魔術戦
「わあああああああぁぁ!」
「5…4…」
メアリの絶叫を間近で聞きながら羽倉は、逆さまの状態で淡々と数字を読み上げている。
「ぁぁ……」
「3…2…」
絶叫が急激にしぼんで止んだ。どうやら気絶したらしいがそれを見やる余裕はない。墜落へのカウントダウンを呟きながら急激に近づいてくる地面を見据える。
「1!」
残り1秒のところで羽倉はメアリの鎧を掴み、その重みを利用して体を入れ替えた。背負い投げの要領で見事な半回転を決めた羽倉は両足で蹴りを放つように着地する。
「うぐっ!!」
ベギ!ドシャ!
降り立つと同時に枯れ木を折ったような音が響き、羽倉が呻く。
膝をついた羽倉の両足は着地の衝撃で、あらぬ方向に曲がり折れていた。
魔術を用いて痛みは制御されているが感覚自体を遮断しているわけではないため、何とも言えない嫌な感触が全身をめぐり精神を襲う。
魔力が枯渇した状態で自身と、痩身ながらも鎧を纏った女騎士の重みと衝撃を受けたのだから当然と言えよう。
一拍置いて羽倉の腕の中から落下したメアリは、案の定気絶して目をまわしてはいたが外傷は無いようだ。
「はぁ……はぁ〜……ふふっ」
メアリの状態を観察しながら呼吸を整えていた羽倉の口から、小さな笑いが漏れた。
先ほどまでは新米ながらも気強い女騎士であった彼女と、魔物であり敵である羽倉の横でのびている彼女とが同一人物であることが、なにやら可笑しく思えたからだ。
「こうして見れば世界は違えど、あどけない普通の少女か」
脂汗でべったりと頬に張り付いた栗毛を払いつつ、羽倉が白衣の胸元に右手を差し込んだ時、
ボオンッ!!
何もない空間から生まれ出た火球が羽倉を直撃し、炎が瞬く間に広がって全身を包み込んだ。
「はっ!?…えっ!」
爆発音と熱風でメアリが目覚めた時には、すでに火だるまと化した羽倉が地面に倒れ伏し、周囲に細かい火花を散らしていた。
未だに状況を把握できないでいるメアリに低い男の声がかかる。
「ご無事ですかな?メアリ殿」
声がした方向へ目を向けると、景色から滲み出るように教団魔導士が姿を現した。気遣う言葉をかけてきたものの、その口調はあからさまな嘲笑を含んでいる。
「あなたは…リルアード様」
リルアードと呼ばれた男は、メアリの暮らす国にある教団に属する高位魔術師の一人だ。メアリ自身も式典の前方に立っているのを見かけたことがある程度の人物だったが、現世で魔物娘の回収中に史郎と羽倉が出会った魔導師がこの男だった。羽倉が情報を聞き出した後に<こちら>に送り届けた際は散々な有様で帰還していったが、今は教団の高位魔術師にのみ着用が許される魔導着をキッチリと身に付け、磨き上げられた靴を鳴らしながら歩く様子は自信に満ちている。
「新兵装の試験と廃棄施設の焼却が済むまで結界を維持せよ……というのが今回の私の役目でしたが、まさかあの時の魔物が現れて騎士団期待の新人が敗北するとは思いもよりませんでしたよ」
束の間、気を失っていたメアリは彼が救援に来たのかと思ったが、話す内容と表情からしてメアリの事など既に眼中にないらしい。
誰にともなく口上を述べつつリルアードは二人に歩み寄ると、未だ炎に包まれている羽倉に向かって杖を差し向けた。
以前、現世で羽倉に破壊された杖の代わりだろう、先端にある黒い魔宝石を鋭い四本の爪が鷲掴みにするように固定した意匠の杖は、聖職者が持つと些か悪趣味に映る代物だ。
「お待ち下さい!」
羽倉に追撃を加えようとするリルアードへ向けてメアリが叫ぶように呼び掛ける。
リルアードは杖も体勢もそのままに、目線だけをメアリへ移した。
「恐れながらその魔物は人間に危害を加える類の者ではない様です……これ以上の攻撃は無用かと存じます」
鎧に宿る魔物化の能力を行使した副作用が出ているのだろう。震える身体を無理やり起こして跪き、頭を垂れる。反魔物都市の常識、教団の矜持の中で育った彼女にとって魔物は凶悪で醜悪な存在でしかなかったが、初めて直に見、言葉と刃を交えた魔物はまるで違うものだった。
人の中にも善悪があるように魔物の中にも和解できる存在がいるならば、新たな関係を結べるかもしれないと、若い彼女は素直にそう思ったのだ。
「……なるほど」
メアリの進言を聞いたリルアードは思案の後に、いかにも神妙な面持ちで頷くと掲げていた杖を下げた。
「よくわかりました」
緩慢な動作でメアリに向き直った彼は、
「ありが…ぐっ!」
了承の言葉に安堵し礼を言おうと顔を上げたメアリの頬を、振り上げた杖の先端で容赦なく強打した。
口から血を流し地面に倒れたメアリをリルアードは酷薄な表情で見下ろし、杖を再び振り上げ、躊躇なく振り下ろす。
「こともあろうに」
ゴツッ!
「神に仕えし者が」
ガッ!
「容易く魔物に」
ガゴッ
「取り込まれようとは」
ゴンッ!
リルアードの顔には何の感情も浮かんでいない。
まさに無造作、といった様子でメアリの頭部に向かって幾度も杖を叩きつけていく。
「これだから筋肉重視の騎士団は困るのです」
頭皮が裂け髪を赤黒く染めたメアリの眼前に、今度は魔力を充填した杖を突き付けた。
「魔物と化した騎士に安らかな最期を」
殴打した際に付着した彼女の血が魔宝石から発せられた熱で見る間に蒸発していく。
「リル…ア…さ…ま…」
殴打されたせいで視界の焦点が定まらず、強烈な頭痛と吐き気が襲ってくる。
それでも目線を動かし、熱を帯びた杖ごしにリルアードを見たメアリは恐怖より先に異変を感じていた。
いくら立場が上とは言え、独自の判断で管轄権のない相手を私刑に処することなど許されるはずもないが、リルアードには一瞬の躊躇すら見られない。
その無感動さが彼が正気でないことを物語っている。
しかし確信を持ったところで最早、彼女にはできることはなかった。
杖から発せられる熱が臨界に達し、杖越しに見える彼の顔が奇妙な具合に歪んでいく。
ドシュッ!!
「ッ!!」
だが濃縮された炎が杖から放たれる寸前、リルアードは視界の端に動くものを捉えて身を躱した。
彼の眼前を氷柱が掠め、数メートル先の木に深々と突き刺さる。
一方、杖から放たれた火球はメアリの頭上を過ぎて空間を飛び、教会の門扉にぶつかって炎上させた。
リルアードは大きく退き、攻撃が放たれた方へ向き直る。
「バケモノめ……」
「……それはこちらの台詞だ」
リルアードが忌々しげに見やり悪態をついた相手、羽倉は、静かだが明らかな怒気を孕んだ声で応じた。
衣服は黒焦げになっているが、いつの間に治したらしい両足でしっかりと立ち上がり、本来なら火傷どころではない熱傷を負っただろう皮膚にも異常は見られない。
リルアードは杖に、羽倉は手に、それぞれ魔力を集めて牽制し合いながら、羽倉はほとんど炭化してしまった白衣と服を無造作に破り捨てた。
その下から現れたのは素肌ではなく、暗色の布。
身体を覆っていた布はまるで意思を持っているかのように蠢き、ゆらゆらとはためきながら徐々に広がっていく。
夕闇を切り取って織り成したかのような布はマントを形作り、最後に紫色の石をあしらったブローチが空間から現れて襟元を留める。
いかにも魔術師らしい様相となった羽倉は紫の瞳でリルアードを見据えた。
「どうした、殴れるのは無防備な女性だけか?」
濃密な魔力を放ち、怒りを込めた挑発をしながら一歩を踏み出す。
「……」
リルアードは無言のまま一歩を下がった。
(近づかせてはくれないか)
羽倉の感じている怒りは本物だが冷静さを失ったわけではない。
おそらくリルアードが手にしている杖にもメアリが用いていた剣と同様、魔力を無効化する性能があると見ていいだろう。
かといって接近戦を許してくれる気配もない。
何より、
(以前とは違う)
そう羽倉の直感が告げていた。
リルアードの気配や動作には隙が無く、挑発に関しても意に介した様子は見られない。
短期間の間にこうも変わるものかと思うが、現世で戦った時とは別人のように感じられる。
接近することを諦め、羽倉は一定の距離を保ったまま右手を持ち上げ、彼に向けて氷の塊を撃ち放つ。
胸部目がけて進んだ氷は予想通り杖の数十センチ手前で霧散し、周囲を薄い霧を生み出した。
(これなら?)
