連載小説
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3
彼女が後輩として配属されてから一週間ぐらいが経った頃。

「あと、これを……」

「うん、分かった、ちゃちゃっと終わらせてしまうね」

業務は滞りなく行われ、問題なく過ごすことが出来ていた。
いや、それだけでは不足がある。やはり彼女はとても『デキる』人間であり、教えたら何でもスルスル覚えるので、どんな業務も簡単にこなし……今持っていた仕事をほとんど片付けてしまった。
もう、パソコンを前にしてキョトンとしていた姿が懐かしい。

「ふぅ、これでひと段落ついた感じかな?」

「あぁ、そうだな、あとは日次の作業だけだ」

「それじゃ今日もノルマ達成だね」

最初はその気品溢れる仕草と異常なまでのカッコ良さに圧倒されていたが、流石に数日経つと後輩として扱えるように……そんな『先輩』という役を何とか振る舞えるようになった。
そして、彼女もどこか固かったのだろう。初日に比べて、かなり親しみやすいような……そんな雰囲気を纏うようになっていた。お茶目で気さくな一面を出すような。

「これも衣笠君が優秀なおかげだな」

「ふふっ、どういたしまして……でも、出来れば『薫』って呼んで欲しいな、そう呼ばれ慣れてるから、ね?」

「……ちょっと、名前呼びするのは、あんまり慣れてなくてな」

「ま、今すぐじゃなくても、いつか呼んでくれたらいいさ」

その親しみやすさを全面に出しつつ、暗に名前呼びをしろとせがまれるが……茶を濁す。
そのキリっと引き締まった目で見つめられるだけで、変な妄想が、その手に身体を抱き留められる妄想が脳裏を掠めるのだから、勘弁してほしい。名前なんて呼んだら確実に。

……さて、こうも優秀だとやることが無くなってしまい時間が余るのだが、その時間を退屈に思うことは無かった。というのも

「じゃ、ボクは紅茶を淹れてくるね……ミルクとかは、いらない?」

「ん、今日もストレートで」

すっかり日課となってしまったティータイム、これが日々の楽しみとなっているからだ。
今日も月曜だと言うのに、憂鬱さはまるで感じない。

「ふぅ……」

仕事をやらずに紅茶を飲んで談笑する。最初はそんな時間を過ごすことに多少の罪悪感を覚えていた気がするが

『やることやっているんだから、多少休んでいても大丈夫だよ』

『むしろ、このティータイムがあるからこそ、作業効率が上がっていると言ってもいいんじゃないかな?』

『それにボクは、このひと時がとても好きでね。仕事のことを一旦忘れて、他愛ないことを話す……こういう風に仲を深めるのも大事だと思うな』

彼女にそう諭されながら毎日紅茶を嗜んでいるうちに、不思議と罪悪感も感じなくなり、彼女が紅茶を淹れに行くこの時間がとても愛おしく思うようになってしまった。

まるで王子様とも執事とも言えるような、様になった所作や仕草に毎日晒され続けて、心地よさを感じるようになっている。
気兼ねなく話せる最適な距離感を保ちつつ、さり気なくこちらを気遣ってくれる。そんな理想の友人のような彼女が毎日接してくれるお陰で、通勤時間を億劫に感じることは無くなった。

だが、その代わりに……

「おまたせ」

静かに透き通った声と共に彼女が戻ってくる。
バーテンダーを思わせるようなスラッとした立ち姿。それでいて臀部と胸部には女性らしさが詰め込まれていて、思わずドキリとしてしまう。何度見ても慣れやしない。
そして、一切乱れることなくティーセットを机の上に並べ、いつものようにとぽぽぽ……と音を弾けさせながらティーカップに紅茶を注ぎ込み

「はい、どうぞ」

柔和な微笑みをこちらに向けつつ、滑らか手でティーカップを手渡してくる。

「ぁ、ありがとう」

「ふふっ、どういたしまして」

喉奥が張り付いてどもったような声を出してしまい、くすりと笑われてしまう。困り眉に可愛い笑み。
頭が沸々と茹で上がるのを感じつつカップを受け取り、何かを誤魔化すように紅茶を一口啜る。先ほどの笑みが、手つきが、スーツの上からでも分かる女性らしさが、脳裏から離れない。

