チャプター1
「気絶……するな……気絶するなよ……」
自身の身体を包む青白い光と、その光とは交わる事のない暗闇が織り交ぜられた空間を睨みながら、羽倉は譫言のように自身に言い聞かせる言葉を呟いていた。
羽倉が今いる空間は転送魔法によって移動する際に通る、いわば時空の隙間だ。
通過する時間はわずか数秒だが、耐えがたい時間ほど体感では長く感じられるのは、人から魔物へ変じた後も変わりない。
やがて暗闇の中、ぽっかりと明るい点が視界に写り、それが見る間に近づいてくる。羽倉は軋む体を動かして体勢を整え、自身の身体を包む青白い光と同じ色の円の中へ足先から飛び込んだ。
光を抜けてすぐ、見慣れた部屋の風景が視界に映る。
どうやら転送は成功したらしいと安堵したのも束の間、
グシャ!!
「ん?!」
着地した場所から伝わる感触と部屋の風景に違和感を覚えた。
床であるはずの足元からは妙な弾力と硬さ、何かを踏み潰したらしい嫌な音が響き、視界にしても、天井にあるはずの照明が右に、磨き上げられた床が左に見えている。
(ああ……)
疲れ切った思考回路が事態を把握したのは、無情にも万有引力が発揮された後だった。
羽倉の体は、空間にとっての下へ向かって引っ張られ、左半身が硬質な床に強かに打ち付けられる。
その上、一拍遅れて羽倉が着地した際の衝撃で本棚に満載されていた分厚い医学書の群れが降り注いできた。
硬く、冷たく、痛い。
羽倉はその感触で、今の自分が何も身に付けていない、裸の状態であることを思い出した。
リルアードとの戦闘と転送魔法とで魔力を使い果たし、具現化していた服とマントは消失している。術が解ければ元通りになるはずの白衣も、黒焦げになったときに破り捨ててしまった。
「あっ、う、おぉ……」
購入すると高価な医学書は、その価値を証明するかのように重い。
その重さ故に鈍器と化した本の一撃はなかなかの威力で、羽倉は短く地味な悲鳴を漏らす。
魔力はおろか、もはや叫ぶ体力も気力も残ってはいない。
元来、リッチである羽倉は豊富な魔力を備え、それによって充実した体力、気力を維持できる。
しかし、先ほどの戦闘で使用した、教団の新兵装に対抗するために開発した魔術は未だ研究途上のものだ。魔物の体内に取り込んだ男性の精を、魔物自身の魔力に侵食されないよう特殊な結界で包み、かつ、戦う相手や物質に影響を与える瞬間にのみ結界を解除して、術としての効果を発現させる。一つの効果を得るために何重もの術を同時発動する必要があり、言ってしまえば非常に燃費が悪い。その上、魔力濃度が低い現世ばかりに身を置いる羽倉は魔力の回復も遅くなる。いかにリッチといえど、魔力が有限である以上は枯渇することは必然といえた。
通常は床に着地するはずの出口が歪んだのも、魔力の出力が不安定だったからだろう。
(まぁ、突っ込んだのが窓でなかっただけ良しとしよう……)
羽倉は体にのしかかる医学書を床に放りながらよろよろと立ち上がると、備え付けの椅子に勢いよく座り込み、首を後ろに倒して深い息を吐いた。
「はぁ〜……」
その挙動と呼吸の勢いで豊かな乳房がゆさゆさ揺れるのが、今は些か鬱陶しい。
文字通り一息ついた後、顔を上向けたまま右手を伸ばしてデスクの一番上の引き出しを開けた。
半ば祈るような気持ちで首を下に向け、その中を確かめる。
「良し……」
安堵した羽倉の視線の先、引き出しの中には先ほど脱出した研究施設で最初に見つけたDVD3枚のうちの1枚が収まっていた。
転送の軸がブレれば破損する可能性もあると踏んで、少ない魔力でも最大限度の転送精度を保てるよう1枚だけを転送した。
(即座に転送したのは正解だったな)
現に施設のあった教会を出て直ぐにメアリとの戦闘に突入し、予想以上の消耗を強いられ、事が終わった今では回収するつもりだった情報源の全てが爆発で失われてしまったはずだ。
唯一、手に入ったDVD。
