(100)リリム
魔力に満ちた土地に、街があった。
明緑魔界に分類される、地上と変わりない青空の下、魔物たちの住む街があった。
大小様々な建物が建ち並び、通りや区画を形成している。
そして、住宅が軒を連ねる通りを、一人の女が歩いていた。
ボディラインを強調した衣装に身を包み、銀髪をうなじの辺りで切りそろえた、背筋が冷えるような美貌を備えた女だ。
大きな翼と尻尾を備え、銀髪の間から角をのぞかせるその姿はサキュバスに似ていたが、身に帯びる魔力は桁違いだった。
なぜなら彼女こそ、魔界を統べる魔王とその夫の愛の結晶の一つだからだ。
両親の力を受け継ぎ、成長するにつれてその重みを増していく魔力の塊。
魔王夫妻の次に畏怖と崇拝を受ける対象であるリリムだったが、街を歩く彼女に威厳というものはなかった。
足取りも軽く、どこか楽しげな表情で、彼女は住宅街の間を進んでいた。
やがて、彼女は一軒の家屋の前で足を止めた。
髪に手を触れ、衣服を見下ろし、身だしなみを簡単に整える。
そしてこほんと咳払いを一つ挟むと、彼女は拳を握ってドアを叩いた。
「はぁい・・・」
「おはよう、ベル」
扉を開き、若干屈みながら顔を出した、雲を突くような背丈のオーガに、リリムはそう挨拶した。
「おはようございます、ルーシャ様」
オーガは、リリムの訪問に驚いた様子もなく、にっこりとほほえんで頭を下げた。
「彼を迎えに来たのだけど・・・」
「はい、もう準備できてます。シュンー!」
オーガは玄関先で振り返ると、家の奥に向けて声を上げた。
「ルーシャお姉さんが、迎えに来たわよー!」
「はーい!」
喜びを含んだ高い声が響き、ぱたぱたと足音が続く。
そして、リリムがその場に腰を屈め、オーガが軽く体を寄せて道をあけると、玄関から小さな影が飛び出した。
「ルーシャお姉ちゃん!」
「おはよう、シュン」
玄関から飛び出し、勢いよく抱きついてきた少年を軽く抱き返しながら、ルーシャは上擦った声でそう返した。
「昨日は早く寝た?」
「うん!お姉ちゃんとお出かけするから、早くベッドに入ったよ!」
少年から体を離して問いかけると、彼はそう応じた。
ルーシャがちらりとオーガに視線を向けると、オーガはにこにこしながら頷いていた。
どうやら、本当に早寝したらしい。
「そう。だったら、一日いっぱいお出かけできるわね」
「うん!」
勢いよく、うれしげに少年が頷くと、ルーシャはそっと立ち上がった。
「ルーシャ様、今日一日よろしくお願いしますね」
「なに言ってるのよ。いつも私の方が世話になってるじゃない。お礼を言うのは私の方だわ」
「そんな、滅相もない・・・」
「ルーシャお姉ちゃん!」
オーガと言葉を交わすリリムに、少年が痺れを切らしたように声を上げた。
「はいはい・・・じゃあ、続きは帰ってからね」
「はい。行ってらっしゃいませ」
オーガが頭を下げると、ルーシャは少年の手を取った。
「じゃあ、行こうか」
「うん!」
二人は言葉を交わすと、歩きだした。
ルーシャは魔王夫妻の何十番目かの娘である。
だが、旦那も恋人もいない。
二十年ほど世界をさまよい、今も夫探しの旅をしているが見つからなかった。
最近は夫探しだけでなく、ふと見かけた恋の悩みを抱える男女を手助けしてみたりもしていたが、彼女自身の男事情については何の進展もなかった。
その日、ルーシャは角や尻尾を隠し、人間と変わらぬ衣服に身を包んで、街を歩いていた。
悩める人がいないか、誰かいい人がいないか、探すためだった。
「もし・・・」
道を歩いていると、不意に横から声がかけられた。
見ると、道ばたに小さなテーブルを出して腰掛けた女が、ルーシャに向けて手招きしていた。
「なにかしら?」
無視してもよかったが、占い師に対して興味を抱いたルーシャは、足を止めてそう応じた。
「あなた・・・人を捜してるね?」
ルーシャの顔を見ながら、占い師がそういう。
「まあ、探してると言えば、探してるわねえ」
人というものはおおむね、人を捜している。特定の誰かであったり、条件に合う人物であったりと様々だが、人を捜していることには変わりない。
もっともらしい口調で、ごく当たり前のことを尋ねる占い師に、ルーシャは内心苦笑した。
「・・・・・・・・・男だ」
占い師はじぃ、とルーシャの顔を見つめると、一言漏らした。
「男を捜している。だが、特定の誰かではない。優しくて、自分を愛してくれる、素敵な男・・・」
「・・・!」
占い師の並べた言葉に、ルーシャは内心動揺した。
「恋人か旦那・・・なるほど、あなた独身だね」
何か納得がいったように、占い師が頷いた。
「あなた、今のまま探し続けていると、一生旦那はできないよ」
「なにを・・・」
警告というより、もはや断言に近い物言いに、ルーシャは口答えしそうになった。
「実際そうよ。あなたの眼鏡にかなう男なんて少ないし、そんな素敵な男が都合よく独り身でいると思う?」
「うぐ・・・」
幾度も自問した問いかけを改めて尋ねられ、ルーシャは答えることもできず声を漏らした。
「あなたが結婚、もしくは恋人を得る方法は二つある。一つは妥協。条件を下げて、適当な男と一緒になることだね」
「それは、ちょっと・・・」
ここまで何度か、結構いい条件の男はいた。だが、それでも妥協することなく探し続けてきたのだ。
だというのに、今更妥協して適当な男と結ばれては、過去にあきらめた男たちに対する未練が蘇りそうだった。
「だったらもう一つ・・・あなた自身の手で、理想の旦那を育てることだね」
占い師の言葉は、ルーシャに重い衝撃をもたらした。
「時間はかかるけど、あなたが手をかけた分だけ男は育つ。そうすれば、あなたのお好みの旦那ができあがるって寸法よ」
「でも・・・育てるって言っても・・・」
「孤児院に行けば子供なんていくらでもいる。赤子が欲しければ・・・明日、ここの南の方のパン屋の裏手のアパートで、身よりのない女が出産するよ。女は命を落とすけど、赤ん坊は無事に生まれる。ま、どうするかはあなたに任せるけどね」
ルーシャは無意識のうちに、南の方に目を向けていた。
明日、向こうで赤子が生まれる。
「言っておくけど、女が命を落とすのはもう確定している。今からなにをどうしても、助けられる命じゃない。あなたがすることは、赤ん坊をどうするか決めること。私に言えるのは、それまでよ」
「・・・・・・」
占い師がそう続けたが、ルーシャの腹は、既に決まっていた。
そして、ルーシャは生まれると同時に母を失った赤子を引き取った。
結婚より先に母親になったようで、ルーシャは妙な気分だった。
だが、赤子を育てる大変さは、彼女の内側から違和感を即座に消しとばした。
占い師の言葉に対する気軽な決心を悔やみながらも、彼女は赤子を育てようとした。
だが、吸われども乳のでない乳房では赤子を育てられない。
そこで、ルーシャは考えに考え、知り合いの夫婦を頼ることにした。
本来ならばホルスタウロスやエキドナを乳母にすべきなのだろうが、ルーシャが預けようとしているのは未来の旦那だ。
独身の魔物や、赤子とともに成長する魔物の子供が側にいては、未来の旦那を奪われかねない。
そこでルーシャが白羽の矢を立てたのが、オーガと人間の夫婦だった。
夜の夫婦生活は人並みにこなしているそうだが、なぜか二人には子供はできなかった。だというのに、オーガの乳房からは母乳が分泌されており、平均的な男性より小柄な旦那以外に飲む者がいなかった。
オーガとその夫は、ルーシャの連れてきた赤子を喜んで預かり、自分たちの子のように育てると約束してくれた。
やがて月日が過ぎ、赤子が幼児になり、立って歩きだし、言葉を覚えるようになった。
その間、ルーシャは度々二人の元を訪れ、赤子の成長にあわせて必要な物を届けたり、幼児を連れだして遊んでやったりした。
男児となった赤子は、オーガ夫妻にもルーシャにもよく懐き、ルーシャとのお出かけを待ち望むようになっていた。
「ルーシャお姉ちゃん、今日はどこに行くの?」
ルーシャと手をつないだ少年が、幼児の頃から変わらぬ笑顔で、彼女を見上げた。
「今日はね、動物園よ」
「動物園?」
聞きなれぬ単語に、少年が首を傾げる。
「いろんな動物を集めて、見せてくれる場所よ。ちょうどこの街に来てるから、そこに行くの」
「へー!楽しみー!」
表情のみならず、足取りにも期待を滲ませながら、少年は足を進めた。
やがて、二人は街のはずれの空き地に着いた。
普段ならばむき出しの地面や、草ぐらいしかない空き地だが、今はいくつものテントが並んでいた。
幾台もの荷馬車がぐるりと描く円の内側に、色とりどりのテントが軒を並べ、動物の鳴き声が響いていた。
「わぁ・・・!」
少年が、色鮮やかなテントに目を輝かせた。
「お姉ちゃん、早く早く!」
「はいはい」
せかすような足取りに、ルーシャは少年に会わせて縮めていた歩幅を少しだけ広げ、移動動物園の入り口に近づいた。
入り口の脇には、ツナギを着たサキュバスが立っていた。肩から提げた鞄をみるに、モギリをやっているらしい。
「大人一枚と、子供一枚お願い」
「はーい」
モギリのサキュバスが鞄から紙切れを二枚取り出し、ルーシャが自身と少年の入場料を支払う。
モギリは、ルーシャの差し出した貨幣を受け取ると、入場券の半券を渡した。
「どうぞ、楽しんでいってください」
サキュバスの笑顔に見送られながら、二人は移動動物園に入った。
いくつものテントが荷馬車の輪に沿って軒を並べ、中央にやや大きいテントが一つ立っている。
どうやら、テントの並びに沿って歩けば、一通り見て回ることができる作りになっているらしい。
「結構、お客さん多いわねえ・・・」
テントの間を歩く人や魔物の姿に、ルーシャはそう漏らした。
「シュン、迷子になるから、絶対に手を離したらだめよ」
「うん!」
ルーシャの言葉に、少年は力強く頷く。
何度か前のお出かけの際に、はぐれてしまったときの記憶はまだ新しいらしい。
「じゃあ、順番に見ていこうか」
「はーい」
少年とリリムは、人々の流れに沿って、テントの間を進み始めた。
「はぁ・・・癒されるわー・・・」
移動動物園のコース終盤、『おさわりコーナー』という看板の掲げられたテントで、ルーシャと少年は『おさわり』を満喫していた。
「ふわふわーやわらかーい」
少年が、両手で温もりを帯びた柔らかな塊をなでながら、そう呟いた。
「ずっとこうしてたい・・・」
「そうでしょ・・・魔界には、ウサギとかあまりいないからねえ・・・」
柵の中に離されていたウサギを抱きながらの少年の言葉に、ルーシャもまたウサギを抱きながら応じた。
二人はテントの下、柵の中にもうけられたベンチに座り、辺りにいる十数羽のウサギを堪能していた。
人なつっこいウサギたちは、柵の内側に入ってきたルーシャたちをおそれるどころか、自分たちから寄り添ってくるほどだった。
「あったかーい・・・」
膝の上のウサギをなでながら、少年がうっとりと呟いた。
「ふふ、すっかりウサギさんが気に入ったみたいね・・・」
ルーシャは微笑みながら少年を見ると、膝の上のウサギを地面に下ろし、ベンチを立った。
「ルーシャお姉ちゃん?」
「ちょっと待っててね・・・」
次は自分を抱いてくれ、と言わんばかりに足下に集まるウサギを踏まぬよう気をつけながら、ルーシャはベンチとウサギを囲む柵の縁に歩み寄った。
「すみません、ウサギのオヤツください」
柵の外からウサギたちを見守っていた係員に、ルーシャはそう求めた。
「はい、いくつ?」
「一人分でお願いします」
ルーシャが財布から硬貨を取り出すと、係員はそれを受け取りながら、木の器を彼女に手渡した。
細く、棒状に切られた人参が十数本器の中に入っている。
「なるべく、みんなにあげてね」
「はい」
係員の言葉に頷きながら、ルーシャは少年の座るベンチに戻った。
「はいお待たせ」
「ルーシャお姉ちゃん、それ、ウサギのご飯?」
「そうよー」
足下に集まるウサギをよけながら、彼女は少年の隣に腰を下ろした。
すると、ベンチの上にウサギが飛び乗り、我先にとルーシャの膝を奪い合う。
「はいはい、大丈夫よ、みんなにあげるからね」
器を頭の上に掲げ、ウサギたちに人参を奪われないようにしながら、ルーシャは器から一本人参を取った。
「シュン、手を挙げて」
「こう?」
掲げられた少年の手に、ルーシャは人参を手渡す。
「ウサギさんにご飯をあげるから、私のまねをしてね」
彼女はもう一本人参を取ると、膝の上でひしめき合うウサギに向けて手を下ろした。
すると、ウサギたちは立ち上がり、ゆっくりと降りてくる人参に向け、ひくつく鼻先を近づけようと背伸びをした。
やがて、一番背伸びをしていたウサギに、人参が届く。
「・・・・・・!」
ウサギは鼻息も荒く、降りてくる人参に食らいつくと、カリカリと音を立てながらかじり始めた。
ルーシャは、ウサギのかじる早さにあわせて、ゆっくりと人参を下ろしていった。
「はい、こんな感じ」
「じゃあ、僕も!」
少年も、ルーシャの腿の上ほどではないが、自分の膝の上に乗ったウサギに向けて、手の中の人参を下ろした。
一羽のウサギが、少年の人参に食いつく。
「わあ・・・食べてる・・・!」
人参を伝って、指に届く振動を感じながら、少年は膝の上のウサギが自分の手から人参を食べていることを実感していた。
ウサギはカリカリと人参をかじり、やがて細く切られたまるまる一本をその体内に納めた。
「お姉ちゃん、もう一本!」
「はい。今度は別のウサギさんよ」
係員から受けた言葉を思い出しながら、ルーシャは少年に新たな人参を手渡した。