──そう、あろうことか俺は、彼女を異性として強く意識してしまっているのだ。
──まだ、出会ってから一週間しか経ってない、直属の後輩に、節操も無く。

ちょっと優しくされるだけで、こうして紅茶を淹れてくれるだけで、軽く微笑まれるだけで、変な想いを抱いてしまいそうになる。
まるで俺に気があるかのように……いや、勘違いなどと云うことは分かっている。けれども、こんなに心地よくて、美麗で、格好良い人に対して心が勝手に惚れてしまい、あらぬ希望的観測が膨れ上げてしまう。
それに加え、まるで男友達のような気さくさも兼ね備えていて、こんな俺でも話を弾ませられるような軽口を叩いてくるのが、心底安心してしまうのだ。

……ただ、惚れた理由は、それだけじゃ無い。

ただ隣で座って紅茶を飲んでいるだけでも漏れ出る妖艶さ。その腰つきは末広がりで、椅子と接してる太ももとお尻はクッションのように柔らかく変形しており……安産型、なんて言葉が頭に思い浮かぶ。
そして胸。こんなに大きいのは、漫画でしか見たことない。メロン……ぐらいはある、それよりもデカい。それでいて、ワイシャツにスーツ。その倒錯感が、いつまで経っても『慣れ』を与えてくれない。

気さくに距離感近くなったがゆえに、それらを意識する時間が増えてしまった。
身体を寄せられ教えを乞われ、キャスターの椅子をくるんと回してこちらを向かれ、リラックスした様子で椅子に身体を預けて……
その四肢が遠慮なく晒され……

あぁ、バカ、何を考えているんだ。こんな風にジロジロ見るなんて、セクハラだ。

そう思い、視線を上げると……端麗な顔に行きつく。瞳を下に落とし、穏やかな表情で紅茶を口に運び、飲み、喉がこくんと動く。
そんな仕草にも頭にかぁっと血が巡ってしまう。

こんな彼女と一緒の時を過ごせたら、どれだけ幸せなのだろうか。

なんて、叶うはずの無い願望が頭を掠める。

「ふぅ……このティータイムも久々だね」

「久々って、土日を挟んだだけじゃないか」

急に声をかけられ、内心ドキッとするが、何とか平静を装う。吸い込まれそうな瞳に視線を合わせて。

「まあ、たった二日間でも、ボクにとっては長かったかな。新しい職場で新しい仕事、そして先輩さんに出会って……そんな刺激的な毎日を過ごしていたから、余計にね」

「……そうか、まだ一週間しか経って無いんだな」

そう、まだ一週間なのだ。
それなのに、もう、何か月も何年も、意識しているような。そんな感覚。

「そう、まだ一週間なんだよね、先輩さんとボクが出会ってから……そうとは思えないぐらい、息が合ってる気がしないかな?」

「まあ、確かにもう数か月は一緒に居る気分だな」

「そうだろう?それぐらい濃密な時間を過ごせて……あぁ、君が先輩になってくれてホントに良かったよ」

気を遣わせて無い、お世辞でも何でもない本当の言葉。そう勘違いさせてくる態度がこれ以上になく心地良い。
あぁ、それが非常に恐ろしい。勘違いを進められてしまいそうで。

「そうそう、今日はクッキーを持ってきたんだ、この時間のために作った自慢のクッキーさ」

「……自分で焼いてきたのか?」

「意外だったかな?こう見えてもボクは家庭的でね、一人の時はお菓子作りやお料理とかに勤しんでいるんだ、裁縫だってお手の物さ」

家庭的という言葉を聞いて、また心が跳ねてしまう。
もし、彼女と結婚することが出来たら……どれだけ幸せなのだろうか。

「まあ……予想通りだったと言ったら噓になるな」

「あ、ひどいなぁー」

……我ながら考えることがなかなかに気持ち悪い。
そんな想いを一ミリも出さんとした結果、吐き出されるのは皮肉交じりな言葉。あぁ、そこは褒めるべきだろう、バカが。

妄想と自己嫌悪で惚けた頭を軽く振って、意識を現実へと戻そうとする。


「でも……そういうところ、ボクは好きだよ」

「ん……んぅ??」

予想だにしていない言葉によって、カップを傾ける手が止まる。
『好きだよ』と確かに言った。だけど、それは何に対してなのかは分からない。混乱している頭では台詞を遡ることが出来ない。

