(97)アルプ
電子音が鳴り響き、私は目を覚ました。
布団の中から手を伸ばして目覚ましを止め、起きあがる。
「うーん・・・!」
軽く伸びをして、寝ている間に固まっていた体をほぐす。
心地の良い目覚めだ。
私は起き上がり、部屋を出ると洗面所に向かった。
老化を進んでいると、台所から漂う味噌汁のおいしそうな香りが、私の鼻をくすぐった。
「おはよう、智花」
台所の方から、父さんがそう私を呼んだ。
「おはよう、父さん」
「もう少しで朝ご飯できるからな」
ワイシャツの上にエプロンをつけ、手にはお玉を持ったまま、父さんはそう私に言った。
「はーい」
私は父さんの言葉にそう応えると、洗面所に入った。
顔を洗い、髪に櫛を通し、身だしなみを整える。
最後に鏡でチェックしてから、洗面所を出てダイニングに入った。
食卓にはご飯と味噌汁、それに卵焼きが並んでおり、すでに父さんは朝食に箸をつけていた。
「お待たせ」
「ん、弁当はそこおいてるからな」
「ありがとう」
父さんの作ってくれた弁当を確認しつつ、私は食卓に着いた。
「いただきまーす」
軽く手を合わせ、箸とお椀を手に取る。
味噌汁を軽く啜ると、ほっとするような温もりが体内に広がった。
「あーおいし・・・」
「そりゃよかった。でも、智花の味噌汁にはかなわないけどな」
「またまたー」
父さんの言葉に、私は苦笑した。
父さんはそう卑下するが、実際のところ父さんの手際の良さには負ける。
今朝の朝食も、お弁当の準備をしながら作ったのだろう。
私が朝食を作ることもあるが、お弁当までは手が回らない。
「ん、卵焼きおいしー」
小皿に盛られた卵焼きを一切れ口に運び、私はそう漏らした。
「今日の卵焼きはどうだ?」
「うん、おいしいよ。お弁当が楽しみ」
「そうか。今日は少し塩加減を間違えたような気がしてな」
「そう?いつもと変わらないように思うけど・・・」
私は念のためもう一切れ卵焼きを取り、口に運んだ。
うん、いつもと変わらない、少しだけ甘いふわふわの卵焼きだ。
「んー、いつもと同じぐらいおいしい」
「それならいいんだ」
塩加減は勘違いだったと納得したのか、父さんは頷いた。
「ところで智花、今日の予定は覚えているか?」
「えーと・・・あ、夕ご飯は外で、だったね」
「そうだ」
私の返答に、父さんは頷いた。
「待ち合わせは、夕方の六時に、駅前だったよね?」
「ああ。前々から話してたと思うが、あまり恥ずかしくない格好で来いよ」
「大丈夫だって。去年の文化祭の時のメイド服、舞台衣装だったけど造りは本物と同じよ?」
「うーん、メイド服よりウェイトレスの方がよかったなあ」
私の冗談に、父さんはそう乗ってきた。
「ま、冗談はともかくとしてだ。学校の制服で、とはいわないがちゃんとした服装で来てくれよ?」
「うん、分かってる」
「その辺、頼むぞ?」
私にそう念押しすると、父さんは食卓を立った。
「ごちそうさま」
「後洗っとくからね」
「頼む」
父さんは自分の食器を台所の流しにおくと、ダイニングを出ていった。
そして、背広を羽織り、鞄を手にして戻ってきた。
「じゃあ行ってくるが、戸締まりもしっかりな」
「はーい。気をつけて行ってらっしゃい」
「行ってきます」
私の言葉を背に、父さんはダイニングを出て、玄関を開き出かけていった。
さて、私ものんびりしていられない。
急いで朝食を片づけると、私は食器を流しに運び、手早く洗った。
二人分の茶碗とお椀と小皿をすすぎ、塗れたままのそれを水切りかごに入れる。
このままにしておけば、夕方までには乾くだろう。
キッチンを出て、自分の部屋に戻り、制服に着替える。
急ぎつつも、変なしわやがつかないよう気を使い、鏡で全身を確認する。
「・・・よし」
私は一人そうつぶやくと、鞄を手に部屋を出て、家の中を回った。
窓の鍵はかかっているか。ガスの元栓はしまっているか。照明は切れているか。
一つずつ確認してリビングに入り、父さんが作ってくれたお弁当を鞄に入れる。
これで準備万端。後は出かけるだけだ。
私は見落としがないか脳裏で確認しながら、リビングの棚におかれた写真立てに目を向けた。
木枠の中、ガラスの向こうで、若い女性が微笑んでいた。
私に少しだけ似た、私より年上の女性。
「行ってきます、ママ」
写真の中で微笑むママにそう告げた。
玄関に鍵をかけ、遅刻をすることもなく私は学校に着き、いつも通り授業を受けた。
金曜日、週末と言うこともあって、昼休みともなるとクラスメートたちは皆どこか浮ついた雰囲気を醸し出していた。
「ねえ、今日の放課後、一緒に出かけない?」
一つの席に友人同士で集まり、一緒に昼食を取っていると、友人の一人がそう口を開いた。
「駅前に新しい服屋ができるらしいから、みんなで偵察にいこうよ」
「えー?オープンしてからでよくない?」
「でも、開店前にふいんきだけでも確認しておけば、いい店かどうか分かるんじゃない?」
「そんなの開店してからじゃないと分からないわよー」
「いや、分かるって」
弁当をつつき、あるいはパンをかじりながら、口々に思い思いの言葉を紡ぐ。
「でも、外装だけでも見ておきたくない?」
「うーん、どうかなあ・・・」
「もしかしたら内装も見えるかもしれないよ?みんなで偵察にいこうよ。ねえ、智花?」
「あ、ごめん・・・今日の夕方、予定入ってるんだ」
不意に話を振られるが、私はそう謝った。
「予定?」
「え?どこか出かけるの?」
単純に『偵察』への不参加表明のつもりだったが、友人たちの興味は私に吸い寄せられていた。
「どっか行くの?旅行?」
「もしかして彼氏?」
「違うよー」
彼氏、という友人の言葉に、私は手を振って否定する。
「じゃあ何よ」
「家族と食事しに行くだけよ」
「へー、どこのお店?」
「さあ・・・詳しくは聞いてないけど、駅前集合だからあの辺りだと思う」
父さんから集合場所と時刻以外についてあまり聞かされていないことに、私は遅まきながら気がついていた。
「ほー気になりますなあ」
だが、単純な私の無知を、友人たちは何か隠しごとでもしているかのように感じているようだった。
「本当になんでもないって。父さんとご飯食べるだけだから」
多分そうだろう。そう思いを込めて、私は否定した。
「ん?もしかして智花のお父さんかお母さんの誕生日?」
「あー・・・いや、違う」
脳裏に両親の誕生日や、母さんの命日を思い浮かべるが、どれも違った。
「特に何でもないのに、家族で外食?」
「怪しいですなあ」
「だからそういうのじゃないってー」
「そういうの、って・・・何かの記念日パーティーじゃないってこと?」
「マア奥様聞きました?記念日を祝うわけでもなく、外食するですってよ」
「んもー」
妙に楽しげに暴走する友人たちに、私はため息をついた。
これは誤解を解くのに、骨が折れそうだ。
そして、授業が終わった後、私は急いで学校を出た。
いつもより少しだけ急ぎ気味に、家へと向かう。
「ただいま!」
誰もいない、返事が返ってくることのない帰宅の挨拶をしながら、私は家に入った。
鞄を自分の部屋に置き、弁当箱を取り出す。そしてキッチンに向かいながら、私は時計を確認した。
約束の時間まで、まだ余裕がある。
私は朝方さっと洗った後、自然乾燥に任せていた食器を食器棚に戻し、弁当箱を手早く洗った。
風呂を洗い、帰宅したらすぐに入浴できるよう、やや熱めのお湯を湯船に張る。
そして、制服から少しだけおめかししたよそ行きに着替えてから、私は家を出た。
駅前までの道を、時間には余裕があるものの、少しだけ急ぎ足で進む。
やがて、駅から住宅街へと流れていく人が多くなり、私は川を逆らって泳ぐ魚のように、人の流れに逆らって進んでいた。
程なくして、やや開けた駅前広場に私は出た。
「ええと・・・」
バス乗り場に、駅側のショッピングセンターに囲まれた広場を見渡した。
まだ父さんは来ていないようだ。無理もない。約束の時間まで、まだ十分はあるのだから。
私は待ち合わせ場所である時計台の側に移動すると、駅の出入り口を見るようにして待った。
数分おきに出入り口からたくさんの人が溢れ、時折数えられるほどの人数がばらばらに駅に入っていく。
出ては入りを繰り返す人の波を眺めていると、見知った顔が出入り口から現れるのが見えた。
父さんだ。
「・・・!」
父さんもほぼ同時に私に気がついたらしく、私の方を見ながら軽く手を上げ、時計台の側に向けて歩きだした。
私は反射的に、手を振る父さんに手を振り返した。
だが、私は父さんのどこか陽気な仕草と裏腹に、その表情が少しだけ強ばっていることに気がついた。
そして、父さんが人を連れていることに、私の側まで後数歩というところで気がついた。
「や、お待たせ」
「ううん、そんなに待ってないよ」
微妙に緊張した面もちの父さんは、少し後ろをついてきた人に顔を向ける。
「私の娘の智花だ、ユキ君」
「森川さんに似て、利発そうな娘さんですね」
父さんの言葉に応えたのは、すらりと背の高い女性だった。
金色のさらさらとした髪をボブカットにし、細身のスレンダーな体をパンツスーツで覆っていた。
どこか中性的な顔立ちのためか、私は同性のはずなのにドキッとしてしまった。
「職場の同僚のユキ君だ」
父さんが私に向け、連れていた女性・・・ユキさんのことを紹介していた。
「森川さん・・・徹さんと仕事をさせてもらっている、ユキです」
彼女は私に向かって、頭を下げた。
「ユキ君には仕事でいつもいろいろ手伝ってもらっていてね・・・」
「手伝ってもらっているのは、ボクの方ですよ森川さん」
父さんの冗談に、ユキさんがクスクスと笑いながら訂正を入れる。
慣れたやりとりなのだろうか、二人の呼吸はぴったりだった。
「とにかく、今日はユキ君と食事をするから」
「親子水入らずのところ、ごめんなさいね、智花さん」
ユキさんは私に向けて小さく頭を下げた。
「あ、えーと・・・私こそよろしくお願いします・・・」
ユキさんの私に向けたアクションに、私は若干慌てて頭を下げた。
「じゃあ、立ち話もなんだから、店に行くとしようか」
「そうですね」
父さんの言葉に、ユキさんがうなづき、私たち三人は移動を始めた。
西暦2012年の年末、異世界の存在が証明された。
それは数式をいじくり回しての論理上の証明や、粒子加速機でどうのこうのしての実験に基づく証明ではなかった。
前触れはあったのかもしれないが、不意に異世界とこちらをつなぐゲートが開いたのだ。
ゲート。門。扉。入り口。十二種類の野菜定食の妄想の結晶。
呼び名は様々だったが、向こうの世界とこちらが繋がっているということに変わりはなかった。
そして、異世界にはこちらの人と変わらない姿の人間と、人と似ていながらも人ではない魔物が共存していることが判明した。
ゲートの向こうからやってきた、大使を名乗る銀髪の美女により、こちらと向こうの和平が結ばれた。
だが、即座に自由に行き来ができるようになったわけではなく、ゲートを使っての行き来は厳密に制限・管理されるようになった。
二つの世界は出会ったばかりで、接触になにが起こるのか分からないからだ。
限られた人数を交換し、互いの理解を深めることで、徐々に世界間の親睦を深めていく。
それが、今のこっちと向こうの間柄だった。
「へえ、ユキさんは向こうに行ってたんですか」
「はい、三年ぐらいですけど」
運ばれてきた料理をナイフとフォークで切り分けながら、ユキさんが私の質問に答えた。
「言葉も満足に通じない中、必死に魔法だとかの勉強をしながら、文化や風習をレポートにまとめて提出の繰り返しでした」
「わー、大変そう・・・」
外国への留学でも大変そうだというのに、異世界、それも人間以外の種族が多く存在する土地への留学なんて、どれほど大変なのだろうか。
「ええ、本当に大変でした・・・でも、留学の経験があったから、今の仕事に就けたんですよ」
ユキさんは遠い目をしながら続けた。
「魔法だとかは全く身に付きませんでしたけど、今の仕事に就けたという点では、実りがあったと思います」
「へぇ・・・」
「・・・もしかして智花、留学したくなってるんじゃないか?父さん許さないぞ。寂しいからな」
ユキさんの満足げな表情に感心していると、父さんは誤解したのかそう口を開いた。
「違うって」
「留学先によっては、土地の影響で体質が変わるらしいけど、父さんはお前だとすぐ気がつくからな」
「だから違うって」
なぜか私が留学する前提で話を進めつつある父さんに、私はそうつっこんだ。
すると、ユキさんがクスクスと笑う。
「ふふ・・・本当にお二人は仲がいいんですね・・・」
「ああ、私の自慢の娘だからな」
「やめて父さん、ちょっと恥ずかしい・・・」
私はユキさんに向けて胸を張る父さんに、顔が赤くなるのを感じた。
学校のクラスメートは、『お父さんなんてきらーい』という立場を多く取っているが、私は父さんに対して嫌悪はなかった。
だが、改めてこうして親子の仲の良さを強調されると、少し恥ずかしかった。
「森川さん、職場でもよく智花さんのことを話されてるんですよ。それだけ愛されてるってことですから、恥ずかしがる必要はありませんよ」
ユキさんが、赤面する私にそう言った。
「で、でもこうやって改めて言われると、ちょっとくすぐったいというか・・・」
「あまり言ってこなかったからなあ・・・ごめんよ智花、これからは毎日ほめるからな」
「やめて、父さん」
いつも通りの冗談に、私と父さんが笑い、ユキさんが静かに微笑んだ。
私たちは談笑しながら、運ばれてくる料理を楽しんでいった。
そして、デザートのケーキとコーヒーが運ばれたところで、不意に父さんがまじめな表情をした。
「さて、智花・・・」
「なに?父さん」
ケーキを切ろうとしていた手を取め、私は父さんを見た。
すると父さんは、一瞬ユキさんと視線を交わしてから、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「智花はもう気がついてるかもしれないが・・・実は、ユキ君と私は交際している」
「・・・うん・・・」
二人の仲の良さを見ていて、何となくそうではないかと私は思っていた。
だが、こうして改めて言われると、やはり衝撃のようなものが私の心を打った。
「それで、だ・・・私はユキ君とその・・・結婚したいと考えている」
父さんの言葉に、ユキさんも姿勢を正し、緊張した面もちで私を見ていた。
「もちろん、智花はユキ君と会ったばかりだから、まだユキ君の人柄だとかを把握しきっていないだろう。でも、ユキ君が家族として加わることに対して・・・」