「はい、今度はキミの番だよー」
膝の上のウサギを下ろし、少年はベンチの上にいた別のウサギを抱く。
そして、今し方もらったばかりの人参を、新たなウサギに近づけた。
ウサギは鳴き声一つたてず人参に食いつき、かじり始めた。
カリカリカリカリと、先ほどのウサギよりテンポの速い振動が彼の指に伝わった。
ウサギ一羽一羽にも微妙な違いがあるのだ。
模様や体格だけではないウサギの個体差を、少年は言葉では表せないものの、感じ取っていた。
そして、時折ルーシャから人参を受け取りながら、少年はウサギたちに人参を与え終えた。
可能な限り別のウサギに与えたつもりだったが、似た模様のウサギに二度やってしまったかもしれない。
「はい、おしまい。人参はもうないよ!」
少年がそういうと、ウサギたちはベンチの上から降りていった。
「ふふ、シュンの言葉がわかったみたいね・・・」
餌がもうないとわかった後のウサギの現金な態度に、ルーシャはほほえみながら立ち上がった。
「たぶん、ウサギさんは頭がいいんだよ」
「そうねぇ・・・」
ルーシャは頷いたものの、ウサギがそう頭のいい動物でないことを彼女は知っていた。だが、少年はそのことを知らない。
『おさわりコーナー』に入る前、ルーシャは少年に移動動物園の話をしてやった。
移動動物園は、動物たちを荷馬車で運び、あちこちの町で即席の動物園を開く、ある種のサーカスのようなものだった。
つれているのは魔界ではあまり見かけることのないただの動物ばかりで、魔界を出たことのない魔物にとっては人気の見せ物だった。
そして、生まれこそ人間界ではあるものの、魔界で育ってきた少年にとっても、移動動物園の動物たちは珍しかった。
仮に、ルーシャが未来の旦那だなどといって赤子を引き取っていなければ、少年はこれらの動物と自然に触れ合う機会があっただろう。
そして、ウサギが人の言葉を理解できるほど頭が良くないことを、彼は自然と学んだだろう。
「・・・・・・」
「ルーシャお姉ちゃん・・・?」
不意に黙り込んだルーシャに、少年は問いかけた。
「・・・っ、ごめんなさい・・・ちょっと、ぼんやりしてたわ」
時折胸中に芽生える後悔をごまかしながら、彼女は少年の言葉に応えた。
すると、きゅぅと小さくかわいらしい音が響いた。
「あ・・・」
「ウサギさんにご飯あげたから、ご飯食べたくなったのね」
少年の腹の音に、ルーシャは立ち上がった。
「じゃあ、ご飯にしましょうか」
「うん!」
ルーシャの申し出に、少年は大きく頷いた。
『おさあわりコーナー』を出て、移動動物園から出場した二人は、近くの料理店に入っていた。
高級なレストランなどではない、いわゆる大衆食堂に位置する店だ。
店員は、リリムの来店に一瞬驚いていたようだが、騒ぎ立てたりする様子はなかった。
ルーシャの姉に食べ歩きを趣味とする者がいるが、彼女が過去に来店したのかもしれない。
ルーシャと少年は、テーブル席を囲むと、壁に貼られたメニューをながめた。
「シュン、どれにする?」
「えーとねえ・・・」
そろそろ読み書きを覚え始めたほどの少年は、メニューの文字を眺めながら考えた。
幸い、この店は子供が好みそうなだいたいの料理がそろっている。メニューの文字が読めずとも、少年が食べたいものをいってくれれば、メニューに入っている可能性は高かった。
一丁前にメニューを眺める少年の様子を、ルーシャがほほえましく見守っていると、彼は不意に目を止めた。
「と、く、せ、い、オ、ム、ラ、イ、ス・・・オムライス食べたい!」
「あら・・・あなた、メニュー読めるの?」
壁に並ぶ文字を、途切れ途切れではあるものの読み上げた少年に、ルーシャは目を丸くした。
「うん!・・・でも、まだ書けない・・・」
「読めるだけでも立派よ。偉いじゃない、シュン!」
予期せぬ少年の成長を目にし、ルーシャは手を伸ばして彼の頭を撫でた。
「じゃあシュンがオムライスなら・・・私はオニオンスープにしようかしら」
値段と料理名から、ルーシャは軽めの食事を選んだ。
腹が減っていないわけではない。少年一人ではオムライスを食べきることができないだろうから、後で手伝ってやるために自分の分を減らしたのだ。
「すみませーん」
ルーシャは軽く手を挙げながら、店員を呼んだ。
「はい?」
「オニオンスープと」
「オムライス!」
「を、お願いします」
「かしこまりました」
店員は、ルーシャと少年の注文に頭を下げ、厨房の方へ向かっていった。
「えへへ・・・楽しみだね、お姉ちゃん」
料理が待ちきれないという様子で、少年はルーシャを見上げた。
「そうね。でも、お行儀よく待たないとダメよ」
「うん!」
ルーシャの一言に、少年は背筋を伸ばし、両手を膝の上に揃えた。
心なしか表情も、お行儀よくしようとしているためか、ややかしこまったものになっていた。
「ふふ」
少年の普段の雰囲気に合わないかしこまった顔つきと、自分の言葉に忠実に従おうとする子犬のような従順さに、ルーシャは思わず噴出しそうになってしまった。
「なに?お姉ちゃん?」
「何でもないわ、うふふ」
眉間にしわを寄せ、精一杯のお行儀よくを表情でも表現しながらの少年の問いに、ルーシャは微笑みながら答えた。
「お待たせしました。オニオンスープです」
横から響いた店員の声に少年の表情が一瞬輝くが、直後軽い落胆めいたものが浮かんだ。
少年の注文した、オムライスではないからだ。
「あらら、先に私の頼んだのが届いちゃったわねえ・・・」
湯気を立てる器を見ながら、ルーシャは困ったようにつぶやいた。
少しだけ色づいたコンソメスープの中に、半透明のタマネギと刻んだベーコンや野菜が沈んでおり、食欲をそそられる香りを放っていた。
だが、少年の目の前で食べ始めるわけにもいかない。
少年の表情を伺うと、彼はテーブルの上のオニオンスープを見つめ、『こっちにしておけばよかった』と言わんばかりの後悔を表情に浮かべていた。
「シュン、オムライスがくる前に、一口どう?」
空腹の少年に、ルーシャはそう問いかけた。
「え・・・いいの?」
オムライスがくるまで、我慢するつもりだったのか、少年は意外そうな顔でルーシャを見返した。
「おなかペコペコなんでしょ?少しあげるわよ」
「じゃあ、いただきます!」
少年はルーシャの好意を受け入れ、遅れて感謝を込めて頭を下げた。
少年の感謝に、ルーシャはスプーンをとると、透き通ったコンソメをすくった。
「ふぅ・・・ふぅ・・・」
唇を窄め、未だ湯気を立てるスプーンの上の一すくいに数度息をかけると、彼女は少年にスプーンを向けた。
「はい、あーん」
「お、お姉ちゃん・・・」
少年は差し出されたスプーンに顔を赤くすると、ちらちらと左右に目を向けた。
食堂の客の数人が、ルーシャと少年に微笑ましげに視線を送っていた。
「お姉ちゃん・・・みんな、見てるよ・・・」
子犬が戯れるのを見ているかのような優しい視線であったが、少年には羞恥をもたらすものだったらしい。
「いいじゃない」
「でも、あーんだなんて、赤ちゃんみたいで・・・」
「私が家にきたときは、『あーんして』って言うじゃない?」
「それは・・・」
家にいる間のじゃれ合いを持ち出され、少年は言葉に詰まった。
同時に、少年のおなかがきゅるきゅると音を立てた。恥ずかしくても、腹は減るらしい。
「ほら、あなたのお腹も『ご飯食べたいよー』って言ってるわよ?はい、あーん」
「・・・っ!あーん!」
少年は目をぎゅっと閉じ、顔を赤くしたまま口を開いた。
ルーシャは少年の小さな口にスプーンを差し入れた。
舌に触れたスプーンの温もりに、少年が唇を閉ざしてスプーンを咥える。
そして唇の間からスプーンを引き抜くと、コンソメスープが彼の口の中に取り残された。
「・・・・・・ん・・・おいしい・・・」
恥ずかしさをこらえるように目を閉じていた少年が、その人こととともに目を開いた。
「おいしい!お姉ちゃん!」
「よかったわね」
空腹のせいもあるだろうが、おいしいと感じられる料理が増えたことに、ルーシャは静かに喜んでいた。
これで、オニオンスープが彼の好物になってくれるといい。
「もう一口、どう?」
「えっと・・・」
少年が自分の空腹と、もう一度あの恥ずかしさを味わうこととを天秤に掛けていると、テーブルのそばに店員が歩み寄った。
「お待たせしました、オムライスです」
「よかった・・・」
自分の注文した料理の到着に、少年はほっと一息ついた。
「ごゆっくり」
「ええ、楽しませてもらうわ」
湯気を立てる皿を盆に乗せたまま、先ほどまでのルーシャと少年のやりとりを見守っていた店員に、彼女はそう返した。
「じゃあ、ちょっとフライングしちゃったけど、いただきましょうか」
「うん!」
少年とルーシャは指をくみ、同時に言葉を口にした。
「いただきます」
そして、二人は改めてスプーンを手にとった。
少年の前のオムライスは、卵でチキンライスを包み込んだものではなく、チキンライスの上にオムレツが乗ったものだった。
オムレツには切れ目が入っており、ふわふわとろとろの中身をさらしながら、チキンライスに覆い被さるように口を開いていた。
少年のスプーンが、オムライスの端の方に刺さり、小さな一口分をすくいとった。
「あーん」
無意識のうちだろうか、少年が声に出しながら口を開き、オムレツの切れ端と少しのチキンライスを口の中に運んだ。
「んー!」
口を閉じたまま、少年が声を漏らす。
どうやら、それほどおいしいものだったらしい。
「おいしい?」
ルーシャはオニオンスープを口に運び、少年が口の中のオムライスを飲み込むまで待ってから、そう問いかけた。
「うん!おいしいよお姉ちゃん!」
空腹が癒される快感に加え、自分で選んだ料理がおいしかったという満足感もあるためだろうか、少年は心底嬉しげに彼女に答えた。
「よく噛んで食べるのよ」
「うん!」
ルーシャの注意に、少年は次の一口を頬張った。
一口目よりやや多かったためか、少年の頬はリスのように膨れていた。
彼は唇を閉じたまま、もぐもぐと口内のオムライスを咀嚼し、数度に分けて飲み込んでいった。
「ぷはぁ・・・!」
口内のものを飲み込むと、彼は一息ついてから、次の一口をスプーンに取る。
見ているだけで腹が満たされていくような、少年の食事の様子に、ルーシャはいつしか手を止めてしまっていた。
やがて、少年はオムライスの半分を食べていた。
いつもならば、そろそろ満腹になって手が遅くなる頃だが、今日の少年はゆっくりになるどころか、むしろ勢いが増しているようだった。
「シュン、大丈夫?お腹いっぱいになったら、私に言うのよ?」
「大丈夫!全部食べられるよ!」
ルーシャの問いに、少年は手を止めて答えた。
そして、変わらぬ勢いで次の一口を口に運ぶ。
一口、また一口とオムライスが皿の上から消えていき、とうとうチキンライスの粒がいくつかと、オムレツのとろとろの中身がほんの少しだけ皿に残されるばかりとなった。
つまりは、完食したわけだ。
「ふぅ・・・おいしかったぁ・・・」
スプーンを皿に置き、息をつきながら少年は満足そうに呟いた。
ついこの間まで、ルーシャが手伝ってやらねばならなかったというのに。彼女は、少年の早い成長に、内心驚きながらも喜んでいた。
そして、ルーシャが遅れてオニオンスープを平らげてから、二人は食堂を出た。
ルーシャは満腹ではなかったが、それでも少年の成長に心地よい満足感を覚えていた。
「おいしかったわね」
「うん・・・」
満腹になって眠くなったのだろうか。ルーシャの言葉に、少年が若干力のない声で答えた。
「これからどうしようかしら?ちょっとお昼寝する?」
「・・・ん・・・」
大分眠気が強まってきたらしく、少年はうめき声のような返答をした。
「もう少しがんばってね」
確かこのあたりに、ベンチぐらいしかない広場めいた公園があったはずだ。
あそこならば、多少昼寝をするにはちょうどいいかもしれない。
どこか足取りのおぼつかない少年の手を握ったまま、ルーシャは公園を目指した。
程なくして彼女は公園を見つけ、二人で入っていった。
そして、通りから離れた静かそうな木陰のベンチに近づくと、軽くベンチを撫でた。
汚れも、木材のささくれもない。少年が寝転がっても大丈夫なようだ。
「はい、どうぞ」
ルーシャはベンチの片側に少年を座らせると、反対側に自信が腰掛け、軽く太腿をたたいた。
「・・・・・・」
少年は無言で体を倒し、彼女の膝枕の上に頭を乗せた。
「よしよし・・・」
少年の邪魔にならぬ程度に声をかけながら、彼女は軽く彼の頭を撫でた。
少年の柔らかな髪の毛が、ルーシャの手のひらを撫でていく。
ルーシャの太腿の柔らかさと頭を撫でる手に、少年は安堵を覚えて眠るはずだった。
だが、少年は目こそ閉じてはいるものの、眠っているとき特有の穏やかな呼吸に、いつまで経っても落ち着かなかった。
「シュン・・・?」
ゆっくりではあるものの、どこか意図的に落ち着かせているようにも聞こえる少年の呼吸に、ルーシャは問いかけた。
「眠れない・・・いや、どこか調子が悪いの?」
「・・・うん・・・」
少年は、リリムの問いかけに小さく頷いた。
「おなかが・・・すこし、いたい・・・」
どこか我慢している様子の、小さな少年の声に、ルーシャは頭の芯に氷が突き刺さったような心地になった。
「いつから!?」
「ご飯食べて・・・お店出てすこししてから・・・」
絞り出すような少年の返答に、ルーシャの頭の内側をいくつもの考えが巡った。
オムライスに使った卵が古かった?
