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休息 |
水魔を我が家に招き入れてからそれなりの日数が経過したため、わたしも大体の生活リズムを取り戻して安定した毎日を過ごす事が出来るようになってきている。元々結界警備の職務で一日の殆どを費やしていたものだが、人間のやる気とは存外恐ろしいものらしく、今や日課と研究の併合した日々の暮らしを可能としている心算だ。かといって研究に余念の無い日々を送って居る事も事実である。わたし自身が言うのも何だが、鋭気を養う時間を採択する必要が出てきたという程度には疲労感を感じている、という事だった。無理なく日々を過ごしている訳でもないのでどんな曲解を経ようが疲れたという言葉に尽きるのだが、どの道日課から解放される事は先ず無いし、家に居れば否応無く住み着いたスライムの観察に気を削いでしまう。
今朝の起床後にも昼食時にも木箱内で眠り耽る水魔と顔を合わさなかった事で思いついたのが、わたしは唐突にこの難問から脱却する策と呼べるものに偶然巡り逢った。それこそが、水魔からあえて目を離すという事である。 観察研究に当たってこの異様を仕出かすのは阿呆極まり無い事だが、まあ大まかな経過観察という体を持って間隔を置いたレポートを取ることにも、有意性はそこはかとなく存在する。ひとりで研究しているものである事から、わたし自身のみが納得していればそれで問題は無い。研究をせず開いた時間を利用した気晴らしをしようではないか。 「こん間に緊急警備の報せ届いとったらどうすんさなあ、おい」 その気晴らしというものも、人と会ってはかような言葉で逆効果になる場合がある。 わたしは午後の警備を一時中断して下流域の街に赴き、古い外観に比べて内装は新しく、しかし既に蜘蛛の巣が天井付近に張っている配送局に来ていた。医局以外では周辺地域唯一の社交場であるため、空きスペースを利用した外に迄及ぶビアホールが設置された活気付く場所である。そこは田舎ゆえの雰囲気なのか、仕事合間に抜け出した老若男女がアルコール片手にのんべんだらりと談笑して和気藹々の文字が空気から浮いて見える勢いだった。その都会には無いであろう種類のがやつきに溢れたカウンターを前にして、ひげを蓄えた大柄な店主が眉間を上げ調子にわたしを見つつ、幾らかの包みを手渡して言う。 「肝心要の警備員様よ」 中に香草が浮いている辛味の強いビールを呷り、癖が強く固めのチーズを口に放り込み奥歯で噛み潰す。喉の奥が冷やされた後に熱を持ち、口は刺激に包まれてから濃厚な乳製品に唾液を集中させる。舌の横から全体に広がる味は久方ぶりの好味との再会であった。 「そんな初中後緊急通知来る様じゃ、疾うに此処等辺は侵攻済みだろうよ」 「いや、大事無えなら構わん。 碌に街にも出られやせん不憫職っちゃ不憫職なワケだし」 「言ってくれるなよ。急に仕事がきつく感じる」 「そりゃ悪かしなあ。こいサービスじゃ、許せ」 「おお、仕方無いから許そう」 苦く細い添え物の緑を前歯で微塵切りにして、再びビールで口を洗う。それから、新たに出された薄切りの塩漬け肉を舌に乗せる。舌の上でさらり脂が融けていく。塩気が程よく効いた肉汁を味わい、奥歯で噛み締めて滲み出る生命のうまみを吸収する。 わたしの普段の食料はこの配送局から購入し届けられるものだが、このつまみはこの場所でしか食べられないものだ。元より鼠の食害に遭いにくいもの且つ保存の利くものしか食べられないわたしにとっては、燻製にでもしない限り脂の乗った肉の薄切りなどは家におけるものではない。しかも、例え置いたとしても、缶物では無いが為に鼠の餌食になってしまう。 「しかし、最近気になる噂があるんだがよ」 「んん」 「近頃旦那がスライムと同棲してるって言う奴が居るんだわ」 「へえ」 「まさかたあ思うがよ、しかも今まで見た事無い様な奴だとかって」 「よく当人に訊ける勇気があるもんだな。 下手したらその同棲してる魔物に不興買われて襲われるやもしれんぞ」 わたしは串肉を店主向かいに差し出して、横に振って店主の視線を買う。