銘打たれているとおりの内容がこのディスクに収められているとすれば、痛い目を見た分の対価として十分な収穫と言える。
羽倉にとっては何よりも優先する情報。
それは同時に、今すぐ逃げ出したいほど見たくない情報でもあった。
「……」
それでも。
羽倉は体調が回復するのを待つ間も惜しんで、ディスクをケースから取り出し、起動したパソコンに差し込んで再生する。
読み込み中のアナウンスが表示された画面を、椅子のリクライニングを起こして正面から睨む。
数秒のノイズ音と砂嵐が映った後、<それ>は始まった。
「記録開始いいか?」
「はい!」
落ち着いた調子の、妙齢の女性の問いかけが第一声。
次いで若い女性のやや上擦った声が響いた。
アスファルトに向けられていたカメラの向きがスライドし、調子を確かめるかのようにぐるりと周囲を映した。
その中には、現世にある住宅街らしき風景と4名の女性の姿が確認できる。
撮影をしている人物を含めて計5名だろうか。
警察の制服に身を包んだ彼女らはいずれも端正な顔立ちをしているが、その表情は厳しく眼光も鋭い。
「隊長。魔力数値の高さから見て、やはり現場はここのようです」
ただならぬ緊張感が漂う中で、手元の計器を覗いていた一人が報告をする。
隊長と呼ばれた女性は報告に頷いたものの、目線は別の方向を見つめたままだ。
計器を使うのは形式に則った捜査を行うためであり、そんなものに頼る必要はないといのは、その場にいる誰にも共通していた。
自らが魔物であり、ましてや普段から鍛錬を積んでいる彼女らにとっては尚更だ。
周囲には、異様なまでの濃度をもった魔力が充満している。
発生源は、先ほどから隊長が視線を向けている一軒の住宅。
未だ中に入ってすらいないのに、今までに感じたことのないほどの違和感が周囲を覆っている。
「……何か、気持ち悪い」
おそらくは撮影をしている女性の声だろう、震える声を聞いた隊長がカメラの方向に叱咤するような目線を送った。
とはいえ、隊長を含めた全員が感じていた違和感を言葉にするならまさにそれだ。
公にこそなっていないが、現代社会にも多数の魔物が暮らしている。
時に欲望に従って法を犯す魔物を取り締まるという彼女らの仕事柄、高い魔力や尋常ではない力を持つ魔物と対峙することは珍しくない。
だが、現世の魔物も例にもれず現魔王の影響を受けているため、彼女らの起こす事件は色恋沙汰が主であり、現場に満ちる魔力は言ってしまえばピンク一色だ。
この場に満ちている、肌に纏わりつくほどの哀しみ、敵意、怒りなどに類する感情が魔力に宿ることはまずない。
「本部に確認しましたが、当地に関する通報は一件もないそうです」
「やはりか」
そう、彼女らが現場に駆け付けたのは一般人からの通報を受けての事ではない。
事の発端は、国際行事の開催を間近に控え、テロ防止用の一環として開発された魔力監視装置の試験運用が内密に行われた事にある。
彼女らは当日の警戒訓練のため、その場に同席していた。
国民の血税を潤沢に注ぎ込んだだけあって、魔物一体分の魔力すら感知して位置を特定するほどの精密さを誇る装置だが、プライベート保護の観点から反発を受けることは必至だろうと、今現在は極一部の者にしか存在を知らされていない。
その初試験を開始して間もなく、けたたましい警告音とともに画面へ表示された赤い点は、一般住宅街のど真ん中に規格外の魔力発生が起きていることを示しており、彼女たちの訓練は実戦へと切り替わった。
しかし問題は、これほどの異様な魔力が溢れ出しているにも関わらず、駆け付けた彼女ら同様に魔力を体感できるはずの周辺住民(魔物娘やその伴侶)からの通報は一報もないことだ。
加えて
(静かすぎる、まるで深夜だ)
時刻は20:00を過ぎた程度だというのに、周囲からは生活音の一つ聞こえず、車すら走っていない。