移動動物園の『おさわりコーナー』でウサギから病気をもらった?
少年の腹痛の原因は、いくらでも考えられた。
だが、ここでいくら考えたところで、彼の痛みが治まるわけではない。
「病院・・・!」
ルーシャは少年の背中と膝の裏に手を差し入れると、ひょいと抱き上げた。
そして、極力少年を揺らさないように気をつけながら、彼女は翼をばさりと広げて飛んだ。
ハーピーのように、羽ばたいて飛ぶのではない。魔力で浮力を得ての非行だ。
彼女は町の上空に浮かぶと、目を見開いて並ぶ建物を見回した。
そして、軒先に『クリニック』という文字の並ぶ看板を掲げた建物を、彼女は見つけた。
「あった・・・!」
魔力の流れを操り、彼女は自由落下に等しい勢いで、見つけだした病院に向けて飛行した。
風の障壁を張ることで、速度によって生じた風が少年の体温を奪わぬようにする。
飛行と障壁の魔術の併用により、ルーシャの魔力は削られていくが、彼女に躊躇いはなかった。
やがて彼女は地面に近づくと落下の勢いを浮力で殺し、ふわりと地面に降り立った。
そして看板の下の扉を、ルーシャは勢いよくあけた。
「ごめんください!」
叫ぶような大声で、受付窓口に駆け寄ると、彼女は受付にいたワーシープの看護婦に向けてまくし立てた。
「すみません!連れの子供が、お腹が痛いと言い出して・・・!」
「あの・・・うち、睡眠専門のクリニックなんですけど・・・」
どこか困った様子で、ワーシープがルーシャに返す。
「でも、お医者でしょう!?ちょっと様子を見るだけでも・・・!」
「確かに先生は医者ですけど、ちょっと専門外というか・・・」
「どうしたの?騒がしい・・・」
待合室の壁に並ぶドアが開き、白衣をまとったナイトメアが姿を現した。
「あ、先生。こちらのリリム様が、子供がお腹が痛くなったって・・・」
「ん・・・」
ワーシープの看護婦の説明に、ナイトメアの表情に険しいものが浮かぶ。
「ええと・・・おか、いやお姉・・・リリム様。その子は人間ですか?」
「ええ」
「君、近所の小児科に、連絡の準備を・・・」
「先生?」
ナイトメアの指示に、ワーシープが困惑する。
「人間は魔物より遙かに脆い。特に子供など、ちょっとした病気で簡単に死んでしまう。この子が大きな病気をしているかもしれないから、早く!」
「は、はい!」
ワーシープは、ナイトメアの説明にようやく事の重大性を理解したのか、受付から立ち上がった。
「そこに寝かせてください」
「はい」
ルーシャはナイトメアの指示のまま、抱えていた少年を待合室のソファに寝かせた。
「症状は、腹痛ですか?」
痛みをこらえて顔をゆがめる少年の腹に触れながら、ナイトメアがルーシャに問いかけた。
「ええ。お昼を食べた後、少し歩いてから」
「昼にはなにを?」
「ここから少し南の食堂のオムライスと、オニオンスープを少し・・・」
「・・・・・・」
少年の腹に触れていたナイトメアが、不意に手を止めた。
「なるほど・・・」
ナイトメアは小さく頷くと。少年の肩をつかんで、右肩を下にするように横臥の姿勢をとらせた。
「そのまま、じっとして・・・口を開けて・・・」
少年に向けてそう話しかけながら、ナイトメアの手が腹と胸の間のあたりを軽く押した。
「・・・けぷっ・・・」
すると、少年の口から、げっぷが一つ漏れた。
「・・・あれ・・・?痛くなくなった・・・」
げっぷの直後、少年のしかめられていた顔が驚いたようなものに変わり、狐に摘まれたかのようにそう呟いた。
「シュン?大丈夫・・・?」
「うん・・・もう、痛くない・・・」
つい先ほどまでの苦痛は何だったのか、とでも言いたげな様子で、少年は首を傾げながら身を起こした。
「やっぱり・・・そうか」
疑問符を浮かべるルーシャと少年をよそに、ナイトメアは一人納得したように頷いていた。
「あの、一体なにが・・・?」
「簡単なことです。腹痛の原因は、食べ過ぎでした」
若干言いづらそうに、ナイトメアはルーシャの問いに答えた。
「腹の張り方を見るに、この子はオムライスかオニオンスープを一人で全部平らげたのでしょう?」
「まあ・・・」
おいしいおいしいと、目の前でオムライスを食べていた少年の姿を思い返しながら、彼女は頷いた。
「この年の子に、まだオムライス一人前は多すぎます。空腹の助けを借りれば食べきれないこともないでしょうが・・・」
「それで、お腹が痛くなった・・・と」
「はい」
ルーシャの言葉に、ナイトメアは頷く。
「・・・・・・お騒がせして、すみませんでした」
「いえ、大事じゃなくてよかったです。でも、これからはくれぐれも気をつけてくださいね?今回は胃の空気を出してやってどうにかなりましたが・・・」
ナイトメアの、魔王の娘に対する丁寧なお説教は、それからしばらく続いた。
しばらくして、二人がクリニックの玄関をくぐると、夕方ではないものの太陽は大分傾いていた。
これからどこかに寄るには、少々遅いだろう。
「お姉ちゃん・・・ごめんなさい・・・」
ナイトメアに延々と説教されていたルーシャに、少年はどこか申し訳なさそうに頭を下げた。
「こっちこそごめんね。シュンがおいしいおいしいって食べてるのを止めなくて、痛い思いさせちゃって・・・」
そう、ルーシャが少年の限界を把握し、オムライスを手伝ってやっていれば、彼を腹痛にせずにすんだのだ。
「でも、僕も・・・」
「もう謝らなくていいわ。なにもなかったってだけで、十分よ」
なおも謝ろうとする少年に、ルーシャは腰を屈めて視線の高さを揃えながら、彼の頭に触れた。
「一人で食べられるってところ、見せたかったのよね?」
「うん・・・」
「私も、シュンがたくさん食べてるのを見るのはちょっと楽しかったわ。でも、私が嬉しそうだからって、無理しちゃダメよ?これからはお腹いっぱいの少し前で止めるように」
「腹八分目、だね」
「よく知ってるわね」
少年の言葉に、ルーシャは彼の知識を賞賛しつつ、頷いた。
「じゃあ、今日はもう帰ろうか」
「え・・・うん、そうだね・・・」
一瞬、少年は不満そうな表情を浮かべるが、すぐにルーシャの言葉を受け入れた。
今日は少年が原因で、午後の予定がつぶれてしまったのだ。お出かけがおしまいになっても仕方がない。
そう、彼は考えていた。
「あら?今日はもう少しお出かけしてたい、って言わないの?」
普段ならばルーシャとの別れを惜しみ、少しだけ駄々をこねるはずの少年に、彼女は首を傾げた。
「今日は僕が悪かったから・・・」
罰として今日のお出かけはもうおしまい。言葉尻を濁しながらも、少年はそう返した。
「お姉ちゃん、今日も楽しかったです。ちょっと早いけど、ありがとうございました」
玄関でのお別れに備え、少年はあえてそう別れの言葉を口にした。
「あらそう?今日は晩ご飯、シュンの家で一緒に食べようと思ってたんだけど」
「え・・・?」
「だって、今日のお昼はシュンのオムライスを少し分けてもらうつもりだったから・・・ほら」
きゅう、と少年とルーシャの間で、小さな音が響いた。
腹の鳴る音だが、少年のものではない。
「私はお腹ペコペコ」
ルーシャの腹の虫に、少年は驚いたような顔をしていた。
「というわけで、今日は一緒に晩御飯食べていいかしら?」
「う、うん!」
もう少しだけルーシャと一緒にいられる。
その事実をようやく理解し、少年は大きく頷いた。
「じゃあ、帰ろうか」
ルーシャは立ち上がると、少年と手をつないで歩きだした。
少年の歩幅にあわせ、歩幅を小さく、足並みを揃えながら、二人は街の中を進んでいく。
やがて、太陽が大分傾いてきた頃、二人は住宅街の一角にたどり着いた。
「ただいまー!」
ルーシャが扉をノックし、少年が声を上げる。
すると、少しの間をおいてから、玄関が開いた。
「お、お帰りなさい、ルーシャ様」
玄関から顔をのぞかせた、少年の兄ほどの年にも見える男が、ルーシャに向けて頭を下げた。
「今日はお早いですね」
「ええ、ちょっと今晩は晩ご飯を一緒にしようと思って」
「そうですか。それはシュンも喜びます。よかったなあ、シュン」
「うん!」
義父の言葉に、少年は大きく頷いた。
「どうぞ、あがってください。ちょうどついさっき、妻が料理の準備を始めたところですので」
「あら、だったら私も手伝おうかしら」
夕食の席に乱入するようなものだから、少しは手伝わないと。ルーシャはそう考えた。
「ルーシャ様の手料理ですか!楽しみですねえ」
ルーシャと少年を玄関に迎え入れながら、男は期待のこもった声で言った。
「シュン、お外から戻ったら?」
「手洗い、うがい!」
「私もね」
男の言葉に、ルーシャと少年は洗面所に向かい、手を洗ってうがいをした。
「じゃあ、私はお母さんの料理を手伝うから、シュンはお父さんと待っててね」
「うん!」
「シュン、ご飯の前に風呂に入ろうか?」
ぼんやり待つよりかは、と着替えやタオルを手にした男が、洗面所をのぞいてそう少年に声をかけた。
「そうね、ご飯ができるまでもう少しかかるだろうし、その方がいいわね」
男の提案に、彼女は頷いた。
「シュン、肩まで浸かって五十数えるのよ」
「はーい」
そうシュンに言うと、ルーシャは台所に入った。
「お邪魔するわね」
「ルーシャ様!」
台所に現れたリリムに、包丁を手にしていたオー我が目を丸くする。
「突然で悪いけど、今日は晩ご飯を一緒したくて・・・」
「あらあら、だったら少し多めに作りませんと」
「手伝うわ」
「そんな、お客様に料理を作らせられませんよ」
ルーシャの申し出に、オーガはあわてた様子で手と顔を振った。
「晩ご飯に乱入させてもらうんだから、これぐらいしないと」
「でも・・・」
「それに、シュンとあなたの旦那に、私が料理を手伝うって言っちゃったのよ」
「はぁ・・・シュンはともかく・・・うちの旦那は・・・」
夫が遠回しにお客に料理をさせようとしていたということに、オーガはため息をついた。
「仕方ないですねえ。では、手伝っていただきましょう」
「よろしくね」
オーガの傍らに立ちながら、ルーシャは微笑んだ。
「それで、今日のメニューは?」
「野菜スープと、肉野菜の炒め物と、サラダです」
「へぇ・・・野菜づくしね」
オーガらしからぬ、豪快さから離れたメニューに、ルーシャは思わず呟いていた。
「ええ、ルーシャ様の未来の旦那様を預かってますし・・・それに、うちの旦那が、野菜を食べると体が大きくなるってどこからか聞いてきたらしくて・・・」
年齢的には成長期から外れてしまっているというのに、それでも一抹の希望に縋ろうとする夫に、オーガは苦笑した。
「とにかく、サラダと炒め物はまだですし、スープもついさっき火にかけたばかりだから、まだ間に合います」
「それはよかった」
すでに料理がほぼできあがっており、三人分を四人で分けあう事態を避けられたことに、ルーシャは安堵した。
「じゃあ、なにをしようかしら?」
「私が野菜を刻みますので、ルーシャ様は野菜をスープに追加して、味を調えてください。野菜炒めは、私が作ります」
「サラダは?」
「スープの味を調えてから、お願いします」
「わかったわ」
オーガの指示に、ルーシャは鍋の前に立った。
ふたを開くと、ふわりと煮込まれた野菜の匂いが立ち上った。
適度な大きさに刻んだキャベツに、人参やタマネギ、そしてトマトがスープの中に浸っていた。
「ルーシャ様、お願いします」
あっと言う間に野菜を刻み終えたオーガが、ルーシャにそう呼びかける。
「はい」
彼女はオーガから野菜の入ったボウルを受け取り、中身をスープに落とした。
野菜の投入に時間差はあったが、しばらく煮込めば違いがわからないほど柔らかくなるだろう。
ルーシャはしばらく待ってから、スープの上澄みを小皿にとって、口に含んだ。
今し方入れた野菜から水が出ることを考えると、もう少し塩が強い方がいいだろうか。
調理代に並んでいた塩の小瓶をとり、鍋に向けて数度振る。そして、再びスープの味を確かめた。
「こんな・・・ものかしら?」
小皿を置き、お玉で鍋の中身を少し混ぜ、上と下を入れ替えながらルーシャは呟いた。
「大丈夫だと思いますが、もう少し待ってからもう一度味を見ましょう」
「そうね」
オーガの提案に、ルーシャは頷く。野菜に味が染み、水分が出てから最終的な調整をしよう。
「次は、サラダね」
「場所を空けますので、よろしくお願いします」
野菜炒めに使うつもりの野菜を手にしたオーガと、ルーシャは場所を入れ替えた。
