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遭遇 |
玄関が異様なまでに水浸しであった為、異変に対しては直ぐさま察知した。
朝霧などの水では此処迄湿らない上に、石畳の下から湧き出した様な濡れ方だった事から、原因究明は容易であった。 「まさか、昨日の魔物か」 ひとりごちたわたしは嫌な解答と間違いのない予感に急かされつつも、慎重に家の扉へと歩み寄る。家中にいる存在を確認したいところであるが、その正体の居場所次第では逃げようにも捕らえようにも、手段が何一つとして無いのだ。 深呼吸してからドアノブを捻って戸を開くと、屋内が暗い事に気付く。今日に限ってカーテンを開け忘れて日課に出てしまったのか、それとも中に居るものがこれを望んだのか。兎に角屋内に光を加えようと陰鬱且つ緊迫な心持ちで中を覗き込むと、先ずは予想が的中した事を悔しく思った。この家は玄関口から段差と中戸を置いた地続きに居間があるのだが、そのほぼ中心に位置するところに水の塊が鎮座していたのだ。 無色透明の体躯に紺碧の核と赤い虹彩を持つスライムがへたりこんで出迎えてくるとは、まさか夢にも思うまい。外見的な特徴としては街で読んだ文献のどれにも当て嵌まることのない種類だが、スライムとは元来から亜種の多く発生する魔物であるため、この魔物自体には驚く必要は無い。が、しかし面倒な事になった。 「化物め」 「...」 魔物はわたしを見据えたまま、屈折した光を床に映す。床は波立ち、夜見るならば綺麗と思えただろう模様を描き出した。ただ、魔物本体については黙りこくった侭で落ち着き払い、表情すら伺い知る事が出来無い。そもそも屋内の暗さからして、顔が恐ろしく見え難い。つまり、何をしてくるかの一挙手一投足一動作すら捉えられない。愚直なものならば此の侭襲いに来るだろう。搦め手を得手とするものは、床下から組織を這わせて捕まえるだろう。場合によっては、無害をアピールして近づく事も考えられる。あの魔物の知能がどの程度か判ったならば行動範囲も絞められるのだが、やはりそう簡単にはいかない。 倒す方法を考えるにしても、川に近いこの場所では元より地の利が悪すぎる。土地が魔物に味方してしまい、所作にスピードが加わってしまう事だろう。そして更に、再生力についても恐れられるだけ恐れ、備えられるだけ備えておいた事に越し様も無い。例えばあの核は昨日見たとき、乾ききって硬くなっていた筈だ。それでは何故水分を吸収して、体躯を復元させているのか。どこから力の源を得ているのか。 これに対して、確実性のある回答をするだけならば簡単だ。 ああこれだから水の化生は面倒臭い。 単純にも、雨の湿気と夜霧朝露だけで復活してしまったのだ。 「...こんちゎ」 水魔が喋る。 幼子と鈴に似た声だ。 「出て行け。おまえに用は無い」 「...やだ」 受け答えを見るに、存外知能は低いらしい。 例外も多くあるが、スライムというものは体色の濃い個体ほど知能が高い傾向にある。しかも、そういった個体は人間の侵蝕、魔物へと変貌させることも得意としているという。たかがスライムとは言い難く、その危険度は対象が男であろうが女であろうが低くない事に違いない。魔物という存在は前提として人間を脅かすものであるという点から、危険非ざる存在な訳が無いのだ。 「とりあえず、外に出ろ」 「...わかた」 判断基準の理解に苦しむところはあるが、随分と聞き分けの良いお悧巧な魔物だ。これが小さな子供の形をしてさえいれば、思わず頭を撫でたくなる程である。その点では目の前の水魔が水魔であってよかったと思わなくも無い。何せ、魔物は人間の庇護欲をも手玉に取ってしまう。 わたしは家から水妖を誘き寄せ、扉を抜けて草地を這う標的に狙いを定める。腰の革ベルトに括りつけた布袋の口を改めて緩め、川端に散布するよりも一握多目に塩を持つ。そして、家前の太い切株の台まで誘導した後、思い切り塩を撒く。 塩には様々な意味と用途があり、わたしの蔵にある塩は、その大半を厄除けとして使用している。厄除けとはつまり結界の構成であるのだが、実際に魔物に直接振り掛けても効果がある。