第二十二話 復讐の果てにて、願いは叶う/新兵のターン
私にとって見慣れたその村は、ある日突然その姿を変えた。
隣の一家では、レッサーサキュバスとなった母親が息子の陰茎を上手そうに咥え、娘が父親に抱かれていた。
女友達の家では、ラミアとなった妻、姉、妹の三人が、父親を相手に身体を絡ませ、代わる代わる求め合っていた。
怖い農夫が住む家では、老いていた筈の妻が二十歳後半にまで若返っていて、年甲斐もなく後ろから、牛のような角を生やした妻と共に腰を振っていた。
これが、あの日私が見た真実。
今まで忘れていた、目を背けていた事実。
魔物によって人は堕落し、魔物よりも魔物らしい、淫らで愛欲の化身となる。
何故魔物たちがこんな事をするのかちっとも理解できないが、当時の私は必死に見ない振りをして、父さんが居るであろう自宅に駆け込んだ。そして、
「――父さんっ!」
「シャーランか!? ……無事でよかった」
無事な姿の父親を見て、胸をなで下ろす。
一緒に村の外まで逃げよう、と提案すると同時に、奥の窓が開かれる。
「逃げるんだ!」
「あ、待って、父さん!」
父は武器を持って、来るであろう魔物を払いに走り出した。私の制止も聞かずに。
窓が開かれ、緩慢な動作で現れたのは、肘、膝共に先端から中ほどまで赤い皮膜で覆われた、褐色の肌を持つ魔物が現れた。
私と同じ赤黒い髪を持っていて、でも私と違ってクセッ毛ではなく、綺麗なセミロング。あちこちに土が付いているが、そんな事が気にならない程、同性の私から見ても綺麗、と言える魔性の存在。
武器を振り下ろす直前、父さんの身体は硬直した。
当時は背中だけしか見えず、どんな表情を浮かべていたか分からなかった。
しかし、今ならば分かる。
間違いなく、信じられないものを見てしまったような、そんな顔をしていただろう。
何故ならば、そこに居る筈のない人が、
「おはようございます、オリヴァー」
「――イザ、ベラ?」
失ってしまった筈の最愛の妻が、目の前で淫らに笑っていたのだから。
「どうして、君が」
「ふふっ♪」
私の母、イザベラは嬉しそうに声を上げて笑った後、ゆっくりと、ねっとりと父を抱きしめた。もう二度とないと思っていた、妻からの抱擁により、父は武器を手放してしまう。
「まだまだ未練が残っていましたので、貴方の下に戻って来てしまいました……♪」
イザベラは変わってしまった村の連中と同じ、妖しげで、恍惚とした表情を浮かべていた。
「未練……?」
「ええ」
腕を僅かに緩めて、吐息が掛かるほどの距離で顔を合わせ、母の姿をした魔物は言った。
「もう一度、二度、三度……、とにかく、何度でも貴方と愛し合う為に、こうやって戻って来たんですよ……?♪」
「――イザベラ」
そうして、二人は唇を重ねた。
初めこそささやかなものだったが、次第に舌を舐めあうように深く、お互いの唾液を貪り合うように強く、求め始めた。
肌をより密着させていくその光景は、さながら死別していた間の空白を埋めるように、丹念に繰り返された。
「本当に、君なんだな……?」
「もう……っ♪ 他の誰かな訳ないじゃないですか……♪」
ほんの少しだけ身体が変わっているものの、何もかもが夢にまで見た、それ以上に美しくなった妻に父は早くも虜になっていた。
既に魔物への抵抗の意志は消えており、肩に入っていた最後の力が抜けていく。
「ずっと、ずっと君に会いたかった」
声色が完全に変わった。ほんの少しだけ含まれていた、驚愕や恐怖、疑念などが全て消え失せ、安堵だけが残っていた。
「君に会う為に、何度死のうと思っただろうか」
「私も、冷たい地面の中で、ずっと貴方を欲していました」
またキスをして、抱き合う。その様を見せつけられていた私は、完全に正気を失っていた。
そして、母の視線が肩越しに、私に向けられる。
「ああ、また会えるなんて思いもしなかった……。さあ、シャーラン? 貴女も、こっちにいらっしゃい……?」
片腕を父から離し、手を差し伸べてきたのだ。
「――はは、ひ、ひぃっ!」
そこで私はおかしくなってしまったのだろう。
溢れ出る涙と狂った笑みを浮かべて、共に暖炉から火を取り出し、家の中に放り投げて家屋を燃やし始めたのだ。
狭い村だから家屋はどれも隣接しており、炎は瞬く間に燃え広がっていった。
私が燃える村から走っていたのは、父の下に行くのではなく、逃げる為だったのだ。
・・・
意識が浮き上がってくるのと同時に、私の身体も浮き上がった。
「――ぷはっ! はぁ、はぁ」
いつの間にか水の中に叩き込まれていた私は、周囲を見回した。
「ここは、堀?」
アルカトラの外壁の周囲に広がっている外堀だろう。予想外に深く、下手したら浮上する前に溺れ死んでいたかもしれない。
危なかった、と思いながら私は岸に上がろうと身体を動かし、
「あひゃぁっ!?♪」
先ほどと同じ種類の、それでいて比べ物にならない衝撃が、私の身体を走り抜けた。
「んっ、あ、あっ!♪ さ、さっきより、つよ、――ひぎっ!?♪」