実験よろしく今度は狙いをずらして彼の頭部に氷を撃つ。それも素早く眼前に掲げられた杖の周囲に入ると、やはり霧と化して消滅していった。
「ふむ……」
一連の事象を見て何を思ったか、羽倉は一つ頷く。
「無駄なことを……ぬ?」
攻撃を無力化し笑みを浮かべたリルアードの目の前で、羽倉は左手をマントの中に差し込むと
(なんだ?……あれは)
先端に細長い針が付いた容器を取り出した。
リルアードにとって見慣れぬそれは現世で言うところの注射器だった。
「こうなっては致し方ない」
羽倉は無造作に針を右手に刺し、充填されている白濁した液体を自らの体内に流し込む。
途端、羽倉の身体から凄まじい魔力が溢れ出した。
噴出した高濃度の魔力は彼女の背後に集まって巨大な十字架を形作り、彼女の手元から不気味な装飾の施された分厚い魔導書が現れた。
「出し惜しみはしない」
その言葉に応えるかのように魔導書の頁が独りでに捲られ、背後の十字架に嵌め込まれた目が紫の光を放つ。
「っ!!」
ドン!!
ゴゥ!!
リルアードが手にした杖を地面に突き立てるのと、羽倉の背後から一陣の風が吹きつけるのは同時だった。
リルアードの全面にはすぐさま白色の結界が生み出され、遮られた風が唸りを上げて傍らを走り抜けていく。
「…?」
それだけだった。
強力な攻撃を予想していたが、風の圧力とて攻撃と呼ぶには程遠い。
それどころか羽倉の周囲に変化はなく、自身の身体にも何の異常も見られなかった。
リルアードが訝し気な表情を浮かべるのを他所に、羽倉は大きく開かれた魔導書に落していた視線をゆっくりと上げ、
「せんえいばくりょう」
奇異な言霊を奇妙な発音で唱えた。
声に応えるように魔導書から薄く青白い光が湧き出す。
相手を注視していたリルアードはようやく異常に気付いた。
ひとつは、音だ。
先ほどの言葉の意味こそ解せなかったが、耳によく届いた。
それもそのはず、周囲からは一切の音が失せている。
そしてもうひとつは足元の……
「うっ!!」
突如、リルアードの右足を何者かが掴んだ。
その冷たい感触に意図せず声が漏れる。
足元に向けた視線が捉えたのは、自身の影の中から伸びる真っ黒な手だった。
ひとつではない。
あるものは子どもの手のように小さく、あるものは成人男性を上回る大きさがあり、女性のように細い手もあった。
それらはいずれも黒く染められていて、まるで煙が立ち上るかのようにぞろぞろと現れてはリルアードの視界を埋め尽くしていく。
(……!!)
図らずも背筋が凍る光景だった。
これまでの直線的な攻撃に慣らされ、無意識に前方への防御に集中してしまっていたことが仇となる。
「ぬおぉ、触るな!」
今までとは性質も角度も違う攻撃に意表を突かれたリルアードは咄嗟に結界を解除して杖を振り回すが、その様子は冷静さを欠いている。
加えて、
(なぜだ、なぜ消えない…!?)
魔力無効化の効果範囲に入っているはずの影はおろか、杖自体に接触した影さえも消滅する気配がない。
杖を叩き付けられた手はぐにゃりと変形するのものの、蛇のように湾曲しながら掴みかかってくる。
「止せ!やめろ!」
闇雲に体をよじるだけでは全身を這い回る無数の手を振りほどくには至らず、ついには影のひとつに手首を締め上げられ杖を取り落としてしまう。
「…ぅぅ!……!!」
足を、腰を、肩を、首を、影で出来た手に絡めとられたリルアードは、ついには顔までも覆い尽されて黒い人型と化し、完全に沈黙した。
「成功か」
相手の動きを注視していた羽倉は溜め息と共に呟いた。
現世で読んだとある<ライトノベル>から構想を得て創作したこの術を羽倉は<千影縛霊>と名付けた。
隠密性を重視したこの術は、相手に気付かれぬよう発動と同時に周囲の気体や魔力の流れを乱しあるいは停滞させ、敵の足元から攻撃を仕掛けることで相手の注意や防御をすり抜けられる。
そして最大の特徴は、発動の原動力として魔力と同時に精を用いているところにあった。
教団は魔物との戦闘に長じようと、急速に魔力を無効化する技術を向上させてきている。
この術は魔力が通じない相手との戦闘を想定して生み出したものだ。
ただ、莫大な量の精を必要とする術は本来、魔物である羽倉には発動不可能なはずだった。
それを可能にしたのが、先ほど自身に注射した薬液。
主成分は濃縮した史郎の精液であり、千影縛霊は薬液から得た大量の精を体内で魔力と共に練り上げることで初めて、魔力を無効化する術に対抗できるほどの威力と特殊な効果を発揮できている。
(使いたくはなかったが……)
羽倉は内心で呻いた。
普段から体調の不安定な史郎から大量の精を奪う行為は羽倉の望むところではない。
とはいえ
「何があるかわかりませんから」
と、羽倉の身を案じてくれた史郎本人からの申し出とあっては薬液の開発を無下に断るわけにもいかなかった。
(史郎の願いを叶えると、そう誓った……確かにこうして役立ったわけだが……)
「私はそのために造られた<モノ>ですから」
その後に付け加えられた史郎の言葉と自嘲の笑い浮かべた表情まで思い出してしまい、胸の内に苦いものが込み上げる。
(今度、同じことを言ったら引っ叩いてやろうかな)
術を維持しながら取り留めもない思考をしていた矢先、
ボウッ!
「…!?」
周囲が赤い光に照らされ、熱風が駆け抜けた。
「!?」
一瞬、リルアードに術を破られたかと思ったが、彼は未だ影の塊と化している。
光と熱の発生源は彼の足元に転がっていたはずの杖だった。
持ち主がいない状態にも関わらず、ひとりでに直立し先端から禍々しい魔力を熱に変えて放出している。
(あらかじめ仕込んでいた?……いや……)
マント越しに見た杖は機械的に動いているというより、何らかの意志を受けて動作しているように感じられた。
羽倉は倒たまま苦し気に呻くメアリを庇い、マントで熱を防ぐ。
杖の先端に嵌め込まれている黒い魔宝石の中に浮かんだ赤い光は、まるで羽倉を睨むかのように光を強める。
「うぅ……」
僅かな呻き声を聞いて目を転じれば、杖から発せられる光と熱に焼かれていく影の隙間から、リルアードの苦悶の表情が覗いている。
持ち主の苦悶を他所に杖の魔力は衰えず、やがて全ての影が黒い霧と化して消滅してしまった。
思わぬ要因で術が破られ、羽倉が手にしていた魔導書から湧き出していた光が消えていく。
怜悧な光を湛えた瞳で羽倉が観察を続ける中、解放されたリルアードの身体がぐらりと傾く。そのまま地面に倒れるかと思われたが、磁力に引き付けられるかのように右手が伸び、直立していた杖の柄を掴んだ。
「かはっ!!」
途端にリルアードの目が見開かれ、地面を踏みつけて転倒を防ぎ
「おのれぇ!!」
間髪入れずに杖を振り上げ、先ほどよりも数段強力な火炎魔法を撃ち放った。
羽倉が手にしている魔導書から新たな光が湧き出し、羽倉の纏うマントの端が翼の如くはためいて、眼前に迫った火球のこと如くを上空へと弾いていく。
(この程度ならば……?)
