連載小説
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やり直し
目を開くと、見知った天井が見えた。
自分の生まれ育った家の、自室の天井。それを目にした史郎の胸にひどく懐かしさが込み上げた。

(また、夢だ……)

史郎は今、自分が夢を見ていることを自覚していた。
霞がかった独特の思考と感覚、何より、二度と帰ることのない部屋の風景は、少年にこれが現実でないことを認識させるのに十分な証拠だった。

ベッドから半身を起こすと、親に少しわがままを言って買ってもらった人気キャラクターのあしらわれた勉強机や、参考書を隅に追いやるように好きな漫画が並べてある本棚など、いかにも子ども部屋らしいレイアウトのどれもが郷愁を誘ってきた。
家具を照らし出す明かりは淡い青色で、時刻が夜中であることを示している。

やがて視線は、部屋と廊下とをつなぐ扉へと縫いつけられた。
その瞬間、胸の内にあるものが一気に薄暗い予感へと塗り替えられる。


わかっている。
自身がこれからすることも、これから起こることも変える事なんかできない。
過ぎ去った記憶のなかでどんなに足掻こうと何の意味もない。


それでも史郎は扉を睨むように見据えたままベッドから降り、扉に近づく。
(もしかしたら……)
せめて夢でもいい、幻でもいいからと、祈るように歩みを進める。

だが、その数歩を歩むうち、史郎の意識は当時の幼い記憶の中に沈み込んでいき、当時の幼心と入れ替わっていった。

扉の前に立った、寝起き特有のあどけない表情をした少年は何か、何か大切なことをしようと部屋の外に向かった。
異様に冷たいドアノブに触れ、無理矢理眠気を払われながらも回して扉を押し開く。

廊下に出ようと顔を出した史郎の視界。
目が慣れていない黒一色の視界の隅に、赤い二つの光点が映り込んだ。
まるで消火栓の位置を示すランプのようだが、一般住宅の、ましてや自宅の廊下にそんなものはなかった。
無意識にその光に目を向けようとした途端……

バンッ!
「わぁっ!?」

突然、ものすごい勢いで閉じられた扉に弾き飛ばされ、史郎の小さな体はフローリングの床に打ち付けられた。頭や背中から鈍く響くような痛みが湧きあがり、自分が今どこを向いているのかも分からなくなる。打ち所が悪かったのか甲高い耳鳴りでしばらくは何も聞こえなかったが、それが徐々に収まるにつれ、更に耳障りな音が聞こえてきた。
扉のすぐ向こう側にある廊下で何かが暴れているような音。その音は次第に大きくなり、同時に家全体を揺するような衝撃が床を通して伝わってくる。

ガンッ!!
(……!)
ひと際大きな音が衝撃を伴って入り口の扉を揺さぶった。思わず体を縮めて後ずさる史郎の耳に聞きなれた声が届く。
「お姉ちゃん……?」
暴風のような音に混じって聞こえてきたのは、確かにお姉ちゃんの声だった。思えば当たり前のことだ。両親が出かけている今、この家には自分とお姉ちゃんの二人しかいないのだから。
「お姉ちゃん!!」
それに思い至った途端、史郎は扉に向かって駆け出していた。ドアノブに跳び付いて回そうとするが、ビクともしない。先ほどの衝撃で歪んでしまったのか、全力で揺すっているのに奇妙なほどに何の手ごたえも感じなかった。その間にも廊下から響く音と衝撃は一層激しさを増していく。
恐怖と焦燥とで半ばパニックになりながら周囲を見渡すと、勉強机とセットになっている椅子が目に入った。
気付くと史郎は椅子を掴み、
「ああああ!!」
今まで出したことのないような大声と共に、扉に向かって椅子を投げつけていた。椅子が宙を飛び扉にぶつかった瞬間、耳障りな音を立てて扉が弾け飛ぶ。
その向こうにある真っ暗な廊下が現れると、なぜか、先ほどまで吹き荒れていた嵐のような音もピタリとやんだ。しかしそれと入れ替わるように、廊下を支配する異様な気配と暗闇が部屋の中になだれ込んできて、幼い少年の足と心を容赦なく怯ませる。
「ううっ……ひぅ……」
それでも、涙で滲んだ視界としゃっくりのような嗚咽をそのままに史郎は再び廊下に踏み出した。
塗りつぶしたような闇と濃密な気配の満ちる廊下、その左手に何度も呼びかけた相手の背中があった。

艶やかな黒を同色の髪留めとシュシュで結い上げた髪形。
史郎の通う小学校からほど近いところにある高校の制服。
紺色のスカートから覗くしなやかな足。


「お姉ちゃん……」
一時、状況も忘れて安堵し、ため息をつくように呼びかける史郎。


「−−−君」
振り返ったお姉ちゃんの顔は暗くてよく見えなかったが、呼び返してくれた声は悲しそうに震えていて史郎には聞き取れなかった。


部屋の窓から差し込む光が彼女の頬を照らし、頬に伝う涙が光となって廊下に落ちていく。史郎はその様子を、疲弊と安堵なかでぼんやりと見つめていた。
大好きなお姉ちゃんが泣いているのだ、と、ようやく理解が追いついた。