ガクガクと足が震え、呼吸が何度も止まる。一回達するごとに思考がリセットされるので、何も考える事が出来ない。
身体の奥から湧き上がってくる熱が、水の中に居るにもかかわらず肌を熱し、吐息を湿らせ、粘質な液体を伴って股を擦り合わさせる。
特に腹部よりも下、位置的に子宮がある辺りだろう。そこが最も熱く、切ない。
何かが足りない。何か、太くて固くて、美味しくて愛しいもの。それを求めてしまい、おかしくなってしまいそうだ。
その答えを、心の奥底から声高に叫んでくる声に耳を貸せば、きっと、
「しんたい、きょう、かっ! に、じゅう、ぶんのっ! あんっ♪ の、い、ちっ!」
どうにか理性より搾り出せた声が、魔法の詠唱を成功させる。
幾度となく繰り返される絶頂が引いていくと同時に、全ての感覚が消えたような感触を得た。これでは泳ぐこともままならない。
――あ、危なかった……。
あのまま快楽に身を委ねれば、オーガの言った通り本当に魔物になってしまう気がした。
鬼の言葉を信じる気は一切ない。でも、竜の血を浴びてから起こり始めたこの快感は、確かに異常だ。このまま私が私でなくなってしまうというのにも頷ける。その事が怖いか、と聞かれれば、当然怖い。
――もし魔物になっちゃったら、タイチョーたちをも食べる事になるかもしれないのよね……。
そんな事、想像したくもない。
エミリアの聖術ならば治せるだろうか、などと考えもするが、彼女が今どんな苦しい状況に置かれているか分からない以上、期待する訳にはいかない。
何はともあれ、このまま呑気に堀の中を泳いでいる場合ではない。
こうしている間にも仲間たちは魔物によって傷付けられているかもしれないのだから。
「――く、ぬ」
反応の返って来ない身体をいつも使っているのだから、という経験で動かす。そして、数秒遅れて自分が堀の淵にぶつかっている事に気付く。
「よい、しょ……、っと」
命令をして、一切返事もその結果も伝えない感覚に対して苛立ちを覚えずにはいられないが、仕方ない。
どうにか淵を登り切り、念の為に振り向く。
跳ね橋の付近には誰も居なくて、静かだった。ひょっとすると不思議な空気が漂っているのかもしれないが、今の身体の状態では感じられるものも感じられない。
見た所誰も居ないのだから、早く皆の所へ向かおう。
そう思った矢先に、全ての感覚が消えた。
正確には、何も見えなくなってしまったのだ。
「……ついに目がイカレた?」
これだけ負担を掛けてきたのだ。むしろ今までよく持ったものだろう、と思う。
しかし、足元を見れば自分の身体がちゃんと見えるではないか。
「どーいう事よ、これ……」
暗闇の中だと言うのに、包帯に巻かれた身体はしっかりと見る事が出来るという、不思議な光景だった。
言ってみれば今の私は、世界と言う写真から切り抜かれた紙片のようなものだろう。
この暗闇の正体は何だ、と思って周囲を見回すが、黒一色。何も、そして誰も居ない。
その時だ。私の背後で、『何か』が現れた。
「――っ!?」
歩き回ろうとした途端に、私の身体はその『何か』に反応して動きを止めた。
筋肉が竦み上がっており、使えなくなっている筈の神経の一本一本が凍り付く。
既に怖いものなしの心すら震わせる、圧倒的、ひたすら圧倒的な存在感。
それが、背後に佇んでいる。そして、
「――はじめまして、勇敢な新兵さん♪」
場違いなほどに幼い声が、耳の奥に響いた。
・・・
「もー、ソーニャちゃんには『連れてきて』って言ったのに。こんな手荒い事してゴメンね? どうしても貴女に会いたかったのよ」
振り向けない。ただでさえいう事を聞かない身体が、背後の声に操られているように少しも動かない。
「ねぇ、顔を見せて頂戴?」
「――っ!」
言葉に魔力を宿しているのだろうか。動かない筈の私の身体は勝手に後ろを向こうとしていた。
これほどの存在感。オーガが霞むほどだ。先ほど出会ったデュラハンをも遥かに超える。さらに言えば昨日戦ったドラゴン以上だろう。
私が知る限り、こんな異常な魔物は一種類しかいない。
「あらあら、今にも泣き出しそうな酷い顔。きっと辛い事があったのね?」
出会ったならば、全てを諦めその身を差し出すべし。そんな、私に対して正面から喧嘩売ってるとしか思えない事が書かれていたので、よく覚えている。
白い肌に白い髪。そして、白い翼。
白の中で一際妖しく輝く、紅玉のような深紅の瞳。
サキュバスと似た外見なのに、サキュバスとはまるで違う存在。
『魔王』という、全ての魔物の頂点にして、主神と対を成す存在の、娘たち。
全ての魔物の魔力を持ち、その声は魔力を用いる必要もなく男を惑わせ、視線を向けただけで骨抜きにする。
その魔物の名は、
「――リリムっ!?」
「はぁい♪」
言葉が紡げた事により、金縛りから解放されたのだ、と気付いた。すぐさま踵を返して一息の内に走り出した。
――何でこんな化け物が、こんな所に来てるのよ!?