それから肉汁一滴をも残さずに頬張って言った。 「んああ、何だ。冗談にしても怖えわ」 大男は眉を吊り上げて奇妙な顔をする。 その表情に合わせるように、わたしは出来るだけ事も無げにビールを飲み、答える。 「まあ誰が見たかは知らんが本当だな」 店主は眉間に皺を寄せ一瞬だけ目を丸くした後に瞬き、目頭を左手で覆った。 半信半疑の噂をぶちまけて冗談めかした答えが返ってくる。そこで胸を撫で下ろしたところに、結局核心を貫かれたのである。目の下を妙にヒクつかせた店主は、カウンターから身を乗り出し、小声で耳元に話しかける。 「お役目御破綻じゃねえか」 この地域の中でも特に色の濃い肌に包まれた両目が、わたしを一直線に糾弾した。 警備役であるわたしが確かにスライムと同居している事を認めたのだから、店主にとっては当然の反応だった。 「何、研究だけだよ。 一般学問ならいざ知らず、魔物に関する研究職は金になる」 「たあ言うても水車夫婦の例がある。あれもスライムだったろうに」 「そりゃあそうだが、逆に考えてみろよ。 たかが人間が未知の魔物相手に此処囲等守れる道理はねえよ」 「ぐ、む。一理あるが、そりゃあまあよ。あるだろうけどもよお」 恰幅の良い体の上で口篭る頭を見つつ、わたしはジョッキの中身を干し、香草を噛み潰してから口に肉を突っ込んだ。それらを全部まとめて嚥下してから立ち上がり、銭をスプーンケイジに散らす。 店主は依然納得の行かないといった表情だった。 その顰めた眉を作ったままわたしを諭そうと、再びわたしの顔近くまでその口を持って小声を続ける。既に形振り構わずカウンターに乗り上げているところを見ると、この店主もある程度の酒気を帯びていると思われた。 「でも旦那、国法は守ろうや」 そうだ。 ほんの出来心とは言え、どうして防人が攻め手と関わろうとすることが許されるものか。本来ならば許される訳が無い。本来どころか、自体が暴かれる様な機会があれば当然大問題と成り得るだろう。 「店主、あんたも昔ヤンチャした事あるだろ。 結局はそれと、一切合財何にも変わらんのだぞ」 「あー、まあ、そりゃあそうだが、おまえさん」 大男は十数秒前と変わらないレスポンスをした後から妙に気まずそうに頬を掻き、視線を逸らした。 わたしは目前に立つ店主が過去にどんな騒動を捲き起こしたかだとか、何の珍事を仕出かしたのだとかを知っているところではない。だが、どうやらこのどこか勇壮さを感じさせる男には、昔を思程度に現実を突っ撥ねていた時期があるようだ。それなら、これを弱所と見、追撃を加えずして、この状況の打破をするべきか否かの答えなど明白だ。 細く店主を見据え、周囲から会話を隔絶できる程度の音量をもって宣言する。 「それに例え間違っても、あのスライムからは此処は守る」 妙に真面目振ったわたしの返答に、一瞬呆気に取られた店主は目を数度瞬かせる。 それからその巨躯全身をカウンターから下ろし、漸くわたしは圧迫感から解放された。 「当たり前だろ。それがあんたの仕事なんだから」 「ならば余計に判るだろ。十全尽くしの可能な限り、下手は態々打ちに行かん」 「ううむ。至極当然なんだがおまえさんが言うてもなあ」 店主は深々と唸っていたが、この空気は突如として急変した。 そこに、酩酊し賑わいのあるテーブルから若い女の客が店主に大声で注文しつつカウンターに突進してきた。わたしと店主は少ない言葉で皿やらグラスやら、お金の入った食器入れなどを即座に持ち上げ、立ち上がって女の勢いから免れる。 「おいシェリー。何やってんだ」 「うへええい。マ゙スター。辛口エールくれ゙よお」 「また倒れる気かおまえさん。これからの仕事に障らんのかい」 わたしは確実に話題の逸れた事を確認する。 そして焦り顔の店主と目が合うとにこり笑い掛け、背を向けて店を出た。 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - 下流の町から早々に警備を終えて自宅に戻っても、珍しい事に斜陽ながら辺りは未だ明るい。