大蛞蝓が多く生息しているこの地域では、塩による半無力化の効果は絶大なのだ。また、水分を多く含まない魔物には直接的振り掛けたところで効果を望めないこの塩だが、その時の為の御信用程度のものは携帯している。とりあえず、これは一般的な粘性タイプの魔物を退散させた実績のある対処法だった。 「...あ」 スライムは塩を全身に受けると、進行を止めて震えだした。 小刻みにか細い声を上げるその様子は、威嚇行為ではないのであると判る。一見すると快感に犯されている状態として捉えられ、魔物に慣れた者であればきっと酷く官能的に見えるものなのであろう雰囲気があった。わたしにとっては不気味極まりない、多分に気分の悪いものでしか無かったが、しかしそれでも魔物自身は恍惚の声を発て続けている。 エモノでの攻撃は水魔に無意味であって寧ろ危険な行為となるが、かといってガソリンを使って揮発を誘うのも生憎手持ちの貯蔵量的にも考え難く、火炎を用いる事も家への延焼に対処仕切れないが為に踏み止まってしまう。 そうしてわたしが何の手も出せずに暫くして居ると、水魔の興奮は収まったらしい。 成す術の無いわたしは水魔に対し疑問をぶつけた。 その体ゆえに皮膚が爛れないにしても、塩分比率の変動に苦痛がないのか、と。 「...なめくじじゃないし」 沈黙を置いてからの返答には、対話に時間を要する相手なのだと十分に悟らせるだけの余裕があった。子供染みており、愛嬌よりも眠気を感じる猫撫で声は、くたくたに眠りこける事を好みそうである。その声はしかし、魔物ゆえに微量ながらにも魔力を帯びたものである。長い会話は危険だと知りつつも、わたしは水魔を見つつ、会話の続行を試みた。 「水気の多い妖怪には効く代物だったんだがな、あの塩」 「...うちがすごいだけ」 「本当に特別凄い存在だってか」 「...さあにぇ」 水魔はゆるり応え、何となく笑ったような雰囲気を醸し出す。 「...なにあるの」 「何が」 「...とくべつすごいと」 「おまえが望めるものなど、此処には何も無いが」 「...」 会話が途切れ、目に視得て沈黙が流れる。本来であればもうトースターを温め始める時間であるとか、菜園の鳥仕掛けの修繕をしなければとか、今日は集会所に預けておいた秘密の届け物を受取りに行く筈だったが無理そうだとか、種々に思いを巡らせる。それから、本当に魔物は面倒臭いと細い息を紡ぐ。長い呼気で肺から多量の酸素が消え、その分を補うためにも更に緩やかに吸気を取り込んだ。 「望みを叶えるには、あの山へ行ったほうがいい」 「...なんで」 「おまえの棲み処は此処では無いからだ」 「...んにゃあ」 「そもすれば、油引っ掛けて焼き殺さんきゃいかんのだが」 「...やりぃよ」 「何か妙に呆気無いぞ、魔物の癖に」 水魔は口を開けども随分気だるそうな声しか出さないが、気紛れかつ非常に従順な一面を垣間見せる。それはまるで、自分の事などどうでもいいと言わんばかりの態度であり、恰も隷属したオークの様にわたしの脅しを言葉通りにして受け入れる姿勢だった。 わたしはこの水魔について、ひとつの仮説を立てる事にした。 魔力関係において高位にある魔物の一部には、随時記憶を喪失させる個体種族もあるという。その様な魔物の行動に係る特徴には、無邪気、純朴が挙げられる。また、常時無気力という固体も高い比率で確認されていたりする。そもそも無気力である事を許容される個体は、糧の供給がオートベースで整っている環境下にあるか、魔力的に見て高位であって食糧が自ら寄って来る程の存在でなければならない。さもなければ、餓死が不可避であるためだ。 「おまえ、今迄何処で暮らしてきた」 これは確認のため。 わたしは水魔よりも家から離れた切り株台に腰を下ろし、スライムと対峙する。 「...さあにぇ」 「何処で生まれた」 「...にぅ」 「仲間は」 「...んにぇ」 「記憶はあるか」 「...おしえん」 「そうかい」 悉くはぐらかす様子は気紛れか、幼稚な悪戯の気分にでもなっていたのだと思わせる。この素振りを見て解った事といえば、高位でも特別な環境適応型でもなく、ただのこどもの魔物であるということだった。 「仲間はいないのか」 「...