渾身の攻撃を防がれたはずのリルアードの顔に歪んだ笑みが浮び、羽倉の脳裏に疑問がよぎる。
「……貴様!!」
直後、羽倉は手にしていた魔導書を後方に、地面に倒れているメアリに向かって投げ付けた。
宙を舞った魔導書がメアリの上にたどりついた直後、先ほどマントに跳ね上げられた火球が上空から降り注ぎ、すさまじい爆発を引き起こした。
魔導書が生み出した結界が炎と熱からメアリを守るが、羽倉の手元を離れ魔力の供給を絶たれた魔導書本体は火に焼かれて燃え尽きていく。
「はははっ!!」
メアリを人質にした作戦が功を奏してよほど嬉しいのか、リルアードは愉快そうに笑いながら魔導書を失った羽倉に向けて新たな火球を撃ち出す。
「正気ではないな」
低い声で呟きながら、羽倉は背後にあった十字架を掴む。
先端から氷柱を撃ち出し、全ての火球を逃さず迎撃した。凄まじい爆発と同時に水蒸気が周囲を霧で包んでいく。
束の間、互いの姿が霧に遮られて見えなくなるが、羽倉が十字架を振って強風を巻き起こし、再び視界が戻る。
「しまっ……!!」
霧の中から現れたリルアードが杖を逆さに突き立てている姿を捉え、羽倉は焦りの声を上げた。
瞬間、羽倉の足元から火炎が襲い掛かり、上空に向かって吹き上がった炎は巨大な火柱と化した。
避ける間もなく炎に飲み込まれた羽倉を目にしたが、リルアードは油断なく周囲を探り、
「……ぬっ!?」
魔力の気配を感じて頭上を振り仰いだ。
十数メートル上には爆発の威力を利用して舞い上がったらしい羽倉の姿があったが、再び目にした羽倉の様子にリルアードは笑みを浮かべる。
手にしていたはずの十字架は消滅してしまったのか見当たらず、全身を包むように巻き付けたマントは随所を焼かれ、煙を引いている。
マントの中から左手のみを突き出して氷柱を作り出すが、氷柱の大きさも以前の三分の一に満たず生成速度も遅くなっているようだ。
「馬鹿の一つ覚えだ!」
自身の事は棚に上げて嘲笑ったリルアードは、頭上の羽倉に向かって火球を撃ち込む。
火球と衝突した氷柱は蒸発し、霧の中からなお消え切らなかった火炎の一部が羽倉を襲う。
「っ!!」
マントを盾にした羽倉は直撃こそ免れたものの、爆風に巻き込まれ吹き飛ばされた。
体勢を崩し、頭上を越えて背後に落下した相手に向き直り、リルアードは止めを刺さんと杖に魔力を込めていく。
煙を上げながらうつ伏せに倒れている羽倉を凶悪な眼つきで睨み、憎しみに染まった低い声で語る。
「私達こそが正当なのだ。お前たちのような醜き<まがいもの>は所詮、我らの、ごぶっ……!?」
彼の述べていた口上は突然、意味を持たない湿った息となって喉から漏れ出した。
「……口は災いのもと……」
地面に顔を伏せたまま、羽倉がくぐもった声を漏らす。
(何が起きた?)
リルアードの身体からは急速に力が失われ、膝をついた彼は自分の身に何が起きたのかを探るように震える手を持ち上げた。
その手に硬く冷たいものが触れる。
視線を下げれば、視界に銀色の何かかが映った。
(ばかな…)
喉に、剣が突き刺さっている。
それは紛れもなくメアリの手にしていた教団特製の剣だが、一体誰がそれを振るったというのか?
呻く事すら出来ずに驚愕するリルアードを他所に、地に伏せていた羽倉は左手だけで体を支え上体を起こした。
その拍子に、力を失っていたマントが肩からずり落ちる。
「!?」
硬直した姿勢のまま、リルアードは目を見開く。
マントの内から現れた羽倉の身体には、右肩から先がない。
(まさか…!)
クイッ
地面に座り直した羽倉が左手で何かを手招きした。
リルアードの背後で何かが蠢く気配がし、彼の横顔を掠めるように白いものが姿を現す。
宙に浮くそれは、羽倉の右腕だった。
メアリとの戦闘で彼女の不意を突いたのと同じ手段を使われたと気付き、リルアードは怒りをあらわに羽倉を睨む。
が、リルアードの表情は次第に苦悶に歪み、ついには気を失って地面に倒れ伏した。
特製の剣を自らの身体に受け、頭部への精の供給を絶たれたためだ。
「今度、こそ……」
宙を漂い近づいてきた右手を左手で掴みつつ、羽倉は吐き出す息と共に呟く。
右腕を肩口に押し付けて魔力を流し、とりあえず離れないようにつなぎ合わせると
「……っ」
再度、倒れ込みそうになる体を叱りつけ、鈍々と立ち上がる。
関節がきしみ、膝笑う。
測定しなくとも魔力が枯渇しかかっていることは明白だった。
(間一髪だな…)
リルアードが地面に杖を突き立てるのを見て、下から攻撃を仕掛けてくると判断した瞬間から今までの一連は、羽倉が仕掛けた流れだった。
わざと火柱に飲み込まれ、十字架を盾にしつつ自らの右腕を切り離して死角からメアリの剣まで放り投げ、自身は火の勢いに乗って上空に昇り、リルアードの注意を引きつつ頭上を飛び越える。
その全てを一瞬で計画して実行する、リッチらしい戦い方とは言える。
しかし、メアリに使ったのと同じ手法を用いるのは一つの賭けだった。
結果、勝利はしたが、現状は満身創痍と言える。
(まずは身体の動くうちに)
羽倉は視線を動かしメアリの姿を見つけると、倒れたままの少女へ向かって歩き始めた。
彼女が受けた頭部の損傷と出血量は急がねば命に関わるものだ。
ふらふらと歩く途中、ちょうどメアリとの間に倒れているリルアードの横に差し掛かる。
「……」
羽倉は何も言わずに一瞥し、リルアードの首に刺さっていた剣を引き抜いて脇に放った。
戦闘中に切り離した右腕で掴んだ際は感じる暇もなかったが、剣の重量は驚くほど軽く、地面に落ちた抜き身の剣が乾いた音を立てる。
流石に教団肝いりの新兵装だ。純度の高い魔界銀を使用して鍛えた剣なのだろう、頭部に供給される精を失って気絶しているだけでリルアードの首筋には傷一つ見当たらない。
剣を抜いたのは特に意味がある行動ではなかったが、敵とはいえ、そのままにしておくのは無残な気がしたのだ。
たかが数メートルの距離を苦労して歩き、ようやくメアリのもとにたどり着くと体の力が抜け、勝手に膝をついてしまった。
(これは急がないと私も危ういな……)
意識を集中し、メアリの頭部に両掌を当て全身の魔力を集める。
掌から橙色の光が生まれ、メアリの傷から流れていた出血が収まっていく。
とりあえずは応急処置を施したが、精密な検査と治療を要する状態だ。
だが、
「あの男は教団側が搬送するにしても……この子は……」
教団が魔物化の能力にどれほど長けているかは不明だが、新兵装と呼ぶからには能力行使後の治療まで確立しているとは考え難い。
史郎と同程度の副作用があるとすれば、羽倉が治療を施した方が確実だろう。
かといって現世に連れ帰ってしまえば、目を覚ましたリルアードの報告により彼女は教団側から魔物、あるいはそれに同調した存在と認知される可能性もある。
(なんとか丸く収まればいいのだが……いっそリルアードも一緒に拉致して「お前の体内に魔法を仕込んだ。彼女に不利な事を言えば命はないぞ」とでも言って脅しつけておこうか)
脳内で物騒な事を考えている間にも手元は器用に治療を進め、メアリの傷を塞ぐ縫合処置はあらかた完了していた。
(よし。あとは転送符を発動させれば……!?)