わたしは久しく取り込んでいなかった酒気を全身で浴びており、最近の中では抜群に気分も良く、こういう機嫌のいい日には良い事も続くのかもしれないと思った。朝と昼の家に居た間に夕食の準備を済ませておいたクリーム色に包まれた優しい香りが調理台からは立ち上り、部屋全体に包まれている点も非常に尖った神経を丸く治めてくれるかの様な感覚にさせてくれる。 折角余った時間なので、じっくりと水妖の知力試験を行おうか。 ああ、駄目だ。 どうにも水魔の研究に意識が傾きがちになっている。 今日は休養日だと言うのに、これでは休養の意味も無いのではなかろうか。 わたしは今日の研究をするべきかやめるべきか決めあぐねながら、夕方近くでは流石に既に起きて定位置の金盥に入っていたスライムを手袋でつつく。どろどろした顔でとろんとした表情でわたしの指先を受けながら、掌の隠れるような長袖に似た腕で視覚部の端をこする。 「...うにぃ」 水魔は呆けてわたしの指先から顔へと視線を移した。 「...ねむ」 最近のこの魔物の意思表示は、わたしにどうして欲しいのか、何を求めているのかと訊きたくなるものが多くなったと思う。スライムをつつく事を止めてからは椅子に座り直し、小さなクリスピーが入っているガラス瓶とディップクリーム数種の入った陶器が並んだテーブルに、インスタント・コーヒーの入ったマグカップを置き加えた。 わたしは兎角何かゆるりと時間を過ごせるような、差詰めロッキング・チェア・タイムをもって寛げる様な手立ては無かろうかと思案を巡らせる。そこで、何となしに冷却物用の棚の中にある、先日手に入れたミルクに目を留めつつスライムとの会話を図る。 「最近よく寝るようになったな」 「...ねむいぃ」 「塩へより敏感にもなった」 「...くせになった」 スライムは体を縦に伸ばしてから、金盥の中にとっぷり沈んで言う。 「...ねむ」 「今日は別に付き合ってもらうことも無いし、寝てようが構わないが」 「...さみしいからやだ」 「何なんだよ眠っとけよもう」 視線を水魔に移すと、それは卓上のクリームが入った陶器から目にあたるものを逸らす。 わたしは極自然と、今度はそれかと思った。 「食いたいのか」 「...ん」 「食うか」 「...いいの」 「駄目」 「...む」 その朧気な視線でディップクリームを食べたいと訴えてくるスライムに、わたしは許可を出さない。 最近のこの魔物は塩以外のものにも手を出すようになった。そして具体的にどこだと言い表すことは出来ないものの、行動だけでなく外見も徐々に変わってきている様に思える。ただ間違いなく具現化、擬態がスキルアップしているとでも言うべきか、自然な形状変化・変身スキルは会得し始めていた。成長しているのだとしたら恐れ多くも研究だってしがいがあるというものである。 とは言え、あれはこの家で最高価値の食料である嗜好用高級ディップクリームだ。 与える気になる訳が、無い。 「基本、色なり見た目は変わらんのになぁ」 「...なに」 「なんでもねえよ」 わたしは棚のミルクに視線を再度戻すと、ふと思いつく。あの牛乳は普通のものでは無い。つまり、ホルスタウロスのミルクなのだ。もしミルクにも魔力が宿っているならば、いや間違いなく宿っているのだろうが万が一でもそうじゃない場合、だとしても果たして或いは当のスライムに対して何らかの変化を与える要素が組み込まれているものであるならば、それらに対する変化が水魔に生じてもおかしくない。有体に言えば、変化を来たす可能性が、十二分に予測できるのだ。そういえばとある絶版の三流医学書の中においても、高い熱は痛覚で感知するらしいと書いてあったと思う。それなら、この実験に比較の要素を加味した価値がある。 結局一日を休養に徹するよりも湧き上がる好奇心に流されたわたしは、少量のホルスタウロス・ミルクを子鍋に流して火に掛ける。隣の焜炉に置いている大鍋のシチューも出来が良好らしく、我乍ら美味しそうな匂い顔が緩むのを感じつつも、鼻歌混じりで大鍋をかき混ぜる。それから子鍋のミルクが充分に温まった事を確認すると、表面に浮かぶ乳幕を溶かし直してから水魔の金盥へと運んだ。 「さて、この熱いホルスタウルス・ミルク。 