先ほど見た所、あのリリムは露出だらけでかつとても扇情的な皮の服、いわゆるボンテージスーツを着用してはいたが、外見はまだ幼い子供だった。それであの威圧感なのだ。リリムと言う種族がどれだけ桁外れか、よく分かる。
「あ、ちょっとー!」
後ろの呼び止める声は無視し、悔しいけど今は逃げる。
ドラゴンだって皆で力を合わせてようやく一矢報いた程度だというのに、リリムを一人でどうにか出来る訳がない。
諦めると言うのではなく、冷静に考えて時間稼ぎにもならないだろう事を悟った上での行動だった。
暗闇の中を走り、走って、もう大丈夫かと振り向き、
「え」
「もう、人の話は最後まで聞かなきゃダメよ?」
リリムが、先ほどと全く同じ場所に居た。
「まだ何もお話ししていないのに、逃げようとするなんて嫌よー。もっとお話ししましょう?」
脚部を強化して全力で走ったのだから、障害物がない限り教団の領地に到着していてもおかしくない距離を移動した筈だ。
それなのに今だこうしているという事は、何らかの魔法的な結界を発生させているのだろう。
「――くそっ……」
どうしようもない。そう認識し、諦めて小さなリリムを睨みつける。
「やっと聞いてくれる気になったのね?」
「仕方ないじゃない。出られないし、戦っても負ける、ってならこうするしかないじゃないの」
私らしくないとは自分でも思うが、解決のしようがないのだからどうしようもない。むしろ、一般人の私が、こんな化け物級の魔物の足止めが出来ると言うのならば、望む所だ。
「で、どんな話をしたいの? 私あんまり話得意じゃないんだけど」
一人っ子で、しかも寡黙な父親に育てられ、その上預かり先でも数言しか会話しなかった所為で、私は人に話をするのが物凄く下手だ、という自覚がある。だから人を笑わせられるような面白い事なんか言えないと思う。
目の前のリリムはえーとね、と考える素振りを見せてから、私に向かって問いかけた。
「どうしてそんなに、魔物を嫌うの?」
「は?」
思っていた事から外れて、想定外の質問が来た。
「教えて?」
「……」
何故魔物が嫌いか。そんなの、考えるまでもなく答えられる。
「……アンタら魔物は、私から大切なものを奪った。そして、今もまた奪おうとしている」
だから、魔物が憎い。
たとえどんなに説得力がある事を言おうと、そんな人に仇なす生き物の言葉に耳なんか貸さない。貸してやるもんか。
復讐したいという気持ちも消えていないし、これ以上私から、初めて出来た好敵手や、空っぽじゃないと教えてくれた大事な人を奪っていくならば、それこそ死力を尽くして抵抗してやる。その為の、この力だ。
臆病な心を殴りつけ、再び意思を強く持ち、白い淫魔を睨む。
だが、私程度の眼力では怯む様子を見せず、それは、と言ってから、
「お父さんを奪って行ったから、怒ってるの?」
「――ぇ?」
私の心の内を、易々と見通したのだ。
「そんな事、知ってて当然だよ? だって――」
まさか、そういう事なのか。
死んでいた母を蘇らせ、父を誘惑し、堕としたのは、
「貴女の村を襲わせたのは、私だもの」
・・・
あの惨状が、目の前の魔物によって引き起こされた。
「何だか物凄く悲しそうな男の人が居たから、幸せにしてあげたかったの。そうしたら、部下たちが盛り上がっちゃってね?」
まあ、今でも素敵な人見つけちゃうと言う事聞かない子ばっかりなんだけど、と補足するが、もはや私の耳には入っていない。
あの悲劇が、そんな理由で引き起こされた。
確かに火を点けたのは私だ。だが、この幼い淫魔が襲撃を画策しなければ、事件は起こらなかった。
「私たち魔物は、人間が大好きなの♪ 一部では前時代からの食人習性の名残だ、って失礼な事を言う人も居るんだけど、人の精がなければ生きて行けない今の私たちにとって、人間は傍に居てもらわなきゃ困る、人生のパートナーなのよ?」
だから、人間を喰らう事も殺す事も、とんでもない事なのだ。誤って精を吸い殺してしまう事もあり得ない。
その上、現在の魔王であるサキュバスの影響か、殆どの魔物は元々備わっていなかった『愛欲』という感情を獲得していると言っている。
これによって魔物たちは、今までただの食料としてしか見ていなかった人間を愛しく思うようになり、様々な方法で魅了するのだ。
そして、人間の女性に対しても同様に、愛情を持って接するのだ。
「人間だって生き物でしょ? だから好きな人と添い遂げたり、愛し合ったりする事が当たり前の筈よね?」
だが、人間だとそうはいかない場合が多い。社会のルール、立場、年齢など、数えられないくらいの障害が存在する。
そんな壁にぶつかって、想いを伝えられなかったり、耐え忍ぶ姿を見て、魔物たちは不憫に思うのだ。
故に、『愛し合うのはこんなに簡単なんだ』と教えようと、『こんな素敵な事を知らないなんて』と不憫に思いながら女性を堕とすのだ。
「特に、主神教団の中でガチガチに固まった考えにさせられた女の子を見ちゃうと、つい女の悦びを教えたくなっちゃうのよ♪」
そうやって人は魔に堕ちる。今までの、下らない事に固執していた自分ではなく、雌となった自分の姿を見て、悦び、愛する者と共に愉しむのだ。
浮気がちで我が儘な人間が魔物になると、従順な性格となって主人に尽くし、そして依存するようになるという。
「貴女のお母さんは元々がいい人だったからそういう変更は無くて、ただ淫らになったわ♪ 精を渇望していた上に、死んでいた間ずっと愛する人と触れられなかった事がよほど辛かったのね……」