「いいよ、父さん」
いろいろと言葉を連ねようとする父さんに、私は応えた。
「父さんが選んだ人だもの。私が横から口を出す問題じゃないよ」
「え?あ、いやその・・・新しいお母さんとか、そういう問題は・・・」
想定していたやりとりと違う返答に戸惑ったのか、父さんはしどろもどろになりながら問いかけた。
「ママが死んでもう十年だよ。この十年、父さんは一人でがんばってきたんだもん」
私は、父さんとの二人暮らしを思い返しながら答えた。
「ママも、もう許してくれると思うよ」
そう、つい最近まで、父さんは幾度となくママの写真に向かい、一人で涙を流していた。
父さんが私に隠れて流していた涙は、それだけ父さんがママのことを愛していたという証なのだろう。
だが、私がママだったらいつまでも自分に囚われず、幸せになってほしいと願う。きっとママもそう願うはずだ。
「最近、父さんが何となく楽しそうだったのは、ユキさんと付き合ってたからでしょ?」
ここ最近、父さんがママの写真に向かって泣いていないのは、単純に私が見ていなかったからという理由だけではないはずだ。
「父さんが幸せになれるのなら、父さんのしたいことをすべきだと思う。それが、私の結論」
「智花・・・」
「智花さん・・・」
私の言葉に、父さんとユキさんは私を呼んだ。
「ユキさん」
「は、はい!」
ユキさんを呼ぶと、彼女はびくんと小さく跳ねた。
「これまで、父さんと仲良くしてくれてありがとうございました。これからも父さんを、そして私のこともよろしくお願いします」
私はそうユキさんに向けて頭を下げた。
「・・・こちらこそ、よろしくお願いしますね・・・智花さん」
視界の端、テーブルクロスにユキさんの頭の影が差した。
どうやら彼女も頭を下げたようだ。
「うん・・・智花も認めてくれたようだし、とりあえずはメデタシだな!さ、二人とも顔を上げて!」
父さんに言われるがまま、私とユキさんは同時に頭を上げた。
ユキさんの表情からは、いつの間にか緊張が消え、柔らかな笑みが浮かんでいた。
「ほら二人とも、あんまりゆっくりしてるとデザートのケーキが冷めちゃうぞ」
「んもー、父さん・・・ケーキは冷めないよ」
「冷めるのはコーヒーですよ」
急かそうとした父さんの言葉に、私とユキさんは同時に突っ込みを入れた。
そして、互いに視線を交わしてから、私たちは笑った。
それから数日後、私は学校でいつものように友人たちと、昼食をとっていた。
「ねえ智花・・・昨日の夕方、商店街で買い物してたでしょ?」
話が途切れ、次の話題に移ろうかと言うところで、友人の一人がふと問いかけた。
「うん、晩ご飯の買い物でね」
昨日は商店街の一角のスーパーで、トマトの缶詰の安売りがあったのだ。おかげで昨日はトマトソーススパゲティが楽しめた。
「じゃあさ、一緒に買い物してたイケメンは誰?」
「イケメン!?」
「智花が買い物デート!?」
友人の一言に、ほかの友人たちがにわかに色めき立った。
「イケメンって・・・」
「ほら、あの金髪でスーツ姿のすらーっとした線の細い・・・」
「ああ、ユキさんね」
彼女のあげた特徴に、私は納得した。
「彼氏?」
「彼氏じゃない・・・っていうかユキさんは女の人だよ」
「うそーん。あんなイケメンの女性、いるわけないっしょー」
「いやいや、私の父さんの交際相手だから」
「だったら、何で智花のお父さんの彼女さんが、買い物を一緒にしてたの?」
「昨日はユキさんも家で晩ご飯食べる予定だったから・・・」
そう。先日の交際報告を私にしてから、ユキさんは家を訪れるようになった。
ある時は夕御飯を一緒に食べたり。
ある時は父さんより先に家に着き、私が担当している家事を手伝ったり。
とにかく、私が父さんとの結婚まで認めたからか、ユキさんは張り切っていた。
「んーなんか仲よすぎじゃない?」
「うん。智花ってファザコンのケがあるから、『お父さん取られるのイヤ!』って攻撃するタイプだと思ってた」
「もう私も子供じゃないんだから、そんな駄々こねないよー」
そう。父さんが私の知らない人と交際していたのはショックだったが、それでも父さんが幸せならいい。
「うーん、あまり納得はできないけど・・・そういうものかなあ?」
「イヤ、まだ智花が実は年上のイケメンと付き合っているのを、嘘で隠している可能性がありますぜ」
「よーし、それではあたしが、智花の匂いをチェックしてしんぜよう」
私が身をよじる暇もなく、友人の一人がひょいと顔を近づけ、すんすんと鼻を鳴らした。
「ちょ、ちょっと・・・!」
毎日風呂に入り、衣類もしっかり洗濯しているが、改めて匂いをかがれるのは恥ずかしい。
「・・・智花から知らない女の匂いがする・・・」
「やっぱり智花パパの彼女さんかー」
「いや、本当に匂いで分かったの!?」
友人の判定に、私は思わず声を上げた。
「まあ、あたし鼻がいいから」
「鼻がいいから、だけですむ問題じゃないよね!?」
「だいたいその日どこ通ってきたか、ぐらいは分かるよ」
「ねえ、あなた人間?実は向こうからの留学生とかじゃないよね?」
友人の隠れた特技に、私はそう問いかけてしまった。
「まあ、人間なのは確実だけど・・・うーん・・・」
「どうしたの?」
だんだんと表情に不審そうなものを浮かべ、うめく友人に、別の友人が問いかけた。
「さっきは知らない女の匂いがするって言ったけど・・・よくよく考えるとちょっと違う気がするのよねえ・・・」
「違うって、どんな風に?」
「なんか・・・知らない女の匂いに、ちょこっとだけ男の匂いが・・・」
彼女は目を閉じると、再びすんすんと鼻を鳴らした。
「ちょっと、やめてって」
「ごめんごめん。でも・・・うん、二人分とは言わないけど、20%ぐらい男の人の匂いがする」
「智花のお父さんじゃないの?」
「智花のお父さんの匂いは知ってるから違うよ」
「知ってるんだ・・・」
私の突っ込みには応えず、友人は口元に手を当てながら続けた。
「可能性としては、職場の男性の匂いが移ってるんだと思うけど・・・智花、そのユキさんって人、気をつけた方がいいよ」
「気をつけてって、何でよ?」
「自分の匂いに、別の男の人の匂いが少しだけ染み着くって、相当長時間一緒にいないと起こらないわよ。ユキさんに家族や兄弟がいるなら問題ないけど・・・」
ユキさんが、家族以外の男性と親しくしつつ、父さんと交際している。
友人の言わんとしていることは、それだった。
「うーん・・・それはない、かなあ・・・」
ユキさんとのつきあいは短いが、それでも私は彼女の人柄に触れている。
何事にも一生懸命で優しいユキさんが、父さんをだまそうとしているとは思い難かった。
「ま、あたしが匂いだけで考えたことだから、確実とはいえないけど・・・でも、何かの秘密があるのは確実よ。秘密をそっとしておくか、調べるかは智花の自由だから」
そう友人は締めくくった。
そう言われても、私はどうすればいいのだろう。
宙ぶらりんのまま、私は取り残された。
ユキさんに何かの秘密がある。
そう聞かされた私は、結局『聞かなかったことにする』ことで、平穏な日常を送ることにした。
問題の先延ばしでしかないが、平和な日々を自分から崩す勇気がなかったからだ。
学校から帰り、風呂の掃除をしていると、玄関の鍵が開く音が響いた。
父さんが帰ってくるには、まだ早い。
「こんにちはー」
案の定、玄関から届いたのは、ユキさんの声だった。
「智花さーん?」
「風呂場でーす!」
スポンジで浴槽を擦りながら、私は応えた。
「お野菜とか買ってきたけど、晩ご飯はボクが作っていい?」
「はい、お願いします」
ユキさんの料理はおいしい。だからこうして、夕食を担当してくれるのはあり難かった。
「材料で使ってほしいのとかある?」
「えーと・・・野菜室のニラとか・・・」
「使っちゃだめなのは?」
「ないです」
「了解しましたー」
ユキさんの気配が、キッチンへと移動していく。
私は浴槽を一通りきれいにすると、洗剤の泡を水で流し、浴槽に湯を張り始めた。
後、二十分もすれば入れるようになるだろう。
風呂場をでて、ユキさんの手伝いのため、キッチンに入る。
「お手伝いしにきました」
見ると、コンロには鍋が掛けてあり、ユキさんはまな板でニラを刻んでいるところだった。
「ありがと、智花さん。今夜はニラとウィンナーの卵とじにしようと思うから、卵を五つぐらい溶いてくれないかな?」
「はい」
ユキさんの頼みに、私は出してあった卵を小さいボウルに割り入れた。
そして菜箸で軽くかき混ぜる。
その間に、ユキさんはフライパンを加熱し、油を引いてからニラとウィンナーを炒め始めていた。
生のニラに熱が通り、しんなりとするように全体をかき混ぜ、軽く塩胡椒をふる。
「智花さん、卵を」
「はい」
ユキさんの求めに、私は溶き卵の入ったボウルを渡した。
ユキさんは炒めたニラとウィンナーを平らにならすと、卵を回しながらフライパンに注いだ。
卵が熱せられ、音と香りを立てた。
「よーし・・・こっちはもうすぐだから、ちょっとスープの様子を見てくれる?」
「はい」
私はユキさんの隣にたつと、フライパンの隣で熱せられていた鍋のふたを取った。
ふわん、と野菜の煮えた香りが湯気とともに立ち上った。
「キャベツと人参とタマネギを適当に切って、固形スープと水だけで煮てるから、味の調整を任せるわ」
「はーい」
卵とじを仕上げながらのユキさんの言葉に、私は透き通った野菜スープを小皿にとり、口に含んだ。
チキンコンソメのかすかな香りと、人参やタマネギのわずかな味しかかじられない。
「塩と胡椒・・・ね。ユキさん、塩をお願いします」
「ハイ」
私は小さくつぶやくと、ユキさんに頼んで塩をとってもらった。
スープの量から、目分量で塩を鍋に入れて軽くかき混ぜる。
熱せられたスープに塩は溶けていき、具の間に広がっていった。
「そうだ、智花さん。明日、お休みだけど徹さんは仕事だそうだから」
「へえ、何で?」
鍋をかき混ぜながら、私はユキさんの言葉に尋ねた。
「今徹さんが関わってる仕事で、明日しか打ち合わせの都合がつかない人がいてねえ」
「はあ、大変ですねえ・・・」
仕事の都合で休日出勤。父さんには頭が下がるばかりだ。
一通り混ぜ終えて、再び小皿にスープをとって飲んでみると、今度は十分な塩気が感じられた。
「これでよし・・・ユキさん、できました」
「ありがと、智花さん」
ユキさんは、フライパンの焼きあがった卵とじを、大皿に移しながら微笑んだ。
「ちょっとボクも味見していいかな?」
「はい、どうぞ」
小皿にスープをとると、ユキさんは空になったフライパンを流しに置いてから小皿をとった。
彼女の唇がすぼめられ、皿の縁に触れる。
「・・・・・・」
「ん、おいしい。けど、もう少し香りがあった方がいいかなあ・・・」
スープを吸うユキさんの唇に見とれていると、彼女はそう漏らした。
「あ・・・味付け、だめでしたか・・・?」
「ごめんなさい、そう言う意味じゃなくて、もう少しでもっとおいしくなるってこと」
不安になった私に、ユキさんはそうフォローの言葉を入れた。
「もう少し胡椒をふってみるとか、ちょっと違うスパイスを入れてみるとか・・・とにかく、味にアクセントを付けると印象が変わるよ。カレー粉はカレー味になるけど、とりあえず失敗はなくなるね」
「へえ・・・」
ユキさんの言葉に、私は感心していた。これまで、味付けは濃すぎないよう、薄すぎないようといったレベルでしか考えてこなかったからだ。
「このスープの場合、胡椒は・・・ニラの卵とじで使ってるから、ちょっと被っちゃうから外すとして・・・えーと」
ユキさんは調味料の入った棚を軽くのぞくと、小瓶を一つ取り出した。「あったあった」
「お醤油?」
ユキさんの取り出した小瓶に、私はそう彼女に問いかけた。
「そう。炒め物にも煮物にも、ちょこっと加えるだけで味の印象が変わるオススメ調味料」
ユキさんは鍋の上で小瓶を傾けると、ほんの数滴だけ黒い滴をしたたらせた。
そして、軽くお玉で鍋をかき混ぜてから、小皿にスープをとった。
「ん・・・こんなものかな・・・?」
小さく首を傾げながらそう評価すると、彼女はもう少しだけ小皿にスープをとる。
「智花さん、ちょっと味見してみて」
「はい」
ユキさんの差し出した皿を受け取り、私はその縁に唇を当てた。
一瞬、脳裏に間接キスという言葉が浮かぶが、そのことに反応するより先にスープの味が脳に届いた。
「あ、おいし・・・」
先ほどの塩味だけの野菜スープに、微かな香りが加わり、味に深みをつけていた。
「スープがおいしくなりました!ユキさんすごい!」
「智花さんの味付けがしっかりしてたからだよ。ちょうどおいしい塩加減だったのを、香り付けで引き立てただけ」
私の賞賛に、ユキさんはうれしそうにしながらも軽く頭を振った。
「それに、もうボクにしかできないことじゃないし。ほら、今日教えたから、もう智花さんもできるでしょ?」
「はい、多分・・・」
自信はないが、どうすればいいかを教えてもらったから、練習を繰り返せば彼女のようにがらりと味を変えることもできるだろう。
「一朝一夕にはできないとは思うけど、いつかは追いつけるはずだから。だから、すごい、だとか言わないで」
「その・・・ごめんなさい」
やんわりとした、賞賛の言葉の否定に、私は戸惑った。
だが、私の反応に、ユキさんもユキさんで妙に慌てだした。
「あれ?いや、そのえーと・・・すごいって言わないでって言ったのはやめてほしいってワケじゃなくて、智花さんでもすぐにボクぐらいにはなれるって意味だから・・・」
「・・・ふふ、冗談です」
慌てながらも、落ち込む私をなだめようとするユキさんの言葉に、私は思わず吹き出してしまった。
「冗談?んもー、一瞬本当に落ち込んだかと思ったよ」
「ごめんなさーい」
私とユキさんは笑いあった。
まるで本物の家族のようにだ。
すると、玄関で鍵の開く音がし、遅れて父さんの声が響いた。
「ただいまー」
「お帰りなさーい」
「お帰りなさい」
私たちはキッチンから玄関を覗いた。
「ただいま、ユキ君に智花」
「お帰りなさい」
「お風呂も晩ご飯ももうすぐ準備できるけど、どっちにする?」
鞄を提げたままの父さんに、私はそう尋ねた。
「んー、じゃあご飯にしようか」
「はーい。すぐに準備するね」
「盛りつけたりするので、先に着替えていてください」
「はいよー」
父さんが部屋に入っていくのを見送りながら、私はユキさんとキッチンに戻った。
