(50)バフォメット
畳の敷かれた一室に、俺とバフォ様はいた。
窓の向こうには夜空が広がっており、月と星が輝いている。
「ではバフォ様、お疲れさまでした」
「うむ、お疲れさまなのじゃ」
背の低いテーブルに向かい合わせになり、俺とバフォ様はビールの注がれたガラスコップを掲げて軽く打ち合わせた。小気味いい高い音が鳴り響く。
「ん、ん、ん･･･ぷはぁ！」
バフォ様はコップのビールを半分ほど飲み干すと、一息ついた。
「いい飲みっぷりで、さすがバフォ様」
「ふふふ、そう誉めるでない･･･けぷ」
早速酒が回ってきたのか、頬を軽く赤らめながら彼女は小さくげっぷした。
「むしろ、お前のほうがもう少し潔くのまんと･･･ほら、ワシの旦那様なんじゃから」
「それでは」
彼女の言葉に、俺は一口二口程度にとどめていたビールを、ごくりと喉へ流し込んだ。ほろ苦い、清涼感のある冷たい液体が喉を滑り落ちていく感覚が楽しい。
「･･･ぷはあ」
「うむ、いい飲みっぷりじゃ！」
満足したらしく、バフォ様は小さく頷いた。
「それでは、料理が冷めるといけませんし、いただきましょうか」
「そうじゃな」
俺とバフォ様は箸を手に取り、テーブルに並ぶ料理に手を着けた。
バフォ様と新婚旅行で、ジパングを訪れている。
それも魔法で飛んだり転移したりせず、陸路と船を使ってわざわざジパングまで向かったのだ。
一月がかりの新婚旅行に、バフォ様は最初のうちは難色を示した。だが、魔法で移動して、その土地の料理を食べて一泊して、ただ帰ってくるだけの旅行でどれだけの思い出が作れるのか、という俺の説得によってバフォ様は納得した。
新婚旅行とは、二人の幸せな思い出を築くための作業なのだ。パッと行ってパッと帰ってくるだけでは、そう多くの思い出は作れない。
そう言うわけで、俺とバフォ様は大いに働き、一月分の休暇を作ることに成功したのだ。そして、なるべく移動魔法を使わない、というルールで旅を続け、ついにジパングの有名な温泉旅館を訪れたのだった。
異国情緒漂う温泉旅館に、バフォ様は大いに喜び、広々とした浴場をたっぷりと堪能したのだった。
そして今、俺たちは二人そろって浴衣に袖を通し、旅館の料理に舌鼓を打っているのだ。
「ほれ、口を開け」
向かい合わせは寂しい、ということで俺の隣に移動したバフォ様が、箸で刺身を摘んだまま、俺にそう言う。
「あーん」
俺は彼女の命令に、口を開いた。彼女はこの旅館までの旅の間に鍛え上げた箸使いで、震え一つなく俺の口に刺身を入れた。
醤油の塩味が一瞬口中に広がるが、遅れて淡泊ながらもうま味をはらんだ魚肉の味と、コリコリとした歯ごたえが広がる。
「どうだ？」
「おいしいですよ、バフォ様。さっき俺が一人で食べたときよりも」
「ふふふ、さすがにお世辞がすぎるぞ？」
バフォ様はそう言うが、お世辞ではない。さっき俺が食べたときは、醤油をつける量の加減がわからず、ざぶざぶと漬け込んでしまったのだ。おかげでほとんど醤油の味しかしなかった。
「だったら試してください」
俺は手を伸ばし、皿に盛られた刺身の一切れを箸で摘むと、端から半ばまでを軽く醤油に浸した。
「はい、バフォ様あーん」
「あーん」
バフォ様が小さな口を開き、桃色の舌を晒す。俺は彼女の真珠のような歯並びの間に、そっと刺身を置いた。
「んむ、んむ、ん、ん･･･」
彼女は唇を閉ざすと、しばしもぐもぐと口を動かし、刺身を味わった。
「うむ、不思議じゃ･･･うまい」
「でしょう？」
彼女の心底不思議そうな感想に、俺はそう続いた。無理もない。俺が彼女の口に入れた刺身は、先ほどバフォ様が醤油をほとんどつけずに食べた刺身と同じ種類だ。
「しかし、やはり来てよかったなあ」
天ぷらを取り、一口かじりながらバフォ様が漏らす。
「先週ぐらいまで、『やっぱり魔法で移動しようよ』とか誰かさんは言ってましたけどね」