同情するように何度も頷くリリムに対し、私はついに感情を抑えられなくなった。
「――そう。アンタの、所為だったのね」
首を傾げてこちらを窺う幼き淫魔に対し、俯いたまま私は全身に力を込めた。
「気が変わったわ。ここから出るつもりも、魔物になるつもりもなくなった」
「え? ……じゃあ、どうしようって言うの?」
最上級の淫魔とは思えない無垢な表情に対し、私は顔を上げて、告げた。
「ここで、アンタを倒す」
内にどす黒い炎を抱え、眼前の魔物を見据えたのだ。
「――どうして? 魔物は人を食べたり、殺したりしないのよ? 自分に正直になって、本当に欲しかったものに気付いて、最高の日々を送れるのよ?」
そんな事、決まっている。
「アンタさえ居なければ、誰も傷付かなかった」
勝手な善意の所為で、私は悲しんだ。今、父と母は幸せかもしれないが、人間の私にはどうあってもその考えは理解できない。
「アンタさえ居なければ、アルカトラはこんな目に合わなかった」
今もあの中で、仲間たちが必死に抵抗しているかもしれない。嫌がっているのに無理やりさせるなんて、許せない。
だから私は、戦う。自分の復讐の為、そして、大切な人をこれ以上傷付かせないようにする為、戦う。
「――アンタさえ、居なければっ!」
全身に身体強化を、50倍というぶっ飛んだ倍率で発生させる。
続けて暗闇を蹴り、音の壁を突き破って幼い淫魔へ突進する。
「おぉぁっ!」
拳を振り上げ、魔性の美しさを放っている顔面に向けて渾身の力で突き放った。
しかし、
「――っ!?」
「……駄目よ。貴女じゃ、私には触れられない」
不可視の障壁のようなものに弾かれ、私の腕は宙を泳いだ。
「くぅっ!」
だが、それでも続けて攻撃を加えようと力を込める。
無謀だ、と理解している。だが、それでも許せなかったのだ。
この魔物の所為で、私はひとりぼっちになった。
今だからこそ分かる。
あの時は寂しいと思う心すら壊れていて、感覚が麻痺していたのだ。
「ごっ――、ぬぁぁぁっ!」
回し蹴りを弾かれ、体勢を崩して尻餅をつきそうになる。しかし、地面に手を付いて反対回りの逆立ち蹴りを放つ。
「どうして……? どうしてそこまで、魔物になる事を嫌がるの?」
あまりにも言葉を聞かない私に、何かを感じたのだろうか。先ほどとは違ってリリムは、少し強い口調で私に言葉を投げ掛けた。
だが、関係ない。私は魔物の善意に対して怒っているのだから、そんな事を言われても火に油を注ぐだけだ。
「アンタらは、良かれと思って、やってるんだろうけどさ! それによって悲しんでる人だっているのよ!?」
両手を用いて別角度から攻撃を試みたが、障壁が砕ける気配は全くない。仕方がないので倍率を60倍にまで引き上げた。
私の動きが早くなるにつれ、リリムの表情が悲しげなものになっていく。
その場から動かないリリムとは対極的に、私だけが速度を上げて行った。
・・・
思考よりも早く身体を動かす。
「貴女はそのままだと、幸せどころか自分の未来さえ落としてしまう」
正面からぶつけた所為で、拳が割れる。
「こっち側に来れば、貴女が抱えてる悲しみ、苦しみがぜーんぶ解決するよ? 大切な人とずーっと愛し合っていられて、他には何も要らなくて、いつまでも幸せに包まれた時間が来るんだよ?」
倍率をまた上げて、肘で打つ。
「寝ぼけた事言ってるんじゃないわよ!」
もはや泣きそうな顔をした淫魔の顔目がけて、打撃を無数に放つ。
「人間だろうと魔物だろうと、生きている限りは事故とか、不測の事態とかで、不意打ちの悲しい別れはやってくるじゃない!」
今、自分で身体を動かしているのか分からなくなり始めていた。でも構わず貫手を放つ。
「ずっと幸せ!? ずっと一緒!? そんなの保証出来る訳ないじゃないの!」
指がへし折れたので、今度は膝を使う。
「私はね! アンタの所為でひとりぼっちになったのよ!」
膝の皿が割れた。
「たった一人! 誰も来ない、誰も見てくれない、誰も傍にいない! そんな目にあったのよ!」
左の腱が千切れて、動かなくなった。
「父さんに守られて、父さんが居なくなってから、私は思ったわ! 誰だって、いつまでも傍で守ってくれる訳じゃない、って!」
鞭のように左手を振り回す。
「何となくここに来て、大切と思える人たちと出会ったわ。 今度は私が守る番だ、って思った。 私が一人にならないように、今度こそ私の手で守るって」
一向に障壁は揺るがない。
「……っ」
「――けど、私は弱かったから、もっと無茶していこうと思った。そうしないと、戦えなかったから。一人じゃないから無茶し続けて死んでも、いいって思ってた。それで、誰かを守れるならいいんじゃないか、って思ってた」
構わず打撃を、私の唯一の武器を叩き付ける。
「でも」
抱えていた辛い思いを拳に乗せて、障壁を何発も打撃する。
『死んでしまったら、貴女は永遠にひとりぼっちになってしまうんですよ!?』
無意識下で聞いていた、好敵手の、親友の言葉を思い返し、
「死んだら、ひとりぼっちになっちゃう。そして今度は、もう二度と救いのない、永遠の一人」
広い部屋の中、山のように積まれた本と、扉の隙間から差し入れられる冷たい食事を思い出す。
もし、扉が開かなかったら。もし、窓の先に何もなかったら。
もし、そんな孤独に、永遠と耐えなければならないとしたら。