まさかに本当のテロがあった訳でもないだろうが、もはや何もなかったでは済まされない段階だ。
が、周辺の調査は応援部隊に任せるとしてまずは……
「突入するぞ、ヒトビンで終わらせる」
隊長の声に応えて隊員の一人が黒色の瓶を取り出し、住宅の玄関先に中の液体を零す。瓶と同じく黒い液は水たまりになるより早くぞろぞろと蠢き出し、数秒で魔法陣を形成すると紫色に発光し始めた。
瓶を開封し、魔力を込めた者の認識によって指定した範囲に結界を形成する簡易的な儀式用具。
現世では公になっていない存在、魔物の関わる犯罪現場に結界は欠かせないものだが、術を使える隊員は限られている。
この道具は一向に追い付かない結界形成人員の育成や配備にかかるコスト削減を目的に開発されたものだ。
正式名称は「簡易結界形成溶液」だが、効果時間が概ね30分であることから、いつからか事案解決にかける時間の目安として「ヒトビン」とか「フタビン」などと呼ばれている。
術の発動を確認してから玄関の脇に隊長が背をつけ、隊員の一人に目配せをする。頷いた隊員が蹴りを放つと、凄まじい勢いでドアがはじけ飛んだ。
「警察だ!!」
間髪入れず懐中電灯付きの射出式スタンガンを構えた隊長が住宅内に突入、ドアを破壊した隊員がその背後に付き、後に続く二人も互いの背後を守りながら左右を警戒する。
やや間隔を開けてカメラを構えた隊員も後に続き、住宅内部の様子が円形の明かりに照らし出された。
正面に廊下があり、その中ほどに2階に続く階段。
その奥は暗くてよく見えない。
手前には左右に戸があり、左がリビング、右は浴室とトイレのようだ。
「クリア」
「クリア」
覗いたのはわずか数秒だが、二人は躊躇なく安全を宣言する。
左右を警戒する隊員は二人ともワーキャットと呼ばれる魔物娘だ。夜目が効き、聴覚も嗅覚も人の感覚の比ではない。
いつの間にか二人の隊員の頭頂部には人には無い大きくふさふさとした耳が現れ、せわしなく周囲の音や気配を探っていた。
隊員たち以外に音を発するのは時計の針くらいのもので、今なら建物内に潜む者の息遣いすら聞き逃さない自信がある。
「上へ行くぞ」
隊長は姿勢を低くして階段を昇っていく。
外にまで漏れ出ていた異様な魔力は、明らかに2階へ続く階段を伝って流れてきている。
隊長の肩越しに援護する隊員、その背後を撮影担当の隊員を挟む形で三人が続き、階段を昇り切った隊長と背後の隊員が飛び出すように構えて2階の廊下を照らす。
周囲を警戒していた隊員が壁にスイッチを見つけて押すと、照明が付き廊下の状況が明らかとなった。
「……う」
誰かが、声ともつかない呻きを漏らした。
天井も、壁も、床も。
ありとあらゆる方向が抉られたような傷で埋め尽くされ、壁や床の木材がめり込んでいる箇所も十か所以上ある。大男が武器を振り回してもこうはならないだろう。
どうみても人間業ではない。
「子どもがいるぞ!」
左手にある二つの部屋の内、奥の部屋の扉は粉砕され、その破片の中心にあろうことか幼い子どもが倒れ込んでいた。
隊長は叫ぶと同時に、廊下に横たわる小さな人影に近づく。
流れるような所作でスタンガンをしまうと子どもの首筋に指先を当て、耳を近づけた。
その周囲を後続の隊員が素早く警戒し援護する。
「…息がある。転送用意!」
その指示を受けて、先ほど端末を操作していた隊員が今度は赤色の瓶を取り出し中身を零すと、救護施設に通ずる結界を形成し始めた。
隊長は迂闊に子どもを動かさないよう、肩を叩いて声をかけているが意識はないようだ。
その間、室内の調査を始めた二人の隊員の背後をカメラが追う。
階段を昇り切ってすぐ左手の部屋は扉が開け放たれているが、目立った損傷は見られない。雰囲気や掛かっている制服から見て女子高生の部屋だろうが、部屋の主らしき人影はない。
続く2つ目の部屋は男の子向けの内装となっている。
おそらく廊下に倒れている子ども、少年の部屋だろう。