さぁ」 「おまえ、おまえと同じ奴を見たことあるか」 「...とくべつすごいの」 「ああ。おまえと同じ特別凄そうな奴だ」 「...ないにぇ」 新たな情報が仕入れられたところで、チェス盤をひっくり返す。 元より危険に憑き纏われた生活を送る身である。いっその事それらと更に密着せんと危険を隣り合わせた生活を始める事も、一興か。 新種の魔物における報告書は高い価値が付く。その中でもスライム種はかなりの低価値で有名なのだが、それも多種の魔物と比較してこそ現れる結果である。低価値といえども手に入れられる報奨金は一般庶民の数月銭に近いことから、今や隣国は成り上がりを狙うギルドや調査隊などの天下となっている有様だった。かく言うわたしも一攫千金の到来を知って、しかも逃避の出来る気も存外しない今日という日を棒に振るわけがない。 敢えて言うならば、諦めた上でのポジティブシンキングという心内に尽きる。 「あの山の水は甘いぞ」 「...べつにいい」 ポジティブシンキングに拍車を掛けて考えると、髪もインクも家にある分では報告に要する量として充足しないことを思い出す。つまりこの魔物を研究するために必要となるものが揃っていない状況にあるということだ。しかし、そう易々と川を離れる事は仕事柄不可能であるわたしにとっては、魔物を逃がさずに留めて置き、尚且つある一定の成果を得られるような方法を探すのにも一苦労の知恵を絞る必要があった。 効率よく報告書を提出する妙案をほぼ咄嗟に導き出すと同時、わたしはそのまま口にしてからその単純さと恐ろしさに驚愕した。 「記憶が無いってなら、少しの間なら家で保護してやるよ」 「...そおかぇ」 「その代わり、随時色々調べさせてもらうがね」 「...どおとでも」 いや、同じ屋内で暮らすとなるとあまりにも近すぎる。屋外で飼うならば兎角、屋内に招き入れるという事はとりあえずテリトリーもへったくれも無い生活を送る事となる。一興を謳った筈の酷い興醒めは、わたしの頭の中のチェス盤が壊れているという事らしい。 下手に家の中で襲われたとして、わたしにそれを回避仕切れる余裕があると思えない。 しかし一度口にした言葉を裏返す事は、幾ら馬鹿に見えるといっても相手は魔物であることから憚られた。悪魔との契約には、嘘偽りが通用しない為である。 冷汗を柔風が撫でて乾かし、より一層の冷気が背筋に降りた。 「主体性皆無だな。意見なんて無いってか」 「...あるもん」 「ほお」 わたしの言葉を挑発としてひとり受け取り勝手に乗ったのか、水魔はわたしを見据える赤い目を光らせて体を震えさせた。それは昨夕にみた威嚇そのものであったが、改めて明るいところで見ると少なくとも人間に対しては随分と滑稽な威嚇行動であった。わたしはこいつに対して何も知らないというのに、この魔物が惨めに見えて仕方なくなる程である。この魔物が同情を誘って糧を得る種類や、対象の警戒心を緩めて補足を達成させる種類であるならば、わたしは嵌められたと言う訳である。考え方次第では無性に腹が立って来る。 ただ、わたしの座る切り株には旧知の男が施した魔法陣が眠っている。それは極狭範囲ながら効果の高いものであり、保護の対象に限って言えば、わたしに危害が及ぶ事など在り得ない。これをもって行使する態勢が整った状態は正しく首尾貫徹な攻撃防御準備万端状態であり、例え腹立たしく思おうとも依然優位に立って水魔を観察する事が出来た。 「じゃあ何考えてんだおまえ」 「...むぃ」 「無いなら帰れ」 「...やだ」 「なら、纏めて後で言うこった」 「...あいよぉ」 スライムの口調から納得した様子を受け取り、わたしは家の中へとそそくさと戻る。ぐちゃぐちゃと地下から染み出してきた様な粘性のある液体に濡れた床を踏み、やっとの帰宅に一旦胸を撫で下ろす。そして直様地下の塩蔵へ行き、手に持って居た空の布袋に塩を詰め直す。あの睡魔のせいで予定こそ狂ったものの、暗くなる前迄には再び川端を歩かねばならないのだ。午前は上流、午後は下流に異常が無いかを確認しなければならないのである。わたしは朝に一旦沸かして置いた水を飲んで、プル付きの缶詰を開ける。