不意に魔力の気配を感じ、羽倉が背後を振り返る。
その視線が捉えた魔力の発生源は、持ち主を倒されたはずの杖だった。
カタカタと振動しながら浮かび上がろうとしているが、発せられる魔力は戦闘を行うにはあまりに微弱だ。
(今さら何を?)
やがてリルアードの傍らに直立した杖は、先端の魔宝石から赤い光を発し始める。
魔力の量も徐々に高まってはいるが攻撃魔法を放つには少なすぎる。
だとすれば。
「…逃げるつもりか!」
それと察した羽倉は突然、地を蹴って地面に落ちていたメアリの剣に跳び付き、杖の先端へ向かって投げつけた。
正確に投擲された剣はしかし、杖の先端を過ぎて遠くの地面に突き立った。
魔宝石に切っ先が届く直前、根元に生み出された魔法陣の中へと杖が沈んだためだ。そのまま杖の姿は光の中に消え、次第に魔法陣の光も収まっていく。
「…まぁ、いい。……よくない」
羽倉が呟き、即座に前言を撤回したのは、魔法陣に消えた杖の代わりに別の物が残されていたからだ。
11時57分を指している目覚まし時計、時計とコードで繋がる小さな黒い箱、箱とつながるオフホワイト色の粘土状の物体、その粘土の表面には
「名医へ」と日本語で彫り込まれている。
わざわざ現世の武器を使うあたり、作った本人にとっては戯れだろうが、その破壊力は十中八九、本物だと羽倉は確信していた。
なぜなら、
「あの男…!!」
その脳裏に浮かぶのは金髪、長身、痩躯、人の良さそうな、けれどどこか薄っぺらい笑みを浮かべる男。
その男の非道を、羽倉は嫌というほど知っているからだ。
先ほどの悪趣味な装飾の杖を操っていたのもおそらく同一人物だろう。
カチリ
僅かな音につられて目を向ければ、忙しなく走り回る秒針が一周し、時計の分針が一つ12時に近づいたところだった。
歯噛みをしている場合ではない。
羽倉は身を翻すと左手に魔力を込めて地面に倒れている男の背に叩きこんだ。
「ごふっ!ごっほ!……なんだ?ぐえっ!」
即座に目を覚ましたリルアードの襟元を羽倉が乱暴に掴み上げ、視線を合わせる。
気を失っていたリルアードは混乱していたようだが、目の前にいるのが自分を気絶に追いやった魔物と知るや上擦った声を上げた。
「お、お前は!?」
「よく聞け」
耳に障る声に顔をしかめながら羽倉は手早く、しかしよく通る声で話し始める。
「今ここに爆弾というものがある。このあたり一帯を吹き飛ばすほどの威力を持つ兵器だ」
おそらくは爆弾という代物を知らないであろうリルアードに簡潔な説明をすると、一旦言葉を切って、リルアードの首を地面に置かれている爆弾と倒れているメアリに向けさせる。
「死にたくなければ今すぐ彼女を連れて逃げろ。全力でだ」
言い終わるや羽倉は胸元から注射器を取り出し、左腕に刺した。
(最後の一本、これで対処できるかどうか)
精を補給し、即座に体内で魔力へ変換した羽倉は再び力を取り戻したマントを操り爆弾一式を包み込む。
この手の爆弾は重さでおおよその威力を測れるものだが、ここは魔界で、悪意を込めて作られた物となれば現代の知識による威力の予測などあてにならない。
羽倉はなるべく威力を押さえ、時間を稼げる場所を導き出す。
「……いったい、何を……」
その横で呟くリルアードの脳内には、いくつもの疑問が渦巻いている。
目覚める以前の記憶がなぜ曖昧なのか。
邪悪な魔物がなぜ無力な自分に止めも刺さずに逃げろと言うのか。
自ら危険性を語った兵器を脇に抱えて何をするつもりなのか。
「そうだ、言い忘れるところだった」
半ば呆けたように座り込み、目の前の魔物を見上げていたリルアードを、呟きと共に羽倉が見返す。
「そこの彼女は人間で、優秀な騎士だ。大事にするといい」
その表情には、彼が一瞬見惚れるほど優し気な笑みが浮かんでいる。
「ま、待て!なぜこんな…うぉ!!」
リルアードの制止を聞かず、羽倉は凄まじい勢いで地面を蹴ると、赤黒く燃え盛る教会の中へと跳び込んでいった。
「なんなんだ畜生!」
その姿を見たリルアードは高位魔術師にあるまじき悪態を吐いた。
そうせずにはいられなかったのだ。
今まで人類の敵であると信じ続けてきた魔物に、一度目は見逃され、二度目は命を救われようとしている。
その事実に、神に仕える教団の魔術師として生きてきた彼のアイデンティティーは大きく揺らいでいた。
それでも彼は、自分がこの場でするべきことを忘れたわけではない。
ガシィ!
地面に倒れていたメアリの鎧を掴むと
「うっぉおおお!!」
恥も外聞もない雄叫びを上げながら、教会とは反対の方向へ必死の形相で走り出した。
専ら魔術を用いてばかりいるため、体力は常人と変わりないのだろう、
メアリを肩に担ぐだけの筋力もなく、抱えるというより地面に引きずっている。
(私は…!)
教団の新兵装として支給された杖、その影響下から解放された直後は曖昧だった記憶が、徐々に鮮明になってきていた。
魔物であり敵であったとは言え、一度、容赦を受けた相手に憎悪をもって不意打ちを仕掛けた。
それだけではない、共に神に仕える騎士を、無抵抗の女性を殴りつけ、敵を陥れるための囮とした。
(くそぉ…!!)
「ひぃ、ひっ、はぁ!」
幾ばくも進まぬうちに顔面が汗だらけになり、速度も常人なら歩く方がまだ早いほどに鈍くなっていく。
それでもメアリを放さないのは教団の矜持や騎士の誇りではない、彼の、一人の人間としての意地だった。
これまで自身の誇りを支えていたものが崩れさった今、この手だけは放さないという、その意地だけが彼の手と足を動かしている。
ボォォォン!!!
「!!」
突然、凄まじい爆音と爆風がリルアードの背に襲い掛かり、メアリもろとも吹き飛ばされて地面を転がされた。
その横を瓦礫や火が付いた木片を含んだ土煙が駆け抜けていく。
前後不覚に陥りながらもリルアードは何とか身を起こして爆発のあった方を見る。
そこには先ほど炎上していた教会の姿は跡形もなく、黒々とした煙が空に向かって立ち上っていた。
教会があった場所の地面が広範囲にわたって陥没しているのは、地下施設のなかで爆発が起きたからだろう。
「あの…魔物は…?」
リルアードは半ば無意識に、爆弾を抱えて走っていった羽倉の姿を探していた。
あれほどの爆発の中でも、あの魔物ならば難なく逃れているのではないかと思ったが、どれだけ周囲を探しても見当たらない。
「うぅ…」
「!」
僅かな呻き声に気付き目を向ければ、数メートル離れた場所にメアリが倒れている。
「おい……」
リルアードが這いずるように近寄って見れば、白銀の輝きを持っていた彼女の鎧は見る影もなく土に汚れ、至るところがへこんでしまっているものの、体に目立った外傷はないようだった。
「……無事か」
彼女の幼さの残る顔にも、羽倉の治療の甲斐あって傷跡は残っていない。
しかし、彼女の髪には彼女の流した血がべったりと付着して固まっている。
それ見たリルアードの脳裏に、
(…っ!!)
自分が殴りつけて傷だらけにした彼女の顔が蘇ってきた。
おそらく、二度と忘れない光景。
否、忘れてはならない光景だ。
「おっぉぉ……」
リルアードは湧き上がってきた自己嫌悪の感情を糧に、疲労やら痛みやらで軋む体を立ち上がらせ、近くに落ちていた棒状の木片を拾いあげる。
先端が焼け焦げたそれを地面に擦ると、擦った部分に黒い線が引かれた。
リルアードは気絶しているメアリを一瞥し、
「すぐに、帰してやるから……」
木片の炭を使って転送を行うための魔法陣を、体を引きずるようにして描き始めた。
「5…4…」
メアリの絶叫を間近で聞きながら羽倉は、逆さまの状態で淡々と数字を読み上げている。
「ぁぁ……」
「3…2…」
絶叫が急激にしぼんで止んだ。どうやら気絶したらしいがそれを見やる余裕はない。墜落へのカウントダウンを呟きながら急激に近づいてくる地面を見据える。
「1!」
残り1秒のところで羽倉はメアリの鎧を掴み、その重みを利用して体を入れ替えた。背負い投げの要領で見事な半回転を決めた羽倉は両足で蹴りを放つように着地する。
「うぐっ!!」
ベギ!ドシャ!