その後、特にトラブルもなく二人は料理を作り、配膳した。
そして腹を空かせる男二人を呼び、四人で食卓を囲んだ。
多少手を貸しただけにすぎないと言うのに、ルーシャの料理は好評だった。
「お姉ちゃん、おかわり!」
スープを味わった少年が、ルーシャに言う。
「ふふ、あまり慌てるとまたお腹が痛くなるわよ?」
食事の合間、昼間の出来事を反省も込めて披露したルーシャは、少年をたしなめるように言った。
「ちゃんとよく噛んで食べるなら、お代わりしてもいいわよ」
「よく噛んで食べるよ!」
オーガの言葉に、少年が頷いた。
「そんなに言うなら、仕方ないわね」
少年の食欲に、ルーシャはいすから腰を浮かそうとした。しかし、テーブルを囲んでいたオーガが彼女をとどめるように立ち上がった。
「ルーシャ様、私が注いできます」
オーガが席を立ち、少年の皿を受け取る。
「あら、私が頼まれたのに・・・」
「いいんです。私もお代わりしようと思ってたところですから」
オーガはやや恥ずかしげに言うと、自分の皿も手にとって、台所へと向かっていった。
「ねえ、お姉ちゃん」
オーガが席を離れたところで、ふと少年が問いかけた。
「今日は、お泊まりしていくの?」
「うーん、そうねえ・・・」
たまに泊めてもらうこともあったが、今日は着替えなどの準備をしていない。
だが、少年の瞳には、泊まっていってほしいという願望が宿っていた。
「お泊まりはできないけど、シュンが眠るまで一緒にいてあげるわ」
「ほんと!?」
お泊まりはできない、という言葉に一瞬悲しげになったものの、少年は表情を輝かせた。
「いいんですか、ルーシャ様?」
男が、ルーシャに申し訳なさそうに言った。
「いいのよ。私のせいで午後の予定が丸々つぶれちゃったし、そのお詫びよ」
それに、ルーシャ自身ももう少し長く少年と過ごしたかった。
「ご飯食べて、歯を磨いて・・・それからベッドに入るわね?」
「うん!」
少年が大きく頷くと同時に、皿を手にしたオーガが部屋に戻ってきた。
「あらあら、ご機嫌じゃないシュン。何かいいことあったの?」
「うん!ルーシャお姉ちゃんが、僕が眠るまで一緒にいてくれるって!」
「あらぁ、すみませんルーシャ様」
「いいのよ。私も久しぶりにお話の読み聞かせをしたいし」
皿をテーブルに置きながらのオーガの言葉に、ルーシャは答えた。
すると、オーガは少年の方を向きながら、どこかからかうような口調で尋ねた。
「あら、シュン。あなたもうお話の読み聞かせは、卒業したんじゃなかったかしら?」
「あら、そうなのシュン?」
「う・・・」
オーガとルーシャ、二人の視線に、少年が困ったように顔をこわばらせた。
「・・・お母さんのは卒業したけど、お姉ちゃんには読んでもらいたい・・・」
「あらあらあら」
少年の出した答えに、ルーシャは『自分は特別』と言われたようで、笑みがこぼれるのを止められなかった。
「それじゃあご飯食べたら、どの本を読んでほしいか選ばないとね」
微笑みながらルーシャが言うと、少年はこくりと頷き、スープ皿と口の間でスプーンを往復させた。
「ほらほらシュン、よく噛んで食べるって約束だったじゃない」
「またお腹が痛くなるぞ?」
オーガと男、二人の注意に少年は一瞬動きを止め、スプーンを動かす速度を遅くした。
これならばお代わりしなければよかった。少年の動きには、後悔がわずかににじんでいるようだった。
しかしそれでも、少年はスープを飲み干し、炒め物もサラダも平らげた。
両手をあわせて、食材と両親とルーシャに感謝の言葉を捧げ、少年はいすを降りた。
「シュン、私は片づけを手伝うから、歯磨きしてきなさい」
ルーシャはそう少年に言うが、オーガが頭を振った。
「ルーシャ様。片づけは私がしますから、シュンの歯磨きの手伝いをお願いします」
「え?でも・・・」
「シュン一人じゃ、まだ完璧に磨けないんですよ」
ルーシャに向けて、男が言葉を続けた。
「磨き残しがないかどうか、チェックしてやってください」
「わかったわ」
少しでも少年と一緒に過ごす時間を増やしてやろう、という二人の気遣いに、ルーシャは感謝した。
食卓を離れ、洗面所に入ると、鏡の前に踏み台を置いた少年が歯を磨いていた。
口を開き、小さな歯ブラシを動かしている。
「んぁ、おへぇひゃん」
「ふふ、ちゃんと磨けてるかしら?」
少年の後ろに立ち、鏡面越しに彼と視線を合わせながら、ルーシャは問いかけた。
「上の歯、下の歯、前歯、奥歯・・・」
昔、姉かメイドか、母に聞かされた歯磨きの歌を口ずさみながら、彼女は少年が歯を磨く様子を見ていた。
前回お泊まりしたときは、まだオーガに歯を磨いてもらっていたが、こうしてみるとなかなか一人前に磨けているようだった。
「・・・・・・んべ」
微笑ましく少年の歯磨きを見守っていると、彼は洗面台に顔を伏せ、口中の泡を吐き出した。
「お姉ちゃん、歯磨き終わったよ」
唇に泡をつけたまま、少年が振り返ってルーシャを見た。
「仕上げはお姉ちゃん、ね?」
少年の手にしている歯ブラシを受け取りながら、彼女は彼の口内をのぞき込んだ。
泡の残滓がいくらか絡み付く小さな歯が、整然と並んでいた。
「ふん、ふん・・・」
歯ブラシを差し入れ、真珠の粒のような少年の歯を一本ずつ、軽くこすってやる。
歯と歯の間や、奥歯のさらに奥、前歯の裏など、汚れが残りがちなところを磨いてやる。
「・・・・・・」
少年は口を開いたまま、じっとルーシャの仕上げを受けていた。
だが、視線はきょろきょろと虚空をさまよっており、おそらく少年が退屈なのだろうとルーシャに伝えていた。
「・・・はい、おしまい」
一通り口内を磨いてやると、彼女は歯ブラシを歯からはなした。
少年は洗面台に顔を伏せ、再び泡を吐き出すと、コップの水で口をすすいだ。
「歯磨きおしまい!」
口の周りをタオルで拭ってから、少年はルーシャに向き直った。
「お姉ちゃん!お話読んで!」
「はいはい、歯ブラシをきれいにしたらね」
少年と入れ替わり、洗面台に立ちながら、ルーシャは少年の求めに答えた。
蛇口をひねって水を出し、泡の付いた歯ブラシをすすぐ。
毛の生えそろった先端はもちろん、柄まですべてを水で清めてから、彼女は歯ブラシ立てに少年の歯ブラシを戻した。
「はい、おしまい」
少年に向き直ると、ルーシャはにっこりほほえみ、彼の手を取った。
「じゃあ、お部屋に行こうか?」
「うん!」
二人は手をつないだまま、廊下に出た。
そして台所を通り過ぎる際に、食器の片づけをしているオーガと男に、二人は声をかけた。
「歯磨き終わったから、寝かしつけるわね」
「お母さん、お父さん、おやすみなさい」
「はい、お休みシュン」
「ルーシャ様、よろしくお願いします」
食器を洗う手を止めた二人に見送られ、ルーシャと少年は少年の寝室に入った。
少年の部屋には、サイズの小さな衣装ダンスやベッド、机が並んでいる。
少年はルーシャから手を離すと、まっすぐに本棚に向かい、並ぶ本を物色し始めた。
「ええと・・・これ!」
一冊の本を抜き取り、ルーシャの元へ駆け寄って掲げる。
「お姉ちゃん、これ読んで!」
「はいはい、えーと・・・『キャプテン・アンジェリカ 冬の戦士の巻』ね」
子供向けのシリーズ童話のタイトルを読み上げると、彼女は少年とともにベッドに向かった。
少年は、毛布の下に体を滑り込ませ、ルーシャは少年の机からいすをたぐり寄せて、ベッドの傍らに座った。
「それじゃ、始まり始まり・・・」
少年の期待に満ちた視線を受けながら、彼女は本の表紙を開いた。
話の内容は、子供向けとは思えないほど起伏に満ちていた。
キャプテン・アンジェリカの、死亡していたかと思われていたかつての戦友が、実は教団に囚われていたという筋だった。
冬の間だけ現れる伝説の戦士となったかつての友人に、キャプテン・アンジェリカはどう挑むのか。
「『そして、アンジェリカが握る伝声管の向こうから、声が響きました。”馬鹿め、ラヴヤンは捕らえたぞ”』・・・」
物語の中盤、敵基地にキャプテン・アンジェリカが数人の仲間と潜入するあたりで、ふと彼女は少年の顔を見た。
少年はいつの間にか目蓋をおろしており、静かに寝息を重ねていた。
「・・・寝ちゃったのね・・・」
ルーシャは初めてだったため、読む方に集中しすぎてしまっていたが、少年には読みなれたお気に入りのお話だったのだろう。
そして昼間の疲労と満腹感、ルーシャがそばにいるという安心感が、彼を眠りの世界に誘ったのだ。
考えてみれば、昼食後の昼寝もしていなかった。
ぐっすり眠るのも当たり前だ。
「・・・・・・」
続きは気になっていたが、ルーシャは本を静かに閉じると、膝の上に置いた。
そして、静かに眠る少年の顔を見た。
まだまだあどけない、少年の寝顔。柔らかそうな唇が薄く開き、息がゆっくりと出入りを繰り返していた。
オムライスを一人前平らげ、歯磨きも一人で多少できるようになるなど、起きている間は彼の成長を見せられたが、こうして眠る姿はまだまだ幼かった。
本当に、彼が自分の夫として育つのかだろうか。ルーシャの胸中に疑問が浮かぶ。
「早く大きくなってね」
いつか自分と背丈を並べ、自分を優しく、強く抱きしめられるように。そんな思いを込めて、彼女は呟いた。
「ゆっくり大きくなってね」
いつまでも小さく、可愛らしく。いつまでも彼の世話ができるように。そんな思いを込めて、彼女は続けた。
早く成長してほしいが、いつまでもこうして彼の世話をしたい。
矛盾した感情が、ルーシャの胸の内に芽生えていた。
だが、実のところ矛盾などしていなかった。
明日、少年が逞しい男になっていることはないし、十年後も今の用事のような姿のままだという事もない。
彼はまだ人間だ。ゆっくりではあるが、成長していく。
そしてルーシャは魔物だ。いつまでも彼の成長を待つことができる。
「お休み、シュン」
ルーシャはそう少年に呼びかけると、そっと顔を近づけた。
彼女の唇が、少年の額に触れ、離れる。
唇にキスをするのは、もう少ししてからだ。
ルーシャは音を立てぬよう、いすを立ち、本を書棚に戻す。
足音を忍ばせながら部屋の扉を開いた。
「・・・・・・」
最後にベッドの上の毛布の膨らみを見てから、彼女は出ていった。
扉がそっと閉ざされ、後には闇と少年の静かな寝息だけが取り残された。
明緑魔界に分類される、地上と変わりない青空の下、魔物たちの住む街があった。
大小様々な建物が建ち並び、通りや区画を形成している。
そして、住宅が軒を連ねる通りを、一人の女が歩いていた。
ボディラインを強調した衣装に身を包み、銀髪をうなじの辺りで切りそろえた、背筋が冷えるような美貌を備えた女だ。
大きな翼と尻尾を備え、銀髪の間から角をのぞかせるその姿はサキュバスに似ていたが、身に帯びる魔力は桁違いだった。
なぜなら彼女こそ、魔界を統べる魔王とその夫の愛の結晶の一つだからだ。
両親の力を受け継ぎ、成長するにつれてその重みを増していく魔力の塊。
魔王夫妻の次に畏怖と崇拝を受ける対象であるリリムだったが、街を歩く彼女に威厳というものはなかった。
足取りも軽く、どこか楽しげな表情で、彼女は住宅街の間を進んでいた。
やがて、彼女は一軒の家屋の前で足を止めた。
髪に手を触れ、衣服を見下ろし、身だしなみを簡単に整える。
そしてこほんと咳払いを一つ挟むと、彼女は拳を握ってドアを叩いた。
「はぁい・・・」
「おはよう、ベル」
扉を開き、若干屈みながら顔を出した、雲を突くような背丈のオーガに、リリムはそう挨拶した。
「おはようございます、ルーシャ様」
オーガは、リリムの訪問に驚いた様子もなく、にっこりとほほえんで頭を下げた。
「彼を迎えに来たのだけど・・・」
「はい、もう準備できてます。シュンー!」
オーガは玄関先で振り返ると、家の奥に向けて声を上げた。
「ルーシャお姉さんが、迎えに来たわよー!」
「はーい!」
喜びを含んだ高い声が響き、ぱたぱたと足音が続く。
そして、リリムがその場に腰を屈め、オーガが軽く体を寄せて道をあけると、玄関から小さな影が飛び出した。
「ルーシャお姉ちゃん!」
「おはよう、シュン」
玄関から飛び出し、勢いよく抱きついてきた少年を軽く抱き返しながら、ルーシャは上擦った声でそう返した。
「昨日は早く寝た?」
「うん!お姉ちゃんとお出かけするから、早くベッドに入ったよ!」
少年から体を離して問いかけると、彼はそう応じた。
