第二十話 堕ちゆく街にて/新兵のターン
熱い。
燃えるように熱い。
暴虐なまでに煮えたぎった熱が、私の身体を犯し続けている。
千切れた足の痛みも、潰れた肺の叫びも、もはや気にならない。それくらいに身体が燃えている。
全ての痛みが、感覚が無い。神経が燃え、脊髄が焼け付き、いずれ全ての感覚が死を遂げるだろう。
このまま私は灰になろうとしている内臓と同じ末路を遂げるのだろうか。
このまま私は、物言わぬ骸になるのだろう。
臨んだ事じゃないか、と私は私に答える。
鬼を打ち負かした。伝説の存在に一矢報いた。それも、ただの、訓練もロクにしていない人間が、だ。
悔しいだろう。人間を舐めるからそうなるんだ。私に仕返し出来なくなるから、そのまま一生悔しんでろ。
おまけに、こんな私でも、仲間を守れたのだ。
父さんの事もあって、私には誰も守れないと諦めていた。けれど、私とは正反対の性格で融通が利かない、私と同じ人を好きになった好敵手を、友達を守れたのだ。しかも結果的に仲間も守れたし、万々歳だ。
きっと、皆を泣かせてしまうけど、皆が生きていれば、それで私はもう満足だ。
――嫌。
――嫌。
――嫌。
私が居なくなる事で、きっと気まずい空気になるとは思う。
けれど、いつかそれを乗り越えられた時、今以上に部隊の皆は固い絆で結ばれる。
そうなった後私の墓前で笑い、未来に向かって行く事を教えてくれれば、それでいい。
欲を言うなら、私の友達には幸せになってもらいたいものだ。
――やだ。
――やだ。
――やだ。
どうやら脳すらまともに動かなくなったようだ。
もう助からないのだ。
思っても願っても、この身体は一ミリも動かない。目を覚ましても、身体は死んでいる。肉体はそこにあって、触れられない。
だから諦めようとした。
正確には、既に諦めていた。
――たすけて。
――たすけて。
――たすけて。
なのに、どうして子供が駄々をこねる様な、小さな泣き声が聞こえるのだろうか。
・・・
泥沼のような、重い感触と共に私は瞼を持ち上げた。
「――あ、れ」
生きている。驚く事に、その実感がある。
何処とも知れない、何一つ見えない真っ暗闇の中、私は死んでいなかった。
「何で……?」
私が浴びたものの、ドラゴンの血液の効果は、私も知っていた。本に書いてあったのだ。
こうして頭から被る事になるとは夢にも思わなかったが、書かれていた効果からして、一人の人間など容易く灰にしてしまえるような物だと思っていた。だが、どうやら違ったらしい。
ひとまず、今自分が置かれている状況を把握しなければ。そう考え、身体を動かし、
「――うひゃっ!?」
瞬間、全身に電撃が走った。
今まで感じた事の無い、意識だけが空の彼方へ飛んでいく様な、激しい衝撃だった。
「な、何、これぇ……?」
何かを成した時の達成感とも、好きな物を食べている時の満足感とも違う。 例えるとすると、興味本位で行った自慰による、性的な快楽に近いものがある。得られた快楽の大きさはそれこそ比ではないが。
「あっ、ひっ……♪」
徐々に靄掛かっていく意識の中、燃えるように熱い身体が何かを欲しがって、さらに強さを増して火照り始めた。
「――んあっ!?」
視界の中で火花が幾度も散り、暗闇の視界の中で輝きを見せる。
衝撃が身体を震わせ、それによってまた衝撃が生まれる。連鎖的に引き起こされる電撃は私から正常な思考を削ぎ取っていく。
――こ、これ、バカに、なりそっ……♪
その行動が、より一層電撃という快楽の波を強くする事を分かった上で、私は身体を縮めるように足を引いて肩を抱き、丸まった。
「あ、ふぁ、あ、――んあっ!♪」
自分の口から出ているとは思えない、思いたくない嬌声に、本来なら怖気立つ所だ。しかし、その声すらも、今の私には身体を燃やす快楽として現れる。
このままでは危険だ。そう判断した、辛うじて残っていた小さな理性が、最後の力を振り絞って言葉を紡ぐ事に成功した。
「しんっ、たい、きょうか、じゅうぶんんっ、の、いちっ!」
身体強化の倍数を、どうにか告げきった。
本来強化に用いる物を、逆に弱める。
対象は、感覚器官全部。
「――……ぅぁ」
全身の感覚が、酷く鈍くなった。
本来得ている物が遠く、小さくしか感じられなくなった。
冷たい風を感じる触覚も。
悪臭を伝える嗅覚も。
全身を襲っていた暴力的快楽も。
唐突に腕に、足に、頭に倦怠感が圧し掛かり、二日酔いもかくやという腹部の重さを得た。このまま急に動けば、まず間違いなくゲロる。
「……まあ、動くからいいか」
若干身体の火照りは残っているが、先ほどまでの、服と肌が擦れただけだったにも関わらず、意識が数回飛ぶような深刻な状態ではない。
――自分で慰めた時も、こうはならないわよね……。
自分の状況に不安を憶えずにはいられないが、ひとまず現状の把握だ。
あらゆる感覚が弱まっているので、ちゃんと立ち上がれるか心配になったが、どうやら立ててはいるらしい。暗いから分からないが。
「そもそも、私再起不能じゃなかったっけ?」
思い返し、両手両足を注視する。見えないが、触れるとそこに存在するという、確かな実感が遅れながら返ってくる。
何かの布によって幾重にも巻かれた四肢には、一切の異常を感じなかった。
拳を握っても返ってくる感触が鈍い事を除けば、動かす分には一切問題がない。
足も同様で、膝から下、その半ばからは無くなっていた筈の右足は繋がっているように見え、左足も同様に変な所はない。
「……???」
あの戦いは夢だったのか。そうとしか思えないくらいに、身体に不自由がない。先ほどの奇妙な快感を除けば、むしろ前よりも調子がいいくらいだ。
「まあ、いっか。とにかく、ここから出よう」
神経が返す反応の遅れを実感しながらも、私は前へ歩き出す。
「――ぬわっ!? ちょ!」
だが、踏み出した足場はその場にはなく、少し下にあった。どうやら坂の上に寝転がっていたらしい。
いつもならばすぐに体勢を立て直せるが、今はそうはいかない。結果的に私は、バランスを崩して転んでしまった。
「わーっ!?」
そして坂の上で転んでしまった場合、どうなるだろうか。そんな事は明白だ。下まで転がって行くに決まっている。
「おぶっ!」
壁に激突し、動きが止まった。よろよろと立ちあがりながら、壁に手を付く。
「な、何なのよ、ここ。暗いし、不自然にガタガタした坂はあるし、何よりも臭いし」
肉が腐ったような、そんな悪臭を放つこの部屋からは少しでも早く出て行きたい。そんな気分で出口を探す。
「――あれ?」
ふと、手から返ってくる感触が、冷たく揺るがないものから、数本の棒で形成された、比較的動かせそうなものへと変化した。
私は数秒前に触っていた場所に手を戻し、
「鉄格子、かな。――えい」
壊せないか、と思って前に押し出した。
錆びた金具が砕ける音と共に、私の身体は前へ動いた。
「よっし。早い所出よう」
出来た道の先へ進み、爪先が何かにぶつかっている事に気付く。しかし、手を前に出しても壁は無い。
「階段ね。……今の身体で上がって大丈夫かなー」