「これか」
そして、充満している異様な魔力は、部屋の入り口近くから廊下の突き当りに向かって点々と続いている血痕らしきものから発せられていた。
状況からして本体は逃走したようだが、残留した魔力だけでこれほどの濃度をもつ魔物は限られた上位の種族と言えるが、
(……得体が知れない)
調査していた隊員は内心で独り言ちる。
自身が魔物であるからこそ、こんな異様な魔力を備えた生物が同族だとは信じ難いと直感が告げていた。
「転送準備整いました」
報告した隊員の足元には精密な魔法陣が浮き上がり、赤い光を放っている。
「よし、すぐに始めろ。転送終了後は応援と鑑識の到着まで現状を維持する」
「了解!」
指示に従い、それぞれが役割について移動する中、隊長はうつ伏せに倒れていた子どもを慎重に抱え上げて魔方陣の中へ……
仰向けに横たえた。
「……!!」
画面を食い入るように見ていた羽倉は音もなく、息をのんだ。
解っていた事だ。
このDVDがいつ、どこの、映像を収めたものかは解らなくとも、
<誰が>
映っているのか。
それだけは解っていた事だ。
それでも。
画面に映し出される、真っ白なライトに照らし出された、青白く、顔の所どころに血がこびりついた少年の顔を見た羽倉は、
「……史郎……」
画面の中で横たわる少年の名を、絞り出すような声で呼んだ。
その声と同時に画面は再び砂嵐に覆われた。
羽倉は相変わらずパソコンを睨みながらも体の調子を確かめるように椅子に座り直すと、絶え間ない波の音のような雑音中にリクライニングチェアのきしむ音が混じり、部屋の中に響く。
ふと、デスクにある時計に目を向ければそろそろ面会時間が終わろうかという時刻だった。
(今日はもう史郎には会えないか……)
胸中での呟きと共に湧きあがった暗い感情は寂しさから来るものなのか、それとも今の映像を見た後に史郎と顔を合せなくて済む安堵から来るものか、羽倉自身にもわらなかった。
自身の身体を包む青白い光と、その光とは交わる事のない暗闇が織り交ぜられた空間を睨みながら、羽倉は譫言のように自身に言い聞かせる言葉を呟いていた。
羽倉が今いる空間は転送魔法によって移動する際に通る、いわば時空の隙間だ。
通過する時間はわずか数秒だが、耐えがたい時間ほど体感では長く感じられるのは、人から魔物へ変じた後も変わりない。
やがて暗闇の中、ぽっかりと明るい点が視界に写り、それが見る間に近づいてくる。羽倉は軋む体を動かして体勢を整え、自身の身体を包む青白い光と同じ色の円の中へ足先から飛び込んだ。
光を抜けてすぐ、見慣れた部屋の風景が視界に映る。
どうやら転送は成功したらしいと安堵したのも束の間、
グシャ!!
「ん?!」
着地した場所から伝わる感触と部屋の風景に違和感を覚えた。
床であるはずの足元からは妙な弾力と硬さ、何かを踏み潰したらしい嫌な音が響き、視界にしても、天井にあるはずの照明が右に、磨き上げられた床が左に見えている。
(ああ……)
疲れ切った思考回路が事態を把握したのは、無情にも万有引力が発揮された後だった。
羽倉の体は、空間にとっての下へ向かって引っ張られ、左半身が硬質な床に強かに打ち付けられる。
その上、一拍遅れて羽倉が着地した際の衝撃で本棚に満載されていた分厚い医学書の群れが降り注いできた。
硬く、冷たく、痛い。
羽倉はその感触で、今の自分が何も身に付けていない、裸の状態であることを思い出した。
リルアードとの戦闘と転送魔法とで魔力を使い果たし、具現化していた服とマントは消失している。術が解ければ元通りになるはずの白衣も、黒焦げになったときに破り捨ててしまった。
「あっ、う、おぉ……」
購入すると高価な医学書は、その価値を証明するかのように重い。
その重さ故に鈍器と化した本の一撃はなかなかの威力で、羽倉は短く地味な悲鳴を漏らす。
魔力はおろか、もはや叫ぶ体力も気力も残ってはいない。