ユキさんが卵とじの乗った大皿を食卓に運び、私がスープ皿に野菜スープを注ぎ分ける。
ご飯を茶碗によそい、箸やスプーンとともに並べたところで、部屋着に着替えた父さんがダイニングに入った。
「お待たせ」
「ううん、こっちも準備できたところ」
父さんにいつものように返すと、私は席に着いた。
「ああ、智花。明日土曜だけど、私・・・」
「休日出勤でしょ?お疲れさま。気をつけてね」
父さんの言葉に、私はそう頭を下げた。
「徹さん、何か飲まれますか?」
台所に残っていたユキさんが、そう父さんに尋ねた。
「じゃあビールで」
「はい」
ユキさんは冷蔵庫を開き、ビールの缶を出すと、グラスとともに食卓に運んだ。
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
父さんがユキさんの運んだグラスを受け取り、ガスの抜ける小気味いい音を立ててユキさんが缶のふたを開ける。
そして、父さんの差し出したグラスに、彼女はビールを注いだ。
「じゃあ、いただきましょうか」
父さんにビールを注いでから、ユキさんはビール缶をテーブルの上に置き、手を合わせた。
「いただきます」
「いただきます」
「いただきます」
父さんとユキさん、そして私の口から、同時に言葉が紡がれた。
そして各人が箸を、スプーンを手に取り、料理を口に運ぶ。
「ん、おいしい」
切り分けられたニラの卵とじを口に運んだ父さんが、そう声を漏らした。
「これは・・・ユキ君が?」
「はい」
父さんの推測に、彼女がうなづく。
「うん、おいしいよ。香ばしくて、ふんわりして・・・」
「ちなみに父さん、何でユキさんだと思ったの?」
「いやあ、智花の卵とじは、もう少し薄味だった気がしてねえ」
「私じゃこんなおいしい卵とじを作れるはずがない、って?」
「やだ、徹さんひどい」
父さんの言葉に、私とユキさんは冗談めかした口調で、そう揚げ足を取ってみた。
「ごめんごめん。そう言うつもりじゃなくて・・・とにかく、いつもとはちょっと違う味付けだったっていいたかったんだ」
「はいはい、そう言うことにしておくね、父さん」
私はほほえみながら、父さんのいいわけめいた言葉を受け入れた。
「うーん・・・失言だったなあ・・・」
父さんはそうぼやきながら、箸をおいてスプーンを手に取り、今度はスープを掬った。
透き通ったスープとキャベツが一切れ乗ったスプーンを、彼は口元に運ぶ。
「ん・・・ん・・・?これは・・・ん・・・?」
数度噛んで飲み下してから、父さんはいきなり首を傾げ始めた。
「どうしたんですか、徹さん?」
「いや・・・その・・・ええと、これは・・・」
「もしかして、どちらが作った料理かわからないのかな?」
返答に窮する父さんに、私はにやにやと笑みを浮かべながら尋ねた。
「いや、分かるぞ分かるぞ・・・ただ、ちょっと自信がなくて・・・」
「確率は50%なんだから、勘でもいいのよ」
「でも、慣れ親しんだ娘さんの味なら、覚えてますよねえ徹さん」
「うぐ・・・いや、しかし・・・」
私とユキさんの言葉に悩みに悩んでから、父さんはついに答えを出した。
「智花・・・か・・・?」
「ピンブー」
「ピンブー?」
私の口から出した擬音を、父さんが繰り返す。
「半分正解で半分はずれということよ」
「スープの基本的な味付けを智花さんがやって、最後の仕上げをボクがやった、が正解です」
「えー、さっき50%っていったじゃないか」
ユキさんの出した正解に、父さんは唇をとがらせる。
「『当たり』か『外れ』の二つに一つだから、50%ってことよ」
「お前は確率の勉強をし直した方がいいぞ、智花」
私の解説に、父さんは真顔でそう突っ込みを入れた。
「でも、徹さんもよく智花さんと回答できましたね?基本的な味付けは智花さんですけど、ボクが仕上げたからだいぶ味付けの印象が変わってるとおもうんですが・・・?」
「ああ、それね」
ユキさんの問いかけに、父さんは私に向けていた真顔を消しながら続けた。
「確かに、口にスープを入れたときの味は、いつもと違ってたんだけど・・・何て言ったらいいのかな・・・塩加減?がいつもと同じだったというか・・・」
「表面上の香り付けにごまかされず、味を見ていたということですね」
「父さんすごいじゃない」
自分で味見しても、がらりと変わってしまったように感じられるスープの味付けを見抜いた父さんを、私は素直に賞賛していた。
「いや、慣れ親しんだ味がした気がして・・・」
「それだけ智花さんが、徹さんのために料理を作ってくれてたってことですよ」
「そういうことか。いつもありがとうな、智花」
「もー、急にやめてよー」
不意の感謝の言葉に、私は少しだけむずがゆくなった。
ユキさんとの顔合わせ以降、父さんはこうしてよく私に感謝したり、ほめたりしてくれるようになった。
まだまだ恥ずかしさは感じられるが、それでも嬉しかった。
「それで、ユキ君は今日はどうするんだ?」
「あ・・・そう言えば今日は金曜日でしたね」
父さんの問いかけに、ユキさんはカレンダーを見てから今日の曜日を思い出したようだった。
「明日は休みだろう?このまま帰っても面倒だろうし、今夜は泊まっていったらどうかな?」
「父さん・・・」
父さんの申し出に、私は自分の目つきに軽蔑めいたものが宿るのを感じた。
「娘の前で交際相手を宿泊させるって」
「いや、泊まるってそう言う意味じゃない。単純に我が家で一晩過ごせば、ゆっくり休めるんじゃないかという意味で・・・」
「・・・ボクはどちらでもいいですよ?」
「ユキ君!?」
ユキさんの一言に、父さんの声が裏返った。
「冗談はこのぐらいにしておいて、徹さんが泊まっていいと言ってくれるのなら嬉しいです。今から家に戻ってもバタバタしますし」
「私としても、ユキさんとはもう少しゆっくり話をしたいし、泊まってほしいなあって・・・」
そう。家事の合間に多少言葉を交わすことはあっても、腰を入れて会話に専念したことはあまりない。
ガールと呼ぶ歳はないが、ユキさんとのガールズトークを楽しみたかった。
「そうか。だったら、お客用の布団を智花の部屋に敷いて、ユキ君にはそこで寝てもらうと言うことでいいかな?」
「うん。私はOK」
「智花さんがいいのなら、ボクも問題ありません」
特に障害もなく、ユキさんの宿泊が決まった。
「智花は?」
「お風呂です」
「だったら聞こえないな」
「多分」
「とうとう泊まってもらうことになったが・・・気をつけてくれ」
「はい。まあ、布団が別だから、大丈夫だと思いますけど・・・」
「念には念を、だよ」
「でも、騙してるみたいで・・・」
「智花に明かすのが少し遅くなるだけだ。だから・・・」
「はい」
夕食を終え、食器を片づけてから、私たちは順番に風呂に入った。
私の入浴中に、ユキさんは替えの下着を近所のコンビニまで買いに行っていた。
今日着ていた服を、明日の朝着て帰ることになるが、ユキさんに抵抗はないらしい。
ユキさんは背丈があるため、私のパジャマが入らず、父さんの寝間着を借りることになった。
袖がや裾が余っているわけではないが、手首に対し袖口がブカブカになっているのは、少々ほほえましかった。
「いやあ、私の部屋に誰かがお泊まりなんて・・・・・・・・・うん、初めてだ」
お客様用の布団をベッドの側に敷き、シーツを掛けながら、私はつぶやいた。
「お友達がお泊まりとかはなかったの?」
布団を挟んだ反対側に屈み、シーツをピンと張りながら、ユキさんが尋ねた。
「うん、私の方からお泊まりにいくことはあったんですけど、友達がウチに来ることがなくて・・・単にあんまり機会がなかっただけなんですけどね」
「そう。お友達がいない、とかじゃないんだね」
「あ、ちょっとひどい。こう見えても私、クラスの人気者ですよ?上から十番目ぐらいですけど」
「それって、真ん中ぐらいってことじゃない?」
「そうとも言いますね」
私たちはそんな、適当な話をしながら布団を整えた。
「これでよし・・・」
枕をセットして、私は立ち上がった。
これでいつでも寝られる。
「それで・・・ユキさん、この後どうしますか?見たい番組とかあれば、つきあいますよ」
「いや、大丈夫。実はそろそろ横になりたいなあって思ってるところだから」
ちらりと時計を確認すると、少し遅い時間だった。
確かに今夜は、もうベッドに入った方が良さそうだ。
「じゃあ、今夜はもう休みましょうか」
「そうだね」
ユキさんは立ち上がると、天井からぶら下がる照明のひもを握った。
「電気、消すね」
「はーい」
私がベッドに横になったところで、ユキさんの腕が上下し、部屋が暗くなった。
そして、ゴソゴソと寝間着や布団がこすれる音が響き、やがて静かになった。
部屋の中では時計の秒針が進む音が響き、窓の外からは風と犬の鳴き声、そして時折どこかを通る車の音が届いた。
「ユキさん・・・」
「なに?智花さん」
眠っていても起こさない程度の呼び声に、ユキさんは小声ながらもはっきりとした声で応えた。
「ちょっと・・・眠れなくて・・・」
「ボクも・・・いつもと違う枕だからかな?」
「少し、おしゃべりしませんか?」
「どちらかが眠くなるまで、ね」
どうやらユキさんも、ガールズトークに乗り気らしい。
「それじゃ・・・父さんとはいつ頃からおつき合いを?」
「いきなり深いところから聞くねえ、智花さん」
単刀直入な私の質問に、ユキさんの言葉に苦笑が混じった。
「えーと、徹さんと交際を始めたのは、一年ぐらい前からだけど・・・出会ったのは二年前だったな」
すこしだけ、懐かしそうな口調でユキさんは続けた。
「向こうから帰ってきて、今の仕事に就いて・・・いろいろあって、徹さんと出会ったんだ。徹さんは、仕事でもいろいろサポートしてくれて、とても優しかった。そして次第に、ボクは徹さんに惹かれていったんだ。でも、時々ふとしたときに、徹さんはすごく悲しそうな目をするんだよ」
「ふとした時って・・・」
「カレンダーをみたり、テレビでどこかの観光地が出たときとかだね。奥さんとの記念日だとか、奥さんと出かけた場所だって教えられたのは、交際を始めてしばらくしてからだったけど」
父さんは、ママの写真を見て涙を流すだけじゃなかったんだ。
「とにかく、徹さんは時々とても悲しそうな目をしていたんだ。仕事もしっかりこなし、人柄もいい徹さんの支えになりたい。いつしかボクはそう思ってたんだ」
一瞬の間を、ユキさんは挟んだ。
「一年間は、ボクの片思いだった。でも、ボクは徹さんのためにがんばった。仕事も徹さんの支えになるようにいっぱいこなしたし、徹さんが楽しめるようおしゃべりも磨いた。おかげで、徹さんも少しずつボクのこともみてくれるようになったんだ。そして、一年ぐらい前に、ボクはついに徹さんに告白して、受け入れてもらった」
「・・・・・・」
そんなことがあったんだ。
私は、この二年間のことを思い返し、父さんの変化を思い出そうとした。
だが、ママの写真に涙を流さなくなったほか、特に変化はなかったように思えた。
「正直なところ、ボクが徹さんの心の支えになれるかははっきり分からない。でも、それでも、徹さんには幸せになってもらいたいと思ってる。こうして、徹さんと智花さんとボクと、三人で過ごす日が続けば、徹さんが悲しい目をすることもなくなるんじゃないかと思ってる。だから・・・」
ふと、ユキさんが言葉を切った。
「智花さん・・・寝ちゃったかな・・・」
無言で聞き入っていた私に、ユキさんはそう声をかけた。
だが、私が返事をするより先に、彼女は続けた。
「つまらない話だったかな・・・ま、そう山あり谷ありじゃなかったからね・・・思い出話につきあわせてごめんね」
ユキさんはそう謝ると、布団の中でもぞもぞとからだを動かし、ゆっくりと呼吸を重ね始めた。
眠るつもりの、静かな吐息だ。
「・・・・・・」
私は、ベッドの上で彼女の呼吸を聞きながら、目を閉じていた。
ユキさんも、父さんをみていたんだ。
ママを思い出して、ママがいないことを悲しむ父さんを。
そして、父さんに幸せになってほしいと、ユキさんも私も願っている。
ユキさんの言うとおり、彼女が家族の一員になれば・・・
私の考えがまとまるより先に、意識が曖昧になり、眠りの世界へ私は沈んでいった。
翌朝、カーテンを透かして差し込む日の光に、私は目を覚ました。
「んあー・・・?」
半分眠っている意識で目覚まし時計をみると、いつも通りの時間だった。
今日は土曜なのに。
私は体を起こすと、ベッドから床に立った。
そして、まだ眠っている体に鞭を打ちながら、よろよろと部屋を出た。
「あ、おはよう智花」
玄関から、新聞を手にした父さんが現れ、私に声をかけた。
「おはよー・・・父さん・・・」
私は半ば脊髄反射で口から声を出すと、よろよろとトイレに向かった。
ドアノブを握り、回そうとする。だが、回らない。
どうやら、父さんが使った後、鍵をかけたままドアを閉めてしまったらしい。
「んもー」
緊急ではないが、私は父さんのミスに微かないらだちを覚え、意識を少しだけ覚醒させた。
父さんに言うのは後にして、まずは扉を開けよう。
我が家のトイレのドアは、いざというときに備え外からでも鍵が開けられるようになっている。
ドアノブの中心の切れ込みを、硬貨やドライバーで回せばよいのだ。
そして、慣れれば少しだけ伸びた爪でも、十分回すことができた。
私は、親指の爪をドアノブの切れ込みに差し入れ、軽く回した。
軽い抵抗感の後、ドアがかちゃりと音を立てて開く。
「へゃっ!?」
するとトイレの内側から、素っ頓狂な声が響いた。
みると、トイレの中、私と向かい合わせになるように便座に腰を下ろしたユキさんが、目を見開いて私を見上げていた。
ああそうだ、昨日ユキさん、ウチに泊まったんだ。
ようやく事態を理解した。
「ご、ごめんなさ・・・!」
私はユキさんに謝罪の言葉を紡ぎながら、扉を閉めようとした。
だが、実際に体を動かす寸前で、私はユキさんの格好がいつもと違うことに気がついた。
ボブカットにした金髪の間から、角のようなものが覗いている。アクセサリーだろうか?
寝間着の上下の間、腰のあたりから、コウモリの羽のようなものが生えている。アクセサリーだろうか?
腰の後ろから先端が矢印のようになった細くて黒いひものようなものが延びている。アクセサリーだろうか?
そして、膝のあたりまで下ろされた寝間着のズボンと下着の向こう、両足の付け根に、なにやら見慣れぬものがぶら下がっていた。アクセサリーだろうか?