船の上や乗り物の中で、ある時は不機嫌に、ある時は疲れ果てながらバフォ様がつぶやいた言葉を、俺は繰り返した。
「あの時はあの時じゃ。むしろ、あの時の苦労があるから、今の心地よさがあると思えば、あの辛さも必要だったのだろうな」
彼女は天ぷらの残りを口に入れ、もぐもぐとしばし噛み、飲み込んでから続けた。
「ありがとうな」
「なんですか、急に」
「なに、こうしてお前が連れ出してくれなんだら、ワシはこの心地よさを知らずに、一生過ごし続けたのだろうな、と思ってな･･･」
バフォ様はコップを手に取ると、残っているビールを少し飲んだ。
「魔法で一瞬で移動して、一瞬で戻ってくる。そっちの方が確かに楽じゃが、お前の言っていたとおり、こうしてしっかりくつろぐことは出来んかったなあ」
これまでバフォ様が経験してきた旅行を思い返しているのか、彼女はしみじみとつぶやいた。
「今度はサバトの魔女たちも連れてきましょうか」
旅行の楽しみを知るものが増えればいい。そう思っての言葉に、バフォ様は頭を振った。
「いや･･･あやつらは、近場の旅行か魔法での移動で十分じゃ。あやつらがこの楽しみを知って、ちょくちょく長い休みを取られてはかなわんからな」
「ははは、意地悪な上司だ」
「誰かさんがこうして連れ出さなかったら、いい上司のままだったのにのう」
俺たちはそう言葉を交わし、笑った。
そして、しばし談笑しながら食事をした。一通り料理が俺たちの胃袋に収まったところで、仲居さんが部屋を訪れて、食器を下げ、布団を敷いていってくれた。
縁と縁がぴったり合わされた二組の布団の上に寝転がりながら、俺たちは明日の予定について話し合っていた。
「明日はここの展望台に上ってみましょうか」
「うむ。しかし天気が悪かったら？」
旅館の受付でもらった、この近辺の観光マップをのぞき込みながら、バフォ様が尋ねる。
「そのときはこの民芸美術館に行きましょう」
「ふーむ･･･しかし、こっちの秘宝館とやらの方がここから近いぞ？」
「あー、そこですか･･･そこはちょっと･･･」
「なんじゃ。微妙だと言いたいのか？」
「いえ、まあ行けばわかると思います。そうだ、明日行ってみましょうか」
「そうか、確かに展望台だけでは時間が余りそうだからな」
バフォ様は数度頷いた。
「それでは、明日はこことここに寄って、このあたりのどこかでお昼を食べて･･･」
俺は観光マップを指さしながら、明日の予定を確認した。
「と、いうようなルートで行きましょう」
「うむ、楽しみじゃな！」
にこにこと微笑みながら、バフォ様は俺を見上げた。
「ええ、それじゃあ明日に備えて･･･と、言いたいところですけど、少し早すぎますね」
普段の就寝時間に比べれば、まだまだ宵の口。変に早く寝てしまうと、明日がつらい。
「どうしましょうか、バフォ様？」
「うむ、決まっておろう！」
観光マップを畳みながら問いかけると、バフォ様は大きく頷いた。
「もう一風呂入るぞ！」
「はいはい、程々にしてくれないと、明日俺が起きられませんよ」
「うむ？」
「うん？」
返答しきってから、俺とバフォ様は顔を見合わせた。
「えーと、バフォ様、今なんて？」
「いや、じゃからもう一風呂入るぞ、と･･･」
「･･･すげえ、バフォ様がこの時間帯に、抱いてくれ、以外の求めを･･･！」
彼女のリクエストに、俺は心の底から驚いていた。
「いやいやいや！それではまるでワシが、寝る前は発情中みたではないか！」
「でも実際そうだった気がしますよ。『今夜はめちゃくちゃにしておくれ』とか『抱いておくれ･･･うむ、そのままじゃ』とか、程度の違いはありましたが」
「う、うーむそうか･･･？そうかあ･･･？」
バフォ様が腕を組み、これまでの日々を思い返したのか、徐々に否定の気配がなくなっていった。
「う、うぅむ･･･確かに、そうだったような気がしないでもないこともなかったような気配じゃな･･･」
そして最後に、咳払いを挟んでから、彼女は続けた。