中身の海魚煮にフォークを突き刺して頬張ったまま冷蔵庫から牛乳を出し、嚥下して直ぐに口を洗い流す。 家の中を見回すと、炬口の近くから蛞蝓の通り跡に似た軌跡が残っていた。 発生源は昨夕に水魔の核を置いた場所と見て間違いない。 家の比較的近くの川辺で見つけたものの、最初は南国の木の実かと思った。しかし、そんなものがこの地域にある訳も無く、結局正体を掴めずに居た。そこで何と無しにダークスライムの特徴を思い出し、その核の特徴に合致している事を確認すると、後は何故斯様な事態に陥ったのかを推測してみる事にした。そして、中に液体が詰まっている様子も無く、周囲に身体を構成する液体も無い点から、恐らくそういった種族の死骸なのであろうと結論付けた。正に死んだ虎の毛皮を見付けた様な気持ちで拾い、念を押して弱く燃やし続けた炬口の傍に安置したのだ。 少なくとも最後の手立ては無意味に終わったものだ。竈の中は湿気を吸って団子状になった灰の塊や今後一切使い物に成りそうに無い薪に溢れており、炬口全体にそれが広がっていた。 やはり魔物は魔物であり、その生命力は人知を超えているところがある。 漂白剤を混ぜた平桶に洗濯物を突っ込んでから、嗽をして手を洗い、首を拭く。 「次帰ってくる頃には夕方も過ぎる。その頃に答えを訊く」 「...ん」 「そん時にも纏まっとらんなら、纏まり次第その戸口を叩く事だ」 「...わかった」 「山に行きたくなったら挨拶程度残してから消えろ」 「...むぃ」 わたしは不安を覚えた。 野良妖怪の割に従順すぎやしないだろうか。 結局今迄の全てのやり取りは魔物にとって造作も無い演技であって、わたしは今夜にでもあの魔物に寝首を掻かれるかも知れない。ただ、この危険は今後の生活を左右するためのリスクだ。恐らくは、否惜しむらくは死ぬことが無い様に配慮をしても、得られるものはきっとある。しかし、今回の件は魔物を相手取るという事で、欲を張るだけ多かれ少なかれ一生を賭す必要がある。 「あと、この切り株には触るなよ」 「...うん」 わたしは深呼吸をひとつして、水魔を家に残したまま下流へと歩き始めた。 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - わたしの住む家は、魔物の発生率が高い溪盆の小さな野原にある。 当然野原自体は危険地帯だが、そこに沿う清川を辿って行くと、住居制限も緩和される地帯に出ることが出来る。したがって、下流地域を歩けば徐々に人の住まう家が散見されるようになる。川を離れて歩こうものなら、ものの5分足らずといったところで豊かに広がる長閑な田園風景を見ることが可能であるのだ。今時期は未だ解け残りの雪と水分をたっぷり含み栄養を蓄えて冬眠していた土肌も窺え、疎らな緑が広がっている筈だ。ちょっとした丘陵地域であることから見渡す限りの景観は空の青に映えて素晴らしく、最も色濃い季節となる夏には余暇を此処に来て過ごす者もいる。 そんな待望ある緑も、道を折り返す頃には柔らかく淡い斜陽茜に染まって居た。 光量不足からの視力低下により辺りの観察も充分に出来なくなりつつある頃、わたしは対岸の岩陰に大蛞蝓の幼生を2匹見つけた。念の為その周辺には他所よりも多目の塩を撒いて結界を強めておく。それから更に暫く歩くと、わたしの警備対象外の地域に出る。目印の川沿いに立つ大木で立ち止まらずに踵を返し、遠くの我が家を目指す。 「はあ」 自然と溜息が出る。残り少なくなった肺の中の酸素量を補給する為に息を大きく吸い込むが、代わりに肩に入っていた力が抜ける。腕を広げて空を見上げると、流れない雲が無風を嘆き燃えていた。腰のベルトに手を当てると、じんわりと熱を帯びていた。首に掌を中てて回すと、服が少しばかり捲れて比較的冷たい空気が肌に当たる。 例の水魔は一体何ものなのか。 本当の新種であればその危険性は元来の未知数から更に輪を掛けて耀として知れず、軽い身構えでは危害が吾身に及ぶ事も先ず間違い無い。そもそも魔物という存在は、人類の尊厳から何もかもを駆逐し支配下に置かんとする世界の征服を目論むものだ。魔王と呼ばれる魔族を統べるものがどれだけ世代交代を行おうと、どれだけ人間有効を謳って人に近づこうとも、残念ながらその本質は変わりえない。