静波病院はその夜、急患が運ばれることもなくひっそりと街並みに溶け込んでいた。
面会時間もとうに過ぎ、病院内が静まり返ったころ。
ガラス一枚を隔てた向こう側が闇に染まった病室に青白い光が湧きあがり、その中から二つの人影が現れた。
その部屋の患者である史郎少年と、担当である女医の羽倉。
屈みこんでいる史郎の肩を支えていた羽倉は、少年の体調を気遣いつつ、その場に立ち上がった。病室には見回りの看護師など以外は立ち入れないよう術式を施してある。
見回りの時間でないが、念のため異常がないかを確認する。と
「……すみませんでした」
不意に足元から上がった声に視線を下げる。
上目遣いに見上げていた史郎と視線がぶつかった。
「謝ることはない」
言いつつ、羽倉は周囲を確認する振りをして慌てて視線を逸らした。
月明りのせいだろうか。消耗し地面にべったりと座り込んでいる少年の姿は儚げで、妙に色っぽく見えてしまったからだ。
（場違いな……）
内心、自嘲気味に呟く羽倉の横で少年は、顔を俯けて言葉を続ける。
「結局、羽倉さんに助けられただけで……」
「謝ることはない」
自責の言葉をつぶやき続ける史郎に、羽倉も同じ言葉を重ねるように言った。再び見上げてきた、どこか泣きそうにも見える少年の視線を、今度は羽倉もしっかりと見返す。
「……ありがとう」
凛とした声で礼を述べた羽倉は、そのまま跪き姫君にかしづく西洋の騎士よろしく頭を垂れた。
その所作はいかにも様になっていて、まるで劇の一場面のようだった。
男女の立ち位置が逆ではあるが。
「……？」
なぜ礼を言われたのか分からない様子の史郎を、羽倉は突然に抱え上げた。
「えぇ？！」
「ともかく今は休みなさい」
予期しないお姫様だっこに戸惑う史郎は羽倉の腕の中で弱々しく抵抗を試みるが、半身に温かく柔らかいものが当たり（押し付けられ）その感触に気恥ずかしさを覚えてむやみに動くこともできなくなる。
「そうそう。患者は大人しく医師の指示に従うことだ」
頬を赤らめて大人しくなった少年を微笑みながら眺める羽倉は、やけにゆっくりとベッドに近づき（いかにも名残惜しそうに）少年をシーツの上に横たえた。
「私がむやみに力を使わないよう忠告したのは、純粋に史郎の体に負担がかかるからだ。使用すること自体を責めるつもりはない。それに……」
小さな額に手を添え、目にかかった髪を優しく横に流しながら語り掛ける姿は、幼子をあやす母親のようにも見える。
「感謝しているのも、本当だ。見ず知らずの、ましてや魔物のために怒り、戦ってくれた……それだけで十分だ」
「……」
急激な疲労に襲われている史郎は、照れるでもなく目をつぶりなすがままになっている。
羽倉は指先から伝わる柔らかい感触を甘受しながら思索にふけった。

魔王の代替わりによって魔物の姿や性質は、単語自体から連想されるものよりは親しみやすくはなった。だからといって異形の存在であることに変わりはない。
教団の主張するように、人を堕落させ＜人としての生を終わらせる脅威＞だと言われればその通りかもしれない。実際、魔物の繁栄は緩やかながらも人類の衰退と滅亡を招く（現時点では）と＜ものの本＞にも記されていた。
たとえそれを差し引いても、人が本能的に魔物を、自分とは違う存在を恐れることは至極当然と言えるのかもしれない。