ルーシャがちらりとオーガに視線を向けると、オーガはにこにこしながら頷いていた。
どうやら、本当に早寝したらしい。
「そう。だったら、一日いっぱいお出かけできるわね」
「うん!」
勢いよく、うれしげに少年が頷くと、ルーシャはそっと立ち上がった。
「ルーシャ様、今日一日よろしくお願いしますね」
「なに言ってるのよ。いつも私の方が世話になってるじゃない。お礼を言うのは私の方だわ」
「そんな、滅相もない・・・」
「ルーシャお姉ちゃん!」
オーガと言葉を交わすリリムに、少年が痺れを切らしたように声を上げた。
「はいはい・・・じゃあ、続きは帰ってからね」
「はい。行ってらっしゃいませ」
オーガが頭を下げると、ルーシャは少年の手を取った。
「じゃあ、行こうか」
「うん!」
二人は言葉を交わすと、歩きだした。
ルーシャは魔王夫妻の何十番目かの娘である。
だが、旦那も恋人もいない。
二十年ほど世界をさまよい、今も夫探しの旅をしているが見つからなかった。
最近は夫探しだけでなく、ふと見かけた恋の悩みを抱える男女を手助けしてみたりもしていたが、彼女自身の男事情については何の進展もなかった。
その日、ルーシャは角や尻尾を隠し、人間と変わらぬ衣服に身を包んで、街を歩いていた。
悩める人がいないか、誰かいい人がいないか、探すためだった。
「もし・・・」
道を歩いていると、不意に横から声がかけられた。
見ると、道ばたに小さなテーブルを出して腰掛けた女が、ルーシャに向けて手招きしていた。
「なにかしら?」
無視してもよかったが、占い師に対して興味を抱いたルーシャは、足を止めてそう応じた。
「あなた・・・人を捜してるね?」
ルーシャの顔を見ながら、占い師がそういう。
「まあ、探してると言えば、探してるわねえ」
人というものはおおむね、人を捜している。特定の誰かであったり、条件に合う人物であったりと様々だが、人を捜していることには変わりない。
もっともらしい口調で、ごく当たり前のことを尋ねる占い師に、ルーシャは内心苦笑した。
「・・・・・・・・・男だ」
占い師はじぃ、とルーシャの顔を見つめると、一言漏らした。
「男を捜している。だが、特定の誰かではない。優しくて、自分を愛してくれる、素敵な男・・・」
「・・・!」
占い師の並べた言葉に、ルーシャは内心動揺した。
「恋人か旦那・・・なるほど、あなた独身だね」
何か納得がいったように、占い師が頷いた。
「あなた、今のまま探し続けていると、一生旦那はできないよ」
「なにを・・・」
警告というより、もはや断言に近い物言いに、ルーシャは口答えしそうになった。
「実際そうよ。あなたの眼鏡にかなう男なんて少ないし、そんな素敵な男が都合よく独り身でいると思う?」
「うぐ・・・」
幾度も自問した問いかけを改めて尋ねられ、ルーシャは答えることもできず声を漏らした。
「あなたが結婚、もしくは恋人を得る方法は二つある。一つは妥協。条件を下げて、適当な男と一緒になることだね」
「それは、ちょっと・・・」
ここまで何度か、結構いい条件の男はいた。だが、それでも妥協することなく探し続けてきたのだ。
だというのに、今更妥協して適当な男と結ばれては、過去にあきらめた男たちに対する未練が蘇りそうだった。
「だったらもう一つ・・・あなた自身の手で、理想の旦那を育てることだね」
占い師の言葉は、ルーシャに重い衝撃をもたらした。
「時間はかかるけど、あなたが手をかけた分だけ男は育つ。そうすれば、あなたのお好みの旦那ができあがるって寸法よ」
「でも・・・育てるって言っても・・・」
「孤児院に行けば子供なんていくらでもいる。赤子が欲しければ・・・明日、ここの南の方のパン屋の裏手のアパートで、身よりのない女が出産するよ。女は命を落とすけど、赤ん坊は無事に生まれる。ま、どうするかはあなたに任せるけどね」
ルーシャは無意識のうちに、南の方に目を向けていた。
明日、向こうで赤子が生まれる。
「言っておくけど、女が命を落とすのはもう確定している。今からなにをどうしても、助けられる命じゃない。あなたがすることは、赤ん坊をどうするか決めること。私に言えるのは、それまでよ」
「・・・・・・」
占い師がそう続けたが、ルーシャの腹は、既に決まっていた。
そして、ルーシャは生まれると同時に母を失った赤子を引き取った。
結婚より先に母親になったようで、ルーシャは妙な気分だった。
だが、赤子を育てる大変さは、彼女の内側から違和感を即座に消しとばした。
占い師の言葉に対する気軽な決心を悔やみながらも、彼女は赤子を育てようとした。
だが、吸われども乳のでない乳房では赤子を育てられない。
そこで、ルーシャは考えに考え、知り合いの夫婦を頼ることにした。
本来ならばホルスタウロスやエキドナを乳母にすべきなのだろうが、ルーシャが預けようとしているのは未来の旦那だ。
独身の魔物や、赤子とともに成長する魔物の子供が側にいては、未来の旦那を奪われかねない。
そこでルーシャが白羽の矢を立てたのが、オーガと人間の夫婦だった。
夜の夫婦生活は人並みにこなしているそうだが、なぜか二人には子供はできなかった。だというのに、オーガの乳房からは母乳が分泌されており、平均的な男性より小柄な旦那以外に飲む者がいなかった。
オーガとその夫は、ルーシャの連れてきた赤子を喜んで預かり、自分たちの子のように育てると約束してくれた。
やがて月日が過ぎ、赤子が幼児になり、立って歩きだし、言葉を覚えるようになった。
その間、ルーシャは度々二人の元を訪れ、赤子の成長にあわせて必要な物を届けたり、幼児を連れだして遊んでやったりした。
男児となった赤子は、オーガ夫妻にもルーシャにもよく懐き、ルーシャとのお出かけを待ち望むようになっていた。
「ルーシャお姉ちゃん、今日はどこに行くの?」
ルーシャと手をつないだ少年が、幼児の頃から変わらぬ笑顔で、彼女を見上げた。
「今日はね、動物園よ」
「動物園?」
聞きなれぬ単語に、少年が首を傾げる。
「いろんな動物を集めて、見せてくれる場所よ。ちょうどこの街に来てるから、そこに行くの」
「へー!楽しみー!」
表情のみならず、足取りにも期待を滲ませながら、少年は足を進めた。
やがて、二人は街のはずれの空き地に着いた。
普段ならばむき出しの地面や、草ぐらいしかない空き地だが、今はいくつものテントが並んでいた。
幾台もの荷馬車がぐるりと描く円の内側に、色とりどりのテントが軒を並べ、動物の鳴き声が響いていた。
「わぁ・・・!」
少年が、色鮮やかなテントに目を輝かせた。
「お姉ちゃん、早く早く!」
「はいはい」
せかすような足取りに、ルーシャは少年に会わせて縮めていた歩幅を少しだけ広げ、移動動物園の入り口に近づいた。
入り口の脇には、ツナギを着たサキュバスが立っていた。肩から提げた鞄をみるに、モギリをやっているらしい。
「大人一枚と、子供一枚お願い」
「はーい」
モギリのサキュバスが鞄から紙切れを二枚取り出し、ルーシャが自身と少年の入場料を支払う。
モギリは、ルーシャの差し出した貨幣を受け取ると、入場券の半券を渡した。
「どうぞ、楽しんでいってください」
サキュバスの笑顔に見送られながら、二人は移動動物園に入った。
いくつものテントが荷馬車の輪に沿って軒を並べ、中央にやや大きいテントが一つ立っている。
どうやら、テントの並びに沿って歩けば、一通り見て回ることができる作りになっているらしい。
「結構、お客さん多いわねえ・・・」
テントの間を歩く人や魔物の姿に、ルーシャはそう漏らした。
「シュン、迷子になるから、絶対に手を離したらだめよ」
「うん!」
ルーシャの言葉に、少年は力強く頷く。
何度か前のお出かけの際に、はぐれてしまったときの記憶はまだ新しいらしい。
「じゃあ、順番に見ていこうか」
「はーい」
少年とリリムは、人々の流れに沿って、テントの間を進み始めた。
「はぁ・・・癒されるわー・・・」
移動動物園のコース終盤、『おさわりコーナー』という看板の掲げられたテントで、ルーシャと少年は『おさわり』を満喫していた。
「ふわふわーやわらかーい」
少年が、両手で温もりを帯びた柔らかな塊をなでながら、そう呟いた。
「ずっとこうしてたい・・・」
「そうでしょ・・・魔界には、ウサギとかあまりいないからねえ・・・」
柵の中に離されていたウサギを抱きながらの少年の言葉に、ルーシャもまたウサギを抱きながら応じた。
二人はテントの下、柵の中にもうけられたベンチに座り、辺りにいる十数羽のウサギを堪能していた。
人なつっこいウサギたちは、柵の内側に入ってきたルーシャたちをおそれるどころか、自分たちから寄り添ってくるほどだった。
「あったかーい・・・」
膝の上のウサギをなでながら、少年がうっとりと呟いた。
「ふふ、すっかりウサギさんが気に入ったみたいね・・・」
ルーシャは微笑みながら少年を見ると、膝の上のウサギを地面に下ろし、ベンチを立った。
「ルーシャお姉ちゃん?」
「ちょっと待っててね・・・」
次は自分を抱いてくれ、と言わんばかりに足下に集まるウサギを踏まぬよう気をつけながら、ルーシャはベンチとウサギを囲む柵の縁に歩み寄った。
「すみません、ウサギのオヤツください」
柵の外からウサギたちを見守っていた係員に、ルーシャはそう求めた。
「はい、いくつ?」
「一人分でお願いします」
ルーシャが財布から硬貨を取り出すと、係員はそれを受け取りながら、木の器を彼女に手渡した。
細く、棒状に切られた人参が十数本器の中に入っている。
「なるべく、みんなにあげてね」
「はい」
係員の言葉に頷きながら、ルーシャは少年の座るベンチに戻った。
「はいお待たせ」
「ルーシャお姉ちゃん、それ、ウサギのご飯?」
「そうよー」
足下に集まるウサギをよけながら、彼女は少年の隣に腰を下ろした。
すると、ベンチの上にウサギが飛び乗り、我先にとルーシャの膝を奪い合う。
「はいはい、大丈夫よ、みんなにあげるからね」
器を頭の上に掲げ、ウサギたちに人参を奪われないようにしながら、ルーシャは器から一本人参を取った。
「シュン、手を挙げて」
「こう?」
掲げられた少年の手に、ルーシャは人参を手渡す。
「ウサギさんにご飯をあげるから、私のまねをしてね」
彼女はもう一本人参を取ると、膝の上でひしめき合うウサギに向けて手を下ろした。
すると、ウサギたちは立ち上がり、ゆっくりと降りてくる人参に向け、ひくつく鼻先を近づけようと背伸びをした。
やがて、一番背伸びをしていたウサギに、人参が届く。
「・・・・・・!」
ウサギは鼻息も荒く、降りてくる人参に食らいつくと、カリカリと音を立てながらかじり始めた。
ルーシャは、ウサギのかじる早さにあわせて、ゆっくりと人参を下ろしていった。
「はい、こんな感じ」
「じゃあ、僕も!」
少年も、ルーシャの腿の上ほどではないが、自分の膝の上に乗ったウサギに向けて、手の中の人参を下ろした。
一羽のウサギが、少年の人参に食いつく。
「わあ・・・食べてる・・・!」
人参を伝って、指に届く振動を感じながら、少年は膝の上のウサギが自分の手から人参を食べていることを実感していた。
ウサギはカリカリと人参をかじり、やがて細く切られたまるまる一本をその体内に納めた。
「お姉ちゃん、もう一本!」
「はい。今度は別のウサギさんよ」
係員から受けた言葉を思い出しながら、ルーシャは少年に新たな人参を手渡した。
「はい、今度はキミの番だよー」
膝の上のウサギを下ろし、少年はベンチの上にいた別のウサギを抱く。
そして、今し方もらったばかりの人参を、新たなウサギに近づけた。
ウサギは鳴き声一つたてず人参に食いつき、かじり始めた。
カリカリカリカリと、先ほどのウサギよりテンポの速い振動が彼の指に伝わった。
ウサギ一羽一羽にも微妙な違いがあるのだ。
模様や体格だけではないウサギの個体差を、少年は言葉では表せないものの、感じ取っていた。
そして、時折ルーシャから人参を受け取りながら、少年はウサギたちに人参を与え終えた。
可能な限り別のウサギに与えたつもりだったが、似た模様のウサギに二度やってしまったかもしれない。
「はい、おしまい。人参はもうないよ!」
少年がそういうと、ウサギたちはベンチの上から降りていった。
「ふふ、シュンの言葉がわかったみたいね・・・」
餌がもうないとわかった後のウサギの現金な態度に、ルーシャはほほえみながら立ち上がった。
「たぶん、ウサギさんは頭がいいんだよ」
「そうねぇ・・・」