「じゃが、今夜はせっかくジパングの温泉宿に来ておる。じゃから風呂に入るんじゃ」
「なるほど、お楽しみはその後、ですね」
「うむ」
彼女は布団の上に立ち上がった。
「ほれ、この部屋は個別の露天風呂付きであったろう？」
「ええ」
せっかく遠出したのだから、と夕方は大浴場に入ったが、この部屋は個別風呂付きだ。
「今宵はいい月じゃ。ゆっくり二人で、月見風呂としゃれ込もうではないか」
「いいですねえ」
夜風と夜空、そして風呂。最高の組み合わせだ。
「それでは行くぞ、善は急げじゃ！」
バフォ様は部屋を出て、個別風呂へと続く脱衣所に入っていった。俺も彼女に続き、脱衣所に入る。
脱衣所には洗面台と、衣類を入れるための籠が左右の壁に備え付けてあり、その間でバフォ様が両腕をあげて待ちかまえていた。
「？」
「浴衣の帯を解いておくれ。ワシの指じゃ解けん」
「ああ、そうでしたね」
帯がゆるまないよう、俺がきつめに締めたのだった。
膝を床に着き、彼女の原に巻き付く帯の結び目をゆるめてやる。
「はい、解けました」
「そのまま引っ張るのじゃ」
「だめです。転んだら危ないでしょう」
洗面台に頭をぶつけたりしたら大変だ。
「うぅむ、あーれー、をやりたかったのじゃが･･･」
「風呂から上がってですね」
ぶつぶつつぶやくバフォ様に答えながら、俺は立ち上がる。
するとバフォ様は、解けた帯を自分で銅から離し、衣類の籠に放った。そして、肩に掛かっているだけの浴衣の袖から、そっと腕を抜く。
襟が大きく広がり、バフォ様の細い肩が露わになる。そして強く掴めば折れてしまいそうなほど、白くほっそりとした腕が続く。
胴に目を向ければ、薄く浮かび上がる鎖骨の下に、なだらかな胸が続き、淡い桜色の膨らみが二つ並んでいた。そして、二つの膨らみの中間から下へと目を向ければ、少しだけ膨らんだお腹と、縦長の形のよいへそがある。
へそを下れば、無毛の下腹に続き、両足の付け根に小さな亀裂が刻まれていた。そこから左右に、太腿と呼ぶにはまだまだ細い愛らしい太腿が体を支えており、わずかに赤みを帯びた膝小僧を境にふわふわとした毛に覆われた足が続いていた。
「うむ？どうした？」
浴衣を簡単に畳むバフォ様が、俺の視線に首を傾げた。
「いえ、相変わらず･･･きれいだなあと思いまして」
「ふふふ、正直に言うて構わんぞ？」
「バフォ様めっちゃかわいいなあ」
「うむうむ」
普段は魔女たちの手前、かわいいなどと言う威厳を損ねる表現をいやがる彼女だったが、旅行と言うことでおおらかな気分になっているのだろうか、満足げに頷いた。
「さ、入るぞ！」
俺たちは一糸まとわぬ姿で脱衣所を抜け、個別風呂にでた。四方を壁で囲まれた狭いスペースの中央に、布団二枚ほどの広さの風呂桶が置いてある。湯船には湯が満たされており、今もパイプを伝ってチョロチョロと湯が注がれていた。
夜気に身を晒したおかげで、料理と酒で暖めた体が、ぶるりと震えるような寒気が全身を襲う。
「うぉぉ･･･！」
「バフォ様、こちらへ･･･！」
寒さに思わず声を漏らすバフォ様を、湯船のそばへ導くと、俺は備え付けの桶を手に取り、彼女の体に湯を掛けてやった。
「ううむ、入ってはいかんのか･･･？」
「いくら寒いといっても、掛かり湯はルールです」
仲居さんからの説明を思い返しながら、彼女の体をまんべんなく濡らす。本来ならば、体を洗ってはいるべきなのだろうが、一度大浴場に入っているから大丈夫だろう。
「さ、どうぞ」
「うむ、先に失礼する･･･」
バフォ様は俺のそばを離れると、湯船にゆっくりと浸かっていった。
「うぅ･･･う、う･･･う･･･うぁあああああ･･･」
小さくうめき声を上げながら、徐々に全身をゆに浸し、肩まで浸かったところで彼女は声を漏らした。
「あー、極楽、極楽･･･」
「ははは、バフォ様そんなこと言って･･･」
大浴場で見かけた老人のようなせりふに笑いながら、掛かり湯をすませた俺も湯船に入る。