転げ落ちないようにゆっくりと、四つん這いになりながら一歩一歩確かめるように、階段を上っていく。
20回ほどそんな事をした後、鼻先がまた壁にぶつかった。
「行き止まり、って訳でもないんでしょうね。何処かにスイッチが……、えーい面倒臭いっ!」
拳を振り上げ、前方に正拳を放った。一瞬だけ固い感触が返ってきた後、腕が壁を突き抜けた。出来た隙間から、僅かな間ではあったが久しぶりの光を拝む事が出来た。
穴を広げて、壁の先、何やら倉庫のような場所にたどり着いた。
「ふぅ。やっと出られた」
ここには松明が置かれていたので、周囲の状況が目で見える。
そういえば、と思い、自分の身体を明かりの下に晒し、
「――うっわー、全身包帯まみれ」
とても動けるような人間の身体ではない。しかも、治療用の符なのか包帯なのか判別がつかないくらいに全身が汚れていて、怪我に悪いとしか言いようがない状況だ。
「それにしても、これ巻いたの随分と不器用な奴ね。手足だけにこんなにゴテゴテに巻いちゃって、防具のつもり?」
ともかく、現状の確認だ。私はその部屋から出て、窓のない廊下を見てこの場所が地下だろう事を予想する。
「何でこんな所にいるのか、って事と、タイチョーたちがどうなったか、って事を調べないとね」
廊下に出て、また出口を探す。
その時だった。頭上で、何か激しい音が聞こえたのだ。
「え? 何、今の?」
続けて幾つもの足音がなり、怒声のようなものも響いてくる。金属の擦れる音や、まれに悲鳴も聞こえてくる。
まるで、この上で戦争が繰り広げられているようだった。
「何なのよ、まったく……」
あまりにも理解できない事が立て続けに起こり、辟易してきたが、階段を見つけたので上に行く。
途中、壁に掛けられていた、見覚えのある模様が刻まれた旗を見て、
「あれ? この紋章って。……確か、アルカトラの紋章だった気が。って事はここはアルカトラ?」
松明もあるのだし、人間が住んでいる事は分かっていたが、どうやら帰って来ていたらしい。
――だったらさっきの暗い所は一体……。ってか上の喧騒は何よ?
いろいろな事がぐるぐると頭の中を回り、
「考えてても仕方ない、か」
それらを全て脇にどけて、階段を上がり切った。
「ここって、ハミハミとアネーと一緒に来た大聖堂の、一階よね。じゃあ出口はこっち――」
巨大な扉を押し開けたと同時に、私は目を疑った。
――え?
まず、空が見えた。私が知っている青い空でも夜の空でもなく、夜闇よりも深い暗黒の空が広がっていた。
次に、月が見えた。淡く、静かな光を放っていた筈の金色の月は、今は妖しげに紅く輝いている。
風に触れた、という感触がやっと脳に到達した。しかし、それもまた私が知っている感触ではなかった。心を落ち着かせる爽やかな夜風はそこにはなく、代わりに肌に纏わり付くような粘りと、甘ったるい熱を持った風があるだけだった。
そして最後に、
「――何で、街で、戦闘が起こってるの?」
見覚えのある街並みで、魔物たちと戦う兵士達の姿を見つけた。
――何、これ。
もはや理解できる事が一つもなくなり、呆然と立ち尽くしてしまう。
理解の速度が遅いのは、感覚を減衰させているからだろうか。それとも、元々理解力が高くないからだろうか。
だが唯一、たった一つだけ私にも分かる事があった。
「そこら中に魔物が居るんじゃないの……!」
まだ私には、魔物と戦う機会がある、という事だ。
スライムにワーウルフ、オークにゴブリン、アラクネに、空を行くのはハーピーだろうか。羽が黒いからブラックハーピーとかいう種類だろうか。
そんな多種多様の魔物たちが、外壁を越えて街の中へ侵攻している。
よくよく見れば、その外壁には巨大な穴が開けられており、飛行能力のない魔物はそこから侵入しているようだった。
好都合、と思った。
だが、
――タイチョーだったら、一回待て、って止めるかな?
今自分が置かれている状況を鑑みて、先に仲間と合流すべきだという判断を出した。
「詰め所に居るかな? それとも、もう戦ってるのかな」
何はともあれ、私は第23分隊の詰め所に向かった。
これから、何もかもが変わってしまうという事に気付かず、走り出してしまった。
・・・
幸い、領内には魔物が来ておらず、詰め所までは難なくたどり着けた。その代わり、人間とも一度も遭遇しなかったのがかえって不安を煽ったが、今は気にしない事にする。
――たぶんみんな街の防衛に回ってるんでしょ。
23分隊は戦闘を行える状況ではない筈なので、ここに居なければ後衛か住民の避難を手伝っているだろう。
「おーい、皆ー?」
玄関から中に入り、部屋を見て回る。
しかし、私の声は響くだけで、他の誰かの声が返ってくることはなかった。
――皆出払ってるのかな。……あれ?
誰も居ない事を確認して、街の方に向かおうとしたその時、二階で何かが軋む音が聞こえてきた。
「?」
誰も居ない筈の場所で、何度も激しく音が鳴っている。これはつまり、
「空き巣? ――それとも、魔物がこっちにも!?」
慌ててリビングを出て、静かに、そして素早く階段を駆け上がる。
どちらでも、逃がしては面倒な事になる。それ故の行動だった。
「――こっち、じゃないわね」
一番手前、エミリアの部屋には、動く物はなかった。中に入るのはいくらなんでも躊躇われたので、確認だけ済ませて扉を閉じる。
ならばもう一つ、レイブンの部屋からだという事になる。
ドアの前に近づき、中に人の気配がある事を確認して、そっとドアを開ける。すると、音が漏れて来て、声が聞こえてきた。
――……?
その声に、妙な違和感があった。何処が変、と言葉には出来ないが、とにかく変だった。
気になって、中を覗き
「……は?」
言葉を失った。
「――はぁんっ❤ あっ、いっ❤」
「ほ、ほらほらどうした!? そろそろイっちまいそうだろ!?」
「まだまだ、よっ♪ オチンポ、おっきくなって、アンタこそ、射精し、そうなんじゃ、ひうっ!?」
レイブンが、ベッドの上で誰かと性行している。
いや、それならまあ、人間だし別に変な事ではない。街が危ないこんな状況で励むのはちょっと、いやかなり不謹慎だが、私が覚えた違和感は『そこ』じゃない。
問題は、彼に突かれている女の方だ。
「――わた、し?」
そこには、今扉の隙間から部屋を覗いている筈のシャーラン・レフヴォネンが、レイブンの手によって乱れた嬌声を上げていた。
訳が分からない。
私は確かにここに居るというのに、何故私があそこに居るのか。
――まさか、私の偽物!?
魔物の中には親しい人物に化け、不意を打って人間を食べるものも居る、という記述を見たような気がする。おそらくあの場所に居るのはその類なのだろう。
だが、それならば変だ。
性交している最中など、隙だらけだろう。というか隙しかない。おそらく向こうはこっちの存在に気付いていないのだし、いつでもレイブンを食い殺す事が出来る筈なのだ。
だというのに、そんな様子は微塵もない。むしろ、彼の手によって快楽を与えられる事が本当に嬉しいというような表情をしていて、思わずこちらも、
――……っ!? 待った! 今何を!?