「おね……?」

もう一度、史郎が呼びかけようとした時。





ぞぶんっ





まるで湿った泥に足を踏み込んだような音を立てて、彼女の腰から上が視界から消え去った。



「あ……」



どこか間の抜けた声を上げた史郎の目を、紅い光が覗き込んでいた。
目の前の女性を飲み込んだ闇。


それは黒く、大きな獣だった。


黒い毛並みの狼に、熊よりも巨大な体躯を与えたらこんな感じだろうか。
始めに廊下で見た光は、深紅の光を放つ、この獣の瞳だった。
突然現れた、漫画やアニメから飛び出してきたかのような異形の存在に恐怖し硬直した少年。
その目の前で今度は、紅い光が廊下の天井に向かって昇っていく。
紅い光に誘われるようにつられて見上げていき……


ずる……ずちゅ……ごぶん……


獣の瞳が見えなくなり、入れ替わりに現れた真っ黒な喉が重苦しい音を立てて蠢く。見慣れたスカートが、白い足が、視界から消え去っていった。史郎はその光景を、全てが見えなくなるまで瞬きもせずに見届けた。
最後に長く裂けた口が閉じられ、隙間からから青い吐息が漏れる。ゆっくりと頭を下げてきた獣が変わらず紅い瞳で少年を見つめた。

余りに獰猛で鋭い眼光に、思わず一歩下がった史郎の右足に鋭い痛みが走った。目をやれば、どうやら砕けた扉の破片を踏んだらしい。足元には今まで踏まずにいたのが不思議なほど、大小様々な木片が散らばっていた。

「うぅぁあ!!」

まるで痛みに突き動かされたかのように、史郎は足元にあった破片のひとつを掴み取ると、眼前にいる獣の、赤い瞳に向かって全力で振り下ろした。

ぞぶっ!

掴んだ木片を通じて、鳥肌が立つ感触が手のひらに伝わってきた。

グギャルアアァァァ!!!

今まで周囲を覆っていた恐ろしいほどの静寂から一変、すさまじい咆哮が生暖かい風を伴って史郎を包み、暗闇を満たす大気を震わせた。

ドゴッ
「おぶっ!!」

その咆哮すら突き破る勢いで襲ってきた漆黒の闇が、少年の小さな腹部を貫いた。重く鈍い音が全身に波及し、瞬く間に全身の力を失って史郎は床に倒れ伏した。打たれた場所から焼け付くような熱が身体の中に渦巻く。
自分が殴られたのだとようやく気付いた史郎の眼前に、赤黒い染みが広がっていく。始めは自分の血かと思ったが、そうではなかった。
獣が床を踏み鳴らしながら後退するのを追いかけるように、赤黒い点が遠ざかっていく。左目を潰された黒い獣が流す血の涙を、史郎は焦点が定まらない瞳で見つめていた。
手負いとなった獣は低い唸り声を上げ、残った方の目で倒れ伏した少年を射抜くように見据えていたが、やがて踵を返し廊下の奥へと歩み始めた。
その獣を迎え入れようと、廊下の突き当りに複雑な文様をした魔法陣が浮かび上がった。

「……!」

少年の小さな右手が、ほんの数センチ、廊下を引っ掻いた。
声も出ず、身動きなど取れないが、朦朧とした意識のなかで史郎は必死に叫ぶ。

おねえちゃん……!!

すでに光の中に消えかけた獣の姿、黒よりもなお暗い毛並みの中に視線を向けて在るはずのない姿を探し求める。

おねえちゃん……。

想いと意識が闇に飲まれ、叫びはやがて力を失くした。
届くわけがない、ましてや帰ってきてくれるわけもない。
最後は、まるで何かに縋るかのような泣き声で……。

……。

…。




「おね……」






掠れた声で呼びかけながら目を開けると、心配そうな、しかしなぜか半分は何かを期待するように潤んだ瞳が、こちらを覗き込んでいた。
今しがた覚醒した意識では、それが誰なのかすぐには判別できなかったが、

(……?)