「あ゛あ゛あ゛あ゛･･･極楽極楽･･･」
だが、俺の口から溢れたのは、湯の熱が体の心に染み込む快感の声だった。
「ふふふ、お前も大浴場でワシが見かけた、老婆のようなことを言うのう」
俺の反応に、バフォ様がそう笑みを浮かべた。
「まあ、仕方ありませんよ･･･それだけの力がこのお湯にあるんですから･･･」
手のひらで湯を掬い、軽く顔を濡らす。顔が一瞬暖まるが、すぐに夜気が頭を冷やしていく。
体がホカホカしているのに、頭は冷えている。なかなか心地よいものだ。
「はあ、本当に来てよかった･･･」
湯船の縁に背中をもたれさせ、夜空を仰ぎながら俺は呟いた。
四角く切り取られた星空の一角に、月が浮いている。
「うむ、そうじゃな･･･」
バフォ様が湯船の中で立ち上がると、湯を軽く揺らしながら移動し、俺の膝の上に腰を下ろした。
「バフォ様？」
「ちょっと湯船が深すぎるんじゃ。座らせておくれ」
「はあ」
彼女の柔らかな尻を腿の上に感じながら、俺はバフォ様を受け入れた。すると彼女は、背中を俺の原に預け、胸に角と後頭部を乗せた。ちょうど、俺という椅子の上に腰掛けている姿勢だ。
「ああ、きれいな星空じゃのう･･･」
「そうですね･･･」
「いつも星見やら月の巡りやらで見ているというのに･･･きれいなもんじゃのう」
イヤになるほど見てきた星空を仰ぎながら、バフォ様はしみじみと呟いた。
「･･･のう･･･」
「何ですか？」
湯の温もりとは異なる、バフォ様の温もりを感じながら、俺は彼女の言葉に応えた。
「あの星･･･見えるか？」
ざぶり、と湯の表面を破って、腕を掲げながらバフォ様が問いかける。
「あれですか？」
「うむ、狩人･･･いや、輝く星が描く大きな三角形の、右下の星じゃ」
仕事を離れているためか、具体的な星座を呼ばずに、彼女は腕を動かして三角形を描いた。
「あの星はな、ここから遠く離れておる。それはそれは遠くて、星の光が伝わるのに時間がかかる」
「そうなんですか？」
「うむ。詳しい理屈は省くが、どうも光が伝わるまで百年はかかるらしい」
「そんなに」
俺は改めて夜空を見上げ、バフォ様の示した星を見た。月には劣るが、それでもその星はまばゆく輝いている。
「今、この瞬間星がぴかっと輝いても、その光がワシ等の目に届くまで百年かかるんじゃ」
彼女は一瞬言葉を切って、静かに続けた。
「百年というのは、どれだけの時間か、わかるか？」
「･･･さあ･･･」
「少なくとも百年前、今見ている光が放たれた瞬間、ワシは姿は違えどサバトの長をしておった」
「俺は･･･いや、俺の爺さんもまだ生まれてませんねえ」
「うむ。百年というのは、それだけ長いんじゃ」
彼女は腕を湯に沈め、首をひねって俺を見上げながら、続けた。
「百年後･･･ワシとお前は、何をしとるかのう･･･？」
「･･････」
俺は口を閉ざした。百年後、俺は、バフォ様は、どうなっているのだろうか？
バフォ様は生きているだろうが、俺は？もし不慮の事故に巻き込まれたら？もし、また魔王の代替わりが起きたら？
「･･･今この瞬間に放たれた光を、こうして二人で見られたらいいですねえ」
「そうか･･･そうじゃな」
しばし考え込んでからの答えに、バフォ様は何か納得したように頷いた。
今から遠い先のことを悩んだところで、どうにかなる訳ではない。何事もなく、百年後を迎えることが重要なのだ。
「では、百年後、また二人であの星を見るとしようかの」
「おやバフォ様、俺と二人だけですか？」
「当たり前じゃ。二人きりの夫婦水入らずの場じゃからの。子供たちは留守番じゃ」
「一月も留守番か･･･大変そうだ」
未だ産まれていない、俺とバフォ様の子の苦労を思いながら、俺は苦笑した。
「とにかく、百年後にまた星を見るぞ？」
「ええ、約束します」
湯の中で、俺たちはどちらからともなく手を握りあい、指を絡めあった。
窓の向こうには夜空が広がっており、月と星が輝いている。