「――嫌だよ……。私は、もう一人になりたくない」
気が付けば、私は腕を止めて、項垂れていた。膝を突き、血まみれの身体を抱いて、怯えていたのだ。
「一人になりたくないから戦うのに、戦うと、いつか一人になっちゃう」
「……貴女は」
「戦わなかったら一人になっちゃうのに、戦っても一人になっちゃう」
もう泣いているという感覚すら脳には届いておらず、視界が滲んでいる事しか、今の私には分からない。
「――どうしたらいいのよ」
身体を起こす。
「助けてよ……、ひとりぼっちはやだよ……、――傍に、居てよ、タイチョー……」
唯一心を預けられる人の顔を浮かべて、私は強化の倍率を引き上げた。
「待って! もう貴女の身体は――」
今すぐ傍に行きたい。その為に、戦わなくちゃ。
言葉を遮って、100倍の強化を全身に掛けて、地面を蹴って、握り拳を作って、
「あああぁぁぁぁああああぁぁぁっ!」
やめて、なんて言っても、止める訳がない。
このまま障壁ごと、リリムを。
ぶちっ。
隣の一家では、レッサーサキュバスとなった母親が息子の陰茎を上手そうに咥え、娘が父親に抱かれていた。
女友達の家では、ラミアとなった妻、姉、妹の三人が、父親を相手に身体を絡ませ、代わる代わる求め合っていた。
怖い農夫が住む家では、老いていた筈の妻が二十歳後半にまで若返っていて、年甲斐もなく後ろから、牛のような角を生やした妻と共に腰を振っていた。
これが、あの日私が見た真実。
今まで忘れていた、目を背けていた事実。
魔物によって人は堕落し、魔物よりも魔物らしい、淫らで愛欲の化身となる。
何故魔物たちがこんな事をするのかちっとも理解できないが、当時の私は必死に見ない振りをして、父さんが居るであろう自宅に駆け込んだ。そして、
「――父さんっ!」
「シャーランか!? ……無事でよかった」
無事な姿の父親を見て、胸をなで下ろす。
一緒に村の外まで逃げよう、と提案すると同時に、奥の窓が開かれる。
「逃げるんだ!」
「あ、待って、父さん!」
父は武器を持って、来るであろう魔物を払いに走り出した。私の制止も聞かずに。
窓が開かれ、緩慢な動作で現れたのは、肘、膝共に先端から中ほどまで赤い皮膜で覆われた、褐色の肌を持つ魔物が現れた。
私と同じ赤黒い髪を持っていて、でも私と違ってクセッ毛ではなく、綺麗なセミロング。あちこちに土が付いているが、そんな事が気にならない程、同性の私から見ても綺麗、と言える魔性の存在。
武器を振り下ろす直前、父さんの身体は硬直した。
当時は背中だけしか見えず、どんな表情を浮かべていたか分からなかった。
しかし、今ならば分かる。
間違いなく、信じられないものを見てしまったような、そんな顔をしていただろう。
何故ならば、そこに居る筈のない人が、
「おはようございます、オリヴァー」
「――イザ、ベラ?」
失ってしまった筈の最愛の妻が、目の前で淫らに笑っていたのだから。
「どうして、君が」
「ふふっ♪」
私の母、イザベラは嬉しそうに声を上げて笑った後、ゆっくりと、ねっとりと父を抱きしめた。もう二度とないと思っていた、妻からの抱擁により、父は武器を手放してしまう。
「まだまだ未練が残っていましたので、貴方の下に戻って来てしまいました……♪」
イザベラは変わってしまった村の連中と同じ、妖しげで、恍惚とした表情を浮かべていた。
「未練……?」
「ええ」
腕を僅かに緩めて、吐息が掛かるほどの距離で顔を合わせ、母の姿をした魔物は言った。
「もう一度、二度、三度……、とにかく、何度でも貴方と愛し合う為に、こうやって戻って来たんですよ……?♪」
「――イザベラ」
そうして、二人は唇を重ねた。
初めこそささやかなものだったが、次第に舌を舐めあうように深く、お互いの唾液を貪り合うように強く、求め始めた。
肌をより密着させていくその光景は、さながら死別していた間の空白を埋めるように、丹念に繰り返された。
「本当に、君なんだな……?」
「もう……っ♪ 他の誰かな訳ないじゃないですか……♪」
ほんの少しだけ身体が変わっているものの、何もかもが夢にまで見た、それ以上に美しくなった妻に父は早くも虜になっていた。
既に魔物への抵抗の意志は消えており、肩に入っていた最後の力が抜けていく。
「ずっと、ずっと君に会いたかった」
声色が完全に変わった。ほんの少しだけ含まれていた、驚愕や恐怖、疑念などが全て消え失せ、安堵だけが残っていた。
「君に会う為に、何度死のうと思っただろうか」
「私も、冷たい地面の中で、ずっと貴方を欲していました」
またキスをして、抱き合う。その様を見せつけられていた私は、完全に正気を失っていた。
そして、母の視線が肩越しに、私に向けられる。
「ああ、また会えるなんて思いもしなかった……。さあ、シャーラン? 貴女も、こっちにいらっしゃい……?」
片腕を父から離し、手を差し伸べてきたのだ。
「――はは、ひ、ひぃっ!」
そこで私はおかしくなってしまったのだろう。
溢れ出る涙と狂った笑みを浮かべて、共に暖炉から火を取り出し、家の中に放り投げて家屋を燃やし始めたのだ。
狭い村だから家屋はどれも隣接しており、炎は瞬く間に燃え広がっていった。
私が燃える村から走っていたのは、父の下に行くのではなく、逃げる為だったのだ。
・・・
意識が浮き上がってくるのと同時に、私の身体も浮き上がった。
「――ぷはっ! はぁ、はぁ」