かように仕組まれた世界構造である為だ。 「どうせ神がヒト科削減を方針づけたら、人間なんて即刻滅びるだけですよ」 旧知の知り合いであった魔法使いが、昔のわたしを諭すように放った言葉だ。当時のわたしは防人としてこの地方に配属されたばかりの新米で、普段目にしない魔族との関わり方を何とか友好的なものに出来ないかと考えていた気がする。それを優しくもつっけんどんに突き放し、惜しむ必要が無い程に不可能である事を語られていたのだ。ただ、今になってこれを面白く思う事があったかと考えると、その友人自身が大魔族を伴侶に持つものであった点に尽きる。これは一見信憑性が見得難いやも知れ無いが、その成長と老化の止まってしまった男の言葉と雰囲気は妙に含蓄に富んだ仙人の様であり、ひとを納得させるには充余分以上の語気があった。 「何かの目的の為に魔物を研究、解明するのは勝手だと思うよ。 けれど、そうして得た知識は必ず君自身を殺しに襲い掛かって来る。 存外ありきたりな話だよ。策士策に溺れる、飼い犬に手を咬まれる、とか」 聞いた忠告を思い出し、胆に鉛砂を流し込まれた気分になる。 気晴らしに立ち止まり、川向の山を呆けて見遣る。革ベルトの右に提がるパックから煙草を取り出し、携帯炉から無理矢理火種を供給して一服構える。肺を燻してにおいつく紫煙が流れる先で、翼の生えた魔物が空を飛んで山の向こうへと消えていった。家に到着する頃には、周囲一帯もあの影と同じく黒澄んでいる事だろう。煙草の灰を受金に入れ、再び歩き出す。 「...おかえり」 家まで戻ると、闇の中から乾ききったような童女然としたか細く頼り無い声がする。どれくらい頼り無さ気かと言うと、夜の街で父母から雷を落とされ閉め出しを食らって居た子供が泣き疲れて戸口前で座り込んで居る時の声位である。何故ここまで例が具体的かというと、そういうものを見た事があったからだ。家族も居らず家も町村から遠く離れているわたしにとっては、その光景を再び見る事など奇跡に近いものだろう。当然独り暮らしのわたしの家は、わたしの居ない間は無人であるため外灯も焚かれていない。それは至極普通だが、より独りである事を思い知らされる。本日から聴き慣れるだろう声は夜の帳の中から確かに耳へと届いたが、それは結局わたしの求める心の隙間を埋めるものに成り得ない。兎角わたしは水魔が逃げていない事に半ば安堵しつつ、その声のする方へ問い掛けた。 「決めたか」 暗闇は寡黙を通し、代わりだと言わんばかりの虫々がけたたましく音を張った。 「決まってないか」 「...うん」 水魔の赤目の光がわたしの視界に捉えられる。夜風と同じく冷たい視線であった。 わたしは欠伸をひとつして見せて、喉の奥に涙が突っ掛った様な声で水魔に告げる。 「暗いし、もう明日に備えて寝るから邪魔するなよ」 「...わからん」 「何が判らん。ゆっくりでも良いから焦らんでさっさと早々に今直ぐ早く言え」 既にわたしは重い瞼をこじ開けている事に限界を感じていた。後は沈黙を続ける水魔を置いて無言で家に入ってから施錠し、夕食を諦め、体を清めてから寝室に篭って眠った。 今日は久し振りに心底疲れて居たのである。普段なら睡眠中であろうとも気付いて起きる様な、ドアをノックする音を無視してしまう程に。 しかし、不意に濡れて冷たくなったものが首元や顔に触れようものならば、流石に疲れきっていようが眠気も醒める。異変は疑わずに、誰が誰の為による犯行であるかは剰りにも明解であった。寝た状態のままスライムの居場所を確認しようと目を開くと、案の定わたしの真上で赤い虹彩を光らせたまま乗り掛かっている。普段の確りとした癖とは言え、水魔にとって矢張り施錠は意味の在るものでは無く、いとも容易く自室への侵入を許してしまった。無論、水魔の特性上からして浸入それ自体は最初から諦めていたのだが、どの道これからの対処策が無い。 「どけ」 「...」 「戸を叩いていたのか」 「...うん」 「そいつはすまないな。 何しろ嫌な事思い出して重くなった足を引き摺り倒してこの家まで帰ってきたんだ。 