いや、アクセサリーではない。角も、翼も、しっぽも、どれもユキさんの体から生えており、翼としっぽに至っては動いていた。
そして、ユキさんの股間にぶら下がる・・・男の人についているはずのアレからは、今まさに黄色い液体がほとばしっているところだった。
「・・・あ、あ・・・」
「・・・・・・・・・」
排尿しながら、何か弁解しようとしているユキさんを残して私はそっと扉を閉めた。
角、羽、しっぽ、おちんちん。頭の中でぐるぐると文字が巡り、私の意識に染み込んでいった。
私は、そのままスタスタとトイレの前を離れると、キッチンで朝食を作っている父さんの側に移動した。
「父さん」
「どうした智花。トイレならユキ君が入って」
「ユキさんね、男の人だった」
「・・・・・・・・・・・・」
私の報告に、父さんが動きを止めた。
「智花・・・ちょっと、座ろうか」
父さんはコンロの火を消し、作りかけの料理をそのままに、私を食卓テーブルに誘導した。
「座りなさい」
言われるがまま、私はいつもの席に腰を下ろした。
「・・・いつ気がついた?」
「さっき。トイレの鍵がかかってて、父さんが間違えて鍵掛けたまま閉めたのかと思って」
「そうか・・・」
父さんがそう漏らしたところで、トイレの方からあわただしく扉を開閉する音が響いた。
そして、大きな足音が後に続いて、ユキさんがダイニングに飛び込んできた。
「と、徹さん、ごめんなさい・・・!」
「今智花から聞いた。事故だ。気にするな」
「ご、ごめんなさい・・・」
角も羽もしっぽもおちんちんも見えないユキさんが、震える声で謝った。
「いずれ・・・いずれ智花には言わなければならないと思っていたが・・・今説明しよう。ユキ」
「はい・・・」
ユキさんは小さくうなづくと胸に手を当てた。
すると、ユキさんの体が一瞬光り、彼女の金髪の間から角が、腰のあたりからコウモリの羽としっぽが姿を現した。
「智花さん・・・実は、今まで隠していましたが・・・ボクは、向こうの世界での留学中に、魔物になってしまいました。本当は、こういう風に角とか羽が生えてるんですが、それを隠して・・・」
「・・・・・・アレは?」
説明しようとするユキさんに、私は尋ねた。
「アレ・・・股間のアレは?」
「その・・・実は・・・」
「魔物になったら生えてくるの?」
「いえ、実は・・・その・・・」
「智花・・・実は、ユキ君は元は男だったんだ」
もじもじと言葉を濁すユキさんに代わり、父さんが口を開いた。
「向こうの世界に留学と言うが、実際のところ三年掛けて向こうの世界の魔物と結婚させるのが目的らしい。ユキ君は、その留学中に魔力の影響を受け、アルプという魔物になってしまったんだ。男なのに、体が女性になる魔物だ」
「体が女の人になるのなら、なんでアレが・・・」
「それは、ボクのせいです」
父さんに問いかけようとした私を遮り、ユキさんが口を開く。
「もう少し向こうに滞在するか、私が男の人と仲良くすれば、完全に女性になってたんです。だけど、これまでずっと勇気がなくて・・・中途半端な体に」
「それで・・・中途半端な体から女の人の体になるため、人柄の良さそうな父さんに近づいたの?」
「っ!そんなつもりじゃ・・・」
ユキさんは弁解しようとするが、私は耳を貸さず父さんを顔を向けた。
「父さんも、顔のかわいいこのオカマに騙されて・・・」
「智花!」
父さんが私の名を呼び、直後私の頬を衝撃と鋭い痛みが襲った。
遅れて、平手打ちされたのだと私は気がついた。
「ユキに何てことを言うんだ!ユキだって、なりたくてこんな体になったわけじゃないんだ!それをおまえは・・・」
「う、うるさい!」
平手の痛みが頬に残っているが、私は大声で返した。
「女の体になりたいからって父さんに近づいて!父さんもママのこと忘れて、オカマとイチャイチャして!最近ママの写真の前で泣かないと思ったら、オカマに夢中になってたんでしょ!?」
「智花・・・!」
「徹さん、智花さん・・・」
「なにが父さんを幸せにしたいよ、このオカマ!自分が女になりたいからって、父さんをよくも!父さんも、ママのこと忘れるぐらい変態みたいなことしてもらってるんでしょ!?変態変態変態!」
私は一息にまくし立てると、イスから立ち上がった。
「智花っ!」
父さんが私の名を呼ぶが、私は身を翻して走った。
数歩でダイニングからリビングに移動し、ママの写真をつかんでからリビングを飛び出す。
そして、自分の部屋に飛び込むと、私は布団を半ば放り投げるようにして廊下に出し、扉を勢いよく閉めた。
そして、扉に鍵をかける。軽い音と短い閂は頼りないが、それでも私の拒絶の意志を表示するには十分だった。
「うぅぅ・・・」
私は窓に駆け寄ると、窓を開いた。
朝の冷たい空気が流れ込み、部屋に残っていた湿り気を含んだぬるい空気と入れ替わる。
布団はもちろん、空気さえも、あのオカマの存在した証は、何一つ残したくなかった。
窓の外に身を乗り出し、深呼吸して肺に残っていた空気を追い出す。
冷たい空気が、体の内側から身を清めていくようだった。
「うぅ・・・うぅ・・・」
だが、私の口からあふれる嗚咽と、胸の奥の気持ち悪さは、いくら深呼吸しても収まらなかった。
むしろ気持ち悪さは次第に吐き気へと変わり、私の肩を、背中を痙攣させていく。
体の内側から、今にもあふれ出そうだ。
「うぶっ・・・!」
こみ上げる吐き気に口元を押さえ、一瞬部屋の扉をみる。
だめだ。せっかく立てこもったのに、出ていくことはできない。
私は体内の圧力と痙攣をこらえながら部屋の中を見回し、部屋の片隅においてあったモノに目を留めた。
バケツ型の、プラスチック製のゴミ箱。
私はゴミ箱の側に駆け寄ると、抱え込むようにしながらしゃがみ込み、口を開いた。
「おぅえええええぇぇぇ・・・」
嗚咽と、胃袋から逆流したモノが、口からあふれ出す。
苦みと酸味が舌の上を駆け抜け、鼻をかんだティッシュやゴミの上に降り注いだ。
昨日の夜からなにも食べていないため、出てくるのは胃液ばかりだった。
のどが熱く、舌が苦くて酸っぱく、目が涙ににじむ。
そして私は、一通り胃の中から液体を吐くと、バケツの上から顔を上げた。
「はぁはぁ・・・」
不快感の残る口を開けたまま呼吸を繰り返し、涙ににじむ目で虚空を見上げた。
のどがイガイガするが、ほんの少し、ほんの少しだけ呼吸が楽になった気がする。
「はぁ、はぁ・・・」
私は不快な風味の残る口をそのままに、よろよろとベッドに歩み寄った。
そして、温もりの残るシーツの上に寝転がると、天井を見上げた。
「はぁ・・・はぁ・・・ママ・・・」
私は、ずっと手に握ったままだった写真立てを、顔の前にかざした。
ガラスの向こうでは、ママがいつもと変わらぬ顔で微笑んでいた。
だが、今はママの笑顔が、ただ恋しかった。
「はぁ・・・はぁ・・・」
ママの写真を見つめるうち、私は少しずつ落ち着いていくのを感じていた。
起きてからほんの数分のことだったが、私は異常に疲れていた。
空腹を満たしたり、うがいをしたりするより、ただ眠りたかった。
「はぁ・・・」
天井を眺めるうち、私の願いは叶えられた。
「・・・すみませんでした・・・」
「君が謝ることではないよ。智花が起きてきたとき、一声私が声をかけていれば・・・いや、もう言ってもしょうがない」
「・・・智花さんは・・・?」
「部屋にこもっている。静かなところをみると、眠っているのかもしれない」
「そうですか・・・」
「それで・・・昨日も話したが、今日はどうしても出かけなければならない用事があるんだ」
「はい。ボクも智花さんには伝えておきました」
「うん。だから、すまないが・・・」
「行ってきてください。智花さんの様子は、ボクがみておきます」
「すまない。智花が、何か失礼なことを行ったときは・・・」
「いいんです。慣れてますから」
腹の痛みに、私は目を開いた。
意識が闇に沈むよりも前との違いは、かざしていた写真立てが胸の上に落ちていることだろうか。
「あぁ・・・」
吐息とともに、口から意味のない音を紡ぎながら、私は身を起こした。
精神的に疲れていても、体はそう疲れていなかったためか、寝すぎたとき特有の頭痛が頭に残っていた。
時計をみると、すでに昼前だった。
空腹すぎて腹が痛むのも納得の時間だ。
「・・・・・・ん・・・?」
天井を見上げていると、私は妙な酸っぱい臭いが鼻を突くのを感じた。
だが、正体にはすぐに思い至った。先ほど嘔吐したゴミ箱だ。
そして、胃液をはいた後そのままの口からも、同様の臭いが立ち上っていた。
窓を開けているおかげで、多少臭いは薄まっているが、惨状に変わりはなかった。
うがいをしたい。ゴミ箱の中身を片づけたい。お腹が空いた。
一度眠って、多少冷静になった頭の中に、幾つもの欲が芽生えてくる。
「よっと・・・」
私はベッドから体を起こすと、扉の鍵を開けて、扉を薄く開いた。
廊下に放り出した布団は片づけられており、耳を澄ませども何の気配や物音もなかった。
父さんは仕事で、ユキさんも家に戻ったのだろう。
部屋を出るなら今だ。
私は薄く開いていた扉を開き、廊下に出た。
人気のない廊下を進んで洗面所にはいると、私は口をすすぎ、顔を洗った。
口の洗浄材も使わない、ただ水だけでのうがいだったが、それでも口内の酸味と不快感はきれいさっぱり流されていった。
「ふぅ・・・」
私はため息をつきながら、鏡をのぞき込んだ。
ひどい顔をしている。あれほど寝たというのに、寝不足気味の顔だ。
まだ、心の疲れが残っているのだろう。
朝食の残りか、冷蔵庫の中のものを適当に食べれば、多少はましになるだろうか。
私は洗面所を出て、ダイニングに入った。
食卓の上には、私の分のご飯と味噌汁が、ラップをかけて置いてあった。だが、テーブルにつく人影に、私の動きが止まった。
ボブカットの金髪に、昨日着ていた服そのままの姿。
ユキさんだ。
「・・・・・・」
一瞬、このまま逃げ出し、部屋に飛び込もうかと考えたが、私は踏みとどまった。
こうしてあからさまに音を立て、彼女の視界に入るであろう位置に立っているのに、ユキさんは身動き一つしないのだ。
じっとしているのなら都合がいい。こちらも、無視するまでだ。
私は無言のまま、用意されていた朝食をとるため、席に座った。
「おはよう、智花さん」
私が正面に座ったところで、ユキさんが口を開いた。
だが、私はユキさんに応じることなく、食器を覆うラップをむしった。
「さっきは、その・・・驚かせてごめんなさい」
謝罪の言葉を紡ぐが、耳を貸さない。箸を取って、味噌汁に唇をつける。
冷たい。
「もう説明しましたが、ボクは元々男で、今は魔物です。股間に名残は残っていますが、もう男じゃありません・・・」
冷たい味噌汁を一口すすり、冷えたご飯に箸をつける。
冷えているせいで固まっており、いつもの調子でご飯を摘もうとすれば、箸が折れるか茶碗から固まりごと持ち上げかねなかった。
「多少・・・その、時々便利なものがぶら下がっているだけで、肉体的にはほぼ女性です。そしてボクの心も、もう女性のようになってます」
ご飯を摘むのをあきらめると、茶碗に口を寄せ、私は直接ご飯にかじりついた。
一口分を口内でかみしめる。やはり冷たい。
「向こうで聞いた話によれば、アルプになるのは女性的なところのある男性が素敵な男性に惹かれてなる場合が多いそうです。ですが、ボクの側にはそんな男の人はいなくて、ただ内側に抱え込んでいた女性的な部分が膨れ上がって、こうなってしまったんだと思います」
口の中で念入りにかめば、ご飯は多少柔らかくなった。唾液と混ざって粥状になったそれを飲み込み、お椀に手を伸ばす。
「でも、ボクの場合中途半端な状態で限界でした。女性を愛することも、男性から愛されることもできない、中途半端な体のまま止まってしまったんです」
味噌汁は冷たく、豆腐は少し固くなっていたが、それでもご飯よりはましだった。冷たくて塩っぱい液体で口内を潤し、ご飯に挑む心を養う。
「留学を終え、こちらに戻ってもボクは孤独でした。どっちつかずの体のおかげで、家族や友人に会うこともできないんですから。それで、ボクはとりあえず生きていくため、外見的に近い性別を名乗って、今の職業に就きました」
茶碗をとり、ご飯に噛みつく。一口分の米粒の固まりを念入りに咀嚼し、飲み込める程度に柔らかくしていく。
「中性的な外見のため、多少はもてるのですが・・・それまででした。よってきた人はみんな、ボクの本当の姿に驚き、身を引いていきました。わずかな期待を抱き、何度も裏切られ・・・ボクは期待するのをやめました」
口内に米粒の固まりを残したまま、私はお椀に口を付け、少しだけ味噌汁を含んだ。水分がご飯に染み込み、柔らかさを増す。私は味噌汁の助けを借りながら、ご飯を飲み込んだ。
「そんな中、徹さんに出会いました。仕事でも、人柄でも徹さんは大きい存在でした。おかげで何度か、ボクもこの人に愛されたいと思いましたが、幾度とない経験から告白するのを踏みとどまれました」
言葉を聞かなかったことにし、再びご飯にかじりつく。そして、米粒をかむ音で声が紛れるよう、私は勢いよくご飯を噛んだ。
「ですが、私の気持ちがかわったのは、徹さんが奥さんのことを想って、悲しそうな表情をしているのを見た時でした。徹さんの奥さん、智花さんのお母さんは、徹さんが愛しているのだからきっとすばらしい人なのでしょう。ですが、その人が今はもういないおかげで、徹さんはこんなに悲しんでいる」
味噌汁の助けを借りず、ただただご飯を噛む、噛む、噛む。
「徹さんの悲しむ姿をあまり見たくない。徹さんを支えてあげたい。そんな気持ちが、徹さんの姿を見る度に胸の奥から湧いてきました。ボクの体のことなんてどうでもいい、ただ徹さんに幸せになってほしい。そんな気持ちに、ボクはなっていました」
どろどろになったご飯を飲み込み、味噌汁を音を立てて啜る。
「この体になって以降、ボクは初めて人を・・・徹さんを愛したいという気持ちになっていたんです。独りよがりな愛されたいから、ようやく卒業できていたんです」
味噌汁を飲み干し、茶碗の三分の一ほどの量になったご飯を口に放り込む。
「智花さん。ボクのことは、なんと言ってけなしても構いません。徹さんの奥さんに、智花さんのお母さんに成り代わろうと言うつもりもありません。ですが、徹さんを、智花さんのお父さんを支えさせてください。徹さんが、もう寂しい思いをしなくて済むように、ボクに・・・」
「・・・・・・ああああああああ!」
ユキさんの言葉を遮るように、私は声を上げた。口の中の、あれだけあったご飯を飲み込んでしまったからだ。
「さっきからずっとずっと、ブツブツブツブツ!」
ユキさんの方を見ながら、私は続けた。
「それじゃまるで・・・私が悪者じゃない・・・父さんに、幸せになってほしいのは、私も一緒なのに・・・」
勢いをつけたはずの言葉がふるえ、視界が滲む。
「父さんに・・・幸せになってほしいのに・・・ママのことで、泣いてほしくないのに・・・なのに・・・なのに・・・」
ひくひくと、断続的に肺から空気が絞り出され。言葉が紡げなくなっていく。
そしてついに、私の口から意味ある言葉ではなく、嗚咽があふれだした。
「うぁぁあああ・・・あぁぁぁああ・・・」
涙がぼろぼろと溢れだし、のどが吐息と呻き声で詰まる。
ユキさんも、父さんに幸せになってもらいたいだけだった。
父さんのことを騙しているわけでも、ママと入れ替わろうとしているわけでもなかった。
ママがいない寂しさを少しでも和らげるため、父さんを支えようとしているだけだった。
だというのに私は、こんなに父さんのことを考えてくれている人のことを。
ユキさんの身の上を知らないまま、嫌悪感に任せてはなった言葉。
日々の中で静かに育まれていた、私と父さんの中からママを消し去ろうとしているのではないかという不安感。
そして、密かに胸の内にあった、かっこよくてきれいで、何でもできるユキさんへの嫉妬。
「ぁぁあああぁぁ・・・ごべんなさい・・・ゆぎざん、ごべんなさい・・・!」
それらに対する申し訳なさが、私の口から謝罪の言葉となってこぼれおちる。
端から見れば、嗚咽と変わりないように聞こえるだろう。
「・・・智花さん・・・」
ユキさんは私の名前を呼ぶと、イスから立ち上がり、私の側に立った。
そして、背中を丸めて嗚咽する私を、ユキさんはそっと抱いた。
一瞬、私の体が小さく震えるが、嫌悪感はなかった。私の言葉がユキさんに届いたという、安堵感が大きかったからだ。
そして、私を抱いてくれるユキさんの大きさと柔らかさと温もりが、私を落ち着かせていった。
父さんが抱きしめてくれるよりも柔らかく、それでいて父さんの腕の中のような大きな温かさを備えた、不思議な抱擁だった。
「ああぁぁ・・・あぁぅ・・・うぅ・・・う、うぅ・・・」
ユキさんに抱かれるうち、私の嗚咽が徐々に弱まり、ついに収まった。
「・・・落ち着いた、ね・・・?」
私を優しく抱いたまま、ユキさんが尋ねる。
私は無言で、彼女の言葉にうなづいた。
「今まで隠し事をしていたことを許してくれ、だなんて言わない・・・でも、徹さんを支えることを、許してくれる・・・?」
「・・・・・・ひとつ、条件があります・・・」
ユキさんの、彼女の言葉に、私は答えた。
打ち合わせを終え、不安感に身を焦がされながら、急ぎ足で私は帰宅した。
玄関の鍵を開けるのももどかしく、扉を開けて家に飛び込む。
「ただいま!」
だが、私の帰宅の言葉に、返事はなかった。
よく見ると、玄関に靴はなかった。
「智花・・・?」
娘の名を呼びながら、廊下を進むが、返事はない。
娘の部屋の扉を軽くノックしても、反応がなかった。
もしかして、出かけてるのだろうか?
「ユキ君・・・?」
家に残っているはずの、アルプの名を呼ぶが、やはり返答はなかった。
玄関から靴が消えているところを見ると、二人とも家を出ているらしい。
しかし、どこへ?