一瞬、ベッドの上で淫らに喘いでいる自分の姿が浮かんできた。
何を馬鹿な、と頭を振って、レイブンを助ける為に扉に手を掛けた。
その時、
「――っ!」
いつもよりも大幅に遅れた神経が、背後に迫る敵の存在を伝えてきた。
急いで身体に命令を送り、右に身を投げ出す。それと同時に、私が今居た場所に銀の光が振り下ろされた。
「む」
「危なっ!」
万全ならばついでに反撃も出来たのに、と歯がゆい気持ちになるが、無傷でいられただけ良しとしよう。
転がりながら体勢を立て直し、襲撃者を睨みつける。そこには、青白い炎を纏った、全身灰色の鎧を着た騎士が立っていた。
「貴様、ここの部隊の者か?」
その騎士は完全に顔を覆うような兜を被っており、表情を窺えない。いや、ひょっとすると、そこには何もないのかもしれない。
騎士のような外見と、周囲に漂う青白い炎。
この二つの要因から、目の前の魔物がアンデット族で最も有名な首なし騎士、デュラハンである事は明白だ。
――顔を狙っても、無意味ね。きっと。
神経の伝達が遅れている事を覗けば、不自然に健康体の今でさえ、中途半端な身体強化ではおそらくこの魔物には敵わないだろう。
「だったら何よ。私を殺そうったってそうはいかないわよ?」
「……女で、武器はなく、その態度、そしてその勘違い。貴様がソーニャを撃退した新兵か」
身体をこちらに向け、ゆっくりと近づいて来る。
それに対し私は立ち上がり、徐々に後ろに下がっていく。
「勘違い? 何の事よ」
「言葉の通りだ。貴様は私たち魔物に対して幾つもの勘違いを抱えている」
首なし騎士の言っている意味が、私には分からない。
魔物とは、闇から生まれ、人間の肉を喰らって生きる、人に仇なす存在だろう。
事実、私の父は魔物によって殺されたのだ。この認識の何処が違うというのか。
「ならば今、そこの部屋で行われていた出来事をどう説明する?」
騎士が問う。そこの部屋、というのはレイブンと私の偽物の事だろう。
確かに、見た感じでは二人がそのような関係にあるとは思えなかった。むしろ愛し合っているような、そんな雰囲気が漂っていた。
しかし、それは所詮彼を油断させる為の演技だろう。でなければ、あの魔物がレイブンを襲う説明がつかない。
「――貴様はどうしてそう、頑なに認めないのだ。本当は分かっているのだろう?」
「るっさいわね。アンタらの言葉になんか耳を貸さないもんねー」
呆れた様子の騎士に対し、私はついに自分が壁に追い込まれた事を自覚する。
今、この場で戦うのはやぶさかではない。しかし、反応が遅れている今の状況で勝てるのか。
不安が影を落としそうになったその時、
「――りゃあっ!」
「っ!?」
騎士の背後で、壁が爆発した。そしてそれと同時に、
「見つけたぞ! この前の人間!」
「なっ!?」
つい最近聞いたような、凶暴さを多分に含んだ声が廊下に響いた。
「貴様は、彼女から魔物というものを教わるといい。それだけの実力はあるのだろう?」
騎士が脇へ退いた瞬間、緑色の影が豪速で近づいてきて、
「――オーガっ!?」
三日前に戦ったオーガが、私目がけて拳を振り上げてきたのだ。
・・・
私の判断は早かった。
今の状態では回避も防御態勢を取るのも間に合わないだろうから、瞬間的に三十倍の強化を掛けて、棒立ちのまま打撃を食らった。
オーガの拳によって私の身体は壁を突き破り、空を飛んだ。勢いが削れて落下した先は街のど真ん中だったのだ。
「――ぐ、ごほっ……!」
飛んでる最中、意識が飛びかけたものの、強化と神経の減衰によってダメージは最小限に収まっており、すぐさま立ち直る。
「くははははっ! テメェにこうやって仕返しできるなんて、夢のようだぜ!」
「――速っ!?」
顔を上げると、緑の鬼は既に20歩ほどの距離に近づいてきていた。砂埃を舞わせ、余計な建物を破壊しながら突き進んでくる。
「行くぜぇ! オラァ!」
来る。そう確信すると同時に、身体に命令を送る。
右ストレートが来たので右側に荷重をかけ、軸をずらして回避。こちらも右腕に拳を作り、顎に向けて刺さるよう、打ち上げる。
これは読まれていたのか回避され、伸ばした緑の腕が私の首目がけて振り回される。左腕を縦に構え、受け止める。
「相変わらずやるなぁ! それでこそ殴り甲斐がある!」
ドラゴンよりは攻撃の範囲が狭いものの、瞬間的な速度はオーガも負けてはいない。
――ってか、どっちにしろ人間にとっちゃ食らえば即死みたいな一撃ばっかりじゃないの!
続けて左右の拳が飛んでくるが、受け流して短く構えた拳で懐に入り、反撃。
膝が持ち上がったので、返すように肘で撃ち落とし、すり抜けるように脇を通る。
「――っ!」
「ぐっ!?」
すれ違いざまに左拳を脇腹に叩き込み、僅かに怯んだ後頭部に回し蹴りをブチ込んだ。
――へ?
オーガを蹴り飛ばしてから、身体の異変に気付いた。
――調子、良すぎない?