全部とある魔物に興味が湧いたせいだから、そいつに慰謝料せびっても良いと思うぞ」 「...どうでもいい」 「そうかい。 でもこの手だか何だか判らんもんをさっさどけてくれ」 「...む」 疲れも十分に取れていない上に、慣れない起こされ方での気持ち悪い目覚めである。思わず饒舌になってしまうのも無理はないと、なんとなく自身を内心静観する思いであった。このような気分と体調の際は、無駄に力が漲るものである。水魔は渋々とわたしの視界から赤い目を逸らし、手首や首筋からその体を退いた。その目を追うようにして、わたしは上体を起こした。寝台の脇に水魔は佇んでわたしを見詰めていた。 「で、決まったのか」 「...うん」 「如何する」 「...おいてたもれ」 一階の水場から、水の滴る音が聞こえた。 「そうか」 わたしは加速していく鼓動を聞きながら、水魔を凄む様に見遣る。 これでいいのか。思い立ったが凶日じゃないのか。 しかし、この選択の後に自問自答して、その答えと現実に食い違いが起こっていたとしても、もう戻る事は許されず、絶望するにも自業自得が甚だしい。 頭に血が上って来るのがよく判るのは、相当に久しぶりだと思った。 「だったらこれから面倒見て遣るが、食い扶持は他をあたること」 「...うん」 「あと、これだけは言っておく」 「...なに」 「家主の眠りぐらい邪魔すんなばか」 「...わかった」 わたしは再び眠りに落ちようと心掛け、後頭部から枕に倒れ込む。部屋は冷気に囲まれて寒く、布団の中は暖かい。それだけが心地が良く、睡眠に誘う唯一の要素であった。 漸く意識が遠のきつつあったわたしに、ねえと水塊が話しかけてきた。一度は無視したが、繰り返されたので瞼を開いて水魔の場所を探る。未だに先ほどと同じ場所に構えたまま、わたしをじいと観察していた。その妙に強い視線に対して一瞬だけ心臓が跳ね上がるかと思い、身の毛を弥立たせ、それらを抑えてなお余りある苛立ちを充分に爆ぜさせて飛び起きる。一体全体何だ如何した死ぬか生きるかさっさと決めろと魔物を睨み付けた。 「...どこでねるといいの」 「知るかよ上の屋根裏にでも風呂桶にでもあの箱にでも篭って寝とれやとにかく明日も早いんだから眠らせろよ弩畜生」 「...でも」 「何」 「...もうあかるい」 わたしは首を回し、恐る恐る背後のカーテンを捲る。カーテンの真下から伸びる少しばかりの光は無視して外を見る。窓を覗くと、如何しようも無く確かに空が白んでいる。これから眠ろうにも眠りに就き難く、例え眠れたとしても体力の回復を待ち望める程度の時間は無い。普段の朝ならば既に起きて顔を洗い、朝飯を腹の中にかき込んだ方がより効率的に1日を回す事の出来る時間であると判断出来るものだった。然らば、無言で寝台から起き上がり、一階へと降りる他無い。 のぞり外に出て井戸水を汲み、滝顔を洗い、炬口近くの洗面場でより深くなった隈に相対しながら歯磨きをして居ると、ずるずるとスライムが二階から降りてくる音が家に響き渡った。そのまま歯を磨いていると、鏡の向こう側でふるふると震える水魔が背後を通り過ぎる。粘液が当たらぬよう、身の毛を弥立たせて足を上げて逃げた。 わたしがそのまま口を漱いでいる間に、背後では水魔が震えながら少しずつ体積を減らしていく。スライムの核が液体部分に対して大きい比率になるほど体を縮ませた時、水魔は近くに放られていた木箱の中に這入り込んだ。丁度水魔の核が綺麗に入るような立方体の木箱である。水魔はそこから更に体を奮わせ、最終的に自ら木箱の蓋をした。 実は少々珍しいと言われているスライムの体格調整を目の当たりにした瞬間であった。 初めて見るその動きに少々驚きつつも、今後の展望を掴めそうな不幸出先の幸いから落ち着くべく、わたしは続いて顔を洗う。そして予想以上に重い木箱を抱えて玄関口に移動させ、その上に短靴を置く。特に意味は無く気分で行ったものだが、案外玄関口が整頓されているように見えた。それから何となく胸の透く思いでトーストと果物を食べ、朝食を片付けた後にジャムティーを飲む。 「…ぁづあっ」 半ばどころか十全に眠たい頭に寝ぼけ眼だ。 とは言え、ジャムティーを啜って舌を火傷したのは今朝が初めてだった。 |