元来、リッチである羽倉は豊富な魔力を備え、それによって充実した体力、気力を維持できる。
しかし、先ほどの戦闘で使用した、教団の新兵装に対抗するために開発した魔術は未だ研究途上のものだ。魔物の体内に取り込んだ男性の精を、魔物自身の魔力に侵食されないよう特殊な結界で包み、かつ、戦う相手や物質に影響を与える瞬間にのみ結界を解除して、術としての効果を発現させる。一つの効果を得るために何重もの術を同時発動する必要があり、言ってしまえば非常に燃費が悪い。その上、魔力濃度が低い現世ばかりに身を置いる羽倉は魔力の回復も遅くなる。いかにリッチといえど、魔力が有限である以上は枯渇することは必然といえた。
通常は床に着地するはずの出口が歪んだのも、魔力の出力が不安定だったからだろう。
(まぁ、突っ込んだのが窓でなかっただけ良しとしよう……)
羽倉は体にのしかかる医学書を床に放りながらよろよろと立ち上がると、備え付けの椅子に勢いよく座り込み、首を後ろに倒して深い息を吐いた。
「はぁ〜……」
その挙動と呼吸の勢いで豊かな乳房がゆさゆさ揺れるのが、今は些か鬱陶しい。
文字通り一息ついた後、顔を上向けたまま右手を伸ばしてデスクの一番上の引き出しを開けた。
半ば祈るような気持ちで首を下に向け、その中を確かめる。
「良し……」
安堵した羽倉の視線の先、引き出しの中には先ほど脱出した研究施設で最初に見つけたDVD3枚のうちの1枚が収まっていた。
転送の軸がブレれば破損する可能性もあると踏んで、少ない魔力でも最大限度の転送精度を保てるよう1枚だけを転送した。
(即座に転送したのは正解だったな)
現に施設のあった教会を出て直ぐにメアリとの戦闘に突入し、予想以上の消耗を強いられ、事が終わった今では回収するつもりだった情報源の全てが爆発で失われてしまったはずだ。
唯一、手に入ったDVD。
銘打たれているとおりの内容がこのディスクに収められているとすれば、痛い目を見た分の対価として十分な収穫と言える。
羽倉にとっては何よりも優先する情報。
それは同時に、今すぐ逃げ出したいほど見たくない情報でもあった。
「……」
それでも。
羽倉は体調が回復するのを待つ間も惜しんで、ディスクをケースから取り出し、起動したパソコンに差し込んで再生する。
読み込み中のアナウンスが表示された画面を、椅子のリクライニングを起こして正面から睨む。
数秒のノイズ音と砂嵐が映った後、<それ>は始まった。
「記録開始いいか?」
「はい!」
落ち着いた調子の、妙齢の女性の問いかけが第一声。
次いで若い女性のやや上擦った声が響いた。
アスファルトに向けられていたカメラの向きがスライドし、調子を確かめるかのようにぐるりと周囲を映した。
その中には、現世にある住宅街らしき風景と4名の女性の姿が確認できる。
撮影をしている人物を含めて計5名だろうか。
警察の制服に身を包んだ彼女らはいずれも端正な顔立ちをしているが、その表情は厳しく眼光も鋭い。
「隊長。魔力数値の高さから見て、やはり現場はここのようです」
ただならぬ緊張感が漂う中で、手元の計器を覗いていた一人が報告をする。
隊長と呼ばれた女性は報告に頷いたものの、目線は別の方向を見つめたままだ。
計器を使うのは形式に則った捜査を行うためであり、そんなものに頼る必要はないといのは、その場にいる誰にも共通していた。
自らが魔物であり、ましてや普段から鍛錬を積んでいる彼女らにとっては尚更だ。
周囲には、異様なまでの濃度をもった魔力が充満している。
発生源は、先ほどから隊長が視線を向けている一軒の住宅。
未だ中に入ってすらいないのに、今までに感じたことのないほどの違和感が周囲を覆っている。
「……何か、気持ち悪い」
おそらくは撮影をしている女性の声だろう、震える声を聞いた隊長がカメラの方向に叱咤するような目線を送った。