反応が明らかに一拍遅れているにもかかわらず、完全にオーガを圧倒している。それでいて身体への反動をほとんど感じない。
前にこの鬼と戦った時以上の数値で身体強化を行っているからだろうか。いや、それにしては負荷がないのはおかしい。
気が付けば、動きが止まっていた。
「!」
いつの間にか立ち上がり、向かってきた鬼の拳を受け止め、逆の拳も同時に抑え込む。
「くっそーっ! テメェ、また強くなってるんじゃねぇか! アタシはこれでもパワーアップしてきたってのによぉ!」
「あ、そう! 何処も変わってないようにしか見えないんだけど!?」
「よく見ろよ! テメェに折られた角が、元通り通り越してデカくなってるだろ!?」
言われて見れば、半ばから叩き折った筈の一対の角が、元以上に大きくなっていて、さらに鋭さを増している。
「――よくもまぁ、この短期間で治せたものね! これも魔物の特性!?」
「はっ! それもあるけど、アタシの旦那と頑張った結果だよ!」
オーガの旦那、と言われて思い浮かぶのは、全身毛むくじゃらの大男か。やっぱりそいつも全身緑色で、脳筋なのだろう。
――いや、ちょっと待った。
私は、ここである事に疑問を抱いた。
「く、お、りゃぁっ!」
「ぬぅっ!?」
オーガを無理やり突き飛ばし、距離を置く。
何故かというと、疑問を言葉にする為の時間が必要だったのだ。
「ちょっと待って! 魔物って、今は全員アンタみたいな、人間の女とそう変わらない外見になってるんじゃないの!?」
現在報告されている魔物の中で、男性型は一個体として見つかっていない。 まあ、確認しようとして魔物に見つかり、食われている可能性もあるのだから確実とは言えないが。
もしそうだとして、魔物はどうやって繁殖するのか。魔物の夫という存在は、一体どういったものなのか。
「あん? そうに決まってるって。アタシみたいなのばっかりだ。魔物全体がこういう姿に変わったから、元・雄のオーガとかもみんな雌になってるぜ。魔物に雄はいねぇ」
「だったらアンタの旦那って何!? オーガじゃないとしたら、誰だっていうのよ!?」
今まで魔物の生態に興味すら抱いていなかったというのに、何故こんな事を聞いているのだろうか。
おそらくは、先ほどのレイブンと私の偽物の情事を見たからなのだろう。
――あれは、食う者と食われる者の関係じゃなかった。
あれほどに互いを愛し合って、求め合っている姿を、私は見た事がなかった。そういう本を読む限り、人間の性交ではああまではいかないだろう事が分かる。経験者じゃないからわからないが。
その事実が認められないのだが、だからこそ、気になってしまったのだ。
「何って、決まってるじゃねぇか。――人間だよ」
そう告げたオーガの顔は、別の意味で嬉しそうだったのだ。
「アタシの旦那は、アタシを討伐しに来たっていう隣の国の騎士団で働いてた隊長でな? 何度かアタシと殴り合って、いつの間にか恋に落ちてたんだよ。あんまりにも強くて素敵だったんで、思わず押し倒してブチ犯してる最中に向こうも乗って来てな! そのまま晴れて雄と雌の関係になったって訳よ!」
「な、な、――なっ!?」
あっけらかんと、それでいて惚けたような表情で夫との出会いを語られ、耳を疑わずにはいられなかった。
鬼が語る言葉には嘘も何も感じられず、本当に幸せそうに惚気話を漏らしているのだ。
「今はアタシのアジトで子分たちを鍛えててな! アタシが帰ってくると、おかえり、って言ってくれるんだよ……❤」
そしたらもう我慢できなくなってまた押し倒しちまって、などと、頼んでもいないのに喋りはじめるオーガを見て、頭が真っ白になった。
「つまり、アンタら魔物が、人を襲う理由って……」
「あぁ!? そんなの、生涯の伴侶を求めてるからに決まってるだろ! これだから教団の連中は世間知らずなんだよ!」
・・・
突然足場が崩れたような感触を得た。
今までやっていた事は、信じていた事が全て幻だったと告げられ、その場に立っている事すら難しくなってしまったのだ。
「――じゃ、じゃあ、父さんは!? 私の父さんは魔物に襲われたのよ!? その後、私を助けた兵士は首を振って、もう手遅れだ、って」
「……何か勘違いしてるようだから言っておくが、アタシたちは人間を殺しゃしねぇ。昔はそんな時代もあったが、今はむしろ人間に居て欲しいくらいなんだよ。特に、旦那にしたい人間ともなれば命を掛けて守って見せらぁ」
だから、
「テメェの親父さんは、たぶん生きてるか、教団の人間の手に掛かったかのどっちかだ」
その言葉を皮切りに、私は地面に膝をついた。
すると、今まで集中していた所為か聞こえなかった音が、街のあちこちから聞こえる淫靡な鳴き声が聞こえてくる。
そこに悲しみの声はなく、誰もが満たされていて、幸せそうで、人間としてのしがらみなど、重苦しいものは一切感じられない。
顔を上げ、周りを見る。
ドアを開けたまま、玄関先で男に跨っているレッサーサキュバス。
路地裏で背後から、鎧を着た男に突かれている幼い魔女。
広場のベンチに座り、向かい合って口づけをしながら繋がっているワーラビット。
何処を見ても、人間の死体や口から血を滴らせた魔物など存在しない。
だが、
「――嘘」
「ん?」
「私は誤魔化せないわよ……! だったら女はどうするってのよ!? 旦那に出来る訳がないじゃないの」
今は食べないだけかもしれない。その証拠として、この場に女性が居ないではないか。
魔物にとって必要のない筈の女性。もし本当に、魔物は人間の男を夫にするつもりで捕えるとしても、人間の女は雄のいない魔物の生殖には携われない。 ここで食料や奴隷にする、という回答が返ってくれば、私が思っていた通りの生き物として退治する事が出来るだろう。
だが、その望みは儚くも容易く打ち壊されてしまう。
「簡単だぜ。仲間にするんだ」
「――なか、ま?」
そうだ、と頷き、
「人間から、魔物に替えるんだよ。たぶんテメェらが戦ってきた魔物の中にも、えーっと、この前戦ったアタシの子分にも元・人間が居たな。農村の娘だったのが今はハーピーになって、畑じゃなくて自分の身体を旦那に耕してもらってるぜ」
馬鹿な、と言っていた。そんな事、出来る訳がない。
「出来るんだよ、そういう事がな。まあ、アタシにはよくわかんねぇがな。なんでも、人間から魔物に変わった奴は、元から魔物の奴よりも人間っていう殻を破れた事への解放感から、より淫乱な魔物になるらしいな」
つーか、
「お前も、その魔物になりかけてるぜ?」
「――――」
「いや、だってよ。明らかに動きが人間じゃねぇもん。主神の加護もなく、特殊な武器も魔法もねぇってのに、それだけ動けるのはおかしいんだよ。どっかでマジックアイテムでも飲んだか、それとも頭から被ったか?」
この、鬼は、何を、言って、いるのか。
「そんな、嘘、でしょ」
「フツー、魔物に変わろうとする瞬間はすげぇ気持ちいいらしいんだけど、そういうのなかった?」
オーガの指す事に、心当たりがあった。
――あそこだ。あの、真っ暗な地下での。
目を覚ました時に居た、あの空間。周りを見ようと身体を動かした瞬間走った、あの快感。
あの時に、既に変わりつつあったのか。
「――嘘! そんな事ある訳がない! 現に私はまだ人間じゃない!」
「そこん所がよく分からねぇんだよなぁ。途中で止まるなんて変だし。――テメェ、まさか無理やり抑え込んでたりしねぇだろうな?」
体に毒だぜ、と告げる鬼を睨む力すらない。
魔物は、人を殺さない。
男は魔性の身体で虜にして、共に幸せな関係を作り上げる。