コロイドおばかにぶっかけちゃうと、如何なるか」 「...あれのがいい」 「ディップクリームよかこっちのが美味いと思うぞ」 「...ほんとなの」 「恐らくだがな。これを味わった暁には、おまえに何が起こるのやら」 「...しろくなる」 「さてね」 わたしは魔物を少しずつ白く染め下げようと、水魔の上で子鍋を傾ける。 水魔は黙り、依然眠そうにしている。 そこに、一滴。 「...ひゃあ」 「お」 スライムは体を急速に凹ませ、その崩れた状態のまま震えた。わたしは水魔の体を掬い取り、その一部を近くのガラス管に入れた。魔物の経過を観察しながら、質問を投げかける。 「如何した。どんな気分だ」 「...なんかいい」 「ふむ」 「...でも」 「何だ」 「...」 スライムは妙に余所余所しく、わたしは思わず歯噛みして同じ事を2度言った。 「何だ」 「...ぎりぎりだめなかんじ」 「はぁ、意味わからんぞ」 「...おしおほしいな」 「む」 わたしは魔物としての本性を現したいのかと思い、少し悩んだ末に塩を準備した。その間の水魔は軟体をくねらせ、奇怪だがどこか艶美なダンスを踊っている様だった。魔物の要望どおりに魔性の粉を降り掛けると、スライムはあっと小さく叫び上げ、普段以上に身悶えしてから金盥に深く溜まって落ちついた。恐らく効能がどうであれ魔力の入ったものを食料として与えると、より刺激的な反応を求めるのだろう。 そんな事を考えているうちに、魔物は体の痺れが取れたらしい。 そう言えば、回復もかなり早くなったように思う。 「...ふぃぃ。きもちかったぁ」 「今迄で一番刺激的だったか」 「...うん。やっぱりいろいろためしてみるもんだねぇ」 「ん、そうか」 突如、わたしはスライムの様子に何らかの違和感を覚えた。 しかし、その正体を掴みきれずに錯覚だったのかと思い、後はミルクの投入前中後のスライム構造の変化を調べていた。 そんな時。 「ぎゃ」 これまた不意に妙な声が外から響いて来た。 「あぎゃああああああああああああああああああああああああ」 それは断末魔のようだった。 わたしは常備しているホルダーから短剣を抜き取り、出来るだけ素早く叫び声のあった方向である表戸口の裏に回る。そこの扉に取り付けた金属製の回し蓋が付いた窓から外の様子を伺っていると、水魔が事態に興味を持ったらしく、わたしを見て首を傾げた。 「切り株に触った馬鹿が居たらしい」 「...みてみたい」 「却下」 我が家の玄関近くには、大人ひとり、或いは子供ふたり程が座る事の出来る大きさの切り株がある。その表面は磨かれて防腐と成長防止のまじないが掛けられており、更に強力な魔除けの魔方陣が施されている。切り株とそれに触れる生き物にしか効果が無いものの、魔除けとしては絶大な効果を発揮するものであった。それは最早魔除けではなく魔消しの領域にある。これを拵えた旧知の魔法使いの腕は随分と冴えていたもので、もうわたしがこれについて如何程昔に施してもらった魔方陣かすらも覚えていない位の代物にも関わらず、今現在でもまじないの効果自体は朽ちていない。 故に、そこに有翼の魔物が降りようものならば大変である。間違いなく雷に撃たれた様に皮膚と肉と骨を爛れさせるのだ。 「馬鹿というより、アホウドリが来なすったぞ」 「...あほお」 「そうだ。鳥頭の知り合いだ」 「...しりあい」 わたしは扉を開き、髪をぐしゃぐしゃにして寝転がる有翼の魔物に相対す。 「おまえはホント忘れた頃にやって来るよな」 「…どうも」 有翼の魔物は地面に対して顔から突っ伏したまま、震えた右腕を掲げて言った。 魔物の足からは湯気が上がっており、周囲には髪が焦げた時の様な不快なにおいがたち込めている。目前で展開される惨状に口角を下げて視界を狭めると、魔物は掲げていた腕をぱたんと下ろして動かなくなった。 「いやあ、助かりましたよ助かりました。ありがとうございます」 「いい加減来るなら来るであの切り株に止まるな。いつか死ぬぞ」 「介抱してくれるひとが傍に居るなら大丈夫じゃないですか」 「よくもまあ抜け抜けと言ってくれるな」 容姿は人間でいうと18歳程度か。 