背景は染み一つない白い天井。
薬品の匂いを含んだ独特の空気。
窓から差し込む晴れやかな光と、風と戯れるように舞うカーテン。
次第に澄み渡っていく意識は間違いなく現実の感覚で、となればここは静波病院の病室だと思い至る。

もちろん、今、視界の大半を覆っている人物の名前も時を待たず明確になった。

「恵奈さん?……何をしているのですか?」

先ほどの譫言と違い、呼びかける声も淀みなく丁寧に発音できた。我ながら目覚めてすぐにしては上出来だと思う。

「……し」

しかし目の前の人物、藤木恵奈はいかにも不服そうに眉を寄せて何かを呟いた。
そして史郎が聞き返すより早く

「やり直し!!」

史郎の眼前で、僅かながら残っていた眠気のすべて吹き飛ばすかのように宣告をした。

「……えっ?」

唐突な事態に、先ほどまでとは違った意味で朦朧とする史郎。
覗き込んでいた姿勢を直立にビシリと伸ばし、史郎を見下ろす恵奈。
奇妙な沈黙が二人を包む。

「え〜、と……」

視線を彷徨わせつつたっぷり10秒は考えた末、史郎はとりあえず半身を起こそうとした。
が、恵奈が無言で史郎の両肩を押して元の状態に戻す。
どうやら不正解らしい。ご丁寧にもゆっくりと首を横に振っている。
史郎は振られる首と一緒に揺れているポニーテールを無意味に目で追いつつ、とりあえず正解を探してみる。
恵奈の言う、やり直し、とは一体何を指しているのか。いくら思考を巡らせても解らず、降参の意を込めて依然厳しい視線を向けている恵奈の顔を見返した。
見つめ返した途端に恵奈の頬が紅潮したので、降参すること自体にも憤っているのかもしれない。
実際は困ったような目線を向けてくる少年の表情に照れただけだが。

「目を閉じて」

「え?……はい」

見かねて助言をしてくれたのだろうが、不可解な内容だけに思わず疑問符を投げてしまった。
そんな史郎を恵奈は剣道の試合で鍛えた眼光で沈黙させ、同意を引き出して実行させる。

「いい?そのまま動かないでね。急に顔を持ち上げたりしたら怒るからね」

実はちょっと期待していることを言い訳のように呟きながら、真っ赤なリンゴのようになった少女は密かな想い人の眼前に顔を寄せる。
パサリと落ちたポニーテルの髪先が頬に触れてくすぐったいが、史郎は少しも動くことなく我慢をした。
お互いの息遣いが分かるほどの距離。先ほどと違い、相手が起きているとわかっているだけで乙女の心臓は早鐘を打っているが、動揺を悟られないように極力震えを押さえた声で告げる。

「さっき、言いかけたことがあったでしょ?ゆっくりと目を開けながら……言い直して」

(なるほど……)
そこまで言われてようやく恵奈の意図を察した史郎が、言われた通りに緩やかに目を開く。
眼前に恵奈の顔があるのは予想の範囲だったが、その頬が真っ赤に染まり、瞳がいつにも増してに輝いて(据わって)いるのはどうしたものか。
若干の戸惑い(恐怖)を覚えつつも真っすぐに恵奈の瞳を見返して……

「恵奈……おねえちゃん」

少し照れが入り、途中で目線が揺れてしまったが無事に言い切ることができた。

ボンッ

その瞬間、破裂音が聞こえそうなほどに恵奈の顔が茹で上がった。沸き立つ蒸気が目に見えそうである。
そんな恵奈を、今度は史郎の方が心配そうに見守るなか。

「ぬふ……ぬふふふふふぅ……」

年頃の少女が上げるには、かなりアレな笑い声を立てながら恵奈は上体を起こした。とりあえず上機嫌?な様子からして今度は及第点を得たらしいと、史郎は内心胸をなでおろした。
見悶えながら意識がどこかに行ってしまっている恵奈を見て、史郎の胸にも不思議と温かいものが生まれてきた。


「そう……か……そうですね」


先ほど見た夢を反すうしながら、史郎は独りごちた。


<わかっている。
自身がこれからすることも、これから起こることも変える事なんかできない。
過ぎ去った記憶のなかでどんなに足掻こうと何の意味もない>


それが真実だとしても


<やり直し!>


恵奈の言い放った何の変哲もない当たり前の言葉が、複雑に絡んでいた迷いを正してくれた。


(こんな私にもやるべきことはある……まだ……)


「恵奈おねえちゃん」

「ふふふ……ふぇ!?」

含み笑いの途中でふい呼びかけられた恵奈は、二度目のおねえちゃんに思わず上擦った返事を返してしまう。

「ありがとうございます。やり直し、いい言葉ですね。お蔭で勇気が出ました」

とても年下とは思えない流暢な御礼と大げさな言葉。しかし、その目線も口調も熱が籠った真剣なもの。

「あ、はい。こちらこそです」

受けた恵奈は笑いを引っ込めて、なぜか居住まいを正して上目遣いに返礼をした。
いつも快活な恵奈が見せた、どこかしおらしい様子に

「……ふふっ」

史郎は、普段の微笑みの中に、ほんの少しだけ楽し気な声をまぜて、確かに笑った。

それは他人から見れば変わりないように見えても、恵奈にとっては史郎に出会ってから一番の笑顔であり、きっと一生忘れることのない宝物だった。

17/02/05 20:51更新 / 水底
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■作者メッセージ
有給休暇の半分を使ってしまったよ。いいのか、自分。
やり直し(書き直し)は計画的に。

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