女は快楽と共に魔物に変え、自分たちと同じように男を求め、そして求められる存在にする。
そこには苦しい事も悲しい事もなく、ただ幸せな関係がある。
そんな事、信じられる訳がない。
「魔物の言う事なんか信用しない……っ! アンタらは変わらず私の敵よ!」
顔を上げ、強く、血が噴き出るまで拳を握りしめる。
ほんの少し気を抜くだけで、もう二度と拳を握れないような気がした。
僅かでも聞く耳を持てば、私が今までやってきた全てが否定されてしまうような気がした。
「『事実を知っていたなら、好きにしていい』とは言われたが、結局『あの娘』が言った通りになっちまったなぁ」
私を見るオーガの顔は、若干落ち込んでいるように見えた。
「『あの娘』……?」
だが、オーガは私の問いに答える事無く、ゆっくりとこちらに歩み寄ってきた。
「なっ――、っ!?」
敵意も殺気もない動作に、私の身体は反応せず、一瞬にして襟首を掴み上げられ、
「つーわけで、テメェはここでサヨナラだ」
掴まれていた身体が放られた。
僅かに身体が宙に浮き、そして、蹴り飛ばされた。
私の身体は何の抵抗もなく、空高く飛んで行ったのだ。
燃えるように熱い。
暴虐なまでに煮えたぎった熱が、私の身体を犯し続けている。
千切れた足の痛みも、潰れた肺の叫びも、もはや気にならない。それくらいに身体が燃えている。
全ての痛みが、感覚が無い。神経が燃え、脊髄が焼け付き、いずれ全ての感覚が死を遂げるだろう。
このまま私は灰になろうとしている内臓と同じ末路を遂げるのだろうか。
このまま私は、物言わぬ骸になるのだろう。
臨んだ事じゃないか、と私は私に答える。
鬼を打ち負かした。伝説の存在に一矢報いた。それも、ただの、訓練もロクにしていない人間が、だ。
悔しいだろう。人間を舐めるからそうなるんだ。私に仕返し出来なくなるから、そのまま一生悔しんでろ。
おまけに、こんな私でも、仲間を守れたのだ。
父さんの事もあって、私には誰も守れないと諦めていた。けれど、私とは正反対の性格で融通が利かない、私と同じ人を好きになった好敵手を、友達を守れたのだ。しかも結果的に仲間も守れたし、万々歳だ。
きっと、皆を泣かせてしまうけど、皆が生きていれば、それで私はもう満足だ。
――嫌。
――嫌。
――嫌。
私が居なくなる事で、きっと気まずい空気になるとは思う。
けれど、いつかそれを乗り越えられた時、今以上に部隊の皆は固い絆で結ばれる。
そうなった後私の墓前で笑い、未来に向かって行く事を教えてくれれば、それでいい。
欲を言うなら、私の友達には幸せになってもらいたいものだ。
――やだ。
――やだ。
――やだ。
どうやら脳すらまともに動かなくなったようだ。
もう助からないのだ。
思っても願っても、この身体は一ミリも動かない。目を覚ましても、身体は死んでいる。肉体はそこにあって、触れられない。
だから諦めようとした。
正確には、既に諦めていた。
――たすけて。
――たすけて。
――たすけて。
なのに、どうして子供が駄々をこねる様な、小さな泣き声が聞こえるのだろうか。
・・・
泥沼のような、重い感触と共に私は瞼を持ち上げた。
「――あ、れ」
生きている。驚く事に、その実感がある。
何処とも知れない、何一つ見えない真っ暗闇の中、私は死んでいなかった。
「何で……?」
私が浴びたものの、ドラゴンの血液の効果は、私も知っていた。本に書いてあったのだ。
こうして頭から被る事になるとは夢にも思わなかったが、書かれていた効果からして、一人の人間など容易く灰にしてしまえるような物だと思っていた。だが、どうやら違ったらしい。
ひとまず、今自分が置かれている状況を把握しなければ。そう考え、身体を動かし、
「――うひゃっ!?」
瞬間、全身に電撃が走った。
今まで感じた事の無い、意識だけが空の彼方へ飛んでいく様な、激しい衝撃だった。
「な、何、これぇ……?」
何かを成した時の達成感とも、好きな物を食べている時の満足感とも違う。 例えるとすると、興味本位で行った自慰による、性的な快楽に近いものがある。得られた快楽の大きさはそれこそ比ではないが。
「あっ、ひっ……♪」
徐々に靄掛かっていく意識の中、燃えるように熱い身体が何かを欲しがって、さらに強さを増して火照り始めた。
「――んあっ!?」
視界の中で火花が幾度も散り、暗闇の視界の中で輝きを見せる。
衝撃が身体を震わせ、それによってまた衝撃が生まれる。連鎖的に引き起こされる電撃は私から正常な思考を削ぎ取っていく。
――こ、これ、バカに、なりそっ……♪
その行動が、より一層電撃という快楽の波を強くする事を分かった上で、私は身体を縮めるように足を引いて肩を抱き、丸まった。
「あ、ふぁ、あ、――んあっ!♪」
自分の口から出ているとは思えない、思いたくない嬌声に、本来なら怖気立つ所だ。しかし、その声すらも、今の私には身体を燃やす快楽として現れる。
このままでは危険だ。そう判断した、辛うじて残っていた小さな理性が、最後の力を振り絞って言葉を紡ぐ事に成功した。
「しんっ、たい、きょうか、じゅうぶんんっ、の、いちっ!」
身体強化の倍数を、どうにか告げきった。
本来強化に用いる物を、逆に弱める。
対象は、感覚器官全部。
「――……ぅぁ」
全身の感覚が、酷く鈍くなった。
本来得ている物が遠く、小さくしか感じられなくなった。
冷たい風を感じる触覚も。
悪臭を伝える嗅覚も。
全身を襲っていた暴力的快楽も。
唐突に腕に、足に、頭に倦怠感が圧し掛かり、二日酔いもかくやという腹部の重さを得た。このまま急に動けば、まず間違いなくゲロる。
「……まあ、動くからいいか」
若干身体の火照りは残っているが、先ほどまでの、服と肌が擦れただけだったにも関わらず、意識が数回飛ぶような深刻な状態ではない。
――自分で慰めた時も、こうはならないわよね……。
自分の状況に不安を憶えずにはいられないが、ひとまず現状の把握だ。
あらゆる感覚が弱まっているので、ちゃんと立ち上がれるか心配になったが、どうやら立ててはいるらしい。暗いから分からないが。
「そもそも、私再起不能じゃなかったっけ?」
思い返し、両手両足を注視する。見えないが、触れるとそこに存在するという、確かな実感が遅れながら返ってくる。
何かの布によって幾重にも巻かれた四肢には、一切の異常を感じなかった。
拳を握っても返ってくる感触が鈍い事を除けば、動かす分には一切問題がない。
足も同様で、膝から下、その半ばからは無くなっていた筈の右足は繋がっているように見え、左足も同様に変な所はない。
「……???」
あの戦いは夢だったのか。そうとしか思えないくらいに、身体に不自由がない。先ほどの奇妙な快感を除けば、むしろ前よりも調子がいいくらいだ。
「まあ、いっか。とにかく、ここから出よう」
神経が返す反応の遅れを実感しながらも、私は前へ歩き出す。
「――ぬわっ!? ちょ!」
だが、踏み出した足場はその場にはなく、少し下にあった。どうやら坂の上に寝転がっていたらしい。
いつもならばすぐに体勢を立て直せるが、今はそうはいかない。結果的に私は、バランスを崩して転んでしまった。
「わーっ!?」
そして坂の上で転んでしまった場合、どうなるだろうか。そんな事は明白だ。下まで転がって行くに決まっている。
「おぶっ!」
壁に激突し、動きが止まった。よろよろと立ちあがりながら、壁に手を付く。
「な、何なのよ、ここ。暗いし、不自然にガタガタした坂はあるし、何よりも臭いし」
肉が腐ったような、そんな悪臭を放つこの部屋からは少しでも早く出て行きたい。そんな気分で出口を探す。
「――あれ?」