「ではバフォ様、お疲れさまでした」
「うむ、お疲れさまなのじゃ」
背の低いテーブルに向かい合わせになり、俺とバフォ様はビールの注がれたガラスコップを掲げて軽く打ち合わせた。小気味いい高い音が鳴り響く。
「ん、ん、ん･･･ぷはぁ！」
バフォ様はコップのビールを半分ほど飲み干すと、一息ついた。
「いい飲みっぷりで、さすがバフォ様」
「ふふふ、そう誉めるでない･･･けぷ」
早速酒が回ってきたのか、頬を軽く赤らめながら彼女は小さくげっぷした。
「むしろ、お前のほうがもう少し潔くのまんと･･･ほら、ワシの旦那様なんじゃから」
「それでは」
彼女の言葉に、俺は一口二口程度にとどめていたビールを、ごくりと喉へ流し込んだ。ほろ苦い、清涼感のある冷たい液体が喉を滑り落ちていく感覚が楽しい。
「･･･ぷはあ」
「うむ、いい飲みっぷりじゃ！」
満足したらしく、バフォ様は小さく頷いた。
「それでは、料理が冷めるといけませんし、いただきましょうか」
「そうじゃな」
俺とバフォ様は箸を手に取り、テーブルに並ぶ料理に手を着けた。
バフォ様と新婚旅行で、ジパングを訪れている。
それも魔法で飛んだり転移したりせず、陸路と船を使ってわざわざジパングまで向かったのだ。
一月がかりの新婚旅行に、バフォ様は最初のうちは難色を示した。だが、魔法で移動して、その土地の料理を食べて一泊して、ただ帰ってくるだけの旅行でどれだけの思い出が作れるのか、という俺の説得によってバフォ様は納得した。
新婚旅行とは、二人の幸せな思い出を築くための作業なのだ。パッと行ってパッと帰ってくるだけでは、そう多くの思い出は作れない。
そう言うわけで、俺とバフォ様は大いに働き、一月分の休暇を作ることに成功したのだ。そして、なるべく移動魔法を使わない、というルールで旅を続け、ついにジパングの有名な温泉旅館を訪れたのだった。
異国情緒漂う温泉旅館に、バフォ様は大いに喜び、広々とした浴場をたっぷりと堪能したのだった。
そして今、俺たちは二人そろって浴衣に袖を通し、旅館の料理に舌鼓を打っているのだ。
「ほれ、口を開け」
向かい合わせは寂しい、ということで俺の隣に移動したバフォ様が、箸で刺身を摘んだまま、俺にそう言う。
「あーん」
俺は彼女の命令に、口を開いた。彼女はこの旅館までの旅の間に鍛え上げた箸使いで、震え一つなく俺の口に刺身を入れた。
醤油の塩味が一瞬口中に広がるが、遅れて淡泊ながらもうま味をはらんだ魚肉の味と、コリコリとした歯ごたえが広がる。
「どうだ？」
「おいしいですよ、バフォ様。さっき俺が一人で食べたときよりも」
「ふふふ、さすがにお世辞がすぎるぞ？」
バフォ様はそう言うが、お世辞ではない。さっき俺が食べたときは、醤油をつける量の加減がわからず、ざぶざぶと漬け込んでしまったのだ。おかげでほとんど醤油の味しかしなかった。
「だったら試してください」
俺は手を伸ばし、皿に盛られた刺身の一切れを箸で摘むと、端から半ばまでを軽く醤油に浸した。
「はい、バフォ様あーん」
「あーん」
バフォ様が小さな口を開き、桃色の舌を晒す。俺は彼女の真珠のような歯並びの間に、そっと刺身を置いた。
「んむ、んむ、ん、ん･･･」
彼女は唇を閉ざすと、しばしもぐもぐと口を動かし、刺身を味わった。
「うむ、不思議じゃ･･･うまい」
「でしょう？」
彼女の心底不思議そうな感想に、俺はそう続いた。無理もない。俺が彼女の口に入れた刺身は、先ほどバフォ様が醤油をほとんどつけずに食べた刺身と同じ種類だ。
「しかし、やはり来てよかったなあ」
天ぷらを取り、一口かじりながらバフォ様が漏らす。
「先週ぐらいまで、『やっぱり魔法で移動しようよ』とか誰かさんは言ってましたけどね」
船の上や乗り物の中で、ある時は不機嫌に、ある時は疲れ果てながらバフォ様がつぶやいた言葉を、俺は繰り返した。