降り立つと同時に枯れ木を折ったような音が響き、羽倉が呻く。
膝をついた羽倉の両足は着地の衝撃で、あらぬ方向に曲がり折れていた。
魔術を用いて痛みは制御されているが感覚自体を遮断しているわけではないため、何とも言えない嫌な感触が全身をめぐり精神を襲う。
魔力が枯渇した状態で自身と、痩身ながらも鎧を纏った女騎士の重みと衝撃を受けたのだから当然と言えよう。
一拍置いて羽倉の腕の中から落下したメアリは、案の定気絶して目をまわしてはいたが外傷は無いようだ。
「はぁ……はぁ〜……ふふっ」
メアリの状態を観察しながら呼吸を整えていた羽倉の口から、小さな笑いが漏れた。
先ほどまでは新米ながらも気強い女騎士であった彼女と、魔物であり敵である羽倉の横でのびている彼女とが同一人物であることが、なにやら可笑しく思えたからだ。
「こうして見れば世界は違えど、あどけない普通の少女か」
脂汗でべったりと頬に張り付いた栗毛を払いつつ、羽倉が白衣の胸元に右手を差し込んだ時、
ボオンッ!!
何もない空間から生まれ出た火球が羽倉を直撃し、炎が瞬く間に広がって全身を包み込んだ。
「はっ!?…えっ!」
爆発音と熱風でメアリが目覚めた時には、すでに火だるまと化した羽倉が地面に倒れ伏し、周囲に細かい火花を散らしていた。
未だに状況を把握できないでいるメアリに低い男の声がかかる。
「ご無事ですかな?メアリ殿」
声がした方向へ目を向けると、景色から滲み出るように教団魔導士が姿を現した。気遣う言葉をかけてきたものの、その口調はあからさまな嘲笑を含んでいる。
「あなたは…リルアード様」
リルアードと呼ばれた男は、メアリの暮らす国にある教団に属する高位魔術師の一人だ。メアリ自身も式典の前方に立っているのを見かけたことがある程度の人物だったが、現世で魔物娘の回収中に史郎と羽倉が出会った魔導師がこの男だった。羽倉が情報を聞き出した後に<こちら>に送り届けた際は散々な有様で帰還していったが、今は教団の高位魔術師にのみ着用が許される魔導着をキッチリと身に付け、磨き上げられた靴を鳴らしながら歩く様子は自信に満ちている。
「新兵装の試験と廃棄施設の焼却が済むまで結界を維持せよ……というのが今回の私の役目でしたが、まさかあの時の魔物が現れて騎士団期待の新人が敗北するとは思いもよりませんでしたよ」
束の間、気を失っていたメアリは彼が救援に来たのかと思ったが、話す内容と表情からしてメアリの事など既に眼中にないらしい。
誰にともなく口上を述べつつリルアードは二人に歩み寄ると、未だ炎に包まれている羽倉に向かって杖を差し向けた。
以前、現世で羽倉に破壊された杖の代わりだろう、先端にある黒い魔宝石を鋭い四本の爪が鷲掴みにするように固定した意匠の杖は、聖職者が持つと些か悪趣味に映る代物だ。
「お待ち下さい!」
羽倉に追撃を加えようとするリルアードへ向けてメアリが叫ぶように呼び掛ける。
リルアードは杖も体勢もそのままに、目線だけをメアリへ移した。
「恐れながらその魔物は人間に危害を加える類の者ではない様です……これ以上の攻撃は無用かと存じます」
鎧に宿る魔物化の能力を行使した副作用が出ているのだろう。震える身体を無理やり起こして跪き、頭を垂れる。反魔物都市の常識、教団の矜持の中で育った彼女にとって魔物は凶悪で醜悪な存在でしかなかったが、初めて直に見、言葉と刃を交えた魔物はまるで違うものだった。
人の中にも善悪があるように魔物の中にも和解できる存在がいるならば、新たな関係を結べるかもしれないと、若い彼女は素直にそう思ったのだ。
「……なるほど」
メアリの進言を聞いたリルアードは思案の後に、いかにも神妙な面持ちで頷くと掲げていた杖を下げた。
「よくわかりました」
緩慢な動作でメアリに向き直った彼は、
「ありが…ぐっ!」
了承の言葉に安堵し礼を言おうと顔を上げたメアリの頬を、振り上げた杖の先端で容赦なく強打した。
口から血を流し地面に倒れたメアリをリルアードは酷薄な表情で見下ろし、杖を再び振り上げ、躊躇なく振り下ろす。
「こともあろうに」
ゴツッ!
「神に仕えし者が」
ガッ!
「容易く魔物に」
ガゴッ
「取り込まれようとは」
ゴンッ!
リルアードの顔には何の感情も浮かんでいない。
まさに無造作、といった様子でメアリの頭部に向かって幾度も杖を叩きつけていく。
「これだから筋肉重視の騎士団は困るのです」
頭皮が裂け髪を赤黒く染めたメアリの眼前に、今度は魔力を充填した杖を突き付けた。
「魔物と化した騎士に安らかな最期を」
殴打した際に付着した彼女の血が魔宝石から発せられた熱で見る間に蒸発していく。
「リル…ア…さ…ま…」
殴打されたせいで視界の焦点が定まらず、強烈な頭痛と吐き気が襲ってくる。
それでも目線を動かし、熱を帯びた杖ごしにリルアードを見たメアリは恐怖より先に異変を感じていた。
いくら立場が上とは言え、独自の判断で管轄権のない相手を私刑に処することなど許されるはずもないが、リルアードには一瞬の躊躇すら見られない。
その無感動さが彼が正気でないことを物語っている。
しかし確信を持ったところで最早、彼女にはできることはなかった。
杖から発せられる熱が臨界に達し、杖越しに見える彼の顔が奇妙な具合に歪んでいく。
ドシュッ!!
「ッ!!」
だが濃縮された炎が杖から放たれる寸前、リルアードは視界の端に動くものを捉えて身を躱した。
彼の眼前を氷柱が掠め、数メートル先の木に深々と突き刺さる。
一方、杖から放たれた火球はメアリの頭上を過ぎて空間を飛び、教会の門扉にぶつかって炎上させた。
リルアードは大きく退き、攻撃が放たれた方へ向き直る。
「バケモノめ……」
「……それはこちらの台詞だ」
リルアードが忌々しげに見やり悪態をついた相手、羽倉は、静かだが明らかな怒気を孕んだ声で応じた。
衣服は黒焦げになっているが、いつの間に治したらしい両足でしっかりと立ち上がり、本来なら火傷どころではない熱傷を負っただろう皮膚にも異常は見られない。
リルアードは杖に、羽倉は手に、それぞれ魔力を集めて牽制し合いながら、羽倉はほとんど炭化してしまった白衣と服を無造作に破り捨てた。
その下から現れたのは素肌ではなく、暗色の布。
身体を覆っていた布はまるで意思を持っているかのように蠢き、ゆらゆらとはためきながら徐々に広がっていく。
夕闇を切り取って織り成したかのような布はマントを形作り、最後に紫色の石をあしらったブローチが空間から現れて襟元を留める。
いかにも魔術師らしい様相となった羽倉は紫の瞳でリルアードを見据えた。
「どうした、殴れるのは無防備な女性だけか?」
濃密な魔力を放ち、怒りを込めた挑発をしながら一歩を踏み出す。
「……」
リルアードは無言のまま一歩を下がった。
(近づかせてはくれないか)
羽倉の感じている怒りは本物だが冷静さを失ったわけではない。
おそらくリルアードが手にしている杖にもメアリが用いていた剣と同様、魔力を無効化する性能があると見ていいだろう。
かといって接近戦を許してくれる気配もない。
何より、
(以前とは違う)
そう羽倉の直感が告げていた。
リルアードの気配や動作には隙が無く、挑発に関しても意に介した様子は見られない。
短期間の間にこうも変わるものかと思うが、現世で戦った時とは別人のように感じられる。
接近することを諦め、羽倉は一定の距離を保ったまま右手を持ち上げ、彼に向けて氷の塊を撃ち放つ。
胸部目がけて進んだ氷は予想通り杖の数十センチ手前で霧散し、周囲を薄い霧を生み出した。
(これなら?)