ふと、手から返ってくる感触が、冷たく揺るがないものから、数本の棒で形成された、比較的動かせそうなものへと変化した。
私は数秒前に触っていた場所に手を戻し、
「鉄格子、かな。――えい」
壊せないか、と思って前に押し出した。
錆びた金具が砕ける音と共に、私の身体は前へ動いた。
「よっし。早い所出よう」
出来た道の先へ進み、爪先が何かにぶつかっている事に気付く。しかし、手を前に出しても壁は無い。
「階段ね。……今の身体で上がって大丈夫かなー」
転げ落ちないようにゆっくりと、四つん這いになりながら一歩一歩確かめるように、階段を上っていく。
20回ほどそんな事をした後、鼻先がまた壁にぶつかった。
「行き止まり、って訳でもないんでしょうね。何処かにスイッチが……、えーい面倒臭いっ!」
拳を振り上げ、前方に正拳を放った。一瞬だけ固い感触が返ってきた後、腕が壁を突き抜けた。出来た隙間から、僅かな間ではあったが久しぶりの光を拝む事が出来た。
穴を広げて、壁の先、何やら倉庫のような場所にたどり着いた。
「ふぅ。やっと出られた」
ここには松明が置かれていたので、周囲の状況が目で見える。
そういえば、と思い、自分の身体を明かりの下に晒し、
「――うっわー、全身包帯まみれ」
とても動けるような人間の身体ではない。しかも、治療用の符なのか包帯なのか判別がつかないくらいに全身が汚れていて、怪我に悪いとしか言いようがない状況だ。
「それにしても、これ巻いたの随分と不器用な奴ね。手足だけにこんなにゴテゴテに巻いちゃって、防具のつもり?」
ともかく、現状の確認だ。私はその部屋から出て、窓のない廊下を見てこの場所が地下だろう事を予想する。
「何でこんな所にいるのか、って事と、タイチョーたちがどうなったか、って事を調べないとね」
廊下に出て、また出口を探す。
その時だった。頭上で、何か激しい音が聞こえたのだ。
「え? 何、今の?」
続けて幾つもの足音がなり、怒声のようなものも響いてくる。金属の擦れる音や、まれに悲鳴も聞こえてくる。
まるで、この上で戦争が繰り広げられているようだった。
「何なのよ、まったく……」
あまりにも理解できない事が立て続けに起こり、辟易してきたが、階段を見つけたので上に行く。
途中、壁に掛けられていた、見覚えのある模様が刻まれた旗を見て、
「あれ? この紋章って。……確か、アルカトラの紋章だった気が。って事はここはアルカトラ?」
松明もあるのだし、人間が住んでいる事は分かっていたが、どうやら帰って来ていたらしい。
――だったらさっきの暗い所は一体……。ってか上の喧騒は何よ?
いろいろな事がぐるぐると頭の中を回り、
「考えてても仕方ない、か」
それらを全て脇にどけて、階段を上がり切った。
「ここって、ハミハミとアネーと一緒に来た大聖堂の、一階よね。じゃあ出口はこっち――」
巨大な扉を押し開けたと同時に、私は目を疑った。
――え?
まず、空が見えた。私が知っている青い空でも夜の空でもなく、夜闇よりも深い暗黒の空が広がっていた。
次に、月が見えた。淡く、静かな光を放っていた筈の金色の月は、今は妖しげに紅く輝いている。
風に触れた、という感触がやっと脳に到達した。しかし、それもまた私が知っている感触ではなかった。心を落ち着かせる爽やかな夜風はそこにはなく、代わりに肌に纏わり付くような粘りと、甘ったるい熱を持った風があるだけだった。
そして最後に、
「――何で、街で、戦闘が起こってるの?」
見覚えのある街並みで、魔物たちと戦う兵士達の姿を見つけた。
――何、これ。
もはや理解できる事が一つもなくなり、呆然と立ち尽くしてしまう。
理解の速度が遅いのは、感覚を減衰させているからだろうか。それとも、元々理解力が高くないからだろうか。
だが唯一、たった一つだけ私にも分かる事があった。
「そこら中に魔物が居るんじゃないの……!」
まだ私には、魔物と戦う機会がある、という事だ。
スライムにワーウルフ、オークにゴブリン、アラクネに、空を行くのはハーピーだろうか。羽が黒いからブラックハーピーとかいう種類だろうか。
そんな多種多様の魔物たちが、外壁を越えて街の中へ侵攻している。
よくよく見れば、その外壁には巨大な穴が開けられており、飛行能力のない魔物はそこから侵入しているようだった。
好都合、と思った。
だが、
――タイチョーだったら、一回待て、って止めるかな?
今自分が置かれている状況を鑑みて、先に仲間と合流すべきだという判断を出した。
「詰め所に居るかな? それとも、もう戦ってるのかな」
何はともあれ、私は第23分隊の詰め所に向かった。
これから、何もかもが変わってしまうという事に気付かず、走り出してしまった。
・・・
幸い、領内には魔物が来ておらず、詰め所までは難なくたどり着けた。その代わり、人間とも一度も遭遇しなかったのがかえって不安を煽ったが、今は気にしない事にする。
――たぶんみんな街の防衛に回ってるんでしょ。
23分隊は戦闘を行える状況ではない筈なので、ここに居なければ後衛か住民の避難を手伝っているだろう。
「おーい、皆ー?」
玄関から中に入り、部屋を見て回る。
しかし、私の声は響くだけで、他の誰かの声が返ってくることはなかった。
――皆出払ってるのかな。……あれ?
誰も居ない事を確認して、街の方に向かおうとしたその時、二階で何かが軋む音が聞こえてきた。
「?」
誰も居ない筈の場所で、何度も激しく音が鳴っている。これはつまり、
「空き巣? ――それとも、魔物がこっちにも!?」
慌ててリビングを出て、静かに、そして素早く階段を駆け上がる。
どちらでも、逃がしては面倒な事になる。それ故の行動だった。
「――こっち、じゃないわね」
一番手前、エミリアの部屋には、動く物はなかった。中に入るのはいくらなんでも躊躇われたので、確認だけ済ませて扉を閉じる。
ならばもう一つ、レイブンの部屋からだという事になる。
ドアの前に近づき、中に人の気配がある事を確認して、そっとドアを開ける。すると、音が漏れて来て、声が聞こえてきた。
――……?
その声に、妙な違和感があった。何処が変、と言葉には出来ないが、とにかく変だった。
気になって、中を覗き
「……は?」
言葉を失った。
「――はぁんっ❤ あっ、いっ❤」
「ほ、ほらほらどうした!? そろそろイっちまいそうだろ!?」
「まだまだ、よっ♪ オチンポ、おっきくなって、アンタこそ、射精し、そうなんじゃ、ひうっ!?」
レイブンが、ベッドの上で誰かと性行している。
いや、それならまあ、人間だし別に変な事ではない。街が危ないこんな状況で励むのはちょっと、いやかなり不謹慎だが、私が覚えた違和感は『そこ』じゃない。
問題は、彼に突かれている女の方だ。
「――わた、し?」
そこには、今扉の隙間から部屋を覗いている筈のシャーラン・レフヴォネンが、レイブンの手によって乱れた嬌声を上げていた。
訳が分からない。
私は確かにここに居るというのに、何故私があそこに居るのか。
――まさか、私の偽物!?
魔物の中には親しい人物に化け、不意を打って人間を食べるものも居る、という記述を見たような気がする。おそらくあの場所に居るのはその類なのだろう。
だが、それならば変だ。
性交している最中など、隙だらけだろう。というか隙しかない。おそらく向こうはこっちの存在に気付いていないのだし、いつでもレイブンを食い殺す事が出来る筈なのだ。
だというのに、そんな様子は微塵もない。むしろ、彼の手によって快楽を与えられる事が本当に嬉しいというような表情をしていて、思わずこちらも、
――……っ!? 待った! 今何を!?