少女はわたしの差し出したスプーンから夕飯のシチューを啜って笑う。 華奢な体躯に鋭く研ぎ澄まされた雰囲気を放つ足を下げ、撥水性のある翼を腕に携えた魔道の少女である。魔道の、とはつまり人間と異なった道を歩む存在であり、容姿に似た部分があったとしても本質を大きく違えているということである。 「数ヶ月に一度の貴重なシチューの日に限って来るのは何故だ」 わたしは嘆息した。 「いつも贅沢だなあとは思っていたんですけど。奇跡的な偶然ですよね」 「悲劇的で茫然だ。大体、本来敵方であるおまえが何の用で此処に来る」 「あ、ヤモリ」 「話聞けよ」 「いやだって、窓に」 我が家の窓には分厚いカーテンを掛けているものの、それは夜の間に限ってである。当然朝に起きればそれを開いて太陽光を部屋の中に取り込み、昼には換気も充分に行っている。元々家に居る事も多くは無かった上に一人身とあらば掃除が行き届く訳も無いための、せめてもの屋内浄化の代替案だ。 その拭き掃除もされていない薄汚れた窓を見てみると、確かに窓の右下に一匹だけトカゲらしきものが張り付いている。 「ヤモリとかどうでもいいだろ」 わたしは今度拭き掃除でもした方がよさそうだ、と考えながらに有翼の魔物を見て言う。 「いや焼いたら美味いです」 「それ、強いて言ったとしてもイモリのクロヤキの事だろ」 「ああ! 窓に! 窓に!」 「黙っとけよもう」 「ちぇー」 「一応言っとくが、この家で舌打ちと、後序でに口笛はやめろ」 「今のはセーフですか」 「らしいな」 「らしいですか」 「まあそんなセーフティ・ラインの事はどうだって良いから、それ食ったらとっとと帰れ」 わたしが呆れているところで丁度、ヤモリは窓の向こう側から姿を消した。有翼の魔物は残念そうにその尻尾を見送った後、部屋の中を見渡し、水魔を見下ろした。 そこで水魔と目が合ったらしく、魔物は椅子に座ったまま笑い掛ける。 「これが話題のスライムちゃんですかぁ」 「露骨に話題が変わったな」 わたしは千切ったパンをスープに浸しながら、その笑顔を見て怪訝に思う。この魔物が顔を綻ばせるのは興味本位の笑顔でこそあって、懐かしみ慈愛に満ちた母の様な目で見る事には違和感しか浮かばない。それとも、幼子を見たときのような朗らかな気持ちにでも成ったというのか。 「山で話題になるのか」 「先日は家が液体まみれだって嘆いてたらしいですね」 魔物はわたしに向かって歯を見せて笑う。 てっきり山での話題はスライムに対しての事ばかりだと思っていたが、どうやらそうでもないらしい。 それもそうか。 魔物相手じゃ数段劣る人間とは言え、何せわたしはこのものたちと敵対する側だ。ナイフを通さないほどの硬い皮膚でも持っていない限りは、刃物を持った人間を危険視していてもおかしいことは何一つとして無い。少なくとも、わたしは立場上そうであって欲しいと願うばかりだった。 「でも床、随分綺麗に見えますけど」 「こいつに合わせて家全体に撥水処理したんだよ」 「みたいですねえ」 「兎に角汚れが浮くようになって、掃除に骨が折れる」 「それならスライムちゃんに吸収させてはどうでしょう。 折れる骨も無い事ですし、お得もこれに極まれりですよ」 「こいつ埃は食わないし蟻みたいに決まったルート通るんだわ。 まあ、選り好みのほう事態は単純にこいつの嗜好の問題なんだとは思うが」 「となると、無色透明なのにレッドレベルの精神構造なんですね。 でも言語機能にはまだ遅れが見られるあたり、ちょっと珍しいかな」 わたしがスープを飲み干したところで、有翼の魔物が立ち上がる。 白いカットシャツから伸びる黒い翼を少しだけ伸ばして踊るように部屋を回り、水妖の佇む金盥の近くに座る。 「ふむ」 有翼の魔物は毛羽立った耳飾を立てて、嬉しそうに水魔を覗き込んだ。 水魔の方も怪訝そうに体を震わせて威嚇していたが、やがてすっと硬直して緊張しているようだった。 「ふむふむ」 「...なに」 「ふむふむふむふむふむふむふむふむ」 「...なにこわいやだぁ」 魔物同士で目を合わせていたかと思うと、有翼の魔物が怖くなったのか、水魔がわたしの方に顔だけ向けて助けを乞うた。