いつの間にか水の中に叩き込まれていた私は、周囲を見回した。
「ここは、堀?」
アルカトラの外壁の周囲に広がっている外堀だろう。予想外に深く、下手したら浮上する前に溺れ死んでいたかもしれない。
危なかった、と思いながら私は岸に上がろうと身体を動かし、
「あひゃぁっ!?♪」
先ほどと同じ種類の、それでいて比べ物にならない衝撃が、私の身体を走り抜けた。
「んっ、あ、あっ!♪ さ、さっきより、つよ、――ひぎっ!?♪」
ガクガクと足が震え、呼吸が何度も止まる。一回達するごとに思考がリセットされるので、何も考える事が出来ない。
身体の奥から湧き上がってくる熱が、水の中に居るにもかかわらず肌を熱し、吐息を湿らせ、粘質な液体を伴って股を擦り合わさせる。
特に腹部よりも下、位置的に子宮がある辺りだろう。そこが最も熱く、切ない。
何かが足りない。何か、太くて固くて、美味しくて愛しいもの。それを求めてしまい、おかしくなってしまいそうだ。
その答えを、心の奥底から声高に叫んでくる声に耳を貸せば、きっと、
「しんたい、きょう、かっ! に、じゅう、ぶんのっ! あんっ♪ の、い、ちっ!」
どうにか理性より搾り出せた声が、魔法の詠唱を成功させる。
幾度となく繰り返される絶頂が引いていくと同時に、全ての感覚が消えたような感触を得た。これでは泳ぐこともままならない。
――あ、危なかった……。
あのまま快楽に身を委ねれば、オーガの言った通り本当に魔物になってしまう気がした。
鬼の言葉を信じる気は一切ない。でも、竜の血を浴びてから起こり始めたこの快感は、確かに異常だ。このまま私が私でなくなってしまうというのにも頷ける。その事が怖いか、と聞かれれば、当然怖い。
――もし魔物になっちゃったら、タイチョーたちをも食べる事になるかもしれないのよね……。
そんな事、想像したくもない。
エミリアの聖術ならば治せるだろうか、などと考えもするが、彼女が今どんな苦しい状況に置かれているか分からない以上、期待する訳にはいかない。
何はともあれ、このまま呑気に堀の中を泳いでいる場合ではない。
こうしている間にも仲間たちは魔物によって傷付けられているかもしれないのだから。
「――く、ぬ」
反応の返って来ない身体をいつも使っているのだから、という経験で動かす。そして、数秒遅れて自分が堀の淵にぶつかっている事に気付く。
「よい、しょ……、っと」
命令をして、一切返事もその結果も伝えない感覚に対して苛立ちを覚えずにはいられないが、仕方ない。
どうにか淵を登り切り、念の為に振り向く。
跳ね橋の付近には誰も居なくて、静かだった。ひょっとすると不思議な空気が漂っているのかもしれないが、今の身体の状態では感じられるものも感じられない。
見た所誰も居ないのだから、早く皆の所へ向かおう。
そう思った矢先に、全ての感覚が消えた。
正確には、何も見えなくなってしまったのだ。
「……ついに目がイカレた?」
これだけ負担を掛けてきたのだ。むしろ今までよく持ったものだろう、と思う。
しかし、足元を見れば自分の身体がちゃんと見えるではないか。
「どーいう事よ、これ……」
暗闇の中だと言うのに、包帯に巻かれた身体はしっかりと見る事が出来るという、不思議な光景だった。
言ってみれば今の私は、世界と言う写真から切り抜かれた紙片のようなものだろう。
この暗闇の正体は何だ、と思って周囲を見回すが、黒一色。何も、そして誰も居ない。
その時だ。私の背後で、『何か』が現れた。
「――っ!?」
歩き回ろうとした途端に、私の身体はその『何か』に反応して動きを止めた。
筋肉が竦み上がっており、使えなくなっている筈の神経の一本一本が凍り付く。
既に怖いものなしの心すら震わせる、圧倒的、ひたすら圧倒的な存在感。
それが、背後に佇んでいる。そして、
「――はじめまして、勇敢な新兵さん♪」
場違いなほどに幼い声が、耳の奥に響いた。
・・・
「もー、ソーニャちゃんには『連れてきて』って言ったのに。こんな手荒い事してゴメンね? どうしても貴女に会いたかったのよ」
振り向けない。ただでさえいう事を聞かない身体が、背後の声に操られているように少しも動かない。
「ねぇ、顔を見せて頂戴?」
「――っ!」
言葉に魔力を宿しているのだろうか。動かない筈の私の身体は勝手に後ろを向こうとしていた。
これほどの存在感。オーガが霞むほどだ。先ほど出会ったデュラハンをも遥かに超える。さらに言えば昨日戦ったドラゴン以上だろう。
私が知る限り、こんな異常な魔物は一種類しかいない。
「あらあら、今にも泣き出しそうな酷い顔。きっと辛い事があったのね?」
出会ったならば、全てを諦めその身を差し出すべし。そんな、私に対して正面から喧嘩売ってるとしか思えない事が書かれていたので、よく覚えている。
白い肌に白い髪。そして、白い翼。
白の中で一際妖しく輝く、紅玉のような深紅の瞳。
サキュバスと似た外見なのに、サキュバスとはまるで違う存在。
『魔王』という、全ての魔物の頂点にして、主神と対を成す存在の、娘たち。
全ての魔物の魔力を持ち、その声は魔力を用いる必要もなく男を惑わせ、視線を向けただけで骨抜きにする。
その魔物の名は、
「――リリムっ!?」
「はぁい♪」
言葉が紡げた事により、金縛りから解放されたのだ、と気付いた。すぐさま踵を返して一息の内に走り出した。
――何でこんな化け物が、こんな所に来てるのよ!?