ルーシャは頷いたものの、ウサギがそう頭のいい動物でないことを彼女は知っていた。だが、少年はそのことを知らない。
『おさわりコーナー』に入る前、ルーシャは少年に移動動物園の話をしてやった。
移動動物園は、動物たちを荷馬車で運び、あちこちの町で即席の動物園を開く、ある種のサーカスのようなものだった。
つれているのは魔界ではあまり見かけることのないただの動物ばかりで、魔界を出たことのない魔物にとっては人気の見せ物だった。
そして、生まれこそ人間界ではあるものの、魔界で育ってきた少年にとっても、移動動物園の動物たちは珍しかった。
仮に、ルーシャが未来の旦那だなどといって赤子を引き取っていなければ、少年はこれらの動物と自然に触れ合う機会があっただろう。
そして、ウサギが人の言葉を理解できるほど頭が良くないことを、彼は自然と学んだだろう。
「・・・・・・」
「ルーシャお姉ちゃん・・・?」
不意に黙り込んだルーシャに、少年は問いかけた。
「・・・っ、ごめんなさい・・・ちょっと、ぼんやりしてたわ」
時折胸中に芽生える後悔をごまかしながら、彼女は少年の言葉に応えた。
すると、きゅぅと小さくかわいらしい音が響いた。
「あ・・・」
「ウサギさんにご飯あげたから、ご飯食べたくなったのね」
少年の腹の音に、ルーシャは立ち上がった。
「じゃあ、ご飯にしましょうか」
「うん!」
ルーシャの申し出に、少年は大きく頷いた。
『おさあわりコーナー』を出て、移動動物園から出場した二人は、近くの料理店に入っていた。
高級なレストランなどではない、いわゆる大衆食堂に位置する店だ。
店員は、リリムの来店に一瞬驚いていたようだが、騒ぎ立てたりする様子はなかった。
ルーシャの姉に食べ歩きを趣味とする者がいるが、彼女が過去に来店したのかもしれない。
ルーシャと少年は、テーブル席を囲むと、壁に貼られたメニューをながめた。
「シュン、どれにする?」
「えーとねえ・・・」
そろそろ読み書きを覚え始めたほどの少年は、メニューの文字を眺めながら考えた。
幸い、この店は子供が好みそうなだいたいの料理がそろっている。メニューの文字が読めずとも、少年が食べたいものをいってくれれば、メニューに入っている可能性は高かった。
一丁前にメニューを眺める少年の様子を、ルーシャがほほえましく見守っていると、彼は不意に目を止めた。
「と、く、せ、い、オ、ム、ラ、イ、ス・・・オムライス食べたい!」
「あら・・・あなた、メニュー読めるの?」
壁に並ぶ文字を、途切れ途切れではあるものの読み上げた少年に、ルーシャは目を丸くした。
「うん!・・・でも、まだ書けない・・・」
「読めるだけでも立派よ。偉いじゃない、シュン!」
予期せぬ少年の成長を目にし、ルーシャは手を伸ばして彼の頭を撫でた。
「じゃあシュンがオムライスなら・・・私はオニオンスープにしようかしら」
値段と料理名から、ルーシャは軽めの食事を選んだ。
腹が減っていないわけではない。少年一人ではオムライスを食べきることができないだろうから、後で手伝ってやるために自分の分を減らしたのだ。
「すみませーん」
ルーシャは軽く手を挙げながら、店員を呼んだ。
「はい?」
「オニオンスープと」
「オムライス!」
「を、お願いします」
「かしこまりました」
店員は、ルーシャと少年の注文に頭を下げ、厨房の方へ向かっていった。
「えへへ・・・楽しみだね、お姉ちゃん」
料理が待ちきれないという様子で、少年はルーシャを見上げた。
「そうね。でも、お行儀よく待たないとダメよ」
「うん!」
ルーシャの一言に、少年は背筋を伸ばし、両手を膝の上に揃えた。
心なしか表情も、お行儀よくしようとしているためか、ややかしこまったものになっていた。
「ふふ」
少年の普段の雰囲気に合わないかしこまった顔つきと、自分の言葉に忠実に従おうとする子犬のような従順さに、ルーシャは思わず噴出しそうになってしまった。
「なに?お姉ちゃん?」
「何でもないわ、うふふ」
眉間にしわを寄せ、精一杯のお行儀よくを表情でも表現しながらの少年の問いに、ルーシャは微笑みながら答えた。
「お待たせしました。オニオンスープです」
横から響いた店員の声に少年の表情が一瞬輝くが、直後軽い落胆めいたものが浮かんだ。
少年の注文した、オムライスではないからだ。
「あらら、先に私の頼んだのが届いちゃったわねえ・・・」
湯気を立てる器を見ながら、ルーシャは困ったようにつぶやいた。
少しだけ色づいたコンソメスープの中に、半透明のタマネギと刻んだベーコンや野菜が沈んでおり、食欲をそそられる香りを放っていた。
だが、少年の目の前で食べ始めるわけにもいかない。
少年の表情を伺うと、彼はテーブルの上のオニオンスープを見つめ、『こっちにしておけばよかった』と言わんばかりの後悔を表情に浮かべていた。
「シュン、オムライスがくる前に、一口どう?」
空腹の少年に、ルーシャはそう問いかけた。
「え・・・いいの?」
オムライスがくるまで、我慢するつもりだったのか、少年は意外そうな顔でルーシャを見返した。
「おなかペコペコなんでしょ?少しあげるわよ」
「じゃあ、いただきます!」
少年はルーシャの好意を受け入れ、遅れて感謝を込めて頭を下げた。
少年の感謝に、ルーシャはスプーンをとると、透き通ったコンソメをすくった。
「ふぅ・・・ふぅ・・・」
唇を窄め、未だ湯気を立てるスプーンの上の一すくいに数度息をかけると、彼女は少年にスプーンを向けた。
「はい、あーん」
「お、お姉ちゃん・・・」
少年は差し出されたスプーンに顔を赤くすると、ちらちらと左右に目を向けた。
食堂の客の数人が、ルーシャと少年に微笑ましげに視線を送っていた。
「お姉ちゃん・・・みんな、見てるよ・・・」
子犬が戯れるのを見ているかのような優しい視線であったが、少年には羞恥をもたらすものだったらしい。
「いいじゃない」
「でも、あーんだなんて、赤ちゃんみたいで・・・」
「私が家にきたときは、『あーんして』って言うじゃない?」
「それは・・・」
家にいる間のじゃれ合いを持ち出され、少年は言葉に詰まった。
同時に、少年のおなかがきゅるきゅると音を立てた。恥ずかしくても、腹は減るらしい。
「ほら、あなたのお腹も『ご飯食べたいよー』って言ってるわよ?はい、あーん」
「・・・っ!あーん!」
少年は目をぎゅっと閉じ、顔を赤くしたまま口を開いた。
ルーシャは少年の小さな口にスプーンを差し入れた。
舌に触れたスプーンの温もりに、少年が唇を閉ざしてスプーンを咥える。
そして唇の間からスプーンを引き抜くと、コンソメスープが彼の口の中に取り残された。
「・・・・・・ん・・・おいしい・・・」
恥ずかしさをこらえるように目を閉じていた少年が、その人こととともに目を開いた。
「おいしい!お姉ちゃん!」
「よかったわね」
空腹のせいもあるだろうが、おいしいと感じられる料理が増えたことに、ルーシャは静かに喜んでいた。
これで、オニオンスープが彼の好物になってくれるといい。
「もう一口、どう?」
「えっと・・・」
少年が自分の空腹と、もう一度あの恥ずかしさを味わうこととを天秤に掛けていると、テーブルのそばに店員が歩み寄った。
「お待たせしました、オムライスです」
「よかった・・・」
自分の注文した料理の到着に、少年はほっと一息ついた。
「ごゆっくり」
「ええ、楽しませてもらうわ」
湯気を立てる皿を盆に乗せたまま、先ほどまでのルーシャと少年のやりとりを見守っていた店員に、彼女はそう返した。
「じゃあ、ちょっとフライングしちゃったけど、いただきましょうか」
「うん!」
少年とルーシャは指をくみ、同時に言葉を口にした。
「いただきます」
そして、二人は改めてスプーンを手にとった。
少年の前のオムライスは、卵でチキンライスを包み込んだものではなく、チキンライスの上にオムレツが乗ったものだった。
オムレツには切れ目が入っており、ふわふわとろとろの中身をさらしながら、チキンライスに覆い被さるように口を開いていた。
少年のスプーンが、オムライスの端の方に刺さり、小さな一口分をすくいとった。
「あーん」
無意識のうちだろうか、少年が声に出しながら口を開き、オムレツの切れ端と少しのチキンライスを口の中に運んだ。
「んー!」
口を閉じたまま、少年が声を漏らす。
どうやら、それほどおいしいものだったらしい。
「おいしい?」
ルーシャはオニオンスープを口に運び、少年が口の中のオムライスを飲み込むまで待ってから、そう問いかけた。
「うん!おいしいよお姉ちゃん!」
空腹が癒される快感に加え、自分で選んだ料理がおいしかったという満足感もあるためだろうか、少年は心底嬉しげに彼女に答えた。
「よく噛んで食べるのよ」
「うん!」
ルーシャの注意に、少年は次の一口を頬張った。
一口目よりやや多かったためか、少年の頬はリスのように膨れていた。
彼は唇を閉じたまま、もぐもぐと口内のオムライスを咀嚼し、数度に分けて飲み込んでいった。
「ぷはぁ・・・!」
口内のものを飲み込むと、彼は一息ついてから、次の一口をスプーンに取る。
見ているだけで腹が満たされていくような、少年の食事の様子に、ルーシャはいつしか手を止めてしまっていた。
やがて、少年はオムライスの半分を食べていた。
いつもならば、そろそろ満腹になって手が遅くなる頃だが、今日の少年はゆっくりになるどころか、むしろ勢いが増しているようだった。
「シュン、大丈夫?お腹いっぱいになったら、私に言うのよ?」
「大丈夫!全部食べられるよ!」
ルーシャの問いに、少年は手を止めて答えた。
そして、変わらぬ勢いで次の一口を口に運ぶ。
一口、また一口とオムライスが皿の上から消えていき、とうとうチキンライスの粒がいくつかと、オムレツのとろとろの中身がほんの少しだけ皿に残されるばかりとなった。
つまりは、完食したわけだ。
「ふぅ・・・おいしかったぁ・・・」
スプーンを皿に置き、息をつきながら少年は満足そうに呟いた。
ついこの間まで、ルーシャが手伝ってやらねばならなかったというのに。彼女は、少年の早い成長に、内心驚きながらも喜んでいた。
そして、ルーシャが遅れてオニオンスープを平らげてから、二人は食堂を出た。
ルーシャは満腹ではなかったが、それでも少年の成長に心地よい満足感を覚えていた。
「おいしかったわね」
「うん・・・」
満腹になって眠くなったのだろうか。ルーシャの言葉に、少年が若干力のない声で答えた。
「これからどうしようかしら?ちょっとお昼寝する?」
「・・・ん・・・」
大分眠気が強まってきたらしく、少年はうめき声のような返答をした。
「もう少しがんばってね」
確かこのあたりに、ベンチぐらいしかない広場めいた公園があったはずだ。
あそこならば、多少昼寝をするにはちょうどいいかもしれない。
どこか足取りのおぼつかない少年の手を握ったまま、ルーシャは公園を目指した。
程なくして彼女は公園を見つけ、二人で入っていった。
そして、通りから離れた静かそうな木陰のベンチに近づくと、軽くベンチを撫でた。
汚れも、木材のささくれもない。少年が寝転がっても大丈夫なようだ。
「はい、どうぞ」
ルーシャはベンチの片側に少年を座らせると、反対側に自信が腰掛け、軽く太腿をたたいた。
「・・・・・・」
少年は無言で体を倒し、彼女の膝枕の上に頭を乗せた。
「よしよし・・・」
少年の邪魔にならぬ程度に声をかけながら、彼女は軽く彼の頭を撫でた。
少年の柔らかな髪の毛が、ルーシャの手のひらを撫でていく。
ルーシャの太腿の柔らかさと頭を撫でる手に、少年は安堵を覚えて眠るはずだった。
だが、少年は目こそ閉じてはいるものの、眠っているとき特有の穏やかな呼吸に、いつまで経っても落ち着かなかった。
「シュン・・・?」
ゆっくりではあるものの、どこか意図的に落ち着かせているようにも聞こえる少年の呼吸に、ルーシャは問いかけた。
「眠れない・・・いや、どこか調子が悪いの?」
「・・・うん・・・」
少年は、リリムの問いかけに小さく頷いた。
「おなかが・・・すこし、いたい・・・」
どこか我慢している様子の、小さな少年の声に、ルーシャは頭の芯に氷が突き刺さったような心地になった。
「いつから!?」
「ご飯食べて・・・お店出てすこししてから・・・」
絞り出すような少年の返答に、ルーシャの頭の内側をいくつもの考えが巡った。
オムライスに使った卵が古かった?