一瞬、ベッドの上で淫らに喘いでいる自分の姿が浮かんできた。
何を馬鹿な、と頭を振って、レイブンを助ける為に扉に手を掛けた。
その時、
「――っ!」
いつもよりも大幅に遅れた神経が、背後に迫る敵の存在を伝えてきた。
急いで身体に命令を送り、右に身を投げ出す。それと同時に、私が今居た場所に銀の光が振り下ろされた。
「む」
「危なっ!」
万全ならばついでに反撃も出来たのに、と歯がゆい気持ちになるが、無傷でいられただけ良しとしよう。
転がりながら体勢を立て直し、襲撃者を睨みつける。そこには、青白い炎を纏った、全身灰色の鎧を着た騎士が立っていた。
「貴様、ここの部隊の者か?」
その騎士は完全に顔を覆うような兜を被っており、表情を窺えない。いや、ひょっとすると、そこには何もないのかもしれない。
騎士のような外見と、周囲に漂う青白い炎。
この二つの要因から、目の前の魔物がアンデット族で最も有名な首なし騎士、デュラハンである事は明白だ。
――顔を狙っても、無意味ね。きっと。
神経の伝達が遅れている事を覗けば、不自然に健康体の今でさえ、中途半端な身体強化ではおそらくこの魔物には敵わないだろう。
「だったら何よ。私を殺そうったってそうはいかないわよ?」
「……女で、武器はなく、その態度、そしてその勘違い。貴様がソーニャを撃退した新兵か」
身体をこちらに向け、ゆっくりと近づいて来る。
それに対し私は立ち上がり、徐々に後ろに下がっていく。
「勘違い? 何の事よ」
「言葉の通りだ。貴様は私たち魔物に対して幾つもの勘違いを抱えている」
首なし騎士の言っている意味が、私には分からない。
魔物とは、闇から生まれ、人間の肉を喰らって生きる、人に仇なす存在だろう。
事実、私の父は魔物によって殺されたのだ。この認識の何処が違うというのか。
「ならば今、そこの部屋で行われていた出来事をどう説明する?」
騎士が問う。そこの部屋、というのはレイブンと私の偽物の事だろう。
確かに、見た感じでは二人がそのような関係にあるとは思えなかった。むしろ愛し合っているような、そんな雰囲気が漂っていた。
しかし、それは所詮彼を油断させる為の演技だろう。でなければ、あの魔物がレイブンを襲う説明がつかない。
「――貴様はどうしてそう、頑なに認めないのだ。本当は分かっているのだろう?」
「るっさいわね。アンタらの言葉になんか耳を貸さないもんねー」
呆れた様子の騎士に対し、私はついに自分が壁に追い込まれた事を自覚する。
今、この場で戦うのはやぶさかではない。しかし、反応が遅れている今の状況で勝てるのか。
不安が影を落としそうになったその時、
「――りゃあっ!」
「っ!?」
騎士の背後で、壁が爆発した。そしてそれと同時に、
「見つけたぞ! この前の人間!」
「なっ!?」
つい最近聞いたような、凶暴さを多分に含んだ声が廊下に響いた。
「貴様は、彼女から魔物というものを教わるといい。それだけの実力はあるのだろう?」
騎士が脇へ退いた瞬間、緑色の影が豪速で近づいてきて、
「――オーガっ!?」
三日前に戦ったオーガが、私目がけて拳を振り上げてきたのだ。
・・・
私の判断は早かった。
今の状態では回避も防御態勢を取るのも間に合わないだろうから、瞬間的に三十倍の強化を掛けて、棒立ちのまま打撃を食らった。
オーガの拳によって私の身体は壁を突き破り、空を飛んだ。勢いが削れて落下した先は街のど真ん中だったのだ。
「――ぐ、ごほっ……!」
飛んでる最中、意識が飛びかけたものの、強化と神経の減衰によってダメージは最小限に収まっており、すぐさま立ち直る。
「くははははっ! テメェにこうやって仕返しできるなんて、夢のようだぜ!」
「――速っ!?」
顔を上げると、緑の鬼は既に20歩ほどの距離に近づいてきていた。砂埃を舞わせ、余計な建物を破壊しながら突き進んでくる。
「行くぜぇ! オラァ!」
来る。そう確信すると同時に、身体に命令を送る。
右ストレートが来たので右側に荷重をかけ、軸をずらして回避。こちらも右腕に拳を作り、顎に向けて刺さるよう、打ち上げる。
これは読まれていたのか回避され、伸ばした緑の腕が私の首目がけて振り回される。左腕を縦に構え、受け止める。
「相変わらずやるなぁ! それでこそ殴り甲斐がある!」
ドラゴンよりは攻撃の範囲が狭いものの、瞬間的な速度はオーガも負けてはいない。
――ってか、どっちにしろ人間にとっちゃ食らえば即死みたいな一撃ばっかりじゃないの!
続けて左右の拳が飛んでくるが、受け流して短く構えた拳で懐に入り、反撃。
膝が持ち上がったので、返すように肘で撃ち落とし、すり抜けるように脇を通る。
「――っ!」
「ぐっ!?」
すれ違いざまに左拳を脇腹に叩き込み、僅かに怯んだ後頭部に回し蹴りをブチ込んだ。
――へ?
オーガを蹴り飛ばしてから、身体の異変に気付いた。
――調子、良すぎない?