実験よろしく今度は狙いをずらして彼の頭部に氷を撃つ。それも素早く眼前に掲げられた杖の周囲に入ると、やはり霧と化して消滅していった。
「ふむ……」
一連の事象を見て何を思ったか、羽倉は一つ頷く。
「無駄なことを……ぬ?」
攻撃を無力化し笑みを浮かべたリルアードの目の前で、羽倉は左手をマントの中に差し込むと
(なんだ?……あれは)
先端に細長い針が付いた容器を取り出した。
リルアードにとって見慣れぬそれは現世で言うところの注射器だった。
「こうなっては致し方ない」
羽倉は無造作に針を右手に刺し、充填されている白濁した液体を自らの体内に流し込む。
途端、羽倉の身体から凄まじい魔力が溢れ出した。
噴出した高濃度の魔力は彼女の背後に集まって巨大な十字架を形作り、彼女の手元から不気味な装飾の施された分厚い魔導書が現れた。
「出し惜しみはしない」
その言葉に応えるかのように魔導書の頁が独りでに捲られ、背後の十字架に嵌め込まれた目が紫の光を放つ。
「っ!!」
ドン!!
ゴゥ!!
リルアードが手にした杖を地面に突き立てるのと、羽倉の背後から一陣の風が吹きつけるのは同時だった。
リルアードの全面にはすぐさま白色の結界が生み出され、遮られた風が唸りを上げて傍らを走り抜けていく。
「…?」
それだけだった。
強力な攻撃を予想していたが、風の圧力とて攻撃と呼ぶには程遠い。
それどころか羽倉の周囲に変化はなく、自身の身体にも何の異常も見られなかった。
リルアードが訝し気な表情を浮かべるのを他所に、羽倉は大きく開かれた魔導書に落していた視線をゆっくりと上げ、
「せんえいばくりょう」
奇異な言霊を奇妙な発音で唱えた。
声に応えるように魔導書から薄く青白い光が湧き出す。
相手を注視していたリルアードはようやく異常に気付いた。
ひとつは、音だ。
先ほどの言葉の意味こそ解せなかったが、耳によく届いた。
それもそのはず、周囲からは一切の音が失せている。
そしてもうひとつは足元の……
「うっ!!」
突如、リルアードの右足を何者かが掴んだ。
その冷たい感触に意図せず声が漏れる。
足元に向けた視線が捉えたのは、自身の影の中から伸びる真っ黒な手だった。
ひとつではない。
あるものは子どもの手のように小さく、あるものは成人男性を上回る大きさがあり、女性のように細い手もあった。
それらはいずれも黒く染められていて、まるで煙が立ち上るかのようにぞろぞろと現れてはリルアードの視界を埋め尽くしていく。
(……!!)
図らずも背筋が凍る光景だった。
これまでの直線的な攻撃に慣らされ、無意識に前方への防御に集中してしまっていたことが仇となる。
「ぬおぉ、触るな!」
今までとは性質も角度も違う攻撃に意表を突かれたリルアードは咄嗟に結界を解除して杖を振り回すが、その様子は冷静さを欠いている。
加えて、
(なぜだ、なぜ消えない…!?)
魔力無効化の効果範囲に入っているはずの影はおろか、杖自体に接触した影さえも消滅する気配がない。
杖を叩き付けられた手はぐにゃりと変形するのものの、蛇のように湾曲しながら掴みかかってくる。
「止せ!やめろ!」
闇雲に体をよじるだけでは全身を這い回る無数の手を振りほどくには至らず、ついには影のひとつに手首を締め上げられ杖を取り落としてしまう。
「…ぅぅ!……!!」
足を、腰を、肩を、首を、影で出来た手に絡めとられたリルアードは、ついには顔までも覆い尽されて黒い人型と化し、完全に沈黙した。
「成功か」
相手の動きを注視していた羽倉は溜め息と共に呟いた。
現世で読んだとある<ライトノベル>から構想を得て創作したこの術を羽倉は<千影縛霊>と名付けた。
隠密性を重視したこの術は、相手に気付かれぬよう発動と同時に周囲の気体や魔力の流れを乱しあるいは停滞させ、敵の足元から攻撃を仕掛けることで相手の注意や防御をすり抜けられる。
そして最大の特徴は、発動の原動力として魔力と同時に精を用いているところにあった。
教団は魔物との戦闘に長じようと、急速に魔力を無効化する技術を向上させてきている。
この術は魔力が通じない相手との戦闘を想定して生み出したものだ。
ただ、莫大な量の精を必要とする術は本来、魔物である羽倉には発動不可能なはずだった。
それを可能にしたのが、先ほど自身に注射した薬液。
主成分は濃縮した史郎の精液であり、千影縛霊は薬液から得た大量の精を体内で魔力と共に練り上げることで初めて、魔力を無効化する術に対抗できるほどの威力と特殊な効果を発揮できている。
(使いたくはなかったが……)
羽倉は内心で呻いた。
普段から体調の不安定な史郎から大量の精を奪う行為は羽倉の望むところではない。
とはいえ
「何があるかわかりませんから」
と、羽倉の身を案じてくれた史郎本人からの申し出とあっては薬液の開発を無下に断るわけにもいかなかった。
(史郎の願いを叶えると、そう誓った……確かにこうして役立ったわけだが……)
「私はそのために造られた<モノ>ですから」
その後に付け加えられた史郎の言葉と自嘲の笑い浮かべた表情まで思い出してしまい、胸の内に苦いものが込み上げる。
(今度、同じことを言ったら引っ叩いてやろうかな)
術を維持しながら取り留めもない思考をしていた矢先、
ボウッ!
「…!?」
周囲が赤い光に照らされ、熱風が駆け抜けた。
「!?」
一瞬、リルアードに術を破られたかと思ったが、彼は未だ影の塊と化している。
光と熱の発生源は彼の足元に転がっていたはずの杖だった。
持ち主がいない状態にも関わらず、ひとりでに直立し先端から禍々しい魔力を熱に変えて放出している。
(あらかじめ仕込んでいた?……いや……)
マント越しに見た杖は機械的に動いているというより、何らかの意志を受けて動作しているように感じられた。
羽倉は倒たまま苦し気に呻くメアリを庇い、マントで熱を防ぐ。
杖の先端に嵌め込まれている黒い魔宝石の中に浮かんだ赤い光は、まるで羽倉を睨むかのように光を強める。
「うぅ……」
僅かな呻き声を聞いて目を転じれば、杖から発せられる光と熱に焼かれていく影の隙間から、リルアードの苦悶の表情が覗いている。
持ち主の苦悶を他所に杖の魔力は衰えず、やがて全ての影が黒い霧と化して消滅してしまった。
思わぬ要因で術が破られ、羽倉が手にしていた魔導書から湧き出していた光が消えていく。
怜悧な光を湛えた瞳で羽倉が観察を続ける中、解放されたリルアードの身体がぐらりと傾く。そのまま地面に倒れるかと思われたが、磁力に引き付けられるかのように右手が伸び、直立していた杖の柄を掴んだ。
「かはっ!!」
途端にリルアードの目が見開かれ、地面を踏みつけて転倒を防ぎ
「おのれぇ!!」
間髪入れずに杖を振り上げ、先ほどよりも数段強力な火炎魔法を撃ち放った。
羽倉が手にしている魔導書から新たな光が湧き出し、羽倉の纏うマントの端が翼の如くはためいて、眼前に迫った火球のこと如くを上空へと弾いていく。
(この程度ならば……?)