「あの時はあの時じゃ。むしろ、あの時の苦労があるから、今の心地よさがあると思えば、あの辛さも必要だったのだろうな」
彼女は天ぷらの残りを口に入れ、もぐもぐとしばし噛み、飲み込んでから続けた。
「ありがとうな」
「なんですか、急に」
「なに、こうしてお前が連れ出してくれなんだら、ワシはこの心地よさを知らずに、一生過ごし続けたのだろうな、と思ってな･･･」
バフォ様はコップを手に取ると、残っているビールを少し飲んだ。
「魔法で一瞬で移動して、一瞬で戻ってくる。そっちの方が確かに楽じゃが、お前の言っていたとおり、こうしてしっかりくつろぐことは出来んかったなあ」
これまでバフォ様が経験してきた旅行を思い返しているのか、彼女はしみじみとつぶやいた。
「今度はサバトの魔女たちも連れてきましょうか」
旅行の楽しみを知るものが増えればいい。そう思っての言葉に、バフォ様は頭を振った。
「いや･･･あやつらは、近場の旅行か魔法での移動で十分じゃ。あやつらがこの楽しみを知って、ちょくちょく長い休みを取られてはかなわんからな」
「ははは、意地悪な上司だ」
「誰かさんがこうして連れ出さなかったら、いい上司のままだったのにのう」
俺たちはそう言葉を交わし、笑った。
そして、しばし談笑しながら食事をした。一通り料理が俺たちの胃袋に収まったところで、仲居さんが部屋を訪れて、食器を下げ、布団を敷いていってくれた。
縁と縁がぴったり合わされた二組の布団の上に寝転がりながら、俺たちは明日の予定について話し合っていた。
「明日はここの展望台に上ってみましょうか」
「うむ。しかし天気が悪かったら？」
旅館の受付でもらった、この近辺の観光マップをのぞき込みながら、バフォ様が尋ねる。
「そのときはこの民芸美術館に行きましょう」
「ふーむ･･･しかし、こっちの秘宝館とやらの方がここから近いぞ？」
「あー、そこですか･･･そこはちょっと･･･」
「なんじゃ。微妙だと言いたいのか？」
「いえ、まあ行けばわかると思います。そうだ、明日行ってみましょうか」
「そうか、確かに展望台だけでは時間が余りそうだからな」
バフォ様は数度頷いた。
「それでは、明日はこことここに寄って、このあたりのどこかでお昼を食べて･･･」
俺は観光マップを指さしながら、明日の予定を確認した。
「と、いうようなルートで行きましょう」
「うむ、楽しみじゃな！」
にこにこと微笑みながら、バフォ様は俺を見上げた。
「ええ、それじゃあ明日に備えて･･･と、言いたいところですけど、少し早すぎますね」
普段の就寝時間に比べれば、まだまだ宵の口。変に早く寝てしまうと、明日がつらい。
「どうしましょうか、バフォ様？」
「うむ、決まっておろう！」
観光マップを畳みながら問いかけると、バフォ様は大きく頷いた。
「もう一風呂入るぞ！」
「はいはい、程々にしてくれないと、明日俺が起きられませんよ」
「うむ？」
「うん？」
返答しきってから、俺とバフォ様は顔を見合わせた。
「えーと、バフォ様、今なんて？」
「いや、じゃからもう一風呂入るぞ、と･･･」
「･･･すげえ、バフォ様がこの時間帯に、抱いてくれ、以外の求めを･･･！」
彼女のリクエストに、俺は心の底から驚いていた。
「いやいやいや！それではまるでワシが、寝る前は発情中みたではないか！」
「でも実際そうだった気がしますよ。『今夜はめちゃくちゃにしておくれ』とか『抱いておくれ･･･うむ、そのままじゃ』とか、程度の違いはありましたが」
「う、うーむそうか･･･？そうかあ･･･？」
バフォ様が腕を組み、これまでの日々を思い返したのか、徐々に否定の気配がなくなっていった。
「う、うぅむ･･･確かに、そうだったような気がしないでもないこともなかったような気配じゃな･･･」
そして最後に、咳払いを挟んでから、彼女は続けた。
「じゃが、今夜はせっかくジパングの温泉宿に来ておる。じゃから風呂に入るんじゃ」
「なるほど、お楽しみはその後、ですね」
「うむ」