とはいえ、隊長を含めた全員が感じていた違和感を言葉にするならまさにそれだ。
公にこそなっていないが、現代社会にも多数の魔物が暮らしている。
時に欲望に従って法を犯す魔物を取り締まるという彼女らの仕事柄、高い魔力や尋常ではない力を持つ魔物と対峙することは珍しくない。
だが、現世の魔物も例にもれず現魔王の影響を受けているため、彼女らの起こす事件は色恋沙汰が主であり、現場に満ちる魔力は言ってしまえばピンク一色だ。
この場に満ちている、肌に纏わりつくほどの哀しみ、敵意、怒りなどに類する感情が魔力に宿ることはまずない。
「本部に確認しましたが、当地に関する通報は一件もないそうです」
「やはりか」
そう、彼女らが現場に駆け付けたのは一般人からの通報を受けての事ではない。
事の発端は、国際行事の開催を間近に控え、テロ防止用の一環として開発された魔力監視装置の試験運用が内密に行われた事にある。
彼女らは当日の警戒訓練のため、その場に同席していた。
国民の血税を潤沢に注ぎ込んだだけあって、魔物一体分の魔力すら感知して位置を特定するほどの精密さを誇る装置だが、プライベート保護の観点から反発を受けることは必至だろうと、今現在は極一部の者にしか存在を知らされていない。
その初試験を開始して間もなく、けたたましい警告音とともに画面へ表示された赤い点は、一般住宅街のど真ん中に規格外の魔力発生が起きていることを示しており、彼女たちの訓練は実戦へと切り替わった。
しかし問題は、これほどの異様な魔力が溢れ出しているにも関わらず、駆け付けた彼女ら同様に魔力を体感できるはずの周辺住民(魔物娘やその伴侶)からの通報は一報もないことだ。
加えて
(静かすぎる、まるで深夜だ)
時刻は20:00を過ぎた程度だというのに、周囲からは生活音の一つ聞こえず、車すら走っていない。
まさかに本当のテロがあった訳でもないだろうが、もはや何もなかったでは済まされない段階だ。
が、周辺の調査は応援部隊に任せるとしてまずは……
「突入するぞ、ヒトビンで終わらせる」
隊長の声に応えて隊員の一人が黒色の瓶を取り出し、住宅の玄関先に中の液体を零す。瓶と同じく黒い液は水たまりになるより早くぞろぞろと蠢き出し、数秒で魔法陣を形成すると紫色に発光し始めた。
瓶を開封し、魔力を込めた者の認識によって指定した範囲に結界を形成する簡易的な儀式用具。
現世では公になっていない存在、魔物の関わる犯罪現場に結界は欠かせないものだが、術を使える隊員は限られている。
この道具は一向に追い付かない結界形成人員の育成や配備にかかるコスト削減を目的に開発されたものだ。
正式名称は「簡易結界形成溶液」だが、効果時間が概ね30分であることから、いつからか事案解決にかける時間の目安として「ヒトビン」とか「フタビン」などと呼ばれている。
術の発動を確認してから玄関の脇に隊長が背をつけ、隊員の一人に目配せをする。頷いた隊員が蹴りを放つと、凄まじい勢いでドアがはじけ飛んだ。
「警察だ!!」
間髪入れず懐中電灯付きの射出式スタンガンを構えた隊長が住宅内に突入、ドアを破壊した隊員がその背後に付き、後に続く二人も互いの背後を守りながら左右を警戒する。
やや間隔を開けてカメラを構えた隊員も後に続き、住宅内部の様子が円形の明かりに照らし出された。
正面に廊下があり、その中ほどに2階に続く階段。
その奥は暗くてよく見えない。
手前には左右に戸があり、左がリビング、右は浴室とトイレのようだ。
「クリア」
「クリア」
覗いたのはわずか数秒だが、二人は躊躇なく安全を宣言する。
左右を警戒する隊員は二人ともワーキャットと呼ばれる魔物娘だ。夜目が効き、聴覚も嗅覚も人の感覚の比ではない。
いつの間にか二人の隊員の頭頂部には人には無い大きくふさふさとした耳が現れ、せわしなく周囲の音や気配を探っていた。