先ほど見た所、あのリリムは露出だらけでかつとても扇情的な皮の服、いわゆるボンテージスーツを着用してはいたが、外見はまだ幼い子供だった。それであの威圧感なのだ。リリムと言う種族がどれだけ桁外れか、よく分かる。
「あ、ちょっとー!」
後ろの呼び止める声は無視し、悔しいけど今は逃げる。
ドラゴンだって皆で力を合わせてようやく一矢報いた程度だというのに、リリムを一人でどうにか出来る訳がない。
諦めると言うのではなく、冷静に考えて時間稼ぎにもならないだろう事を悟った上での行動だった。
暗闇の中を走り、走って、もう大丈夫かと振り向き、
「え」
「もう、人の話は最後まで聞かなきゃダメよ?」
リリムが、先ほどと全く同じ場所に居た。
「まだ何もお話ししていないのに、逃げようとするなんて嫌よー。もっとお話ししましょう?」
脚部を強化して全力で走ったのだから、障害物がない限り教団の領地に到着していてもおかしくない距離を移動した筈だ。
それなのに今だこうしているという事は、何らかの魔法的な結界を発生させているのだろう。
「――くそっ……」
どうしようもない。そう認識し、諦めて小さなリリムを睨みつける。
「やっと聞いてくれる気になったのね?」
「仕方ないじゃない。出られないし、戦っても負ける、ってならこうするしかないじゃないの」
私らしくないとは自分でも思うが、解決のしようがないのだからどうしようもない。むしろ、一般人の私が、こんな化け物級の魔物の足止めが出来ると言うのならば、望む所だ。
「で、どんな話をしたいの? 私あんまり話得意じゃないんだけど」
一人っ子で、しかも寡黙な父親に育てられ、その上預かり先でも数言しか会話しなかった所為で、私は人に話をするのが物凄く下手だ、という自覚がある。だから人を笑わせられるような面白い事なんか言えないと思う。
目の前のリリムはえーとね、と考える素振りを見せてから、私に向かって問いかけた。
「どうしてそんなに、魔物を嫌うの?」
「は?」
思っていた事から外れて、想定外の質問が来た。
「教えて?」
「……」
何故魔物が嫌いか。そんなの、考えるまでもなく答えられる。
「……アンタら魔物は、私から大切なものを奪った。そして、今もまた奪おうとしている」
だから、魔物が憎い。
たとえどんなに説得力がある事を言おうと、そんな人に仇なす生き物の言葉に耳なんか貸さない。貸してやるもんか。
復讐したいという気持ちも消えていないし、これ以上私から、初めて出来た好敵手や、空っぽじゃないと教えてくれた大事な人を奪っていくならば、それこそ死力を尽くして抵抗してやる。その為の、この力だ。
臆病な心を殴りつけ、再び意思を強く持ち、白い淫魔を睨む。
だが、私程度の眼力では怯む様子を見せず、それは、と言ってから、
「お父さんを奪って行ったから、怒ってるの?」
「――ぇ?」
私の心の内を、易々と見通したのだ。
「そんな事、知ってて当然だよ? だって――」
まさか、そういう事なのか。
死んでいた母を蘇らせ、父を誘惑し、堕としたのは、
「貴女の村を襲わせたのは、私だもの」
・・・
あの惨状が、目の前の魔物によって引き起こされた。
「何だか物凄く悲しそうな男の人が居たから、幸せにしてあげたかったの。そうしたら、部下たちが盛り上がっちゃってね?」
まあ、今でも素敵な人見つけちゃうと言う事聞かない子ばっかりなんだけど、と補足するが、もはや私の耳には入っていない。
あの悲劇が、そんな理由で引き起こされた。
確かに火を点けたのは私だ。だが、この幼い淫魔が襲撃を画策しなければ、事件は起こらなかった。
「私たち魔物は、人間が大好きなの♪ 一部では前時代からの食人習性の名残だ、って失礼な事を言う人も居るんだけど、人の精がなければ生きて行けない今の私たちにとって、人間は傍に居てもらわなきゃ困る、人生のパートナーなのよ?」
だから、人間を喰らう事も殺す事も、とんでもない事なのだ。誤って精を吸い殺してしまう事もあり得ない。
その上、現在の魔王であるサキュバスの影響か、殆どの魔物は元々備わっていなかった『愛欲』という感情を獲得していると言っている。
これによって魔物たちは、今までただの食料としてしか見ていなかった人間を愛しく思うようになり、様々な方法で魅了するのだ。
そして、人間の女性に対しても同様に、愛情を持って接するのだ。
「人間だって生き物でしょ? だから好きな人と添い遂げたり、愛し合ったりする事が当たり前の筈よね?」
だが、人間だとそうはいかない場合が多い。社会のルール、立場、年齢など、数えられないくらいの障害が存在する。
そんな壁にぶつかって、想いを伝えられなかったり、耐え忍ぶ姿を見て、魔物たちは不憫に思うのだ。
故に、『愛し合うのはこんなに簡単なんだ』と教えようと、『こんな素敵な事を知らないなんて』と不憫に思いながら女性を堕とすのだ。
「特に、主神教団の中でガチガチに固まった考えにさせられた女の子を見ちゃうと、つい女の悦びを教えたくなっちゃうのよ♪」
そうやって人は魔に堕ちる。今までの、下らない事に固執していた自分ではなく、雌となった自分の姿を見て、悦び、愛する者と共に愉しむのだ。
浮気がちで我が儘な人間が魔物になると、従順な性格となって主人に尽くし、そして依存するようになるという。
「貴女のお母さんは元々がいい人だったからそういう変更は無くて、ただ淫らになったわ♪ 精を渇望していた上に、死んでいた間ずっと愛する人と触れられなかった事がよほど辛かったのね……」
同情するように何度も頷くリリムに対し、私はついに感情を抑えられなくなった。
「――そう。アンタの、所為だったのね」
首を傾げてこちらを窺う幼き淫魔に対し、俯いたまま私は全身に力を込めた。
「気が変わったわ。ここから出るつもりも、魔物になるつもりもなくなった」
「え? ……じゃあ、どうしようって言うの?」
最上級の淫魔とは思えない無垢な表情に対し、私は顔を上げて、告げた。
「ここで、アンタを倒す」
内にどす黒い炎を抱え、眼前の魔物を見据えたのだ。