移動動物園の『おさわりコーナー』でウサギから病気をもらった?
少年の腹痛の原因は、いくらでも考えられた。
だが、ここでいくら考えたところで、彼の痛みが治まるわけではない。
「病院・・・!」
ルーシャは少年の背中と膝の裏に手を差し入れると、ひょいと抱き上げた。
そして、極力少年を揺らさないように気をつけながら、彼女は翼をばさりと広げて飛んだ。
ハーピーのように、羽ばたいて飛ぶのではない。魔力で浮力を得ての非行だ。
彼女は町の上空に浮かぶと、目を見開いて並ぶ建物を見回した。
そして、軒先に『クリニック』という文字の並ぶ看板を掲げた建物を、彼女は見つけた。
「あった・・・!」
魔力の流れを操り、彼女は自由落下に等しい勢いで、見つけだした病院に向けて飛行した。
風の障壁を張ることで、速度によって生じた風が少年の体温を奪わぬようにする。
飛行と障壁の魔術の併用により、ルーシャの魔力は削られていくが、彼女に躊躇いはなかった。
やがて彼女は地面に近づくと落下の勢いを浮力で殺し、ふわりと地面に降り立った。
そして看板の下の扉を、ルーシャは勢いよくあけた。
「ごめんください!」
叫ぶような大声で、受付窓口に駆け寄ると、彼女は受付にいたワーシープの看護婦に向けてまくし立てた。
「すみません!連れの子供が、お腹が痛いと言い出して・・・!」
「あの・・・うち、睡眠専門のクリニックなんですけど・・・」
どこか困った様子で、ワーシープがルーシャに返す。
「でも、お医者でしょう!?ちょっと様子を見るだけでも・・・!」
「確かに先生は医者ですけど、ちょっと専門外というか・・・」
「どうしたの?騒がしい・・・」
待合室の壁に並ぶドアが開き、白衣をまとったナイトメアが姿を現した。
「あ、先生。こちらのリリム様が、子供がお腹が痛くなったって・・・」
「ん・・・」
ワーシープの看護婦の説明に、ナイトメアの表情に険しいものが浮かぶ。
「ええと・・・おか、いやお姉・・・リリム様。その子は人間ですか?」
「ええ」
「君、近所の小児科に、連絡の準備を・・・」
「先生?」
ナイトメアの指示に、ワーシープが困惑する。
「人間は魔物より遙かに脆い。特に子供など、ちょっとした病気で簡単に死んでしまう。この子が大きな病気をしているかもしれないから、早く!」
「は、はい!」
ワーシープは、ナイトメアの説明にようやく事の重大性を理解したのか、受付から立ち上がった。
「そこに寝かせてください」
「はい」
ルーシャはナイトメアの指示のまま、抱えていた少年を待合室のソファに寝かせた。
「症状は、腹痛ですか?」
痛みをこらえて顔をゆがめる少年の腹に触れながら、ナイトメアがルーシャに問いかけた。
「ええ。お昼を食べた後、少し歩いてから」
「昼にはなにを?」
「ここから少し南の食堂のオムライスと、オニオンスープを少し・・・」
「・・・・・・」
少年の腹に触れていたナイトメアが、不意に手を止めた。
「なるほど・・・」
ナイトメアは小さく頷くと。少年の肩をつかんで、右肩を下にするように横臥の姿勢をとらせた。
「そのまま、じっとして・・・口を開けて・・・」
少年に向けてそう話しかけながら、ナイトメアの手が腹と胸の間のあたりを軽く押した。
「・・・けぷっ・・・」
すると、少年の口から、げっぷが一つ漏れた。
「・・・あれ・・・?痛くなくなった・・・」
げっぷの直後、少年のしかめられていた顔が驚いたようなものに変わり、狐に摘まれたかのようにそう呟いた。
「シュン?大丈夫・・・?」
「うん・・・もう、痛くない・・・」
つい先ほどまでの苦痛は何だったのか、とでも言いたげな様子で、少年は首を傾げながら身を起こした。
「やっぱり・・・そうか」
疑問符を浮かべるルーシャと少年をよそに、ナイトメアは一人納得したように頷いていた。
「あの、一体なにが・・・?」
「簡単なことです。腹痛の原因は、食べ過ぎでした」
若干言いづらそうに、ナイトメアはルーシャの問いに答えた。
「腹の張り方を見るに、この子はオムライスかオニオンスープを一人で全部平らげたのでしょう?」
「まあ・・・」
おいしいおいしいと、目の前でオムライスを食べていた少年の姿を思い返しながら、彼女は頷いた。
「この年の子に、まだオムライス一人前は多すぎます。空腹の助けを借りれば食べきれないこともないでしょうが・・・」
「それで、お腹が痛くなった・・・と」
「はい」
ルーシャの言葉に、ナイトメアは頷く。
「・・・・・・お騒がせして、すみませんでした」
「いえ、大事じゃなくてよかったです。でも、これからはくれぐれも気をつけてくださいね?今回は胃の空気を出してやってどうにかなりましたが・・・」
ナイトメアの、魔王の娘に対する丁寧なお説教は、それからしばらく続いた。
しばらくして、二人がクリニックの玄関をくぐると、夕方ではないものの太陽は大分傾いていた。
これからどこかに寄るには、少々遅いだろう。
「お姉ちゃん・・・ごめんなさい・・・」
ナイトメアに延々と説教されていたルーシャに、少年はどこか申し訳なさそうに頭を下げた。
「こっちこそごめんね。シュンがおいしいおいしいって食べてるのを止めなくて、痛い思いさせちゃって・・・」
そう、ルーシャが少年の限界を把握し、オムライスを手伝ってやっていれば、彼を腹痛にせずにすんだのだ。
「でも、僕も・・・」
「もう謝らなくていいわ。なにもなかったってだけで、十分よ」
なおも謝ろうとする少年に、ルーシャは腰を屈めて視線の高さを揃えながら、彼の頭に触れた。
「一人で食べられるってところ、見せたかったのよね?」
「うん・・・」
「私も、シュンがたくさん食べてるのを見るのはちょっと楽しかったわ。でも、私が嬉しそうだからって、無理しちゃダメよ?これからはお腹いっぱいの少し前で止めるように」
「腹八分目、だね」
「よく知ってるわね」
少年の言葉に、ルーシャは彼の知識を賞賛しつつ、頷いた。
「じゃあ、今日はもう帰ろうか」
「え・・・うん、そうだね・・・」
一瞬、少年は不満そうな表情を浮かべるが、すぐにルーシャの言葉を受け入れた。
今日は少年が原因で、午後の予定がつぶれてしまったのだ。お出かけがおしまいになっても仕方がない。
そう、彼は考えていた。
「あら?今日はもう少しお出かけしてたい、って言わないの?」
普段ならばルーシャとの別れを惜しみ、少しだけ駄々をこねるはずの少年に、彼女は首を傾げた。
「今日は僕が悪かったから・・・」
罰として今日のお出かけはもうおしまい。言葉尻を濁しながらも、少年はそう返した。
「お姉ちゃん、今日も楽しかったです。ちょっと早いけど、ありがとうございました」
玄関でのお別れに備え、少年はあえてそう別れの言葉を口にした。
「あらそう?今日は晩ご飯、シュンの家で一緒に食べようと思ってたんだけど」
「え・・・?」
「だって、今日のお昼はシュンのオムライスを少し分けてもらうつもりだったから・・・ほら」
きゅう、と少年とルーシャの間で、小さな音が響いた。
腹の鳴る音だが、少年のものではない。
「私はお腹ペコペコ」
ルーシャの腹の虫に、少年は驚いたような顔をしていた。
「というわけで、今日は一緒に晩御飯食べていいかしら?」
「う、うん!」
もう少しだけルーシャと一緒にいられる。
その事実をようやく理解し、少年は大きく頷いた。
「じゃあ、帰ろうか」
ルーシャは立ち上がると、少年と手をつないで歩きだした。
少年の歩幅にあわせ、歩幅を小さく、足並みを揃えながら、二人は街の中を進んでいく。
やがて、太陽が大分傾いてきた頃、二人は住宅街の一角にたどり着いた。
「ただいまー!」
ルーシャが扉をノックし、少年が声を上げる。
すると、少しの間をおいてから、玄関が開いた。
「お、お帰りなさい、ルーシャ様」
玄関から顔をのぞかせた、少年の兄ほどの年にも見える男が、ルーシャに向けて頭を下げた。
「今日はお早いですね」
「ええ、ちょっと今晩は晩ご飯を一緒にしようと思って」
「そうですか。それはシュンも喜びます。よかったなあ、シュン」
「うん!」
義父の言葉に、少年は大きく頷いた。
「どうぞ、あがってください。ちょうどついさっき、妻が料理の準備を始めたところですので」
「あら、だったら私も手伝おうかしら」
夕食の席に乱入するようなものだから、少しは手伝わないと。ルーシャはそう考えた。
「ルーシャ様の手料理ですか!楽しみですねえ」
ルーシャと少年を玄関に迎え入れながら、男は期待のこもった声で言った。
「シュン、お外から戻ったら?」
「手洗い、うがい!」
「私もね」
男の言葉に、ルーシャと少年は洗面所に向かい、手を洗ってうがいをした。
「じゃあ、私はお母さんの料理を手伝うから、シュンはお父さんと待っててね」
「うん!」
「シュン、ご飯の前に風呂に入ろうか?」
ぼんやり待つよりかは、と着替えやタオルを手にした男が、洗面所をのぞいてそう少年に声をかけた。
「そうね、ご飯ができるまでもう少しかかるだろうし、その方がいいわね」
男の提案に、彼女は頷いた。
「シュン、肩まで浸かって五十数えるのよ」
「はーい」
そうシュンに言うと、ルーシャは台所に入った。
「お邪魔するわね」
「ルーシャ様!」
台所に現れたリリムに、包丁を手にしていたオー我が目を丸くする。
「突然で悪いけど、今日は晩ご飯を一緒したくて・・・」
「あらあら、だったら少し多めに作りませんと」
「手伝うわ」
「そんな、お客様に料理を作らせられませんよ」
ルーシャの申し出に、オーガはあわてた様子で手と顔を振った。
「晩ご飯に乱入させてもらうんだから、これぐらいしないと」
「でも・・・」
「それに、シュンとあなたの旦那に、私が料理を手伝うって言っちゃったのよ」
「はぁ・・・シュンはともかく・・・うちの旦那は・・・」
夫が遠回しにお客に料理をさせようとしていたということに、オーガはため息をついた。
「仕方ないですねえ。では、手伝っていただきましょう」
「よろしくね」
オーガの傍らに立ちながら、ルーシャは微笑んだ。
「それで、今日のメニューは?」
「野菜スープと、肉野菜の炒め物と、サラダです」
「へぇ・・・野菜づくしね」
オーガらしからぬ、豪快さから離れたメニューに、ルーシャは思わず呟いていた。
「ええ、ルーシャ様の未来の旦那様を預かってますし・・・それに、うちの旦那が、野菜を食べると体が大きくなるってどこからか聞いてきたらしくて・・・」
年齢的には成長期から外れてしまっているというのに、それでも一抹の希望に縋ろうとする夫に、オーガは苦笑した。
「とにかく、サラダと炒め物はまだですし、スープもついさっき火にかけたばかりだから、まだ間に合います」
「それはよかった」
すでに料理がほぼできあがっており、三人分を四人で分けあう事態を避けられたことに、ルーシャは安堵した。
「じゃあ、なにをしようかしら?」
「私が野菜を刻みますので、ルーシャ様は野菜をスープに追加して、味を調えてください。野菜炒めは、私が作ります」
「サラダは?」
「スープの味を調えてから、お願いします」
「わかったわ」
オーガの指示に、ルーシャは鍋の前に立った。
ふたを開くと、ふわりと煮込まれた野菜の匂いが立ち上った。
適度な大きさに刻んだキャベツに、人参やタマネギ、そしてトマトがスープの中に浸っていた。
「ルーシャ様、お願いします」
あっと言う間に野菜を刻み終えたオーガが、ルーシャにそう呼びかける。
「はい」