智花の家出と、娘の後を追ったユキ君の構図が脳裏に浮かぶ。だが、拙速な判断はいけない。
高鳴る心臓を落ち着かせようとしながら、私はダイニングに入った。
そして、食卓の上に一枚の紙が置いてあるのに、気がついた。
私は紙を手に取り、そこに記された智花の字を読む。
「なんだ・・・よかった・・・」
私は、前進の緊張がほぐれていくのを感じた。
「仲直り、できたみたいだな」
そうつぶやきながら、リビングの棚に目を向けると、朝方智花が部屋に持っていったはずの写真立てが、いつもの通り鎮座していた。
さて、すれ違い覚悟で私も出かけるか、それともこのまま家で待つか。
着替えながら考えるとしよう。
私は、手にしていた紙をテーブルの上に戻した。
『お母さんと、ママの墓参りに行ってきます』
と記された、智花の置き手紙を。
布団の中から手を伸ばして目覚ましを止め、起きあがる。
「うーん・・・!」
軽く伸びをして、寝ている間に固まっていた体をほぐす。
心地の良い目覚めだ。
私は起き上がり、部屋を出ると洗面所に向かった。
老化を進んでいると、台所から漂う味噌汁のおいしそうな香りが、私の鼻をくすぐった。
「おはよう、智花」
台所の方から、父さんがそう私を呼んだ。
「おはよう、父さん」
「もう少しで朝ご飯できるからな」
ワイシャツの上にエプロンをつけ、手にはお玉を持ったまま、父さんはそう私に言った。
「はーい」
私は父さんの言葉にそう応えると、洗面所に入った。
顔を洗い、髪に櫛を通し、身だしなみを整える。
最後に鏡でチェックしてから、洗面所を出てダイニングに入った。
食卓にはご飯と味噌汁、それに卵焼きが並んでおり、すでに父さんは朝食に箸をつけていた。
「お待たせ」
「ん、弁当はそこおいてるからな」
「ありがとう」
父さんの作ってくれた弁当を確認しつつ、私は食卓に着いた。
「いただきまーす」
軽く手を合わせ、箸とお椀を手に取る。
味噌汁を軽く啜ると、ほっとするような温もりが体内に広がった。
「あーおいし・・・」
「そりゃよかった。でも、智花の味噌汁にはかなわないけどな」
「またまたー」
父さんの言葉に、私は苦笑した。
父さんはそう卑下するが、実際のところ父さんの手際の良さには負ける。
今朝の朝食も、お弁当の準備をしながら作ったのだろう。
私が朝食を作ることもあるが、お弁当までは手が回らない。
「ん、卵焼きおいしー」
小皿に盛られた卵焼きを一切れ口に運び、私はそう漏らした。
「今日の卵焼きはどうだ?」
「うん、おいしいよ。お弁当が楽しみ」
「そうか。今日は少し塩加減を間違えたような気がしてな」
「そう?いつもと変わらないように思うけど・・・」
私は念のためもう一切れ卵焼きを取り、口に運んだ。
うん、いつもと変わらない、少しだけ甘いふわふわの卵焼きだ。
「んー、いつもと同じぐらいおいしい」
「それならいいんだ」
塩加減は勘違いだったと納得したのか、父さんは頷いた。
「ところで智花、今日の予定は覚えているか?」
「えーと・・・あ、夕ご飯は外で、だったね」
「そうだ」
私の返答に、父さんは頷いた。
「待ち合わせは、夕方の六時に、駅前だったよね?」
「ああ。前々から話してたと思うが、あまり恥ずかしくない格好で来いよ」
「大丈夫だって。去年の文化祭の時のメイド服、舞台衣装だったけど造りは本物と同じよ?」
「うーん、メイド服よりウェイトレスの方がよかったなあ」
私の冗談に、父さんはそう乗ってきた。
「ま、冗談はともかくとしてだ。学校の制服で、とはいわないがちゃんとした服装で来てくれよ?」
「うん、分かってる」
「その辺、頼むぞ?」
私にそう念押しすると、父さんは食卓を立った。
「ごちそうさま」
「後洗っとくからね」
「頼む」
父さんは自分の食器を台所の流しにおくと、ダイニングを出ていった。
そして、背広を羽織り、鞄を手にして戻ってきた。
「じゃあ行ってくるが、戸締まりもしっかりな」
「はーい。気をつけて行ってらっしゃい」
「行ってきます」
私の言葉を背に、父さんはダイニングを出て、玄関を開き出かけていった。
さて、私ものんびりしていられない。
急いで朝食を片づけると、私は食器を流しに運び、手早く洗った。
二人分の茶碗とお椀と小皿をすすぎ、塗れたままのそれを水切りかごに入れる。
このままにしておけば、夕方までには乾くだろう。
キッチンを出て、自分の部屋に戻り、制服に着替える。
急ぎつつも、変なしわやがつかないよう気を使い、鏡で全身を確認する。
「・・・よし」
私は一人そうつぶやくと、鞄を手に部屋を出て、家の中を回った。
窓の鍵はかかっているか。ガスの元栓はしまっているか。照明は切れているか。
一つずつ確認してリビングに入り、父さんが作ってくれたお弁当を鞄に入れる。
これで準備万端。後は出かけるだけだ。
私は見落としがないか脳裏で確認しながら、リビングの棚におかれた写真立てに目を向けた。
木枠の中、ガラスの向こうで、若い女性が微笑んでいた。
私に少しだけ似た、私より年上の女性。
「行ってきます、ママ」
写真の中で微笑むママにそう告げた。
玄関に鍵をかけ、遅刻をすることもなく私は学校に着き、いつも通り授業を受けた。
金曜日、週末と言うこともあって、昼休みともなるとクラスメートたちは皆どこか浮ついた雰囲気を醸し出していた。
「ねえ、今日の放課後、一緒に出かけない?」
一つの席に友人同士で集まり、一緒に昼食を取っていると、友人の一人がそう口を開いた。
「駅前に新しい服屋ができるらしいから、みんなで偵察にいこうよ」
「えー?オープンしてからでよくない?」
「でも、開店前にふいんきだけでも確認しておけば、いい店かどうか分かるんじゃない?」
「そんなの開店してからじゃないと分からないわよー」
「いや、分かるって」
弁当をつつき、あるいはパンをかじりながら、口々に思い思いの言葉を紡ぐ。
「でも、外装だけでも見ておきたくない?」
「うーん、どうかなあ・・・」
「もしかしたら内装も見えるかもしれないよ?みんなで偵察にいこうよ。ねえ、智花?」
「あ、ごめん・・・今日の夕方、予定入ってるんだ」
不意に話を振られるが、私はそう謝った。
「予定?」
「え?どこか出かけるの?」
単純に『偵察』への不参加表明のつもりだったが、友人たちの興味は私に吸い寄せられていた。
「どっか行くの?旅行?」
「もしかして彼氏?」
「違うよー」
彼氏、という友人の言葉に、私は手を振って否定する。
「じゃあ何よ」
「家族と食事しに行くだけよ」
「へー、どこのお店?」
「さあ・・・詳しくは聞いてないけど、駅前集合だからあの辺りだと思う」
父さんから集合場所と時刻以外についてあまり聞かされていないことに、私は遅まきながら気がついていた。
「ほー気になりますなあ」
だが、単純な私の無知を、友人たちは何か隠しごとでもしているかのように感じているようだった。
「本当になんでもないって。父さんとご飯食べるだけだから」
多分そうだろう。そう思いを込めて、私は否定した。
「ん?もしかして智花のお父さんかお母さんの誕生日?」
「あー・・・いや、違う」
脳裏に両親の誕生日や、母さんの命日を思い浮かべるが、どれも違った。
「特に何でもないのに、家族で外食?」
「怪しいですなあ」
「だからそういうのじゃないってー」
「そういうの、って・・・何かの記念日パーティーじゃないってこと?」
「マア奥様聞きました?記念日を祝うわけでもなく、外食するですってよ」
「んもー」
妙に楽しげに暴走する友人たちに、私はため息をついた。
これは誤解を解くのに、骨が折れそうだ。
そして、授業が終わった後、私は急いで学校を出た。
いつもより少しだけ急ぎ気味に、家へと向かう。
「ただいま!」
誰もいない、返事が返ってくることのない帰宅の挨拶をしながら、私は家に入った。
鞄を自分の部屋に置き、弁当箱を取り出す。そしてキッチンに向かいながら、私は時計を確認した。
約束の時間まで、まだ余裕がある。
私は朝方さっと洗った後、自然乾燥に任せていた食器を食器棚に戻し、弁当箱を手早く洗った。
風呂を洗い、帰宅したらすぐに入浴できるよう、やや熱めのお湯を湯船に張る。
そして、制服から少しだけおめかししたよそ行きに着替えてから、私は家を出た。
駅前までの道を、時間には余裕があるものの、少しだけ急ぎ足で進む。
やがて、駅から住宅街へと流れていく人が多くなり、私は川を逆らって泳ぐ魚のように、人の流れに逆らって進んでいた。
程なくして、やや開けた駅前広場に私は出た。
「ええと・・・」
バス乗り場に、駅側のショッピングセンターに囲まれた広場を見渡した。
まだ父さんは来ていないようだ。無理もない。約束の時間まで、まだ十分はあるのだから。
私は待ち合わせ場所である時計台の側に移動すると、駅の出入り口を見るようにして待った。
数分おきに出入り口からたくさんの人が溢れ、時折数えられるほどの人数がばらばらに駅に入っていく。
出ては入りを繰り返す人の波を眺めていると、見知った顔が出入り口から現れるのが見えた。
父さんだ。
「・・・!」
父さんもほぼ同時に私に気がついたらしく、私の方を見ながら軽く手を上げ、時計台の側に向けて歩きだした。
私は反射的に、手を振る父さんに手を振り返した。
だが、私は父さんのどこか陽気な仕草と裏腹に、その表情が少しだけ強ばっていることに気がついた。
そして、父さんが人を連れていることに、私の側まで後数歩というところで気がついた。
「や、お待たせ」
「ううん、そんなに待ってないよ」
微妙に緊張した面もちの父さんは、少し後ろをついてきた人に顔を向ける。
「私の娘の智花だ、ユキ君」
「森川さんに似て、利発そうな娘さんですね」
父さんの言葉に応えたのは、すらりと背の高い女性だった。
金色のさらさらとした髪をボブカットにし、細身のスレンダーな体をパンツスーツで覆っていた。
どこか中性的な顔立ちのためか、私は同性のはずなのにドキッとしてしまった。
「職場の同僚のユキ君だ」
父さんが私に向け、連れていた女性・・・ユキさんのことを紹介していた。
「森川さん・・・徹さんと仕事をさせてもらっている、ユキです」
彼女は私に向かって、頭を下げた。
「ユキ君には仕事でいつもいろいろ手伝ってもらっていてね・・・」
「手伝ってもらっているのは、ボクの方ですよ森川さん」
父さんの冗談に、ユキさんがクスクスと笑いながら訂正を入れる。
慣れたやりとりなのだろうか、二人の呼吸はぴったりだった。
「とにかく、今日はユキ君と食事をするから」
「親子水入らずのところ、ごめんなさいね、智花さん」
ユキさんは私に向けて小さく頭を下げた。
「あ、えーと・・・私こそよろしくお願いします・・・」
ユキさんの私に向けたアクションに、私は若干慌てて頭を下げた。
「じゃあ、立ち話もなんだから、店に行くとしようか」
「そうですね」
父さんの言葉に、ユキさんがうなづき、私たち三人は移動を始めた。
西暦2012年の年末、異世界の存在が証明された。
それは数式をいじくり回しての論理上の証明や、粒子加速機でどうのこうのしての実験に基づく証明ではなかった。
前触れはあったのかもしれないが、不意に異世界とこちらをつなぐゲートが開いたのだ。
ゲート。門。扉。入り口。十二種類の野菜定食の妄想の結晶。
呼び名は様々だったが、向こうの世界とこちらが繋がっているということに変わりはなかった。
そして、異世界にはこちらの人と変わらない姿の人間と、人と似ていながらも人ではない魔物が共存していることが判明した。
ゲートの向こうからやってきた、大使を名乗る銀髪の美女により、こちらと向こうの和平が結ばれた。
だが、即座に自由に行き来ができるようになったわけではなく、ゲートを使っての行き来は厳密に制限・管理されるようになった。
二つの世界は出会ったばかりで、接触になにが起こるのか分からないからだ。
限られた人数を交換し、互いの理解を深めることで、徐々に世界間の親睦を深めていく。
それが、今のこっちと向こうの間柄だった。
「へえ、ユキさんは向こうに行ってたんですか」
「はい、三年ぐらいですけど」
運ばれてきた料理をナイフとフォークで切り分けながら、ユキさんが私の質問に答えた。
「言葉も満足に通じない中、必死に魔法だとかの勉強をしながら、文化や風習をレポートにまとめて提出の繰り返しでした」
「わー、大変そう・・・」
外国への留学でも大変そうだというのに、異世界、それも人間以外の種族が多く存在する土地への留学なんて、どれほど大変なのだろうか。
「ええ、本当に大変でした・・・でも、留学の経験があったから、今の仕事に就けたんですよ」
ユキさんは遠い目をしながら続けた。
「魔法だとかは全く身に付きませんでしたけど、今の仕事に就けたという点では、実りがあったと思います」
「へぇ・・・」
「・・・もしかして智花、留学したくなってるんじゃないか?父さん許さないぞ。寂しいからな」
ユキさんの満足げな表情に感心していると、父さんは誤解したのかそう口を開いた。
「違うって」
「留学先によっては、土地の影響で体質が変わるらしいけど、父さんはお前だとすぐ気がつくからな」
「だから違うって」
なぜか私が留学する前提で話を進めつつある父さんに、私はそうつっこんだ。
すると、ユキさんがクスクスと笑う。
「ふふ・・・本当にお二人は仲がいいんですね・・・」
「ああ、私の自慢の娘だからな」
「やめて父さん、ちょっと恥ずかしい・・・」
私はユキさんに向けて胸を張る父さんに、顔が赤くなるのを感じた。
学校のクラスメートは、『お父さんなんてきらーい』という立場を多く取っているが、私は父さんに対して嫌悪はなかった。
だが、改めてこうして親子の仲の良さを強調されると、少し恥ずかしかった。
「森川さん、職場でもよく智花さんのことを話されてるんですよ。それだけ愛されてるってことですから、恥ずかしがる必要はありませんよ」
ユキさんが、赤面する私にそう言った。
「で、でもこうやって改めて言われると、ちょっとくすぐったいというか・・・」
「あまり言ってこなかったからなあ・・・ごめんよ智花、これからは毎日ほめるからな」
「やめて、父さん」
いつも通りの冗談に、私と父さんが笑い、ユキさんが静かに微笑んだ。
私たちは談笑しながら、運ばれてくる料理を楽しんでいった。
そして、デザートのケーキとコーヒーが運ばれたところで、不意に父さんがまじめな表情をした。
「さて、智花・・・」
「なに?父さん」
ケーキを切ろうとしていた手を取め、私は父さんを見た。
すると父さんは、一瞬ユキさんと視線を交わしてから、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「智花はもう気がついてるかもしれないが・・・実は、ユキ君と私は交際している」