彼女は布団の上に立ち上がった。
「ほれ、この部屋は個別の露天風呂付きであったろう？」
「ええ」
せっかく遠出したのだから、と夕方は大浴場に入ったが、この部屋は個別風呂付きだ。
「今宵はいい月じゃ。ゆっくり二人で、月見風呂としゃれ込もうではないか」
「いいですねえ」
夜風と夜空、そして風呂。最高の組み合わせだ。
「それでは行くぞ、善は急げじゃ！」
バフォ様は部屋を出て、個別風呂へと続く脱衣所に入っていった。俺も彼女に続き、脱衣所に入る。
脱衣所には洗面台と、衣類を入れるための籠が左右の壁に備え付けてあり、その間でバフォ様が両腕をあげて待ちかまえていた。
「？」
「浴衣の帯を解いておくれ。ワシの指じゃ解けん」
「ああ、そうでしたね」
帯がゆるまないよう、俺がきつめに締めたのだった。
膝を床に着き、彼女の原に巻き付く帯の結び目をゆるめてやる。
「はい、解けました」
「そのまま引っ張るのじゃ」
「だめです。転んだら危ないでしょう」
洗面台に頭をぶつけたりしたら大変だ。
「うぅむ、あーれー、をやりたかったのじゃが･･･」
「風呂から上がってですね」
ぶつぶつつぶやくバフォ様に答えながら、俺は立ち上がる。
するとバフォ様は、解けた帯を自分で銅から離し、衣類の籠に放った。そして、肩に掛かっているだけの浴衣の袖から、そっと腕を抜く。
襟が大きく広がり、バフォ様の細い肩が露わになる。そして強く掴めば折れてしまいそうなほど、白くほっそりとした腕が続く。
胴に目を向ければ、薄く浮かび上がる鎖骨の下に、なだらかな胸が続き、淡い桜色の膨らみが二つ並んでいた。そして、二つの膨らみの中間から下へと目を向ければ、少しだけ膨らんだお腹と、縦長の形のよいへそがある。
へそを下れば、無毛の下腹に続き、両足の付け根に小さな亀裂が刻まれていた。そこから左右に、太腿と呼ぶにはまだまだ細い愛らしい太腿が体を支えており、わずかに赤みを帯びた膝小僧を境にふわふわとした毛に覆われた足が続いていた。
「うむ？どうした？」
浴衣を簡単に畳むバフォ様が、俺の視線に首を傾げた。
「いえ、相変わらず･･･きれいだなあと思いまして」
「ふふふ、正直に言うて構わんぞ？」
「バフォ様めっちゃかわいいなあ」
「うむうむ」
普段は魔女たちの手前、かわいいなどと言う威厳を損ねる表現をいやがる彼女だったが、旅行と言うことでおおらかな気分になっているのだろうか、満足げに頷いた。
「さ、入るぞ！」
俺たちは一糸まとわぬ姿で脱衣所を抜け、個別風呂にでた。四方を壁で囲まれた狭いスペースの中央に、布団二枚ほどの広さの風呂桶が置いてある。湯船には湯が満たされており、今もパイプを伝ってチョロチョロと湯が注がれていた。
夜気に身を晒したおかげで、料理と酒で暖めた体が、ぶるりと震えるような寒気が全身を襲う。
「うぉぉ･･･！」
「バフォ様、こちらへ･･･！」
寒さに思わず声を漏らすバフォ様を、湯船のそばへ導くと、俺は備え付けの桶を手に取り、彼女の体に湯を掛けてやった。
「ううむ、入ってはいかんのか･･･？」
「いくら寒いといっても、掛かり湯はルールです」
仲居さんからの説明を思い返しながら、彼女の体をまんべんなく濡らす。本来ならば、体を洗ってはいるべきなのだろうが、一度大浴場に入っているから大丈夫だろう。
「さ、どうぞ」
「うむ、先に失礼する･･･」
バフォ様は俺のそばを離れると、湯船にゆっくりと浸かっていった。
「うぅ･･･う、う･･･う･･･うぁあああああ･･･」
小さくうめき声を上げながら、徐々に全身をゆに浸し、肩まで浸かったところで彼女は声を漏らした。
「あー、極楽、極楽･･･」
「ははは、バフォ様そんなこと言って･･･」
大浴場で見かけた老人のようなせりふに笑いながら、掛かり湯をすませた俺も湯船に入る。
「あ゛あ゛あ゛あ゛･･･極楽極楽･･･」
だが、俺の口から溢れたのは、湯の熱が体の心に染み込む快感の声だった。