彼女はオーガから野菜の入ったボウルを受け取り、中身をスープに落とした。
野菜の投入に時間差はあったが、しばらく煮込めば違いがわからないほど柔らかくなるだろう。
ルーシャはしばらく待ってから、スープの上澄みを小皿にとって、口に含んだ。
今し方入れた野菜から水が出ることを考えると、もう少し塩が強い方がいいだろうか。
調理代に並んでいた塩の小瓶をとり、鍋に向けて数度振る。そして、再びスープの味を確かめた。
「こんな・・・ものかしら?」
小皿を置き、お玉で鍋の中身を少し混ぜ、上と下を入れ替えながらルーシャは呟いた。
「大丈夫だと思いますが、もう少し待ってからもう一度味を見ましょう」
「そうね」
オーガの提案に、ルーシャは頷く。野菜に味が染み、水分が出てから最終的な調整をしよう。
「次は、サラダね」
「場所を空けますので、よろしくお願いします」
野菜炒めに使うつもりの野菜を手にしたオーガと、ルーシャは場所を入れ替えた。
その後、特にトラブルもなく二人は料理を作り、配膳した。
そして腹を空かせる男二人を呼び、四人で食卓を囲んだ。
多少手を貸しただけにすぎないと言うのに、ルーシャの料理は好評だった。
「お姉ちゃん、おかわり!」
スープを味わった少年が、ルーシャに言う。
「ふふ、あまり慌てるとまたお腹が痛くなるわよ?」
食事の合間、昼間の出来事を反省も込めて披露したルーシャは、少年をたしなめるように言った。
「ちゃんとよく噛んで食べるなら、お代わりしてもいいわよ」
「よく噛んで食べるよ!」
オーガの言葉に、少年が頷いた。
「そんなに言うなら、仕方ないわね」
少年の食欲に、ルーシャはいすから腰を浮かそうとした。しかし、テーブルを囲んでいたオーガが彼女をとどめるように立ち上がった。
「ルーシャ様、私が注いできます」
オーガが席を立ち、少年の皿を受け取る。
「あら、私が頼まれたのに・・・」
「いいんです。私もお代わりしようと思ってたところですから」
オーガはやや恥ずかしげに言うと、自分の皿も手にとって、台所へと向かっていった。
「ねえ、お姉ちゃん」
オーガが席を離れたところで、ふと少年が問いかけた。
「今日は、お泊まりしていくの?」
「うーん、そうねえ・・・」
たまに泊めてもらうこともあったが、今日は着替えなどの準備をしていない。
だが、少年の瞳には、泊まっていってほしいという願望が宿っていた。
「お泊まりはできないけど、シュンが眠るまで一緒にいてあげるわ」
「ほんと!?」
お泊まりはできない、という言葉に一瞬悲しげになったものの、少年は表情を輝かせた。
「いいんですか、ルーシャ様?」
男が、ルーシャに申し訳なさそうに言った。
「いいのよ。私のせいで午後の予定が丸々つぶれちゃったし、そのお詫びよ」
それに、ルーシャ自身ももう少し長く少年と過ごしたかった。
「ご飯食べて、歯を磨いて・・・それからベッドに入るわね?」
「うん!」
少年が大きく頷くと同時に、皿を手にしたオーガが部屋に戻ってきた。
「あらあら、ご機嫌じゃないシュン。何かいいことあったの?」
「うん!ルーシャお姉ちゃんが、僕が眠るまで一緒にいてくれるって!」
「あらぁ、すみませんルーシャ様」
「いいのよ。私も久しぶりにお話の読み聞かせをしたいし」
皿をテーブルに置きながらのオーガの言葉に、ルーシャは答えた。
すると、オーガは少年の方を向きながら、どこかからかうような口調で尋ねた。
「あら、シュン。あなたもうお話の読み聞かせは、卒業したんじゃなかったかしら?」
「あら、そうなのシュン?」
「う・・・」
オーガとルーシャ、二人の視線に、少年が困ったように顔をこわばらせた。
「・・・お母さんのは卒業したけど、お姉ちゃんには読んでもらいたい・・・」
「あらあらあら」
少年の出した答えに、ルーシャは『自分は特別』と言われたようで、笑みがこぼれるのを止められなかった。
「それじゃあご飯食べたら、どの本を読んでほしいか選ばないとね」
微笑みながらルーシャが言うと、少年はこくりと頷き、スープ皿と口の間でスプーンを往復させた。
「ほらほらシュン、よく噛んで食べるって約束だったじゃない」
「またお腹が痛くなるぞ?」
オーガと男、二人の注意に少年は一瞬動きを止め、スプーンを動かす速度を遅くした。
これならばお代わりしなければよかった。少年の動きには、後悔がわずかににじんでいるようだった。
しかしそれでも、少年はスープを飲み干し、炒め物もサラダも平らげた。
両手をあわせて、食材と両親とルーシャに感謝の言葉を捧げ、少年はいすを降りた。
「シュン、私は片づけを手伝うから、歯磨きしてきなさい」
ルーシャはそう少年に言うが、オーガが頭を振った。
「ルーシャ様。片づけは私がしますから、シュンの歯磨きの手伝いをお願いします」
「え?でも・・・」
「シュン一人じゃ、まだ完璧に磨けないんですよ」
ルーシャに向けて、男が言葉を続けた。
「磨き残しがないかどうか、チェックしてやってください」
「わかったわ」
少しでも少年と一緒に過ごす時間を増やしてやろう、という二人の気遣いに、ルーシャは感謝した。
食卓を離れ、洗面所に入ると、鏡の前に踏み台を置いた少年が歯を磨いていた。
口を開き、小さな歯ブラシを動かしている。
「んぁ、おへぇひゃん」
「ふふ、ちゃんと磨けてるかしら?」
少年の後ろに立ち、鏡面越しに彼と視線を合わせながら、ルーシャは問いかけた。
「上の歯、下の歯、前歯、奥歯・・・」
昔、姉かメイドか、母に聞かされた歯磨きの歌を口ずさみながら、彼女は少年が歯を磨く様子を見ていた。
前回お泊まりしたときは、まだオーガに歯を磨いてもらっていたが、こうしてみるとなかなか一人前に磨けているようだった。
「・・・・・・んべ」
微笑ましく少年の歯磨きを見守っていると、彼は洗面台に顔を伏せ、口中の泡を吐き出した。
「お姉ちゃん、歯磨き終わったよ」
唇に泡をつけたまま、少年が振り返ってルーシャを見た。
「仕上げはお姉ちゃん、ね?」
少年の手にしている歯ブラシを受け取りながら、彼女は彼の口内をのぞき込んだ。
泡の残滓がいくらか絡み付く小さな歯が、整然と並んでいた。
「ふん、ふん・・・」
歯ブラシを差し入れ、真珠の粒のような少年の歯を一本ずつ、軽くこすってやる。
歯と歯の間や、奥歯のさらに奥、前歯の裏など、汚れが残りがちなところを磨いてやる。
「・・・・・・」
少年は口を開いたまま、じっとルーシャの仕上げを受けていた。
だが、視線はきょろきょろと虚空をさまよっており、おそらく少年が退屈なのだろうとルーシャに伝えていた。
「・・・はい、おしまい」
一通り口内を磨いてやると、彼女は歯ブラシを歯からはなした。
少年は洗面台に顔を伏せ、再び泡を吐き出すと、コップの水で口をすすいだ。
「歯磨きおしまい!」
口の周りをタオルで拭ってから、少年はルーシャに向き直った。
「お姉ちゃん!お話読んで!」
「はいはい、歯ブラシをきれいにしたらね」
少年と入れ替わり、洗面台に立ちながら、ルーシャは少年の求めに答えた。
蛇口をひねって水を出し、泡の付いた歯ブラシをすすぐ。
毛の生えそろった先端はもちろん、柄まですべてを水で清めてから、彼女は歯ブラシ立てに少年の歯ブラシを戻した。
「はい、おしまい」
少年に向き直ると、ルーシャはにっこりほほえみ、彼の手を取った。
「じゃあ、お部屋に行こうか?」
「うん!」
二人は手をつないだまま、廊下に出た。
そして台所を通り過ぎる際に、食器の片づけをしているオーガと男に、二人は声をかけた。
「歯磨き終わったから、寝かしつけるわね」
「お母さん、お父さん、おやすみなさい」
「はい、お休みシュン」
「ルーシャ様、よろしくお願いします」
食器を洗う手を止めた二人に見送られ、ルーシャと少年は少年の寝室に入った。
少年の部屋には、サイズの小さな衣装ダンスやベッド、机が並んでいる。
少年はルーシャから手を離すと、まっすぐに本棚に向かい、並ぶ本を物色し始めた。
「ええと・・・これ!」
一冊の本を抜き取り、ルーシャの元へ駆け寄って掲げる。
「お姉ちゃん、これ読んで!」
「はいはい、えーと・・・『キャプテン・アンジェリカ 冬の戦士の巻』ね」
子供向けのシリーズ童話のタイトルを読み上げると、彼女は少年とともにベッドに向かった。
少年は、毛布の下に体を滑り込ませ、ルーシャは少年の机からいすをたぐり寄せて、ベッドの傍らに座った。
「それじゃ、始まり始まり・・・」
少年の期待に満ちた視線を受けながら、彼女は本の表紙を開いた。
話の内容は、子供向けとは思えないほど起伏に満ちていた。
キャプテン・アンジェリカの、死亡していたかと思われていたかつての戦友が、実は教団に囚われていたという筋だった。
冬の間だけ現れる伝説の戦士となったかつての友人に、キャプテン・アンジェリカはどう挑むのか。
「『そして、アンジェリカが握る伝声管の向こうから、声が響きました。”馬鹿め、ラヴヤンは捕らえたぞ”』・・・」
物語の中盤、敵基地にキャプテン・アンジェリカが数人の仲間と潜入するあたりで、ふと彼女は少年の顔を見た。
少年はいつの間にか目蓋をおろしており、静かに寝息を重ねていた。
「・・・寝ちゃったのね・・・」
ルーシャは初めてだったため、読む方に集中しすぎてしまっていたが、少年には読みなれたお気に入りのお話だったのだろう。
そして昼間の疲労と満腹感、ルーシャがそばにいるという安心感が、彼を眠りの世界に誘ったのだ。
考えてみれば、昼食後の昼寝もしていなかった。
ぐっすり眠るのも当たり前だ。
「・・・・・・」
続きは気になっていたが、ルーシャは本を静かに閉じると、膝の上に置いた。
そして、静かに眠る少年の顔を見た。
まだまだあどけない、少年の寝顔。柔らかそうな唇が薄く開き、息がゆっくりと出入りを繰り返していた。
オムライスを一人前平らげ、歯磨きも一人で多少できるようになるなど、起きている間は彼の成長を見せられたが、こうして眠る姿はまだまだ幼かった。
本当に、彼が自分の夫として育つのかだろうか。ルーシャの胸中に疑問が浮かぶ。
「早く大きくなってね」
いつか自分と背丈を並べ、自分を優しく、強く抱きしめられるように。そんな思いを込めて、彼女は呟いた。
「ゆっくり大きくなってね」
いつまでも小さく、可愛らしく。いつまでも彼の世話ができるように。そんな思いを込めて、彼女は続けた。
早く成長してほしいが、いつまでもこうして彼の世話をしたい。
矛盾した感情が、ルーシャの胸の内に芽生えていた。
だが、実のところ矛盾などしていなかった。
明日、少年が逞しい男になっていることはないし、十年後も今の用事のような姿のままだという事もない。
彼はまだ人間だ。ゆっくりではあるが、成長していく。
そしてルーシャは魔物だ。いつまでも彼の成長を待つことができる。
「お休み、シュン」
ルーシャはそう少年に呼びかけると、そっと顔を近づけた。
彼女の唇が、少年の額に触れ、離れる。
唇にキスをするのは、もう少ししてからだ。
ルーシャは音を立てぬよう、いすを立ち、本を書棚に戻す。
足音を忍ばせながら部屋の扉を開いた。
「・・・・・・」
最後にベッドの上の毛布の膨らみを見てから、彼女は出ていった。
扉がそっと閉ざされ、後には闇と少年の静かな寝息だけが取り残された。
12/12/21 20:12更新 / 十二屋月蝕
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