わたしはそれを無視し水魔を有翼の魔物に半ば預けるような形で見ていたのだが、水魔が威嚇とはまた別のパターンで小刻みに震え始めてから、やっと有翼の魔物もわたしの方を振り向いた。何かしらの悦に浸る事の出来るものがあったらしく、目を輝かせているその様は少しばかりか愉快そうに見えた。 尤も、わたし自身としては何を堪能したのかも判り得無い様な価値観や生きる世界が違う存在を相手取って、心底愉快に思ったりは出来ないのだが。 「曰く、ヒト由来の栄養素一切を摂取した事が無いらしい」 わたしは紅茶を淹れつつ、有翼の魔物に疑問を提起する事にした。 人智を超えて説明のつかない魔物については、同じ魔物の観点からのみでしか判らない事が大いに在り得る為である。 「スライムなんて分裂直後に栄養摂取をしなければ身を崩すだろう。 それとも何か、それを回避できる手立てとか、実際にあったりするのか」 「うんと、十分に魔力のある場所に居るのであるなら、問題ありませんよ」 そしてそれは予想どおり、有翼の魔物にとってこの件は問題も差障りも無い内容であったらしく、魔物はわたしの目を見て質問に応える。 「日常的、もっと言えば恒常的に魔力供給の出来る場所で生活すると良いのです」 「やっぱそういうもんなのか」 「まあ、つまるところは魔界ですよね」 「んー、魔界かぁ」 「それぐらい人間界でも常識でしょう。魔界は魔力で溢れてるって。 中にはきっと、魔界の魔力だけで増殖できるスライムも居るって事ですよ」 自慢げに、恰も自身が知識人であるかの様に振舞う有翼の魔物は胸を張った。 しかし、寧ろわたしはそんな魔物に対し訝しみを含めて見遣る。 「憶測かよ」 「ええ憶測です。魔界なんて行った事ありませんもん」 「素直だな」 「それが売りです」 「そうかい」 わたしが素っ気無い返事で紅茶を啜る様子を他所に、魔物は金盥の前から立ち上がって背筋を伸ばした。そして、そのまま魔物は気持ちの良さそうな顔で腕を展開し、その3,4メートルはあろうかというほどに膨らんだ両翼を部屋一杯に回す。黒濡れに色づいた羽先は器用にも壁紙から垂れ幕、一枚の油絵、また雑々と陳列された家具などをなぞっていき、被り溜まった埃を落としていく。更に、風を纏ったそれら一連の動作は浮いた埃を魔物の前に集わせ、一通りの部屋巡りを終えたかと思う頃には拳大にまで固められた埃塊がひとつ床に転がっていた。 有翼の魔物は足元にある確かな掃除の成果に満足したらしく、腕を畳んで微笑み、わたしの側まで歩いてきた。 「ええ、絶賛発売中ですよ。 是非ともあなたに買っていただきたいところなのですが」 所謂、この少女のアピールだった。 わたしはうんざりしつつ肩を竦め、神経回路を研ぎ澄ませる。 「買ったら祟られそうだし遠慮する。勿論他への押し売りもするな」 「他へなんて滅相も無い。限定販売ですから」 「当個人宅での販売に関する認可証は一切交付しておりません」 「お客様も頑固ですねえ。こんなに超特価なのに」 「…それ以上言うなら襲撃と見なす」 「あれれ、残念です」 有翼の魔物は薄い桃色の唇を少しばかり尖らせたが、即時復調して先程と同様の雰囲気を再び居間に作り上げた。 有翼の魔物にとってのこの売り文句は、わたしが仕事柄要事の際にはどう動かなければならないのか、また魔物に対してわたしが取っ組み合いで勝てるか否かを充分に承知している上での誘いなのだ。 だからこそ、わたしは魔物を睨む反面、ひとが彼女達に及び切れなかろうそんな精神的側面を羨ましくも思う。 魔物は基本的に自由奔放だ。さぞかし悠々とした生活なのだろう。故に、自分を律しなければ子々孫々を生かしきれない人間にとって魔道に堕ちる事は、どうしても救い難い悪道なのだ。無理強いされて縛られて生くのが人間道の真髄であり、天道へ研鑽邁進するは剰りに険しく、修羅道以下に落ちるは剰りに容易いという。 「...ねえ。あほおはやまのものなの」 ウィンク・スマイルの挨拶の後に山へと帰った有翼の魔物の見送りを終えて家に戻ったわたしを見て、水妖がどこか青色の声を投げる。 