「ふふふっ……ほら、ボクのクッキー食べてみて」

「え、あ、ちょっとまっ……」

「あーん」

「あ、んぐ……んぐんぐ……」

ぐるぐると頭の中が回りに回って前後すら分からなくなった隙に、スッとクッキーを差し出される。
マーブル模様のクッキーは、白くて長い指によって支えられており、そこから焦点を奥へと移すと……端正な顔がこちらをじぃっと覗き込んでいるのに気がつく。
口を閉じて幽かに笑みを浮かべる彼女はとても美しく且つカッコよく、その紅い瞳に射竦められてしまうだけで、魔法をかけられたかのように心臓がドキドキと脈動して……抗う気すら奪われてしまう。

クッキーを口の中へと差し込まれる。

そのまま反射的に口を閉じて……ザク、という音が頭の中に響き渡る。
バターをたっぷり使ってあるのだろう。ザクリとした心地良い食感と滑らかな舌触り、口の中に染み渡る甘くて濃厚な味わい。そんな舌から伝わる美味しさを十分に堪能しつつ、ザク、ザク、と咀嚼を続ける。

美味しい。

「ボクとしては、まあ、そこそこ上手に焼き上がったと思ってるけど、どう……かな?」

「んぐんぐ……うん、すごい美味しい……」

「ホント?」

「いや、もう……味も、歯ごたえも、全部、今までで一番美味しい」

ジっと目を合わせてくる彼女に対して、気恥ずかしさから目を逸らしてしまうが、口からは率直な感想が溢れ出る。
美味しい。ホントに美味しい。絶妙な硬さの歯ごたえ、濃厚な味わい、深い甘み。
お世辞抜きに褒めていることを伝えたい。けれども、口から出ていく言葉は……どうにも陳腐なお世辞のよう。あぁ、彼女ならもっと素敵な言葉で伝えることが出来るだろう。
そんな想いから、何とか言葉を紡ごうと

「何なら毎日……」

思わず飛び出たセリフに

──何を言おうとしてるんだ、俺は。

理性がブレーキをかけた。

まるで遠回しに求婚してるかのような褒め言葉。あまりの甘さに、美味さに、ふっと緩んだ心からついつい出かかってしまった。
あぁ、こんな言葉も平然と吐けるほど自信があれば、冗談めかして言える巧さがあれば、少しは望みがあったかもしれない。
けれども、現に詰まってしまった。
そんな巧さは、俺には無い。

「……毎日?」

「んっ、いや、何でもない」

変に空いてしまった間を、咄嗟に言葉を詰まらせて有耶無耶にしようとするも

「ふふっ……そんなに気に入ってくれたんだったら、これから毎日作ってあげようかな?優雅なティータイムには良質なお菓子も必須だしね」

『毎日』という単語だけで心を読み切って、安定した声色で理想的な提案をしてくる。
優しげに笑みを浮かべ、『いい考えが思いついた』と言わんばかりに片手を肘に添えて他方の片手をピコンと立てる仕草。それに伴い、たゆん……と軽く揺れる胸。
気さくなウェイターがささやかな提案をしてくるかのようにさり気なく、バニーガールが暗にチップをねだるかのように魅力的で……

破滅的な

「やっ」

思考よりも先に、喉が拒絶を吐き出した。

「そんな、気を遣わなくても大丈夫……」

負担になるだろう、と後付けるような理由が頭から吐き出され、やんわりとした遠慮の言葉を紡ごうとする。
その刹那だった。

「……へぇ」

彼女の口から幽かに声が漏れ出る。
何ゆえ漏れ出たモノなのかはまるで分からなかったが、細まった目の奥ではゆらりと妖しい光が輝いていて、まるで何かを値踏みするかのような……
その視線にゾクリ、と本能が怯えた。

「ま、遠慮しなくていいよ、お菓子作りは趣味みたいなモノだし……自分で言うのもなんだけど、こんなに美味しいお菓子は滅多に無いと思うよ。このクッキーだって、一流のパティシエでさえも舌を巻くはずさ」