反応が明らかに一拍遅れているにもかかわらず、完全にオーガを圧倒している。それでいて身体への反動をほとんど感じない。
前にこの鬼と戦った時以上の数値で身体強化を行っているからだろうか。いや、それにしては負荷がないのはおかしい。
気が付けば、動きが止まっていた。
「!」
いつの間にか立ち上がり、向かってきた鬼の拳を受け止め、逆の拳も同時に抑え込む。
「くっそーっ! テメェ、また強くなってるんじゃねぇか! アタシはこれでもパワーアップしてきたってのによぉ!」
「あ、そう! 何処も変わってないようにしか見えないんだけど!?」
「よく見ろよ! テメェに折られた角が、元通り通り越してデカくなってるだろ!?」
言われて見れば、半ばから叩き折った筈の一対の角が、元以上に大きくなっていて、さらに鋭さを増している。
「――よくもまぁ、この短期間で治せたものね! これも魔物の特性!?」
「はっ! それもあるけど、アタシの旦那と頑張った結果だよ!」
オーガの旦那、と言われて思い浮かぶのは、全身毛むくじゃらの大男か。やっぱりそいつも全身緑色で、脳筋なのだろう。
――いや、ちょっと待った。
私は、ここである事に疑問を抱いた。
「く、お、りゃぁっ!」
「ぬぅっ!?」
オーガを無理やり突き飛ばし、距離を置く。
何故かというと、疑問を言葉にする為の時間が必要だったのだ。
「ちょっと待って! 魔物って、今は全員アンタみたいな、人間の女とそう変わらない外見になってるんじゃないの!?」
現在報告されている魔物の中で、男性型は一個体として見つかっていない。 まあ、確認しようとして魔物に見つかり、食われている可能性もあるのだから確実とは言えないが。
もしそうだとして、魔物はどうやって繁殖するのか。魔物の夫という存在は、一体どういったものなのか。
「あん? そうに決まってるって。アタシみたいなのばっかりだ。魔物全体がこういう姿に変わったから、元・雄のオーガとかもみんな雌になってるぜ。魔物に雄はいねぇ」
「だったらアンタの旦那って何!? オーガじゃないとしたら、誰だっていうのよ!?」
今まで魔物の生態に興味すら抱いていなかったというのに、何故こんな事を聞いているのだろうか。
おそらくは、先ほどのレイブンと私の偽物の情事を見たからなのだろう。
――あれは、食う者と食われる者の関係じゃなかった。
あれほどに互いを愛し合って、求め合っている姿を、私は見た事がなかった。そういう本を読む限り、人間の性交ではああまではいかないだろう事が分かる。経験者じゃないからわからないが。
その事実が認められないのだが、だからこそ、気になってしまったのだ。
「何って、決まってるじゃねぇか。――人間だよ」
そう告げたオーガの顔は、別の意味で嬉しそうだったのだ。
「アタシの旦那は、アタシを討伐しに来たっていう隣の国の騎士団で働いてた隊長でな? 何度かアタシと殴り合って、いつの間にか恋に落ちてたんだよ。あんまりにも強くて素敵だったんで、思わず押し倒してブチ犯してる最中に向こうも乗って来てな! そのまま晴れて雄と雌の関係になったって訳よ!」
「な、な、――なっ!?」
あっけらかんと、それでいて惚けたような表情で夫との出会いを語られ、耳を疑わずにはいられなかった。
鬼が語る言葉には嘘も何も感じられず、本当に幸せそうに惚気話を漏らしているのだ。
「今はアタシのアジトで子分たちを鍛えててな! アタシが帰ってくると、おかえり、って言ってくれるんだよ……❤」
そしたらもう我慢できなくなってまた押し倒しちまって、などと、頼んでもいないのに喋りはじめるオーガを見て、頭が真っ白になった。
「つまり、アンタら魔物が、人を襲う理由って……」
「あぁ!? そんなの、生涯の伴侶を求めてるからに決まってるだろ! これだから教団の連中は世間知らずなんだよ!」
・・・
突然足場が崩れたような感触を得た。
今までやっていた事は、信じていた事が全て幻だったと告げられ、その場に立っている事すら難しくなってしまったのだ。
「――じゃ、じゃあ、父さんは!? 私の父さんは魔物に襲われたのよ!? その後、私を助けた兵士は首を振って、もう手遅れだ、って」
「……何か勘違いしてるようだから言っておくが、アタシたちは人間を殺しゃしねぇ。昔はそんな時代もあったが、今はむしろ人間に居て欲しいくらいなんだよ。特に、旦那にしたい人間ともなれば命を掛けて守って見せらぁ」
だから、
「テメェの親父さんは、たぶん生きてるか、教団の人間の手に掛かったかのどっちかだ」
その言葉を皮切りに、私は地面に膝をついた。
すると、今まで集中していた所為か聞こえなかった音が、街のあちこちから聞こえる淫靡な鳴き声が聞こえてくる。
そこに悲しみの声はなく、誰もが満たされていて、幸せそうで、人間としてのしがらみなど、重苦しいものは一切感じられない。
顔を上げ、周りを見る。
ドアを開けたまま、玄関先で男に跨っているレッサーサキュバス。
路地裏で背後から、鎧を着た男に突かれている幼い魔女。
広場のベンチに座り、向かい合って口づけをしながら繋がっているワーラビット。
何処を見ても、人間の死体や口から血を滴らせた魔物など存在しない。
だが、
「――嘘」
「ん?」
「私は誤魔化せないわよ……! だったら女はどうするってのよ!? 旦那に出来る訳がないじゃないの」
今は食べないだけかもしれない。その証拠として、この場に女性が居ないではないか。
魔物にとって必要のない筈の女性。もし本当に、魔物は人間の男を夫にするつもりで捕えるとしても、人間の女は雄のいない魔物の生殖には携われない。 ここで食料や奴隷にする、という回答が返ってくれば、私が思っていた通りの生き物として退治する事が出来るだろう。
だが、その望みは儚くも容易く打ち壊されてしまう。
「簡単だぜ。仲間にするんだ」
「――なか、ま?」
そうだ、と頷き、
「人間から、魔物に替えるんだよ。たぶんテメェらが戦ってきた魔物の中にも、えーっと、この前戦ったアタシの子分にも元・人間が居たな。農村の娘だったのが今はハーピーになって、畑じゃなくて自分の身体を旦那に耕してもらってるぜ」
馬鹿な、と言っていた。そんな事、出来る訳がない。
「出来るんだよ、そういう事がな。まあ、アタシにはよくわかんねぇがな。なんでも、人間から魔物に変わった奴は、元から魔物の奴よりも人間っていう殻を破れた事への解放感から、より淫乱な魔物になるらしいな」
つーか、
「お前も、その魔物になりかけてるぜ?」
「――――」
「いや、だってよ。明らかに動きが人間じゃねぇもん。主神の加護もなく、特殊な武器も魔法もねぇってのに、それだけ動けるのはおかしいんだよ。どっかでマジックアイテムでも飲んだか、それとも頭から被ったか?」
この、鬼は、何を、言って、いるのか。
「そんな、嘘、でしょ」
「フツー、魔物に変わろうとする瞬間はすげぇ気持ちいいらしいんだけど、そういうのなかった?」
オーガの指す事に、心当たりがあった。
――あそこだ。あの、真っ暗な地下での。
目を覚ました時に居た、あの空間。周りを見ようと身体を動かした瞬間走った、あの快感。
あの時に、既に変わりつつあったのか。
「――嘘! そんな事ある訳がない! 現に私はまだ人間じゃない!」
「そこん所がよく分からねぇんだよなぁ。途中で止まるなんて変だし。――テメェ、まさか無理やり抑え込んでたりしねぇだろうな?」
体に毒だぜ、と告げる鬼を睨む力すらない。
魔物は、人を殺さない。
男は魔性の身体で虜にして、共に幸せな関係を作り上げる。
女は快楽と共に魔物に変え、自分たちと同じように男を求め、そして求められる存在にする。
そこには苦しい事も悲しい事もなく、ただ幸せな関係がある。
そんな事、信じられる訳がない。
「魔物の言う事なんか信用しない……っ! アンタらは変わらず私の敵よ!」
顔を上げ、強く、血が噴き出るまで拳を握りしめる。
ほんの少し気を抜くだけで、もう二度と拳を握れないような気がした。
僅かでも聞く耳を持てば、私が今までやってきた全てが否定されてしまうような気がした。
「『事実を知っていたなら、好きにしていい』とは言われたが、結局『あの娘』が言った通りになっちまったなぁ」
私を見るオーガの顔は、若干落ち込んでいるように見えた。
「『あの娘』……?」
だが、オーガは私の問いに答える事無く、ゆっくりとこちらに歩み寄ってきた。
「なっ――、っ!?」
敵意も殺気もない動作に、私の身体は反応せず、一瞬にして襟首を掴み上げられ、
「つーわけで、テメェはここでサヨナラだ」
掴まれていた身体が放られた。
僅かに身体が宙に浮き、そして、蹴り飛ばされた。
私の身体は何の抵抗もなく、空高く飛んで行ったのだ。
13/09/04 23:47更新 / イブシャケ
戻る
次へ