「ふふふ、お前も大浴場でワシが見かけた、老婆のようなことを言うのう」
俺の反応に、バフォ様がそう笑みを浮かべた。
「まあ、仕方ありませんよ･･･それだけの力がこのお湯にあるんですから･･･」
手のひらで湯を掬い、軽く顔を濡らす。顔が一瞬暖まるが、すぐに夜気が頭を冷やしていく。
体がホカホカしているのに、頭は冷えている。なかなか心地よいものだ。
「はあ、本当に来てよかった･･･」
湯船の縁に背中をもたれさせ、夜空を仰ぎながら俺は呟いた。
四角く切り取られた星空の一角に、月が浮いている。
「うむ、そうじゃな･･･」
バフォ様が湯船の中で立ち上がると、湯を軽く揺らしながら移動し、俺の膝の上に腰を下ろした。
「バフォ様？」
「ちょっと湯船が深すぎるんじゃ。座らせておくれ」
「はあ」
彼女の柔らかな尻を腿の上に感じながら、俺はバフォ様を受け入れた。すると彼女は、背中を俺の原に預け、胸に角と後頭部を乗せた。ちょうど、俺という椅子の上に腰掛けている姿勢だ。
「ああ、きれいな星空じゃのう･･･」
「そうですね･･･」
「いつも星見やら月の巡りやらで見ているというのに･･･きれいなもんじゃのう」
イヤになるほど見てきた星空を仰ぎながら、バフォ様はしみじみと呟いた。
「･･･のう･･･」
「何ですか？」
湯の温もりとは異なる、バフォ様の温もりを感じながら、俺は彼女の言葉に応えた。
「あの星･･･見えるか？」
ざぶり、と湯の表面を破って、腕を掲げながらバフォ様が問いかける。
「あれですか？」
「うむ、狩人･･･いや、輝く星が描く大きな三角形の、右下の星じゃ」
仕事を離れているためか、具体的な星座を呼ばずに、彼女は腕を動かして三角形を描いた。
「あの星はな、ここから遠く離れておる。それはそれは遠くて、星の光が伝わるのに時間がかかる」
「そうなんですか？」
「うむ。詳しい理屈は省くが、どうも光が伝わるまで百年はかかるらしい」
「そんなに」
俺は改めて夜空を見上げ、バフォ様の示した星を見た。月には劣るが、それでもその星はまばゆく輝いている。
「今、この瞬間星がぴかっと輝いても、その光がワシ等の目に届くまで百年かかるんじゃ」
彼女は一瞬言葉を切って、静かに続けた。
「百年というのは、どれだけの時間か、わかるか？」
「･･･さあ･･･」
「少なくとも百年前、今見ている光が放たれた瞬間、ワシは姿は違えどサバトの長をしておった」
「俺は･･･いや、俺の爺さんもまだ生まれてませんねえ」
「うむ。百年というのは、それだけ長いんじゃ」
彼女は腕を湯に沈め、首をひねって俺を見上げながら、続けた。
「百年後･･･ワシとお前は、何をしとるかのう･･･？」
「･･････」
俺は口を閉ざした。百年後、俺は、バフォ様は、どうなっているのだろうか？
バフォ様は生きているだろうが、俺は？もし不慮の事故に巻き込まれたら？もし、また魔王の代替わりが起きたら？
「･･･今この瞬間に放たれた光を、こうして二人で見られたらいいですねえ」
「そうか･･･そうじゃな」
しばし考え込んでからの答えに、バフォ様は何か納得したように頷いた。
今から遠い先のことを悩んだところで、どうにかなる訳ではない。何事もなく、百年後を迎えることが重要なのだ。
「では、百年後、また二人であの星を見るとしようかの」
「おやバフォ様、俺と二人だけですか？」
「当たり前じゃ。二人きりの夫婦水入らずの場じゃからの。子供たちは留守番じゃ」
「一月も留守番か･･･大変そうだ」
未だ産まれていない、俺とバフォ様の子の苦労を思いながら、俺は苦笑した。
「とにかく、百年後にまた星を見るぞ？」
「ええ、約束します」
湯の中で、俺たちはどちらからともなく手を握りあい、指を絡めあった。
12/10/01 11:47更新 / 十二屋月蝕
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