「――どうして? 魔物は人を食べたり、殺したりしないのよ? 自分に正直になって、本当に欲しかったものに気付いて、最高の日々を送れるのよ?」
そんな事、決まっている。
「アンタさえ居なければ、誰も傷付かなかった」
勝手な善意の所為で、私は悲しんだ。今、父と母は幸せかもしれないが、人間の私にはどうあってもその考えは理解できない。
「アンタさえ居なければ、アルカトラはこんな目に合わなかった」
今もあの中で、仲間たちが必死に抵抗しているかもしれない。嫌がっているのに無理やりさせるなんて、許せない。
だから私は、戦う。自分の復讐の為、そして、大切な人をこれ以上傷付かせないようにする為、戦う。
「――アンタさえ、居なければっ!」
全身に身体強化を、50倍というぶっ飛んだ倍率で発生させる。
続けて暗闇を蹴り、音の壁を突き破って幼い淫魔へ突進する。
「おぉぁっ!」
拳を振り上げ、魔性の美しさを放っている顔面に向けて渾身の力で突き放った。
しかし、
「――っ!?」
「……駄目よ。貴女じゃ、私には触れられない」
不可視の障壁のようなものに弾かれ、私の腕は宙を泳いだ。
「くぅっ!」
だが、それでも続けて攻撃を加えようと力を込める。
無謀だ、と理解している。だが、それでも許せなかったのだ。
この魔物の所為で、私はひとりぼっちになった。
今だからこそ分かる。
あの時は寂しいと思う心すら壊れていて、感覚が麻痺していたのだ。
「ごっ――、ぬぁぁぁっ!」
回し蹴りを弾かれ、体勢を崩して尻餅をつきそうになる。しかし、地面に手を付いて反対回りの逆立ち蹴りを放つ。
「どうして……? どうしてそこまで、魔物になる事を嫌がるの?」
あまりにも言葉を聞かない私に、何かを感じたのだろうか。先ほどとは違ってリリムは、少し強い口調で私に言葉を投げ掛けた。
だが、関係ない。私は魔物の善意に対して怒っているのだから、そんな事を言われても火に油を注ぐだけだ。
「アンタらは、良かれと思って、やってるんだろうけどさ! それによって悲しんでる人だっているのよ!?」
両手を用いて別角度から攻撃を試みたが、障壁が砕ける気配は全くない。仕方がないので倍率を60倍にまで引き上げた。
私の動きが早くなるにつれ、リリムの表情が悲しげなものになっていく。
その場から動かないリリムとは対極的に、私だけが速度を上げて行った。
・・・
思考よりも早く身体を動かす。
「貴女はそのままだと、幸せどころか自分の未来さえ落としてしまう」
正面からぶつけた所為で、拳が割れる。
「こっち側に来れば、貴女が抱えてる悲しみ、苦しみがぜーんぶ解決するよ? 大切な人とずーっと愛し合っていられて、他には何も要らなくて、いつまでも幸せに包まれた時間が来るんだよ?」
倍率をまた上げて、肘で打つ。
「寝ぼけた事言ってるんじゃないわよ!」
もはや泣きそうな顔をした淫魔の顔目がけて、打撃を無数に放つ。
「人間だろうと魔物だろうと、生きている限りは事故とか、不測の事態とかで、不意打ちの悲しい別れはやってくるじゃない!」
今、自分で身体を動かしているのか分からなくなり始めていた。でも構わず貫手を放つ。
「ずっと幸せ!? ずっと一緒!? そんなの保証出来る訳ないじゃないの!」
指がへし折れたので、今度は膝を使う。
「私はね! アンタの所為でひとりぼっちになったのよ!」
膝の皿が割れた。
「たった一人! 誰も来ない、誰も見てくれない、誰も傍にいない! そんな目にあったのよ!」
左の腱が千切れて、動かなくなった。
「父さんに守られて、父さんが居なくなってから、私は思ったわ! 誰だって、いつまでも傍で守ってくれる訳じゃない、って!」
鞭のように左手を振り回す。
「何となくここに来て、大切と思える人たちと出会ったわ。 今度は私が守る番だ、って思った。 私が一人にならないように、今度こそ私の手で守るって」
一向に障壁は揺るがない。
「……っ」
「――けど、私は弱かったから、もっと無茶していこうと思った。そうしないと、戦えなかったから。一人じゃないから無茶し続けて死んでも、いいって思ってた。それで、誰かを守れるならいいんじゃないか、って思ってた」
構わず打撃を、私の唯一の武器を叩き付ける。
「でも」
抱えていた辛い思いを拳に乗せて、障壁を何発も打撃する。
『死んでしまったら、貴女は永遠にひとりぼっちになってしまうんですよ!?』
無意識下で聞いていた、好敵手の、親友の言葉を思い返し、
「死んだら、ひとりぼっちになっちゃう。そして今度は、もう二度と救いのない、永遠の一人」
広い部屋の中、山のように積まれた本と、扉の隙間から差し入れられる冷たい食事を思い出す。
もし、扉が開かなかったら。もし、窓の先に何もなかったら。
もし、そんな孤独に、永遠と耐えなければならないとしたら。
「――嫌だよ……。私は、もう一人になりたくない」
気が付けば、私は腕を止めて、項垂れていた。膝を突き、血まみれの身体を抱いて、怯えていたのだ。
「一人になりたくないから戦うのに、戦うと、いつか一人になっちゃう」
「……貴女は」
「戦わなかったら一人になっちゃうのに、戦っても一人になっちゃう」
もう泣いているという感覚すら脳には届いておらず、視界が滲んでいる事しか、今の私には分からない。
「――どうしたらいいのよ」
身体を起こす。
「助けてよ……、ひとりぼっちはやだよ……、――傍に、居てよ、タイチョー……」
唯一心を預けられる人の顔を浮かべて、私は強化の倍率を引き上げた。
「待って! もう貴女の身体は――」
今すぐ傍に行きたい。その為に、戦わなくちゃ。
言葉を遮って、100倍の強化を全身に掛けて、地面を蹴って、握り拳を作って、
「あああぁぁぁぁああああぁぁぁっ!」
やめて、なんて言っても、止める訳がない。
このまま障壁ごと、リリムを。
ぶちっ。
14/05/24 15:50更新 / イブシャケ
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