「……せっかくのティータイムなんだし、美味しいお菓子は欲しいんじゃないかな?」

一瞬の違和感に対して思案をする間も与えず、スッと普通に話し始める彼女。その瞳はもう見慣れた紅色だった。
そのセリフにはナルシシズムがたっぷり籠っていたが、この舌で味わった事実が、その大袈裟なセリフをも真実のように思えてしまう。

あぁ怖い、全部言いくるめられてしまいそうだ。その恐怖が、とても魅力的。

「……なら、これからもお願いしようかな」

「うん、分かった、クッキーだけじゃなくて、色んなのを焼いてくるから楽しみにしておいてね」

「そう、君のために毎日……ね」

顔が綻ばないよう気を付けて返事をしたが、不意打ちのように投げかけられたキザな言葉と共にパチリとウインクされ、不覚にもドキリとさせられてしまう。
思わせぶりな言葉と妖しい表情、それが何を意味するのかは……分からない。一つだけ、答えらしきモノが思い浮かぶが、それは俺の願望がこれ以上になく混じっているもので……

「……あ、そうだ、一つ聞きたいことがあったんだ」

またもや、カッコいい声に思考が切り裂かれ、視界の真ん中に彼女を捉えてしまう。
長い脚を軽く伸ばしてリラックスしながら、白基調の華やかなティーカップを手に持つ彼女。これ以上になく、絵になる。
……やろうと思えば、その胸にティーカップを置けてしまいそうだ。
あぁ、目に入れるな。あれは毒だ。

「……あぁ、何か分からない事とかあったか?」

「いや、完全にプライベートなことなんだけど……今晩、空いてたりしないかな?」

「あぁ、今晩の用事か……えーっと……」

正直に言うと、平日夜に予定なんか無い。仕事が終わったら、家に帰って飯を食って、ネットをだらだら眺めながら寝るだけだ。
けれども、こんな美麗な後輩に予定を聞かれる……なんていう、夢かと思う事態に直面して、考える時間が欲しい。
いくらなんでも急すぎる。そっちは軽い誘いなのかもしれないが、俺にとっては

「あぁ、別に今日じゃなくも大丈夫で、明日でも明後日でも、何なら休日でもいいんだけど……とにかく、プライベートで空いてる時間は無いかな?」

そんな意味ない逡巡をしていると、彼女が矢継ぎ早に言葉を続けてくる。
こうも虱潰しに聞かれてしまっては、心の準備も出来ていないが、喉奥から勝手に言葉が

「いやっ」

軽くしゃくり上げるように

「今日は、空いてるな」

出た。答えられた。
その事実だけで、かぁっと頭が沸き立ち始める。

「それならよかった」

「実はボク、色々と遊ぶのが趣味で、最近特にハマってるのがビリヤードなんだけど、引っ越してきたばかりで相手がなかなか見つからなくて……」

「だから、先輩さんがよければ、今夜はビリヤードに付き合って欲しいんだけど……どう、かな?」

首を軽く傾げ、柔和な笑みを浮かべながら聞いてくる。声色は平然としていて、態度はいつも通り自信に満ち溢れているように見えるが……ほんの少し下がった眉から微かな不安が見て取れる。
それに気づいてしまった。

あぁ、もしかして、断られるとでも不安に思っているのだろうか。そんな訳ないのに。とても愛おしい思えてしまう。
いや、まさか……この不安げな表情すらも手のひらの上?いやでも、それでも、心の底から嬉しく思えてしまう。そんなに誘いたいと思われてるなんて。

自然と口角が吊り上がるのを感じる。変な表情になっていないか心配だ。

「まあ、やったこと無いけど、それでも良ければ」

「……全然大丈夫だよ!ボクが手取り足取り教えてあげるから、今日はよろしくね!」

こんな言葉だけで満面の笑顔を咲かせてきて、ほんの少しだけソワソワし始めるのを見てしまうと、ホントに勘違いしそうでとても困る。
そんな想いに心を悩ませつつ、少しぬるくなった紅茶をゆっくり飲み干した。
24/02/03 00:03更新 / よね、
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