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五匹目 |
外に出る。 低くも色濃い木目の天井から去らば、白くたゆたう群雲が目に飛び込む。 あたかも私を包み込み、天上まで運び上げようかなどと言わんばかりの遠い雲よ。 流れることで私から惜しむ別れも無く離れゆく薄ら厚い群雲よ。 如何なる色濃い木目天井より光を齎す、輝かしくも褪せ色の雲よ。 淡く低い空が徐々に高くなりゆく頃。 穏やかな風は縁側の近くで干されている薄敷を揺らす。 そよいでいるのは暖かい風かと思えども、大した心を傾けず。 大した心を傾けずとて、確かに心は傾いて。 最近はずっと冷たい風だったから、それに比ぶるものならば一入か。 などとひと思いに耽って、後は思考の外まで流し。 太陽は天頂に立って久しく、どうやら時間の流れの遅さに驚く。 それともまさか、ひとまわり、ふたまわりと日を越したか。 ならばそれも悪くない。 と、思いまして。 緩やかより強かなる風に煽られれば。 我が身丈に若干の変調を感じる余裕も出たらしい。 さりとて。 不思議と腹の減るようなことも無く。 喉に潤いを求めるようなことも無い。 寝ぼけ眼とよく似た頭で、その日の光を存分と身に垂らしこむ。 陽光に照り黴菌を排除し脳漿を洗い出しては老廃物を唾にして吐く。 美々しくも散る桜色がその上に垂れる。 風に敗けた色はしかし仄か鮮やかであり、私にまで色が添えられた心地になる。 それは消毒。 或いは、愛と呼ばれるものである。 穏やかな割りの花吹雪の中。 棒立ちにしても歩けども、これよりたつ道を偲ぶ。 何をするかな、と、耽らずして至らず。 何をする必要も無くなったことという事情は得てしても酷。 得難くも失せ様を見届けたものにとって、殊更酷たるお話よ。 恐らくは、それこそ。 全ての意味を喪ったかのような。 半身どころか魂ごと獣に食われたかのような。 思えば等しくも同じならざるや一夜一夜の日々であった。 嗚呼、一夜。 されど一夜。 如何に足掻いたとて久遠の幻よ。 今でこそ想起するは糖菓子の絵と変わりあるまいて。 思うに依存が多かった。 支えも視線も見当たらず、往古往来も空虚なものである。 立て棒肩無くゆるり立ち上がるには、少しばかり時間が要りそうだ。 それまでの間は、どうしたものか。 独りで立てぬ道ならば、ふたりで立って歩けばいいとは言ったもの。 ならばつまるところ、それまで私が誰彼の支えとならんか。 余す時間を有効にとは誰そ彼の発する言葉であったか。 かのものから聞いた言葉さえ、十全には思い出せぬ。 雫の代わりにそういったものが流れて往ったのだろう。 いい迷惑だ。 傍迷惑も千万ものだ。 兎角言われた言葉であった。 守らねば私がそれこそ泣いてしまうのであろう。 記憶に涙まで誰ぞ流して遣るものか。 有効にと、そして他が人の為にあれと。 守って遣らねばなるまいて。 せめてはかのものによる言葉のとおりに。 いい日かな、などと嘯いて。 取りも敢えずは歩くが一歩。 散歩とはよくぞ言ったもので、確かに私の足は無為に放られては地に着ける。 ゆえに方向を知らずして進み、往ける宛てを見つけられずに意識を散りばめる。 撒いた意識は種になって道草になり、それらがきっとまた人を惑わす。 何となく思う無限連鎖はかようにして始まるのだろう。 或いは、そのまま降り立つ鳩に食われてそれきりだ。 きっとそんな終止符が打たれてしまうことなのだろう。 終止符を鑑みるには、原点を顧見る。 相変わらず高くに打たれたお天道様は、どうやらまだまだ沈まないらしい。 「飴売り爺の娘じゃないか」 途中、呼び止められて気付く。 顔以外の全身を綺麗な黒の布やら革やらで覆い尽くした男がいた。 ここいらでは、そうだ。 黒坊だとか呼ばれている奇人だった。 「かたい笑顔だ、まるで爺がくたばったみてえじゃねえか」 言い得る。 何でか知らなんだが、笑いたくなる。 「へえ。良く解ったね」 「おお、そおかそおかとうとうくたばったか」 じゃあ線香上げに行こうかなと、しみじみ言ったりする。 私とかのものの仲を知る多くのひとの内の一人であるにも関わらず、この態度。 然して不謹慎に悪びれる様も見せず、緩やかに半ば元気に笑うだけ。 だからこそ寧ろ好感を呼び、不思議と人気のある男であった。 「いや、神社に行きたいな。