「・・・うん・・・」
二人の仲の良さを見ていて、何となくそうではないかと私は思っていた。
だが、こうして改めて言われると、やはり衝撃のようなものが私の心を打った。
「それで、だ・・・私はユキ君とその・・・結婚したいと考えている」
父さんの言葉に、ユキさんも姿勢を正し、緊張した面もちで私を見ていた。
「もちろん、智花はユキ君と会ったばかりだから、まだユキ君の人柄だとかを把握しきっていないだろう。でも、ユキ君が家族として加わることに対して・・・」
「いいよ、父さん」
いろいろと言葉を連ねようとする父さんに、私は応えた。
「父さんが選んだ人だもの。私が横から口を出す問題じゃないよ」
「え?あ、いやその・・・新しいお母さんとか、そういう問題は・・・」
想定していたやりとりと違う返答に戸惑ったのか、父さんはしどろもどろになりながら問いかけた。
「ママが死んでもう十年だよ。この十年、父さんは一人でがんばってきたんだもん」
私は、父さんとの二人暮らしを思い返しながら答えた。
「ママも、もう許してくれると思うよ」
そう、つい最近まで、父さんは幾度となくママの写真に向かい、一人で涙を流していた。
父さんが私に隠れて流していた涙は、それだけ父さんがママのことを愛していたという証なのだろう。
だが、私がママだったらいつまでも自分に囚われず、幸せになってほしいと願う。きっとママもそう願うはずだ。
「最近、父さんが何となく楽しそうだったのは、ユキさんと付き合ってたからでしょ?」
ここ最近、父さんがママの写真に向かって泣いていないのは、単純に私が見ていなかったからという理由だけではないはずだ。
「父さんが幸せになれるのなら、父さんのしたいことをすべきだと思う。それが、私の結論」
「智花・・・」
「智花さん・・・」
私の言葉に、父さんとユキさんは私を呼んだ。
「ユキさん」
「は、はい!」
ユキさんを呼ぶと、彼女はびくんと小さく跳ねた。
「これまで、父さんと仲良くしてくれてありがとうございました。これからも父さんを、そして私のこともよろしくお願いします」
私はそうユキさんに向けて頭を下げた。
「・・・こちらこそ、よろしくお願いしますね・・・智花さん」
視界の端、テーブルクロスにユキさんの頭の影が差した。
どうやら彼女も頭を下げたようだ。
「うん・・・智花も認めてくれたようだし、とりあえずはメデタシだな!さ、二人とも顔を上げて!」
父さんに言われるがまま、私とユキさんは同時に頭を上げた。
ユキさんの表情からは、いつの間にか緊張が消え、柔らかな笑みが浮かんでいた。
「ほら二人とも、あんまりゆっくりしてるとデザートのケーキが冷めちゃうぞ」
「んもー、父さん・・・ケーキは冷めないよ」
「冷めるのはコーヒーですよ」
急かそうとした父さんの言葉に、私とユキさんは同時に突っ込みを入れた。
そして、互いに視線を交わしてから、私たちは笑った。
それから数日後、私は学校でいつものように友人たちと、昼食をとっていた。
「ねえ智花・・・昨日の夕方、商店街で買い物してたでしょ?」
話が途切れ、次の話題に移ろうかと言うところで、友人の一人がふと問いかけた。
「うん、晩ご飯の買い物でね」
昨日は商店街の一角のスーパーで、トマトの缶詰の安売りがあったのだ。おかげで昨日はトマトソーススパゲティが楽しめた。
「じゃあさ、一緒に買い物してたイケメンは誰?」
「イケメン!?」
「智花が買い物デート!?」
友人の一言に、ほかの友人たちがにわかに色めき立った。
「イケメンって・・・」
「ほら、あの金髪でスーツ姿のすらーっとした線の細い・・・」
「ああ、ユキさんね」
彼女のあげた特徴に、私は納得した。
「彼氏?」
「彼氏じゃない・・・っていうかユキさんは女の人だよ」
「うそーん。あんなイケメンの女性、いるわけないっしょー」
「いやいや、私の父さんの交際相手だから」
「だったら、何で智花のお父さんの彼女さんが、買い物を一緒にしてたの?」
「昨日はユキさんも家で晩ご飯食べる予定だったから・・・」
そう。先日の交際報告を私にしてから、ユキさんは家を訪れるようになった。
ある時は夕御飯を一緒に食べたり。
ある時は父さんより先に家に着き、私が担当している家事を手伝ったり。
とにかく、私が父さんとの結婚まで認めたからか、ユキさんは張り切っていた。
「んーなんか仲よすぎじゃない?」
「うん。智花ってファザコンのケがあるから、『お父さん取られるのイヤ!』って攻撃するタイプだと思ってた」
「もう私も子供じゃないんだから、そんな駄々こねないよー」
そう。父さんが私の知らない人と交際していたのはショックだったが、それでも父さんが幸せならいい。
「うーん、あまり納得はできないけど・・・そういうものかなあ?」
「イヤ、まだ智花が実は年上のイケメンと付き合っているのを、嘘で隠している可能性がありますぜ」
「よーし、それではあたしが、智花の匂いをチェックしてしんぜよう」
私が身をよじる暇もなく、友人の一人がひょいと顔を近づけ、すんすんと鼻を鳴らした。
「ちょ、ちょっと・・・!」
毎日風呂に入り、衣類もしっかり洗濯しているが、改めて匂いをかがれるのは恥ずかしい。
「・・・智花から知らない女の匂いがする・・・」
「やっぱり智花パパの彼女さんかー」
「いや、本当に匂いで分かったの!?」
友人の判定に、私は思わず声を上げた。
「まあ、あたし鼻がいいから」
「鼻がいいから、だけですむ問題じゃないよね!?」
「だいたいその日どこ通ってきたか、ぐらいは分かるよ」
「ねえ、あなた人間?実は向こうからの留学生とかじゃないよね?」
友人の隠れた特技に、私はそう問いかけてしまった。
「まあ、人間なのは確実だけど・・・うーん・・・」
「どうしたの?」
だんだんと表情に不審そうなものを浮かべ、うめく友人に、別の友人が問いかけた。
「さっきは知らない女の匂いがするって言ったけど・・・よくよく考えるとちょっと違う気がするのよねえ・・・」
「違うって、どんな風に?」
「なんか・・・知らない女の匂いに、ちょこっとだけ男の匂いが・・・」
彼女は目を閉じると、再びすんすんと鼻を鳴らした。
「ちょっと、やめてって」
「ごめんごめん。でも・・・うん、二人分とは言わないけど、20%ぐらい男の人の匂いがする」
「智花のお父さんじゃないの?」
「智花のお父さんの匂いは知ってるから違うよ」
「知ってるんだ・・・」
私の突っ込みには応えず、友人は口元に手を当てながら続けた。
「可能性としては、職場の男性の匂いが移ってるんだと思うけど・・・智花、そのユキさんって人、気をつけた方がいいよ」
「気をつけてって、何でよ?」
「自分の匂いに、別の男の人の匂いが少しだけ染み着くって、相当長時間一緒にいないと起こらないわよ。ユキさんに家族や兄弟がいるなら問題ないけど・・・」
ユキさんが、家族以外の男性と親しくしつつ、父さんと交際している。
友人の言わんとしていることは、それだった。
「うーん・・・それはない、かなあ・・・」
ユキさんとのつきあいは短いが、それでも私は彼女の人柄に触れている。
何事にも一生懸命で優しいユキさんが、父さんをだまそうとしているとは思い難かった。
「ま、あたしが匂いだけで考えたことだから、確実とはいえないけど・・・でも、何かの秘密があるのは確実よ。秘密をそっとしておくか、調べるかは智花の自由だから」
そう友人は締めくくった。
そう言われても、私はどうすればいいのだろう。
宙ぶらりんのまま、私は取り残された。
ユキさんに何かの秘密がある。
そう聞かされた私は、結局『聞かなかったことにする』ことで、平穏な日常を送ることにした。
問題の先延ばしでしかないが、平和な日々を自分から崩す勇気がなかったからだ。
学校から帰り、風呂の掃除をしていると、玄関の鍵が開く音が響いた。
父さんが帰ってくるには、まだ早い。
「こんにちはー」
案の定、玄関から届いたのは、ユキさんの声だった。
「智花さーん?」
「風呂場でーす!」
スポンジで浴槽を擦りながら、私は応えた。
「お野菜とか買ってきたけど、晩ご飯はボクが作っていい?」
「はい、お願いします」
ユキさんの料理はおいしい。だからこうして、夕食を担当してくれるのはあり難かった。
「材料で使ってほしいのとかある?」
「えーと・・・野菜室のニラとか・・・」
「使っちゃだめなのは?」
「ないです」
「了解しましたー」
ユキさんの気配が、キッチンへと移動していく。
私は浴槽を一通りきれいにすると、洗剤の泡を水で流し、浴槽に湯を張り始めた。
後、二十分もすれば入れるようになるだろう。
風呂場をでて、ユキさんの手伝いのため、キッチンに入る。
「お手伝いしにきました」
見ると、コンロには鍋が掛けてあり、ユキさんはまな板でニラを刻んでいるところだった。
「ありがと、智花さん。今夜はニラとウィンナーの卵とじにしようと思うから、卵を五つぐらい溶いてくれないかな?」
「はい」
ユキさんの頼みに、私は出してあった卵を小さいボウルに割り入れた。
そして菜箸で軽くかき混ぜる。
その間に、ユキさんはフライパンを加熱し、油を引いてからニラとウィンナーを炒め始めていた。
生のニラに熱が通り、しんなりとするように全体をかき混ぜ、軽く塩胡椒をふる。
「智花さん、卵を」
「はい」
ユキさんの求めに、私は溶き卵の入ったボウルを渡した。
ユキさんは炒めたニラとウィンナーを平らにならすと、卵を回しながらフライパンに注いだ。
卵が熱せられ、音と香りを立てた。
「よーし・・・こっちはもうすぐだから、ちょっとスープの様子を見てくれる?」
「はい」
私はユキさんの隣にたつと、フライパンの隣で熱せられていた鍋のふたを取った。
ふわん、と野菜の煮えた香りが湯気とともに立ち上った。
「キャベツと人参とタマネギを適当に切って、固形スープと水だけで煮てるから、味の調整を任せるわ」
「はーい」
卵とじを仕上げながらのユキさんの言葉に、私は透き通った野菜スープを小皿にとり、口に含んだ。
チキンコンソメのかすかな香りと、人参やタマネギのわずかな味しかかじられない。
「塩と胡椒・・・ね。ユキさん、塩をお願いします」
「ハイ」
私は小さくつぶやくと、ユキさんに頼んで塩をとってもらった。
スープの量から、目分量で塩を鍋に入れて軽くかき混ぜる。
熱せられたスープに塩は溶けていき、具の間に広がっていった。
「そうだ、智花さん。明日、お休みだけど徹さんは仕事だそうだから」
「へえ、何で?」
鍋をかき混ぜながら、私はユキさんの言葉に尋ねた。
「今徹さんが関わってる仕事で、明日しか打ち合わせの都合がつかない人がいてねえ」
「はあ、大変ですねえ・・・」
仕事の都合で休日出勤。父さんには頭が下がるばかりだ。
一通り混ぜ終えて、再び小皿にスープをとって飲んでみると、今度は十分な塩気が感じられた。
「これでよし・・・ユキさん、できました」
「ありがと、智花さん」
ユキさんは、フライパンの焼きあがった卵とじを、大皿に移しながら微笑んだ。
「ちょっとボクも味見していいかな?」
「はい、どうぞ」
小皿にスープをとると、ユキさんは空になったフライパンを流しに置いてから小皿をとった。
彼女の唇がすぼめられ、皿の縁に触れる。
「・・・・・・」
「ん、おいしい。けど、もう少し香りがあった方がいいかなあ・・・」
スープを吸うユキさんの唇に見とれていると、彼女はそう漏らした。
「あ・・・味付け、だめでしたか・・・?」
「ごめんなさい、そう言う意味じゃなくて、もう少しでもっとおいしくなるってこと」
不安になった私に、ユキさんはそうフォローの言葉を入れた。
「もう少し胡椒をふってみるとか、ちょっと違うスパイスを入れてみるとか・・・とにかく、味にアクセントを付けると印象が変わるよ。カレー粉はカレー味になるけど、とりあえず失敗はなくなるね」
「へえ・・・」
ユキさんの言葉に、私は感心していた。これまで、味付けは濃すぎないよう、薄すぎないようといったレベルでしか考えてこなかったからだ。
「このスープの場合、胡椒は・・・ニラの卵とじで使ってるから、ちょっと被っちゃうから外すとして・・・えーと」
ユキさんは調味料の入った棚を軽くのぞくと、小瓶を一つ取り出した。「あったあった」
「お醤油?」
ユキさんの取り出した小瓶に、私はそう彼女に問いかけた。
「そう。炒め物にも煮物にも、ちょこっと加えるだけで味の印象が変わるオススメ調味料」
ユキさんは鍋の上で小瓶を傾けると、ほんの数滴だけ黒い滴をしたたらせた。
そして、軽くお玉で鍋をかき混ぜてから、小皿にスープをとった。
「ん・・・こんなものかな・・・?」
小さく首を傾げながらそう評価すると、彼女はもう少しだけ小皿にスープをとる。
「智花さん、ちょっと味見してみて」
「はい」
ユキさんの差し出した皿を受け取り、私はその縁に唇を当てた。
一瞬、脳裏に間接キスという言葉が浮かぶが、そのことに反応するより先にスープの味が脳に届いた。
「あ、おいし・・・」
先ほどの塩味だけの野菜スープに、微かな香りが加わり、味に深みをつけていた。
「スープがおいしくなりました!ユキさんすごい!」
「智花さんの味付けがしっかりしてたからだよ。ちょうどおいしい塩加減だったのを、香り付けで引き立てただけ」
私の賞賛に、ユキさんはうれしそうにしながらも軽く頭を振った。
「それに、もうボクにしかできないことじゃないし。ほら、今日教えたから、もう智花さんもできるでしょ?」
「はい、多分・・・」
自信はないが、どうすればいいかを教えてもらったから、練習を繰り返せば彼女のようにがらりと味を変えることもできるだろう。
「一朝一夕にはできないとは思うけど、いつかは追いつけるはずだから。だから、すごい、だとか言わないで」
「その・・・ごめんなさい」
やんわりとした、賞賛の言葉の否定に、私は戸惑った。
だが、私の反応に、ユキさんもユキさんで妙に慌てだした。
「あれ?いや、そのえーと・・・すごいって言わないでって言ったのはやめてほしいってワケじゃなくて、智花さんでもすぐにボクぐらいにはなれるって意味だから・・・」
「・・・ふふ、冗談です」
慌てながらも、落ち込む私をなだめようとするユキさんの言葉に、私は思わず吹き出してしまった。
「冗談?んもー、一瞬本当に落ち込んだかと思ったよ」
「ごめんなさーい」
私とユキさんは笑いあった。
まるで本物の家族のようにだ。
すると、玄関で鍵の開く音がし、遅れて父さんの声が響いた。
「ただいまー」
「お帰りなさーい」
「お帰りなさい」
私たちはキッチンから玄関を覗いた。
「ただいま、ユキ君に智花」
「お帰りなさい」
「お風呂も晩ご飯ももうすぐ準備できるけど、どっちにする?」