隊員たち以外に音を発するのは時計の針くらいのもので、今なら建物内に潜む者の息遣いすら聞き逃さない自信がある。
「上へ行くぞ」
隊長は姿勢を低くして階段を昇っていく。
外にまで漏れ出ていた異様な魔力は、明らかに2階へ続く階段を伝って流れてきている。
隊長の肩越しに援護する隊員、その背後を撮影担当の隊員を挟む形で三人が続き、階段を昇り切った隊長と背後の隊員が飛び出すように構えて2階の廊下を照らす。
周囲を警戒していた隊員が壁にスイッチを見つけて押すと、照明が付き廊下の状況が明らかとなった。
「……う」
誰かが、声ともつかない呻きを漏らした。
天井も、壁も、床も。
ありとあらゆる方向が抉られたような傷で埋め尽くされ、壁や床の木材がめり込んでいる箇所も十か所以上ある。大男が武器を振り回してもこうはならないだろう。
どうみても人間業ではない。
「子どもがいるぞ!」
左手にある二つの部屋の内、奥の部屋の扉は粉砕され、その破片の中心にあろうことか幼い子どもが倒れ込んでいた。
隊長は叫ぶと同時に、廊下に横たわる小さな人影に近づく。
流れるような所作でスタンガンをしまうと子どもの首筋に指先を当て、耳を近づけた。
その周囲を後続の隊員が素早く警戒し援護する。
「…息がある。転送用意!」
その指示を受けて、先ほど端末を操作していた隊員が今度は赤色の瓶を取り出し中身を零すと、救護施設に通ずる結界を形成し始めた。
隊長は迂闊に子どもを動かさないよう、肩を叩いて声をかけているが意識はないようだ。
その間、室内の調査を始めた二人の隊員の背後をカメラが追う。
階段を昇り切ってすぐ左手の部屋は扉が開け放たれているが、目立った損傷は見られない。雰囲気や掛かっている制服から見て女子高生の部屋だろうが、部屋の主らしき人影はない。
続く2つ目の部屋は男の子向けの内装となっている。
おそらく廊下に倒れている子ども、少年の部屋だろう。
「これか」
そして、充満している異様な魔力は、部屋の入り口近くから廊下の突き当りに向かって点々と続いている血痕らしきものから発せられていた。
状況からして本体は逃走したようだが、残留した魔力だけでこれほどの濃度をもつ魔物は限られた上位の種族と言えるが、
(……得体が知れない)
調査していた隊員は内心で独り言ちる。
自身が魔物であるからこそ、こんな異様な魔力を備えた生物が同族だとは信じ難いと直感が告げていた。
「転送準備整いました」
報告した隊員の足元には精密な魔法陣が浮き上がり、赤い光を放っている。
「よし、すぐに始めろ。転送終了後は応援と鑑識の到着まで現状を維持する」
「了解!」
指示に従い、それぞれが役割について移動する中、隊長はうつ伏せに倒れていた子どもを慎重に抱え上げて魔方陣の中へ……
仰向けに横たえた。
「……!!」
画面を食い入るように見ていた羽倉は音もなく、息をのんだ。
解っていた事だ。
このDVDがいつ、どこの、映像を収めたものかは解らなくとも、
<誰が>
映っているのか。
それだけは解っていた事だ。
それでも。
画面に映し出される、真っ白なライトに照らし出された、青白く、顔の所どころに血がこびりついた少年の顔を見た羽倉は、
「……史郎……」
画面の中で横たわる少年の名を、絞り出すような声で呼んだ。
その声と同時に画面は再び砂嵐に覆われた。
羽倉は相変わらずパソコンを睨みながらも体の調子を確かめるように椅子に座り直すと、絶え間ない波の音のような雑音中にリクライニングチェアのきしむ音が混じり、部屋の中に響く。
ふと、デスクにある時計に目を向ければそろそろ面会時間が終わろうかという時刻だった。
(今日はもう史郎には会えないか……)
胸中での呟きと共に湧きあがった暗い感情は寂しさから来るものなのか、それとも今の映像を見た後に史郎と顔を合せなくて済む安堵から来るものか、羽倉自身にもわらなかった。
18/05/28 13:46更新 / 水底
戻る
次へ