渾身の攻撃を防がれたはずのリルアードの顔に歪んだ笑みが浮び、羽倉の脳裏に疑問がよぎる。
「……貴様!!」
直後、羽倉は手にしていた魔導書を後方に、地面に倒れているメアリに向かって投げ付けた。
宙を舞った魔導書がメアリの上にたどりついた直後、先ほどマントに跳ね上げられた火球が上空から降り注ぎ、すさまじい爆発を引き起こした。
魔導書が生み出した結界が炎と熱からメアリを守るが、羽倉の手元を離れ魔力の供給を絶たれた魔導書本体は火に焼かれて燃え尽きていく。
「はははっ!!」
メアリを人質にした作戦が功を奏してよほど嬉しいのか、リルアードは愉快そうに笑いながら魔導書を失った羽倉に向けて新たな火球を撃ち出す。
「正気ではないな」
低い声で呟きながら、羽倉は背後にあった十字架を掴む。
先端から氷柱を撃ち出し、全ての火球を逃さず迎撃した。凄まじい爆発と同時に水蒸気が周囲を霧で包んでいく。
束の間、互いの姿が霧に遮られて見えなくなるが、羽倉が十字架を振って強風を巻き起こし、再び視界が戻る。
「しまっ……!!」
霧の中から現れたリルアードが杖を逆さに突き立てている姿を捉え、羽倉は焦りの声を上げた。
瞬間、羽倉の足元から火炎が襲い掛かり、上空に向かって吹き上がった炎は巨大な火柱と化した。
避ける間もなく炎に飲み込まれた羽倉を目にしたが、リルアードは油断なく周囲を探り、
「……ぬっ!?」
魔力の気配を感じて頭上を振り仰いだ。
十数メートル上には爆発の威力を利用して舞い上がったらしい羽倉の姿があったが、再び目にした羽倉の様子にリルアードは笑みを浮かべる。
手にしていたはずの十字架は消滅してしまったのか見当たらず、全身を包むように巻き付けたマントは随所を焼かれ、煙を引いている。
マントの中から左手のみを突き出して氷柱を作り出すが、氷柱の大きさも以前の三分の一に満たず生成速度も遅くなっているようだ。
「馬鹿の一つ覚えだ!」
自身の事は棚に上げて嘲笑ったリルアードは、頭上の羽倉に向かって火球を撃ち込む。
火球と衝突した氷柱は蒸発し、霧の中からなお消え切らなかった火炎の一部が羽倉を襲う。
「っ!!」
マントを盾にした羽倉は直撃こそ免れたものの、爆風に巻き込まれ吹き飛ばされた。
体勢を崩し、頭上を越えて背後に落下した相手に向き直り、リルアードは止めを刺さんと杖に魔力を込めていく。
煙を上げながらうつ伏せに倒れている羽倉を凶悪な眼つきで睨み、憎しみに染まった低い声で語る。
「私達こそが正当なのだ。お前たちのような醜き<まがいもの>は所詮、我らの、ごぶっ……!?」
彼の述べていた口上は突然、意味を持たない湿った息となって喉から漏れ出した。
「……口は災いのもと……」
地面に顔を伏せたまま、羽倉がくぐもった声を漏らす。
(何が起きた?)
リルアードの身体からは急速に力が失われ、膝をついた彼は自分の身に何が起きたのかを探るように震える手を持ち上げた。
その手に硬く冷たいものが触れる。
視線を下げれば、視界に銀色の何かかが映った。
(ばかな…)
喉に、剣が突き刺さっている。
それは紛れもなくメアリの手にしていた教団特製の剣だが、一体誰がそれを振るったというのか?
呻く事すら出来ずに驚愕するリルアードを他所に、地に伏せていた羽倉は左手だけで体を支え上体を起こした。
その拍子に、力を失っていたマントが肩からずり落ちる。
「!?」
硬直した姿勢のまま、リルアードは目を見開く。
マントの内から現れた羽倉の身体には、右肩から先がない。
(まさか…!)
クイッ
地面に座り直した羽倉が左手で何かを手招きした。
リルアードの背後で何かが蠢く気配がし、彼の横顔を掠めるように白いものが姿を現す。
宙に浮くそれは、羽倉の右腕だった。
メアリとの戦闘で彼女の不意を突いたのと同じ手段を使われたと気付き、リルアードは怒りをあらわに羽倉を睨む。
が、リルアードの表情は次第に苦悶に歪み、ついには気を失って地面に倒れ伏した。
特製の剣を自らの身体に受け、頭部への精の供給を絶たれたためだ。
「今度、こそ……」
宙を漂い近づいてきた右手を左手で掴みつつ、羽倉は吐き出す息と共に呟く。
右腕を肩口に押し付けて魔力を流し、とりあえず離れないようにつなぎ合わせると
「……っ」
再度、倒れ込みそうになる体を叱りつけ、鈍々と立ち上がる。
関節がきしみ、膝笑う。
測定しなくとも魔力が枯渇しかかっていることは明白だった。
(間一髪だな…)
リルアードが地面に杖を突き立てるのを見て、下から攻撃を仕掛けてくると判断した瞬間から今までの一連は、羽倉が仕掛けた流れだった。
わざと火柱に飲み込まれ、十字架を盾にしつつ自らの右腕を切り離して死角からメアリの剣まで放り投げ、自身は火の勢いに乗って上空に昇り、リルアードの注意を引きつつ頭上を飛び越える。
その全てを一瞬で計画して実行する、リッチらしい戦い方とは言える。
しかし、メアリに使ったのと同じ手法を用いるのは一つの賭けだった。
結果、勝利はしたが、現状は満身創痍と言える。
(まずは身体の動くうちに)
羽倉は視線を動かしメアリの姿を見つけると、倒れたままの少女へ向かって歩き始めた。
彼女が受けた頭部の損傷と出血量は急がねば命に関わるものだ。
ふらふらと歩く途中、ちょうどメアリとの間に倒れているリルアードの横に差し掛かる。
「……」
羽倉は何も言わずに一瞥し、リルアードの首に刺さっていた剣を引き抜いて脇に放った。
戦闘中に切り離した右腕で掴んだ際は感じる暇もなかったが、剣の重量は驚くほど軽く、地面に落ちた抜き身の剣が乾いた音を立てる。
流石に教団肝いりの新兵装だ。純度の高い魔界銀を使用して鍛えた剣なのだろう、頭部に供給される精を失って気絶しているだけでリルアードの首筋には傷一つ見当たらない。
剣を抜いたのは特に意味がある行動ではなかったが、敵とはいえ、そのままにしておくのは無残な気がしたのだ。
たかが数メートルの距離を苦労して歩き、ようやくメアリのもとにたどり着くと体の力が抜け、勝手に膝をついてしまった。
(これは急がないと私も危ういな……)
意識を集中し、メアリの頭部に両掌を当て全身の魔力を集める。
掌から橙色の光が生まれ、メアリの傷から流れていた出血が収まっていく。
とりあえずは応急処置を施したが、精密な検査と治療を要する状態だ。
だが、
「あの男は教団側が搬送するにしても……この子は……」
教団が魔物化の能力にどれほど長けているかは不明だが、新兵装と呼ぶからには能力行使後の治療まで確立しているとは考え難い。
史郎と同程度の副作用があるとすれば、羽倉が治療を施した方が確実だろう。
かといって現世に連れ帰ってしまえば、目を覚ましたリルアードの報告により彼女は教団側から魔物、あるいはそれに同調した存在と認知される可能性もある。
(なんとか丸く収まればいいのだが……いっそリルアードも一緒に拉致して「お前の体内に魔法を仕込んだ。彼女に不利な事を言えば命はないぞ」とでも言って脅しつけておこうか)
脳内で物騒な事を考えている間にも手元は器用に治療を進め、メアリの傷を塞ぐ縫合処置はあらかた完了していた。
(よし。あとは転送符を発動させれば……!?)