鞄を提げたままの父さんに、私はそう尋ねた。
「んー、じゃあご飯にしようか」
「はーい。すぐに準備するね」
「盛りつけたりするので、先に着替えていてください」
「はいよー」
父さんが部屋に入っていくのを見送りながら、私はユキさんとキッチンに戻った。
ユキさんが卵とじの乗った大皿を食卓に運び、私がスープ皿に野菜スープを注ぎ分ける。
ご飯を茶碗によそい、箸やスプーンとともに並べたところで、部屋着に着替えた父さんがダイニングに入った。
「お待たせ」
「ううん、こっちも準備できたところ」
父さんにいつものように返すと、私は席に着いた。
「ああ、智花。明日土曜だけど、私・・・」
「休日出勤でしょ?お疲れさま。気をつけてね」
父さんの言葉に、私はそう頭を下げた。
「徹さん、何か飲まれますか?」
台所に残っていたユキさんが、そう父さんに尋ねた。
「じゃあビールで」
「はい」
ユキさんは冷蔵庫を開き、ビールの缶を出すと、グラスとともに食卓に運んだ。
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
父さんがユキさんの運んだグラスを受け取り、ガスの抜ける小気味いい音を立ててユキさんが缶のふたを開ける。
そして、父さんの差し出したグラスに、彼女はビールを注いだ。
「じゃあ、いただきましょうか」
父さんにビールを注いでから、ユキさんはビール缶をテーブルの上に置き、手を合わせた。
「いただきます」
「いただきます」
「いただきます」
父さんとユキさん、そして私の口から、同時に言葉が紡がれた。
そして各人が箸を、スプーンを手に取り、料理を口に運ぶ。
「ん、おいしい」
切り分けられたニラの卵とじを口に運んだ父さんが、そう声を漏らした。
「これは・・・ユキ君が?」
「はい」
父さんの推測に、彼女がうなづく。
「うん、おいしいよ。香ばしくて、ふんわりして・・・」
「ちなみに父さん、何でユキさんだと思ったの?」
「いやあ、智花の卵とじは、もう少し薄味だった気がしてねえ」
「私じゃこんなおいしい卵とじを作れるはずがない、って?」
「やだ、徹さんひどい」
父さんの言葉に、私とユキさんは冗談めかした口調で、そう揚げ足を取ってみた。
「ごめんごめん。そう言うつもりじゃなくて・・・とにかく、いつもとはちょっと違う味付けだったっていいたかったんだ」
「はいはい、そう言うことにしておくね、父さん」
私はほほえみながら、父さんのいいわけめいた言葉を受け入れた。
「うーん・・・失言だったなあ・・・」
父さんはそうぼやきながら、箸をおいてスプーンを手に取り、今度はスープを掬った。
透き通ったスープとキャベツが一切れ乗ったスプーンを、彼は口元に運ぶ。
「ん・・・ん・・・?これは・・・ん・・・?」
数度噛んで飲み下してから、父さんはいきなり首を傾げ始めた。
「どうしたんですか、徹さん?」
「いや・・・その・・・ええと、これは・・・」
「もしかして、どちらが作った料理かわからないのかな?」
返答に窮する父さんに、私はにやにやと笑みを浮かべながら尋ねた。
「いや、分かるぞ分かるぞ・・・ただ、ちょっと自信がなくて・・・」
「確率は50%なんだから、勘でもいいのよ」
「でも、慣れ親しんだ娘さんの味なら、覚えてますよねえ徹さん」
「うぐ・・・いや、しかし・・・」
私とユキさんの言葉に悩みに悩んでから、父さんはついに答えを出した。
「智花・・・か・・・?」
「ピンブー」
「ピンブー?」
私の口から出した擬音を、父さんが繰り返す。
「半分正解で半分はずれということよ」
「スープの基本的な味付けを智花さんがやって、最後の仕上げをボクがやった、が正解です」
「えー、さっき50%っていったじゃないか」
ユキさんの出した正解に、父さんは唇をとがらせる。
「『当たり』か『外れ』の二つに一つだから、50%ってことよ」
「お前は確率の勉強をし直した方がいいぞ、智花」
私の解説に、父さんは真顔でそう突っ込みを入れた。
「でも、徹さんもよく智花さんと回答できましたね?基本的な味付けは智花さんですけど、ボクが仕上げたからだいぶ味付けの印象が変わってるとおもうんですが・・・?」
「ああ、それね」
ユキさんの問いかけに、父さんは私に向けていた真顔を消しながら続けた。
「確かに、口にスープを入れたときの味は、いつもと違ってたんだけど・・・何て言ったらいいのかな・・・塩加減?がいつもと同じだったというか・・・」
「表面上の香り付けにごまかされず、味を見ていたということですね」
「父さんすごいじゃない」
自分で味見しても、がらりと変わってしまったように感じられるスープの味付けを見抜いた父さんを、私は素直に賞賛していた。
「いや、慣れ親しんだ味がした気がして・・・」
「それだけ智花さんが、徹さんのために料理を作ってくれてたってことですよ」
「そういうことか。いつもありがとうな、智花」
「もー、急にやめてよー」
不意の感謝の言葉に、私は少しだけむずがゆくなった。
ユキさんとの顔合わせ以降、父さんはこうしてよく私に感謝したり、ほめたりしてくれるようになった。
まだまだ恥ずかしさは感じられるが、それでも嬉しかった。
「それで、ユキ君は今日はどうするんだ?」
「あ・・・そう言えば今日は金曜日でしたね」
父さんの問いかけに、ユキさんはカレンダーを見てから今日の曜日を思い出したようだった。
「明日は休みだろう?このまま帰っても面倒だろうし、今夜は泊まっていったらどうかな?」
「父さん・・・」
父さんの申し出に、私は自分の目つきに軽蔑めいたものが宿るのを感じた。
「娘の前で交際相手を宿泊させるって」
「いや、泊まるってそう言う意味じゃない。単純に我が家で一晩過ごせば、ゆっくり休めるんじゃないかという意味で・・・」
「・・・ボクはどちらでもいいですよ?」
「ユキ君!?」
ユキさんの一言に、父さんの声が裏返った。
「冗談はこのぐらいにしておいて、徹さんが泊まっていいと言ってくれるのなら嬉しいです。今から家に戻ってもバタバタしますし」
「私としても、ユキさんとはもう少しゆっくり話をしたいし、泊まってほしいなあって・・・」
そう。家事の合間に多少言葉を交わすことはあっても、腰を入れて会話に専念したことはあまりない。
ガールと呼ぶ歳はないが、ユキさんとのガールズトークを楽しみたかった。
「そうか。だったら、お客用の布団を智花の部屋に敷いて、ユキ君にはそこで寝てもらうと言うことでいいかな?」
「うん。私はOK」
「智花さんがいいのなら、ボクも問題ありません」
特に障害もなく、ユキさんの宿泊が決まった。
「智花は?」
「お風呂です」
「だったら聞こえないな」
「多分」
「とうとう泊まってもらうことになったが・・・気をつけてくれ」
「はい。まあ、布団が別だから、大丈夫だと思いますけど・・・」
「念には念を、だよ」
「でも、騙してるみたいで・・・」
「智花に明かすのが少し遅くなるだけだ。だから・・・」
「はい」
夕食を終え、食器を片づけてから、私たちは順番に風呂に入った。
私の入浴中に、ユキさんは替えの下着を近所のコンビニまで買いに行っていた。
今日着ていた服を、明日の朝着て帰ることになるが、ユキさんに抵抗はないらしい。
ユキさんは背丈があるため、私のパジャマが入らず、父さんの寝間着を借りることになった。
袖がや裾が余っているわけではないが、手首に対し袖口がブカブカになっているのは、少々ほほえましかった。
「いやあ、私の部屋に誰かがお泊まりなんて・・・・・・・・・うん、初めてだ」
お客様用の布団をベッドの側に敷き、シーツを掛けながら、私はつぶやいた。
「お友達がお泊まりとかはなかったの?」
布団を挟んだ反対側に屈み、シーツをピンと張りながら、ユキさんが尋ねた。
「うん、私の方からお泊まりにいくことはあったんですけど、友達がウチに来ることがなくて・・・単にあんまり機会がなかっただけなんですけどね」
「そう。お友達がいない、とかじゃないんだね」
「あ、ちょっとひどい。こう見えても私、クラスの人気者ですよ?上から十番目ぐらいですけど」
「それって、真ん中ぐらいってことじゃない?」
「そうとも言いますね」
私たちはそんな、適当な話をしながら布団を整えた。
「これでよし・・・」
枕をセットして、私は立ち上がった。
これでいつでも寝られる。
「それで・・・ユキさん、この後どうしますか?見たい番組とかあれば、つきあいますよ」
「いや、大丈夫。実はそろそろ横になりたいなあって思ってるところだから」
ちらりと時計を確認すると、少し遅い時間だった。
確かに今夜は、もうベッドに入った方が良さそうだ。
「じゃあ、今夜はもう休みましょうか」
「そうだね」
ユキさんは立ち上がると、天井からぶら下がる照明のひもを握った。
「電気、消すね」
「はーい」
私がベッドに横になったところで、ユキさんの腕が上下し、部屋が暗くなった。
そして、ゴソゴソと寝間着や布団がこすれる音が響き、やがて静かになった。
部屋の中では時計の秒針が進む音が響き、窓の外からは風と犬の鳴き声、そして時折どこかを通る車の音が届いた。
「ユキさん・・・」
「なに?智花さん」
眠っていても起こさない程度の呼び声に、ユキさんは小声ながらもはっきりとした声で応えた。
「ちょっと・・・眠れなくて・・・」
「ボクも・・・いつもと違う枕だからかな?」
「少し、おしゃべりしませんか?」
「どちらかが眠くなるまで、ね」
どうやらユキさんも、ガールズトークに乗り気らしい。
「それじゃ・・・父さんとはいつ頃からおつき合いを?」
「いきなり深いところから聞くねえ、智花さん」
単刀直入な私の質問に、ユキさんの言葉に苦笑が混じった。
「えーと、徹さんと交際を始めたのは、一年ぐらい前からだけど・・・出会ったのは二年前だったな」
すこしだけ、懐かしそうな口調でユキさんは続けた。
「向こうから帰ってきて、今の仕事に就いて・・・いろいろあって、徹さんと出会ったんだ。徹さんは、仕事でもいろいろサポートしてくれて、とても優しかった。そして次第に、ボクは徹さんに惹かれていったんだ。でも、時々ふとしたときに、徹さんはすごく悲しそうな目をするんだよ」
「ふとした時って・・・」
「カレンダーをみたり、テレビでどこかの観光地が出たときとかだね。奥さんとの記念日だとか、奥さんと出かけた場所だって教えられたのは、交際を始めてしばらくしてからだったけど」
父さんは、ママの写真を見て涙を流すだけじゃなかったんだ。
「とにかく、徹さんは時々とても悲しそうな目をしていたんだ。仕事もしっかりこなし、人柄もいい徹さんの支えになりたい。いつしかボクはそう思ってたんだ」
一瞬の間を、ユキさんは挟んだ。
「一年間は、ボクの片思いだった。でも、ボクは徹さんのためにがんばった。仕事も徹さんの支えになるようにいっぱいこなしたし、徹さんが楽しめるようおしゃべりも磨いた。おかげで、徹さんも少しずつボクのこともみてくれるようになったんだ。そして、一年ぐらい前に、ボクはついに徹さんに告白して、受け入れてもらった」
「・・・・・・」
そんなことがあったんだ。
私は、この二年間のことを思い返し、父さんの変化を思い出そうとした。
だが、ママの写真に涙を流さなくなったほか、特に変化はなかったように思えた。
「正直なところ、ボクが徹さんの心の支えになれるかははっきり分からない。でも、それでも、徹さんには幸せになってもらいたいと思ってる。こうして、徹さんと智花さんとボクと、三人で過ごす日が続けば、徹さんが悲しい目をすることもなくなるんじゃないかと思ってる。だから・・・」
ふと、ユキさんが言葉を切った。
「智花さん・・・寝ちゃったかな・・・」
無言で聞き入っていた私に、ユキさんはそう声をかけた。
だが、私が返事をするより先に、彼女は続けた。
「つまらない話だったかな・・・ま、そう山あり谷ありじゃなかったからね・・・思い出話につきあわせてごめんね」
ユキさんはそう謝ると、布団の中でもぞもぞとからだを動かし、ゆっくりと呼吸を重ね始めた。
眠るつもりの、静かな吐息だ。
「・・・・・・」
私は、ベッドの上で彼女の呼吸を聞きながら、目を閉じていた。
ユキさんも、父さんをみていたんだ。
ママを思い出して、ママがいないことを悲しむ父さんを。
そして、父さんに幸せになってほしいと、ユキさんも私も願っている。
ユキさんの言うとおり、彼女が家族の一員になれば・・・
私の考えがまとまるより先に、意識が曖昧になり、眠りの世界へ私は沈んでいった。
翌朝、カーテンを透かして差し込む日の光に、私は目を覚ました。
「んあー・・・?」
半分眠っている意識で目覚まし時計をみると、いつも通りの時間だった。
今日は土曜なのに。
私は体を起こすと、ベッドから床に立った。
そして、まだ眠っている体に鞭を打ちながら、よろよろと部屋を出た。
「あ、おはよう智花」
玄関から、新聞を手にした父さんが現れ、私に声をかけた。
「おはよー・・・父さん・・・」
私は半ば脊髄反射で口から声を出すと、よろよろとトイレに向かった。
ドアノブを握り、回そうとする。だが、回らない。
どうやら、父さんが使った後、鍵をかけたままドアを閉めてしまったらしい。
「んもー」
緊急ではないが、私は父さんのミスに微かないらだちを覚え、意識を少しだけ覚醒させた。
父さんに言うのは後にして、まずは扉を開けよう。
我が家のトイレのドアは、いざというときに備え外からでも鍵が開けられるようになっている。
ドアノブの中心の切れ込みを、硬貨やドライバーで回せばよいのだ。
そして、慣れれば少しだけ伸びた爪でも、十分回すことができた。
私は、親指の爪をドアノブの切れ込みに差し入れ、軽く回した。
軽い抵抗感の後、ドアがかちゃりと音を立てて開く。
「へゃっ!?」
するとトイレの内側から、素っ頓狂な声が響いた。
みると、トイレの中、私と向かい合わせになるように便座に腰を下ろしたユキさんが、目を見開いて私を見上げていた。
ああそうだ、昨日ユキさん、ウチに泊まったんだ。
ようやく事態を理解した。
「ご、ごめんなさ・・・!」
私はユキさんに謝罪の言葉を紡ぎながら、扉を閉めようとした。
だが、実際に体を動かす寸前で、私はユキさんの格好がいつもと違うことに気がついた。
ボブカットにした金髪の間から、角のようなものが覗いている。アクセサリーだろうか?
寝間着の上下の間、腰のあたりから、コウモリの羽のようなものが生えている。アクセサリーだろうか?
腰の後ろから先端が矢印のようになった細くて黒いひものようなものが延びている。アクセサリーだろうか?
そして、膝のあたりまで下ろされた寝間着のズボンと下着の向こう、両足の付け根に、なにやら見慣れぬものがぶら下がっていた。アクセサリーだろうか?