……にもかかわらず、いやむしろ、この少年は
（この子の身の上を考えれば、魔物を嫌悪、いや、憎んでも不思議はないはずだが……）
そこまで考えて、罪悪感という名の鈍い痛みが羽倉の胸を苛んだ。
自身も魔物だということだけでなく、羽倉個人としても過去、史郎に対して詫びきれない事をした。そしてその事実を、いまだにこの少年に伝えることが出来ずにいることが、余計に羽倉にとっての心情を暗鬱なものとしている。
以前の羽倉ならばあるいは何のためらいもなく打ち明けることもできただろうが、今となってはあまりに困難なこととなっていた。
（まだ、この子の傍を離れるわけにはいかない）
仮に自身の負い目を打ち明けたことで史郎が羽倉を拒絶したならば、少年は独りきりで戦いの中に身を投じることになる。そうなれば行きつく先は彼自身の破滅にほかならない。
ならばせめてもの償いに、
（当面は、史郎の目的達成を支援することを優先するべきだ）
それがただの詭弁であることは羽倉が一番理解しているが、彼女は未だそれ以外の拠り所を見い出せていないでいる。
「うっ、ぐぅ……」
沈痛にまわり続ける思考を断ち切ったのは不意にあがった史郎の呻き声だった。
「始まったか」
流石はリッチといったところか。呟きと同時に、苦悶を浮かべていたその表情は一瞬で医師、あるいは魔術師のそれに変わっていた。
思考の全てを切り替え、手足に魔力を込めて床や壁の一部を流れるような所作でなぞっていく。羽倉が触れ、魔力を受けた場所からあらかじめ用意してあった魔法陣が浮き上がり、光を纏った文様は中から様々な医療器具を出現させた。一見すると通常の点滴などと変わりないが、その実、特殊な体質を持つ史郎専用に改良を加えられたものだ。
酸素マスクや点滴の針を史郎の体に手早く接続する間にも史郎の呼吸は間隔が短く乾いたものとなった。ヒューヒューとした呼吸音のたびに室内に濃密な精の匂いが立ち込めていく。先ほどの魔物化を伴っての戦闘で枯渇した精、それを補おうとする身体反応は誰にでもあるものだが、史郎の反応はあまりにも急速であり過剰だった。現に幼い体に収まりきらない精を生み出しているにも関わらず生産活動は止むどころか加速し続けている。
（まずいな……。以前より反応が激しい）
羽倉は酸素マスクにつながる機械の出力を上げつつ、自身の口元にも色違いのマスクを被せた。
史郎に使用しているのは機械を通して空間中の精を吸収、濃縮して吸入させることで体への負担を軽減するもの。
一方の羽倉が着用したものは空気中の精を遮断するものだ。濃密な精を吸い続ければ魔物の大半は理性を維持することが難しくなる。経箱を持つリッチとても例外としないほどに、史郎の発する精の匂いは異常なほど濃く、あまりにも甘美な芳香を放っていた。
着用するマスクの機能と自身の思考状態が正常であることを確かめると、次いで点滴の流れる速度を早める。これは精の素材となるものを供給する、言わば特性の栄養剤だ。
今この空間に満ちている精は史郎の小さな肉体を素としている。世の摂理に違わず放出される精と同量の精が、本来は供給源となるはずのない血や内臓や骨からさえも強制的に奪われていく。即座に治療を施さねば生命活動の維持すら危うくするこの＜機能＞は、史郎の体に後天的に与えられた＜魔術実験＞の産物だ。また、精を放出する機能と同時に、体内にある栄養素から急速に精を量産する機能も魔法によって施されている。
体格にも恰幅にも恵まれていない少年の肉体から急速に精を生み出し続ければ、栄養失調、低血糖状態に陥ることは自明の理だ。
まるで人間を精を生み出すための機械にするかのような非情な魔法は、施された当初から史郎の未熟な肉体に過大な負担を強いている。

今の羽倉が担う役目は、精の放出と生産を行う２つの術のバランスを維持するとこだった。
あるいはリッチである羽倉ならば、術式を解除、ないし新たな術式を施して効果を相殺することも不可能ではない。だが史郎の願いを共に叶えると誓った以上、この機能を失くすことはできなかった。たとえそれが、史郎の命を危険に曝すことであろうとも、だ。

……ん……

せわしなく、しかし正確な施術を続ける羽倉が突然手を止めた。
機械の電子音と機器が立てる乾いた音のに混じって微かな声が聞こえた気がしたのだ。

「……おねえちゃん……」

耳をそばだてる羽倉のもとに届いた声は、今度は正確な単語として聞き取ることが出来た。今この部屋には二人しかいない以上、声は史郎のものだろうが……

「……ぼく……おねえちゃん……」

僕、お姉ちゃん。
小さな口から漏れ出てくる言葉は、普段の史郎と比してあまりに幼く、いかにも子どもらしい発音をしている。
落ち着き払った所作、穏やかな性格、大人びた態度。
その幾重にも重ねられた理性の下に沈められた年相応の幼心が、熱に浮かされた譫言として紡がれていた。

「史郎……また、夢を……」

羽倉の呟きには悲壮が混じり、再開された作業は変わらず正確なものだが、先ほどよりも些か乱暴で、まるで史郎の声が耳に入ることを拒むかのように手元の器具が絶え間ない音を立てる。
その目線も睨みつけるかのように手元に固定されたままだ。

羽倉は分かっていた。

この少年が、大人びてなどいないことを。
幼い心を、非力な自分を、ひた隠しにしているだけだということを。

羽倉は判っていた。

この少年が、眠ることを怖れていることを。
彼の視る夢は、必ず悪夢であることを。



ただ、


羽倉には、解らなかった。


……ごめん……なさい……

……おねえちゃん……ごめんなさい……


血の気のない唇を僅かに震わせて紡がれる懺悔の声を、

白い頬の上を月に照らされながら伝い落ちていく涙を、

小さな少年が負うには余りに重く非情な運命の歯車を、


それらを止める術だけは


羽倉には、解らなかった。

■作者メッセージ
お久しぶりです。
お久しぶりすぎて自作の内容と雰囲気と設定と展望が霞の如く散漫になり、
何度も読み返しては戻ってきたことは秘密です。