたかった。
そして自分もすてきな旦那を見つけてやるのだ。姉と召使いのように。
彼女はそう、心の奥底で決心していた。
13/05/04 17:58更新 / 十二屋月蝕
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