やまのものとは、わたしが水魔に対しよく口にする山の魔物を指していた。 「ああ。山のアホだ。 副官と言うか、山の主に最も近い魔物だな。俗に言うお偉いさんだ。アホだけど」 「...なんであほおはおえらいさんなの」 「そんなん知るか」 わたしにとってあの魔物は引き際を弁えて「貰って」居るからこそ長く付き合えるものだ。何がしかの理由を持ってして間違ってでもこれ以上親密になってしまう事になったならば、わたしには戻る道が無い事を把握している。 人間としてのわたしのあり方を尊重して居ると言う意味合いでは非常にありがたい話なのだが、言ってしまえばわたしは山の魔物から街を守る身でありながら、既に魔物に首を掴まれて居るのである。街の人間に示しが付かないどころか、この地域が既に仮初めの人間領であると言う事に情けなさを感じる。 「...にがいかおだよ。どしたの」 「何でもない」 わたしは椅子に座り直して紅茶を飲みながら、疾うに暗く鏡となった窓を見る。窓にはヤモリが再び姿を現しており、その小さな腹を部屋に見せていた。 魔物と人間は、食生活からして違う。 あれを見て、有翼の魔物は美味しそうだと涎を垂らした。 「...に゙ぇぇぇ」 弱々しい奇声を上げる水魔に振り返ると、大きな蠅がその周りを飛び交っていた。水魔は頭を思わしき部分を あの蠅も蛙にとってはご馳走だ。 食生活の時点で種族として相容れない筈の存在を、どうしてあの魔物はあそこまで求めるのか。その問いの答えは人間側からでは、少なくとも判り得る範疇ではないと思う。 「...に゙ぇぇぇぇ」 「ああ判った判った煩いな」 わたしは観念して紅茶を飲み干し、パン袋の口を留めてからテーブル横の鉤金に掛かっている対スライム用のグローブを左手に嵌める。更に右手には薄紙を持ち、水魔の前に立ち構えた。 それから大分の間形振り構わぬ苦戦の後に、薄紙に大きな蠅を捉えきることが出来た。足早に家から右手を出して紙包みを投げ、即刻戸を閉じる。水魔の前に戻り、恰も幼児のように泣きじゃくるその顔に目を凝らすと、視覚部に当たる箇所から液が染み出している。 それは、恐らく涙であった。 「もう居ねえよ。そもそもそんなんでよくぞ今迄生きて来られたもんだ」 「...ふにぇ」 座り込み、左手でスライムの頭部を叩く様に撫でていると、ふとヤモリは蠅を食べるのだろうかと思い浮かぶ。思い立ったが吉日瞬間、わたしは明日にでもまた新たに捉えるだろう蠅の類をヤモリに食べさせるべく、その為に今晩はヤモリを捉えるイベントで幕を閉じようかと窓を注視したが、獲物は既に窓枠から消えていた。 どうやら思惑どおりには行かないものらしい。 「まあいいか」 わたしは魔物の顔を見る。 赤い虹彩はそのままだが、当初よりも輪郭が克明となっている。その上で涙を流すのであれば、もしかするとこれはスライム種ではなく、何らかの別の種族の幼生なのかもしれないという可能性を浮かび上げる事が出来る。また、成長するスライムというよりも、そちらの方が余程大衆の常識に近い。ただし、もしもこれが本当に水魔でなく別の、もっと悪辣な手段でわたしを絡め取ろうとする悪魔であったとしたら、わたしはただでさえ棺盥が水浸しに成りかねない様ななかなか最悪な現況と比べたときにどちらが良かったと言うのだろうか。 ただ兎角、現状において水魔の容態は水魔でしかない。 これはとどのつまり、わたしは未だ対処の範囲にあるものを取り扱っているという事だ。 「...にゃ」 水魔はさながら子猫のようにグローブに頭を擦り寄せ、わたしに撫で続ける事を要求していた。当然といえば当然であるものの随分と懐かれてしまっているらしい。 目を閉じて虹彩を隠し、表情のようなものを読み取る事が出来るようになったのだから、これはもうわたしも子供のあやし方を覚えた方がいいかもしれない。 「...まどになにかあるの」 「いや。何も無くなった」 「...やもりいたの」 「そうだ。捕まえようかと思ったんだが、居なくなった」 「...やもり」 「別にいいんだよ。ヤモリは一匹で充分なんだ」 何となく答えたが最後、わたしは激しく後悔した。 |