おまえの所のさ」 私の口からは思いもよらぬ言葉が飛び出た。 無駄に笑うのは不思議と容易な技であったが、それも意識が散っていたから。 その流れに身を任せてみると、流石の私も予想の範疇を超えた行動に移るらしい。 男はひととき雲を眺めて指を顎の上に据え、三日間もの歩き通しを私に告げた。 何でも根城は存外と遠いところにあるものだという。 そりゃまた都合のいい話。 気を遠くさせられることであらば、今はこれに越したことも無い。 存外散歩も悪くない、と、そうふと思えるじゃあなからんか。 私は二つ返事で話を受けて、歩き出したはそれから間もなく。 本当に男は休まず歩いた。 私は確かに三日を歩きとおした。 気がつく頃には腹が減り、差し出された笹餅を食う。 竹筒からなる清水を飲めば、瞬く間にやら神社に着いた。 そのお出迎えには蛇女房。 私と黒坊を見るや否や勢い良く男をねめつけ、男は揚々と女を諭す。 女のにおいは感じていたが、なるほど黒坊は蛇に絡まれていたらしい。 稀少な白肌の蛇はそりゃあ美しく、そのくせ他のものへの嫉妬も深く。 からからと笑う男に蛇は、次第と眉間を緩めて笑う。 そして岩窟に入っては取りも留めずも無く一献。 何でも白蛇自ら作る特殊な酒らしい。 芳しさも胸透く心地よさも無いのに、無駄に気持ちの良い酒だった。 あえて言うなら冷たい真水に胸を焼かない源酒を入れたような。 「妖怪法度の御国でよくぞ、まあまあ蛇嫁とはこれ如何に」 口突き出たのは女房に関して。 上唇を舌でなぞってそう言えば、黒坊は笑って徳利を前に出す。 「猫の娘がよく言うもんだ」 大杯に酒を足し舐める。 「隠し通せなんだかな」 「寡男にぱっと娘ができたものかね」 「できたものだよ」 「傍目じゃ確かに爺の娘だったがな。 何分飴売り爺は街の連中に好かれとった。 みいんな、おまえらのことなど見通しとったわ」 「ほお、そおか」 「そおだ」 岩窟の隅を清むる蛇の姿を肴に語らう。 三日通しで話しても未だ飽くることなく、無意味な会話は小気味良く弾む。 ゆえに、私に齎すものなどひとつとてあらず。 「いやしかし」 その心情など知りもしない筈の黒坊は一息入れる。 小さな小さな器を岩棚に置き、大きな掌は両手を組んでその皺を見せず核心を掴む。 「流石に間延びも大概かね。そろそろ弔うとするか」 私は何も返さない。 それが答えであり、気持ちであり、命令であった。 しかして黒坊は有りの儘たる人間で、私の示しに及ばない。 及んでいた所で平気で無視をし歩いて進む。 憧れもするが嫌な生き様は私に度台無理な真似である。 白蛇を呼び祝詞を奉るか何か。 清め湛える酒を水に沈めて編み草でかき混ぜる。 それを、手で掬い取ってはかしこみかしこみ私の頭に振り掛ける。 意味を知らない儀式であった。 不要でしかない無礼であった。 それでも私は沈黙していた。 それが応えであり、気持ちであったためである。 耳が冴えるように冷機を帯び、私は瞼が熱くなる。 少しの間ながらこれは続き、その間は妙に静かで厳かといった風である。 残念ながら性分ではなく、さりとて無碍に出来る筈も無く。 自らにも他のものにも。 思いというものにどうして私は振り回されどおしである。 生なるものの定めとは何ぞとみちみち謎に耽る。 例うるものなら何を見る。 唾の上に落ちるひとひらの小さな桜か。 空の青白に散るごむ風船の色取りか。 得もせず率直に、儚さというものか。 それからといえば。 帰りの支度を済ますは早く。 喜びも悲しみも平々ひとこころにたゆたわせつつも。 決して自らの度量を弁えて溢るることをせず。 黒坊と、惜気も何気もなく軽口を叩き。 横目縦鼻を当然の理であろうと心得て。 小気味良くするは、別れ握手といたしまして。 その場を開きて我道に戻るに尽きるのである。 何やら雨の上がった後らしい。 帰りは湿った土草を踏み締めて立ち昇る緑を嗅ぐ。 走りたくなる衝動を抑え、小さな牡丹餅を口に放りつつも。 雲の流れる同じ向きに進めば追い抜かれる。 ただその往く様に口角と首を上にもつ。 いきはよいよいかえりはこわい。 誰彼の支えに立ってやらんと、私がもたない。 そんな気持ちは消え失せていた。 しかしてすることに意義が無くも無く、かのものの言葉に生きるのであらば。 先ずは、待つものの居た筈の家へ帰らねばなるまいて。 在りし日の歌を口ずさんで。 緩やかに、緩やかに。 |