いや、アクセサリーではない。角も、翼も、しっぽも、どれもユキさんの体から生えており、翼としっぽに至っては動いていた。
そして、ユキさんの股間にぶら下がる・・・男の人についているはずのアレからは、今まさに黄色い液体がほとばしっているところだった。
「・・・あ、あ・・・」
「・・・・・・・・・」
排尿しながら、何か弁解しようとしているユキさんを残して私はそっと扉を閉めた。
角、羽、しっぽ、おちんちん。頭の中でぐるぐると文字が巡り、私の意識に染み込んでいった。
私は、そのままスタスタとトイレの前を離れると、キッチンで朝食を作っている父さんの側に移動した。
「父さん」
「どうした智花。トイレならユキ君が入って」
「ユキさんね、男の人だった」
「・・・・・・・・・・・・」
私の報告に、父さんが動きを止めた。
「智花・・・ちょっと、座ろうか」
父さんはコンロの火を消し、作りかけの料理をそのままに、私を食卓テーブルに誘導した。
「座りなさい」
言われるがまま、私はいつもの席に腰を下ろした。
「・・・いつ気がついた?」
「さっき。トイレの鍵がかかってて、父さんが間違えて鍵掛けたまま閉めたのかと思って」
「そうか・・・」
父さんがそう漏らしたところで、トイレの方からあわただしく扉を開閉する音が響いた。
そして、大きな足音が後に続いて、ユキさんがダイニングに飛び込んできた。
「と、徹さん、ごめんなさい・・・!」
「今智花から聞いた。事故だ。気にするな」
「ご、ごめんなさい・・・」
角も羽もしっぽもおちんちんも見えないユキさんが、震える声で謝った。
「いずれ・・・いずれ智花には言わなければならないと思っていたが・・・今説明しよう。ユキ」
「はい・・・」
ユキさんは小さくうなづくと胸に手を当てた。
すると、ユキさんの体が一瞬光り、彼女の金髪の間から角が、腰のあたりからコウモリの羽としっぽが姿を現した。
「智花さん・・・実は、今まで隠していましたが・・・ボクは、向こうの世界での留学中に、魔物になってしまいました。本当は、こういう風に角とか羽が生えてるんですが、それを隠して・・・」
「・・・・・・アレは?」
説明しようとするユキさんに、私は尋ねた。
「アレ・・・股間のアレは?」
「その・・・実は・・・」
「魔物になったら生えてくるの?」
「いえ、実は・・・その・・・」
「智花・・・実は、ユキ君は元は男だったんだ」
もじもじと言葉を濁すユキさんに代わり、父さんが口を開いた。
「向こうの世界に留学と言うが、実際のところ三年掛けて向こうの世界の魔物と結婚させるのが目的らしい。ユキ君は、その留学中に魔力の影響を受け、アルプという魔物になってしまったんだ。男なのに、体が女性になる魔物だ」
「体が女の人になるのなら、なんでアレが・・・」
「それは、ボクのせいです」
父さんに問いかけようとした私を遮り、ユキさんが口を開く。
「もう少し向こうに滞在するか、私が男の人と仲良くすれば、完全に女性になってたんです。だけど、これまでずっと勇気がなくて・・・中途半端な体に」
「それで・・・中途半端な体から女の人の体になるため、人柄の良さそうな父さんに近づいたの?」
「っ!そんなつもりじゃ・・・」
ユキさんは弁解しようとするが、私は耳を貸さず父さんを顔を向けた。
「父さんも、顔のかわいいこのオカマに騙されて・・・」
「智花!」
父さんが私の名を呼び、直後私の頬を衝撃と鋭い痛みが襲った。
遅れて、平手打ちされたのだと私は気がついた。
「ユキに何てことを言うんだ!ユキだって、なりたくてこんな体になったわけじゃないんだ!それをおまえは・・・」
「う、うるさい!」
平手の痛みが頬に残っているが、私は大声で返した。
「女の体になりたいからって父さんに近づいて!父さんもママのこと忘れて、オカマとイチャイチャして!最近ママの写真の前で泣かないと思ったら、オカマに夢中になってたんでしょ!?」
「智花・・・!」
「徹さん、智花さん・・・」
「なにが父さんを幸せにしたいよ、このオカマ!自分が女になりたいからって、父さんをよくも!父さんも、ママのこと忘れるぐらい変態みたいなことしてもらってるんでしょ!?変態変態変態!」
私は一息にまくし立てると、イスから立ち上がった。
「智花っ!」
父さんが私の名を呼ぶが、私は身を翻して走った。
数歩でダイニングからリビングに移動し、ママの写真をつかんでからリビングを飛び出す。
そして、自分の部屋に飛び込むと、私は布団を半ば放り投げるようにして廊下に出し、扉を勢いよく閉めた。
そして、扉に鍵をかける。軽い音と短い閂は頼りないが、それでも私の拒絶の意志を表示するには十分だった。
「うぅぅ・・・」
私は窓に駆け寄ると、窓を開いた。
朝の冷たい空気が流れ込み、部屋に残っていた湿り気を含んだぬるい空気と入れ替わる。
布団はもちろん、空気さえも、あのオカマの存在した証は、何一つ残したくなかった。
窓の外に身を乗り出し、深呼吸して肺に残っていた空気を追い出す。
冷たい空気が、体の内側から身を清めていくようだった。
「うぅ・・・うぅ・・・」
だが、私の口からあふれる嗚咽と、胸の奥の気持ち悪さは、いくら深呼吸しても収まらなかった。
むしろ気持ち悪さは次第に吐き気へと変わり、私の肩を、背中を痙攣させていく。
体の内側から、今にもあふれ出そうだ。
「うぶっ・・・!」
こみ上げる吐き気に口元を押さえ、一瞬部屋の扉をみる。
だめだ。せっかく立てこもったのに、出ていくことはできない。
私は体内の圧力と痙攣をこらえながら部屋の中を見回し、部屋の片隅においてあったモノに目を留めた。
バケツ型の、プラスチック製のゴミ箱。
私はゴミ箱の側に駆け寄ると、抱え込むようにしながらしゃがみ込み、口を開いた。
「おぅえええええぇぇぇ・・・」
嗚咽と、胃袋から逆流したモノが、口からあふれ出す。
苦みと酸味が舌の上を駆け抜け、鼻をかんだティッシュやゴミの上に降り注いだ。
昨日の夜からなにも食べていないため、出てくるのは胃液ばかりだった。
のどが熱く、舌が苦くて酸っぱく、目が涙ににじむ。
そして私は、一通り胃の中から液体を吐くと、バケツの上から顔を上げた。
「はぁはぁ・・・」
不快感の残る口を開けたまま呼吸を繰り返し、涙ににじむ目で虚空を見上げた。
のどがイガイガするが、ほんの少し、ほんの少しだけ呼吸が楽になった気がする。
「はぁ、はぁ・・・」
私は不快な風味の残る口をそのままに、よろよろとベッドに歩み寄った。
そして、温もりの残るシーツの上に寝転がると、天井を見上げた。
「はぁ・・・はぁ・・・ママ・・・」
私は、ずっと手に握ったままだった写真立てを、顔の前にかざした。
ガラスの向こうでは、ママがいつもと変わらぬ顔で微笑んでいた。
だが、今はママの笑顔が、ただ恋しかった。
「はぁ・・・はぁ・・・」
ママの写真を見つめるうち、私は少しずつ落ち着いていくのを感じていた。
起きてからほんの数分のことだったが、私は異常に疲れていた。
空腹を満たしたり、うがいをしたりするより、ただ眠りたかった。
「はぁ・・・」
天井を眺めるうち、私の願いは叶えられた。
「・・・すみませんでした・・・」
「君が謝ることではないよ。智花が起きてきたとき、一声私が声をかけていれば・・・いや、もう言ってもしょうがない」
「・・・智花さんは・・・?」
「部屋にこもっている。静かなところをみると、眠っているのかもしれない」
「そうですか・・・」
「それで・・・昨日も話したが、今日はどうしても出かけなければならない用事があるんだ」
「はい。ボクも智花さんには伝えておきました」
「うん。だから、すまないが・・・」
「行ってきてください。智花さんの様子は、ボクがみておきます」
「すまない。智花が、何か失礼なことを行ったときは・・・」
「いいんです。慣れてますから」
腹の痛みに、私は目を開いた。
意識が闇に沈むよりも前との違いは、かざしていた写真立てが胸の上に落ちていることだろうか。
「あぁ・・・」
吐息とともに、口から意味のない音を紡ぎながら、私は身を起こした。
精神的に疲れていても、体はそう疲れていなかったためか、寝すぎたとき特有の頭痛が頭に残っていた。
時計をみると、すでに昼前だった。
空腹すぎて腹が痛むのも納得の時間だ。
「・・・・・・ん・・・?」
天井を見上げていると、私は妙な酸っぱい臭いが鼻を突くのを感じた。
だが、正体にはすぐに思い至った。先ほど嘔吐したゴミ箱だ。
そして、胃液をはいた後そのままの口からも、同様の臭いが立ち上っていた。
窓を開けているおかげで、多少臭いは薄まっているが、惨状に変わりはなかった。
うがいをしたい。ゴミ箱の中身を片づけたい。お腹が空いた。
一度眠って、多少冷静になった頭の中に、幾つもの欲が芽生えてくる。
「よっと・・・」
私はベッドから体を起こすと、扉の鍵を開けて、扉を薄く開いた。
廊下に放り出した布団は片づけられており、耳を澄ませども何の気配や物音もなかった。
父さんは仕事で、ユキさんも家に戻ったのだろう。
部屋を出るなら今だ。
私は薄く開いていた扉を開き、廊下に出た。
人気のない廊下を進んで洗面所にはいると、私は口をすすぎ、顔を洗った。
口の洗浄材も使わない、ただ水だけでのうがいだったが、それでも口内の酸味と不快感はきれいさっぱり流されていった。
「ふぅ・・・」
私はため息をつきながら、鏡をのぞき込んだ。
ひどい顔をしている。あれほど寝たというのに、寝不足気味の顔だ。
まだ、心の疲れが残っているのだろう。
朝食の残りか、冷蔵庫の中のものを適当に食べれば、多少はましになるだろうか。
私は洗面所を出て、ダイニングに入った。
食卓の上には、私の分のご飯と味噌汁が、ラップをかけて置いてあった。だが、テーブルにつく人影に、私の動きが止まった。
ボブカットの金髪に、昨日着ていた服そのままの姿。
ユキさんだ。
「・・・・・・」
一瞬、このまま逃げ出し、部屋に飛び込もうかと考えたが、私は踏みとどまった。
こうしてあからさまに音を立て、彼女の視界に入るであろう位置に立っているのに、ユキさんは身動き一つしないのだ。
じっとしているのなら都合がいい。こちらも、無視するまでだ。
私は無言のまま、用意されていた朝食をとるため、席に座った。
「おはよう、智花さん」
私が正面に座ったところで、ユキさんが口を開いた。
だが、私はユキさんに応じることなく、食器を覆うラップをむしった。
「さっきは、その・・・驚かせてごめんなさい」
謝罪の言葉を紡ぐが、耳を貸さない。箸を取って、味噌汁に唇をつける。
冷たい。
「もう説明しましたが、ボクは元々男で、今は魔物です。股間に名残は残っていますが、もう男じゃありません・・・」
冷たい味噌汁を一口すすり、冷えたご飯に箸をつける。
冷えているせいで固まっており、いつもの調子でご飯を摘もうとすれば、箸が折れるか茶碗から固まりごと持ち上げかねなかった。
「多少・・・その、時々便利なものがぶら下がっているだけで、肉体的にはほぼ女性です。そしてボクの心も、もう女性のようになってます」
ご飯を摘むのをあきらめると、茶碗に口を寄せ、私は直接ご飯にかじりついた。
一口分を口内でかみしめる。やはり冷たい。
「向こうで聞いた話によれば、アルプになるのは女性的なところのある男性が素敵な男性に惹かれてなる場合が多いそうです。ですが、ボクの側にはそんな男の人はいなくて、ただ内側に抱え込んでいた女性的な部分が膨れ上がって、こうなってしまったんだと思います」
口の中で念入りにかめば、ご飯は多少柔らかくなった。唾液と混ざって粥状になったそれを飲み込み、お椀に手を伸ばす。
「でも、ボクの場合中途半端な状態で限界でした。女性を愛することも、男性から愛されることもできない、中途半端な体のまま止まってしまったんです」
味噌汁は冷たく、豆腐は少し固くなっていたが、それでもご飯よりはましだった。冷たくて塩っぱい液体で口内を潤し、ご飯に挑む心を養う。
「留学を終え、こちらに戻ってもボクは孤独でした。どっちつかずの体のおかげで、家族や友人に会うこともできないんですから。それで、ボクはとりあえず生きていくため、外見的に近い性別を名乗って、今の職業に就きました」
茶碗をとり、ご飯に噛みつく。一口分の米粒の固まりを念入りに咀嚼し、飲み込める程度に柔らかくしていく。
「中性的な外見のため、多少はもてるのですが・・・それまででした。よってきた人はみんな、ボクの本当の姿に驚き、身を引いていきました。わずかな期待を抱き、何度も裏切られ・・・ボクは期待するのをやめました」
口内に米粒の固まりを残したまま、私はお椀に口を付け、少しだけ味噌汁を含んだ。水分がご飯に染み込み、柔らかさを増す。私は味噌汁の助けを借りながら、ご飯を飲み込んだ。
「そんな中、徹さんに出会いました。仕事でも、人柄でも徹さんは大きい存在でした。おかげで何度か、ボクもこの人に愛されたいと思いましたが、幾度とない経験から告白するのを踏みとどまれました」
言葉を聞かなかったことにし、再びご飯にかじりつく。そして、米粒をかむ音で声が紛れるよう、私は勢いよくご飯を噛んだ。
「ですが、私の気持ちがかわったのは、徹さんが奥さんのことを想って、悲しそうな表情をしているのを見た時でした。徹さんの奥さん、智花さんのお母さんは、徹さんが愛しているのだからきっとすばらしい人なのでしょう。ですが、その人が今はもういないおかげで、徹さんはこんなに悲しんでいる」
味噌汁の助けを借りず、ただただご飯を噛む、噛む、噛む。
「徹さんの悲しむ姿をあまり見たくない。徹さんを支えてあげたい。そんな気持ちが、徹さんの姿を見る度に胸の奥から湧いてきました。ボクの体のことなんてどうでもいい、ただ徹さんに幸せになってほしい。そんな気持ちに、ボクはなっていました」
どろどろになったご飯を飲み込み、味噌汁を音を立てて啜る。
「この体になって以降、ボクは初めて人を・・・徹さんを愛したいという気持ちになっていたんです。独りよがりな愛されたいから、ようやく卒業できていたんです」
味噌汁を飲み干し、茶碗の三分の一ほどの量になったご飯を口に放り込む。
「智花さん。ボクのことは、なんと言ってけなしても構いません。徹さんの奥さんに、智花さんのお母さんに成り代わろうと言うつもりもありません。ですが、徹さんを、智花さんのお父さんを支えさせてください。徹さんが、もう寂しい思いをしなくて済むように、ボクに・・・」
「・・・・・・ああああああああ!」
ユキさんの言葉を遮るように、私は声を上げた。口の中の、あれだけあったご飯を飲み込んでしまったからだ。
「さっきからずっとずっと、ブツブツブツブツ!」
ユキさんの方を見ながら、私は続けた。
「それじゃまるで・・・私が悪者じゃない・・・父さんに、幸せになってほしいのは、私も一緒なのに・・・」
勢いをつけたはずの言葉がふるえ、視界が滲む。
「父さんに・・・幸せになってほしいのに・・・ママのことで、泣いてほしくないのに・・・なのに・・・なのに・・・」
ひくひくと、断続的に肺から空気が絞り出され。言葉が紡げなくなっていく。
そしてついに、私の口から意味ある言葉ではなく、嗚咽があふれだした。
「うぁぁあああ・・・あぁぁぁああ・・・」
涙がぼろぼろと溢れだし、のどが吐息と呻き声で詰まる。
ユキさんも、父さんに幸せになってもらいたいだけだった。
父さんのことを騙しているわけでも、ママと入れ替わろうとしているわけでもなかった。
ママがいない寂しさを少しでも和らげるため、父さんを支えようとしているだけだった。
だというのに私は、こんなに父さんのことを考えてくれている人のことを。
ユキさんの身の上を知らないまま、嫌悪感に任せてはなった言葉。
日々の中で静かに育まれていた、私と父さんの中からママを消し去ろうとしているのではないかという不安感。
そして、密かに胸の内にあった、かっこよくてきれいで、何でもできるユキさんへの嫉妬。
「ぁぁあああぁぁ・・・ごべんなさい・・・ゆぎざん、ごべんなさい・・・!」
それらに対する申し訳なさが、私の口から謝罪の言葉となってこぼれおちる。
端から見れば、嗚咽と変わりないように聞こえるだろう。
「・・・智花さん・・・」
ユキさんは私の名前を呼ぶと、イスから立ち上がり、私の側に立った。
そして、背中を丸めて嗚咽する私を、ユキさんはそっと抱いた。
一瞬、私の体が小さく震えるが、嫌悪感はなかった。私の言葉がユキさんに届いたという、安堵感が大きかったからだ。
そして、私を抱いてくれるユキさんの大きさと柔らかさと温もりが、私を落ち着かせていった。
父さんが抱きしめてくれるよりも柔らかく、それでいて父さんの腕の中のような大きな温かさを備えた、不思議な抱擁だった。
「ああぁぁ・・・あぁぅ・・・うぅ・・・う、うぅ・・・」
ユキさんに抱かれるうち、私の嗚咽が徐々に弱まり、ついに収まった。
「・・・落ち着いた、ね・・・?」
私を優しく抱いたまま、ユキさんが尋ねる。
私は無言で、彼女の言葉にうなづいた。
「今まで隠し事をしていたことを許してくれ、だなんて言わない・・・でも、徹さんを支えることを、許してくれる・・・?」
「・・・・・・ひとつ、条件があります・・・」
ユキさんの、彼女の言葉に、私は答えた。
打ち合わせを終え、不安感に身を焦がされながら、急ぎ足で私は帰宅した。
玄関の鍵を開けるのももどかしく、扉を開けて家に飛び込む。
「ただいま!」
だが、私の帰宅の言葉に、返事はなかった。
よく見ると、玄関に靴はなかった。
「智花・・・?」
娘の名を呼びながら、廊下を進むが、返事はない。
娘の部屋の扉を軽くノックしても、反応がなかった。
もしかして、出かけてるのだろうか?
「ユキ君・・・?」
家に残っているはずの、アルプの名を呼ぶが、やはり返答はなかった。
玄関から靴が消えているところを見ると、二人とも家を出ているらしい。
しかし、どこへ?
智花の家出と、娘の後を追ったユキ君の構図が脳裏に浮かぶ。だが、拙速な判断はいけない。
高鳴る心臓を落ち着かせようとしながら、私はダイニングに入った。
そして、食卓の上に一枚の紙が置いてあるのに、気がついた。
私は紙を手に取り、そこに記された智花の字を読む。
「なんだ・・・よかった・・・」
私は、前進の緊張がほぐれていくのを感じた。
「仲直り、できたみたいだな」
そうつぶやきながら、リビングの棚に目を向けると、朝方智花が部屋に持っていったはずの写真立てが、いつもの通り鎮座していた。
さて、すれ違い覚悟で私も出かけるか、それともこのまま家で待つか。
着替えながら考えるとしよう。
私は、手にしていた紙をテーブルの上に戻した。
『お母さんと、ママの墓参りに行ってきます』
と記された、智花の置き手紙を。
12/12/18 17:56更新 / 十二屋月蝕
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