不意に魔力の気配を感じ、羽倉が背後を振り返る。
その視線が捉えた魔力の発生源は、持ち主を倒されたはずの杖だった。
カタカタと振動しながら浮かび上がろうとしているが、発せられる魔力は戦闘を行うにはあまりに微弱だ。
(今さら何を?)
やがてリルアードの傍らに直立した杖は、先端の魔宝石から赤い光を発し始める。
魔力の量も徐々に高まってはいるが攻撃魔法を放つには少なすぎる。
だとすれば。
「…逃げるつもりか!」
それと察した羽倉は突然、地を蹴って地面に落ちていたメアリの剣に跳び付き、杖の先端へ向かって投げつけた。
正確に投擲された剣はしかし、杖の先端を過ぎて遠くの地面に突き立った。
魔宝石に切っ先が届く直前、根元に生み出された魔法陣の中へと杖が沈んだためだ。そのまま杖の姿は光の中に消え、次第に魔法陣の光も収まっていく。
「…まぁ、いい。……よくない」
羽倉が呟き、即座に前言を撤回したのは、魔法陣に消えた杖の代わりに別の物が残されていたからだ。
11時57分を指している目覚まし時計、時計とコードで繋がる小さな黒い箱、箱とつながるオフホワイト色の粘土状の物体、その粘土の表面には
「名医へ」と日本語で彫り込まれている。
わざわざ現世の武器を使うあたり、作った本人にとっては戯れだろうが、その破壊力は十中八九、本物だと羽倉は確信していた。
なぜなら、
「あの男…!!」
その脳裏に浮かぶのは金髪、長身、痩躯、人の良さそうな、けれどどこか薄っぺらい笑みを浮かべる男。
その男の非道を、羽倉は嫌というほど知っているからだ。
先ほどの悪趣味な装飾の杖を操っていたのもおそらく同一人物だろう。
カチリ
僅かな音につられて目を向ければ、忙しなく走り回る秒針が一周し、時計の分針が一つ12時に近づいたところだった。
歯噛みをしている場合ではない。
羽倉は身を翻すと左手に魔力を込めて地面に倒れている男の背に叩きこんだ。
「ごふっ!ごっほ!……なんだ?ぐえっ!」
即座に目を覚ましたリルアードの襟元を羽倉が乱暴に掴み上げ、視線を合わせる。
気を失っていたリルアードは混乱していたようだが、目の前にいるのが自分を気絶に追いやった魔物と知るや上擦った声を上げた。
「お、お前は!?」
「よく聞け」
耳に障る声に顔をしかめながら羽倉は手早く、しかしよく通る声で話し始める。
「今ここに爆弾というものがある。このあたり一帯を吹き飛ばすほどの威力を持つ兵器だ」
おそらくは爆弾という代物を知らないであろうリルアードに簡潔な説明をすると、一旦言葉を切って、リルアードの首を地面に置かれている爆弾と倒れているメアリに向けさせる。
「死にたくなければ今すぐ彼女を連れて逃げろ。全力でだ」
言い終わるや羽倉は胸元から注射器を取り出し、左腕に刺した。
(最後の一本、これで対処できるかどうか)
精を補給し、即座に体内で魔力へ変換した羽倉は再び力を取り戻したマントを操り爆弾一式を包み込む。
この手の爆弾は重さでおおよその威力を測れるものだが、ここは魔界で、悪意を込めて作られた物となれば現代の知識による威力の予測などあてにならない。
羽倉はなるべく威力を押さえ、時間を稼げる場所を導き出す。
「……いったい、何を……」
その横で呟くリルアードの脳内には、いくつもの疑問が渦巻いている。
目覚める以前の記憶がなぜ曖昧なのか。
邪悪な魔物がなぜ無力な自分に止めも刺さずに逃げろと言うのか。
自ら危険性を語った兵器を脇に抱えて何をするつもりなのか。
「そうだ、言い忘れるところだった」
半ば呆けたように座り込み、目の前の魔物を見上げていたリルアードを、呟きと共に羽倉が見返す。
「そこの彼女は人間で、優秀な騎士だ。大事にするといい」
その表情には、彼が一瞬見惚れるほど優し気な笑みが浮かんでいる。
「ま、待て!なぜこんな…うぉ!!」
リルアードの制止を聞かず、羽倉は凄まじい勢いで地面を蹴ると、赤黒く燃え盛る教会の中へと跳び込んでいった。
「なんなんだ畜生!」
その姿を見たリルアードは高位魔術師にあるまじき悪態を吐いた。
そうせずにはいられなかったのだ。
今まで人類の敵であると信じ続けてきた魔物に、一度目は見逃され、二度目は命を救われようとしている。
その事実に、神に仕える教団の魔術師として生きてきた彼のアイデンティティーは大きく揺らいでいた。
それでも彼は、自分がこの場でするべきことを忘れたわけではない。
ガシィ!
地面に倒れていたメアリの鎧を掴むと
「うっぉおおお!!」
恥も外聞もない雄叫びを上げながら、教会とは反対の方向へ必死の形相で走り出した。
専ら魔術を用いてばかりいるため、体力は常人と変わりないのだろう、
メアリを肩に担ぐだけの筋力もなく、抱えるというより地面に引きずっている。
(私は…!)
教団の新兵装として支給された杖、その影響下から解放された直後は曖昧だった記憶が、徐々に鮮明になってきていた。
魔物であり敵であったとは言え、一度、容赦を受けた相手に憎悪をもって不意打ちを仕掛けた。
それだけではない、共に神に仕える騎士を、無抵抗の女性を殴りつけ、敵を陥れるための囮とした。
(くそぉ…!!)
「ひぃ、ひっ、はぁ!」
幾ばくも進まぬうちに顔面が汗だらけになり、速度も常人なら歩く方がまだ早いほどに鈍くなっていく。
それでもメアリを放さないのは教団の矜持や騎士の誇りではない、彼の、一人の人間としての意地だった。
これまで自身の誇りを支えていたものが崩れさった今、この手だけは放さないという、その意地だけが彼の手と足を動かしている。
ボォォォン!!!
「!!」
突然、凄まじい爆音と爆風がリルアードの背に襲い掛かり、メアリもろとも吹き飛ばされて地面を転がされた。
その横を瓦礫や火が付いた木片を含んだ土煙が駆け抜けていく。
前後不覚に陥りながらもリルアードは何とか身を起こして爆発のあった方を見る。
そこには先ほど炎上していた教会の姿は跡形もなく、黒々とした煙が空に向かって立ち上っていた。
教会があった場所の地面が広範囲にわたって陥没しているのは、地下施設のなかで爆発が起きたからだろう。
「あの…魔物は…?」
リルアードは半ば無意識に、爆弾を抱えて走っていった羽倉の姿を探していた。
あれほどの爆発の中でも、あの魔物ならば難なく逃れているのではないかと思ったが、どれだけ周囲を探しても見当たらない。
「うぅ…」
「!」
僅かな呻き声に気付き目を向ければ、数メートル離れた場所にメアリが倒れている。
「おい……」
リルアードが這いずるように近寄って見れば、白銀の輝きを持っていた彼女の鎧は見る影もなく土に汚れ、至るところがへこんでしまっているものの、体に目立った外傷はないようだった。
「……無事か」
彼女の幼さの残る顔にも、羽倉の治療の甲斐あって傷跡は残っていない。
しかし、彼女の髪には彼女の流した血がべったりと付着して固まっている。
それ見たリルアードの脳裏に、
(…っ!!)
自分が殴りつけて傷だらけにした彼女の顔が蘇ってきた。
おそらく、二度と忘れない光景。
否、忘れてはならない光景だ。
「おっぉぉ……」
リルアードは湧き上がってきた自己嫌悪の感情を糧に、疲労やら痛みやらで軋む体を立ち上がらせ、近くに落ちていた棒状の木片を拾いあげる。
先端が焼け焦げたそれを地面に擦ると、擦った部分に黒い線が引かれた。
リルアードは気絶しているメアリを一瞥し、
「すぐに、帰してやるから……」
木片の炭を使って転送を行うための魔法陣を、体を引きずるようにして描き始めた。
20/03/29 04:33更新 / 水底
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